286.産まれながらの挑戦者
ノスフィー・フーズヤーズの一番古い記憶は誕生の瞬間だ。
はっきりと私は覚えている。
風化した記憶ばかりなのに、その日の会話だけは全て思い出せる。目にした光、耳にした音、鼻をくすぐった香り、全てが鮮明に思い浮かぶ――
――初めて目を覚ましたのは仄暗い部屋の中。
生まれたばかりの私は成人の身体を起こして、初めて見るけれど既に知っている部屋を見回す。瞼の裏と区別できないほど暗いせいで知識と照合させるのが難しかったが、視覚ではなく嗅覚で確信する。
独特な死臭に多様な薬品の匂いが混ざっている。
さらに全身を包み込む濃い『魔の毒』を感じる。
間違いなく、ここはフーズヤーズ城にある塔の一つ。
元王女の病室であり、現『魔の毒』研究所兼遺体安置所。
目が暗闇に慣れてきたところで、まず材料という名の死体の山が隅に積まれているのを見つける。閉め切られた窓に、積まれた死体――一見すると外道な研究を思わせるが、別に殺して集めたものではない。
全て、世界の『魔の毒』に侵され、無念にも息絶えてしまった民たちだ。
この時勢、身寄りがなく墓に入ることのできない人間は無数にいた。それを放置することなく集め、感染の恐怖に打ち克った学者たちが死体を研究し、治療法を模索していたわけだ。
素晴らしい話だ。感動ものだ。
ただ、とても無駄な努力の話でもあった。
結局、フーズヤーズ国の学者たちは何の成果も得られなかった。同胞たちの死体をバラバラにして得られたのは、抗えない絶望だけだった。
この国の知識と技術では、おそらく向こう千年後でも解明には至らなかっただろう。
現実的に考えれば、国が滅びるまで続けても無理だったということだ。
ならば、どうやって『魔の毒』の充満した部屋でものんびりしていられる私が生まれたのか。
それはフーズヤーズの外からやってきた外的要因のおかげだ。
『使徒』と『異邦人』。
特に異邦人の力によって、爆発的に『魔の毒』の研究は進んだ。さらには使徒の奇跡的な力も加わって、『魔の毒』に適応できる人造の生物を生むまで至った。
これが私の産まれた経緯。
生まれるといっても、母の腹から産まれたわけではない。
人間の肉と『魔の毒』の結晶を捏ね合わせて、人の手で生まれた人型の何か。
それを生まれながら私は知っていた。
便利なことに、血に知識を刻み付けるという技術のおかげで何の混乱もなかった。本能のように私は起きて、自分を知り、世界を知り、居場所を知り、この薄暗い部屋から出ようとする。
ベッドから降りて、ぺたぺたと素足で石畳の上を歩く。
古びた木製の扉を押し開き、下に続く階段を歩き、つい最近増築された部屋に入っていく。
そして、産まれて初めて感じる光――だけれど、私の両目は生まれる前から光に慣れていた。特に問題もなく、階下の部屋に入室した。
先ほどの部屋と違って、清潔な空気に満たされた空間だ。ちょっとした待合室として使われているのか、質素なテーブルと椅子が用意されている。
その部屋で私を待っていた人たちが私の登場に驚きながらも歓迎する。
「ほ、本当に動いているわ……!」
最初に声を出したのは金髪の成人女性、使徒シス。
「動くに決まってる。そういう風にしたらしいからな」
次に声を出したのは茶色い髪の少年、使徒レガシィ。
「よかった……。成功したのだな……」
ほっと一息ついているのは白髪の老人、使徒ディプラクラ。
三人の使徒たちが私を出迎えてくれた。
三人が三人とも異様な空気を纏っている。顔つきや衣服は至って普通なものなのだが、三人が特別であることを本能で理解させられる。違うのだと思ってしまう。
これが私を造った使徒……。なら、この人たちが私の――
「えーと、こいつは『魔石人間』って呼ぶらしい。一つ目の試作だが、十分に完成品と呼べる性能はある。世界が適応するまでの間に合わせにはうってつけ――って陽滝が言ってた。はい、俺の伝言終わり。ちゃんとおまえら聞いたか?」
年若い使徒レガシィが、他の大人の使徒たちに説明する。
小さいくせに偉そうな態度だと思ったが、彼らが見た目どおりの年ではないことを私は知っていた。
私が黙ったままでいると、他の使徒たちは喜びを露にする。
「へえっ、『魔石人間』……! いいわねっ、なかなかいいわ!!」
「『魔石人間』か……。いいものができたな。一歩前に進めたのは間違いない。やっと……、ああ、やっとだ……」
三人は私を『魔石人間』と呼んでくれた。
当時の魔法技術の全てを費やし、当時の最高の魔石を用いて、当時の魔の環境に耐えられる理想の人型の何か――最初の『魔石人間』の誕生の瞬間だ。
ただ、その扱いは私の期待していたものと、ほんの少しだけ違った。
だから、ほんの少しだけ顔が暗くなったのが自分でもわかった。
「あーっと、これの名前はどうする?」
その私の期待を察したのか、少し近いことをレガシィは提案する。
それに他の使徒たちは酷く困惑する。
「む、『魔石人間』と呼ぶのではないのか?」
「名前なんてなくてもいいんじゃないの? 『光の御旗』って呼べば」
老人姿の使徒ディプラクラも、成人女性の使徒シスも、どちらも大の大人の外見を持ちながら一般常識がない。感性が人から少し外れている。知識通りだ。
「いや、それは立場とか名称であって、名前じゃないだろ……。俺らにもある名前をこいつにもつけようぜ……」
「ああ、確かに識別するためには必要か。主もそう言っておったな。しかし、そういうのはわしは苦手だ。どちらか頼む」
「なら、私が付けましょうか! んー、そうね。彼女は南の象徴で、国を救う聖女で、北に導くから――」
シスが我先にと手をあげた。
そして、私の名前が――
「『北の地を目指すもの』! 『南連盟』の『光の御旗』となって世界を救う聖女! 『光の理を盗むもの』ノースフィールド・フーズヤーズ!!」
とても名前らしくない名前をつけられてしまう。
それも名前じゃなくて役割の呼称だ。
そう口にするだけの気力が私にはなかった。
ただ、彼女の言葉を頭の中で繰り返す。
どうも私は聖女で『光の理を盗むもの』らしい。
