333.これからの日々を
葬儀が終わったあと、またカナミは一人となっていた。
例の白い部屋に帰り、蹲り、膝を抱き、『湖凪』という名前を延々と繰り返す。その情けない光景を前に、私は安堵していく。
よかった……。
カナミのやつはどうでもいいが、これで幼馴染の少女の名前が忘れられることはないだろう。『カナミの幼馴染だった』という事実もなくなることもない。
私は対となる例の汚らしい小屋の中、胸を撫でおろし、大きく息を吐く。
そして、先ほどの妙な手応えについて、私は思い返す。
幼馴染の名前を取り戻す際、『理を盗むもの』に匹敵する魔法の痕跡を感じた。冷たく、重く、理不尽な魔力が、彼女の名前に干渉していたため、咄嗟に全力で『星の理』を使ってしまった。
その事実に私は新たな苛立ちをカナミに感じる。
今回の『親和』による追憶の目的は、これであるような気がするのだ。
最初は、私が本当の『魔法』に至るために、その人生の見直しを手助けするつもりなのかと思った。だが、実際はカナミの人生の見直しを手助けさせられている。
「くそ……」
イラつく。カナミのそういうところが私は大嫌いだと、何度も言っている。
大嫌いなやつに、実はこういう過去がありました。それも私が強く同情や共感ができてしまう過去。それで私の恨みが薄らぐと思うのか? カナミと二人で仲良く思い出話ができると本気で思うのか?
カナミは私の敵だ。それも大嫌いな敵だ。
私からハインさんとパリンクロンさんを奪った。お嬢と先輩も攫って、その心も持っていった。その顔と声で、私に役目を思い出させた。私の逃げ先をなくして、故郷もなくして、何もかもを壊した怨敵。カナミさえ現れなければ、私も連合国も、誰も彼も、平和のままだったのだ。
もう絶対にカナミの手助けはしないと心に誓っていく。
先ほどのはリエルと似た子だったので特別だ。
たとえ、あの葬儀のあと、学院でカナミが孤立していっても。
夜、言いようのない後悔に襲われていて、呼吸ができなくなっていても。
どんなに悲しくて、苦しくて、辛そうでも。カナミにだけは、絶対に――
だって、彼は幸せだ。
湖凪の死のあと、石の国で暮らすカナミを見て、心底思う。
どう考えても、カナミは私よりも幸せだ。
私と同じだけれど、本当に重要なところは対照的だ。
それは例えば、大切な人との関係。私のママと違って、そっちの父親はカナミを見捨てていない。
確かに、カナミは白い部屋に一人きりだが、ずっとではない。
時おり、あの男はカナミの様子を見に来ていた。
私のママと違って、悲しいときや苦しいときや辛いとき、ちゃんと見守ってくれている。
カナミは顔を伏せるだけじゃなくて、もう一度周りをよく見ろ。父も母も、決してカナミを見捨ててなんかはいない。あれは困っているだけの顔だと気付け。
すぐ近くに救いがある。
きっと近いうちに、カナミは父親と和解し、幼馴染を喪った絶望から解放される。
母親とだって分かり合えるはずだ。少し兄妹間で贔屓が出ているのは間違いないが、それは性別の差だろう。女親が息子でなく娘を可愛がるのは、そうおかしい話ではない。
間違いなく、カナミは恵まれている。
なにより、その例の娘――カナミの妹『ヒタキ』という存在が恵まれている。
ずっとカナミを見続けていたが、何度も彼女の姿を見かけた。
苦しむ兄を救おうと、光景の端に現れる。言葉は少ないながらも、なんとか励まそうと、決してカナミは悪くないと言ってくれる。忙しい日々の中でも、時間を割いてカナミと交流を深めようとしてくれている。
どれだけカナミが邪険に扱おうとも、めげずに何度も何度もだ。
その姿は他人の私から見ても愛くるしい。親譲りの眉目秀麗というのもあるが、その立ち振る舞いと仕草が、とても心に響く。ただ傍にいてくれるだけで、常人ならば感激で、あらゆる辛さを洗い流されるだろう。それほどの尊さがある。彼女が妹になってくれるのならば、何を支払ってもいい。そう思わせるだけの――
こうして、私がカナミを羨み続ける中――、月日は流れ――、カナミに例の一報が届く。
