460.『マリア』・ディストラスの終着点
浮遊感が――いや、墜落感が続く。
もう僕は足場を得ることはないだろう。
あの太陽と共に堕ちていく限り、二度と足をつけることはできない。
視線を横に向けると、溶けてドロドロとなった足場が赤黒い雨となっていた。
熱に耐え切れなったモンスターたちも魔石となり、キラキラと多彩な星が流れていく。
全て、あるがまま。
『第百十の試練』の本質がわかってくる。
嘘じゃない。
マリアは偽りなく、ずっと本当のことを言っている。最初から、ずっと――
それを真正面から受け止めるべきだということも、僕は最初からずっと――
「マリア……、アルティ……」
正解は、最初からわかっている。
けれど、その選択肢を僕は取れない。
これから僕は、儀式を完遂させて、『最深部』を支配し、『その先』へ行く。
『魔法カナミ』に支障は出せない。僕は現在でなく、未来を視て――いや、その未来の果てにいる『ラスティアラ』だけを視ているのだ。だから、欠片も『忘却』などできるはずがない。
「それでも、僕は『ラスティアラ』と『幸せ』になると誓った。何をしてでも、何を捨てでも」
堕ちつつ、そう呟いたのを、マリアは炎の感覚器官で聞いたと思う。
不正解の一言を返した僕は、もう後戻りは出来ない。
すぐに僕の中で隠れている同居人に声をかける。
「ノイ、出よう。いま、『計画』を最終段階の手前まで、前倒しする」
返答はない。
ぎりぎりまで出てこないというのはわかっているから、呼びかけ続けるしかなかった。
「『世界の主』ノイ・エル・リーベルール。姿を現して、僕と『親和』するんだ。こっちも共鳴魔法を使わなければ、何もかもが終わる可能性がある。あの炎からは、その未来が視える」
まだ無言。
彼女のトラウマが、表舞台に現れることを拒み続ける。
気持ちが、僕にはわかる。誰よりもわかる。自分がいたって上手くいかないことばかり。全て『なかったこと』にしたい。そう思っている。
「……いいのか? 忘れることになるんだぞ? 今日までの人生をアルティとマリアの炎ならば、本当に浄化することが出来る! 君は全てを忘れるわけにはいかないはずだ! 嫌なことだけを選んで、『なかったこと』にしたいんだろう!? 頑張った果てにあるものを待ってたんだろう!? ずっと!!」
本当は、ノイの人生を表舞台に出してはいけない。
彼女の物語を秘匿するという『契約』を交わして、僕たちは協力し合っている。
だが、いまだけは、その『契約』を一時的に翻すしかなかった。
「僕は君の味方だ。立てなくてもいい。僕を信じて、一緒に落ちてくれ……!」
まだ無言は続く。
僕の言葉はノイの心に届かず、揺るがなかった。
――まだ飾ってあるからだ。
理由が自分でわかっているから、もう脚色を止める。
飾ることのない本心を、腹の底から吐き出していく。
「ノイ!! マリアは! マリアはなぁっ! 僕が出会ったきた誰よりも、強い! すごい! かっこいいんだ! 見ろっ、わかるだろ!? 出し惜しみで勝てるわけない! いいから、いますぐ寄越せ! おまえの最後の『術式』を!!」
余りに情けない弱音を、僕は胸に手を当てて、叫んだ。
そのとき、ドクンッと。
鼓動が聞こえたような気がした。
こうも真っ直ぐ叫んだのは、いつ以来だろうか?
