219.少年ライナーの挑戦
遠くから聞こえてくる爆発音の嵐。
おそらく、ロードの風魔法だろう。僕の主の魔法はもっと静かだ。
「ロードは自由に戦っていますね。ではヘルヴィルシャイン、わたくしたちは人のいないところで戦いましょうか」
余裕しゃくしゃくの様子で、ノスフィーは僕に背中を向けて街道を歩く。
不意打ちで背中から斬りかかられても対応できるという自信があるのだろう。僕など、キリストと戦う前の準備運動としか思っていないのが、その振る舞いからわかる。
その後ろに僕はついていかない。
絶対に追いかけてやるものか。
正直、この性格の悪い女のやることに付き合っても嫌な予感しかしない。
せっかくロードとキリストが遠ざかってくれたのだ。いますぐ、ここで、僕は戦る。
「言っておくが最初から全力だ。さっきと違って一切の油断はないぞ、光の守護者。 ――ローウェンさん! シルフ・ルフ・ブリンガー!」
『宝剣』と『魔剣』を抜いて、魔力をこめる。
そして、先ほどキリストを真似て『詠唱』したときに溜まった全ても注ぎ込む。
伝説の剣たちは魔力を得て、活き活きと輝きを取り戻していく。
だが、これでも足りない。
まだだ。
「『加速する』『加速する』『加速する』『加速する加速する加速する』――!!」
さらなる魔力増幅。
ロードを真似ての『詠唱』を行う。
恐ろしい勢いで身の風の魔力は膨らんでいく。キリストの詠唱よりも、こちらのほうが僕には向いているようだ。だが、その代わり『代償』も膨らむのが早い。
加速には軽さが必要だと言わんばかりに、あらゆるものが削れ、削れ、削れていく。
自我が経験が記憶が――魂が削れて、軽くなっていく。
その自傷は快感を伴っていた。いまにも大笑いしたくなるほど、その削りは愉快だ。
ただ、その楽しさの裏で、取り返しがつかなくなるものがたくさんある。
忘れそうになる。
戻りそうになる。
還りそうになる。
遥か過去、赤子の時さえ超えて、生まれる前まで戻ってしまい――死にたくなる。
恐ろしい『代償』だった。
「――っはぁ! はぁっ、はぁっ、はぁっ!!」
いつの間にか呼吸が止まっていた。
得た魔力の代わりに、生きるために必要なものを色々と奪われていた。
「おや、ロードの詠唱ですか? 他人の『詠唱』を真似るところは、末裔のあなたも変わらないようですね」
「こ、こんな詠唱、普通じゃない……! 人が詠んでいいものじゃない……! けどっ、これをロードは詠んでた……! 仕事の合間に、笑って詠んでたんだ……!!」
なんとか記憶を繋ぎ止める。その中にはロードが親身に魔法を教えてくれた記憶もある。
不器用だけれど、それでも懇切丁寧に教えてくれた。
その姿を見て、少しだけフラン姉様を思い出したのは、やはり彼女の根っこにある優しさゆえだろう。一緒に庭の剪定をしたり、食事もした。自警団の真似事をしたときは、姉風を吹かして昼食を奢ってくれたのは記憶に新しい。
しかし、あの笑顔の裏にあったものがこんなものだと思うと、僕は僕の心臓を抉り出したくなる。
「こんなものに頼らないといけないほど、ロードが追い詰められていたって言うのなら! なおのこと!! ここから先は一歩も通さない! おまえを、あの二人には近寄らせはしない!!」
「……よくわかりませんね。ロードが苦しんでいるというのなら、友であるわたくしの存在こそ最も必要なのでは? わたくしも心の底から、ロードの笑顔を望んでいますよ?」
いけしゃあしゃあと抜かす。この女――!