――それは父が捕まったという知らせ。
この石の国の法に反し、治安維持の組織に捕らえられたらしい。その事実を、何気ない朝にカナミは耳にして、愕然とする。
私が辿った結末と同じだ。
あれだけ恵まれていたくせに、もたもたしていたからカナミにも時が来たのだ。
これで永遠に世界で一番大切な人とは会えなくなる。
いつか聞こうと思っていた『もしも』も二度と聞けなくなる。
それにカナミは心のどこかでホッと安堵しつつも、すぐに現状を正確に把握して、顔を青ざめさせていく。
よし、面白くなってきた。
ここから始まるカナミの転落と暴走を、私は嬉々と見守る。
自分の同類が、多くの失敗を糧にして、全てを割り切っていくのを早く見たくてしょうがなかったのだ。
我に返ったカナミは、白い小屋の中で情報を掻き集めていく。
そして、その何もかも手遅れになったと証明するものを一つ見るたびに、世界の終わりかのような顔を見せ――その果てに、カナミは駆け出す。
もう両親には会えない。しかし、妹は別だという話を聞いて、追い立てられるかのように病院に向かった。
そこで病を患った陽滝が待っていた。
ここもまた白い部屋だ。カナミの家と同じように、白くて白くて、無駄のない部屋。
陽滝はカナミの来訪に気づき、目を開けて、軽く身体を起こしてから一言零した。
「兄さん……」
とても儚げな声だ。
兄妹は向かい合い、少しずつ近づいていく。
途中、カナミは震えながら、言葉を投げかけていく。
「ご、ごめん、陽滝……。ずっと僕がおかしかった……。八つ当たりしてたんだ。全部僕が情けないのが悪いのに、何もかも陽滝に当たって……。お兄ちゃんなのに、おまえを無視し続けて……」
和解へと向かっていく。
「……え? カナミのお兄さん?」
思わず、私も言葉を漏らす。
その光景には少し違和感があった。
ここまでカナミは妹を避けてきた。大切なものは父と母、次に幼馴染。妹との絆なんてなかったように見えた。確か、絆よりも、嫉妬や恨みのほうが大きかったはずだ。
それは練習不足の継ぎ接ぎな劇を見ているような感覚だった。
誰よりも劇を冷静に評価できる自信がある私だからこそ、その違和感は大きいものだった。
なによりも、一番妙に思うのは、
――これでは、一人でなく二人になってしまう。
正直、カナミと陽滝は、決定的な仲違いをし続けるものと思っていた。
だからこそ、私の世界の歴史で「『始祖』は『化け物』となってしまった『妹』を、自らの手で止めを刺す」という一文があると思っていた。
しかし、カナミ本人の記憶を再確認すると、和解している。
私は一人だったのに、カナミは二人だ。
これでは違いすぎる。私と『親和』するに相応しい過去でなくなってしまう。
その困惑の間も、二人の和解劇は続く。
「お願いします……。これからは兄さんと一緒に生きたいです。例えば……同じ学校に行きたいです。兄さんと同じ家に住んで、同じ部屋で同じものを食べて、同じところで眠りたい……。もう二度と、あんな生活は送りたくない……」
「……うん」
二人は抱き合った。
あれだけ愛した父との別離の日だというのに、もうカナミは妹しか見ていなかった。
もちろん、これに相当する出来事は、私の人生にはなかった。
ゆえに、この妹ヒタキが、本来のカナミの人生ならば存在しない異物であると、すぐに理解できてしまう。
この少女。『アイカワヒタキ』は世界さえも騙して、そこに存在するイレギュラーだと確信できてしまう。
「大丈夫だよ、陽滝。これからは一緒だ。僕たちはずっと――」
「……ふふっ。ああ、やっと私を見てくれた。……私の兄さん」
抱き締め合う力が強まる。
兄は全身で妹を包み込み、妹は兄の胸の中で吐息を漏らす。
肌と肌を触れ合わせ、心を繋げる兄妹。
そして、膨れ上がる――ヒタキの魔力。
「――っ!?」
その濃く、凶悪過ぎる魔力に私は息を呑む。
それは見ているだけで、心を犯されていくような畏怖の塊だった。
ヒタキの魔力の色には見覚えがあった。
