第終話 優しい終わり
仰向けになって寝転びながら見上げる天井はいつもの部屋のそれよりも純白で、清潔感に溢れている、というよりも潔癖的な清潔感とでも言いたくなるような白さだった。
なんだか気分が滅入る。
殺菌処理が徹底的に施された無菌屋。
まるで人工培養されているクローン動物か何かのような気分だった。
身体を起こし、天井に向けていた視線をもとに戻す。
思わずため息すら零れ落ちた。
そう、結局。
――結局、今回の事件の顛末を知る者は何人いたのだろう。
カーテンの隙間から頬を照らす木漏れ日に少し眩しげに目を細め、一人退屈な時間を持て余しながら、東条勇麻はそんな事ばかりを考えていた。
彼は今現在、病院のベッドの上で寝転んでいる。
徹底的に殺菌されアルコールの匂いが漂う真っ白な病室の中、いつも考えるのはつい先日起きたあの事件の事ばかりだった。
誰かの掌の上で踊らされた。
その事実だけは理解できた。
だが他の何もかもが分からない。
(今回の件、そもそも誰が何の為に何を目的として行われた物だったんだ?)
『主神玉座』を巡って起こった今回の件、その首謀者が一体誰なのか。それすら勇麻には分からなかった。事件の当事者でありながら完全に蚊帳の外状態である。
一番怪しいのは天風駆を唆し、影で操っていた可能性が濃厚な黒騎士。そしてその黒騎士の所属する組織『汚れた禿鷲』。
しかし、『汚れた禿鷲』は『創世会』直属の部隊であり、今回の黒騎士の動向が、『創世会』の思惑から外れた物だった事が分かっている。そもそも『創世会』が主犯ならば天風駆をわざわざ使ったりせずとも、何の遠慮も無く『主神玉座』に手を出す事が出来るのだから。
その事から今回の黒騎士の行動が独断専行なのか、『汚れた禿鷲』の総意なのかは不明。
情報がこれしか無い為、これ以上の推測はもはや推測とも呼べない。妄想だとか単なる想像で終わってしまう。
「泉……」
満身創痍の勇麻が病院に運び込まれたのと、意識を失った泉修斗が病院に運び込まれたのはほぼ同時だった。
今では意識こそ回復したが、泉修斗の脳から消失したあの日一日分の記憶が戻ってくる様子は無い。
楓と駆が命懸けの兄妹ゲンカを繰り広げ、勇麻がそこに乱入し、黒騎士や『設定使い』が暗躍していたあの日。
勇麻が戦いに身を投じる中、泉修斗も独自に動いていたらしい。
何が起きたのかは今となっては誰にも分からない。
ただ、おそらく泉は何かを知ってしまったのだろう。
見てはいけない物を見てしまったから記憶を消された。
殺すより遥かに面倒なはずなのに、その人物は泉の脳みその中からその日一日の記憶だけを綺麗に殺したのだ。
これは見えない敵から勇麻たちへの警告か。それとも第三者からのこれ以上深入りするなという警鐘か。
結局のところ、泉が見たそれが何なのかも、殺さずに記憶だけを消去した意味も勇麻には分からない。
けれど、
(あの日起きたあの戦い。それが持つ意味をきっと俺は理解できていない。泉はもしかしたら俺よりも真相ってやつに近づけたのかもしれないけど、記憶を消された。『設定使い』なんていう馬鹿げた男がイレギュラーとまで呼んだ今回の件。本当に連中の狙いは『主神玉座』だけだったのか? そう断言できる保証なんてあるのか?)