「――ありえない。僕は僕の直感を信じる。どう見ても、どう考えても、あんたが諸悪の根源だとしか思えないっ。ああ、そうとしか思えないんだ! お人好しの主は、まだあんたを心のどこかで信じてそうだけど、僕は違う! おまえの話や事情なんて知るものか! 問答無用で、確実に――ぶっ殺してやる!!」
宣言する。
主が離れたせいか、少し言葉は悪くなったが、ノスフィー相手ならこれで丁度いいくらいだろう。
「……渦波様はわたくしを抑えろと言っていませんでしたか?」
ほら見ろ。
ノスフィーのやつ、顔色一つ変えやがらない。
未だに微笑んだまま、冷静に話の揚げ足を取ろうとしている。
「ああ、主の命令は足止めだ。けど、もう僕は生真面目な騎士は廃業したところでね。うっかりおまえを殺すつもりだ! 最初からなァ!!」
「なるほど。ヘルヴィルシャインの決意は、しっかりとわたくしに伝わりましたよ」
僕の全力の殺気を浴びても、ノスフィーは理解ある賢人のような姿勢を崩さない。
やはり、力の差だけでなく、経験の差も歴然だ。
レヴァン教の伝承によれば、『御旗』となった少女の戦歴は異常だ。
一度、歴史書に登場してからは年表を埋め尽くす勢いで、千に及ぶ戦場を駆け抜けてきた歴戦の猛者だ。
それが僕の相手。
だが、それでも僕は負けられない。
主キリストは僕を信じて頼んでくれた。その信頼を裏切ることはできない。
何より、騎士として――いや、ライナー・ヘルヴィルシャインとして負けられない。
「ああ、僕はおまえなんかに負けていられない……」
「わたくしなんか……ですか?」
「……悪いが、あんたがあのローウェンさんより強いとはどうしても思えない」
『地の理を盗むもの』ローウェンさんの戦闘はラウラヴィアで見た。
あのとき、僕は勝てる気が全くしないと思った。つけいる隙はなく、どこにいても何をしても一呼吸で首を斬り飛ばされると感じた。
だが、この『光の理を盗むもの』ノスフィーは少し違う。
戦闘に関してだけだが……、どこか温いのだ。
ローウェンさんは戦闘を専門としているが、ノスフィーは戦闘以外のことを専門としている。そんな気がする。
「よくわかりましたね。ええ、単純な戦闘能力だけなら、その通りです。しかし、それは当然でしょう? 守護する騎士が主より弱くては話になりませんから」
「ああ、騎士は主より強くなくては護れない。そんなの騎士とは言えないな……。ただ、僕の主であるキリストはローウェンさんに勝利している。つまり、そのローウェンさんより弱いであろうあんた如きに、僕は手間取ってなんかいられないってわけだ」
負けられない理由を口にすることで自分の逃げ場を防ぎ、必勝だけを考える。
それを聞いたノスフィーは、ぽかんと口を開け、少し呆けたあとに笑い出す。
「ふ、ふふっ、ふふふふ。それは良い志ですね。間違いなく不可能という問題点を除けばですが」
「僕はキリストより強くなる使命がある。そう、命を使ってでも勝たないといけない。だからァア――!」
ノスフィーを無視して、自分に言い聞かせ続ける。
経験から、この誓約こそが戦いで最も大事であるとわかっていた。
『詠唱』にも似た感覚で、叫び――
「本当の意味でキリストの騎士となるために! 今日、ここで! 守護者を倒して、僕は強くなる!! おまえを殺す!! ――《イクス・ワインド》ォオ!!」
――風の魔力を推進力に変えて、駆け出す。
対するノスフィーは余裕を保ったまま呟き、光の魔法を編む。
「……あぁ、見ててイラつきますね。その不遜、傲慢、無謀。そんなこと、できやしないと自分で解っているくせに、口に出すことで誤魔化している。そういうの、昔を思い出すのでやめてくれませんか?」
当然のように、その魔法構築は神速。
「――《ライトロッド・光の御旗》」
僕が辿りつく前に、旗に魔力をこめ終える。
そして、その旗を一度だけ真横に振った。
衝撃波が飛んでくるわけでも、魔法が飛んでくるわけでもない。ただ、旗の光が煌いただけだった。
その輝きを僕は一身に浴びる。
構わない。どうせ防げはしない。
『血』を支配するならすればいい。
種は割れている以上、今回は魔法じゃなくて剣だけに集中すればいいだけだ。
だが、その集中を乱すかのように、耳の中に声が響き出す。
(――ヘルヴィルシャイン。聞いてください)
「――っ!?」
目線の先のノスフィーを見るが、口は全く動かしてはいなかった。余裕の微笑を張り付け、口を結んでいる。
しかし、いま、確かにノスフィーの声が聞こえた。
ここで僕は気づく。
光は『血』を支配しようとはしていなかった。
支配しようとしているのは『血』でなく、僕自身。
例の『話し合い』ってやつを、真っ向に仕掛けられている――!