つい先ほどまで私が使っていたものと同じだったからだ。
多くの属性を混ぜて混ぜて、極限まで混ぜ合わせたことで至った奇妙な黒。
何もかも吸い寄せる『星』の色。
――その『完成形』。
そう思った。
『闇の理を盗むもの』『地の理を盗むもの』『木の理を盗むもの』『風の理を盗むもの』の魔石を持っている私以上のものを、彼女は身一つで吐き出していた。その上、私以上に各属性の魔力を自由に扱う。その奇妙な黒の魔力から、器用に青く輝く魔力を抽出して、魔法を構築していく。
この魔法のないはずの世界で、彼女は魔法を使い、それを兄であるカナミにかけようとしている。
陽滝は出来上がった水属性の魔法へ、さらに白い魔力と黒い魔力を足していく。
どう見ても、精神干渉するタイプだ。
その魔法を前に、私は動揺で口走ってしまう。
「え、え……? これ、神聖魔法っすか……?」
彼女の扱う魔法の名前はわからない。
けれど、少しだけ見覚えがあった。属性は水をメインに光と闇だが、発動するのは神聖魔法に近い。
近いが……間違いなく、違う。
より酷い。というより、消費する魔力が濃すぎて、同じになるはずがないという状態。
これは『理を盗むもの』たちが使う力と同じだ。
どちらかといえば、魔法よりもスキルに近い。
生まれ持った特性の力。
世界の理。
「なんだ、この人……? 私と同じ【星の理】を……? いや、私とは比べ物にならなさ過ぎて、もう別の理としか……!」
そこにある『魔法』は『星の理を盗むもの』の手に余った。
それほどの魔法が、いま、魔力すら知らないカナミの身体に浸透していく。
その結果、口にされるのは――
「陽滝、絶対に僕が守るよ。陽滝が僕の一番大切なもの――たった一人の家族だ」
渦波の核心である単語。
『一番』。『大切なもの』。『家族』。
「――ふふっ」
それを聞き、ヒタキは兄の胸の中で微笑を浮かべた。
背筋が凍りつき、砕けて、粉々になるかのような寒気に私は襲われた。
知っている恐怖が全身を駆け巡った。
いまのはママが人を殺すときと同じ笑顔だ。
だから、魔法の効果はわからずとも、その狙いだけはわかった。
――この女は、カナミの大切なものを全部消して、そこに自分が成り代わる気だ。
その答えに至ったとき、かつてない怒りが私に芽生えた。
全身の寒気を覆すだけの炎が、腹の底の底に灯った。
さっきの一報……カナミの両親が捕まった? いいや、捕まっただけで済むものか。それだけで済ませるほど、こいつは甘い女じゃない。そんなものは一つの計画の始まりでしかないって、私は誰よりも知っている。ああ、間違いない。この女はカナミという命を奪う為に、容赦なく自分の父親も母親も消す気だ。幼馴染を殺したのと同じように! 殺して殺して、最後には『いなかったこと』にする気だ! 命どころか愛も立場も奪い、その価値全てを自分のものにする気だ――!
正直、カナミの心が弄られているのはどうでもいい。
同情する気はないし、そんな目に遭うだけの馬鹿だと知っている。いくらか頭を弄られたほうが多少マシになるのは、パリンクロンさんのときに実証済みだ。
だから、カナミを心配したわけじゃない。
決して決心が揺らいだわけじゃない
手助けをするつもりではない。
それでも、私は声を出す。
「カナミのお兄さん――!!!!」
先ほどの叫び以上に大きく大きく、死ぬ気で叫んだ。
また場所も時間も世界も、次元さえも飛び越えて、その声を届けようとした。
「ああ、陽滝……!」
しかし、カナミは魅入られたかのように、人生初めての愛と安堵に飲み込まれたままだった。妹の名前を繰り返し、ずっと視線はずっと胸中の陽滝に向かっている。
私の声はカナミに届かない。
そして、代わりに声が届いたのは、まさかの――
「…………。先ほどから、誰が――」
ヒタキが声に反応し、その視線を動かした。
カナミの腕と胸の隙間から、陽滝の凍りつくような双眸が輝き、私と目が合ったような気がした。
あ、ありえない。
絶対にありえない――!
