426.異世界のマリア
夕食のあと、スノウはお酒を取り出して、みんなで呑もうと提案した。
僕は即座に反対したのだが、青ざめた顔を左右に振っていたのは、自分一人だけ。
聞けば、全員に飲酒経験があり、なぜ僕がここまで怖がっているのか分からないという反応だった。
結局、多数決の力で、お酒は振舞われた。
スノウの実家経由で持ち込まれた高価なお酒は、するするとみんなの喉を通っていく。ただでさえ進むのが早かった時間が、さらに加速していき――、最初に酔い潰れたのはディアだった。
僕は以前に酔い潰れた経験を活かして、舐める程度にしか口をつけなかったのだが、ディアは呑みに呑みまくった。
糸が切れた人形のように彼女が眠ったところで、食事の時間に区切りがつく。
流石のスノウも、脱落者がいる状態で酒盛りを続けようとはしない。
眠ったディアを客室まで急いで運んで、ベッドに寝かせて、解散の空気が流れる。
そして、明日の温泉に備えて早く眠ろうと、各々は自室に(以前に僕が自室としていた部屋を、この新しい家でもマリアは空けてくれていた)戻っていって――
「ふう……」
部屋で一人。
とてもリラックスした状態で、僕はベッドに腰を下ろしていた。
「休日!」と胸を張って叫べる一日が終わり、大きく溜息をつく。
前の酒宴では、『風の理を盗むもの』ティティーに乗せられて暴飲暴食してしまったせいで記憶が飛んだけど、今回は加減を間違えていない。
頬が仄かに熱い程度の酔い。
ふわりと身体が僅かに浮いているかのような気分だ。
もちろん、魔法で酔いを醒まそうと思えば、一瞬で醒ませる。
だが、せっかく身体が酔いをバッドステータスと認識していないのだから、この感覚を楽しもうと思う。
明日、温泉に行くという話はディアもマリアも乗り気だったので、間違いなく旅行することになるだろう。
国から出るとなると、ライナーかフェーデルトさんあたりに報告をしておいたほうがいいかもしれないと思ったが、すぐに思い直す。
窓を見れば、もう夜も更けた。
報告するにしても、「明日、みんなで温泉に行きます。しかも、意外にお酒を呑めるとわかったので、今度は本格的に酒盛りしそうです。もし、いまから止めたら、たぶんみんな不機嫌になります」では、二人が不安で眠れなくなるだけだ。
事後報告にしておこう。
それはそれで、二人ともショックで不眠になりそうだが……。
「……静かだ」
僕は明日からの楽しみに思いを馳せながら、背中をベッドに倒れこませて、その柔らかな感触を感じる。
何も考えずに、ぼうっと天井を見つめては、木目や染みを数える。
上下する胸を眺めて、自分の呼吸に集中する。
さらに脈拍を子守唄代わりにしようかと思ったとき、澄ませ過ぎた耳が自分のもの以外の音を拾った。
それは窓から入ってくる風でもなければ、遥か遠くの夜の街の息遣いでもない。
筆が紙の上を走る音。
僕は身体を起こして、その音の先に目を向けたあと――、少しだけ迷ってから、長い夜になることを覚悟して、薄着のままで部屋から出て行く。
かつての家よりも廊下は綺麗になっていた。
だけど、かつてと変わらない道を歩いていき、マリアの部屋の前まで辿りつく。
扉の隙間から、灯りが漏れていた。
軽くノックすると、耳に届いていた筆の音が途絶える。
少ししてから「どうぞ」という許可が出て、僕は灯りに包まれながら入室する。
中には、僕と同じく薄着で、机に座って筆を持つマリアがいた。
灯りは油でなく魔石製のもので、時刻の割りに部屋は明るい。
その光を頼りに、机の上に積んだ本を広げて読んでは、羊皮紙に文字を書き記していたようだ。
つまり、マリアは夜遅くまで、勉強をしていたのだ。
『魔の毒』による『賢さ』でなければ、魔石を呑むことによる『術式』の転写でもない。地道に本を読み、知識を受け継いで、糧にしていっていた。
その勉強内容は《ディメンション》を使うまでもなく、積みあがった本のタイトルからわかっている。
マリアは「魔法による回復」について学んでいた。だから、僕は来た。
「カナミさん? まだ寝てないのですか?」
マリアは入室してきた僕に驚き、聞く。