……正直、よくわからない。
いや、言葉の意味はよくわかっているのだ。血の中に多くの知識が詰まっているおかげで、きっと私はそこらの学者たちよりも博識だ。
この世界、この国、この地下室、この状況の全てを理解している。
この世界が『魔の毒』によって追い詰められていることもわかっている。世界が救世主を望んでいるとわかっている。自分に求められている役目もわかっている。なぜ、そうしなければならないのかもわかっている。自分の力のほどもよくわかっている。
全部、わかってはいるのだが……。
どうも実感が薄くて仕方ない。
生まれた実感がない。この世界を生きている実感がない。当然、この世界の危機にも余り興味がない。周囲の全員が他人過ぎる。話す全てがどうでもいい。全てに興味がない。
本当にどうでもいい――私が産まれて初めて覚えた感情は、そんなあっさりめの絶望だった。
空虚すぎて悲しくて、無意味すぎて笑えてきて、無性に消えたくなって、ふと目に入ったものに引き寄せられる。
それは使徒たちではなく、後方にある窓。
最上階と違って、この部屋の窓は開け放たれている。
その窓に向かって、私は歩く。私を置いて騒ぐ使徒たちを置いて、一人で――
「空……、暗い……」
窓の縁に手を置いて、産まれて初めての声を出す。
そして、そのまま私は身を乗り出そうとした。
いまの私には多くの知識が頭の中に入っているおかげで、いま自分がどうすべきかよくわかっていた。
ここから飛び降りれば終わりだ。
頭から地面に突っ込めば、簡単に死ねる。
真っ当な生まれの人間なら恐怖を抱くだろうが、私ならば躊躇なく実行できる。
産まれる前の私に戻れる。この空虚な感覚から抜け出せる。そう思ったとき――
「ええ、暗い世界ね! ……そして、その暗き闇を晴らすことがあなたの使命よ! この世界を救うための礎となれることを喜びなさい! あなたの命を主に捧げられることっ、感謝するように! ノースフィールド!!」
いつの間にか、私の隣にシスが立っていて、私の肩を片手で抱いていた。
私を共に死地を歩む同士として扱い、目を輝かせて真っ黒な空を指差していた。
知識通り、やはり正義を司る使徒シスはちょっと頭が残念らしい。
その残念に巻き込まれて、私は完全にタイミングを逃してしまった。
続いて、ディプラクラが私に近づいてくる。
まだマシなほうの使徒が、シスの言葉をわかりやすく通訳してくれる。
「ノースフィールドよ。どうか我ら使徒の代わりに人類を統一してくれ。この国の王族たちの代わりにフーズヤーズを纏め上げてくれ。この世界の『魔の毒』に適応できない人々の代わりに敵と戦ってくれ。普通の者にはできないことを、おぬしは代わりにできる」
――『代わり』。
それが『光の理を盗むもの』の『魔法』であることは知っていた。
そのために私が造られたことも知っていた。
「……ノースフィールド。やってくれるか?」
「もちろん、やるに決まってるわよね!? 誉れよ、誉れ!」
ディプラクラとシスは私に向かって、期待の眼差しを向けてくれた。
空っぽだった感覚が少しだけ刺激された気がして、私は小さめに頷く。
「……はい。やってみます」
他にやることなんてなかったので、特に考えることなく請け負った。
そして、ぱっと窓の縁から手を離す。
その答えに二人の使徒は大いに喜んでくれる。
「――んっ、当然ね。ふふっ、嬉しいわあ。また仲間が増えた。残酷な世界だけれども、やっぱり希望は確かに残ってるのね。ふふふっ」
「確かに嬉しいものだな……。こうして、一歩ずつ前に進むというのは……」
騒ぐ二人の後ろで、レガシィが溜め息をついていた。
もう自分には関係ないといった様子で背中を向けて、一足先に部屋から出て行く。
これで最初の顔合わせは終わりだった。
――こうして、私は残った二人の使徒によって、『魔石人間』としての微調整をされることになる。
フーズヤーズの城を案内され、国一番の書庫まで連れて行かれる。まずは、そこでお勉強の時間だった。
血に刻まれた知識の確認。常識のすり合わせ。礼儀作法の確認。数日かけて、国の『御旗』に相応しいものを身につけた。
その後は、捏造した血縁関係との顔合わせだ。
先王の隠し子なんて嘘を真実に変えるため、使徒の権限を活用してあらゆる場所を回った。とはいえ、つい最近まで滅ぶ寸前だったフーズヤーズ国なので、そう回る場所は多くない。数ヶ月後には、もう私はフーズヤーズ王家の末席として認められていた。
いかに『使徒』の影響力が強いといっても異常な話だ。そのことから、この世界と国の末期っぷりがよくわかると思う。
存在を認められた後は、魔法の調整だ。
『魔の毒』を利用して、超常現象を起こすことは『御旗』として必須だった。
この時代は、まだ魔法の基礎が少し出来たばかりで、ほとんどのものが魔法を使うことはできない。魔法使いというだけで一目置かれ、各国から雇用させて欲しいと頭を下げられる。
なにせ、魔法使いがいれば、何もないところから水や火が出せる。空気を浄化し、地形を変えて、人の身体を問答無用で修復できてしまう。いままでの世界の常識を全て覆す奇跡の力だから、破格の優遇も当然だろう。
そして、その魔法使いの中でも私はトップクラスだった。
『魔の毒』の適応力が高く、様々な奇跡を起こせる。
さらには『使徒』の選んだ『光の理を盗むもの』という加護のおかげで、とある魔法が私の身体からは常に発動している。
人類統一の『光の御旗』計画の根幹。
『魅了』の魔法だ。
私から漏れる光を目にするだけで、魔法の抵抗力の低い人々は『魅了』され、心酔してしまう。
私の声を聞いただけで、それが絶対の真実であると錯覚し、服従してしまう。
私の姿を見ただけで、世界の救世主であると信じ、背中を追いかけてしまう。
これが私の光の力だが、どんな相手に対しても無敵というわけではない。
魔法の抵抗力は人によって違うし、私という個人に幻滅すればあっさりと魔法は解けてしまう。
それをフォローするための完璧な『魔石人間』の身体だ。
