432.狂気の判断をする狂気の転落
最強の『魔人』と名高いセルドラ・クイーンフィリオンですら、硬直していた。
その事実が『血の魔獣』の危険性を、わかりやすく示している。
あれは千年前の研究院でも、誰もが「外道」と口を揃えた産物。
私にとってはペットのように愛おしい存在だとしても、まともな生物にとっては真逆だろう。見るだけで、濃すぎる怨嗟の情念に晒されて、身体は震える。
その生きとし生ける者たちにとっての天敵が、いま、異形の腕(と思われる部分)で直近のクウネルを掴もうとしていた。
状況を理解した瞬間、私の身体は動いていた。
職員として、お客様を守り切ろうとする義務感だろうか。それとも、別の正義感が働いたのか。クウネルに体当たりをして、縺れ合いながら地面に倒れこんだ。
そして、すぐに次の行動へ移ろうとして、顔を上げると――
「――魔法《ディスタンスミュート》」
カナミの背中が見えた。
その紫色に淡く光る腕を、すでに『血の魔獣』に突き刺し終えていた。
魂と『繋がり』を作り、その人生を共有することで、問答無用で相手の戦意を削ぐ。
不意打ちで冷や汗を流したが、これで一安心――そう私が思ったのは束の間だった。
僅かな静寂のあと、慌てるカナミの声が響く。
「くっ……! 魂は一つなのに一人じゃない……!? やっぱり、くっついているのか……!?」
確認するように私に視線を向けたので、すぐに頷き返した。
察しの通り、この『血の魔獣』は、私の人生を『過去視』したときに視た失敗作たちの一つだ。
研究員たちが『魂の理を盗むもの』を作ろうと、耐久実験や改造実験を経た『魔人』たちを手術で繋げ合わせて、何度も弄り続けた結果、この世に彼らは生まれ落ちた。
こと魂において、これほど人為的に複雑化された存在はないだろう。
いかにカナミといえども――いや、魂と『繋がり』を作るカナミだからこそ、この『血の魔獣』を相手にするのは不利。
それが直感的にわかった私は、急ぎ、その見知った友人に向かって、再会の挨拶を投げかける。
『――みんな!』
私ならば意思疎通できる。
その自信があった。
クウネルやセルドラたちと話せないのだから、ここで役に立たなければ私の居る意味はないだろう。千年前のように、また仲良くお話をしようと、自分の『血の人形』の喉を震わせて訴えかけた。
その声は届く。
どこに聴覚を担当する器官があるのかはわからないけれど、呼びかけの声に反応して、一斉に眼球が動いた。
ぎょろりと。
また私の姿を捉えて、止まる。
懐かしい視線だった。
いま止まってくれたのは、きっと私が私であると認識できたからだろう。
そこの救世主様との急造の『繋がり』と違って、千年という時間を経ても変わらない強い絆を『血の魔獣』から感じる。
ああ。郷愁の念が、強まる。
環境と匂いだけでなく、旧友たちとも再会できたことで、私の心は感極まっていく。
懐かしさで、不意に涙が滲んだような気さえした。
『話したいことがあるの……。どうしても、君たちに伝えないといけないことが――』
涙腺だけでなく、口も勝手に動いていた。
再会を祝して話したいことが沢山ある。想いと言葉が、この喉から溢れ出ていくのが止められなかった。
自然と足も、『血の魔獣』たちに抱きつこうと向かっていた。
しかし、その途中で――
「――――――ッ! ――――――――――ッ!!」
か細い、声にならない声だった。
カナミでも私でもない。
『血の魔獣』の声であると、目の前の光景からわかった。
無数の眼球が全て、小刻みに震えている。
全身を発声器官の代わりとして、不恰好ながらも声らしき音を発している。
失敗作や『血の魔獣』に喉がないのはよくあることだ。