(――少しだけでいいので、わたくしの言葉に耳を傾けてください。……戦いは何も生みません。さあ、まずは剣を収めて話し合いましょう。傷つけ合えば、互いに憎しみを生むだけ。その憎しみが、また戦いを生む。それでは余りに悲しすぎます。それでは余りに世界が救われない。戦いは周囲を巻き込み、どこまでも広がっていくことでしょう。その剣は目の前の敵でなく、罪なき人々を殺します。いつか貴方の愛する隣人を殺すことでしょう。敵を斬ったあと、背中にある護りたかったものも斬られていることでしょう。それが戦い。それが戦争。どうかその真理を理解してください。争いは何も生みません。いまやるべきことは言葉を交わすこと。話し合いこそが、真の平和に続く道。さあ、話し合いましょう。わたくしと話し合いましょう。話し合いましょう、話し合いましょう話し合いましょうはなしあいましょうはなしあいましょう……――)
その旗から発される光の中には、無数の言葉の羅列が凝縮されていた。
全ての言葉を、まとめて頭の中に叩き込まれる。
それは心地よい天の声。
子守唄を唄う母のように、正殿に響く祝詞のように、暖かい言葉だった。
おそらくだが、これがこの光の魔法の本来の使い方。小細工なしの圧倒的な光量による説得だ。
いまにもその光に釣られて首を縦に振りそうになる。
けれど、僕は全身に力をこめなおして、首を横に振る。
この言葉を構成しているのがノスフィーという理由だけで、その光に呑み込まれない理由には十分だった。
「うるさい! そのくらいのこと、とうに知ってる! けど、そんな綺麗ごとだけで世界が廻るか! 話し合いなんて段階は、もう過ぎてんだよ!!」
眩い光の中を直進し、ノスフィーに詰め寄る。
同時に敵の首を刈り取るため、双剣を鋏のように振るった。
それをノスフィーは身をのけ反らして軽く避ける。光のせいで距離を測りづらかったせいか、少し踏み込みが浅かったようだ。
「おっと。この光を浴びても、動じませんか。あれだけ『詠唱』をすれば、普通は心に隙ができるものですが……。おかしいですね。『代償』を払いながらも、自分を保っている? いや、意志の強さで『代償』を踏み倒している?」
避けられようとも、関係ない。
さらに一歩踏み込んで、双剣を右から左に、左から右に、高速で振るい続ける。
それを徒手空拳で避けるのは、流石のノスフィーでも厳しいらしく、旗を発光させるのはやめて防御の武器として扱って、剣を弾く。
「ヘルヴィルシャインの末裔、ライナー・ヘルヴィルシャイン……。不正な手順で我々と同じ領域に至る可能性がありますね。こと精神力においては、全ての『理を盗むもの』以上のようです。いやまあ、『理を盗むもの』に選ばれる条件は隙だらけの心なので当たり前のことですが」