考えられる限り最高の外見を用意し、考えられる限り最高の知識を詰め込むことで、その弱点を補っている。
逆に言えば、私の外見に目を奪われてしまえば、魔法の抵抗力が高くとも『魅了』は成功するのだ。私の知識の深さに敗北を認めてしまっても同様だ。
他にも私の演説や舞いで感動させてしまってもいいらしいが、これは『使徒』ではなく『異邦人』のアイディアだ。異世界では歌って踊れる偶像が、短期的に見ればとても効率的だったらしい。計画の中には劇場を作って、そこで私が単独で歌って踊るなんて予定もあった。
こうして、完璧な『光の御旗』である私は魔法の力も利用して、少しずつフーズヤーズにて民衆の心を掴んでいく。
最初は王族としての挨拶から始まった。国の全ての行事に出席し、時間が空けば街へ慈善活動に繰り出し、気さくに国民たちと触れ合っていく。もちろん、その最中に奇跡の魔法を用いて、床に伏した病人を治療し、困窮にあえぐ子供を救い、その声で人々の不安を拭った。
一月、また一月と――淡々と計画は進んでいく。
『光の御旗』として認められていく。
北にいる伝説の『統べる王』を真似て、その上で絶対に負けない象徴となっていく。
半年経った頃には、もう私一人に任せても大丈夫だと使徒たちも安心していた。私に付きっ切りになることなく、ディプラクラやシスたちは他の計画に集中し始める。
そう思うのも仕方ない話だ。
もう私が街を出歩けば歓声があがり、兵の詰め所に寄れば必勝の雄たけびがあがる。私が行事で歌や舞を披露すると決まれば、国中がお祭り騒ぎになる。
完璧に『魅了』の魔法は行き届いていた。
例えば、私が「無茶な増税をします」と言っても、国民のほとんどが「はい喜んで」と答えるだろう。ここで私が「近くの大国に攻め込みます」と言っても、兵士のほとんどが「この命、あなた様に捧げます」と答えるだろう。
何もかもが上手くいっていた。
この国の統一が終われば、次は隣国も『魅了』だ。
大して時間はかからない。この時点で、隣国の国民や貴族たちにも私の信者は多いという情報があった。周辺国の統一は時間の問題だ。
本当に計画は順調に進んでいる。
――一つ問題があったとすれば私という個人の話だろう。
それは急に来るのだ。
毎日を作業のようにこなしていると、落とし穴にはまったかのように抜けられなくなる。
『光の御旗』としての毎日は辛くなかった。苦しくなかった。
けれど、楽しくもなかった。心地よくもなかった。
私が完璧過ぎるせいで、全てが正常に順調すぎる。
あのときと同じだ。
産まれたときに覚えた虚無感が、また襲ってくる。
急に実感がなくなる。興味がなくなる。誰もがどうでもいい。世界など関係ない。
空虚すぎて悲しくて、無意味すぎて笑えてきて、無性に消えたくなって、ふと死にたくなる。
そして、また私は例の塔の部屋で窓の外を見る。だが、いまや私の身体は飛び降りくらいでは死ねなくなっている。
もっと殺傷力のある危険なところに行こうと思って、私は外套で顔を隠してフーズヤーズの城から出て行く。
城の警備兵たちを無視して、街中に入っていく。
すれ違う国民たちに一瞥もなく、真っ直ぐ国外に向かおうとする。
海に行こうと思った。
私を知っている人のいないところまで行って、沈んで死のうと思った。
このまま誰も知らないところで、このどうでもいい物語を終わらそうと――
しかし、向かう途中、国の関所で一人の少年が待ち受けていた。
使徒レガシィが眠たげな顔で私を見て、軽く「よう」と挨拶する。私は足を止めて、目を丸くして驚いた。
「え、どうして……?」
どうしてここにいるのか。心の底からの疑問だった。
「いや、そろそろまた死にたいと思う時期だと思ってな。俺も半年くらい経ってからそうなった」
レガシィは私の内心を見事看破していた。さらには半年前の出会った日に、私が飛び降りようとしていたことにも気づいていたようだ。
使徒たちはどいつも人の心がわからない馬鹿だと思っていたが、このやる気のない少年だけは違ったと認識を改める。
『主』によって作られた三番目の使徒レガシィ。
多くの欠陥を抱えている為、一人で待機していることが多い。何か計画を発案することもなければ、計画を手伝うこともない。その無気力過ぎる言動と行動から、他二名の使徒も彼には何も期待していない。端的に言って、さぼりのタダ飯食らい。
その最も無能と思われた使徒が、私に道を示す。
「どうして、おまえが無性に空しいのか……。俺なりに理由を知ってる。ちょっとだけ俺の話を聞いてくれるか?」
レガシィは問いかけ、私の答えを聞くより先に背中を向けて歩き出す。
国外に続く道ではなく、フーズヤーズ国内に戻る道を先導する。
その背中を見て、私は迷った。
無視して外に出てもいい。
単純な強さならば自分のほうが強い。いかに使徒が『光の御旗』を求めようとも、もう誰にも私は止められない。止めることは可能だ。
それなのに私は、とても素直にレガシィの背中についていっていた。
自分でも驚くくらいに素直だった。
思い当たる理由は一つだけ。
似ていると思ったからだ。
レガシィの無気力な性格と私の主体性のない性格の共通点は多い。だから、彼の考えることに少しだけ興味があったのかもしれない。
そして、私はレガシィに導かれ、街の建物の一つにやってくる。
「ここは……」
そこはフーズヤーズ国に多く点在する病棟の一つだった。
この国には数え切れないほどの病人がいる。いや、この国どころか、いまは世界規模で蝕む病が蔓延している。例の『魔の毒』の中毒症状だ。
基本的に『魔の毒』は人間を害する。それは、最後に命を絶つほどの害だ。
そこで魔法の始祖となった『異邦人』が、『魔の毒』を分解するための方法を編み出した。『魔力変換』と呼ばれる魔法――正確には『呪術』か。
この魔法を受ければ、『素質』があるものは『魔の毒』を分解して、害どころか逆に力に変えることができる。
この魔法が広まったとき、国中が歓喜に沸いたものだ。
死にいくだけしかなった不治の病を乗り越えられる方法が見つかったのだから当然だ。