色々と慣れている私は、『血の魔獣』と会話をしようと、さらに近づいていく。
――しかし、会話を求めていたのは、私だけだった。
『血の魔獣』は私を見つめて震えながら、また体積を膨らませた。
足元から血を汲み上げているかのように、次々と眼球を果実のように生らせて、増やしていく。目の数は、とうとう百を超えた。さらに、その四肢に当たる幹の部分も、裂くように分裂させていき、最低限の人の形である「二本腕に二本足」も崩れる。
続いて、そのたくさんの赤くて細い腕が、煙のように宙で揺らめいた。
腕の先端は、刃物のように尖っていて――唐突に、私の視界は、無数の点で埋め尽くされた。
それは『血の魔獣』の揺らめく腕の先端が、私に向けられたということだった。
理解したときにはもう、無数の点たちは大きくなっていた。
私を穴だらけにしようと、針山が近づいてきて――
「――『ローウェン』」
そう呟いたカナミが、いつの間にか目の前に立っている。
さらには、無数の幹が全て微塵切りにもなっていた。
立っているカナミの手に綺麗な剣が握られていることから、『剣術』で解決したと窺える。だが、この狭い小屋の中で、どうやって剣を振るったのかは視認できなかった。
「――――――ッツ゛!!」
『血の魔獣』は震えて、鳴いた。
正直、私との会話を拒否され、攻撃されたのは少しショックだった。
だが、仕方ないことだろう。
私だって、カナミに《ディスタンスミュート》される前までは、いまの『血の魔獣』と同じように生きている者を攻撃して回っていたのだ。だから、これは仕方ないこと……と、自分の中で整理をつけたが、そんな私と違って、全く余裕のない者もいた。
「――――っ!? 黙れ!!」
部屋の隅で、部分的な『竜化』で片翼だけ広げようとしているセルドラだった。
瞳を赤く光らせて、激昂しているかのように見える。
「限界だ! ――『竜の風』よっ、あれを潰せ!!」
その彼が羽ばたいた。
結果、小屋の中で爆風が発生する。
もちろん、それはコントロールされ切った風で、意思を持っているかのように『血の魔獣』だけに襲い掛かる。だが、この狭すぎる空間に、それは余りに膨大過ぎる風だった。
私が不味いと認識したときには、視界が真っ黒となった。
風が目に入って、瞼(というには少し頼りない肉の膜)を閉じてしまった。
続いて、小屋の素材となっている木材や土くれが、破壊されていく音。
まさしく、爆発であり爆音。
咄嗟に私も、足元のクウネルと同じ防御体勢になるのに十分過ぎる衝撃だった。
背中を叩く衝撃が過ぎ去ったあとは、耳鳴りが頭の中で鳴り響く。
案外、『血の人形』となっても人間と変わらないのだなと、少しだけがっかりして、屈めた身体を起こし、瞼を開いて、周囲の様子を確認していく。
私たちのいた小屋は、空気を入れすぎた風船のように破裂して、全員が強制的に屋外に出されていた。そして、台風や地震といった災害に遭ったかのように、赤い街が荒れ果てていた。建物の残骸と思しき瓦礫などが大量に、血の浅瀬に浮いている。
クウネルの作った『安全圏』は崩れた。
見晴らしのよくなった街に、立っているのは二人だけだった。
爆発の中心にいながら無傷で、剣を構えているカナミ。
その爆発を引き起こしたセルドラ。
セルドラは爆発前に見た光景と違って、右腕も部分的な『竜化』をさせていた。
そして、その三倍ほどに肥大化した腕を掲げて、手の平でベッドの底を支えている。そのベッドの中では、まだシスは可愛らしい寝息を立てていた。……確信したが、この人。一回熟睡したら、起こす人が大変になるタイプだ。
