side 松永美鈴
こんな能力なんて、いらなかった。
他に取り柄なんかないけど、それで構わない。不細工でも貧乏でもいいから、普通の人間に生まれたかった。
肩口の痣をそっと手で覆い、少女は己の十八年足らずの半生を呪った。全身の痛みに耐えて体を起こすと、足首をつないだ鎖が耳障りに鳴る。
声を立てて泣いてしまいたいが、それが叶うのはもう少し後だろう。
少女はゆっくりと息を吸い、目の前の壮年を睨んだ。
「どれだけ殴っても、無駄だから。何度も言っているでしょう、お父さん、わたしはこの力を、人殺しになんか使わない」
何の目的か携帯電話のカメラを向けられたので、それも睨み付けた。
―――*―――
松永美鈴は、人ならざるものと関わることができた。それが彼女と彼女の家族にとって、最初の不幸だった。
美鈴がまだ小学校にも入らないころだ。夕方庭で一人遊びをしていると、庭の片隅に半透明の子供が見えた。美鈴はその子供に色々と話しかけ、毎晩一緒に遊んだ。
道行く人々には、幼い少女が何もない空間に向けて笑っているようにしか見えないのに。
幸か不幸か、美鈴の両親も兄も、半透明の子供を見ることはできた。近所で噂になる前に美鈴の奇行を止めようとしたが、幼い美鈴が友達を無視しなければならない理屈を受け入れられるはずがない。次第に松永家は、不信の目を向けられるようになった。
そしてある日の晩、事件は起こった。美鈴が寝苦しさに目を覚ますと、夜中だというのに部屋の中が明るかった。それに暑い。空気が酷くしみた目をこすっていると、隣で寝ていた母がなにやら騒いで、美鈴を窓から外に出した。
『逃げなさい。ママはお兄ちゃんを見てくるから』
そう言って家の奥へ走る母が心細かったが、美鈴は言いつけに従って少し離れたところに隠れ、それまで生活してきた家が焼け落ちるのを見ていた。焼け残ったのは、母の私室の開かない金庫が、一つだけだった。
母と兄は死んだ。
出張先から慌てて戻ってきた父が、焼け跡の前で激しく泣いていたことは、どうしてか覚えている。
それから何年も経ち、当時の新聞記事を調べたのは、中学生になってからだった。放火だというのは知らされていたが、それ以上の事実に美鈴は慞然となった。犯人の若者がこう証言していたからだ。
『あの家には化け物が住んでいる。殺されて当然だ』
五歳や六歳の子供が、普通の人間のふりをすることなどできるはずがない。普通のなんたるかも分からないのだ。それでも思わずにはいられなかった。美鈴が幽霊と遊ばなければ、一家の秘密は守られただろうにと。
そのころ、妻と息子に先立たれた父親は、人ならざるものを見聞きする人間を集めた会を立ち上げた。他人に理解されない能力を持った者が肩を寄せ合う会だ。
最初は優しい理由から設立された東雲会
が、方向転換をしたのはいつからだっただろうか。実に人間らしい、悲しい理由で美鈴の父は道を誤った。
この能力を、普通の人にも理解されるように。
会の人間が、世間から白い目を向けられることのないように。
命を奪われることがないように。
必要なものは、力だった。東雲会は東雲党へと名を変え、着実に社会的地位を高めていった。それに伴い、東雲党は影の部分を持つことになった。党に仇なす人間を消し始めたのだ。
若い党員が次々手を汚していく中、とうとう父親は美鈴にもその仕事を命じた。
「お前と同じ、人ならざる者と会話できる青年だ。他の党員は失敗したが、お前なら対等に渡り合えるだろう」
そんな説明と共に一つ年上の高校生の写真を渡されたとき、美鈴の戦いが始まった。
「この人の何が、東雲党の邪魔なの? お父さんは間違っている」
東雲会は、もっと居心地の良い場所だった。互いの傷を抱きしめあえる、優しい場所だった。
父親が歪んだのがいつなのか、美鈴は分からなかった。娘なのに止められなかった。だからせめて、曲がった道を断つことを、この手でしなければならないと思ったのだ。
写真の高校生が異能を失って党の危険人物指定を外されても、美鈴は同じような指令を受け続け、それを拒否し続けた。
―――*―――
ねえお父さん、お母さんとお兄ちゃんを殺した人が、憎いよね。あんな身勝手な正義感で、悪びれることもなく……。今のお父さんは、それとなんにも変わらないよ。
瞳から強い光を消さない娘を見て、壮年は酷く寂しそうな顔で呟いた。
「なぜ分からないんだ」
美鈴は内心で答えた。
(お父さんを助けたいからだよ)
その瞬間、鍵をかけられたはずの部屋のドアが、勢いよく開いた。
「ご要望通り、僕は来ました。何のつもりか説明していただけますか?」
肩で息をした青年が、それでも真っ直ぐに美鈴の父親を見据えて尋ねる。美鈴は絶句し、父親は微笑した。
