第十一話 救いのない現実Ⅳ──裏切りとカウントダウンの始まり
東条勇麻と泉修斗が高見秀人に出会ったのは、桜舞う中学の入学式当日の事だった。
新しい生活への期待感と僅かな不安……などという殊勝な物を、腐れ縁の友人である泉修斗は丸っきり持ち合わせておらず、遠からず暴走するであろう泉を食い止める役目を負う勇麻は、新しい生活について不安になっている暇さえなかったのだ。
けれど、そういう時に限ってトラブルはやってくる物である。
校舎の陰、表には新入生が溢れかえり、その反動で完全に人気の消えたそのポイント。
そんな場所で、勇麻は大きくため息を吐いていた。
「なあ、泉。最初に言ったよな? 初日からトラブルだけは起こすなって……」
「あ? カツアゲされてるヤツを助けようっつったのは勇麻だろうがよ」
反省するどころか、勇麻の責任を指摘する泉に東条勇麻は爆発寸前だった。
「話し合い! 話し合いで解決しようって言っただろ!? 何でお前は何でもかんでも直ぐに手が出るんだよ! 無言でグーパンってお前、いきなりラスボス倒しちゃって周りの子分達もどう反応していいのか困ってるだろ!」
「あ? 何言ってんだ勇麻。話し合いも何も、豚畜生相手に人語が通じる訳ねえだろ?」
「いや確かに中々人間離れした顔の作りしてるけどアレ人間! モンスターに見えても俺達の言葉ちゃんと通じるから!」
「……テメェら、黙って聞いてればいい加減にしろよ……」
指を指されて好き勝手に散々な事を言われまくっていた巨漢のカツアゲ男が怒り狂ったの呻き声を上げながら立ち上がっていた。
みちみちと今にも音を立てて弾けそうなボタンの制服を着ている所を見るに一応この学校の生徒らしい。おそらくは上級生だろう。
なるほど、確かに泉の言うようにやや上を向いた鼻がどことなく豚っぽい。
肥えまくって肥大した巨体とあわせて、ぴったりと言えばぴったりだ。ついでに鼻息もすごい。
「ほら見ろ! 泉が酷い事言うからめっちゃ怒ってる」
「お前もだよケンカ売ってんのか糞野郎!」
「?」
自覚が無いのは恐ろしいという話なのだった。
兎にも角にも、親玉が復活した事でようやく落ち着きを取り戻したらしい子分達が若干うわずったような声を上げた。
威嚇しているつもりなのだろうが、ビビってるのがバレバレだ。
虎の威を借る狐もとい豚の威を借る狐である。
それ狐は借りる必要あんの?
「て、テメェら舐めた真似しやがって! この学校の頭、三年の剛二郎様にケンカ売っておいてタダで済むと思ってんのか!?」
「そ、そうだそうだ! テメェら新入生の癖に剛二郎様に楯突くなんて良い度胸じゃねえかよ!」
ひたすらにテンプレでチンケな言葉が並べられていく。
逆にここまでお約束通りだと、それはそれで逆に希少な錯覚さえしてくるのが不思議だ。
色んな意味で頭を抱えたくなった勇麻は、
「あー、とりあえずカツアゲされてた子は逃がせたし、……入学式もあるんで俺達帰っていいっすか?」
「ぶ・っ・殺・す・!」
そんなこんなで止める間もなく大乱闘が始まった。
子分A、Bは拍子抜けするほど弱っちかった。
勇麻と泉がそれぞれワンパンで撃破した訳だが、それにしたって手ごたえがない。
この分じゃ親玉もあっけなく終わるだろう、そう思っていたのだが……。
「こいつ、頭とか名乗るだけあって結構強いぞ……もう頭見えないけど」
「もう弱音か? 勇麻。わりぃが、俺はまだまだ余裕だぞ」
「余裕あんならお前がさっさと何とかしろよな。“アレ”」
何の神の力を使っているのか、ぶくぶくと肥大化していく剛ニ郎を前に、東条勇麻と泉修斗は荒い息を吐いていた。
相手を刺激しないように、声を押さえて泉が言う。
「なんだよこのデブ、クソ面倒臭え。どんどんデブ度が増してんぞ……ッ!」
「剛二郎からラーメン二郎とかに改名した方がいいじゃねえのか? これ。肉マシマシすぎだろ」
途端、遥か見上げるような位置にある剛二郎の顔が、怒りに(地上の勇麻からではよく見えないけど多分)歪んだ。
「大きくなったからって聞こえないと思ったら大間違いだぞコラぁああああああああッ!!!」
「げっ、また怒らせちまった!?」
どんどんとその体積を増大させていく剛二郎の一撃は、時間が経つたびに重くなる。
スピードが伴わない分回避は十分に可能だが、なにせどんどん大きくなっていく剛二郎に、こちらの攻撃が通らないのだ。
大ぶりだが、とんでもない破壊力を秘めた一撃を潜り込むようにして回避しつつ泉が叫ぶ。