色々言いたいことはあったが、見事セルドラは仲間たちを守り、『血の魔獣』を撃退した。
そう見える光景だった。
だが、現実は違うようで、セルドラは険しい目で血の水面を睨み続けている。
浮かぶ瓦礫に混じった『血の魔獣』の残骸だ。
その飛び散った眼球が、またぎょろりと動いた。
そして、先ほどの光景を繰り返すように、また眼球は分裂していく。
超常の速度で、魔の葡萄が育つ。
しかも、飛び散った眼球を種子として、それぞれのところで――
ざっと見たところ、私たちを囲むように新しい『血の魔獣』たちが三十体ほど育とうとしていた。
「……中途半端に倒しても、こうなるだけか」
脅威の桁が増そうとしても、セルドラは冷静だった。
分裂するモンスターは戦い慣れているといった様子で、次の攻撃に移ろうとしている。
だが、その前にパーティーリーダーが、叫び止める。
「セルドラ! 『恐怖』は!?」
カナミが発した言葉は、異世界語の二文字。
そのままの意味ではない。
おぞましい『血の魔獣』の姿は、生き物の生存本能を異様なまでに刺激する。
たとえ、これ以上の異形に見慣れていても、問答無用だ。
それが【世界の理】かのように、対峙者を『恐怖』に陥らせる。
その現象を「世界初の人工的な『呪い』」と喜んだ研究員もいた。
ただ、それをセルドラは、あっさりと乗り越えていた。
「この『恐怖』も、そろそろ慣れてきた。……もう何度か、味わったからな。前と違って、『異世界』の本で色々予習したってのもある」
『血の魔獣』は一体だけでも、一晩で街一つを血の海に変える。
常人ならば、一目見ただけで狂い、死ぬまで悲鳴をあげることになる。
その『恐怖』に慣れたらしい。
それを聞いたカナミは安心した様子で、一息ついていた。
さらに二人は『血の魔獣』たちの四肢が育ち切る前に、次の動きを確認し合っていく。
「で、こいつをこれからどうしたいんだ? 俺たちのリーダーは」
「セルドラが分裂させてくれた分、色々と薄まってる気がする。今度こそ、《ディスタンスミュート》が通るかもしれない。この『血の魔獣』に……」
ちらりとカナミは視線を私に向けた。
どうやら、私が決めた名称を正式採用してくれるらしい。
「こいつ、『血の魔獣』って言うのか? 何にせよ、お勧めはしない。元総司令として、忠告する。明らかに、これは事前の『未来視』になかった展開だ。やめたほうがいい」
「いや、この未来が全くなかったわけじゃない。だから、まだ僕は諦めたくない。……このまま、セルドラはクウネルたちを守っていて欲しい」
「……リーダーの指示に、従おう」
逡巡の後、セルドラは頷いた。
自分の忠告を無視されたのが、明らかに不満の様子だ。
「セルドラ、忠告ありがとう。でも、ここで退いたら、あとで必ず僕は『後悔』する。だから――」
だから、全力を尽くす。
そう心に決めた表情で、カナミは手に持った綺麗な剣を、鞘に戻すように自らの体内に入れた。
そのとき、すでに周囲の三十の『血の魔獣』たちは、その四肢を完成させて動き出していた。
すぐにセルドラはベッドを掲げたまま、その強靭な脚力で私の隣まで跳躍した。
「――『ヒタキ』」
そして、カナミは囮となるように動かず、小さな声で名前を口にした。
それは『剣』でなく『糸』を使う為の『詠唱』。
かつて、ヒタキは千年前のフーズヤーズ城の庭で、『白い糸』を水流のように渦巻かせて、魔法の『雪原』を作り上げた。
同じように、カナミの膝あたりから『紫の糸』が伸びていく。
真っ赤な水面に、濃い紫色の線が刻まれた。
それは雷が奔るかのように素早く、蜘蛛の巣状に――いや、『血陸』に亀裂を入れるかのように伸びた。色合いのせいか、本家よりも少し禍々しい気がする。