もう随分と昔に感じる。
懐かしく、非常に慣れ親しく、紡ぎ易かった。
そして、いまの一言は間違いなく、『執筆』じゃなくて、ただ必死の即興な演劇。
だから、鼓動は鳴った。
今度こそ、僕の胸から。
落ちていく僕の腹部から、手が生え伸びる。
水面から這い出るように、女性が長い髪をはためかせながら、上半身だけ姿を見せた。
大人のラグネの姿を借りたままだが、それでも出てきてくれた。表舞台に出て、声を震わせながら、自分なりの台詞を読み上げていく。
「し、知っているさ……。彼女は強いし、すごいし、かっこいい。ずっとボクも、羨ましかった。ああいうかっこいい女性たちが……、いつもいつもだ! だから、君よりも知ってる! 出し惜しみで、勝てる相手じゃないってことくらい!」
ノイは心底恐怖して、涙を浮かべて、落ちてくる巨大な『炯眼』から目を逸らして、口を尖らせていた。
だが、僕と同じく、決意もしてくれていた。
僕に共に片手だけを前に――空から落ちてくる太陽に向かって、伸ばす。
『計画』最終段階の儀式を、即興で始めてくれる。
「だから、ボクは逃げて、君に託すんだ……! この積年の弱音と恨み言を! ああっ、『なかったことになれ』『なかったことになれ』『なかったことになれ』! ――次元魔法《ブラックシフト》!!」
僕たち二人の手の平から、膨らむ雲のような闇が溢れ出した。
それは光の遮断によって、暗くするだけではない。
濃過ぎる『魔の毒』の暗闇であり、形而上の認識をも拒む黒だ。
渦巻く台風のような暗雲が、太陽の光と熱を全て遮ろうとしていた。
地下に相応しくない明る過ぎる迷宮を、その黒色で元に戻そうとしていく。
落ちながら、自分の最も得意な魔法を紡ぎつつ、ノイは僕と『親和』していく。
彼女のオリジナル次元魔法《ブラックシフト》の『術式』が、模倣ではなく完全な形で、僕の中に沁みこんでいく。
「カナミ君、この『術式』は好きに改良してもいい。ただ、この臆病者に、切り札を一枚賭けさせたんだ。必ず、最上の未来を引き寄せろよ。あと気持ち悪いとかも思うなよ! ボクの『術式』は君と違って、じめったいんだ! 『未練』で、べとべとしてるんだ!」
だらだらと文句と言い訳を重ねつつだが、いま、確かに先代の『次元の理を盗むもの』から秘伝の『術式』が譲渡された。
「ありがとう、ノイ。あと思うわけないだろ。いまの僕の陰湿さには、君でも負ける」
僕に負けると言われたとき、ノイは身体の震えを小さくした。
長らく『世界の主』だった彼女は、誰よりも立派でいなければならなかった。上の次元にいる存在として、ずっと失敗は許されなかった。しかし、いまちゃんと敗北できている自分に『安心』して、全てを僕に委ねていく。セルドラと同じく、彼女も身を流れに任せ切る。
そして、託された流れの主導権を握り、『執筆』していくのは僕。
『相川渦波』が、彼女の弱音の続きを綴り、加筆し、詠む。
「――ああ、『なかったことにする』『なかったことにする』『なかったことにする』――」
受け取った『術式』のままに使えば、物事の表面上を黒ペンで塗り潰すだけの魔法だ。
必要なのは、その先。
ノイに踏み出せないところまで進むのが、この『相川渦波』の役目。
『なかったことになれ』と願うのではなく。
本当に『なかったことにする』のが僕。
――人生全てを懸けて、『ラスティアラ』『以外は何も要らない』『絶対に、なかったことにする』という覚悟を持って、その魔法を昇華させていく。
物質的な形而下だけでなく、精神的な形而上さえも覆う邪悪な積雲が膨らむ。
体積を増やしつつ、少しずつ紫色も加えていく。
その紫黒の暗雲は、いままでの《ブラックシフト》とは全くの別物だった。
認識を阻害するだけではなく、本当に『なかったこと』にする為の魔法の塗り潰し。