「おい勇麻。テメェの神の力は防御してくるヤツに強いんじゃなかったか!?」
「確かに防御には強いけど……、これ防御してる事になるのか? コイツ自身は突っ立ってるだけだぞ」
勇気の拳で強化された一撃ですら、分厚い肉の壁が衝撃のほとんどを緩和してしまう。
相手の防御に対して発動するいつもの黒っぽいオーラが出る予兆も無い。
未だに発動する条件がいまいちよく掴めていない勇麻だったが、少なくとも今の状況では発動してくれないらしい。
「俺の炎も肉が分厚すぎてまともに効いてねえ。……チッ、いよいよ面倒な事になってきやがった」
そんな時だった。
「とっとっとー、そこどいてくださーい、センパイ危ないっすよー」
そんな危機感の無い間延びした声と共に、四階の窓から人影が飛び降りるように落下してきた。
そいつは一切の躊躇なく膨れた剛二郎の脳天に着地を決めたのだ。
「むぎゅ!?」
なるおかしな声と共に、四階分の高さの位置エネルギーをもろに頭に受けた剛二郎が白目を剥いて地面に倒れ伏した。
ズドンッ! という轟音と共に、巨体が砂煙を巻き上げる。
よくよく考えれば膨れていったのは胴体ばかりだったので、巨大化していない頭部は弱点だったのだろう。
「いやぁ、スンマセン、スンマセン。先に校舎を探検しよっかなーって思ったら道に迷っちゃって、流石に入学式に遅れるのはマズイと思ってショートカットさせて貰ったんすけど。……迷惑だった?」
どこか猿っぽい顔付きをしたその少年は、まるで悪びれた様子のない笑顔のままそんな事を言った。
言い訳の台詞の最後で剛二郎へではなく、唖然としたまま固まる勇麻達へ言葉を投げかけてくる辺り、中々ちゃっかりした男である。ただ別に男のウィンクは誰得か分からないのでやめて欲しいけど。
声を掛けられ、フリーズ状態から何とか復帰した勇麻が、やや困惑気味ながらもどうにか返答した。
「あ、あぁ。いや、あいつ結構強くてさ、色々と困ってたんだ。正直助かったよ。……ええっと、」
「あぁ、俺っちは高見秀人。多分アンタらとおんなじで新入生だぜい。よろしくー」
「ああ、俺は東条勇麻。それでこっちが……」
「……おい勇麻、空から喋る猿が降ってきたぞ」
「泉それ思ってても言っちゃいけないヤツ!!」
「いきなり失礼!?」
なかなか順応性の高い目の前の少年に、勇麻が内心関心していた時だった。
「こらーっ! 貴様ら入学式に何を騒いでいるんだーっ!」
どこからか騒ぎを聞きつけたのか、中年男性の怒鳴り声が聞こえてきた。
「やっべ、逃げるぞ。勇麻!」
「お、おう!」
「って、おいおい。恩人たる俺っちは?」
「あ? 知るかよ。足手まといに興味はねぇ、勝手に付いて来い!」
「なんかこの人デフォルトで偉そうなんですけどーっ!」
馬鹿三人は、入学そうそう教師と仲良く追いかけっこを繰り広げる事になる。
それが高見秀人との出会いだった。
入学初日から乱闘騒ぎをやらかしたこの三人は偶然同じクラスになった事も相まってか、その後も様々な事をやらかし『魔の三馬鹿』として学校中にその名を轟かせる(?)事になるのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
「なんだよ……何なんだよこれはッ!?」
不気味な静寂を引き裂くように、痛みも何もかもを無視して勇麻の喉が吠えた。
分からない。自分の、自分たちの陥っている状況が分からない。
行方知れずだったハズの高見秀人が、今勇麻たちの目の前にいる。
本来ならば喜ばしい出来事のハズだ。
互いの無事を喜び、感動的に抱き合ってもいい。
急に居なくなり心配をかけた馬鹿な友人の頭を、嬉し涙でも流しながら引っぱたいてもいいだろう。
それなのに、
たった一つピースが狂うだけで、ここまでの衝撃が勇麻を襲う事になるなどと、誰が想像できただろう。
「安心していいぜい」
高見は言う。
笑みを崩さず、まるで勇麻たちを嘲笑うかのように言葉を続ける。
「今ここにいる俺っちは正真正銘の高見秀人だ。どっかの陰険な仮面男の変装でもなければ、実は偽物のクローン人間だった、なんて愉快なオチも待ってねえ。正真正銘、みんな大好き高見秀人その人って訳だぜ」
「そんな事を、そんな事を聞きたい訳じゃない! なんでお前がッ、そっち側に立っているんだよ! それじゃあ、それじゃあまるで──」
そこから先の言葉を、口に出来ない。
認めたくなかった。
どうしようもないからこそ、口に出す事を恐れたのだ。