それに僕は「余り呑まなかったから、まだ眠くないんだ」と当たり障りのない理由で答えて、彼女に近づいていく。
「なるほど。なら、がぶ呑みしていた義姉さんは、もうぐっすりでしょうね」
「だろうね。……でも、意外にスノウはお酒に慣れてたよね。貴族同士の付き合いで、昔から呑んでたからかな?」
「人によるんだと思いますよ? 同じような付き合いを経験していたはずのディアは、すぐ赤くなって、ぐでんぐでんになってましたから」
「ほんとディアはお酒に弱かったね。一番意気込んでいたのに、最初に寝ちゃった」
「カナミさんが一緒だったから、はしゃいじゃったんだと思います。本当に、今日は久しぶりでしたから……」
「そうだね……。いつかと比べると、僕たちはいつも一緒ってわけじゃなくなった」
「ライナーだけは変わらず、いつも一緒みたいですけどね。依怙贔屓だーって、ディアだけでなく、色んな人が言ってますよ。下手すれば、刃傷沙汰になるくらいの勢いで」
「……平気平気。ライナーなら乗り越えられるよ、たぶん」
「ふふっ、秘書を変える気が全くないですね。……前から思っていましたが、カナミさんってライナーを気に入ってますよね」
「友達だしね。あと、同性だからってのもあると思うよ。男同士だと話しやすいことが結構ある」
もし贔屓があるとすれば、性別の部分だけだ。
それをマリアは笑って受け入れて、しばしの思案のあとに問いかける。
「……いまだから、はっきり言いますけど、カナミさんって女性がちょっと苦手でしたよね? 明らかに男友達と一緒にいるときのほうが、自然体です」
「そんなわけない……って言いたいけど、深層心理ではそうだったのかも。たぶん、妹のせいだ。あの陽滝を妹に持てば、誰だってそうなるから、僕が特別変ってわけじゃないはず」
「あー……。あの妹のヒタキさんが原因なのは、ちょっと納得ですね。いま、やっと克服でき始めている理由も説明がつきます」
「家族会議を重ねまくって、やっと本心で喧嘩できたからね。もう僕の中に、妹への劣等感はないよ。一つもないって、言い切れる」
「そうみたいですね。前以上に、歯の浮くような台詞がすらすらと出てきているのが、今日だけでわかりましたから。確実に、女性への苦手意識は消えてます」
「え、えぇ、歯の浮くような台詞って……。そこは前とそんなに変わらないと思うんだけど」
「変わりましたよ。本当に、カナミさんは変わりました」
少し皮肉は交ざっているが、静かな夜に相応しい談笑だった。
それは二人きりだからこそ話せる内容でもあった。
同時に、あの最後の戦いから、こうしてマリアと二人で落ち着いて話したことはなかったことに気づく。
「マリア、いま魔法の勉強してたの?」
「はい。自分なりに、色々と研究したいことがありまして」
「魔法の研究か。ちょっと懐かしいな」
千年前を思い出す。
いまのマリアのように、僕も自室に篭っては、本を読んだり書いたりしていたものだ。
その研究目的は、いつだって新しい『呪術』の開発。
ただ、僕が『相川陽滝の治療』のためだったのに対して、マリアは――
「でも、何の研究をしているかは、聞かないでください。お願いします」
先んじて、釘を刺されてしまった。
けれど、それだけは頷くことが出来ない。
酔いが醒めるとわかっていても、その名を出す。
「マリア、もうラスティアラには会えないよ」
分かり切っていることだが、マリアが学んでいる「魔法による回復」の対象は、死んだラスティアラ以外にいない。
それを含めて、今日一日について思い返す。
「みんな優しいから、僕のことを考えて、ラスティアラの名前を出さないようにしてくれたみたいだけど……。その心配は要らないよ。むしろ、小まめに呼んであげたほうが、僕もラスティアラも嬉しい。この日常が、『ラスティアラの物語』の続きだって思える」
途中から察していたことだが、今日、明らかに僕は気を遣われていた。
穏やかな時間を壊さないようにと、少しだけだが、言葉が制限されていた。
ただ、いま僕自身の口から名前が出たことで、会話の制限はなくなった。
マリアは苦々しく笑ってから、彼女の名前と思い出を語っていく。
