表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界迷宮の最深部を目指そう  作者: 割内@タリサ
10章.久遠の空を目指すもの達へ
480/518

475.地下清掃員


 あと少しで。

 グレンの妹を囮にして、99層を『隠密』で抜けられるはずだった。

 その予定は順調に進んだが、《コネクション》をくぐる直前。

 掴まれた。


 足を引っ張られ、血溜まりの中に引き摺り込まれていく。

 空の明るい地上と比べて、薄暗かった99層――その迷宮の底さえも序の口と言うように、さらに暗く深く、下へ下へ下へと沈んでいく。


「くっ……、がっ――!」


 息ができなかった。

 肺が圧迫されて、強制的に口を開かされる。

 絞られるように、気泡を吐き出した。


 俺の細い片足に、何万人もの腕が括りついているかのような重さだ。

 足首を掴む力は万力のように強く、沈んでいくのも恐ろしく速い。

 すぐに『筋力』による抵抗は諦めて、血を操る魔法《ブラッド》を使おうとしたが、なぜか霧散する。続いて、ゴーストの『魔人』の力を振り絞ろうとして、それもまた虚しく消えた。


 どういう仕組みかは分からないが、能力の封印と相殺を、常に行われている。

 その原因を確かめるためには、口だけでなく目も、しっかりと開くしかなかった。


 瞼を持ち上げると、一面の赤が視界に広がる。

 上は赤く、下は赤く、左右も赤く。

 どこを見ても赤く、世界の果てまで尚赤く。


 ――血の深海を、俺は沈み続けていた。


 千年前の実験と拷問を耐えきった俺ならば、そう簡単に死ぬことはない。

 だが、このまま引き摺り込まれ続ければ、物理的に溺れずとも、『呪術』的に溺れる可能性がある。

 そう俺に思わせたのは、足首を掴んで、一緒に落ちようとしている女性。

 その表情。


「――〝ニール〟」


 もう見間違えない。

 その名を呼ぶのは、『血陸』で出会った幼馴染の清掃員。


 姿は『血の人形』でなく、立派な衣服を身に纏っている。赤かった四肢に肌色の皮膚が張りつけられていて、軟体動物のように揺らめく髪は艶やかで黒く、夜行生物のように輝く瞳は深紅。


 最初は、鮮血魔法でヘルミナさんを真似ているのかと思った。

 しかし、目と目が合い、違うとわかる。

 ファニアで生まれた特製の『魔人』であり、『血術』の専門家でもあるから、これが『魔人化』だと確信できた。


 しかも、混じっているのは、モンスターではない。

 本当に、珍しい・・・

 初めて見るが、『人』だ。

 彼女は『人』を混ぜられている『魔人』。


 『ヘルミナ・ネイシャ』混じりの『魔人返り』であると、世界で俺一人だけが気づけた。

 脳裏に「天敵」という言葉が浮かぶ。


「…………っ!!」

「ええ、〝ニール〟。あなたと同じく、私も『魔人化実験』を受けていた。そして、あなたと同じ〝成功作〟だった。私はとても〝幸運〟で〝幸せ〟な『魔人』」


 血の海の中だが、軽やかに彼女の唇は動いて、声が聞こえた。


 あの研究院の系列は、少し前に『木の理を盗むもの』アイドが虱潰しにしたと聞いた。もう例の狂人マニュアルは完全に捨てた様子だが……。

 その聞きやすい言葉に、俺は違和感を覚える。


 そして、ふと視線を上に向けた。

 どれだけ俺は沈んでしまったのだろうか。

 測りようがないほどに遠く、暗く、赤い。


「上に戻りたいのですか? それとも、地上に出たい? ……出来ません。だって、【二度と戻らない】。それが、本当のファニアのルール」


 上を見る俺に向かって、下にいる彼女が忠告した。


 俺は「違う」と否定したかった。

 俺にとってのファニア領は豊かで明るく、人の活気と希望で満ちていた場所だ。


 ただ、その下で行われていた悪夢も、よく知っている。

 なによりも、俺の足を掴みながら微笑む魂が証明している。


「間違いなく、こここそが本当のファニア。奇しくも、また『里帰り』ができましたね。人生のゴールとして、本当に『理想』の場所でしょう。ここでファニアのみんなも、私たちを待ってくれていた」