それなのに、勇麻が躊躇った言葉の続きを、何の迷いも無く高見秀人が続く言葉で言い切った。
「──まるでこのテロリスト共の仲間みたいじゃないか。……ってか?」
「……ッ!」
息を呑む勇麻に対し、あくまでいつも通りに飄々と高見は続ける。
まるで、それが自分本来のあるべき姿なのだと暗に宣言するかのように、高見の顔には生気が満ちていた。
「別に否定はしないぜい。何と思ってくれても構わない。俺っちは俺っちの目的の為にここにいる。それをユーマたちがどうこう言う資格なんて無いだろ? 絶交だって言うならそん時はそん時だ。俺っちは俺っちの行動の結果として、それを受け入れるだけだ」
なんだそれは。
東条勇麻は開いた口が塞がらなかった。
高見秀人は一体何を言っているのだろう?
だって、だってそれは、奇操令示の率いる『ユニーク』などと言うテロリスト側に立ち、あまつさえ彼らの事を仲間とまで呼称するという事は、あれだけの人が死ぬ事を高見秀人という人間は許容したという事になる。
──嘘だ。
頭より先に心が否定した。
誰よりも明るく騒がしく、馬鹿な言動ばかりを吐いては泉に殴られていた高見。
人を煽ったり、苛つかせる事に関しては彼の右に出る者はいなく、けれども、どこか憎めないクラスのムードメーカ的存在。
勇麻と泉とは中学からずっと一緒だった、大切な友達。
その高見秀人が、人を殺した? それもあんなに沢山の何の罪も無い人を?
……何か理由があるのかもしれない。
例えば、そう……あの時の楓と同じように、このテロリスト達に味方せざるを得ない理由が。
けれど、
だとしても、
例えどんな理由があったとしても、人を殺してしまったら、それはもう許されない事なのではないのか?
そこだけは決して越えてはいけないラインで、他の何かと天秤に掛けるような行為が許されるのか?
それに勇麻だって見たハズだ。
何の躊躇も迷いもなく、勇麻に向けて死の引き金を引いた高見秀人を。
あの時泉がいなかったら、惨劇の犠牲となったのは東条勇麻一人では済まなかった。
当然だ。少しでも狙いが狂えば、後ろにいる人々がどうなるかなど幼稚園児でも分かる。
高見秀人はそれを承知の上で引き金に手をかけたのだ。
東条勇麻は、人を殺したかもしれない高見秀人を本当に信じられるのか? いいやそもそも、高見秀人を信じるという行為は許されるのか?
「おい、サル」
「なにかな、シュウちゃん。鬼みたいな顔して。そんな怖い顔してるとアリシアちゃんから怖がられちゃうぜい? ただでさえ子供受け悪い悪人面してんだからさ」
泉は高見の軽口は無視した。
静かに泉は口を開く。
「……テメェに何の考えがあんのかは知らねえし、別に興味もねぇ。テメェがテメェの目的とやらの為に何をしようが、確かにそれはテメェの勝手だ。それを命令するみてぇに辞めさせる権利は俺にはねえ」
泉は火炎纏う衣を纏ったまま、高見に向けて一歩踏み出す。真正面から、高見の細められた瞳を見据える。
「──さっきの……」
「?」
「テメェ、勇麻を殺すつもりだったのか?」
泉の声が、しんと、その場に静寂を打った。
少しの間が空き、その静けさを破るように高見の笑い声が響く。
「あぁ、あれね。まさかあのタイミングで防がれるとは思ってなかったなー。いやぁ格好良かったぜ、シュウちゃんっ、これできっと女の子にもモテモテ──」
その冗談めいた口調に、泉がブチ切れた。
額に青筋を浮かべ、怒りが空間を震わせる。
「テメェ、ふざけんのもいい加減にしろよッ!! 冗談で済むことと済まない事があんだろうが! 俺がいなかったら、テメェは今頃人殺しだぞ!? ダチじゃねえのかよ! いきなり居なくなったと思ったら意味が分かんねえんだよ! なんでお前が勇麻を殺そうとして──」
「あぁ、もう。ホント煩いな。だから嫌なんだよ、煩わしい」
泉の言葉は、上から全てを塗り潰すような高見のドス黒い声で遮られた。
それは拒絶だった。
高見秀人は、泉の言葉を根っこから拒絶したのだ。
瞠目する泉に、高見は不快感を含んだような冷たい視線を向けて、
「もうやめようぜい、シュウちゃん。ユーマも。友達ごっこもいい加減に飽きたっしょ?」
「な……ん、だと?」
「くっだらないって言ってるんだよ。絆とか友情とか繋がりとか、そんなもん後生大切に抱えて何になる? 何が友達だ。どいつもこいつも口ばかり。結局、最後は捨てやがるくせに……。フン、薄ら寒くて吐き気がする」
誰だ。
目の前にいる高見秀人の皮を被ったこの男は、一体どこの誰だ?