ヒタキと違って、ゆったりと渦巻かせないのは量の問題だろう。
二ヶ月間、ずっと鍛錬してきた劣化版の『糸』だが、それでもカナミは最低限の本数を心がけているようだ。
その『紫の糸』に触れた『血の魔獣』たちは、びくんと身体を跳ねさせた。
「――《ディスタンスミュート》」
『質量を持たない神経』によって『繋がり』が出来た瞬間、例の反則魔法が這っていく。
『血の魔獣』たちは敵の魔法の侵入を感じ取り、一斉に眼球をカナミに向けた。
ただ、そのとき迂闊にも、あのカナミと目を合わせ、瞳を覗き込んでしまったようだ。
私のときと同じように、その吸い込まれるような瞳を前にして、『血の魔獣』たちは硬直する。
「――――ッ!?」
『血の魔獣』たちは明らかに動揺して、動きが鈍った。
一刻も早く『紫の糸』の術者カナミを攻撃するべきとわかっていても、厚手の鎧を着ているかのように歩みは遅く、ぎこちなく、弱々しい。
それでもなんとか『血の魔獣』たちは勇気を振り絞って、腕を振り上げ、その赤く細い腕でカナミを貫こうとした。
しかし、遅い。
一瞬の時間すらも惜しむべき敵を相手に、それは遅過ぎた。
その鋭い切っ先がカナミに届く直前――、腕が燃え上がる紙のように、血の霧を噴出しながら形を失っていった。
近くの『血の魔獣』の赤い四肢が、急速な老化・風化に襲われたかのように、ボロボロと崩れ落ちていく。
当然ながら、その身体に生っていた眼球も全て、血の浅瀬に落ちた。
その様子を見ながら、カナミは祈るように、優しく、暖かく、話す。
「少し魂が混ざって、歪んでる……、けど、何も変わらない。僕も同じだから、わかる。君たちの魂は、僕たちと何一つ変わらない――」
それは目の前の『血の魔獣』たちを完全に理解したかのような言葉。
常人が口にすれば、傲慢な「上から目線」にしか聞こえないだろう。
だが、『過去視』で人生を追体験できるカナミだと、強制的に目線は等しくされる。
いまの数秒だけで、カナミは『血の魔獣』たちの何百年分かの人生を視てきたからだ。
そして、初めて「同じ目線」で苦痛を理解してくれる共感者を得て、魂たちは身体を維持するための芯を――この世の『未練』を奪われていく。
カナミに触れる直前に、次々と『血の魔獣』たちは崩れ落ちていく。
「少しずつだけど、わかってきた。魂が癒着してるなら、一人ずつ丁寧に、手術し直していけばいい。そのあとにやることは、『血の人形』と同じだ……!」
なるほど。
魂がくっついている問題は、千年前に行なわれた外道な実験・改造を完璧に分析して、逆方向へ巻き戻すような手術をすればいいらしい。
正直、何を言っているのかわからない。
ただ、カナミの言葉は理解できなくとも、現実は圧倒的だった。
魔獣も人形も大差ないと証明するように、カナミに辿りついた『血の魔獣』から順に、形を保てなくなっていく。
所要時間は、合計で十数秒ほど。
たったそれだけで、もう『血の魔獣』たちは詰んでいた。
ただ、零れ落ちた眼球から新たな『血の魔獣』が生まれては襲い掛かり直しているので、まだ戦いが続いているようには見える。
――だが、明らかに減っていた。
つい先ほどまでの『血の魔獣』の中には、千を超える報われぬ魂が詰まっていると確信できた。
しかし、いまカナミに襲い掛かっている『血の魔獣』の圧力は、薄い。
その薄い『血の魔獣』が何度もカナミに襲い掛かっては、あと少しで届くというところでバラバラとなる。すぐに身体を再構成させて向かうが、さらに薄くなった状態では届きようがない。さらに魂は分解され、理解され、魂を報わされ――ただ、減っていくのみ。
『……つまらない』
退屈だった。