 彼女が「ファニアのみんな」と口にすると、沈みいく血の中に『何か』がいるのを感じた。


 それは奇妙な唸り声をあげながら、血の深海を高速で泳ぐ巨大な物体たち。

 禍々しく名状し難い形状から『血の魔獣』たちであると、使役する側だったから、すぐにわかる。


 この血の深海は、故郷のように親しみ深く、分かることだらけだった。

 泳ぐ『血の魔獣』たちも俺が懐かしいようで、親しみ深く話しかけてくる。――なぜか、俺でも聞き取れる言葉で。


『――少年? 帰ってきたのか、あの少年が』

『なぜ? なぜ、おまえが? おまえだけが生き残れた? 妬ましい。おまえも同罪だった。死ね、悪魔の弟子――』

『――帰ってきてはいけなかった。戻るな。もう二度と、こんなところへ……』

『殺せ。いますぐ殺せ。死んで詫びさせろ。それでも、まだ怨みは足りぬ――』


 形状は様々。

 臓器を腸で繋げた巾着のような『血の魔獣』。

 百の目が葡萄のように生っている木のような『血の魔獣』。

 無数の手足だけで構成された球のような『血の魔獣』。

 本能的に理解を拒み、吐き気を催す物体たちの言葉が、いま、なぜか理解できた。


 『血の魔獣』たちは喉という器官を失っているので、どれだけ身体を震わせても声は出ないはず。そもそも、度重なる実験によって、その魂は狂気に呑み込まれてしまっている。

 血の海を介して、振動が伝いやすいからか?

 迷宮だから、死者の魂たちと直接コンタクトできると言うのか?


「なら、これは……、これは・・・?」


 息ができず、まともに喉は震えない。

 しかし、口を動かせば、外に振動を出せた・・・・・・


 まるで魂を震わせての振動こえ

 引き摺り込まれている先を予感する。


「ええ、ここは『血の理を盗むもの』の《生きとし生ける赤ヘル・ヴィルミリオン・ヘル》。大地に染み込んだ血を操り、死者たちと話せる墓参りの魔法・・・・・・――の下・・


 99層の下に、ヘルミナさんの本当の『魔法』が展開されていた。


 それは戦闘の効果で言えば、亡霊を操る魔法。

 だから、『大聖都』の地下で再会したときのカナミさんには、死霊使いネクロマンサーのようだと揶揄された。


 しかし、本質は少し違う。

 見ての通り、死者たちとの意思疎通が、一番の真価。

 その真価の深淵に、俺は引き摺り込まれていっている。


「――『空に爪を突き立て、私は世界あなたを掻き切った』『見上げて瞠れ。いま肉裂いた空から、血の雨を降らせる』――」


 後だしで、彼女はヘルミナさんの人生を詠んだ。

 その懐かしい詩と共に、彼女は歓迎していく。


「ようこそ、本当の100層へ。教祖たちの『作り物』と違って、こちらこそが『本物』ですよ」

「こ、ここが? こんなところが、本当の100層だって? ここはどう見ても――」

「いいえ。こここそが、本当の迷宮『最下層』。『最深部』も、神の座も、本来は存在しない領域。『作り物』の異次元ですから」

「…………っ!?」

「どうせ落ちるなら、『本物』がいい。この本当の『地獄』に、私と一緒に落ちましょう?」


 99層の下を、彼女は『地獄』と呼称して、引き摺りこむ。


 その彼女の『魔人』の力は凄まじく、強かった。

 『魔障研究院』最高傑作の『魔人』である俺に、全く引けを取らない力だ。

 この場所・状況・魔法に、ヘルミナ・ネイシャ混じりの『魔人』と相性が良過ぎるのもある。なにせ、この血の深海はヘルミナさんの人生そのもの――


「くっ……!」

「ふふっ……」


 はっきり言って、決着をつけるために幼馴染と話すどころじゃない。

 息すらできず、生き残れるかどうかも怪しく、俺は叫ぶ。


「ま、魔法――!!」


 引き摺り込まれる直前まで、俺は次元魔法《コネクション》と《ディフォルト》を使っていた。

 得意の鮮血魔法で、いま俺は次元属性を使える身体のままなのだ。


 もし使うならば、《ディスタンスミュート》しかない。

 特殊な属性の複雑な魔法だが、だからこそ封印も相殺も難しいはず。

 出し惜しみはできない。

 一瞬だけ片足を透過させて、まずは彼女の拘束から脱出する――!