「そうでしょうね。ラスティアラさんは、そういう人です。どこか死すらも許容していて、楽しむような空気があって……、とてもアンバランスで危うくて……、でも、そこが魅力的な人でした」
「ああ。だから、さっきの陽滝みたいに、ジョーク交じりに名前を出してもいいんだ。むしろ腫れ物扱いは、ラスティアラが一番怒るやつだ」
僕もラスティアラについて語る。
その代弁には自信があったし、将来の為にも間違ったことは言っていないつもりだった。
だが――
「――できませんよ」
マリアなら同意してくれると思っていた僕は、予定していた続きの言葉を喉奥に引っ込める。代わりに、その続きの言葉を聞かされる。
「カナミさんみたいには、できません」
「ぼ、僕みたいに……?」
「カナミさんは、少し勘違いしています。私たちがラスティアラさんについて話さないのは、カナミさんのことを考えてではないです。単純に、まだ私たちはラスティアラさんの死を、受け入れ切れてないだけです」
意外な即答の理由は、至極当然の――たった二ヶ月程度では、親しい人の死を受け入れることなんてできないという――普通の弱音だった。
「どのような最期をラスティアラさんが迎えたか、私たちはカナミさんに教えて貰いました。魔法を使って、その遺言まで聞くことができました。その死を、『呪い』の意味まで含めて、全て受け取って……、でも――」
あの激闘の中、僕は完全に心の整理をつけることができた。
しかし、マリアたちは違う。
「――心のどこかで、まだ私たちは『ラスティアラ・フーズヤーズの死』を信じてません。だって、ラスティアラさんは、そういう人でした。あの人なら、またひょっこりと帰ってきてくれる気がするんです。私たちが、死んだことさえ話していなければ……、またいつもみたいに笑って、「大変だったよー」って言いながら、この家まで帰ってくるかもしれないって――」
ぽつぽつと、マリアは呟く。
どちらが正しいのかと問われれば、それはきっとマリアだ。
いまの僕みたいに、何もかもわかった風な顔で、いつも通りの生活をしているほうが、おかしい。
しかし、それでも僕はお願いするしかない。彼女の死を受け入れて、新しい未来を――『ラスティアラの物語』の続きを、これからは歩んで欲しいと。
「マリア、ラスティアラは帰ってこない。僕がラスティアラを好きって思ってる限り、絶対に帰って来れない。ラスティアラ・フーズヤーズは自分の意思で、僕の【最も愛する者が死ぬ】を払ったんだ……。だから、笑って、見送って欲しい……」
そして、その続きとは決して、過去を後悔してばかりの、暗く『不幸』なものではない。
辛くても生き抜くことを覚悟し、明るく『幸せ』な未来を歩むことだ。
誰よりもラスティアラこそが、マリアの『幸せ』を望んでいる。
「それは、わかってます。わかっては……、いるんです。それでも、可能性があるのなら、私は試してみたい。ラスティアラさんが帰ってくる可能性を、残し続けていたい……」
「可能性はないよ。僕がいる限り、ラスティアラが生き返ることは絶対にない。――世界の【理】からして、【もう何があっても生き返らない】」
辛いが、そう言い続けるしかない。
もし【理】に抜け道があったとしても、それを崩せば、一番悲しむのはラスティアラだ。
僕が『本物』だった証明を、否定することになる。
「……カナミさんは生き返りました。成功例が否定しても、説得力がないと思いませんか?」
「それはノスフィーが特別だったからだ。というよりも、僕の死は『生き返ることが前提』だった。それを仕組んでいたティアラと陽滝はいないし……、ノスフィーだって、もういない……」
「ならっ、例えば、私がノスフィーさんのように、本当の『魔法』とやらを使えばどうなるんです? 私が『代わり』になることができれば、ラスティアラさんだって――」
「同じ『魔法』はマリアに使えない。……結局、誰かが誰かの代わりなんて、できやしないんだ。ラスティアラもノスフィーも、誰かの代わりじゃなくて、人一人としての人生を確かに歩んだ。人の魂の形は、唯一無二だ」
そう言い聞かせるのは、マリア相手だけでなく僕自身に対してもだった。
魂だけは代えられない。
