400.『相川渦波』の最後の戦い
セルドラがくれた最後の時間だが、そう多くはない。
スキル『読書』の指先が、もう残り頁はないと感じている。
――これが最後の頁だとわかった。
胸から血が溢れ、地の底に広がっていく。
満ちた器を倒したかのように、目を覆いたくなるような血溜まりができていた。そのすぐ近くでは、芯を失った世界一の巨木が、軋みながら倒れ始めている。もう間もなく、この最下層は崩壊するだろう。
「ねえ……、まだ……。聞いてる……?」
その前に、私は宙に向かって問いかけた。
ずっと見守ってくれている私の『たった一人の運命の人』に――
ただ、返答は聞こえない。
聞こえるはずがない。
〝私は一人きりで死ぬ〟と、千年前から決まっているからだ。
けれど、私は自信を持って口元を緩ませて、続きを話していく。
「私は……、ヒタキちゃんを助けたい。結局わかってもらえなかったけど、譲ってもらえたことを、本当に感謝してるから……」
そのために、私は全力で戦った。
だから、どうかカナミも諦めないで欲しい。たとえ、それが【理】として不可能でも、『糸』に阻まれていても、『全て』が誰かの手の平の上だったとしても、本気で挑んで欲しい。きっとカナミなら、私以上の演者になれる。
「ティアラ様も、一度譲ってもらった恩を返したいって願ってた……。だって、譲って貰った『冒険』は、閉じ込められていた私たちにとって楽しかった。私たちの本は、本当に楽しかったんだ……」
その『冒険』に、手を伸ばす。
それは『持ち物』なんて便利な力のない私が、常に持ち歩いていた唯一の持ち物。
懐に忍ばせた一冊の本――とはまだ言えない紙束だった。この数年、少しずつ溜めてきた私の『冒険』の記録に触れる。
装丁しようと思って結局できなかった『私の手記』には、まだ余白があった。
最終章と銘打たれたまま、まだ書き切れていない白紙の部分だ。そこに書きたいことは、たくさんある。だが、流石に、いま続きを書く暇はない。
それが私の最後の『未練』に――
なることは、決してない。
この本は私がいなくなってても、きっと完成する。
――続きは、カナミが書く。
そして、カナミが書き続けてくれる限り、『私の手記』は続く。
『たった一人の運命の人』のどちらかが欠けてしまっても、ずっと物語は続いていく。
大聖堂に閉じ込められていた頃、あの散らかった青空教室の中、そんな本があった。最後の頁はハッピーエンドで、とても二人は幸せそうに笑っていた。だから、いつかまた読み直そうと、その本を常に私は、手の届くところに置いていた――
「あぁ……。いまなら、みんなの気持ちが少しわかる気がする。千年後の『理を盗むもの』たちはみんな、ティアラ様でもヒタキちゃんでもなく、カナミを待ってた。自分の最後の頁は決まっていても、カナミに紡がれたいって望んでた……」
最後の頁を勝利で彩りたいならば、『糸』を操るティアラ様とヒタキちゃんに頼めばいい。
けれど、全員が揃って、カナミを頼った。
それは弱い彼だからこそ、自分たちの敗北を誰よりも大事にしてくれると信じられたからだ。
カナミになら、負けて、託するに値する。
自らの人生と、本当の『魔法』を、カナミにならと――
「――そのみんなの『魔法』を信じて、カナミ」
それを最後に伝えたかった。
ティアラ様と私の『魔法』も含めて、信じて欲しい。
みんなの『詠唱』を詠めるのは、もうカナミしかいない。
みんなの『魔法』の真価は、カナミだけがわかるようにした。
いつも本を最後から読んでいるヒタキちゃんには――絶対に読めない力。
「あ、あぁ……」
これで、もう言い残すことはない。
あとは本を閉じるだけなのだが――
「…………」
まだ私は生きている。