ただ、その魔法の恩恵は誰もが簡単に受けられるものではなかった。
まず魔法を扱える者は本当に少ない。一人『魔力変換』を扱える魔法使いがいたとしても、一日に何十人も魔法をかけることはできない。さらに言えば、全員が全員『魔の毒』の苦しみから解放されるわけでもない。
生きるには『素質』という生まれ持った才能が必要だった。
これがなければ、どうあがいても助からない。
『魔の毒』に抗うことができずに死んでいく。
そして、いま私たちがやってきたのは、その『魔力変換』を施されても治らなかった患者たちが収容される場所だ。
どうしようもなくなった患者たちを死ぬまで隔離するための空間と言っていい。
そこでは当然、『魔の毒』に苦しみの呻き声を木霊している。
苦しみながら衰弱していくだけの人々が、並んだ安物のベッドに横たわっている。
しかし、ここに医者は一人もいない。看護する者も最小限だ。
もうここは見捨てられた領域であることを実感する。
はっきり言って、安物でもベッドがあるだけマシだ。野垂れ死にではなく、屋根の下の床で死ねるのは、『使徒』と『異邦人』による再興のおかげだ。
私が冷静に病棟内を確認していると、レガシィは一人の患者を指差す。
「あれをどう思う?」
その先にいたのは子供と女性。
年は二桁にも至っていないであろう少年が、『魔の毒』の中毒症状で苦しんでいる。呻き声と共に「死にたくない」という言葉を搾り出している。その隣では少年の手を握る女性が必死に懇願している。どうか我が子を助けて欲しいと神に祈り、こちらも「生きて」と搾り出すように声を出している。
「……痛ましい光景ですね、とでも言えばいいのですか? この国の惨状ならば、わたくしのほうがよく知っています。それとも、死ぬのは怖いという話でもしたいのですか?」
「いや、違う。そこはどうでもいい。俺たちには関係のない話だ。それよりも――」
あっさりとレガシィは首を振った。
世界の救済を望む使徒にあるまじき言葉だった。
そして、レガシィは世界の滅亡よりも大事な話をするかのように、続きを口にする。
「死を待つだけの子供が、「生きて」と願われているだろう?」
世界の危機ではなく、人の生死でもなく、二人の関係性を指摘する。
その繋がりをわかりやすくレガシィは言い直す。
「ああいうのを愛されてるって言うらしい」
「は、はあ……? 愛され、てる……?」
こんな陰鬱な場所まで連れて来て、こんな状況をわざわざ見せて、何を言うのかと思えば、まさかの『愛』についての話だった。
レガシィも他の使徒と同じで、やはりどこかでおかしい。
そう判断できるだけの無神経さだったが、私はレガシィの続く言葉から耳が離せない。
理性的には馬鹿馬鹿しいと思えど、本能が欲していた。
愛されているとはどういうことか興味があった。
「本当は産まれた瞬間、ああやって親が子を愛してくれるらしい」
「産まれたとき、親が子を……」
血に刻まれていない情報だった。
どうして、その情報が私にはなかったのかを考える前に、その事実に私は色々な疑問が氷解していく。
理解したと同時に、病棟の親子から目が離せなくなる。
ついさっきまで意味も価値も感じなかった光景が、途端に別物に感じた。
「俺たちみたいな例外はあるだろうが、基本的にそういうものだ。子供を産んだ親は、みんなああやって心配してくれる」
そして、いま明確に、この私の不安定な感覚の理由がわかった。
つまり、私には足りなかったのだ。
その不足を理由はわからずとも、本能的に感じていたのだ。
だから、こうもふらついている。心が定まっていない。イラついて、拗ねてしまう。
本来、産まれた私には親がいて、そこが確固な居場所となるはずだった。
私が何もせずとも、親が私を一番に愛してくれたはずだった。
本来ならば、私にも「生きて」と止めてくれる人がいたはずだった。
私を一番愛してくれる人。そんな人がいれば、もう私は絶対に――
「レガシィ様……」
いつの間にか、私は搾り出すように声を出していた。
使徒の名前を呼んで、さらなる話の続きを促す。
「ああ、わかってる。一度会ってみるか? 丁度、帰郷中だ」
その期待にレガシィは見事応える。
いま私が望んでいるものを一寸の違いもなく理解して、すぐに背中を見せて、また先導してくれる。
今度は迷うことなく、その後ろを私はついていく。
病棟を出て、街中を歩き、別の建物の中に入っていく。
そこは街の片隅にある小さな食堂だった。
店の中には国で働く人々が、一時の至福の時間を過ごしている。警備や建築などといった肉体労働に従事している男性が多く見える。店内の様子を見るに、酒をメインに出している店のようだ。
私とレガシィは適当なものを頼み、店の端にある一席を手に入れる。
周囲の国民たちに顔がばれると面倒なので、私は外套に深く顔を埋めてから小声で聞く。
「レガシィ様、ここのどこに……」
「あそこだ。たぶん、あの黒髪がおまえの父親にあたると思う。色々な意味でな」
レガシィは店のカウンターに座っている二人組に向かって目を向けた。
すぐに私も目を向けて、その二人組の顔を確認する。
私たちの席からは遠いカウンター席で、和やかに話す二人。
黒髪の少年と金髪の少女。どちらも質素な服を身に纏い、この庶民的な店の空気に見事溶け込んでいる。しかし、よく見ればどちらも普通ではないとわかる。最近、魔法を理解してきた私だからわかる。少年も少女も私を超える力の持ち主だ。
そして、その二人の正体を私はよく知っている。
知らないはずがない。いわば、あの二人のために私は生まれたようなものだ。
名前は相川渦波とティアラ・フーズヤーズ。
『異邦人』と『本物のお姫様』だ。
「あの黒い髪の人が、私の……?」
「ああ、お父様だな。俺たち使徒は助産しただけだ。おまえを産んだのは『異邦人』の二人と言うのが一番正しい。……業腹だがな」
使徒の言っていることは正しいと思った。
私という『魔石人間』の材料に、『異邦人』の身体の一部が使われているのを私は知っている。