だから、大事なのは肉体よりも魔石。
魂の有無に、『未練』の純度。
『代償』『契約』『理』といった『繋がり』。
それらが完全に揃わなければ、決して魂の移動はできない。
「…………。……やっぱり、カナミさんしか知らないルールが、まだあるんですね」
その僕の険しい顔を、マリアは覗き込んでいた。
相変わらず、その『炯眼』は僕以上に僕を見抜く。
「カナミさんは、私以上に【理】とやらを知っていて、私以上に魔法が得意です。……いえ、それどころか、いまや世界の誰もカナミさんには敵わない。そのカナミさんがラスティアラさんの蘇生を諦めているなら、もう誰にも不可能なのでしょう。そう、【理】からして、決まっているんでしょう」
これまでの強気な姿勢を崩して、マリアは悲しそうに呟いていく。
それはもう、ただのお願いだった。
「それでも、もう一度会いたい。もう一度、ラスティアラさんとお話をして、怒ったり怒られたりしたい……。あと一度だけでいいから、じゃないと私は、このままラスティアラさんを――」
「そ、それは……」
ただ、純粋に「もう一度」と、お願いされ続ける。
そのお願いは今日一番、僕の心を揺らした。
なにより、名前が繰り返されると、どうしてもずれる。
『次元の理を盗むもの』の『代償』として、そうなっている。だから、ほんの少し視線を動かすと、いつの間にか――、彼女はいた。
揺れに揺れ続けて、とうとうラスティアラ・フーズヤーズが、マリアと同じ机に着いて、一緒に話を聞いていた。
それが視える。
聴こえて、感じる。
『呪い』のように、はっきりと、そこに――
〝――ずっと静かに話を聞いていたラスティアラだったが、とうとう耐え切れずに席を立つ。
その金砂の髪を靡かせながら、音もなく歩いて、マリアの背後に移動する。
「マリアちゃん……」
愛しそうに名前を呼んで、目を細めながら、その細い両腕を回して抱きついた。
ただ、その声も体温も、マリアには届かない。
「マリアちゃん、すごく嬉しい……。けど、駄目だよ。だって、これが私の見つけた『みんなにも負けない想い』だから……。私とカナミが『本物』だった証明だから……。だから、駄目なんだ。ごめんね……」
悲しげに笑ったあと、その顔を誰からも隠すように、マリアの黒髪に埋めていった。
そして、抱き締める。自分の大好きなマリアを、強く強く抱き締めていく――〟
それを僕は視た。
だから、繰り返す。届かないはずのものを、届ける。
「〝マリアちゃん、すごく嬉しい……。けど、駄目だよ。だって、これが私の見つけた『みんなにも負けない想い』だから……。私とカナミが『本物』だった証明だから……。だから、駄目なんだ。ごめんね……〟」
その声を聞き、マリアは幽霊と出会ったかのように驚き、眉を顰めて悲しみながら喜び、苦笑していく。
「ええ……。きっとラスティアラさんなら、そう言うんでしょうね。それがカナミさんだけにはわかるんでしょう」
「ああ……。ラスティアラなら、必ずそう言う」
「卑怯ですよね。そんなことを言われたら、私たちは何も出来ません」
僕の中にある魔石を知っているマリアは、それをただの物真似でなく、伝言と認識した。
擬似的にだが「もう一度」のお願いが果たされ、悔しそうにマリアは笑った。
「本当は、わかっています。もう私にできることはないって……。間違いなく、ラスティアラさんは私に、ただ笑って日々を過ごして欲しいって、願ってることも……。でも、こうやって毎日、ラスティアラさんのことを考えていないと、怖いんです」
「怖い……?」
「このままだとラスティアラさんを、忘れてしまいそうで――、怖い」
マリアが恐れていたのは『死』ではなく、『忘却』であると告白される。
僕を通してラスティアラを見ながら、その理由を語り始める。
「あの最後の戦いが終わった日……。氷付けの世界が溶けて、カナミさんに起こして貰って、ディアやスノウたちと一緒に笑い合ったときは……、まだ現実感はありませんでした。大事な人が一人欠けてしまったと、まだ信じてはいませんでした」
二ヶ月前から、一つずつ丁寧に。
なぜラスティアラを生き返そうと、魔法の本を読み始めたのか。