今回ならば、太陽の炎や熱が生まれる魔法構築前まで時間を遡り、その元から消していくことになる。――つまり、より時間操作の魔法に近づく。
もう《リーディング・シフト》で過去を読ませて、それから《次元決戦演算『再譚』》で了承を取るなんて手順は、必要ない。
強引な物語の上書き。
反則ばかりの次元魔法で、最悪中の最悪。
過去にラスティアラたちが危惧していた『なかったこと』にする魔法。
過去改編の魔法が、この――
「――次元魔法《ブラックシフト・オーバーライト》」
完全に自分のものとしたとき、名前を付け足した。
一切遊びはなく、率直でわかりやすく、強力そうな言葉を足して、さらに手を伸ばす。
手から溢れ出す紫黒の暗雲は制御され切り、上空の太陽に対抗して、一つの形を模っていく。
半球形状によって、熱と炎を待ち構える。
その黒紫の盾の表面に、迸る焔の先端が軽く触れたとき、ごっそりと人一人分ほどの炎が歪んで、ずれて、掻き消えた。
『魔法相殺』でなく、『時間相殺』と言える現象に昇華してる。
いま、準備は整った。
この『なかったこと』にする魔法の盾で、マリアの想いを全て掻き消す。
「――魔法《ウッドクエイク・創造》」
さらに不退転を誓い、最後の足場を作る。
上空からの熱を《ブラックシフト・オーバーライト》の傘で遮った上で、空気中の水分を使い、氷を魔法陣のような形状で張り巡らせた。そこに土と木の肉付けを行い、風魔法《ワインド》で浮かし続けることで、宙に地面を生成した。
迷宮の地面より強固にしたつもりだが、長くは持たないだろう。太陽と接触する為に、一時的な減速を行うパラシュートのように使うしかない。
そして、それを待っていたというように、マリアは直近の炎から声を出す。
「待ちくたびれましたよ、カナミさん。それが、『計画』の最後に待っていた魔法ですね。とはいえ、まだ雛形でしょうか……。本来、それは全ての《ディメンション》と組み合わせる予定だったのでは?」
「ああ。この《ブラックシフト・オーバーライト》は、まだまだ未完成だ。いまの状態だと遠隔操作が出来ず、直接この黒紫の煙をぶつけないといけない。でも、この状況なら、それで十分。いまの僕の魔力は、マリアを大きく上回ってる。さらに、僕は自分自身を『代償』にする覚悟さえある。消せない想いなど、この世にない」
ここまで余裕だったマリアを真似て、僕も余裕をもって言い返した。
その僕を見て、どこか安心した声で、ここで初めて挨拶をされる。
「ふふっ、お久しぶりです。慌てて、必死で、一杯一杯で……でも、抗い続けるカナミさんですね。その黒い瞳が、私は大好きなんです。きっと、ラスティアラさんも」
「何度も言うけど、二人共趣味が悪い。もっと格好いいところに注目して欲しいんだ、こっちとしては」
「いまのカナミさんが、私にとっては格好いいんです。惚れちゃうところなんて人それぞれですよ。……ねえ?」
自宅のリビングにいるかのような調子で談笑する。
だが、もう状況は天と地の差。
太陽と暗雲。
史上最悪を競う二つの広範囲魔法の中心同士。
いまも、二つの魔法は徐々に近づいていっている。
その接触前に、最後だからとマリアからの軽い「ねえ?」という挨拶の続きが、僕の腹部に向かって投げかけられる。
「そちらのあなたは、初めまして。はるか昔から、ずっとずっと影から私たちを見守ってくれていた神様。グレンさんやシアの家に伝わる太古の翼人種の生き残りであり、『世界の主』でもあるノイ・エル・リーベルール」
「ボ、ボクを呼ぶなよぉ……」
ノイは僕のお腹の中に限界まで引っ込み、身を隠そうとする。
どうやら、リーパーと違って、マリアは心底苦手のようだ。
「ご心配なく。今回、あなたはついでです。だって、神様とか、私は余り興味ないんです。本当にいたんですねくらいの感覚で、一緒に燃やそうとしてます」