いま私はカナミを経由して、記憶を回想しているだけの存在だ。カナミ本人ならばとにかく、ここにいる陽滝は情報の集合体のはずだ。
なのに、陽滝がいま、私を睨んでいるとしか思えなかった。
視線から意志を感じる。
濃すぎる魔力に比例する濃すぎる願いを感じる。
『関係ない』
『場所も時間も世界も、そんなことは関係ない』
『どの人間の思い出の中でも、私の許可なく兄を見るのは許さない』
『いまラグネ・カイクヲラは無許可の領域に入っている。絶対に許されない』
そんな不遜すぎる言葉が頭に浮かぶ。
それは私の知っている怖い女性たちとよく似た意志だった。
彼女たち特有の愛情を感じる。ただ、ヒタキには独占欲や支配欲はない。
『兄は私のもの』『それは当然』
そんなことは前提。
私のものであるカナミは、私の『理想』となるのは必然。
その上で、私と『同じ』になる運命を辿る。半身とか一心同体とか、そういう抽象的なものでなく、完全完璧完調な完成された『同じ』でなくてはならない。
『兄妹ゆえに』『永遠に』
そんな強固過ぎる意志。
その一端の一端の一端に過ぎない『想いの端』を理解しただけで――
「――なっ!?」
急激に世界が壊れていく。ぐずぐずと腐っていくかのように、異世界の石の国が全て崩れ始める。
さらに遠ざかる。回想は終わりだと言うかのように、そこから私の意識が切り離されていく。
咄嗟に、ヒタキを抱きしめるカナミに手を伸ばす。
どうにか、彼の記憶の続きを見て、言葉を届けてやりたい。
が、無理だ。
追憶に必要な『親和』が、いつの間にか解けていっている。
あのヒタキとかいう存在を認識して、認識された瞬間。
『ラグネ・カイクヲラ』と『アイカワ・カナミ』の『親和』が崩れてしまった。
これから、私とカナミの人生三節目に入るというところだったのに、あと少しで本当の『魔法』に届きかけたのに、何よりも千年前の歴史の『真実の真実』がわかりかけたというのに――ここで終わってしまう。
「く、くそっ――!!」
正直に言うと、まだ私は見ていたかった。
カナミについて、知りたいことがある。
これから、どうしてカナミが、私たちの世界に迷い込むのか。
歴史なんて言い伝えでなく、伝説の裏にあったものを直に見たかった。
もちろん、私自身についても、見直したいことがあった。
大聖都でカナミと過ごした日々。
彼を殺した瞬間と『頂上』の瞬間、その裏にあったもの。
それをカナミと二人で反芻して、『真実の真実』にまで届きたかった。
が、邪魔をされた。
邪魔をしたのは『異邦人』。カナミの妹である『アイカワ・ヒタキ』。
異世界からの来訪者でありながら、千年以上前から『魔法』を使えた少女。
長い人生の中、ずっと感じていた私たち『人』を裏で弄ぶ存在。
その端の端を、なんとか掴み、私は戻っていく。
過去でも異世界でもない。現実の世界。ラグネ・カイクヲラの戦場へ――
◆◆◆◆◆
「――起きろ、ラグネェエ!!」
身体を揺らされ、頭部を前後に動かされている。
同時に耳元で叫ばれる声が脳まで届き、徐々に意識が覚醒していく。
目を開くと、視界一杯を満たす白い光が襲ってくる。
明るすぎて、他の物が何も見えない。
地面も空もない場所に放り出されて漂っているような感覚だ。
どうにか私は光以外のものを見つけようとする。
「――おい、ラグネ! 俺が見えてるか!? ちゃんと治ってるか!?」
その声の主の姿は見えない。
けれど、誰かはわかる。
『血の理を盗むもの』ファフナーだ
彼が近くにいて、私の身体を揺らして、心配をしてくれている。
そのおかげか、徐々に状況が呑み込めてきた。
私は冷静に自分の右腕の先に、視線を移す。
そこには、世界で一番大切な人が横たわっていた。
「マ、ママ……」
先ほど、これに私は魅了され、我を失い、『カナミの記憶の回想』に連れ去られてしまった。
頭では絶対にありえないとわかっていながら、その都合のよすぎる展開を受け入れてしまったのだ。これで人生を終われると思った瞬間、全てを捨ててしまいそうになった。
「ああっ……!!」
悔しい。
その心の弱さが恥ずかしい。
『反転』の力の仕組みを理解していながら、騙された自分が情けない。
いまも、ご丁寧に、私の頭の中にはママの記憶が二種類ある。
一つは先ほど確認したままの日々。