この青年を知っている。お父さんが、わたしに殺せと言った人だ。
田代昌。わたしと同じ能力のあった人。それを失ってなお、東雲党に目をつけられた運の悪い人。
壮年は青年の問いを黙殺し、美鈴も無視して青年に席を勧めた。
「田代昌君だね」
「はい」
椅子に腰掛ける前に昌は一瞬美鈴を見て、痛ましげな表情をした。しかし美鈴がまだ挫けていないことを察したのか、軽く頷くと目を逸らした。
父は昌の向かいの椅子に座った。薄笑いが続いている。
「さて田代君、まずは自己紹介と行こうか。私は松永誠矢。東雲党党首だ」
昌も同じような口元だけの笑みを浮かべて応えた。
「ご存知かと思いますが、田代昌です。××大学の一年生です」
「では、この党の理念を知っているかい?」
空気がふっと、張り詰める。和やかさを装った会話がいよいよ本題に入ったのだ。互いに白々しい愛想笑いは浮かべたまま、頭脳戦が幕を開ける。
「はい。人ならざるものを見聞きする人間を集め、国力に還元するのですよね。ホームページを拝見しました」
「それだけではない。虐げられ続けている我々のような人間を救う意図もある」
「虐げられる、とは」
先に切り込んだのは昌だ。学生堅気を謳うには明晰さを覗わせすぎる表情で、あえて分かりきったことを聞く。
「ああ、君が人ならざるものを初めて見たのは、十七の時だったね。なら隠すことができたのも納得だ。しかし、大抵は生まれつき見ることで、親兄弟にも疎まれるのだよ」
「……お察しします。僕や姉が特殊だったのでしょう」
昌は一瞬作り笑いを忘れ、本当に悲しげな表情を出した。だが人間として好ましい反応も、今はただの付け入る隙だ。
「国家の意義は、弱者を守ることにあるはずだ。そうは思わないかね」
「思います」
強い共感を示させるのは、東雲党党首が頻繁に使う交渉術だ。昌はあっさりと認めてしまった。
しかし昌は、すぐにこう言い足した。
「弱者を守るために、別の弱者を虐げるのが、国家の意義でしょうね」
皮肉っぽい口調ではないが、その言葉の意図するところは明白だった。態々(わざわざ)相手の言った単語を使って、簡潔な反論をする。美鈴は昌の頭の回転の速さに舌を巻いた。
「大きな目的のためには、些細な犠牲は付き物だよ」
「些細な、ですか」
この頭脳明晰な青年はしかし、感情を隠すことにかけては負けている。この一言には明確な怒りが浮き出ていた。
昌はとうとう愛想笑いをやめた。
「僕を呼び出した目的は、なんでしょうか」
年の功の差で、誠矢はまだ穏やかな顔をしている。
「君の力を借りたい。君は現在人ならざるものを見ないとはいえ、我々への理解と優秀な頭脳を持ち合わせている。東雲党に必要な才能だ」
カリスマ性とでもいえばよいのだろうか。誠矢は若者をその気にさせるのが得意だ。
美鈴は昌が暗殺されかけた事実を教えようかと思ったが、そうするまでもなかった。
昌は眉間にしわを寄せた。
「僕の記憶が正しければ、僕はこの党にとって脅威になる存在ですよね?」
気付いていたんだ。美鈴は内心で拍手を送る。そこで、そういえば黙っている必要もないと思って口を挟んだ。
「闇討ちを拒否したら、こうなる」
主語も脈略もないが、昌はそれだけで察したらしい。椅子から立ち上がった。
「僕はかつて命を狙ってきた組織に身を置けるほど人間ができていない。交渉決裂ですね」
言い捨てて、昌は美鈴の元まで歩いてきた。ポケットから小さな鍵を取り出し、それを美鈴に手渡してから誠矢を振り返る。
「党員と思しき女性から預かった鍵です。お嬢さんを助けるように頼まれました」
なるほど、足枷に付いた南京錠が開いた。足が軽くなったのが予想外に嬉しくて立ち上がると、眩暈がした。
「大丈夫?」
とっさに支えくれたのは昌で、器用なことにあちこちある痣を全部避けて腕の痛くない部位を掴んでくれたらしい。
「おかげさまで。……お父さんに話があるの」
「座ったらどうですか?」
「いいえ、このままで」
これが、最後の機会だ。そう判断して、美鈴は背筋を伸ばした。
ねえ、お父さん。お父さんは間違っているよ。沢山のものを守ろうとしているのに、何一つ守れていない。
お母さんとお兄ちゃんを殺した人は、わたしだって憎い。友達に気味悪がられるのは悲しかったし、東雲会のみんなを苛めた人たちは、許せないよ。でもね、こんな風に、自分の敵を一人ずつ排除していったら、敵だけじゃなくて、味方だっていなくなる。田代さんが私の鍵を持ってきた理由、聞いたよね。お父さん、間違ってるんだよ。
お父さんが守りたかったものはなに? わたしたち、人ならざるものを見る人間だよね?