光の旗で剣を弾きながら、余裕たっぷりの様子で僕の分析を行ってくる。
早くその余裕を失わせたくて堪らなくて、僕は剣速を上げる。
「どうしてこんなステージにいるのかと思いきや、なかなか面白い。わたくしも弟に欲しくなってきました。とはいえロードと違い、愛でるのではなく、虐め甲斐のある弟としてですが」
ついには戦っている僕を愛でだす。
寒気の走った僕は、強く剣を払って拒否する。
「誰が弟になるか! おまえの光は禍々しいんだよ! おまえはフーズヤーズの腐った騎士どもと同じ目をしてる! 同じ言葉遣いをしている! その光は人を痛めつける! いま、ここで僕が息の根を止めてやる!!」
そのノスフィーの視線を僕は知っている。
それは子供の頃の記憶の中にある目だ。
庶民の出から大貴族の養子となった僕は、周りからの嫌がらせが絶えなかった。その特殊すぎる出自が、玩具にしやすかったのだろう。わかりやすいイジメを受け続けたものだ。
そのとき、僕を弄ぶ騎士の誰もが光り輝いていた。僕のような下賎な生まれではないため、彼らの言葉遣いと立ち振る舞いは貴族として完成されていた。家は大金持ち、血は古く長く貴く、才能豊かで、誰もが綺麗な服を着て、綺麗な顔をして――笑顔で、僕に嫌がらせをして楽しんでいたのだ。
その騎士たちを、ノスフィーは思い出させる。
自らの行いを悪行と思わず、午後のティータイムのような気軽さで人を貶める。
「このわたくしの息の根を止める……ですか。ただ、あくまで親切として、単刀直入に事実を言いますが……、わたくしに勝つのは無理ですよ?」
超高速で双剣が飛び交う中、余裕たっぷりのノスフィーが無慈悲に勝機がないことを告げてくる。
その言葉には説得力があった。
いま、僕はかつての学院の先輩たちを軽くあしらえる強さになっているだろう。フーズヤーズの正規の騎士たちが百人居たって、僕の相手は務まらないだろう。だが、ノスフィーはそれどころじゃない。エルトラリュー学院そのものやフーズヤーズ国そのものが相手でも軽くあしらえる存在なのだ。存在としての格が違う。そう思わせるだけの力がある。
特異な光の魔法だけでなく、接近戦さえも規格外の化け物だ。
僕の渾身の双剣を悠々と防ぎ、冗談を言う余裕すらある。
「こ、このおおぉおお!!」
雄たけびをあげて剣を振るう。
迷宮でも、ここまで本気で剣は振るったことはない。
ノスフィーと戦う前は、この全力中の全力ならば少しは通用すると思っていた。しかし、その淡い期待を彼女は涼しげな表情で打ち砕いていく。
「ふふっ、本当に懐かしい剣ですね。しかし、懐かしいからこそ、それに慣れています」
ノスフィーは目を細めた。
戦闘中だというのに懐かしんでいる。
その態度に腹が立つ。ただ、それ以上にその発言が気になりもした。
――な、慣れてる? なぜ?