もう一つは故郷でママと二人、騎士になることなく侍女のままで幸せそうに暮らしている偽りの日々。どちらも鮮明で、本物染みている。
さあ間違えろといわんばかりの捏造の数々だった。
当然だが、真実は一つ。私は騎士になって、ママとは再会できなかった。だから――
「これは違うっす……。ここにいるのはカナミのお兄さんっす……」
口に出して否定する。
それができたのは、ついさっき見たカナミの記憶が大きい。
『ヒタキ』が『カナミの父親』に成り代わろうとした光景は、本当に印象的だった。
おかげで、私のママをカナミが成り代わっていることがわかる。
これが先ほどの光景に相当するものだと、よくわかる。
もし、カナミの記憶を見てなかったらと思うと、寒気と吐き気がこみ上げてくる。大嫌いなカナミを大好きなママと思って、永遠に甘え続けていたかもしれない。
そこだけは感謝しないといけない。
その分だけは、お礼を言わないといけないと思った。
だから、少し迷った末に、私は真っ白な光の中で――演技をする。
カナミが言えなかったことを『代わり』に、カナミが愛した者たちの誇りのために叫ぶ。彼らしく、胡散臭く、気持ち悪く。でも、とびきり格好つけて、勇ましく――
「――聞け!! たとえ! 頭を弄られ、記憶を弄られ、道を弄られたとしても! 『大切な人』がいたという事実は変わらない! その感情を曲げられ、思い出を取り替えられ、好きと嫌いを『反転』させられたとしても! 『大切な人』への確かな想いは存在していた! それだけは変わらない! 何を見失っても、この魂に刻まれたものだけは見失うかぁあああアア!!」
それは私の世界の霧を払う叫びでもあった。
私のママへの愛情を利用して、私のママを奪うなんてことはさせない。
私は確認しにきたんだ。この『一番』高いところに真実を確認しにきただけだ。
そこにいないなら、いないでいい。そんなことわかりきっていたことだったし、覚悟もしてきた。だが、そこに偽物を置くことだけは許されない。私がママの娘であったことを、なかったことにするような終わり方だけは認めない。絶対に――!!
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
全力の咆哮で、息が切れた。
頭がくらくらして、目がちかちかして、いまにも倒れそうだ。
けれど、光を振り払えた。
もう世界は白くない。
血に塗れた赤い地面が見える。
真っ黒の夜空と多彩な星々が見える。
『星の理を盗むもの』の『呪い』は乗り越えた。
ママだけでなく、他のものを認識できる。
当然、隣で私の肩を持っているファフナーの表情も。
「もう大丈夫……。ありがとう、ファフナー……」
彼を安心させるために、優しい微笑を作る。
私の肩を掴んでいた両手に触れて、感謝と共に強く握り返した。
その声と行動にファフナーは安堵の溜め息を吐きかけ、すぐに眉をひそめる。
「……お、おまえ。いま、本当にラグネか? さっきので入れ替わったりしてないよな……? あいつなら、死んだ後に誰かを乗っ取るとかできても、おかしくない……」
どうやらファフナーは、いまの私の対応がラグネ・カイクヲラらしくないと思ったようだ。
無理もない。これは演技というより、本物を転写しているような状態だ。
ああ、そうだ。
私に演技の才能がないことは、リエルのおかげでよくわかっている。
これは魔力の性質と『親和』による転写――いわば、鏡に写った彼が動いているようなものだから、ファフナーでも見分けるのは難しいだろう。
「ううん、僕は僕だよ。間違えないで」
「え、え? まじでカナミなのか……?」
ファフナーが驚くのを十分に堪能してから、私は演技をやめる。
「――ははは、冗談っすよ。死体に手を突っ込んだら、ちょっとカナミのお兄さんの記憶が入ってきて混乱しただけっす。ラグネは死ぬまでラグネっすよー」
「……あ、ああ。そういうことか。いや、そんな感じなのは外からでもわかってはいたんだ。だが、余りに似ててな」
状況を理解していくファフナーの隣で、私は他人をからかう余裕のある自分に驚く。
いくつかあった心の鎖が外れ、行動の自由が増した気がする
なんとなくだが、その理由はわかっている。
自分の人生とカナミの人生を比べつつ見たことで、どちらも滑稽で愚かで無様なものと認めたおかげだ。
