第十六話 迷い道の進軍Ⅰ――揺れ動く
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地獄を見た。
炎のはぜる音と慌ただしく地面を鳴らすいくつかの靴音だけが虚しく響く。
口数は少ない。人々の楽しげな声が消えたネバーワールドを少年達はただひた走る。
倒壊したアトラクション、燃える看板。割れたガラスが道に散乱している。
片方だけ脱げて置き去りにされた小さな靴。かわいらしいクマのぬいぐるみは沢山の人に踏みつけられて見る影もないほどにボロボロになっている。
焦げ臭い匂いの中に、時折鼻を刺すような死臭が混ざり、心が揺れる。
瓦礫の隙間から力なく垂れ下がった人の手のような形の物体が飛び出しているのが見えた。
手のような、と言ったのは、その物体の元が何だったのか判別が付かない程真っ黒に焼け焦げていたからだ。
途方もない火力で焼かれ炭素の塊と化したそれからは一切の生命力を感じられない。ただ中途半端に形が残っていて、どうしても嫌な想像をしてしまう。
腹の底から何かがせせりあがってくるような感覚を覚えた。
吐瀉物を撒き散らしそうになるのを懸命に堪える。
いっそ原型が分からなくなるレベルで焼け崩れてしまえば良かったのに、などとさえ思ってしまう自分がいた。
……まるで世紀末だった。
命の匂いがまるでしない。何十年も昔に廃れた、廃遊園地を訪れたような錯覚さえしくる。
いや、死がこびり付いている分、それよりなお悪い。
まるでゾンビゲームの世界にでも入り込んだみたいだ。
命の残痕。死の香り。
空間一帯に満ちる絶望の気配が、勇麻の肌を冷たく刺した。
その破壊の爪痕を眺めている内に、心に忍び寄る影があった。
暗く、陰鬱な影。
それが耳元で囁くのだ。
南雲龍也がいれば、結果は違ったかもしれない。
彼さえいてくれれば、こんな悲劇的でどうしようもない結末だけは回避できたかもしれないのに、と。
全てが自分のせいに思えた。
南雲龍也はいない。あの黒騎士の正体が何にしろ、もう勇麻の知る英雄はこの世のどこにも存在しないのだ。
勇麻のせいで、
あまりにも無謀な行動に出た勇麻を庇って、南雲龍也は死んだのだから。
心に纏わりつくその影は、振り払ったはずの過去の亡霊だ。
彼の代わりに全てを救えと、悪を決して許すなと。偽物の英雄、南雲龍也の代理品として、その役目を果たせ、と。蘇った亡霊が勇麻にそう囁きかけてくる。
残虐非道な『ユニーク』という組織を許してはおけない。
正義の味方は悪を挫くものでなければならない。
悪を許してはならない。
それが正義の味方として此処に在る為の絶対の掟。
だがそれは、看過できない一つの矛盾を勇麻の中に生み出す事になる。
アリシアを狙い、南雲龍也の名を騙った黒騎士。理想の世界を夢見た天風駆。
両者との戦いを経験して、アリシアと天風楓という二人の少女を絶望から救った勇麻が得た物は決して小さな物ではなかった。
理由。
心の底から、己が拳を握りたいと思える理由。
――大切な人達と、その人達の世界を守りたい。
それは、今まで偽物の英雄として、南雲龍也の代理品として、罪悪感と義務感に苛まれ、自分の理由で戦ってこなかった東条勇麻が掴んだ、自分だけの戦う理由だった。
けれど、
(高見秀人……)
友達だと思っていた。
友達なのだと信じたかった。
それなのに、
自分の守りたい世界の一部に裏切られた。
……いや、裏切られただけならばまだいい。
人を傷つけ、殺し、奪い、絶望の淵へと叩き落とした最狂最悪のテロリスト、寄操令示。
そんな狂人の隣に、勇麻が守りたいと思っていたあの少年は立っているのだ。
守りたいと、失いたくないと、そう思っていた大切な友の一人が、倒すべき悪の側に立っている。
その矛盾を、二つの信条をその身に刻む東条勇麻の心は絶対に看過できない。
(お前は……お前は、こんな世界を本当に許す事ができたって言うのか!? こんな酷い事をする連中に手を貸したのかよッ!)