思っていたよりも、自分がしぶとくて少しだけ困ってしまった。
ティアラ様が万全を期して、往生際が悪くなるように作ってくれたのだろう。ただ、この空いた時間を、私は持て余す。
痛みは限界を通り過ぎていて、辛さはない。
穏やかな達成感だけが、胸中を漂っている。
これ以上の言葉は、全て蛇足になるだけ。
そうわかっていたけれど、その言葉は私の器から零れ出た。
「…………。……あと、カナミ、大好き。大大大、大好きだよ」
もうわかり切っていることを繰り返した。
そして、改めて口にすると、少し恥ずかしかった。失血で青ざめた顔に血は通わないけれど、失った体温が少し戻ってきた気がする。
――温かい。
最期は、本当に温かくて温かくて温かくて、温かい気持ち。
暖かい海に沈んでいくかのように、ゆったりと意識が落ちていく。
――いま、私は安心しているのだろう。
なにせ、私とカナミは『運命の赤い糸』で結ばれた『たった一人の運命の人』同士。
私は世界で一番カナミが好き。
カナミも世界で一番私が好き。
その愛は重く深くて、誰にも負けない。
一人ずつ順番に、ディアでもマリアちゃんでもスノウでも、あのティアラ様でもヒタキちゃんでも、絶対に届かないって確認した。あの『世界』すらも認めた【理】。
と最後に、最高の心地良さを噛み締めていたとき――
『―――――――――――』
私の蛇足の『告白』に、届くはずのない返答が律儀に返ってきた。
それは聞こえない。
けれど、わかる。
わかり切っていることに、わかり切っている『答え』を返してくれた。
それがもう、私にとっては――
ああ……、ははっ。
どうしても、口元が緩んでしまう……。
同時に瞼も緩んでいく。
力が抜けて、少しずつ……、幕引きのように、視界に黒いカーテンが降りていき、光が細くなっていく……。
もう目を開ける必要を、全く感じない……。
だって、いま私は最後の頁で、最高の一文を読んだ……。
「うん……、わた、しも……――」
答えて、私は目を瞑った。
その瞼の裏には、私の『夢』が見える。
いつか全ての戦いを終えた私とカナミが、連合国の街を歩いている。二人で恋人同士のように手を繋いで、笑い合って幸せそうに『冒険』の続きを紡いでいる。
そんな未来を信じて、自分の意識という本を手離し――落とした。
「カナミを愛してる――」
それがラスティアラ・フーズヤーズの最後の頁となった。
生まれたときから決まっていた終わり。
その一文を抱いて、私は死ぬ――
◆◆◆◆◆
それを、ずっと僕は見守っていた。
「あ、あぁ……」
その戦いを、その敗北を、その死を、とても遠く、届かないところから視ていた。
けれど、誰よりも間近で、感じていた。そして、答えてしまった。決して言ってはいけないと、わかっていたのに――
僕は「ラスティアラを愛してる」と口にしてしまった。
その律儀な返答が、ラスティアラの最後の頁となった。
〝――愛してる。
その一文を抱いて、私は死ぬ。
ここで永遠に、ラスティアラ・フーズヤーズは『夢』を見続ける――〟
それがラスティアラの『夢』だったと、僕は『過去視』で視た。
僕と出会った瞬間から――いや、ずっとずっと前、子供の頃どころか生まれた瞬間から、ラスティアラは『夢』を見ていた。それがあれば幸せで、それがないと不安で、それだけが人生だったと、ラスティアラ自身が言っていた。
――だから、もう口にするしかなかった
こうして、僕はラスティアラの死を看取る。
ただ、未だに僕の『過去視』の目は開いたままだった。
ラスティアラの姿を一秒たりとも見逃すまいと、《ディメンション》の特殊な視点で状況を把握し続けている。
宙から俯瞰して見ることで、はっきりとラスティアラの姿を捉えている。
綺麗な真っ赤な円の血溜まりの中央で、煌く長髪を円状に広げて、眠るように動かないラスティアラ。