真面目に考えるのも馬鹿らしくなるほど、カナミは強くて反則的だ。
カナミには「魔力に余裕を持ち続ける」「自分を傷つけない」「相手も傷つけない」「仲間も傷つけない」「その上で、倒すのではなく、救っていく」といった縛りがあった。
それでも、戦いにすら発展しなかった。
稲を刈るような作業が続く。
『ふぁーぁ……』
三分ほど経ったあたりで、私はあくびをした。
ただ、その私とは対照的に、切羽詰った声が下から聞こえてくる。
「セ、セルドラ様……。これ、順調に減ってても、やばいんじゃ……」
私の股の下で伏せていたクウネルが、少しだけ顔を上げた。
そして、隣にいる限界まで口元を吊り上げたセルドラを見て、叫ぶ。
「――セルドラ様!!」
呼ばれたセルドラは、顔をクウネルに向けた。
すぐに怒られた意味を理解して、笑みを消してから状況を確認し合っていく。
「あ、ああ。敵が減ってるのは、なんとなく俺もわかる。だが、中にどれだけ詰まってるんだ? すぐ終わると思ったんだが、もう何秒経った……?」
私に遅れて、いま、ようやく二人は現状を理解したようだ。
『紫の糸』を広げてから、もう200秒は過ぎた。
外から見ているだけだと、ずっと『血の魔獣』が破裂しては、中の数を減らしていっているだけ。本当にあっさりとしたものだが、カナミの視点で考えると――、常に『過去視』をして、報われない魂の悲惨な人生を追体験して――、そろそろ合計で2000年ほど過ぎていることだろう。
クウネルとセルドラは、先ほど『血の魔獣』に不意打ちされた以上に顔を青褪めさせていた。いま呆然としている間にも、カナミの中で膨大な年月が過ぎていっていると考え至ってしまったからだ。
堪らず、セルドラは叫ぶ。
「――カナミ、多過ぎる! 魔石を抜いて、即死させろ! これは完全に、『次元の理を盗むもの』カナミを狙った罠だ!」
その忠告には、クウネルさえも頷いていた。
仲の良くない二人が結託するほどに、いまの状況は許容できないらしい。
「クウネル・シュルスの言うとおり、俺たちは感知されていた! 『糸』や『未来視』から唯一逃れられる地下から、天敵が染み出てきたのが証拠だ! ファフナーはおまえの善意を逆手にとって、精神的にパンクさせようとしてる! 馬鹿みたいに付き合うな! 何かの拍子で、おまえが廃人にでもなったら、全てが終わりだぞ!?」
本心から心配しているのだろう。
口荒く、カナミに制止をかけた。
そのセルドラの声は、『紫の糸』に集中して俯いていたカナミの耳に、ちゃんと届いたようだ。
カナミは反応して、膝を突いたまま、ゆっくりと面をあげていく。
ただ、その表情は、セルドラの予想に反して――
「廃人? セルドラ、全然平気だよ。というより、そろそろ僕も慣れてきた。最近、平和ボケしてたけど、やっと調子が戻ってきてる気がする。いま、魔力の調子が、すごくいい……!」
楽しそうだった。
ずっと朗らかな笑顔で、優しげな瞳のまま。百近くの悲惨な人生を『過去視』したカナミは、いまやっと生きている実感を得ているかのように明るかった。
その反応には、人生経験豊富なセルドラとクウネルさえも驚き、戸惑っている。
「お、おい、カナミ……!」
「会長ぉ……」
本当に楽しむ余裕があるのならば、いい。
しかし、自分たちのリーダーが本当に笑っているかどうか、二人は確信できていなかった。
セルドラは迷い、周囲を見回した。
まずクウネルと顔を見合わせて、同じ表情をしているのを確認して、視線を移す。次に掲げたベッドの底を見て、首を何度も振った。
『…………?』
少し違和感があった。
セルドラもクウネルも『不安』ならば、なぜ強引にでも止めないのだろう?