勇麻は思うのだ。
黒騎士……つまりは『創世会』と敵対するという破滅のレールに乗ってしまった勇麻達は、このまま何もしなければ、誰かの筋書き通りに終わりを迎えるのだろう、と。
そこから脱出しようにも、何らかの行動を起こそうにも、今のままでは圧倒的に情報が足りなすぎる。そして足りない情報を集めようにも、ただの高校生ではできる事も集まる情報もたかが知れている。
覚悟を決める時が来たのかもしれない。
自分を、そして自分の周りの人々を守る為にも。
例えその結果、天界の箱庭と敵対する事になろうとも。
「背神の騎士団か……」
掠れたような声で呟いた勇麻。声の震えの原因は分からなかった。
とここで、何やら扉の向こう側が何やら騒がしい事に勇麻が気づく。そしてすぐに病室のドアをノックする音。
勇麻の返事も聞かずに乱暴に開け放たれたドアの向こうから、見慣れた顔と声がこちらに笑いかけてきた。
「おい勇麻、暇だろうから遊びにきてやったぞ。感謝してジュースでも奢りやがれ」
「お、お邪魔します。いきなりごめんね勇麻くん。お見舞いと言うか何というか……と、とにかく、遊びにきたよ」
入ってきた両名に勇麻は呆れたように破顔して、
「お前らなぁ……俺の記憶が正しければ、お二人さんとも俺と同じでまだ入院中だった気がするんですが?」
勇麻の言葉の正しさを証明するかのように、部屋に入り込んできた両名は緑色っぽい手術着に袖を通していた。
何ともおかしなペアルックに見えない事もない。
そもそも楓は天風駆との戦闘で命にこそ別状はなかったものの、かなりの重傷を負っていたはずだ。
確か手術も四日前あたりに成功したばかりだった気がする。
泉だって、脳の精密検査や記憶のテストなど、まだ色々な検査が残っているはず。
そんな二人が揃いも揃ってベッドを抜け出し病院内を出歩くなど、アホなのだろうか? という失礼な感想しか浮かんでこない。
「あ? 貧弱なお前と一緒にすんじゃねえよアホ。俺がいつまでもベッドで横になってるようなタマだとでも思ったのか?」
「泉くん、その台詞って自分で言う物じゃないような……」
苦笑をその可愛らしい顔に浮かべつつ、ボソっと零した蚊の鳴くような楓のツッコミは泉の耳には届かなかったらしい。
勇麻は心配して損したとばかりに泉の顔を見て盛大な溜め息を吐いて、
「まあ泉のヤツが元気過ぎるのは予想通りだから置いておいて……楓はもう立ち歩いて大丈夫なのかよ。まさかとは思うけど、そこの馬鹿に付き合わされて無理やり来たとか言う話じゃないよな? ……まさか脅迫された? それともここまで強制的に連行されたとか? いや、単純に顔が怖かったから嫌でも逆らえなかった可能性も……」
いくら泉でもそんな事はやらないと信じたい勇麻ではあったが、気が弱く、押しにはもっと弱い楓なら少し誘われただけで断り切れ無くて――という展開も考えられる。
というかこの組み合わせの場合は泉の押しが強すぎるので、本人にそのつもりが無くても、十二分にその可能性は考えられるのであった。
じーっと、隙のない目つきで泉を疑う勇麻に泉は若干額に青筋を浮かべて、
「……おい勇麻。お前にはお俺がそんなに常識と良識に欠けた人間に見えるのか?」
「あっはっはっはー、何言ってるんですか泉さーん、常識と良識どころか知識とか博識とか『識』が付いてる時点でお祭り騒ぎ大好き人間からはほど遠い言葉に決まってるでしょー」
心底小馬鹿にしたような表情で、いやいやないない、とベッドの上で手と首を横に振る勇麻。
そして次の瞬間には血管のブチ切れる音と共に泉が暴れ出し、それを楓が神の力を使って羽交い絞めにする羽目になった。
一分ほどで泉が落ち着き(というか半強制的に落ち着かせられ)楓の風による拘束が解かれる。
ベッドの上で、久しぶりに殴られずに勝利した事に勇麻は見ている者が心底ムカつくであろう笑みを浮かべている。