「え、ええぇ……」
小ざっぱりとしたマリアの反応に、ノイは全くついていけない様子だった。
だが、僕にはわかる。付き合いも長くなったから、そういうやつだってわかる。
いつだって、マリアは――
「私は神の存在とか、大陸の行く末とか、どうでもいい。世界さえも、私にとっては二の次。だって大事なのは、一人一人の気持ち。それを、きちんと伝えること。いつだって、私はそれだけだった」
嘘偽りのない本心の為だけに、マリアは生きている。
その余りに真っ直ぐな太陽に近づきつつ、僕は心を固める。
この『第百十の試練』で、僕は気持ちを伝えられ、教えられる。しかし、決して心は揺るがさずに、全てを『なかったこと』にすると覚悟を――
「カナミさん……。言っておきますが、私も『ラスティアラ』さんが大好きなんですよ?」
「…………っ!?」
覚悟を決めた僕に向かって、マリアは色々な過程を飛ばして、こんな状況で急に、全ての核心を突いてきた。
それは『未来視』や『逆行思考』しているかのように、本質を見抜く一言。
「初めて出会った日、すごく『ラスティアラ』さんに振り回されて――でも、一緒に眠ってくれました。家族の温もりを求める私を、振り回しながらだけど、ちゃんと手を握ってくれました。……暖かい手でした。だから、私は『ラスティアラ』さんが好き。もうこれは、みんな知っている話だと思いますけどね」
出会いを話され、マリアと『ラスティアラ』の『繋がり』を再確認する。
だが、それでも僕の覚悟は変わらない。
いや、むしろ、だからこそだ。
二人の『繋がり』があるからこそ、僕は『安心』して、自分自身を『代償』に消えることができる。別に、そこに僕はいなくてもいいって思える。そう思って消えていってしまった『ラスティアラ』と同じことができる。
「だからこそ! いま、『ラスティアラ』さん、聞いてください! ちゃんと読んでいますか!? 好きです、『ラスティアラ』さん!! 誰よりも好きだから! あなたと過ごした日々を、私は決して忘れません!!」
「なっ……!?」
急な好意の主張に、僕は焦る。
こんなことで何かが変わることなど、万が一にもない。億が一にもない。
僕とラスティアラは『たった一人の運命の人』同士だ。
だが、いまの僕のやっていることを考えると、兆が一にもラスティアラの魂は「やっぱり、カナミよりマリアちゃんのほうがいいかなあ」と、急な方向転換をしそうな気がして――そして、これこそが僕の『計画』を根底から覆す裏技のような予感もあって、全力で叫び返す。
「ち、違う!! 『ラスティアラ』を誰よりも好きなのは、僕だ! 僕のほうが、『ラスティアラ』を好きに決まってる! 僕は『ラスティアラ』の為ならば、全てを捨てられる! 何だってする! 続きを『幸せ』にしろと言われたら、『幸せ』な続きにする! 世界を救えと言われたら、世界を救う! 偏に、それは愛ゆえ! そうっ、その僕の愛を読むとすれば、それは! 〝【相川渦波は『ラスティアラ』を愛している】〟と、この一文によって、『証明』されている! 〝当然ながら、その愛は世界の誰よりも深い〟〝不変であり絶対の理となったからだ〟〝『世界』が認めたことで、『ラスティアラ』への愛は完全に『証明』された〟〝たとえ死が『ラスティアラ』と僕を別つとしても、その真実の愛は『永遠』に続く〟〝僕は『ラスティアラ』だけを視続けて、『世界』の果てさえも行くだろう〟〝いや、必ず『ラスティアラ』のところまで行くと、決め終えている〟!!」
『ラスティアラ』『ラスティアラ』『ラスティアラ』と。
土壇場にて、僕は左手の本をぺらぺらと捲っては、全ての根本である『ラスティアラ』への気持ちを読んだ。
その僕の反応を見て、マリアは嬉しそうだった。
透き通るように純白な太陽に近づき、その中心にいる術者である彼女の姿を、やっと僕は捉えることができていた。