その経緯を、その忘れたくない想いを、いま纏めて僕に伝えていく。
「その次の日……、二日目の朝ですね。自然と私の目は、ラスティアラさんの姿を探していました。当然のように、まだ生きているかもしれないって思ったから……。ふらっと水浸しの街を歩いて……、でも、歩いても歩いても、どこにもラスティアラさんはいませんでした。大聖堂を探しても、一緒に冒険した場所を探しても、手を握り合って眠った家を探しても、どこにもない。本当にどこにもいなくて、少しずつ不安になっていくんです……」
非日常が終わったとき、少しずつ現実感は襲ってくる。
日数まで正確に覚えているのは、それほどまでに鮮烈だったからだろう。
「そして、その日の夜、『夢』を見るんです。いつものみんなが揃って、迷宮を探索していたときの夢です。そこには、当然のようにラスティアラさんがいてくれて、パーティーの先頭で仕切っていて、とても楽しそうに笑っていて……、活き活きとモンスター相手に戦っていました。ただ、夢から覚めると、ラスティアラさんはいません。いないから、すぐ探しに行きます。……けど、どこにもいない」
石碑に刻み込まれた文字を読むように、マリアはラスティアラを喪ったときの記憶を、独白し続けていく――
「四日目になると、もう『夢』が夢であるとわかっています。それでも、夢を見ている間は、夢と気づかないで済むから……。ずっと夢を見ていたくて、ベッドから出ませんでした――」
「五日目は目覚めると同時に、ラスティアラさんがいないって理解して、息が詰まりそうになります。とても呼吸が浅くて、苦しくて、胸が潰れそうで……、探してもいないってわかっていても、またラスティアラさんの姿を街で探してしまう。そんな日が続いて――」
「ふいに涙が止まらなくなるんです。今度は目が覚めると同時に、ぼろぼろと泣いて、理解します。本当に、ラスティアラさんは死んだんだなって……。ベッドの中で毛布に包まって、この現実こそが『夢』であって欲しいって、願いました――」
その気持ちは、痛いほどわかった。
全く同じとは言わないけれど、それは仲間たちで共有できる痛みのはずだ。
「マリア、僕もだよ……。たぶん、みんなも同じだったんだと思う。二ヶ月前は、仲間たちで集まるにしても、結構バラバラだったから……」
「はい。最初の十日くらいは時間に余裕があったのに、集まりが悪かったですよね。本当はみんな悲しくて……、でも街は戦勝ムードだったから……。できるだけ暗い顔を表に出さないように、必死だったんだと思います」
「ディアは特に僕が酷かったって言っていたけど……。正直、みんな酷かったよ」
「ええ、みんな酷いものでした。ふふっ」
話の内容は暗い。だが、その思い出をマリアは笑って話せていた。
つまり、『死』そのものを乗り越えている。
それだけの成長を、マリアたちは長い『冒険』の中でしてきた。
だから、マリアにとって問題なのは、この先に待つもの。
「暗い顔を表に出さないようにしていたのは、このままじゃいけないって、みんなわかっていたからだと思います。立ち直って、次に向かう必要があるって、ちゃんとわかっていたからです。……最初に立ち直って、みんなを引っ張ってくれたのは、義姉さんでした」
この『冒険』で一番成長したのは誰かと問われれば、それは彼女と断言できる。
まだ周りが頼りになる人ばかりだと手を抜く悪癖は残っているが、スノウ自身が頑張るしかないってときは、本当に頼りになる。
「私を見かねたスノウさんは、手を取って誘ってくれました。――もう私たちは、一人じゃない。みんな一緒だから、手を繋いで、前を向こう。これからは家族として、歩いて行こうって……」
そして、マリアはウォーカー家の養子となった。
スノウは義姉として、マリアの力になろうとしてくれたのだ。
それは、たぶん……。
かつて自分が、義兄から貰った優しさを真似ているのだろう。
スノウがマリアを見るときの目は、少しだけグレンさんに似ている気がする。