勇麻の中の何か――大切な何かが粉々に砕けたような気がした。
勇麻も、そして泉でさえも、目の前にいる男に返す言葉が見つからなかった。言葉という凶器に身体を切り刻まれ、血の一滴すら残っていない。
動ける気がしなかった。
動くだけの力が、体に入らない。気力全てが、呼吸と共にガス漏れを起こした風船みたいに漏れ出ていく。
「こらこらタカミン、あんまり昔のお友達を虐めちゃ可哀想じゃないか。その辺にしておきなよ。うん。あまりにも惨めすぎて、見てるこっちの心が痛くなってくるよ。うん」
「あぁ、分かってるよキソちん。……あっ、そうそう。頼まれていた仕事は全部終わらしといたぜい。予定通り、二五二〇ヵ所に起爆虫のセッティングを確認済みだ」
「うん。流石タカミンだね! 僕の見込んだ通りの男だよ君は! うん」
「別にそんな難しい仕事でもないだろうが。……そんな事より、人質の拘束の準備も整ったぜ。あとはアンタの指示待ちなんだが、どうする?」
「うーん、そうだなー。それなんだけどさ、僕。ちょっと面白そうな事考えちゃったんだよね。うん。だからさ、まずはじめにそこの人質を――」
そこまで言いかけて、何かに気が付いたように寄操の言葉が途切れる。
「――これ、は……?」
寄操は、店内を大きく見渡すように視線を走らせ、何かに気が付いた。
「――そう何でも自分たちの思い通りに事が進むと思った? わたし達が、ただ恐怖に縮こまって丸まっているだけの哀れな被害者だと、そう思った?」
――風。
緩やかな、だが確かな意志を持った空気の流れが、寄操達『ユニーク』の面々を既に取り囲んでいた。
勇麻と泉の二人が寄操たちの注意を引きつけている間、天風楓は何もぜずに指を咥えて二人の様子を見ていた訳ではない。
慎重に、そして丁寧に、神の力を発動している事が露見しないように最大限の注意を払いつつ、ゆっくりと風を使って大きな『檻』を形成していたのだ。
風の衣の応用版だ。その効力は並大抵の物ではない。
誰にも気が付かれる事なくここまでの事をやってのけた少女は、その顔に若干の恐怖を浮かべながらも、瞳に強い意志を浮かべそれを振り払うように強気に宣言する。
「これ以上、アナタ達の好きにはさせない。これ以上、誰かの笑顔を壊すような真似をするなら、わたしはアナタ達に立ち向かう……!」
「へぇ、これはすごい出力だ。うん。そうか、君がタカミンの話してた『最強の優等生』さんか。なるほど、確かにこれはお手上げだね。うん。この風の檻、不用意に触れたらどうなるかくらい馬鹿でも分かるよ。僕らの逃げ場を封じ、その上で抵抗しようとすれば風の刃で八つ裂きってところかな。うん」
「分かってるなら、おとなしく降参して――」
投降を促す楓に、しかし寄操は笑みを崩さず、
「――けど、僕ら『ユニーク』には通用しないかな。うん。……満漢ちゃんよろしく」
その声に、寄操の後ろに黙って控えていた内の一人がニヤリと口の端を吊り上げて応じた。
「了解でーすっ。よーやくこのトップアイドル満漢ちゃんの出番ですかーっ!」
満漢と名乗った自称トップアイドルの少女は、飛び跳ねるようにして寄操の前に踊り出ると、
「ではでは、いっただっきまーすっ!」
紫色の髪の毛を揺らし、その外見からは想像できないほど大きく口を開くと、大きく息を吸い込むようして――瞬間、まるで小さなブラックホールが発生したかのように、少女の口元に向って収束する暴風が吹き荒れた。
「きゃっ!?」
「なんだ!?」
突然吹き荒れる突風に体勢を崩し、驚きの声を上げる勇麻たち。
だがそんな勇麻たちの目の前で、さらに信じられない驚きの事態が発生する。
「冗談、だろ……?」