――兆が一にもありませんよと、安堵させるような笑顔をしている。
マリア自身、どこか安堵しているようにも見える。
そう言えば、僕はマリア相手に、ここまできちんと『ラスティアラ』への愛を語ったことがあっただろうか。
「ふ、ふふっ……。はい、そうですね! 私は誰よりも『ラスティアラ』さんを好きなつもりでしたけど、いまのカナミさんには負けます! 認めます! 私よりカナミさんのほうが、『ラスティアラ』さんを好き! カナミさんの勝ちです! 私の負け!!」
マリアが認めたとき、ぐっと周囲の熱が上がった気がした。
当たり前だが、太陽に近づくにつれて、あらゆる温度が急速に上昇している。
「それと、たぶん……、私の初恋も……。カナミさんが好きって気持ちも……、いまは、もう『ラスティアラ』さんの勝ち。……そう。どちらにも、私は負けてしまった」
墜落しながら、上がる温度。
その気持ちの熱を、ぽつりぽつりとマリアは、少しでも言葉にして吐き出す。
「――私は完全に、失恋しました」
失恋。
その言葉は、赤黒い負の感情のはずだった。
しかし、いま炎は透き通り、太陽は白く、どこか嬉しそうな声だけが響いていく。
「だって、仕方ありません! 『ラスティアラ』さんってば、もう本当に滅茶苦茶でしたから! 口では私を応援するっていうのに、すぐにふらふらと! あっちへこっちへ! かと思えば、あっさりと命を捨てて! もうっ、あの子は! 本当に、あの子は! 『ラスティアラ』さん、ちゃんと読んでいますか!?」
ずっとマリアは笑顔のままだが、僅かな変化が生まれていた。
じんわりと、目じりに涙を浮かべている。
身勝手に去っていたラスティアラを責めている。いや、叱っているのだろうか。それとも、讃えている?
あらゆる気持ちが混じり合い、高め合って、純白の太陽の中で一つとなっているのだけはわかった。
その熱が《ブラックシフト・オーバーライト》を突き抜けて――僕の視線の先にいる幻覚の『ラスティアラ』が、しゅんと項垂れて、申し訳なさそうにしていた。それは『持ち物』の中の魂も、きっと同じで――
「聞いての通り、私はお二人に敗けました! ……だから、すみません。『ラスティアラ』さんとカナミさんには悪いですが、もうお二人さえも私は二の次なんです。いま、私は次の好きな人ことだけを、全力で考えています。私のことを、薄情で現金なやつと思ってくれて構いません」
次の好きな人。
それが誰であるかは、いまの状況から語るだけでなく、その口からも教えられていく。
「私の誰にも負けない好きって気持ちは、もう一つだけ。……十層の守護者だったアルティさんだけ。カナミさんがアルティさんのことをちっとも気にかけないから、私が一番になっちゃいました。いまの私は、友アルティのためなら、何だってやりますよ」
笑みつつ、睨みつけてもくる。
口ぶりが僕の『ラスティアラ』に対するものと少し似ていると思った。
「――それが、この『第百十の試練』であり、魔法《灰者の失くした忘れ炎》」
嘘偽りはないと、信頼できる姿と声だった。
つまり、この状況はマリアの意思でなく、アルティの意思ということ。
マリアの『第百十の試練』は、アルティの『第十の試練』の延長上にあって――
「ただ! この炎には、私の初恋をぐちゃぐちゃにしたお二人に対する恨みも、ちょっとは込めてますのでご注意くださいね! 失恋の八つ当たり等々含めて全部、一緒にお受け取りください! なんだかんだで、ほんっとうに大好きですよっ、カナミさん『ラスティアラ』さぁあああん!!」
いや、やはりマリアの意志が大量に盛り込まれている。
マリアは叫び終わり、意味がわかったようでわからない二人分の『試練』に対して、僕は現実的に真っ向から拒否していく。