勇麻だって最初は、信じてみようとした。
高見にも何か事情があって、仕方がなく寄操に協力しているのだろうと、無理やりにでもそう思おうとした。
高見秀人の友達を名乗るのならば、最後まで友達を信じるのが正しいのだと、必死で自分にそう言い聞かせようとした。
けれど、これは無理だ。
楓の時とは状況も、事態の深刻さも違う。
彼女がやった事は確かな破壊行為であり、決して褒められた事ではないが、それでも天風楓は誰一人として人を傷つけなかった。
それになにより。
実際にこの目で、現実として眼前に広がる地獄を見て、それでもなお高見を信じてみようなどとは思えない。
吐き気さえ覚える嫌悪感と度し難い怒り。
それをつい何時間か前まで友達だったはずの人間に対して抱いているこの状況事態が、勇麻にとっては耐え難い苦痛であった。
――誰かを傷つけなければ手に入らない理想など、何の価値もない。
天風駆に向けて勇麻が放った言葉。
ならば、たとえ高見にどんな理由があったとしても、彼を許す事は許されないのではないだろうか。
許す事を、勇麻自身がきっと許さない。
もう、勇麻には分からなかった。
高見秀人を倒すのが正しいのか、
友達を救うのが正しいのか、
分からないままに、それでもがむしゃらに進むしかなかった。
今こうして勇麻が走り続けていられるのは、アリシアという存在が傍にあるからだろう。
天風楓という少女が倒れそうな勇麻を優しく支えてくれているからだろう。
彼女達の想いや期待に、信頼に応えようという確かな意志だけが、勇麻の心を支えていた。
しかし、
だからと言って必ずしもその感情が、勇麻にとってプラスに働くとは限らない。
だって、信頼や期待に応えたいというその想いは、一歩間違えれば信頼や期待を裏切るのが怖いという、ネガティブな感情へと変貌するのだから。
(俺には……分からねえよ)
揺らぐ心。
かつて無いほど不安定な精神状態に、東条勇麻は陥りつつあった。
……隣を懸命に走ってついてくるアリシアが、その無表情の中にどこか心配したような色を浮かべている事にすら気が付かない程度には。
泉修斗は己の前を走る友の背中を複雑そうな表情で見つめていた。
今ここに背神の騎士団の連中はいない。
あの情報交換の話し合いの後すぐに、二グループに分かれて行動する事になったのだ。
泉、勇麻、アリシア、楓の四人が遊撃部隊として直接『ユニーク』のメンバーに攻撃を仕掛ける役割を担っている。
セルリア、シャルトル、セピア、スカーレの四人は、“もう一つの解決策”の為に、今頃パーク内を走り回っているハズだ。
結局元鞘というか、いつもの面子で行動する展開になった訳だが、連携が取りやすい方がベストだし、この組み合わせに落ち着いたのは妥当と言えるだろう。
……もっとも、セルリア達にはそれ以上に組み合わせを変えられない事情があるのだが。
「……ねえ、泉くん」
「あ?」
走る泉に話しかけて来たのは、隣を行く天風楓だ。
泉は楓の表情から、彼女の言いたい事をそれとなく察しながらも言葉の続きを待った。
しばらくの沈黙の後、楓は遠慮がちに口を開いて、こしょこしょ話でもするような抑えた小声で、
「勇麻くんの事、なんだけど……」
「あぁ、分かってる」
誰の目にも明らかだった。
今の東条勇麻の状態は、明らかに不安定だ。
あれで動揺を隠しているつもりなのかも知れないが、つい先日知り合ったというシャルトル達ならともかく、長い付き合いの泉や楓の目は誤魔化せない。
黒騎士がその仮面の内側を明かした時の事を除けば、ここまで精神が不安定になる勇麻を見るのは初めての事だった。
「そうとう無理してるよね、勇麻くん。……やっぱり高見くんの……」
「ほっとけ、それはアイツ自身の問題だ。俺らがどうこう言って、解決するようなモンじゃねえ。お前だってそうだろうがよ。……納得なんざできる訳がねえんだ。こればっかりはあのアホ猿に直接問いただすしか解決策はねえよ」
「……泉くんは、どうなの?」
「あ? どうって、何が……?」
楓の問い掛けには、若干の躊躇いが見えた。
「高見くんの事、」
「……別に、どうもこうもねえよ。いつもと一緒だ」
泉はどこか遠くを眺めるように目つきの悪い瞳を細めて、ぶっきらぼうに吐き捨てる。