もう呼吸をしていない。
心臓が動いていない。
誰が見ても、もう……死んでいる。
それを『切れ目』も確認する。
僕と同じ視点で見守っていた『世界』も、取引の成立を認める。
相川渦波の持つ【最も愛する者が死ぬ】という『呪い』の成立だ。
それによって、いまラスティアラの魂が『世界』に捕まれた。『呪い』による死によって【もう何があっても生き返らない】と、世界の【理】から確定したのだ。
それが『次元の理を盗むもの』として成長した僕にはわかってしまう。
僕が生きている限り、二度と『世界』はラスティアラの死から目を離さない。
それは僕とラスティアラは、二度と同じ時間を歩めないということに他ならない。
少しずつだが、ラスティアラとの別れに実感が伴っていく。
思えば、ラスティアラの最期は、ノスフィーと同じだった。
死の間際まで、自分ではない誰かを心配して、「助けたい」と口にしていた。まさしく、二人は同じ血を分けた――そっくりの姉妹だった。
そして、その姉妹はどちらも、もう二度と生き返らない。
どちらも『代わり』となったから、僕が生きている限りは、絶対に会えない。
たとえ、何らかの方法があったとしても、それを為せば二人の願いと『夢』を否定することになってしまうだろう。誰よりも濃い『未練』を作ることになる。
くらくらとする。
悲しみではなく、その仕組みを姉妹の運命に書き込んだ敵に怒りを感じた。
『うん、これで終わり。……色々あったね』
その頁を書いた敵の声が、『過去視』中だが聞こえる。
散々、僕の『過去視』を利用して、真実を見せ続けた少女ティアラ・フーズヤーズだ。
彼女が終わりと宣言して、『過去視』の視界が遠ざかっていく。
ラスティアラの最期を見届けた以上、僕に抗う理由はなかった。ただ、遠ざかったあとは、現在の僕まで戻るのかと思いきや――そうはならなかった。
僕と繋がっている例の『運命の赤い糸』が、引っ張っていく。ラスティアラの書いていた『手記』を、このタイミングで読み上げていく。
それはラスティアラが僕と一緒に『冒険』をした記録……。
〝――ああ、やっとだ……。
やっと大聖堂を抜け出して、カナミと仲間になれた……。
その上で、今日は生まれて初めて、お祭りに参加した。
『聖誕祭』の前夜祭を、みんなで一緒に歩いて、遊び回った!
何もかもが初めてで、全てが本を読んだ以上に新鮮だった。いや、まるで本の中に入った感覚だ。射的に、魚掴みに、食べ歩き。まだ出会ったばかりの私たちだけれど、お祭りのときは物語の仲間のようだった。
カナミと二人きりになってからは、色んな話をした。
私の元となった聖人ティアラ様と世界樹の話。
それから、ティアラ様の『魔法』の話をしようとして、カナミの世界には存在しないってわかって……そこからはカナミの世界の話ばかりで、初めて聞く歴史や科学を教えてもらった。ただ、その中で、一番楽しかったのは英雄譚。
やっぱり、私は本が好きだ。
本が大好きだから、いまも私は、こうやって私の物語を書いている――!〟
その念の入りように対して、僕は「必要ない」と答える。
だが、ティアラは「必要だよ」と返す。
〝――今日はカナミと初デートをした。
十一番十字路で『告白』し合って、最初のデートだ……。
場所は、迷宮を選んだ。単純に強くなりたいというのもあったけれど、なによりそれが「私らしい」って思ったからだ。英雄譚のように、迷宮のモンスターたちを斬って斬って斬って回った。途中、カナミが「こんなのデートじゃない」と愚痴っていたが、「なら必殺技を考えよう」って話をすると、すぐに顔を明るくして、活き活きし始めたのが面白かった。
本当に私とカナミは気が合う……。