泉が、信じられない物を目にしたかのような声を出す。
神の力に既存の物理法則や常識は通用しない。
そんな事は神の能力者である勇麻たち自身分かっているつもりだった。だが、それにしても目の前の光景は異常極まりない。
「あの女、楓の風の檻を食ってやがるッ!?」
そう、咀道満漢は楓の発生させた風の檻を、まるでそうめんでも吸い込むかのようにして貪り食っていたのだ。
楓の神の力が、あっという間に咀道の腹の中に収められていく。
このままではあと数秒足らずで風の包囲網が崩れ去ってしまう。
「おい楓! このままじゃ……ッ!」
あまりの事態を前に反応の遅れていた楓が、泉の声にハッと我に返る。
「……っ!? さ、させない!」
叫びと共に、突き出された楓の掌から風の弾丸が連続で射出される。
一撃一撃がコンクリートの壁を粉々に破壊する程の威力を持ち、音速で飛来する風の死弾。まともに受ければ、いくら普通の人間と比べて身体の頑丈な神の能力者とは言え、ケガでは済まされない。
はずだった。
「うそ」
一直線に咀道目掛けて放たれた多数の風の弾丸。それすらも、咀道満漢は大口を開けるとパクリと一口に呑み込んでしまったのだ。
風の檻も風の弾丸も、楓の放った神の力のその全てを咀嚼し呑み込んだ咀道満漢は満足げにお腹の辺りをさすって、
「うーん、なかなかにおいしい風でしたね。ボリュームもたっぷりでした。満漢ちゃん的にはー、もーちょい味付けが濃くてもいいと思いますけど、まあ総合的に見て星四つってとこですかね。……って事で、これはお代です。遠慮せずに受け取ってくださーいっ!」
適当にそう言うと、女子特有の甲高い叫びと共に、大きく口を開いた咀道の口から凄まじい勢いで衝撃波が放たれた。
それはもはや、風の砲弾だった。
「きゃっ!?」
唖然としていた楓は躱そうとするどころか、身動きを取る事すらできなかった。
凄まじい程に圧縮された衝撃波の直撃を受けて、楓の身体が綿か埃のように軽々と吹き飛ぶ。
それこそ、弾丸の如きスピードで楓の身体が店内の壁に勢いよく叩き付けられる――などという事態にはならなかった。
壁に衝突する直前、まるで見えない柔らかい壁にぶつかったかのように楓の身体が急速に減速、そしてその動きを完全に止めたのだ。
急な制動に体に負担が掛かったか、楓の口元から苦しげな吐息が漏れる。
「……くっ、油断した……ッ!」
「ありゃりゃ。今の食らって死なないのか。ほえー、これは満漢ちゃん的には予想外ですわー」
咀道は感心したような声を上げ、天風楓を注視している。
いや、正確にはその背中。
楓の力の象徴。
空中でピタリと静止する楓の背中、そこから生じた一対の竜巻の翼が発生させた強力な揚力が、攻撃を受け吹き飛んだ楓のスピードを相殺していたのだ。
「この人、わたしの神の力を食べて、それを跳ね返した……!?」
驚愕に、独り言のような言葉が楓の口から零れる。
それもただ跳ね返した訳ではない。楓の与えた風の弾丸よりも高威力な一撃となって返ってきたのだ。
おそらくは、風の檻を含め、先ほど食べた分全てをあの一撃に凝縮し圧縮する事で、あれだけの高い威力を得たのだろう。
「えー、もう終わりなんですかー? 満漢ちゃんまだまだ空腹なんですけどーっ。おかわりくださーいっ」
「──ならこれでもたらふく喰らって伸びてろよ。大食い自称アイドル女」
「?」
そんな粗暴な声が咀道の視界の外から響いて、
咀道が声の方を振り向いた瞬間、そこには身体中をマグマみたいにドロッドロに燃え上がらせた少年の燃え盛る炎拳が迫っていた。
直撃すれば人体を覆う柔らかい皮膚など溶けてドロドロになり、そのまま肉まで焼き尽くしてしまうだろう。