「アイツが俺に馬鹿やってちょっかいだしておちょくって来たら、それをキレた俺がぶっ飛ばす。何も変わんねえ。それだけだ」
そう言った泉の横顔は、
「それだけなんだよ……」
いつもより少しだけ寂しげだった。
もう話は終わりだとばかりに泉はそっぽを向いてしまう。
楓も、それ以上の追及をしようとはしなかった。
彼女もまた、泉や勇麻同様、高見について思うところがあるのだろう。
勇麻たちほどの付き合いでは無かったが、楓にとっても高見秀人は友達だったのだから。
☆ ☆ ☆ ☆
情報交換と、簡単な話合いを終えた勇麻たちは、入園ゲートやレストランなどが多数軒を構える北西側(地図上左上)のエリア『ブレッドシティ』を後にして、パーク中央のエリア『マーガリンフォレスト』に向かっていた。
明確に敵の位置が分かった訳では無いが、決して何のアテもないという訳でもない。
しばらく走り通して一度足を止めた勇麻たちは、周囲に気を配りながらも簡単な休息を取る事にした。
単純にアリシアがへばったのだ。
「勇麻。すまないのだ、……少し、疲れてしまった」
いつも平静とし、呼吸どころか顔色にさえほとんどの乱れのないアリシアが、顔を火照らせ息遣いも荒い。
勇麻は、それでも走り続けようとするアリシアを半ば強引に近くのベンチに座らせた。
このまま走り続けたら、冗談抜きでこの少女は倒れかねない。
長年に及ぶ監禁生活のせいかアリシアは同年代の普通の子より体力が少ないのだ。
その事を失念していた。高見の事やユニークの事ばかりを考えるあまり、完全に周りが見えなくなっていた。
途中で見かねた泉が言ってくれなければ、アリシアが倒れるまで気が付かなかったかもしれない。
あんな無茶苦茶なペースにアリシアがずっと付いて来れるハズがないのに。
「いや、悪いのは俺のほうだ。ごめん、アリシア。俺、全然周り見えてなくて……お前に無理させちまった」
「私は平気なのだ。言ったであろう? 勇麻に頼られるのは悪い気はしないと」
そう言って微かにイタズラげな笑みを浮かべるアリシアを見ていると、無能な自分に対する怒りが湧き上がってくる。
アリシアに見えないように力強く歯を食いしばり、肉に爪が食い込む程に拳を握りしめる。
何が大切な人達を守りたいだ。
自己中に自分勝手に、周りの事なんて微塵も考えないで突っ走っているだけではないか。
自分一人では何もできない癖に、自分一人で焦って、足並みを乱す。
足を引っ張っているのは他の誰でもない、勇麻自身だ。
そんな強い自責の念が、勇麻を襲っていた。
そんな勇麻の様子を遠目に眺めていた泉は軽く溜め息を吐き、少し先で集中力を高めるように瞑目している楓に声を掛けた。
風も吹いてないのにふわりと揺れる茶色の髪が、どこか神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「楓、どうだ?」
泉の問いに、楓はゆっくりと目蓋を開いて首を横に振り、
「……ハズレ。少なくともこの辺りにわたしたち以外の人間はいないと思うけど……」
天風楓の暴風御手は非常に強力な神の力だ。
そして何より、様々な事に応用が利く万能型な力でもある。
例えば『風の眼』。
空気や風の流れに己の意識を乗せて、障害物や人間などの有無を見極める探知、索敵能力。
勇麻たちがパーク中心に向かっているのも楓の『風の眼』を最大限活用する為だった。
楓を中心として三六〇度円状に広がる『風の眼』の索敵範囲を活かすには、パーク中央から索敵を掛けるのが最も効率が良い。
パーク中央から全力で索敵範囲を広げれば、ネバーワールドのおよそ八割以上の面積をカバーする事ができる。
完全に閉ざされた密閉空間のような場所に潜まれていたら感知しようがないが、少しでも風の通り道があれば建物の中であろうと問答無用で楓の支配圏だ。
出発前に索敵を掛けた位置から大して移動していない事もあって、元よりあまり期待はしていなかったのだが、それでも少しばかり苛立ちが募る。
が、それよりも『思うけど……』という歯切れの悪い言い方が泉は気になった。
泉は視線だけで楓に先を促す。
楓は若干躊躇い、困惑したように続きを口にした。