先ほどの迷宮での戦いでは、僕が面食らっている間に封殺されてしまった。僕とノスフィーとの戦いは、まだ合計で一分に届くか届かないかだ。いかに彼女が規格外と言えど、慣れられるには早すぎる。
「こうも簡単に対応されるのが不思議ですか?」
その困惑をノスフィーは感じ取ったのだろう。
そして、少し意地悪そうな顔に変わり、その手に持つ光の旗を折った。
「な!?」
折られた旗は二つの棒に別れ、その形状を変える。
丁度、いま僕が持っている『アレイス家の宝剣ローウェン』『シルフルフ・ブリンガー』に似た形状となった。
「まだまだですよ、ヘルヴィルシャイン。おそらく、わたくしのほうがその剣を上手く扱えますよ。ふふふっ」
にやりと笑ったノスフィーは、光の双剣で戦いを再開させる。
そのノスフィーの構え。そして、左右から振るわれる光の剣の軌跡。
見覚えがありすぎた。
「こ、これは……、もしかしてヘルヴィルシャインの双剣……!?」
困惑しながらも、同じ構えと軌跡でそれを防ぐ。
間違いない。
ノスフィーはヘルヴィルシャインの双剣術を身につけている。それも僕よりも高いレベルでだ。
ただでさえ基本的な身体能力で劣っているというのに、技量にも差が出てしまっては不利すぎる。
慌てて、戦い方を変えようとする。
「な、なら――! ローウェンさん!」
『地の理を盗むもの』の魔石に働きかけて、剣からスキルを引き出そうとする。
だが、それよりも先にノスフィーは笑う。もはや表情を隠すことなく、典型的ないじめっ子の顔となっている。
「次はアレイスの剣ですか? 悪くない発想ですが、アレイス本人でなければわたくしに届くことはありえませんね。これも、わたくしが上」
光の双剣を束ねて、一本の剣に変える。
そして、かつてのローウェンさんを彷彿とさせる剣閃を放ってくる。
双剣を十字に構えて防ぐ。当然だが、ローウェンさんと比べるとキレは落ちる。けれど、間違いなく、いまの僕よりも速い剣閃だった。
「――風魔法《タウズシュス・ワインド》!」
ローウェンさんには勝てないという潜在意識があるせいか、近距離を嫌って、咄嗟に風魔法を放ってしまう。だが、それもまたノスフィーは笑う。頬を紅潮させて、迫りくる風の杭を踊るようにかわしてみせた。
「いい魔法ですが、魔法構築に師たちの癖が出ていますね。その発動を読むのは慣れています。相殺するために魔法を『話し合い』で借りるまでもありません。……言っておきますが、迷宮のほうであなたの魔法を相殺していたのは、心を折るためのパフォーマンスの一種です。本来ならば、相殺しなくとも処理できるだけの能力がわたくしにはあります」
「…………っ!!」
絶句する。
この一ヶ月で少なからず得ていた自信が崩れていく。
な、なら――!
追い詰められた僕は、封印していた魔法を足に構成する。
「――《イクス・ワインド》ォオオオ!!」
足に圧縮した風を解放し、地を蹴る。
左足のズボンのすそが破け、皮膚が風で弾け飛ぶ。しかし、その損害に見合った速度を僕は得る。
人生最高の踏み込みの末、ノスフィーに剣閃を放つ。
身を削った渾身の一撃だ。
だが、瞳に映る光景は無常なものだった。
先ほどまでノスフィーがいた場所に誰もおらず、双剣は空を斬り裂くだけだった。
そして、肩をぽんと叩かれる。
後ろから声が聞こえてくる。
「――発想が、あの馬鹿騎士そのままですね。けれど、それも慣れたものです。何度、わたくしがその自爆技を止めたものか。はあ……」
暖かな溜息が、耳にかかった。
「ノ、ノスフィー!!」
後ろに振り返る――瞬間、視界がひっくり返った。
反転する直前、僅かにノスフィーの姿を捉えることはできた。光の剣を元の棒状に戻し、それで僕の足を払ったのだ。
「ぐっ!!」
地面に叩きつけられる。続いて、両手に痛みと重みが襲い掛かった。
揺れる視界を整えて、目を見開く。
そこには大股を開いて、僕の両手を両足で踏み抜いているノスフィーがいた。そして、手には光の棒。その先端が僕の鼻先にある。
完全なるマウント。綺麗過ぎるチェック。
剣と魔法の全てにおいて惨敗してしまった。
一切の言い訳のしようのない敗北だ。
その余りに早すぎる終わりに、僕の顔が歪む。
「はい、わたくしの勝ちです――が、少しやりすぎましたね。心が痛んできたので、もう終わらせましょう。他人の本気で苦しそうな表情を見ると、心がごわごわして不快になりますから……。ふふっ、やっぱり、わたくしには渦波様しかいませんね。ふふ、ふふふふふっ! おっと、想像しただけで涎が。はしたないです」