『使徒』たちは『異邦人』のような『素質』が高く強い存在を作ろうとして、『魔石人間』を作り始めたのだから当然だ。
この身体の構築に最も影響を及ぼしているのは『相川渦波』と『相川陽滝』であるのは間違いないだろう。
私は代わりとなるべきティアラ・フーズヤーズよりも、相川兄妹に似ている。
ならば、産みの親と呼ぶべきは、確かに黒髪の『異邦人』であるべきだ。
「レガシィ様。お父様の隣にいるのは……」
「本来、おまえの場所に座るべきだったやつだな」
「やはり、彼女がティアラ様……」
どちらも私の思っている人物であると確定したところで、テーブルに頼んでいたものが届く。
ぎりぎり飲める水と歯が欠けそうなほど硬いパンだ。
それを無感情に口へ放りこみながら、私は二人の後姿を見る。
ただ、じっと見すぎていては気づかれる可能性があるので、顔は向けずに目だけを動かしての観察だ。
その私の様子を見て、レガシィは不思議そうに聞いてくる。
「カナミの兄さんに会わないのか? ここで会うと面白そうだから案内したんだが」
「できません。そもそも、いま会っても、向こうはわたくしを知りません……」
あそこに座っている心優しい二人は、生まれからして非道徳的な存在の私のことを知らない。ここで私が話しかければ、おそらくシスやディプラクラは大変困るだろう。『光の御旗』計画に支障が出るかもしれない。
「そうだな。だから、案内した」
なのに三人目の使徒であるレガシィは、とてもあっさりと計画を危険に晒す。
この私が半年かけて育てたものをぞんざいに扱われ、少しだけ私は機嫌が悪くなる。それと同時に、それなりに私が計画を大事に思っていたことにも気づく。
先ほどから初めての経験ばかりだ。
ここでお父様に声をかけることはできないが、それでも十分に収穫はあったと私は思う。
なんでも知っていると思っていた自分だったが、そんなことはないとよくわかった。
まだまだ死ぬには早いとわかった。
「……一度帰ってから、よく考えます。少なくとも、もう大丈夫そうです。色々と新しいことがわかって、新鮮な気持ちです」
「……そうか。それならよかった」
私のお礼をレガシィは素直に受け取る。
強引に私をお父様に会わそうとすることなく、ただ黙々と食事に付き合ってくれるだけだった。
ほどなくして、お父様とティアラ・フーズヤーズは店から出て行った。
それに続いて私たちも街中に戻っていく。
目的を達した私たちは多く語ることなく別れることになる。
「それじゃあな、ノースフィールド。少しだけ期待してる」
もう私が自殺することはないと確信した様子で、レガシィは街の中に消えていった。
私も「それでは」と返して、真っ直ぐフーズヤーズ城に戻っていく。
来た道を逆に歩き、こっそりと自分の部屋に帰る。
本当に今日は色々あった。人生初めての疲労感すらある。すぐに部屋のベッドに腰を落として、大きな溜め息をつく。
ここはかつてティアラ・フーズヤーズが療養した場所であり、私が誕生した場所でもある。その部屋で私は宙を見つめ続ける。
ぼうっとしながら、外界ではなく胸の中にあるものに私は集中する。
レガシィのおかげで虚無感はなくなかったが、気分がよくなったわけではない。
むしろ、気分は悪いような気がする。
どろりとした黒くねばついたものが腹の底から湧いてくる感じが続いている。
そして、脳裏に張り付いて離れない光景がある。
街の病棟で見た親子。街の食堂で見た二人。
二つの光景が交互に頭の中を占める。
その光景を見直しながら、ふと窓から外を見る。
いつもの暗い空だ。
そう思っていると、紫色の雪が空から降ってきた。
この世界では、人々を蝕む『魔の毒』が結晶となって舞い落ちる。
結晶の形状は様々だ。小粒と大粒から始まり、ときには紫色の硝子片が落ちているように見えるときがある。人を蝕む悪い毒だとはわかっていても、私のような無関係な者からすると少し綺麗に感じる。
ゆっくりと落ちる無数の紫色の雪。
物が落ちるより遅く、羽毛が落ちるよりは速い。独特の速度で舞い落ちていく結晶は幻想的で、気を抜くと延々と目を奪われることだろう。
私は考え事をしながら、じっと外の様子を見続ける。
途中、なぜか妙な妄想が頭の中に浮かんだ。
ああ、なんだか。
空を伝って落ちる『魔の毒』は、この世界の肌に滴る血液みたい……。
そんな感想を抱いた。
その間も、空から紫色の雪は降り続ける。
まるで血が止まらないと認識した瞬間、紫色が赤色に近づいているような気がした。世界が血に塗れて、真っ赤に染まりつつある。
ドロドロドロと赤い血が零れる。血が滝のように空から流れる。
いまにも死んでしまいそうなほどの恐ろしい量の血が――
「――っ!」
妄想が頭の中で膨らみ、ぞわりと鳥肌が立つ。
急に身体が震えた。
全身の毛が逆立ったかのようだ。
私は逃げるようにベッドの中にもぐりこむ。
「…………!?」
今日私は、とある親子から人と人との繋がりを学んだ。
親からの愛情さえあれば、この暗い世界を生きていけると理解した。
それは、もう一人であることが普通ではなくなったいうことでもある。
ずっとあった虚無感が、途端に寂しさに変わる。
その寂しさは不安になって、果てに不安は恐怖となる。
論理的には説明できないが、とても単純な感情の経緯だった。
本当に怖かった。
誰もいない一人の部屋。
血と死が頭の中で膨らみ、誰も私に「生きて」とは言ってくれない。
手を握ってくれる人も、相談を聞いてくれる人もいない。
なぜか、ついさっきまで死のうとしていた私が、狂ってしまいそうなほど死を恐れている。病棟にいた子供と同じように「死にたくない」と思ってしまっている。
怖くて堪らないのに、頭が勝手に死について考えてしまう。
人が死ぬとどうなるのか。死は痛くて苦しいのだろうか。死んだらどこへ行くのだろうか。そこは何もない無の世界であっているのだろうか。ちゃんと私の意識はあるのだろうか。あるとすればいつまで続くのだろうか。いまみたいに真っ暗な闇の中で、延々と考えるだけの世界なのだろうか。暗闇の中、一人永遠に。永遠に一人――?