話をしているだけで、楽しくて――そして、落ち着く。
最後はカナミに押し切られて、私たちは手繋ぎデートもした。そのときのことを思い出すだけで、身体が熱くなる。そして、最後に私たちは約束した。忘れずに書く。
「――だから、カナミ。これからもずっと一緒にいよう?」
「――ああ。ずっと一緒だ、ラスティアラ」
そう約束した。
やっぱり、私はカナミが好きだ。その好きって気持ちに、もう不安はない。
カナミが好きカナミが好きカナミが好きって、何行でも、ここに書ける――〟
ラスティアラが赤面しながら書いているのが、『過去視』をしなくてもわかる。
おそらく、いまティアラは自信のあったところを見せているつもりなのだろう。
上手い脚本で、とても綺麗だと自惚れてるに違いない。
――ああ、胡散臭い。
上手いからって、ラスティアラが生き返ることはない。
綺麗だからって、『呪い』が軽くなるわけではない。
ただ、おまえの自己満足以外の何ものでもないと、否定することが僕にはできない。
この思い出を否定するのは、ラスティアラを否定するのと同じだ。
これは僕とラスティアラの大切な物語だ。だから、止められない。
〝――これで『最終章』だと思う……。
とうとう一章で話した世界樹のある大聖都まで、私たちは辿りついた……。
おそらくだけど、これが最後の戦いになる。その直前、私はカナミと館のバルコニーで話をした。決戦前の夜に、私たちは確認し合っていく。いつか、この『手記』をカナミが読み直すときのために、きっちりと書き残してやろうと思う。このとき、確かに私たちは――
「――私はカナミが死んでも好き」
「……僕だって、そうだ。おまえを絶対手離さない。たとえ、死んでも」
そう誓い合った。
そして、最後の戦いの舞台となるフーズヤーズ城に、私たちは向かっていく。
千年前の因縁を片付ける為に、カナミと手を繋いで――〟
ここから先は白紙。
敗北に次ぐ敗北で書き留める暇はなく、『手記』には何も書かれていない。
ティアラの読み上げが終わった。
そして、ラスティアラの人生を『過去視』し終えて、僕の意識は元の場所に戻っていく。
『本土』のフーズヤーズ城ではなく、『開拓地』のフーズヤーズ大聖堂へ。
その奥深く。灯りは一つしかない石造りの部屋まで。
そこで二人は向かい合っている。
ラスティアラ・フーズヤーズと相川渦波の二人だ。
ただ、当然だが、ラスティアラは死体となって横たわり、ぴくりとも動かない。
僕の左手は、彼女が抱えた本――綺麗に装丁された『英雄ラスティアラ・フーズヤーズの手記』の上に乗っていた。右手は、ラスティアラの右手を軽く握っている。全く血が通っておらず、凍ったように冷たい手だ。その死の温度に触れて、ゆっくりと僕は彼女から手を離していく。
もうここにラスティアラはいないと認めて、その本だけを受け取る。
その上で、僕は『答え』を返していく。
「ティアラ……、僕はおまえが許せない。許したくない……」
『うん』
短くティアラは答えた。
それは最初から決まりきっていたかのように、とても単調な応答だった。順番に僕は、かつて『一番大切なもの』だった人たちを捨てていく。
「手をかけた陽滝も、許せない……」
『うん』
その間も、ずっと僕の視線はラスティアラに固定されていた。
思えば、『過去視』の前から、ずっと彼女の寝顔だけしか見ていない。
その穏やかに眠る彼女の前で、僕は『詠唱』する。
「――『もう僕は、ラスティアラしか見ない』」
『……うん』
この地下室に入ってから、ずっと視界は狭まり続けていた。
狭窄し続けた結果、とうとうたった一つしか見えなくなる。
僕の中で、器に亀裂の入る音が鳴った。
いま、僕は全ての『呪い』を支払い切り、『次元の理を盗むもの』として完成したのだろう。