傍観者の私と違って、それをできるだけの力が二人にはあるはずだ。
いますぐにでも割り込んで、カナミの代わりに『血の魔獣』たちを攻撃すればいい。
無属性の魔法でも吸血鬼の能力でも、何でもいい。
なのに、なぜ動こうとしない。
――もしかして、リーダーであるカナミに逆らえないのだろうか?
ついさっき、私はカナミと心を通わせて、お互いの人生を読ませ合った。
ただ、カナミの人生には、例の■■■で塗り潰されていて、本人さえも上手く認識できない部分が意図的に作られていた。
それは例えば、二ヶ月前の『元の世界』で、セルドラとカナミが戦ったときの物語。
他には、三日前の『元の世界』で、クウネルとカナミが買い物したあとの物語。
どちらも何かしらの結末があって、最後に何かしらの『契約』が交わされているはずだが――不自然にも、ぽっかりと抜け落ちている。
その不自然さが、この違和感に繋がっている気がした。
もし、その『契約』の中に、絶対服従に近いものが含まれていたのならば、この状況も説明できる。ただ、それはカナミの温い性格からは、余り考え難いけれど……。
『へえ――』
何にせよ、面白くなってきた。
このパーティーには、あの暴走するリーダーを止められる仲間が一人もいないらしい。
このまま、他人の人生を『過去視』していけば、カナミはどうなるだろう?
それも、この地獄を生きた『不幸』な人生ばかり、何千年分もだ。
その人生はどこまで続き、その果てに魂は一体どこへ行き着く?
ああ、また懐かしい感覚だ。
かつて研究院にいたときも、こうして興味深い実験を眺めていた。
この魂の多層化実験も、最後まで誰にも邪魔されず見たいな――と、私が傍観者の枠を超えて、少し欲を出したときだった。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
『は?』
また甲高い音だ。
今度は、さらに正体不明の怪音。
ありとあらゆる悲鳴に慣れた私でも、それは非常に耳障りだった。
何かの動物の声ではない。
自然に発声するような音でもなければ、人工的に生み出せる音でもない。
私が知る中では、羽虫の飛ぶ音に最も近いと思った。
カナミの知識で言えば、それは黒板を引っ掻くような音。
とにかく、共通しているのは煩わしく、不快で、気持ち悪く、堪え難い。
その音の発生源を憎むように、私は後方に振り返る。
街道の果てに、人影を一つ見つけた。
ただ、その視線を動かす途中で、すでに怪音の発生源は見つけていた。
――黒い線。
いつの間にか、私の目の高さあたりの何もない空中に、一本の線が血の水面と水平に入っていた。
見つけた人影から『黒い糸』のようなものが伸びて、ピンッと張っている。
それは『血陸』の風景画に入った悪戯書きのように不自然だった。
地平線までも続いているように見える『黒い糸』から、ずっと怪音が鳴り響いている。
「なっ、これは俺の――!? クウネル、清掃員! 目一杯、しゃがめ!!」
セルドラも気づいたようだ。
そして、これから何が起こるのかを私よりも先に察して、掲げていたベッドを空高くに放り投げ、私とクウネルの頭を掴んだ。さらに自らの頭と共に、血の水面のあたりまで強制的に下げさせる。
私の視界が、下へ大きく動かされる。
しかし、血の浅瀬に顔がつく間際、視界の端っこで捉えていた。
悪戯書きの黒い線が、動いている。
ゆったりと鈍く、ぐるりと一周。
あの遠くの人影を中心点に、製図器具を使ったかのように、この残骸だらけとなった街を、ピンッと張った『黒い糸』が通り抜けていく。
途中、『血の魔獣』に触れたのも見えた。
ただ、巻きつくのでも斬り裂くのでもなく、『黒い糸』が触れた瞬間に、その身体は異常なほどに震えて、どろりと溶解した。まだ形を保っていた建造物も、全て『黒い糸』に触れた瞬間、形を失っていく。