答えの出ない疑問が尽きない。
ベッドから少しだけ顔を出して、部屋の様子を見る。
いつもよりも部屋の中が暗いような気がした。
いまにも暗闇が私をベッドごと呑み込んでしまいそうな不安感に包まれる。
本能的に自分の両手で自分の胸を抱きしめた。
恐怖に耐え切れず、自分で自分を慰める。
しかし、まるで足らない。闇から逃れるには、まるで足らない。
「――《ライト》!!」
光を灯す。
使徒から緊急時以外は控えるようにと言われていた奇跡で、この暗い世界を照らそうとする。
しかし、まだ足らない。
確かに世界は照らされた。目に映る視界は明瞭で、明るいと表現する他ない。
けれど、まだ暗く感じる。こんなにも明るい世界なのに、まだまだ明るさが足らないと感じる。こんなにも世界は暗かったのかと驚き、何度も私は魔法を唱える。
「《ライト》《ライト》《ライト》――」
もっと光が欲しい。もっともっと明るくなれ。
部屋の隅々まで光は満たされていくが、まだこんなにも暗い。
暗いのは怖い。
怖くて堪らない。
怖い怖い怖い。
両手で抱き締めた身体から、心臓の音がよく聞こえる。
うるさいほど聞こえる。
乱れに乱れきった心臓の鼓動が響き、不安になる。
いまにも心臓が止まりそうだ。
心臓が止まれば――死ぬ。
いかに完璧な『魔石人間』だろうとも死んでしまう。
私は死ぬのが怖い。
死んで、無になるのが怖い。なかったことになるのが怖い。誰にも「生きて」と願われることなく消えるのが怖い。何の意味もない人生になるのが怖い。私が死んだ後も世界が続くのが怖い。この私が生きていたのかさえわからなくなるのが怖い。
よくわからないけど怖い!
いや、よくわからないから怖い!?
恐怖だけで息が苦しくなってきた。
胸が破裂しそうだ。身体ごと魂が痙攣している。
……助けて欲しい。
いま、誰か私を助けて欲しかった。
手を差し伸べて欲しかった。
私一人では無理だ。
どうか一言かけて欲しい。
……あの子のように、私も愛して欲しい。
優しく「生きて」と言って欲しい。
でなければ、この苦しみからは助からない。
いつまで経っても明るいところまで出ていけない。
いつの間にか、ベッドが大粒の涙で濡れていた。
心臓の音が大きすぎて気づかなかったけれど、嗚咽の声が漏れている。痙攣に合わせて、しゃっくりが連続する。子供のように情けなく、大泣きしている。
そして。
そこに届く、見計らったかのような声――
「――大丈夫。あなたには私がいます。あなたの母である私が」
望んでいた一言をかけられ、私はベッドから顔を出す。
部屋の中に一人の黒髪の少女が立っていた。
窓の外に広がる血流の空を背にして、慈母のように微笑んでいた。
すぐにわかった。
初めての邂逅だったが、彼女が『相川陽滝』であると確信できた。
その言葉を聞いて判断したのではない。その身の『魔の毒』の濃さゆえにわかった。
こうも異常な存在は、噂に聞く相川陽滝以外にありえない。
彼女こそ、レガシィ曰く、私の母と言える人だろう。
いま私は望みの人から望みの言葉を貰った。……貰ったはずなのに、私はまだ恐怖で震えていた。
どうしてか、私は彼女を母だとは思えなかったのだ。
街で見たものと余りに違いすぎた。
あの苦しむ子供の手を握り、「生きて」と慟哭していた女性と比べると余りに。
脳が理解を拒むほど、相川陽滝の姿は――
◆◆◆◆◆
「はぁっ!」
――止まっていた息を吐く。
次に吸い込んだ空気は肺を焦がすほど熱く、いま自分が危機に陥っていることをわかりやすく伝えてくれる。
同時に目を見開いて、周囲の状況を確かめる。
ろくに身体は動かないから、目と首だけを使っての確認だった。
先ほどの夢と似た薄暗い世界が広がっている。
もちろん、似ているが全くの別物だ。
まず最初の違いは真上を塞いでいるのが暗雲でなく、土の壁ということ。
ここは空の下ではなく、大聖都の地下にある大空洞であるということ。よく見れば完全な暗闇ではなく、遠くで炎の明かりが点滅しているのがわかる。光属性の魔力のこもった魔法道具の灯りもあちこちにある。
その大空洞には夢の中で見たフーズヤーズの街並み以上のものが広がっていた。
しっかりとした煉瓦造りの建物が規則的に並び、魔石で舗装された道が計算されて伸びている。街灯は発光する魔法道具だけでなく、緊急用の液体燃料を使ったランプも多く立ってある。いつでも水が使えるように、街には用水路が蜘蛛の巣のように広がっている。
『いつかの開拓地の地下遺跡』が、現代では立派な地下街に進化していた。
ああ。よくぞ、あの大空洞をここまで変えたものだ。
その少し懐かしい地下の景色を眺めながら、次に自分の状態を確かめる。
体力と魔力共に限界寸前。並々ならぬ汗の量を流して、息も絶え絶え。
ろくに身体は動かない……けれど、いま私は地下街を高速で移動している。次々と移り行く景色に目を向けるのを止めて、私を抱えている男に目を向ける。
肩に大仰なケープをかけた貴族のような出で立ちに、常に眉をハの字にしている情けない顔つき。赤銅色の短い髪をなびかせ、頬に大粒の汗を滴らせて全力で走っている男。
つい最近、強制的に私の配下とした騎士グレン・ウォーカーだ。
グレンは私が顔を注視しているのに気づいて、駆けながら声をかけてくる。
「ノスフィー様、お気づきになられましたか!?」
「ええ……。もしかしてですが、わたくしは気を失っていましたか……?」
「はい。……しかし、無理もありません。この熱に、この空気です」
状況が呑み込めて来た。
いまグレンは、敵の火炎魔法の熱風で気絶してしまった私を抱えて逃亡中だ。
そして、色々と思い出してきた。
私は一週間前、『北連盟』のヴィアイシアで友人と使徒シスたちを見送り、真っ直ぐ『南連盟』の大聖都にやってきた。そこで、いつかやってくるであろう渦波様を迎え撃つ為の準備を始めたのだ。
何よりも手駒が必要だった私は、産まれたときに行った計画を真似た。
まず、この大聖都フーズヤーズにて聖女を名乗り、多くの病人を救った。さらに国の内部に入り込むために、元老院にて『魅了』を行い、国の要人たちを洗脳していった。