いまの私には、もう過度な――計算も嘘も間違いも期待も見得もない。
カナミは私に本当の『魔法』へ至らせる為、多くのものを教えてくれた。
回想しながらも、ぐちゃぐちゃになりかけていた心の整理をしてくれた。
だが、だからといって手助けをするつもりはない。
それだけは変わらない。
私は右腕の先に要るママへ向かって、冷たい言葉を放っていく。
「カナミのお兄さん……。そっちの人生のほうがきつかったからって、別に情けとかはかけないっすからね……」
多くのことを学びながらも、いま私は『人』としての強さもちゃんと残っている。
良心を捨てて、自分のために悪を成す強さがある。何の迷いもなく敵を殺し、善人だって食い物にできるだろう。
――強さと弱さ。相反するであろう力が、どちらもある。
「だって、教えてくれるはずだった『詠唱』……。あと一節足りないっすからね……」
結局、『親和』による回想は中途半端なところで終わらされてしまった。
原因はカナミでないとわかっていながらも、私は自分本位に彼を責めた。
もちろん、いまも頭の隅にヒタキのことは残っている。
唯一『水の理を盗むもの』の力が通用しない私は、彼女を認識できている。覚えていられる。敵として見なすことができる。
あれこそが世界の一番である『元老院』と『始祖』さえも裏で操る本当の敵。
ママと同類であるからこそわかる。あれは強い。そして、おかしい。もはや、世界そのものと言ってもいいほどの力を持ってるだろう。いや、下手をすれば、世界一つくらいは余裕で玩具にするだけの力を――
「っと、来たぜ……! ノスフィーのやつだ。ラグネ、ちょっと中断して、城の下を見てみろ」
ファフナーの発言を聞き、私は思考を中断し、ママから手を引き抜き、遠ざかる。
《ディスタンスミュート》の成功には絶対に私が必要だけれど、離れるだけで解除されるわけではない。周囲にいる血人形たちが魔法を維持してくれる。
「え、もうっすか? ああ、次から次へと……。少しくらい、休む時間を――」
私は屋上の端へ行き、地上の様子を確認し、その異常すぎる光景に言葉を失った。
城の上は夜中だが、城の下は昼のように明るかった。
原因は地上に広がるフーズヤーズ軍の中央にある――『旗』。
『光の理を盗むもの』が旗を掲げ、ありとあらゆるものを照らし、全軍の戦闘を続行させていた。
当初の予定では、夜に入れば騎士たちの体力は限界を迎え、『血の理を盗むもの』の血による侵略は加速するはずだった。
しかし、現実は逆。あのおぞましき吐き気を催す『何か』たちを相手に、フーズヤーズ軍は前線を押し返していた。
あの血の『何か』たちは、一体一体が街一つを滅ぼせる化け物だ。
モンスターと違って、ただ人間を殺すことだけに特化している。騎士が百人集まろうとも、一体を相手にするので手一杯のはずだ。
なのに、なんだこれは……。
騎士たち一人一人が英雄のように、あの『何か』たちを一対一で打倒していっている。
あの生理的嫌悪を爆発させる『何か』を前にすれば、恐怖で動けなくなるはずだ。なのに、誰一人表情は明るく、体力に翳りはなく、徐々に力を増していっている。
ノスフィーさんが『理を盗むもの』の力で、フーズヤーズの騎士たちを強化している。
それはわかる。しかし、それだけでは説明しきれない。
説明できるとすれば、それは――
ノスフィー・フーズヤーズが一人で、全軍の恐怖を全て負っている。
ノスフィー・フーズヤーズが一人で、全軍の体力を全て負っている。
ノスフィー・フーズヤーズが一人で、全軍の魔力を全て負っている。
ノスフィー・フーズヤーズが一人で、全軍の負傷を全て負っている。
ノスフィー・フーズヤーズが一人で、全軍の『代償』を全て負っている。
――正気ではない。
昼と違って、いまや軍人たちは万を届きかけている。
その全ての負債を『代わり』に? 万の多様な死ぬほどのダメージを、何度も何度も身に受ける? 発狂するだけの心の外傷も同時に? そんなことをしては――
「な、なんで……?」
普通に考えたら死ぬ。
死ぬというか、一瞬で砕け散る。魂が消滅する。
――しかし、死なない。
それどころか、全恐怖、全負傷、全消耗を背負い、全く顔が歪んでいなかった。
笑顔だった。
城の頂上と地べた。これだけの距離がありながら、私はノスフィーさんの感情を読み取れた。