「受け取らない! その炎を受け取ると、僕は『忘却』してしまう! 魔法も記憶も、『ラスティアラ』も! そんなもの受け取れるわけないだろ!? 悪いけど、炎は全て消し去る! 迷宮の『最深部』に火の粉一つ、届かせやしない!!」
だから、このまま《ブラックシフト・オーバーライト》を維持して、ぶつかり合う。
――そう話し終えて、近づきに近づいた太陽と暗雲。
僕たちは、純白の炎壁と紫黒の雲壁で、睨み合う。
会話は限界。
これから、どちらが迷宮の真の支配者かを競う。
その直前、マリアは言う。
「いいえ。必ず、受け取りますよ。だって、カナミさんですから」
僕が『ラスティアラ』を、そういうやつだからとわかっているように。
マリアも僕を、そういう人だからとわかっているような言葉だった。
――そして、触れ合う。
迷宮を呑み込もうとする太陽が、僕の広げた暗雲にぶつかった。
どちらも物理的な重さはない。
だが、接触の衝撃は凄まじく、まず視界一杯に魔法の閃光が焼きついた。
反則級魔法二つの接触による『魔の毒』の火花だ。
続いて、迷宮の音が全て吹き飛び、消えた。
無音。
恐ろしいほどに何も聞こえない静寂の後、揺れが襲ってくる。
地震どころではない。星と星がぶつかり合っているかのような衝撃に、迷宮内の全てがシェイクされて――遠くで、僅かに形を保っていた瓦礫やモンスターなどが、ついでのように焦熱で溶けて、崩れていっていた。
灼熱地獄と化した。他にも、核融合炉の中とか、宇宙誕生の中とか、最上級の形容が思いつく中、僕は魔力を込めていく。
「…………っ!!」
迷宮の被害を堰き止めるように、全力で暗雲を広げる。
それでも太陽は、お構いなしに落ち続けようとし続ける。
互角。
どちらも相殺しては、消えている。しかし、すぐに術者の魔力で修復して――を繰り返す。
削り合い、食らい合い、常に術者は魔力を捻出し続ける。
余波だけが拡大し続ける中で、魔法の押し合いだ。
これまでに何度も経験のあるシチュエーションだ。
だが、過去最高の手応えと重さに、発汗は止まらない。
こちらは端から『なかったことにする』という魔法を広げているのだが、なぜかその作業が非常に辛く、苦しく、重い。
さらになぜか、じりじりと近づいてくるのだ。
太陽と暗雲は二つとも宙で、ほぼ制止している。
しかし、マリアの身体だけは、太陽の中心からずれて、下に落ちようとしていた。
術者同士の距離が縮まっていく。
より鮮明に互いの姿が捉えられるようになった。
だが、このときマリアは真下の僕でなく、なぜか横を見ていた。
誰もいない隣を見て、優しい声で名前を呼ぶ。
「アルティさん――」
誰もいないに決まっている。
だが、釣られて、その視線の先を僕も見つめてしまう。
――もう『ラスティアラ』以外を視るはずのない僕の瞳が、いま初めて、全く違う誰かの姿を捉えた。
懐かしい赤い髪の少女の姿が浮かび、「もういい」と苦笑しつつ、首を振っていた。
その姿は、一年前の十守護者アルティ――のものではない。
千年前の『火の理を盗むもの』アルティだろうか。妙に貫禄のある装いをしている。
もしかしたら、千年前に僕が迷宮に呑み込まれてしまったあとの姿かもしれない。
気づいたとき、とある千年前の記憶が呼び起こされる。
自動的に《リーディングシフト》が発動していた。
その自動の魔法は、誰かの支援あってか力強く――いや、『ラスティアラ』が維持し続けている《私の世界の物語》のおかげで力強く、明朗と読まれていく。
ぱらぱらと。
本の頁が捲る音が聞こえる。
〝――千年前、北と南を二分した大戦争は、『世界奉還陣』によって決着がついた。
崩壊したあとの世界を生きる者は少なく、目立った登場人物たちは片手で数えるほども残らなかった。