涎が僕の顔に落ちかけたが、それをノスフィーは無駄に速い反射神経で拭う。その様子から、ノスフィーに余裕がまだまだあるとわかる。
追い詰めるどころか、時間稼ぎもできていない。
それがいまの僕の現状だった。
――くそ……、畜生……。
自然と悪態で頭の中が一杯になる。
「では、少し気絶してもらいましょうか。強めにいきますので、舌を噛まないでくださいね」
ノスフィーは光の棒を持つ手に力をこめ直す。そして、目の前の棒の先端が少し浮き、いまにも脳天を貫かれそうになる。
――そのときだった。
がくんっと、大地が揺れる。
遠くから雷よりも大きな轟音が鳴り響き、世界が大地震に襲われる。
それにより、とどめの一撃がずれた。
「……おや? おやおやおや、ようやくロードが本気になったようですね」
ノスフィーは視線を遠くへ向ける。
どうやら、向こうの戦場でロードが大魔法を放ったようだ。
空を見れば、非現実的な亀裂が入っていた。そして、その亀裂に合わせて、ぼろぼろと空が剥がれ落ちているのが見える。それだけじゃない。目を横にずらせば、大地に無数の地割れが生まれていた。
世界崩壊としか表現できない光景が、世界に広がっていく。
これがロードとキリストの戦いの余波。
遥か遠くで戦っているはずなのに、その壮大さが伝わってくる。
僕に真似なんてできない力のぶつかりあいだ。
それを見て、僕は嘆く。
「ここまで無茶をしても、まだ僕は届かないのかよ……! 畜生……!」
いまの僕では守護者たちに届かないことを知る。
身の程を知り、キリストの言うとおりに足止めに徹するべきだったのだ。傲慢にも勝とうとするなんて、余りに考えが甘かった。
その嘆きを聞き、ノスフィーは優しい声を返す。
「ええ、届きません。ヘルヴィルシャイン、あなたの負けです。あなたは弱い。目を見張るところはあれど、まだわたくしたち『理を盗むもの』には至りません。なにより、一番の問題は、人生が薄すぎるのです。見たところ、まだ十余年程度の人生でしょう?」
貶しているのではないと声色からわかった。
ノスフィーは事実を並べ、僕を評価しているだけだ。
「ここにいる他三人と比べると、どうしても不足しています。そして、その不足はあなたが何をしようと埋まることはありません」
「埋まらなくてもやるしかないだろ……!!」
「さらに言えば、その身の力にあなたが追いついていません。おそらく、裏技的な手段でそこまで強くなったのでしょう? 正直に申せば、借り物の力で取り繕っているだけで、中身は薄っぺらい――というのがわたくしのあなたの印象です」
僕の駄々に似た返答を、ノスフィーは優しく受け止める。
これではまるで助言のようだ。
それはつまり、敵として扱われていないということだった。
ノスフィーの助言が頭の中で反響する。
ライナー・ヘルヴィルシャインは薄っぺらい。借り物の力で取り繕っているだけ。裏技に頼っている卑怯者。
だから、ノスフィーにもロードにも主にも、誰にも追いつけない。
――わかってる。
そんなこと最初からわかってる。
まず、いまのレベルと魔力なんて、ほぼハイリの力だ。魂を譲ってもらって、ようやくここに立てている。
そして、剣技のほうはローウェンさんからの貰い物。自分で研鑽したわけでなく、一足飛びで得た付け焼刃。
魔法だって同じことが言える。アイドとロードからちょっと教えてもらって、なんとか実践レベルまで上がったが、これもまた自分で研鑽したのではなく、千年前の知恵をもらっただけ。
この装備も、全て貰い物。僕が作ったものでないどころか、僕が集めた魔石ですらない。僕が払った金貨は一枚もなく、全てキリストが用意したものだ。キリストの心の友であろうローウェンさんを貸してくれていることから、主の僕に対する心配の深さがよくわかる。
――ああ。認めたくないけど、わかってる。
この密閉された地下空間では、戦いに巻き込むとキリストは心配していたのだろう。来たるべき戦いで、僕だけが力不足だと薄らと予期していたからだろう。
だから、自分だって危険だというのに、僕ばかりを強くしようとしていた。
本当に優しい主だ。
口に出しては言えないが、いままで見てきた誰よりも仕え甲斐がある立派な人間だと思う。
だからこそ、悔しさは倍増する。
その理想の主の騎士に、せっかくなれたのに、自分が力不足であることが悔しい。信頼され、ノスフィーの相手を任されたのに、その期待に応えられないのが悔しくて悔しくてっ、堪らない――!