じゃあ、わたしはなんで殴られたの。どうして田代さんを殺そうとしたの。党の人たちが辛そうなのはどうして。
ねえお父さん、もうやめよう。権力なんていらない。お母さんもお兄ちゃんも、こんなこと喜ばないよ。
分かって欲しい。たった一人の家族だから。万感を込めて訴え、いつしか眩暈も収まっていた。
希望はあるのだ。誠矢は美鈴と分かりあおうとはしている。外傷や後遺症の残る殴られ方はしていない。
父は美鈴に背を向け、深々とため息をついた。
「恵美も直矢も死んでしまった。何を喜ぶかなど分からないよ」
ところが、
「それはどうでしょうか」
返事をしたのは美鈴ではないし、昌でもない。部屋のドアが再び開いた。
今度の来場者は複数だった。一人は三十がらみの党員。もう一人は昌と同じくらいの青年。どういうわけか、ラブラドール・レトリバーの老犬も元気に尻尾を振っている。
「木下!」
「よう田代、無事だったか。お前の犬、マジで優秀だな」
どうやら青年は昌と知り合いのようだ。片手で一冊の古いノートをひらひら振っている。
党員が誠矢に説明した。
「奥様の金庫を開きました。お読みください」
言うなり木下青年からノートをひったくって、誠矢に手渡す。
美しい筆跡で埋められたノートを数ページ読み、誠矢はがっくりと床に膝をついた。俯いたきり顔を上げないが、時折しゃくりあげるように肩が上下に動いている。
美鈴が近寄って父の手元を覗き込んだ。
私の幸せは、夫がいて、子供たちが笑っていることです。それだけで充分。私たちは普通には暮らせない家族だけれど、それでいい。沢山の人に分かってもらえなくても、私には頼れる夫と、かわいい子供たちがいますから。
この子たちの生きる未来はきっと、夫や私が生きてきたのと大して変わらない時代でしょう。辛いことも多いはず。けれど私がそうであるように、この子たちもきっと、それぞれの幸せを、自分の手でつかめると信じています。
美鈴の背後からノートを読んだ昌が、
「随筆か」
と感心したように呟いた。
なるほど、エッセイなら金庫に隠してしまうのも頷ける。
美鈴は不意に、父と自分の両方にある、同じ弱さを思った。
顔も覚えていない母は、美鈴が呪ってやまなかった異能を受け入れていた。誠矢よりも強く前向きに、自らの宿命を肯定していた。
頃合いを見計らった党員が、説明を重ねた。
「恵美様が、金庫の開き方を教えてくださいました」
美鈴の前には一度として現れることのなかった母の幽霊が、党員の前には現れたらしい。しかし、
(それならどうして……)
幽霊となって、誠矢や美鈴の前に現れてくれなかったのだろうか。誠矢には姿を見せることしかできなくとも、美鈴とは会話できるのに。
その疑念を解決してくれたのは、意外にも父だった。覇気のない口調で
「『生者が死者に縛られてはいけない』。恵美のよく言っていた言葉だ。……あれは私やお前に、失くした家族に縛られる生き方をして欲しくなかっただろう。しかし、私のやり様を見かねたのかもしれないな」
と語り、ノートを最初のページに戻して美鈴に見せた。
大好きよ、直矢、美鈴。ママはずっとずっと、あなたたちを見守っていくからね。
美鈴の戦いが終わった瞬間だった。
今度こそ目から大量の涙が溢れ、美鈴は大声で泣いた。