だというのに、さらに『迷宮』製作失敗によって、最後の『異邦人』と『使徒』さえも、この大陸から消えてしまう。
残った『理を盗むもの』は、一人だけ。
幕引きされた舞台の上、自分の役すら分からずに彷徨い続ける私。
――物語から忘れられたかのように、『火の理』だけが大陸で燻り続けていた。
たった独りで生き残って、あれから何十年経っただろうか……。
それさえ覚えられていないのが、私の『呪い』……。
大陸に残された『火の理を盗むもの』は、いつの間にか、たくさん年を取っていた。けれど、姿は少女だった頃のまま。だから、少女の頃の想いのまま、ずっと準備だけはし続けていた。
――いつか、誰かの助けになりたかったから。
だから、火炎魔法を完全に制御できるようになった。
その身のスキルも、限界まで研ぎ澄ませた。
もう立派な大陸有数の偉人様だ。
ただ、ここまで来ると、もう誰の助けになろうとしていたのかを『忘却』していて。
大切だったはずの母と一緒に、本当の自分の名前さえも『忘却』していて。
いま自分はどこにいるのかもどうして生きているのかも『忘却』していて。
「――みんな、行っちゃった」
燃え尽きた灰が、そう寂しそうに一言。
そう零してしまったことがあった。
とっくの昔に、想い人のことは『忘却』している。その上で、みんなの顔さえも遠く掠れていく。もう、なんで『忘却』を恐怖していたのかも、よくわからない。だから、その心の炎が大きく揺れることはない。そこまで悲しくはなかった。次の日には、仕方ないと受け入れていた。
でも、少し寂しかったのは、確かだった気がする。
みんなと一緒に行けなくて、一人だけ仲間外れにされるのは、ほんの少しだけ――〟
大事な『行間』を、読んだような気がした。
物語から忘れられた。
それは『不老』を支えるほどの心残りではないだろう。
あの残虐な物語から忘れられて抜け出せるのは、間違いなく救いの一つ。
だから、『未練』と比べればだが、それは人生で数ある想いの一つに過ぎない。
長い人生の間、ほんの僅かに揺らめいた気持ち。
ただ、そのアルティの気持ちの為に、いまマリアは――
「『忘却』を怯える私に、その優しさを教えてくれたのはカナミさんですよ。ええ、マリアに『呪い』は、もうありません。だから、『火の理を盗むもの』の物語だってこれからです」
さらに、マリアの太陽は加熱する。
アルティの為に、限界を超えての火炎魔法が行使される。
『代償』で、自らの記憶が『忘却』しても厭わない。
大事な恋心さえも含めて、『なかったことにする』という魔法に晒され続けてもいい。
血肉どころか、人生どころか、魂すらも薪としていく。
自分の気持ちを燃え盛らせて、真っ直ぐ真っ直ぐ真っ直ぐ。
『火の理を盗むもの』の続きの物語を強引に紡ぎ、下へ下へ下へ。
止まらない。
たとえマリアが生まれた瞬間まで『忘却』しても、炎は止まらないと僕は確信した。
先んじて落ち進み続けようとするマリアの身体に、後ろの太陽が引っ張られていく。
「マリア――」
その覚悟に、僕は圧された。
足場の魔法《ウッドクエイク・創造》がビスケットのように崩壊して、他の地面と同じように溶けた。
こちらの《ブラックシフト・オーバーライト》は維持できている。だが、押されるがまま、絡み合いながら、一緒に落ちていく。太陽の落下が、再開される。
止められなかった。
柔らかなミルフィーユに指を突き刺したかのように、幾層にも重なった迷宮に穴が溶け空いて、落ちていく。
気づけば、すでに50層を越えていた。
もう迷宮の地面なんて存在しないかのような抵抗のなさだ。
本来、迷宮は何日もの準備をして、何時間もの時間をかけて一層ずつ攻略していく。
それが、たった数秒の落下だけで攻略され、終わらされていく。
熱量に合わせて、落下速度も加速していく。
51層、52層、53層と――理不尽な迷宮攻略が進む。