外から見れば、それはカナミの『紫の糸』の及ぼす結果と変わらない。
しかし、明確に違う。
カナミは優しく、暖かく、慈愛を持って『血の魔獣』たちの魂を救おうとしていた。
対して、あの人影は容赦なく、冷たく、残忍にも『血の魔獣』たちの魂を破壊している。
ああ、これは単純な破壊だ。
あの『黒い糸』は、振動によって魂を破壊する無属性の魔法と――いや、懐かしい『呪術』と、私にはわかった。
そして、わかったときには、全てが終わっていた。
私の目の高さ以上の物が全て消えて、血に還っていた。
つい昨日までは赤く綺麗だった街が、変わり果てている。
その見晴らしが良くなり過ぎた街に、無傷のベッドが空から落ちてくる。
それをセルドラは柔らかく受け止めたあと、下に降ろした。
そして、少し遠くに見えた人影が近づいてきて、その姿がはっきりと視認できる。
貴族然とした服に、赤銅色の短い髪。
柔和な顔つきをした『魔人』の青年だった。
私は情報として、彼が普通の『魔人』ではないと知っている。
元々、彼は普通の人間だった。
生前の私と同じく、両親を『魔人』に持ちながらも、全うでまっさらな身体の人間として生まれ落ちた。しかし、その苦難の人生が彼の魂を鍛え上げて、『魔の毒』を吸収し続けた結果、『魔人返り』を果たしてしまった。
彼は虫系統のモンスターの混じりだ。ただ、身体全てが異形化しているわけでなく、かなり『魔人化』がコントロールされている様子だった。
蜂の特徴が出ているのは、その左目と左腕のみ。
左目の中には、無数の小さな目が詰まっていた。
虫系統のモンスターに多い複眼だ。
左腕も同じく、節足動物特有の硬く細く長めで――いや、よく見ると少しおかしい。腕のはずなのに、肘の部分に針のようなものが出ていて、薄い翅のようなものが覆っているようにも見える。
――と私が観察している途中、その青年は自らの『魔人』の特徴を、煌びやかな刺繍の入った肩掛けで覆い隠した。
「…………。……グレンさん」
当然のように無事だったカナミが、いつの間にか私たちの隣まで合流していて、血塗れの知友の名前を呼んだ。
「久しぶり、カナミ君。大変そうだったから手助けしたんだけど……、その表情を見るに、もしかして余計だった?」
そう答えながら、『一次攻略隊』の第一目標であるグレン・ウォーカーは柔和な笑みを浮かべて、ぽりぽりと頭を左腕で掻いた。
そして、以前は身につけていなかった眼帯を(これまた金の刺繍が入っていて、かなり高そう)、額あたりから下に動かして、その複眼を覆い隠す。
「いえ、そんなことないです。助かりました。正直、このままだと、陽が暮れそうだったので……」
「そうか。なら、良かった。将来の義弟に嫌われないで済んで」
どちらも朗らかな表情で、旧交を温め合う。
そこに割り込むのは、ついさっき天高くに放り投げられていたベッドで、目を丸くしているシスだった。
「な、なにっ!? いまの揺れ……!」
騒音には耐えれても、身体を襲う衝撃は無理だったようだ。
きょろきょろと周囲を見回すシスを、グレンは暖かく見守る。
「シス様。やはり、あなたもいらっしゃったのですね」
続いて、視線を動かして、他の『一次攻略隊』のメンバーを確認していき――
「それにクウネル様とセルドラ様も……、――っ?」
最後の一人である私が、血の浅瀬から立ち上がるのを見て、グレンは息を呑んだ。
先ほど、一瞬で『血の魔獣』たちを殲滅するという鮮やかな登場をした人物が、私という『血の人形』一体に激しく動揺している。
「き、君は……、誰だ?」
その様子から、私でもわかった。
グレンは『理を盗むもの』『使徒』『吸血種』の存在は予期できても、私という存在は全く予定になかったということが。
『どこにでもいる一清掃員です。私のことは、お気になさらず』
「清掃員……? な、何の……?」
そして、その私の自己紹介が、しっかりと彼には聞こえていた。