そして、それを祝うように、背後から冷気が流れ込んでくる。
釣られて、振り向く。
丁度、階段から彼女が降りて来ていた。
ラスティアラを死に追いやった相川陽滝が、静かに階段を歩いている。その歩いた跡には、氷柱のような霜が立ち昇り、石造りの床と壁を白く染めていく。
陽滝は開けっ放しとなっていた扉をくぐって、部屋の中に入ってくる。
目覚めた僕に向かって、笑いかけながら挨拶を投げる。
「おはようございます、兄さん」
「ああ。おはよう、陽滝」
いつもの挨拶を、いつもの冷たさの中で交わした。
もう身体が芯まで凍りつきそうになることはない。
「……全て、読み終わったみたいですね」
僕が喋り出すより前に、陽滝は状況を理解していた。
よく目を凝らせば、彼女の長い髪の先から白い『糸』が見えた。
地上と比べると、はっきりとは見えない。けれど、いくつかの『糸』は溶けて液状になりつつも、確かに地を這って、この部屋を支配しようとしていた。
あの白い庭がまた再現されていく中、僕は『答え』を探す。
正直、頭の中は色んな記憶が混じっていて、ぐちゃぐちゃだ。
だが、同時に冷静でもあった。
おそらくだが、いま陽滝と向かい合った瞬間、『戦い』と認識したからだろう。ステータスの『賢さ』が――僕の体内にて『変換』された魔法の神経たちが、『戦い』の勝利のために限界まで働く。
「ああ、順番に視た。……僕たちが『異邦人』として呼ばれて、『使徒』たちと出会った千年前。ティアラと一緒に『冒険』をして、『世界奉還陣』を経て、僕たちが世界から退場するまでの物語も。一年前、僕が『迷宮』で目覚めた本当の意味も。そのときから、ずっとラスティアラが隣にいてくれた理由も――」
異世界に呼ばれた『異邦人』の僕たちが、何をしてきて、どのような影響を及ぼしてきたのかを知った。
なにより、いま、その結果が、この部屋に集約されている。
「――あの日、おまえがラスティアラを殺したことも。全部」
しかし、それを聞いても陽滝の表情は全く変わらない。
動いているのは、足元だけだった。
白い『糸』が、じわじわと地面を侵食して、魔法の浅瀬となっていく。滑らかな『糸』の束が、波打つように蠢いていた。
そして、僕の足元から数本の『糸』が伝ってきた。
僕の脚に絡まり、腰を這い上がり、胸と首を通って、頭まで届き――繋ぐ。その『糸』の一本一本は重く、鎖に繋がれているような錯覚がした。
その鎖の所有者は心配そうに、僕に聞く。
「いま、階段を上がれば、全て忘れることができます。上に戻る気はありませんか?」
陽滝は自分が降りてきた後方の扉を指差したが、僕は小さく首を振る。
「……ない」
「『夢』は嫌いですか? あの《冬の異世界》は、兄さんの魔法です。いわば兄さんが望んで、兄さんが作った優しい幻です」
陽滝は用意していたかのような説明を、口にしていく。
悪意はないと主張して、あれこそが新しい『世界』の形だとでもいうように堂々と喋る。
「あの《冬の異世界》の中では、誰もが確かな自由意志を持てます。全員が幻を共有することで、現実と変わらない時間を過ごせますからね。そこでディア、マリア、スノウたちといった不幸の生まれだった者たちが……少しずつ前を向いて、新たな人生を歩き出せていました。もちろん、兄さんも含めてです。そこに嘘は一切ありません」
ディアはフランリューレという親友を得て、自分の故郷に帰ることができていた。
マリアはスノウと姉妹になり、ウォーカー家の一員として居場所を見つけていた。
あれは「もし、あの日のことがなければ、実際に現実となっていた世界」だ。
その再現が、陽滝の計算能力と《冬の異世界》ならば可能だったと、そこで過ごしていた僕は実感している。