 と、俺は無詠唱による構築を始めた。しかし、その切り札の魔法名を、先に発したのは――


「――共鳴・・魔法《ディスタンスミュート》」


 俺の足を掴む彼女。

 彼女に魔法を、合わされた・・・・・


 ゆえに、その魔法で俺の足が透過することはない。

 むしろ、俺の足と彼女の手が重なって、より強く、結びついた。


 決して離れない魔法の楔が完成してしまい、嗤われる。


「ふふ、くふっ。……ヘルミナ様は、ティアラ様とお友達。使えないわけないのに」

「…………っ!」


 俺の全ての力を霧散してくるのかと思えば、これだけは共鳴されてしまった。


 おそらく、彼女は《ディスタンスミュート》の使用を誘導して、待ち構えていたのだろう。その罠に綺麗に引っ掛かってしまい、彼女の腕と俺の足が一体化していく。


 それは共鳴による魂の同化。

 俺と彼女の境界線が消えていき、二つの意識が重なっていく。


 不味い。

 このままでは、近くで一緒に泳いでいる『血の魔獣』の仲間入りだ。

 そう危惧して、俺が周囲にも警戒を向けると、さらに聞こえてくる声――


『――そのまま、消えろ。混じって、消えてしまえ。おまえも混じり死して、ここを永遠に漂い、我らと恨み続けろ』

『おそらく、少年は戻るしかなかった。憎き世界やつと約束をした。約束の名は『ヘルヴィルシャイン』――』

『――みなが死んだのは、おまえのせいだ。おまえが『光神』を案内さえしなければ……!』

『昔だ。ファニアの研究者たちならば、みな知っている。忘れたか、その仕組みを。名で『世界との取引』を誓う意味――』

『――憎い、憎い憎い憎い。おまえが救世主を求めなければ、我らは生きていた。みんな生きていられた。まだ私は、お母さんと生きていられたのに』


 何か、おかしい。


 生き残った俺を恨む声以外にも、何かが混ざっている。

 理知的で穏やかな声だ。

 見る者全てを狂わすからと、ずっと敬遠していた『血の魔獣』が、いまだけは整然とした言葉を紡いでいる。


「む、昔? ファニアの研究者たち……?」

「そう、昔に。昔に混じって、還ろう。私と一緒に、あの日のファニアの底の底まで――」


 俺が「昔」と呟けば、彼女も「昔」と同意した。

 さらに同化が加速していく。


 ――そして、その「昔」とやらを確かめるように、血の深海に全く別の光景が映った。


 それは、ここにいる誰の・・「昔」の『過去視』か。

 魂が同化し始めた状態では、正確なところは分からない。


 しかし、朧気ながらも確かに、あの懐かしい匂いのする地下室が視え始める。

 黴臭い本棚に囲まれて、最低限の机と椅子があるだけの部屋だ。

 ここで、かつて三人が揃って学び、穏やかな時間を過ごした。

 あの例の部屋に、俺たち三人は――いや、俺はいない・・・・・


 いたのは、ヘルミナさんと清掃員だけ。

 二人だけだから、ヘルミナさんは俺に見せたことのない苦しそうな表情をしていた。

 それに答える幼馴染の清掃員も、俺に話したことのない流暢な言葉を発していて――



 ◆◆◆◆◆



 ヘルミナさんは苦しそうに首を振って、彼女は自分の言葉で喋る。


「――名前? だ、駄目よ。名前なんて、絶対に駄目。あなたには必要ない」

「しかし、ヘルミナ様。名前を付けてくれたほうが、管理がしやすいです。効率もいいと思います」


 千年前のファニアの『第七魔障研究院』の地下室で、真っ当な部下から上司への要求がなされていた。

 しかし、ヘルミナさんはあなたを思ってのことだと優しく拒否していく。


「だって、名前を持てば、みんな本当に狂ってしまう……。いや、普通は名前があるという事実にすら、きっと誰も耐えられない。なら、最初から名前なんてないほうがいい。存在すら知らないほうが、ずっといい……」