ここにいる私と、まるで違う。
表情が違う。かける闘志が違う。秘める想いが違う。
ノスフィーさんは死ぬ気がない。
いま私がいる『頂上』へ辿りつくまで、決して諦める気がない。
何をしてでも、絶対に生きて、『お父様』に会うと信じている。
大切な人が死んでくれたとわかったとき、心のどこかで安堵していた自分たちと違う。
その綺麗な決意が、魔法となって彼女を延命し続けている。
「これが『不老不死』……?」
ついさっきとは別人だと思いつつ、その魔法の正体を推測する。
私の発破によって、彼女は至ったのだろうか。
私よりも先に『詠唱』を三節揃えたのだろうか。こちらは二人がかりで届かなかった場所へ、たった一人で着いたのだろうか。
いや、もはや、至ったとしか思えない。
それだけの下地が彼女にはあった。
彼女も私やカナミと同じく『家族の愛に飢えている』。
ほぼ同じ『未練』を持っていた――が、全く違う人生を進んできた。
私とカナミは、大切なものを疑って、諦めて、愛することをやめた。
しかし、彼女は一度だって疑ってない。諦めてもない。親が自分を捨てたと知っても、信じ続けた。目指し続けた。
最期まで――その身が消えるまで、愛を失うことは絶対にない。
「ノスフィーさん……。ぁあ、あああ……」
戦ってもいないのに気圧され、魔力が膨らみ、全身に力が入る。
嫉妬が嗚咽になって喉から漏れながら、私は地上を睨む。
羨むがままにノスフィーを睨む。
そのノスフィーの顔が上に向けられる。
城の屋上にいる私を、いま見たような気がした。
ここまで来る気だ。
それを認めたとき、私は迎撃に動き始める。
一度も大切なものを諦めなかったノスフィーさんならば、私の三節目を教えてくれそうな気がした。いや、これから三節目を始めてくれるような気がした。だからこそ、全力で私は敵と戦わないといけない。
「ファフナー、いますぐ迎撃っす……!」
「ラグネ……。逃げて、別の場所で再開って手もあるぜ?」
強気に前を向いて戦おうとする私に、ファフナーは撤退を提案する。
すぐさま私は首を振る。
それだけはありえない。
未だ私の目標は変わっていない。
誰も彼も皆殺しにして世界に一人、『一番』となること。
そう、これは目標だ。
自分を見直した今ならばわかる、私は『一番』になるのが『未練』ではない。子供の頃からの『夢』だった。
『未練』という『死んでも諦めきれないもの』でなく、『夢』という『心のどこかで届かないと諦めているもの』。
「私は絶対に『次元の理を盗むもの』の力を得て、『不老不死』も得て――『理を盗むもの』の次の領域に至るっす。果たした『未練』の先の先、『夢』を叶えるっす。『一番』になってやるって誓ったっす!」
その『夢』だけが、もう私とママの繋がりだ。
その繋がりを断ち、ママの娘でなくなってしまえば、私は生まれていないも同然の存在まで成り下がってしまうだろう。
それが嫌で、私は他人を殺して殺して殺して、ここまできた。
これからも、殺して殺して殺して、どうにかママの娘であり続けたいとも思う。
結局、さっき叫んだことが全てだ。
「好きと嫌いを『反転』させられたとしても」「『大切な人』への確かな想いは存在していた」「それだけは変わらない」「何を見失っても、この魂に刻まれたものだけは見失わない」。――つまり、「私はママが好き」ということ。
だから、この『夢』だけは譲れない。
諦めてはいいが、捨てることだけはできない。
『元老院』と『始祖』を殺して『頂上』も取った私は、もうあとは世界を相手取るしか『一番』を目指す方法はないだろう。そして、いつかやって来るであろう『ヒタキ』との戦いのためにも、ここで本当の『魔法』と『不老不死』を手に入れるのは必須なのだ。
もちろん、その『夢』の果てに待っているもの。『魔法』の三節目が表す『詠唱』がどんなものか、二節目まで辿りついた私には薄らとわかっている。
『私はママが好き』だけで終わるはずがない。もっともっと醜い言葉が、私には待っているだろう。人生の終わりに特大の不幸が待っている。
けれど、不幸ぐらいで『夢』を捨ててはならない。
ママそっくりのカナミを与えられたくらいで、間違えてはいけない。
大切な人との魂の繋がりだけは失ってはいけない。
決して――!