言ってしまえば、「気づきさえしなければ、死ぬまで現実と全く同じ人生を歩める」ように、あれはできている。
もちろん、それを僕は受け入れることはできない。
たとえ陽滝が精一杯の気遣いと優しさを持って、全ての生き物に敬意を払った上で、あの《冬の異世界》を使っていたとしても、あそこは足りていなかった。
「……でも、ラスティアラはいなかった」
気づいた以上、もう戻ることはできない。
「いまの兄さんなら、わかるはずです。いなかったことになるまでが、彼女の役目でした。兄さんの【最も愛する者が死ぬ】という条件をクリアして、いなくなるために、彼女はティアラに作られたんです」
まだ淡々と説明は続けられる。
「これは兄さんだけの話じゃありません。ディアにとっても、マリアにとっても、スノウにとっても、誰にとっても……ラスティアラ・フーズヤーズなんて『呪い』はなかったことしたほうがいい。――もう、彼女は重すぎる」
ラスティアラが聞けば、大喜びしそうな台詞だと思った。
だが、僕からすると、もう全てが煩わしい。
「非情に聞こえるかもしれませんが……、『作りもの』の人形とはそういうものです。最初から、そう決まっていました。いつか、汚れ、解れ、捨てるときがくる」
最後は『作りもの』だから、『対等』には見ないほうがいいという話だった。
それにだけ、僕は同意していく。
「ああ、そう僕も思う……。いつか、おまえは……、汚れ、解れ、役目を終えた『相川渦波』を捨てる。捨てて、忘れる」
陽滝は僕を『対等』に見ていないと、言い切った。
いまも彼女は、僕と話しながら僕を見ていない。
見ているのは、千年前からある計算と計画。それとティアラに語った『世界という本を逆から読める』という自らの『生まれ持った違い』くらいだろう。それ以外、陽滝は何も信じていないのが、いまの僕には読み取れる。
「兄さんは違――」
「僕も『作りもの』だ」
その陽滝の返答も『未来視』で読み取り、即座に否定した。
陽滝と向かい合い、『戦い』に入った瞬間から、もう無詠唱で次元魔法《ディメンション》を全パターン展開し終えている。《ディスタンスミュート》も、いつでも使えるようにしていた。
僕は自分が『作りもの』だったことを証明するために、右手を伸ばしていく。
差し込む先は自分。
それも心臓でなく、頭部にある脳。
その中に、魔法の腕を入れて、軽くまさぐる。
脳内には、細く長い『糸』が根を張り、編みこんだ格子のような模様ができていた。魔法の神経に魔力の信号が走り、僕の脳と外部を交流させている。
それを掴むために、完成した『次元の理を盗むもの』の力を使って、次元の位相を合わせる。
掴めないものを強引に掴み――さらに強引に引き千切り、頭部から引きずり出す。
複製の神経といえども、実際に繋がっていたものを切断した。その行為には、酷い痛みが伴っていた。……だが、痛みには慣れている。
すぐに僕は近くの『糸』にも手を伸ばして、同じく引き千切っていく。
それは陽滝の神経を絶っていくことなのだが、正面の彼女の表情は全く動かない。……僕以上に陽滝は慣れている。僅かに眉を顰めた僕よりも、遥かに上のレベルで。
僕は《ディスタンスミュート》で引き千切った『作りもの』だった証を、彼女の前で捨てながら続きを話す。
「――陽滝、最後に聞きたいことがある」
『理想』の『兄らしい兄』でなくなる前に、聞かないといけないことがあった。
ただ、もう僕の『未来視』の魔法は、次の頁を読み取っている。
〝――相川陽滝は自らの『作りもの』に過ぎない兄を、決して信じない。ゆえに、決して何も返さない。凍らせた二つの世界を解放することも、決してない――〟
そうわかっていても、僕は聞く。
ラスティアラの遺言を叶える為に。もう、ただそれだけの為に――