 その冷や汗を垂らした顔を、じっと清掃員が見つめ続ける。

 ヘルミナさんの目が泳ぎ、声が震え出した。


「だ、誰に唆されたの? ……そんなものなくとも、あなたは『幸せ』だよ! だって、最高の『素質』を持って生まれた『幸運』が、あなたにはある! だから、あなたは『幸せ』なの……。『幸せ』な私が、あなたなの。どうか、その私を信じて……」


 足場を失ったかのように、不安定で危うい返答だった。

 嘘をついているとしか思えないヘルミナさんの独白は、さらに続けられる。


「名前なんて地上うえの風習、地下ここでは必要ない。だって、一度地下に落ちた『下層職員』は、二度と地上に出れないのだから。もう二度と戻れないと、ファニアの法律で決まっている。そのルールを一緒に守りましょう? ねっ?」


 そう言って、無理に「ふふ」と笑うヘルミナさんは、本当に弱々しい。


「しかし、ヘルミナ様……」


 まだ疑い続ける清掃員に、とうとうヘルミナさんは懐から一冊の本を取り出す。

 その懐かしい『経典』の表紙には、『碑白教』の名が刻まれていた。


「だ、大丈夫!! 私も! ……私も同じなのよ? 一度、外道に墜ちた研究者は、『二度と戻れない』。あとには退けず、『ヘルミナ・ネイシャ』として、死ぬまで呪詛に苛まれ続ける。それは苦しい道かもしれない。辛い道かもしれない。……けど、いつか神様は救ってくれる! だから、大丈夫なのよ! ちゃんと、ここに書いてある! 一章一節『此処に在るあなたとは、あなたのことだ』と! このあなたとは、私たちみんなのこと!!」


 本を開くことなく、強く抱き締めて、ヘルミナさんは読み上げた。


 ただ、全てを丸暗記しているからこそ、その言葉に取り憑かれているようで。

 見る者を不安にさせる。


「そうっ! それから、一章七節『試練とは希望と幸運の賜物。明日に進んだという証を必ず残してくれる』と続いていく! だから、大丈夫! いつかは必ず報われる! 信じていれば、いつか!! あはっ、あはははははハハハハ!!」


 焦点の合わない目で、大笑いし始めた。


 もう知っていることだが、ヘルミナさんは俺と同じく碑白教の信者だった。

 だから、『血の理を盗むもの』代行者だったときの俺と、振る舞いがよく似ている。


 そして、清掃員がヘルミナさんを見る目も、かつての俺を見る人たちとそっくりだった。

 狂ってしまった信者を、心の底から憐れんでいる。

 その目を向けられたヘルミナさんは、急いで距離を詰めて、清掃員を抱き締めた。


「お願い、もう一人の私……。私たちは同じなの。だから、どうか私から逃げないで。私と一緒に、狂って……。一人は寂しいの。どうしても一人で落ちるのは不安なの。だから、一緒に笑って? 一緒に読んで? 一緒に歌を歌いましょう? この『経典』を、人生の子守歌にして……、ねえ? ふふふ、ねえ?」