「実はさっきもそうだったんだけど、人間の物じゃない反応がかなりの数あるの。……一〇〇とか二〇〇なんて数じゃない、それこそ何千とか何万とかそんなレベルで……」
「背神の騎士団の連中はその事知ってんのか?」
「うん。一応、セルリアさんにだけ話してある。あの人達の役目を考えると、逆に混乱させちゃうかなって思って」
ほら、あのスカーレさんとかだったら、紛らわしいから全部燃やし尽しちまおうぜ! とか言いそうでしょ? と、冗談めいた口調で楓は言った。
冗談でもなく本当にやりそうだと思ったが、わざわざツッコむべき所でもないだろう。
泉は忌々しげに頭を搔いて、
「……あのクソ野郎共の仕掛けた起爆虫とかいうヤツか。チッ、数から言って他にも色んな種類の気持ち悪い虫ケラがうじゃうじゃいんだろうな」
「最初にわたしの『風の眼』に対して妨害を掛けてきた個体も何体かいるみたい。身体から不規則に風を放出して、何体もの相乗効果でバタフライ効果でも狙ってるんだと思う。……もっとも、出力あげちゃえば無視できるレベルの妨害なんだけどね」
楓は苦笑いしながらそう言った。
確かに、連中にバレる事を気にしなくても良くなった今、楓を相手に多少の妨害程度では意味を成さないかもしれない。
だが、問題なのはそこではない。
「つっても鬱陶しい事に変わりはねえ。それに、高見のヤツが俺達の神の力についてぺちゃくちゃ喋ってるとしたら、色々面倒な事になりそうだ」
相手に高見という旧知の存在がいるという事は、楓や泉、それに勇麻の神の力をああらかじめ把握している可能性が高いという事だ。
今にして思えば、ユニークの連中の泉や楓の攻撃への対応は、初見にしてはやけに落ち着いていたようにも感じる。
最初からユニーク側にこちらの情報が漏れていたと考えれば辻褄が合う。
「面倒な事? 確かに対策は立てられてるけど、これくらいの妨害なら問題になる程じゃないよ?」
「問題はそこじゃねえ。楓の力が割れてるって事は当然、『風の眼』も、それ以外の力についても把握されてる可能性が高いだろ。もし俺らにとって都合の良すぎる事態に遭遇した時、そこには罠の可能性が必ず潜んでやがるって事だ。なにせ、相手はこっちの手札が見えてる状態で大富豪ができるようなモンなんだからよ。対して俺らは罠だと分かっていても、動かざるを得ねえ。なにせ、タイムリミットが尻に迫ってんだからな」
「要するに、向こうは前もって自分が有利なように仕組んだホームで戦えるけど、私達は完全アウェーで後手後手に回らざる負えないって事?」
「ムカつく事にそういう訳だ。俺達は今、完全にユニークのクソ野郎共に主導権を握られている。まずはこの劣勢を覆す」
泉は自分の左の掌に勢いよく拳を打ちつけてそう言った。
バシィッ! という気持ちのいい音と共に火の粉が散る。
「その為の囮役なんだね……」
「ああ。連中にとっての誤算の一つはこのネバーワールドに背神の騎士団のメンバーがいたって事だ。そこを突かない手はねえだろ。……アイツらを信用できるかどうかはともかくな」
最後の最後で吐き捨てるように言った泉に楓が呆れたように息を吐いた。
「もう、泉くんてばまだ言ってるの?」
「ケッ、勇麻の知り合いだか何だかしんねえが、俺はアイツらが気に食わねえ。……だいたいお前はアイツらに命まで狙われたんだろ? 平気なのかよ」
ジトっと、不機嫌そうな目付きで睨みならが泉は言った。
泉も楓とその兄の関わった事件の全貌を聞いた訳ではないが、ある程度の概要は理解しているつもりだ。
泉の記憶が正しければ、楓と背神の騎士団のシャルトル達は敵対関係にあったハズだ。
泉の当然の疑問に、楓は困ったように、あははと笑って、
「まあ、まったく気にしてないとは言えないけど、さ。あの人達もあの人達なりの正義があっての行動だった訳だし、どちらかと言うとわたしの方が悪い事してたから……。無理に堀り返す必要もないかなって。仲良くできるなら、それに越した事はないんだしね」
相変わらずお人好しと言うか、優しいと言うか。甘ったるい台詞だ。
回りくどい言葉を要約すると、別にわたしは気にしていないから大丈夫。という事らしい。
「俺には理解できねえな」
「泉くんは、売られたケンカは最後までやり通す人だもんね」