「ここまではいいんです。ここまでは、本当によかったんです。私が怖くなったのは、それから一ヶ月ほど経ったとき――、目覚めのいい朝が訪れてから。……とてもいい朝でした。少しずつ立ち直り始めた私は、もう夢を見ることもなく、不思議とよく眠れたんです。その日の太陽は眩しくて、食べるものは美味しくて、身体も軽くて……、とても楽しく一日を過ごせました」
話す内容は明るい。けれど、それを口にするマリアの表情は、真逆の暗さだった。
いまにも泣き出しそうなほどに顔を歪ませて、続きを話していく。
「――新しい未来に向かって進めているということは、ラスティアラさんを過去に置いていくということでした。私たちが前に前に進めば進むほど、ラスティアラさんは後ろに後ろに遠ざかっていく。あれだけ悲しかったのに、ラスティアラさんのいない生活に耐えられるようになっていく。忘れそうになる。そんな自分が、本当に嫌で……、嫌で嫌で嫌で……」
「だから、ラスティアラの為に、本を……」
マリアは再会するという『夢』を追い続けることで、ラスティアラを忘れないようにした。
その答え合わせに、マリアは頷いた。
きっと本当に生き返らせられるとは、本気で思っていなかったはずだ。
しかし、必死にラスティアラを生き返そうとしている間は、身近に感じられて、安心できたのだろう。
「私は家族を一度、魔法の『代償』で忘れています……。それは記憶という大きな器に、ぽっかりと空いている真っ黒な穴です。そこにラスティアラさんも少しずつ呑み込まれていくのが、本当に怖い……」
家族の思い出を失った経験は、彼女のトラウマだ。
あの『火の理を盗むもの』と『親和』できるマリアは、『忘却』に対する恐怖が誰よりも強い。
しかし、だからこそ、同じトラウマを持つ僕が、彼女を安心させることができる。
そう僕は僕を信じて、話す。
「マリア、僕も家族の記憶を失った……。大事な人を助けられないまま、その名前を忘れてしまったこともあった……。――けど、いまは全てを思い出して、ちゃんと覚えている。それは僕が忘れたくないって願って、必死に思い出そうとしたからだ。だから、もしマリアが忘れても、願い続けていれば、きっと最後には思い出せる。だって――」
僕は話しながら、懐かしい顔と名前を思い出す。
それは幼馴染の湖凪ちゃん。そして、『理を盗むもの』たち――中でも、『火の理を盗むもの』の記憶が、いまは色濃い。
そのアルティと話しているつもりで、真実を、伝える。
「――『マリア』に、『忘却』の『呪い』はない」
千年前、『火の理を盗むもの』の『呪い』は、大切な人の記憶ほど優先して燃やした。その記憶をマリアは、体内の『火の理を盗むもの』の魔石から読み取ってしまい、こうも不安が膨らんでいる。
「私に『呪い』は、ない……?」
「ああ、ないんだ。……あの『呪い』みたいな『世界』の意地悪さえなければ、たとえ一度は忘れたとしても思い出せる。僕が思い出せたんだから、マリアなら絶対に大丈夫だ」
そう言って、僕はマリアに近づき、その机の上の手に自分の手を――いや、ラスティアラの手のつもりで重ねた。
言葉だけでなく、体温も感じて、マリアの表情が少しずつ和らいでいく。
「……っ? な、なんだか……、ラスティアラさんを感じる気がします。いま、魔石はカナミさんの中に?」
「僕の中にある。ずっとマリアがアルティを感じてきたように、僕もラスティアラを感じてる」
「アルティもラスティアラさんも……、いまここに……」
体温から『繋がり』を感じたマリアは、暗い表情に明かりを灯していく。
『忘却』の恐怖が和らいでいっているのがわかる。そして――
「ありがとうございます、カナミさん。……少しだけ安心しました。確かに、忘れてしまっても、思い出せばいいだけの話ですね。あのカナミさんが出来たのなら、私にも出来るって気がします。……最悪、気合で思い出しましょう。気合で」
確かに『呪い』はないことを、その『炯眼』をもって僕の心から見抜いてくれた。
少し僕に失礼な納得の仕方だと思ったが、彼女らしい皮肉が戻ってきたことに安心していく。
「いや、流石に気合では……、思い出せるのかな?」
「気持ちの問題です、気持ちの。いま、やっとそれがわかりました」
「そうだね……。気持ちの大切さは、僕もよく知ってる」
「はい。大切なのは、この気持ち……」