 心は弱く、罅ばかり。

 やはり、ヘルミナさんは『理を盗むもの』だ。そして、千年後いまのカナミさんとそっくりでもある。


 それを再確認していると、「狂って」という言葉を押し付けられた清掃員は、優しく頷き返す。


「…………。はい。一緒に生きましょう。私はヘルミナ様のことが、ちゃんと好きですよ」


 全てを、受け入れた。

 その返答に安堵したのだろう。

 ヘルミナさんは『経典』を懐に入れて、追い詰められた表情を凛々しい研究者に戻して、優しく微笑んだ。


「ありがとう、私。……ええ、一緒に行きましょう。ネイシャ家の終わりまで、私たち二人で」


 俺のいないところで、二人は手を取り合った。

 二人は地下室で崩れかけの心を支え合い、なんとか安定させていた。


 ――そして、その日の地下室は、そこまで。


 その次は、地下室から出た清掃員の『最下層』での日常だった。


 例の掃除を繰り返す作業が始まる。

 偶に緊急のお仕事も入るけど、何の苦労もない。

 苦しみもない。辛さもない。名前もないから、ずっと『幸せ』。

 ヘルミナさんの言いつけを守っている限り、世界の誰よりも『幸せ』で、私は救われているのだと、彼女は「ふふふ」と〝楽しそうに、笑っていた〟。


 俺にとっては地獄だった場所が、彼女にとっては天国のように見えている。

 その過去は、もう認めるしかない――と、俺が思ったときのことだった。


 新たな声が聞こえ始める。

 俺ではない。全く知らない第三者の嘆きの声が――


『――嗚呼、美しく哀れな儚き『失敗作』よ。あの悪魔の狂気から、早く逃れよ。この地下の醜く愚かな歪みを認めて、普通の・・・幸せ・・』を探すのだ――』


 穏やかで、妙に仰々しい声だった。


 それは清掃員が、その名の通りに清掃作業していたときに聞こえた。

 実験に失敗した『魔人』たちの保管庫内は、石造りの無機質な冷たい部屋。そこに閉じ込められたブヨブヨとした『血の魔獣』が「――――ッ、――――――ッ!!」と、か細い声にならない声を出して、それを彼女は読み解けていた・・・・・・・


『我らの有様を、よく見よ。あのヘルミナが狂気を振り撒く悪魔でなければ、なんだと言うのだ?』

「…………」

『あのむすめは、おまえをもしものときの予備としか見てはいない。おまえに優しいのは、とっておきの予備が逃げるのを恐れてのこと。いつか物扱いの末に、捨てられるだろう。……我らは、それをよく知っている』


 教えを説くかのような声でもあった。

 ただ、その落ち着いた声を、清掃員は真正面から否定していく。

 彼女も、穏やかで妙に仰々しい声で。


「悪魔……? どっちが? 君たちは、もっと自分の姿を省みたほうがいい。ヘルミナ様は誰よりも心優しく美しく、人類の大義を背負った立派な研究者様だよ」

『そのような都合のいい夢からは、覚めよ。あの女を信じるなど、悪夢そのものだ』

「そう見える? ふっ、ふふっ。本当に狂ってしまっているんだね、この哀れな『失敗作』たちは。この『幸せ』な私を捕まえて、悪夢だなんて。くふっ、ふふっ」

『我らは狂っておらぬ。ここで狂っているのは、もはや二人のみ』

「……勝手に言ってればいい。どうせ、誰も聞いてくれやしないし、誰にも分からない。そもそも、神様でもないと誰が狂っているかなんて、線引きできない。なら、自分を『幸せ』にしてくれる正気を信じるのが、一番正しい」


 二人は何気なく話す。

 『血の魔獣』はありもしない喉を震わせて、声にならない声を発して。

 清掃員は綺麗な喉を震わせて、言語でない言語を発して。


 それは『古代の魔法』か『新しき呪術』か。

 もう検証できないが、清掃員の中では確かに通じていた。


 彼女のことを何も知らなかったと、何度も俺は驚かされる。

 どうりで、ずっと俺が何度も「君は『不幸』だ」と言っても届かないはずだ。

 俺に言われるよりも先に、彼女は『血の魔獣』たちから何度も繰り返し、同じ話を聞かされていたのだ。


 幼少の頃の俺は、「ヘルミナさんは贔屓して、あの清掃員に色々と隠れて教えている」と嫉妬していた。しかし、実際のところは何かを教えるどころか、逆。

 ヘルミナさんは少女から色々なものを取り上げていた。そして、この名もない少女に教養を与えて、現実を教えて、研究者の助手らしく育てていたのは、この『血の魔獣』たち。


『正しいとしても、変えられぬ真実もある。おまえが傍に置かれているのは、合理的な実験だ。飼い主を好いて好かれていると思い込まされて、愛着を利用した洗脳教育を試されているのみ』