地盤を固めてからは迎撃の場を固める国の施策を強行し、次元魔法で迷宮から切り札を抜き取り、世界樹になっていた顔なじみを入念に封印し直した。
ほんの数日で私は世界最大の国を陥落させた。
ああ、何もかも順調だった。
もはや、いまの私に対抗できるのは同じ『理を盗むもの』か『使徒』くらいだろう。
そう思ったときに、彼女に襲撃されたのだ。
彼女。最大の誤算、それは――
「ふふっ。しかし、まるで迷宮のアルティの階層ですね」
『火の理を盗むもの』を受け継ぎし者マリア。
ふと目を地下街に向けると、いくつかの眼球の形をした炎――『火の目』が浮かんでいるのを見つける。
それにグレンも気づいて、懐からナイフを取り出して投げつける。
見事、ナイフは浮かんでいた火に刺さったものの、『火の目』が消えることはなかった。霧を貫いたかのように揺らめいただけで、その形を崩すことはない。
じろりと『火の目』は私たちを睨み、一定距離を保ち続けている。
「逃げ切るのは無理そうですね。グレン、降ろしてください」
「し、しかし、ノスフィー様!」
拒否しようとするグレンを押しのけ、私は強引に地面に降りた。
勢いで転びそうになってしまったが、まだなんとか立っていられる。すぐにグレンを置いて、いま逃げていた方向とは逆に向かおうと歩き出す。
「お待ちくださいっ。この僕もついていきます」
振り返って、グレンの顔を見る。
心底から私を心配しているお人好しそうな顔だ。
だが、どうしても私は彼を信用できない。いま一歩頼りきれない。
この大聖都にいた『天上の七騎士』や特注『魔石人間』あたりを『魅了』するのは楽だった。しかし、こいつとエルミラード・シッダルクだけは妙に手間取ったのだ。
さらに言えば、なんとか『魅了』に成功した経緯も納得いかないところが多かった。
こいつは私の姿と力に心を奪われたわけではない。
私の志と思想に感動したわけでもない。
『魅了』成功の理由は、どちらかと言えば『光の理を盗むもの』ではなく『血の理を盗むもの』にあったように見える。
間違いなく二人は私でなく、『血の理を盗むもの』ファフナー・ヘルヴィルシャインに会ってから心に隙ができた。
その隙の理由がわからない。
男同士わかり合えるものがあったのだろうか。それとも――
とにかく、いま不確定要素のあるグレンを背中に置く気にはなれない。
「グレン、手助けは必要ありません。というより、無意味です。あなたが無策で近づけば身体が溶けます。視界に入るだけで焼けます。同じ戦場にいるだけで臓腑が焦げます。ついて来られても、むしろ困ります」
この地下街のような閉鎖空間での戦闘において、『火の理を盗むもの』は無類の強さを発揮する。こちら側がいくら人数を増やしたところで何の意味も持たない。
はっきりとグレンの意志を否定してから、私はこれからの予定を告げる。
「――最初から言っていましたでしょう? わたくしは彼女との真っ向勝負は避け、降参します」
本当は渦波様相手に使う作戦だったが、少し前倒しだ。
降参して無防備な身体を晒して、中に入り込む。いまは集めた駒を無駄に消費はしない。グレンたちを消費するのは、詰めの瞬間だけだ。
正直、ここでグレンが捕まるのは、私が捕まる以上に困る。
「あなたたちは撤退し、別行動を。当初の予定通り。『光の魔力』を頼みます」
「しかし、僕たちに魔力を預けてしまえば、もうノスフィー様は――」
「ええ、もう一割も魔力は残ってませんね。マリアさんと比べると、塵も同然の魔力量でしょう」
いまや『火の理を盗むもの』を受け継ぎし者の力は、全盛期のアルティレベルに近づいている。いまの私があれと魔法を撃ち合えば、一瞬で蒸発だ。
「だが、塵相手だからこそ、マリアさんは話し合いに応じてくれる可能性があります。魔力が少ないということは決してマイナスばかりではありません」
「しかし、マリアちゃんは甘くありませんっ。いくら殺せない理由を作っても、彼女は思考停止して灰色の存在を躊躇なく殺せるだけの強さがあります。マリアちゃんは本当に――本当に心が強い」
私の『魅了』の『呪い』にかかっているグレンは、ぺらぺらと少し前まで仲間だった少女の強みをばらす。
しかし、かつて『最強』だった男にここまで言わせるとは……アルティは本当にいい娘を見つけたものだ。
「ですね。明らかに彼女は『吹っ切れたアルティ』そのものです。精神的脆さを克服し、いかなる魔法干渉も無効化する。魔力やスキルではなく、『数値に現れない数値』の力だけで強引に弾く。本当にふざけた存在です」
ライナーと同じ類で、格上を殺すことのできる強者だ。
対して、私は弱者代表。
格下相手にはとことん強いが、格上相手にはとことん弱い。この状況を覆すことができる気がしない。経験上、私は負けているときは本当に負け続けだ。
「――けど、それでもやらないといけないんです」
そう言い残して、私はグレンに背中を向けて、ふらつきながらも地下街の道路を歩き出す。
後ろでグレンが何か言っていたような気がしたが、耳を通さずに急いで進んだ。
地下街の民は地上に避難を終えているため、一人になれば静かなものだ。
薄暗い街中に、遠くで燃え盛る炎の音だけ。
大量の汗を地面に落としながら、絶対に負けるものかと心の中で繰り返す。
こんなところで死ぬわけにはいかないと心に誓い直す。
先ほどの気絶中に見た夢のせいか、その思いはより強かった。
生まれたばかりの頃の夢だった。本当に懐かしい夢だった。
そして、あれから随分と成長したものだとも思う。いや、成長というよりは擦れてきたというほうが正しいかもしれない。正直、あんなにもまっさらな時期が私にもあっただなんてちょっと信じられないほどだ。
いまやこんなにもどす黒くなってしまって、使徒たちには申し訳ない限りだ。
もう使徒たちの期待に応えることは絶対にないだろう。
歩きながら、昔の記憶が蘇っていく。
走馬灯みたいだと思いながら……すぐに首を振る。
これを走馬灯にして堪るものかと身体に力をこめる。
まだ死ねない。
こんなところで死ぬわけにはいかない。
まだ私は未練がある。
まだ見つけていない。
まだ手に入れていない。
まだ渦波様から貰っていない。
全然っ、足りて――いない!