「まあそれもあるんだけどよ。……それより、ちょっと気になる事があってな」
「気になる事?」
「楓。お前、アイツらに高見の事を説明した時の事、覚えてるか?」
「覚えてるけど、それがどうかしたの……?」
首を傾げる楓の様子を見るに、彼女はシャルトル達の態度の異変に気が付いていないらしい。
泉たちはシャルトル達と協力するにあたってお互いの持っている情報を交換し、共有している。
その際、アリシアの持つ『天智の書』でユニークの構成員についても調べたのだが、そのユニークのメンバーに触れる為には高見の事を説明せざるを得なかったのだ。
それに先に言っておかないと、事情を知らない背神の騎士団に高見が標的として殺されてしまうかもしれない、と言う懸念もあった。
問題は高見秀人の名前を出した時の連中の反応である。
その名を聞いた途端、連中の顔に確かに動揺の色が走り、慌ててそれを無表情の中に隠したのである。
あの反応は、高見秀人を知っている者の反応だった。
それもただ知っているというだけではない。この局面でその名前が出てくる事に驚いているような、予想外の出来事に直面したような反応。
まず間違いなく言える事は、あの四人は確実に高見について何かを知っているという事。
そしてそれを協力体制にある泉達に話そうとしない時点で、かなり怪しい。なにか腹に一物抱えていると疑われても文句は言えないハズだ。
(……アイツら、一体何を隠してやがる)
敵は何もユニークだけとは限らないかもしれない。
そんな疑心が、泉の心に忍び寄り始めていた。
その時だった。
風を切るような音が聞え、いち早く異常を察知した楓が叫んだ。
「泉くん! 後ろ!」
「あ?」
楓の切羽詰まった声の理由を、泉はすぐさま思い知る事となる。
反射的に後ろを振り向くと、既に泉の視界一杯に拳が広がっていた。
「――ッ!!?」
まるで虚空から唐突に現れたかのような一撃。
躱せない。
完全に相手の間合いだ。避ける事はおろか、反応する事すら難しい距離まで詰められている。
泉は、己に向けて振るわれるその 拳を、ただ無抵抗に眺めている事しかできなかった。
直後、
ズドムッッ! と鈍い音。
泉の顔面に襲撃者の拳がめり込む。
「泉!」
少し遠くから勇麻の驚いたような声が上がる。間近の楓が息を呑むのが分かった。
襲撃者の奇襲は見事なまでに決まり、泉はノーガードで重い一撃をモロに受けてその場に──
が、そこまでだ。
泉の身体がダメージにグラつく事もなければ、苦痛に叫びをあげる事もない。
むしろ慌てたのは襲撃者の方だった。
「くっ」という短い呻きと共に、重い一撃を放った右の拳を慌ててひっこめて後ろに飛びのく。
襲撃者は、焼けただれた手の甲を押さえながら忌々しそうに呟いた。
「火炎纏う衣か。……ちっ、相変わらず厄介な神の力だぜ。シュウちゃんのソレ。それで干渉レベルCプラスとか冗談だろ?」
火炎纏う衣。泉修斗の身体を、マグマのような粘性のある炎に変換する神の力。
防御性能、攻撃性能、どちらも比較的優れた水準を叩きだす、攻防一体の力。
虚空を裂いて現れた高見秀人の一撃から、文字通り、その身に纏った炎が泉を守ったのだ。
だが、本来ならば避ける事も反応する事も不可能なタイミングだったハズだ。
それなのに、高見の拳が直撃する瞬間には、既に泉は己の身体を炎へと変換し終えていた。
「――テメェら『ユニーク』の連中の中に瞬間移動系の神の能力者がいる事は分かってたからよ。いつきやがっても良いよう常に警戒だけはしてたんだ。……まさかいきなりテメェが来るとは思ってなかったがな、クソアホ猿」
「さっすがシュウちゃん。あえて無防備に見せかけて誘ってたって訳か。俺っちの読み違いだったみたいだぜい。どうせやるならユーマ辺りを狙っておくのが正解だったな」
まるで小テストで問題を間違えた事を笑い話にするような、そんな気楽な口調だった。
まるでいつも通りのその態度。
こんな異常な状況なのに、いつも通りだという異常。
それが泉にとっては、どうしようもなく気持ちが悪い。
ぽりぽりと頬を搔く高見の背後、やけに低い声が響いた。
「高見……」
「お、噂をすればユーマじゃん。何やら随分やる気まんまんみたいだけど……」
勇麻だ。
だが明らかに様子がおかしい。