それほどの高熱を纏った炎の殺人拳。
だが咀道は驚きも怯みもしなかった。そのままパクリ、と。
むしろ自分から拳を迎えに行くかのように、大口を開けて泉の拳ごと口に含もうとする。
「おかわりいただきまーす」
「――ッ!?」
ゾワリ、と寒気を感じた泉は自分の直感に従い、迷わず振るいかけの炎拳をその場で爆発させ、その衝撃波の勢いを利用して大きく後退、咀道との距離を取る。
が、
「コイツ……爆炎まで食ってやがる……」
「むしゃむしゃ、ほうほう。なかなかいい炎ですね。ぱくぱく。満漢ちゃん好みの味してるかなー、うーん、もぐもぐ。でもでもちょっとありきたりかなー。総合評価は星三つってところですね。はむはむ」
口の中に吸い込まれていくかのように、泉の生み出した爆炎が消えていく。
爆発を丸呑みした咀道は、傷一つなくケロリとした顔で口の周りを舐め回している。
この様子だと、あそこで退いていなかったら泉の右手はあの女に食い千切られていたかもしれない。
「チッ、何でもかんでも吸い込みやがって、掃除機かよってんだこのダイソン女!」
「あ、ひどーい。このトップアイドル満漢ちゃんを掃除機呼ばわりだなんて、……さては君、満漢ちゃんのアンチだなーっ」
「……このクソ女、すげえな。すげえイライラする。こんなにブッ飛ばしてえ奴はあのノッポ野郎以来だ」
メラメラと怒りを燃やす泉。そうとう目の前の少女に苛ついているらしい。
「怒ってるのは満漢ちゃんも一緒だしっ、さっきのお礼で吹っ飛ばしてあげるんだから!」
叫んだ直後、咀道が動いた。
大きく息を吸い込むようにして身体を逸らすと、勢いをつけて口に含んだ空気を吐き出した。
――そこに先ほど吸い込んだ泉の爆炎を乗せて。
「──ッ!?」
爆発があった。
轟ッ!!
轟いた爆音と同時、凄まじい衝撃波が泉の身体を叩いた。
熱波と炎熱が店内に吹き荒れ、内装が破壊される。
咄嗟に楓が大きく展開した風の衣で店内の一般客を守っていなかったら、どれだけの悲劇が起きていたか分からない。
泉の神の力、火炎纏う衣は極めて高い耐熱性と防御性能を持っている。
その為、軽い斬撃や打撃は勿論、熱波や炎熱によって受けるダメージも半減する事ができる。
だが、それでも身体を叩く衝撃波は確実に泉を蝕んでいく。
「はぁ、はぁ、……クソったれが……」
頭部を庇うように腕を交差し、なんとか衝撃波の嵐を耐えきった。
しかし片膝を地に付いてしまったという事実が、敗北感と抑えきれない怒りとを泉の中に生み出していた。
口元から流れる一筋の赤色が、痛々しい。
「ありゃ。これまた頑丈な人ですねー。誰も倒れてくれないなんて、満漢ちゃんちょっとショック受けちゃうんですけど……」
「……はッ、ふざけろよ。他人の神の力がねえと何も出来ないクソ雑魚が、調子のんな」
「……まだそれだけの虚勢を吠える元気があるとは……! なかなか食べごたえがありそうで、満漢ちゃん嬉しいっ!」
誰がどう見ても泉が劣勢だ。
咀道満漢がいる以上、基本神の力頼りの楓は攻撃に参加できない。おそらくは勇火の雷撃も食べられてしまうだろう。
(……加勢しなくちゃ)
そう思うのに、身体が思うように動かない。
まるで粘つく粘液が絡み付いているかのように、一挙手一投足が重い。
己の眼球に映し出されている光景に酷く現実味がなかった。
まるで借りてきた安物を映画を見ているような気にさえなってくる。
今起きている出来事を現実だと認識したくない。認めたくない。
そんな心理が働いているのかもしれない。
(……今はそんな事どうでもいいだろ、動け。動けよ……ッ! 俺ッ!!!)