渦波様に会わないと……。
もう一度、渦波様に会って、この姿を見てもらわないと……。
渦波様……! 渦波様、渦波様、渦波様……!! どうか早く――!!
「――っ!!」
想い人の名前を心の中で繰り返していると、それを止めるかのように刃が真上から近づいてくる。街の道路の真ん中を歩いていた私は、咄嗟に魔法の輝く旗を右手に生成して、その刃を防いだ。
私の光の旗と敵の黒い鎌がぶつかり合い、一方的にこちらだけが吹き飛ばされそうになってしまう。すぐに私は旗を地面に突き立てて、勢いを殺し、その場に留まる。
なんとか奇襲を防いだ私は、黒い鎌の持ち主――黒髪の少女マリアの姿を見る。
「……またお会いしましたね。マリアさん」
「いいえ、あなたはカナミさんに会えません。ここで終わりです」
マリアは私の考えていたことがわかっているかのように、開口一番に会えないと断言してきた。
よくいまの私の考えていることがわかったものだ。同じ相手を懸想する似たもの同士、ちょっとした思考の共感があるのかもしれない。
ただ、いま相対する姿は別物だ。似ているとは口が裂けても言えない。
いまや『光の理を盗むもの』と呼ぶのも躊躇うほど力を失っている私と違い、マリアの身体は燦々と輝いていた。
黒い髪に黒い目。黒い装束に黒い大鎌。
暗闇の中でも尚黒い闇の少女が、目の前で微笑んでいる。
少女は両目を呪布で隠し、年に似合わない妖艶な笑みを浮かべ、禍々しい魔力を放ち続ける。
その魔力の色だけは、黒でなく赤。
火炎属性の魔力が、彼女の輪郭を赤色で縁取っている。
黒い服の袖や裾から噴出している炎は、まるで日食中の黒い太陽を描く紅炎のようだ。
マリアは『火の理を盗むもの』を受け継いだだけでなく、渦波様がローウェン・アレイスに対抗するために作成した『人造の死神』の力も手中に収めている。
その結果がこれだ。この強さだ。
赤と黒。炎と闇。正と負。
相反する力が融合し、死角のない完璧な魔法使いに至ってしまった。
その魔法使いは死神のように予言する。
「――さようなら、迷宮の守護者『光の理を盗むもの』。親友アルティの名において、あなたの死は絶対です」
ああ、もう。どうして……。
どうして、黒髪黒目の女たちは、みんなこうも恐ろしいのか。
少しだけ昔を思い出して、乾いた笑いが漏れそうになる。
そして、すぐに戦意を解いて、手に合った光の旗も消失させる。
もう二度と、こんな怖いやつらと真っ向から戦うものか。
千年前に『統べる王』たちと戦い、現代で『次元の理を盗むもの』と戦い、私は学んだ。
最強の敵だとわかっている相手に、全身全霊で挑戦するなど馬鹿のすることだ。
確かに、諦めずに努力するのは正しいことだろう。強敵相手に引かないのは勇敢で立派なことだろう。正義を胸に秘めて対抗し続けるのは人の道理だろう。いつか願いが叶うと信じて前に進むのは、物語ならば主人公側だろう。
だが、正しくて、立派で、道徳的で、主人公だからなんだ。
それで勝てるわけじゃない。
それで幸せになれるわけじゃない。
もう私は騙されない。
どれだけ綺麗な言葉だろうが、耳障りのいい言葉だろうが、もう惑わされない。
騙されたら負け。負けたら終わり。終わりは消失だ。
まだ私は消えたくない。
消えるのは怖い。
どんな手段を使ってでも勝って、願いを叶えたい。
ならば零の勝機ではなく、一抹の良心に賭ける。
「ええ、そうですね。マリアさんの仰る通り、わたくしの負けでしょう。勝てる気がちっともいたしません……ので、わたくしは投降します。投降しますので、最後に少しだけわたくしの言い訳を聞いてくれますか?」
「言い訳……? そんなものを聞く理由が私にあるとでも?」
すぱっとマリアは私の命乞いを切る。
しかし、これで難関を一つ越えた。
問答無用で殺されることなく、返答を貰えた。
これで彼女に聞く理由はなくとも、こちらが勝手に口にすれば耳に入る。
その言葉を耳にして、まだマリアが私を殺せるかどうか……そこからが本当の勝負。
「どうかお願いします。聞いてください、マリアさん。今日まで私が、このフーズヤーズでやってきたこと。その行いの数々、全てを――」
不機嫌になるマリアを無視して、口にしていく。
フーズヤーズに生まれた私の全てを賭けた作戦を決行する。
私の最期の戦いを、ここから始める。




