電柱、踊り出す
草稿版を読んでくれたM.K.,Y.S.,Y.T.,K.T.,M.K.の5人へ。推敲はしたけれど話の大筋は変わっていないので、最初のほうは遠慮なく読み飛ばしてください。
僕がそれを見たとき、自分の目を疑ったのは言うまでもない。
はたして、頭がおかしくなったのだろうか。家の近所を夜、愛犬と歩いていると、路傍の電信柱がぐにゃりと倒れたのだ。しかもよく見ると、先のほうに、あれは目か? 口らしきものもある。しかし愛犬は全く驚いた様子もなく、うねうね楽しそう――電信柱の心など断じて分かりはしない。あくまで『そう』だ――な電柱に向かってしっぽを振っている。とりあえず常識的な青年たる僕は、リードを握る手に力をこめて、愛犬があらぬ世界へと旅立つのを止めた。待ちなさい、そっちに行ったらもう戻れないような気がするから。
さあ、帰宅しよう。
「え~、行っちゃうの~?」
ええ、さようなら。
「そんなぁ~」
くねくね言っても……あ、違う。うだうだ言っても、僕と愛犬はこの場を去ります。
ところが僕としたことか、うっかりリードを落としてしまった。我が愛犬は喜び勇んで件の電信柱に跳びついてしまった。
「うぎゃあ!」
もう本当に、帰りたい。帰って布団にくるまってだらだらしたい。ドラクエの裏ボスを倒したい。ラスボスは弱かったのに、裏ボスは異様に強いのだ。
「お~い、そこの青年、現実逃避していないで、助けてくれ~」
いやなこった。さ、行くぞ。帰って飯だ。
「そんな~」
さて、電柱である。いいかげん認めてやろう。鉄筋コンクリートのくせに、ちくわ顔負けの弾力を誇っていらっしゃる。
「あれキミ、ボクらの仲間を見たことなかった~?」
あったら迷わず精神科行きます。
「キミのお姉さんはよく喋ってくれるのにぃ~」
は!?
……こほん(咳払い)、いや、あの天然な姉なら十分、否、十二分にありうる話だ。
「ね~。お姉さん、ボクらがみんなでくねくねダンスしてるところ見ても、にこにこ笑って挨拶してきたんだよ~」
ボクたち……複数ですか。眼前でうねうねする沢山の電信柱に、にこやかな挨拶をする僕の姉……シュールな光景だ。僕は想像したことを軽く後悔した。
楽しそうな愛犬に、笑う姉に、踊る電信柱たちに。あれ? 僕がおかしいのか? そんな馬鹿な。誰か違うと言ってくれ。
よし、少し落ち着いたぞ。
話は変わるが、僕は六人家族の末子で、高校の二年生をやっている。したがって、姉の他にも誰かしらがこのくねくねと出会っていてもおかしくないのである。そう考えると、僕とてこの土地に住むのが十年を越えて久しいのに、なぜ今まで分からなかったのだろうか。
「なぜってそりゃあ、キミ、近々頭を打つかなにかしたんじゃない~?」
言われてみれば昨日、級友の投げた野球ボール(硬球)が後頭部に直撃して、意識を失った。そうか、頭がおかしくなったのか。納得。
電信柱はまだくねくねしている。
「まあ、キミのお姉さんは最初から見えたけどね~。これからはボクたちみたいな善良な電柱だけじゃなくて、人喰い桜とか危ないのも見えるかも~」
姉さんは最初から見えたのか……。そうか、見えたのか。
それにしても、人喰い桜?
「うん。この村、色々なものが住んでるんだよ~。見える人間はねらわれるから、気をつけてね~。あ、でも、キミの姉さんはねらわれてないけど」
もはや姉は気にするまい。
とにかく、用心するべきであろう。桜に喰われたくはない。花弁のピンク色はとある青年の……だなんて、笑えない話だ。これから毎晩変な連中から身を守らなければならないと思うと気が滅入るが、いたしかたない。
愛犬がクゥンと鳴いている。『早く帰ってご飯にしたい』と言いたいのだろう。電信柱の考えなど分かりたくもないが、六年来の相棒であるこの犬の言わんとすることは理解できる。
寝待月も空高くなった。水田の稲も、畑の野菜も平生と変わらない。ただ、あぜ道の電柱もくねくねしているし、ビニールハウス上空を飛び交うのは、どう見てもプランターだ。
僕は頭に硬球を当てられたことで、違う世界の住人になってしまったらしい。いや、世界は同じか。うねうねする電柱も人を食べる桜の木も、元から確かにあったもので、見えなくて、感じられなかっただけかもしれない。
どうやらこの村には、人には分からないもの達も暮らしているらしい。