感情を整理できない。
ごちゃごちゃに入り混ざった想いが、勇麻の身体を縛っている。
単純な弱体化とも違う。
もちろん、勇気の拳が関係していないとは思わない。
けれども意外な事に、戦う意志自体が薄らいでいる訳ではないのだ。
ただ、今の勇麻は何に対して拳を振るえばいいのか分からなくなっていた。
……いいや、違う。拳を振るった結果として、高見秀人と明確に敵対する事になっていいのかが分からなかった。
その迷いが、恐れが、勇麻から立ち上がろうとする力を無意識のうちに奪っていく。
それでもまだ、動けるはずだ。
まだ闘志は死んでいない。非情で理不尽な寄操令示への怒りの炎は、未だに勇麻の中で高く燃えたぎっている。
迷いを振り切れ。
血管が浮き出る程の力と意志を込め、無理やり鉛が詰まったように重い身体を起こす。
しっかりと二の足で大地を踏みしめ、立ち上がる。拳は、握れる。
力強く、握る事ができた。
「へえ、立ち上がったのかよ。ユーマ」
滝のような汗を流しながらどうにか立ち上がった勇麻に気付いた高見が、からかうようにそう口にする。
勇麻はギロリとそちらを睨み付けて。
「高見、一つだけ答えろよ」
「おおコワい。……しょうがない。元友達としてのよしみだ。答えてやるぜい。で、何だ?」
「お前の目的なんか知らないし、正直どうでもいい。けどよ、関係ない人達まで巻き込んで、たくさんの人が命を落として……。こんな結果になってまでその目的ってヤツを達成したかったのか? 仮に達成できたとして、お前はそん時堂々と胸を張れるのかよ」
しかし高見は勇麻の視線に動じた気配もなく、あくまで飄々と、気楽な調子で嗤う。
「別に胸を張れる結末なんて望んじゃいねえぜい。所詮俺っちは日陰者で裏切り者の嫌われ者だ。そんな薄汚い男に、ユーマは一体何を期待してるんだ?」
両手を横合いに広げヘラヘラと笑い、憎しみをその身に一心に受けるようにして、高見秀人はそう言い切った。
自分の目的を達成する為なら、他の誰が犠牲になろうと構わない。
高見秀人は暗にそう言っているのだ。
「……反省する気も、後悔も無いんだな?」
「――返ってくるのか?」
その時の高見の顔は、いっそ、滑稽なほどに心底不思議そうな面をしていた。
キョトン、と。勇麻の言っている事がよく分からないと、真顔で呆けるように首を傾げている。
「なに……?」
「反省したら死んだヤツらの命が返ってくるのか?」
ふざけているのかと思った。
否。事実、ふざけきった発言だった。
そのあまりの言いように、
ぶちり、と。頭の中の何かが切れる音が聞えた気さえした。
自然、声が震える。
「お前、自分が何を言っているか分かってんのか?」
「生憎、自分でも分からない事をぺちゃくちゃ喋るほど馬鹿なつもりはねえぜい」
「……分ったよ高見。お前の目的も、テロリストどものふざけた要求も、全部ぶっ壊す。でも、その前にまず――お前を一発ブン殴らねえと気が済まねえ!」
と、叫びと共に勇麻が走り出そうとして――
「――くは」
嫌でも意識に引っ掛かるような不愉快な笑い声だった。
黒板に爪を立てて引っ掻き回すような、決して無視する事のできない嫌悪感。
その声に、思わず決定的な一歩を踏み出しかけていた勇麻の足が止まる。
他の連中も同様だった。戦いを中断し、突如寄声を上げた人物に視線が集まる。
「あはっ、あははははははははははははははははははははははははははははははははっはははははははははははははははははははははははははははははははははははーーッ!!!」
あまりにも唐突に寄操令示の場違いな哄笑が辺り一面に鳴り響いた。
楽しそうに、愉しそうに。唖然とする一同を置き去りにして寄操令示は一人嗤う。
「――ははははっははっはあはっははあははははは、はぁ、はぁ……。いいね。最高に面白いじゃないか。うん。やっぱり祭りはこうでなくっちゃね!」
寄操の仲間たちですらこの行動は予想していなかったらしい。
視線が一斉に童顔の少年に寄せられる。
「どうせ待っている間は暇なんだ。それなら、最高に熱いゲームをしようよ! うん。きっと楽しいと思うよ。なにせ君たちみたいな面白い人達がいるんだ。楽しくな訳がない!」
興奮したように頬を紅潮させる寄操の姿に、勇麻は眉を寄せた。
この男はこの局面で一体何を言っている?
ゲーム? 祭り?