「ふふ、いくら私を煽っても、無駄だよ。ヘルミナ様は、私の大好きな人。犠牲となった君たちの復讐は叶わない。永遠にね」

『いいや、違う。そうではない。我らは別に、あの悪魔を恨んでいるわけではない。その資格はない。……ただ、せめて、おまえだけは救われて欲しいと願うのみ』

「は……? はあ? 救われて欲しい? ははっ、はははははは! ははははは!!」


 ずっと涼し気に聞いていた少女だが、もう耐えられないといった様子だった。

 とうとう会話が成り立たなくなった『血の魔獣』は、ぶつぶつと自問自答し始めるしかなくなる。


『やはり、もう間に合わないか』『死しか、救いがない』『もはや、悪夢から覚めることが悪夢』『ネイシャ家の呪いに隙は無くなった』『超えることも奪うことも、本人が望んでいない』『もう教えは、救いでない』『気づく前に、殺したほうが――』


 『血の魔獣』に発声器官はない。

 ただ、それに酷似した個所は、異形ゆえにいくつもある。だから、同時に震えるしゃべることができて、木霊のように自問自答した。


 研究者の思索に似ていた。だが、本来は脳内ですべきことが外に露出していると、どうしても――


「ああ、おぞましい。おぞましい、おぞましい、おぞましい。……まるで、逸話の『魔獣まじゅう』のよう。もう誰彼構わずに生者を殺したいほどに、狂ってしまっているんだね。この『失敗作』たちは」


 そう少女が感想を抱いたのは無理もなく、彼らへの理解を「狂っている」からと諦めてから、『魔獣』のようだと侮蔑した。

 さらには生者を妬む亡者と決めつけて、見下ろすように哀れんでいく。


「本当、可哀想に……。けど、大丈夫。『幸せ』になれるように、私がお世話し続けてあげる。ずっとずっと一緒にいてあげる。あなたたちの哀れな人生に、私が子守歌を歌ってあげる。……いや、みんなで一緒に歌おうか?」

『ヘルミナ・ネイシャを真似るな。予備の振りをする必要もない。そのおぞましい目は、もう終わりにしたいのだ』

「これが、振り? そんな上等なこと、私にはできませんよ。だって、私は無能の名もなき狂った『下層職員』。狂った『血の魔獣』とも意思疎通できるから、『幸運』にも重宝されているだけ。淡々と同じ作業を繰り返すだけの『傍観者』――」


 言葉は通じていても、上手く合わない会話が続く。


 これが、千年前の『最下層』の日常。

 清掃員は『血の魔獣』を庇護生物かぞくとして扱い、『幸せ』そうに世話をし続けていた。見下して、優越感も得ていた。可愛がり、偶に子守歌を歌った。

 その様子を上層の職員たちは観察して、狂っている者同士だと、その理解を諦めたのだろう。言葉の通じない化け物モンスター共は、互いを家族ペットと見立てることで『幸せ』そうだから、もうそれでいいと……。


 歪だけれども、ある種完成している環境。

 誰も手を出す必要などなかったのかもしれない。

 健全とは言えないが、このときの彼女は■福感と優■感に満ちていた。ただ、それを認める■■うことはつまり、もう清■員■、とっくの昔に・・・・・・■■■■■■■■■■■■。彼女は■■■、■■■■■■■■■。

 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。


 ■■■■■■……っ!


 急に。

 黒い濃霧に塗り潰される感覚に襲われた。


 『過去視』の先が視えない。読めない。


 どこかから干渉を受けている。

 そして、こんな都合のいい干渉ができる存在を、俺は一人しか知らない。


 その人の顔を俺が思い浮かべるよりも先に、彼女が喋る。


 ――うるさい、教祖カナミ

 ――私たちの思い出に割り込むな。


 頭の中に直接、彼女の声が鳴り響いた。


 俺と清掃員の『過去視』に割り込んだカナミさんに割り込むように、彼女の声が聞こえる。合わせて、いま視ている『過去視』が、赤く滲んでは歪んだ。

 赤い■で塗り潰される。

 カナミさんの干渉による黒に対抗して、赤で塗り潰し返す。

 黒く、赤くと。黒く赤く黒く赤くと■■赤く■黒く■紅くと、■■■朱黒く■■赤黒くと■■赤く■く■■血が。■血肉■地獄が■■鮮血■■血■■■赤く黒くと■■■■■■■黒く■■■■■■■■赤■■■■■■■■■■■■■く■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――


 俺の頭の中で、二人が喧嘩する。

 多様な拷問経験のある俺でも、頭痛に耐えられない。

 頭が割れそうな状況だった。


 ――教祖おまえはおまえの世界を救う『失敗魔法』に集中していればいい。

 ――この《生きとし生ける赤ヘル・ヴィルミリオン・ヘル》は正気で、霊魂を介し、恨みを語る場所。おまえの『失敗魔法』のように狂気で、幻想に塗れ、夢を視る場所ではない。

 ――とっくの昔に・・・・・・私は狂っている・・・・・・・。狂っているから、もう私は戻らない。それは本当に、塗り潰すようなことか?