それは熱く、重く――そして、速い。
太陽の肥大化が魔法史上最大となり、加速が止まらない。
さらに57層、58層、59層と――、誰もいなくなったノスフィーの60層もあっさりと超えて、続いて67層、68層、69層と――、まだ守護者がいる70層まで到達する。
70層は『血の理を盗むもの』代行者ファフナーの血塗れの階層だ。
『血陸』に酷似した層なのだが、それを確認する前に全てが融解した。
特殊なフィールドであるボスの層さえも、いまやあってないようなものだった。
その本来の役割を果たす前に、問答無用で消滅させられていく。
そして、ここまで深部まで来れば、徘徊するモンスターたちも強力で凶悪になるのだが――僕とマリアの魔力比べの余波だけで燃えて、溶けて、『なかったこと』になっていた。
そのまま、77層、78層、79層と落ち続けて――、80層へ。
80層は『無の理を盗むもの』セルドラの黒石ばかりの階層だ。
『智竜の里』を思い出せる物々しい谷間の層も、確認できずに全てが融解した。
その黒石は特別に強固ではあったが、止められる理由が一切なかった。
千年前の始祖カナミが用意した全てが、容赦なく崩壊していくのを僕は黙って受け入れる。
逆に、止められる理由のある層が思い当たったからだ。
この先に、その層が待っている。
そこまで僕は耐え切れば、逆転できる。
そう信じて、90層へ。
90層は元『次元の理を盗むもの』ノイの黒色に塗り潰された階層だ。
暗闇で包まれているわけではない。単純に石造りの階層を、黒色の塗料で塗り潰しているだけの層だが、そこは完全にノイのフィールド。
つまり、『次元の理を盗むもの』のために用意された決戦場。
本来――、もう本当に「本来」としか言えない話なのだが、迷宮の守護者たちには探索者たちを鍛えて、世界を救う一人を選ぶ役目がある。
そのために、自身のフィールドで挑戦者を待ち構えて、魔石を託すに相応しいかどうかを限界まで試していく。だから、その決戦場はボスの属性の魔法を補助したり、魔力を補ったり、場合によっては守護者の意志で層をアレンジすることも可能だった。その機能があった。
いま初めて、その機能が――引っかかる。
順調に落ち続けていた純白の太陽が、90層で引っかかり、止まった。
理由は、この層が最も迷宮の中で固く、頑丈というだけではない。
僕の展開していた《ブラックシフト・オーバーライト》の暗雲が、次元属性を補助する階層のフィールドで、真価を発揮しようとしていたからだ。
さらに言えば、アルティの十層から遠ざかり、迷宮からの補助の力関係が完全に逆転した。だから――
「だから、ノイ! いまだ!! ここしかない!!」
「ボクだって、一人の守護者! わかってる!!」
合図を叫んだ。
僕とノイは負けまいと、同時に太陽に向かって、その手を限界まで伸ばす。
いま、確かに《ブラックシフト・オーバーライト》の力は増した。
ただ、この90層でさえも、すでに地面は溶けつつある。
とっくに視界は、あらゆる色で塗り潰されている。
瞼の裏は真っ黒だけど、暗雲を突き抜けた太陽の光は何度も明滅していて、網膜は真っ赤。視界や魔法感覚など、色々な認識が狂って、もう何が黒か白かもわからない。
衝突していた太陽と暗雲は、混ざり合い、溶け合って、別の事象と化しかけている。
その果て、とうとう術者同士の距離は、零となって――
「――ほら、アルティ。カナミさんたちです」
マリアの声が、すぐ傍で聞こえた。
僕は右手を上に伸ばしていた。
本を左の脇に抱えていた。
右手が暖かい。
誰かの優しい両手が、優しく包んでいる。
全く別の熱を感じたとき、90層の底が抜けていく感触があった。
91層、92層、93層と――さらに、落ちていく。
決着がつく。
とうとう『第百十の試練』が終わる。