少なくとも現在進行形で命を懸けてい戦っている勇麻たちには寄操の言いたい事が全く持って理解できない。
今から仲良しこよしに、椅子取りゲームでもしようと言うのだろうか。
「あ? テメェ、何を言ってやがんだ? イカれるのは勝手だが、こっちはテメェらに心底ムカついてんだ。あんまりふざけた事口走るようなら、親玉だろうが何だろうが、順序飛ばしてラスボスのテメェからぶっ潰してやるが?」
明らかな敵意を向けられ、しかしなおのこと奇操は嬉しげに、
「そうそう、その敵意。僕らに対して恐怖よりも先に敵意を浮かべられる君たちだからこそ、出来ると思うんだよね! うん。そうだよ、きっとそうだ!」
「なにを、言ってやがる……?」
その問いを待っていたとばかりに寄操はり両手を広げ、
「簡単な話だよ! うん。このままではどう転んでも人質の君たちは死ぬしかない。――『創世会』が、自分たちの本拠地を爆破するとは思えないからね。だから僕がこれから提示するのは、そんな絶望と死の運命から抜け出す為の一つの抜け道。うまくやれば全員無事に生還できて、尚且つこの天界の箱庭を救えるかもしれない極限の裏ワザだ。うん」
ニヤリ、と。笑みを張り付けた顔をさらに横に裂いて、寄操令示は宣言する。
「たった今から午後四時まで! その間に僕ら五人に対する敵対行動を許可しよう! もし、僕ら五人全員を無力化する事ができたなら、君たち人質の皆は晴れて自由の身だ。僕らを煮るなり焼くなり、好きにすればいい。勿論、直接敵対行動を取った人に容赦はしないけれど、戦う気の無い者、抵抗する気の無い者にはこちらからは一切の手出しをしない事を約束するよ」
人質の解放、という言葉に集められた人々がざわつき始める。
「敵対者の区別は――そうだな、屋内から外に出た時点で敵対行動と見なす事にしようかな。うん。勿論、無理に僕らと戦おうとする必要はないよ。もし、時間内に敵対行動を取る者が一人も現れなかった場合。そうだね、無条件で人質の半分を解放する事を約束しよう。うん」
抵抗しなければ無条件で人質の半数を解放する。
一見すれば甘い言葉に思えるが、これは……。
と、勇麻の感じた疑念のような違和感を裏付けるかのように、
寄操令示の悪意が炸裂した。
真っ暗闇に閉じ込められていた所へ唐突に差し込んだ希望の光。もしかしたら助かるかもしれないという淡い期待に徐々に大きくなるざわめきを、「――ただし」という寄操の言葉が遮った。
「それだけじゃつまらないから、追加ルールを一つ。……僕らに敵対する者が一人でも現れて、尚且つ制限時間以内に僕ら全員を倒す事ができなかった場合い――その時点でネバーワールド全域に仕掛けた二五二〇匹の起爆虫全てを爆発させ、この街の地図からネバーワールドを消し去る事にしまーーす」
ざわめきが、その言葉で瞬時に凍てついた。
それは人々の心に深く深く突き刺ささり、決して抜ける事のない凍える鉄の杭だ。
寄操の放った一言は、これから『ユニーク』打倒の為に動こうとしていた者の心だけだなく、それ以外の人々の心をも縛り付ける。
誰一人欠ける事なくここを生きて脱出する為には、『ユニーク』の連中を倒さなければならない。
だが、もし誰か一人でも寄操達に挑み、彼ら五人を倒す事ができなかった場合――天界の箱庭との交渉も待たずに人質全員に平等で確実な死が訪れる。
そしてその絶望的な状況で、寄操の一言が甘い誘惑を伴って人々の脳裏に押し寄せるのだ。
――誰も抵抗しなければ、半分は助かる。
抵抗せずに、誰か半分を生贄に捧げる事を受け入れてしまえば、もしかしたら自分は助かるかもしれない。
動けない。
誰も、誰一人として、動くことなどできなかった。
半分が助かる、ではない。正しくは半分が殺されてしまうのだ。
だが、人々は正しくその事実を認識できない。
その殺される半分の中には自分も含まれているかもしれないのに、都合よく自分は助かる方の半数に入っているのだと、無意識のうちに信じ込んでいるのだ。
視線が突き刺さる。
有無を言わさぬ視線が、この場で唯一抵抗の意志を見せた泉に、楓に、そして東条勇麻に薄身の刀を首元に当てられているうかのように、ひんやりと突き刺さる。
「さあさあさあさあ! 群雄割拠す大乱闘パーティーの始まりだぜ! いえーい!! 抗う意志がある者は立ち上がれ、臆病者は遺書の準備を! 勝てば天国負ければ地獄、命ある限り燃やしてみやがれその魂ィ!!」
高らかに奇操令示は叫ぶ。まともな感情の感じられない棒読みで叫び読み上げる寄操からは、思わず震えてしまうような狂気を感じた。
それは希望のカウントダウンか。それとも、絶望への道しるべか。
「制限時間は今からおよそ三時間後の午後四時ジャスト! 生と死、希望と絶望を賭けて死の狂宴を始めよう!!」
寄操令示の号令と共に、死の狂宴が幕を開けた。