 ここまでも驚くべき口調だったが、ここにきて清掃員の声は荒みに荒む。

 そして、ついには――


 ――おまえもだろう・・・・・・・? 別に避けることではない。狂気それは必要であり、正しかった。いまも、正しいと私は信じている。だから、ずっと私は要らなかった。救いの手など要らなかった。勝手に『不幸』と決めつけられるのも要らなかった! 全てが要らない!! 勝手に悪夢扱いされて、『幸せな夢』から覚まされることこそが悪夢! いま教祖様は、誰よりも痛感しているだろう!? 本当の狂人だけが『幸せ』で、この世で最も完璧な存在だと!! 振りをして、初めて気づける!!


 彼女の叫び声を、初めて聞いた気がした。


 おそらく、これが本音。

 偽りのない彼女の本質こころは、俺とカナミさんの二人にとって――


 ――ああ、そうだ! おまえたち二人だ! おまえたちは許されないことをした!!

 ――あそこで、私は私なりに生きていた……。必死に、生き抜いていた……。おまえたちよりも、よっぽど私たちは本気で生き抜いていた……!!

 ――だが、おまえたち二人が壊した!! 『光神』を騙って! 救いを謳って! 勝手に、私たちを見下して!! 

 ――何が、地上うえだ。お祭りだ。巫女の光に、英雄の登場? ヘルヴィルシャインも神の脚本も、全てがくだらない。いや、気持ちが悪い。ああ、おぞましい……!

 ――神を騙る邪悪な教祖。やはり、おまえが最も罪深い。そして、次に〝ニール〟。〝ニール〟も絶対に〝許される〟! あの日、『魔障研究院』を壊した二人は、絶対に〝許され……〟? 〝許される〟?

 ――〝許される〟だって? ふふっ!!

 ――許されない・・!! 許されるものか・・・・・・・!!」


 ぶつりと。


 その呪詛によって、『糸』を断ち切った音が聞こえた。

 同時に、カナミさんの干渉が全て消えて、「昔」の『過去視』も霧散する。


 俺の意識は、現実の声を拾い始める。


「――許されるものか。絶対に、許されるものじゃなかった。許されるはずあるものか――」


 また視界は、赤一色。

 血の深海に戻った。


 しかし、ただ戻っただけではない。

 『過去視』する前よりも、圧倒的に息苦しさが増していた。


 いつの間にか、足を掴んでいたはずの清掃員が、俺の目の前で呪詛を吐いている。 

 清掃員の下半身が、俺の胴体と同化し終わっていた。


 その上で、俺の首を両手で――どころではない。腕の数が増えていた。霞む視界が捉えただけで、彼女の背中から十以上の長くて白い腕が生えている。その無数の腕を全て使って、俺の首を万力のように絞めていた。


 人混じりの『魔人化』が進み、異形化も進んでいる。

 その彼女と一緒に、俺は血の底に落ち続ける。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 本当に重く,暗い部分ですが,同時に全ての伏線が繋がっていくのが分かり,場違いですが,そういう意味では爽快感やある種の感動すら覚えます。 [気になる点] 魔人化実験とはきっと様々な拷問や投薬…
[良い点] セルドラ、グレン、清掃員と立て続けに、たぶんこの物語の一番濃ゆい所で、重すぎて受け止めきれなくなってきました。ヘルミナの心臓に話しかけてたファフナーのシーンも凄まじいものでしたが、今回はそ…
[一言] なんだか、虐待された子を児童相談所の人が助けようとしたら逆恨みされたみたいな話ですね。極限状況で生き抜くために狂気が必要になったとしてもその極限状況が終わった場合、その狂気は邪魔なものになる…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