「ここで私は《ディスタンスミュート》に集中するっす。ファフナーは下で足止め、一人も通すなっす……!!」
そう心に決めて、私はファフナーに命令した。
ただ、その言葉を聞いたとき、なぜか彼の目に薄らと涙が浮かんでいた。
「あ、ああ……。ああ、そうだな……。ラグネ、そういうことだ……! 『夢』なんだ……! 我が主ラグネ・カイクヲラ! お前は何も間違っていない!!」
私の言葉のどこを聞き、何が琴線に触れたのかはわからない。
だが、それでいいと私に大賛成していた。
「そう、かの『経典』にもある。――十四章一節『浄い終わりなど誰にもない。しかし、不浄の終わりも誰にもない』ってな……」
いま『経典』は私が持っている。なので、ファフナーは何もない宙でページをめくる仕草をした。どうやら、彼は持っていなくとも、内容を丸暗記しているようだ。
唐突に名言のような何かを持ち出された私は、首を傾げながら聞く。
「え、えっと……。それ、慰めてるつもりっすか……?」
「ああ、激励の言葉だ。この『経典』の言葉たちは、いかなる苦境をも切り拓いた実績がある」
「は、はあ……。それはどうもっす……?」
「喜べ喜べ。この言葉を送ったってことは、まじでおまえを主って認めた証だぜ?」
「……それ、カナミのお兄さん並に私が馬鹿だってことでは?」
「ああ、その通りだぜ! ほんとおまえらそっくりだな!」
「…………!」
いきなり侮辱され、私は無言でファフナーを睨む。
それを楽しそうに彼は受け止めて笑う。
「いやいや、賞賛だっての! くははっ!」
「はあ、もう……。心配してくれるのはわかるっすけど、ファフナーさんって斜め上過ぎるんすよねえ……」
いつの間にか屋上から神妙な空気は消えて、笑い声が飛び交っていた。
未だ私はカナミがママに見えるし、何も解決していないし、世界は裏で操られてはいるけれど……。この屋上には自由があった。『夢』を見るだけの僅かな自由が。
「じゃっ、ちょっくら行ってくるぜ。我が主、俺がいないからって寂しがるなよ?」
「寂しいわけないっす。……時間稼ぎさえしてくれたら、別に死んでもいいっすよ? ここから先は、私一人でもいけるっすから」
ファフナーは私の命令を聞き、屋上の中央にある吹き抜けへに向かう。それに対し、私は背中を向けてママのところへと向かいつつ、答えた。
ぱちゃぱちゃと血濡れの地面を踏む音が聞こえる。
それが吹き抜けの手前あたりで止まった。
「…………」
「…………」
フーズヤーズ城の屋上はとても静かだ。
その静かな夜風を十二分に聞いたあと、一言だけ私の背中に投げかけられる。
「――ラグネ・カイクヲラ。おまえは掛け値なしに、俺の『理想』の主だった……。渦波と同じくらいにな……」
「そりゃそうでしょうっす。私たち、根っからそういう感じらしいんで」
神妙な別れの言葉だったが、私は適当に返した。
それにファフナーは小さく笑って、すぐに最後の一歩を進む。風を切る音と共に、下へ落ちていく。
それを聞き届けた私は、屋上で横たわるママの身体に手を入れる。
もう『親和』はできない。邪魔をされている。
私にできるのは、『魔石』を抜くことだけ。
「ママ……」
《ディスタンスミュート》を再開しつつ、彼の『親和』のおかげで辿りついた答えを思い返していく。
そろそろ終わりだ……。
しかし、本当に私たち二人は愚かな人生を歩んだものだ……。
自分の『理想』でなく、誰かの『理想』だけが全ての人生。少し『勇気』を出せば、きっと全く別の人生が待っていたはずなのに、それを逃してしまった。もう取り返しはつかない。
――ただ、最後に希望が一つだけある。
それはノスフィー・フーズヤーズ。
この暗すぎる『頂上』に向かって、いま救いの光がやってきている。
きっと彼女が私たちの『もしもの姿』を見せてくれるだろう。間違いなく、ノスフィーさんの『詠唱』三節目は、私たちと違って綺麗だ。彼女の人生に相応しい輝きに満ちている。
その『詠唱』を聞いて、その『魔法』の光を見たとき、私たちの『夢』は終わる。
ノスフィーさんとは正反対の『詠唱』三節目を手に入れ、この滑稽な人生に答えが出てしまう。
「カナミのお兄さん……。『不老不死』、楽しみっすね……」
その答えを受け止める準備を私はしていく。
フーズヤーズの城の『頂上』で、ママそっくりの死体と一緒に。
たとえ、生まれた意味がなくなったとしても笑っていられるように――