握った右拳からどす黒い怒りが漏れ出し、まるで体積が倍にでも膨れ上がったかと錯覚するような圧力を周囲に放っている。
熱い闘志で燃え滾っていた瞳は暗く淀み、毒蛇のように鋭く細められた眼は此処では無いどこか遠くを見据えているようにすら見える。
何かを堪えるようにきつく引き結んだ口元の裏で、砕けんばかりに歯を食いしばっているのがここからでも分かった。
まるで修羅のような形相。
泉は、自分が勇麻のその表情に気圧されている事に気が付いた。
「高見。俺は──俺には分からない。……分かんねえよ……ッ!」
まるで子供が何かに八つ当たりでもするかのような声だった。
泉にはその声が、自暴自棄による破滅的な色を帯びているような気がしてならない。
「……分からない、ね。いや別に俺っちも分かって貰おうなんて思ってないからいいんだけどさ。なに? 何なのユーマ。そんな無駄話がしたくて外に出たのかお前。戦う覚悟がないなら安全地帯に帰る事をお勧めするぜ?」
「そう、だよな……。話なんて、あとでいくらでも聞けばいい。今は、とりあえず一発」
勇麻の声は何かに憑かれているかのように、不安定に揺らぐ。
ぎりり、と東条勇麻は拳をさらに強く握りしめて、
「お前をぶん殴らないと、気が済まねえ!!」
勇気の拳の力を借り、東条勇麻が凄まじい速度で飛び出した。
「チッ、ああクソ! テメェが先走ってどうすんだよあの馬鹿!」
一瞬遅れて泉も拳を構え走り出す。
炎を纏った拳を一切の容赦なく振りかぶる。
同時、泉のやや後ろで楓が周囲の風の制御を開始した。
楓の背中に莫大な力が集まり、それを圧縮、制御し場に留めて竜巻の翼を背中に展開。
周囲一帯の風の流れに自身を組み込み、周辺の空間一帯を完全に楓の支配下に置く。
三人同時の一斉攻撃。
空間移動を使用する高見なら、まず間違いなく勇麻と泉の攻撃は回避できるだろう。
しかしそれでも、広範囲をカバーする楓からは逃れられない。
高見はその様子を見て、やれやれと額に手を当て冷めた目で笑い、
「全く、血気盛んだなぁ。でも、シュウちゃん達には悪いんだけどさ」
その細い目を妖しく薄く開いて、
「俺っち、今アンタらとガチでやり合う気はないんだわ。ごめんなシュウちゃん、ユーマ」
指を鳴らした。
たったそれだけ。
しかし、異変が起きた。
「!?」
しっかりと地面を掴んで蹴り出していたハズの泉の足の裏が、“地面を踏み外した”。
まるで奈落の底に落ちるような浮遊感に包まれたかと思った刹那、泉の視界がほんの一瞬、完全な無に包まれた。
漆黒でも純白でもない。
色が存在しない、無なのだ。そうとしか表現できないのだから、他に言い表しようがない。
その謎の浮遊感と、無に覆われていた時間もほんの一瞬だった。
一秒とたたず、色づいた景色が帰ってくる。
「……な、何だ、今のは」
身体を襲うおかしな感覚から解放された事に泉が気が付くと、既にそこに高見秀人の姿は無く、それどころか一緒に居たハズの勇麻や楓、アリシアの姿さえもどこにも見当たらなくなっていた。
「勇麻! 楓! アリシア! ……くそっ! 一体何が起きやがった!?」
焦る頭で周囲を見渡している内に、さらにあることに気が付く。
さっきまで泉たちがいた場所と、今泉がいる場所の景色が異なっているのだ。
けっして見覚えのない景色ではない。ここは、今日既に一度通っている。
泉が立ちつくしているその場所は、入場ゲートなどがある北西側(地図上左上)のエリア『ブレッド・シティ』の一角だった。
「まさか……俺らが、飛ばされたのか……?」
高見秀人は空間移動系統の神の力を使っていた。
だから泉も不意打ちを警戒していたし、触れられる事の危険性も把握していたつもりだった。
だが、触れる事も無く自分以外の人間に干渉する事ができるとは思っていなかった。
対象に触れる事なく、かなりの距離、座標を移動させることができるなんて、完全に予想外でしかない。
「やられた……」
ふつふつと、あまりにも不用意に何の警戒も無く高見に跳びかかった自分に対する怒りが湧き上がってくる。
燃え盛る炎拳で思わず地面を殴りつけながら、泉修斗は悔しげに顔を歪め吠える。
「くそったれがぁッ! ……完全に、してやられた!!」