そう言って、マリアは微笑を浮かべた。
そのとき、いつの間にか冷くなっていた空気が、温まり直した気がした。
マリアは一呼吸置いて、その席から立ち上がる。もう本を読む必要はないといった様子で、机から離れていき、ベッドに向かっていく。
「ちょっとだけ話し疲れました……。そろそろ休みます……」
その間、マリアが僕の手を離すことはなかった。
「カナミさん……。これから眠るので、握っててください。どうか、このまま……」
離さず、ねだった。
子供のように。
あの陽滝の《冬の異世界》のときと同じようで、少し違う形で。
「なんだか、こうしてると……、ラスティアラさんが、いてくれるような気がして……」
「うん、わかってる」
僕もマリアも規格外の魔法使いだからこそ、魔法的な感受性が強い。
逆に僕は、この繋がった手の向こう側に、『火の理を盗むもの』アルティがいるような気がした。
あのファニアという街で、人々の祈りの犠牲となっていた少女の姿が、マリアと重なる。
「今日は、よかったです……。相談が、できて……。ちゃんと本音で話すことが、出来て……」
「僕もよかった。本音で話せて、マリアを安心させることも出来た」
マリアはベッドに入って、目を瞑った。
僕は近くの椅子を引き寄せて、彼女が眠りにつくまで手を握り続ける体勢に入っていく。
「お休みなさい……。私の大好きなご主人様……」
「お休み、マリア。……ただ、ご主人様呼びは、これっきりでお終いにしよう。もう本当に勘弁して」
「ふふっ……。はい……」
その冗談を最後に、会話は途切れる。
マリアは眠りについた。
『死』も『忘却』も乗り越えて、安心して、『夢』の中に落ちていったのを確認して、
「ごめん、『マリア』。それと、本当にありがとう……。いつかの約束を守って、ずっと僕たちの力になってくれて……」
マリアの聞こえないところで、僕は『マリア』に謝罪とお礼を言う。
そして、千年前の『焦げ付いた頁』を捲りながら、その意味を僕は読み直す。
〝――千年前。
僕とティアラが、ファニアの街を開放した日。
『理を盗むもの』との別れ際に、僕たちは約束をした。
「あのっ、カナミ様、いつか――!」
冷静な『闇の理を盗むもの』ティーダと違って、『火の理を盗むもの』アルティは最後まで必死に訴えた。
恩人である僕に対して、魂から誓っていった。
「――私もいつか、必ずカナミ様のお役に立ちます……!」
そのときの僕は、彼女の宣誓を軽く見ていた。だから、簡単に『呪術』開発の手助けは必要ないと、首を振って――そこで彼女の話は終わったと思っていた。
だが、決して終わってなどいなかった。
ちゃんと約束は交わされていたのだ。
「――カナミ様、また会えますか?」
「それは……もちろん。また会えるよ。約束する」
「はい。それでは、またいつか……」
その日から、ずっとアルティは願い続ける。
たとえ、守りたかったものを『忘却』してしまい、自らの名前さえも『忘却』してしまい、伝えたかった言葉も『忘却』してしまい、あらゆる全てが炎に換わってしまっても、僕と同じように心の底で願い続けた。
その物語を執筆していたティアラは、大陸の底に、こう書く。
全ての最後の頁を知る陽滝は、その結末を、こう評する。
――それでも、千年後に彼女は辿りつきました。
確かに、『火の理を盗むもの』は最期の最後に見つけたのです。
『マリア』という『真実』を――
元々『火の理を盗むもの』の『アルティ』は、苦しむ母の為に騙った名だった。
その偽名によって、彼女の本当の名は『忘却』されてしまった。
けれど、千年後に彼女は見つけ出した。
あの日。
燃え盛る丘の上での『第十の試練』で、既に。
『キリスト』と『アルティ』でなく、『カナミ』と『マリア』の二人は、千年前の再会の約束を果たしていた――〟
すうすうと寝息をたてて、マリアは安心し切った表情で眠っている。
その寝顔を見ながら、僕は心に戒める。
いましがたマリアと話した全てが、千年前の『マリア』から『始祖カナミ』に向けられたものでもあることを――
決して、忘れない。
そう最後の頁に書き記して、僕は大事な九冊目を閉じる。