「あ、あぁ、くそぅ……! くそぉおぉお……!!」
なんて僕は弱いんだ――!
弱い弱い弱いっ、弱すぎる!
弱い騎士なんて無価値だ! 主を守れなければ、何の意味もない!
ゴミだ! 僕はただのゴミクズだ――!
いや、ゴミクズ以下! 誰かの役に立つどころか、足を引っ張ってばかり!
ああ、やっぱり僕はっ、何の価値もないゴミクズ以下の存在――!!
いつまで経っても変わらない! ここまで生きてきて、何も変わっちゃいない!!
――そう心の中で叫び、自分の悪態で自分の心が折れそうになる。
いつもの癖で、屈しそうになる。
けど!
それでも――!!
その悔しさに勝る感情があるのだ。
それはいままでにない感覚。ただただ信頼に応えたいという想い。
主のために勝ちたいという純粋な感情。
「ま、負け……、るかぁあ……! 僕は誓ったんだ! 主たちを守るって! だからぁあああアア――!!」
地面に倒れたまま、咆哮する。
続けて、力を得るために詠唱する。
「『加速する加速する加速する』! 『空から導かれる道』『天へと続く道』――!!」
それをノスフィーは呆れた様子で観察し、冷静に助言を続ける。
「『代償』を払えば何とかなるほど、わたくしは弱くありません。世界に頼るのはいいですが、世界はそう都合のいいものではありません。それを知るべきです」
『詠唱』の最中、ノスフィーの言葉が耳に引っかかった。
――僕が世界に頼っている?
「とりあえず、気絶してください。これで終わりです」
再度、とどめが振るわれようとする。
光の棒の先端が近づいてくる。
このままではノスフィーの言うとおり、終わってしまう……のに、この戦いよりも気になることが僕にはあった。聞き逃せない単語があった。
敗北の直前、その刹那の時間にかつてないほど頭は回転する。
走馬灯のように思考が加速する。
――『世界』だって?
そんなものに。そんなものに。そんなものに。
僕はそんなものに、頼ろうとしていたのか?
――違う。
反射的に否定する。当たり前だ。
僕が頼っているのは、もっと別のものだ。この詠唱だって、思い浮かべているのは世界じゃなくて、信頼する人たちの顔だ。
ローウェンさん、アイド、ロード、キリストの教えを思い出している。
だから、世界なんて頼るどころか――『敵』。
生まれてからずっと、それは変わらない。
それがライナー・ヘルヴィルシャインの初心。
ああ、僕が信じているのは『世界』じゃない。もちろん、僕自身でもない。
それに気づいたとき、魔法の発動もなく。
――風が吹く。
ノスフィーと僕の間に柔らかい風が流れ、前髪が揺れた。
それはロードの風でも僕の風でもない。もちろん、ノスフィーの風でもない。
しかし、その風の感触を僕は知っていた。
誰の風かを知っていた。
いま、ノスフィーの光の棒の先端が、僕の脳天に振り下ろされようとしている。
先端の光が大きくなり大きくなり、いまに敗北する――その瞬間。
僕は僕の力の本当の源を、はっきりと知る。
「あ、ああぁあああっ……!!」
――想起する。