楓は泉を宥めてから、勇麻に対して少し怒ったように頬を膨らませ、
「い、泉くん落ち着いて。……それに勇麻くんも、そうやってあんまりからかっちゃダメだよ。泉くんだって勇麻くんの事をすっごく心ぱ……むがふが」
と何かを言いかけた楓の口を泉が手で塞いで黙らせた。
何やら慌てた様子で楓の耳元に小声で何かを言っているが、何なのだろうか。
純粋に疑問に思って、目を向けると
「?」
「あ? 何でもねえよ」
有無を言わさぬ勢いで睨まれた。
……好奇心は猫を殺すと言うが、本当に好奇心で殺されては堪ったものじゃない。よく分からないけどそこに触れると危険だという事は分かったので、そこにはそれ以上突っ込まないでおこうと思う勇麻だった。
ようやく口から手が離されて酸素を吸い込むことが許された楓は、真っ赤な顔で喘ぎ咳き込みながらも何とか息を整えて。
「ま、まあとにかく私は大丈夫だから。流石にまだ完治した訳じゃないけど、院内の外出許可なら取ってあるし。それに、その……あれからのごたごたで、まだちゃんとしたお礼とかごにょごにょぼそぼそ……」
何やら後半になるにつれて聞き取りづらくなっていく楓の言葉の通訳を誰かにお願いしたい訳なのだが、要するにこの気弱少女は泉の強制でこの部屋にやってきた訳では無いという事だろうか。
そういう事なら、まあこの部屋に居ても問題はないだろう。
「俺の方なんかさっき槙原のヤツが見舞いきやがってよ、『身体の調子は大丈夫か?』なんて抜かしやがったんだぜ?」
「え、槙原が? うっわ、何それ。明日雪でも降るんじゃねえか?」
「だろ? 俺も気持ち悪くってよ。さっさと部屋から逃げて来たんだよ。んで、途中で楓を拾ってお前んとこにわざわざ顔出してやったって訳」
「そういう訳か。……てかあいつ、俺のとこには見舞い来なかったぞ」
「俺と違って影薄いからな。忘れられてんじゃねえのか、お前」
それは教師としてどうなのだろうと思う勇麻だったが、相手はあの反面教師筆頭の槙原だ。有り得ないとは言い切れない。
地味にショックを受けている自分がいる事に気づき、いろんな意味で悲しくなってきた。
「さーて、……おい勇麻、財布借りるぜ。優しい俺が飲み物を買ってきてやるよ」
「ん、マジか。悪い、サンキューな」
不意に泉がそんな事を言って、勇麻の荷物を漁り始めた。
数秒もせずに安物の皮財布を掘り出すと、ニヤリと笑い。
「んじゃ、楓と俺の分も勇麻の奢りって事で!」
「あ、おいまて馬鹿! 自分の分は自分の金で――」
「安心しろ! 身体にいい一〇〇パーセントの果汁ジュース買ってきてやるよ! 瓶に入ってるお見舞い用のヤツ」
「それけっこう高いヤツぅうううう!」
勇麻の文句を最後まで聞く事なく、泉修斗は部屋の外へと駆け出して行ってしまう。
「あの野郎。……はぁ。いや、ジュースの二本や三本くらい別にいいんだけどさ。あいつのアレは俺をおちょくるのが目的だからなぁ……」
始末に負えない……と、諦めたように零す勇麻に楓はあははと苦笑い、
「まあ、泉くんがいつも通り元気そうで良かったよ。記憶を消されたって聞いた時はどうなるかと思ったけど、人為的な干渉を受けたのはその日一日の記憶だけらしいし……。ホント、大変な事にならなくてよかった」
「それもそうだな。記憶喪失の原因は、何らかの神の力だとか医者は言ってるらしいけど、案外建物の柱とかに頭打って記憶飛んでるだけだったりしてな。ほら、あいつ案外間抜けな所もあるだろ?」
「泉くんに聞かれたらまた怒られるよ」
からから楽しそうに楓は笑った。
勇麻もそれにつられるように笑っていた。
面白半分で泉をネタにする一方で、勇麻も分かってはいた。
泉修斗の記憶喪失は決して無視する事のできない問題なのだ。
勇麻達は今確実に、触れてはいけない禁断の箱に手を伸ばしつつある。
それを自覚してなお、破滅のレールに乗っている勇麻に停滞の選択肢は無い。
暗闇の中、どこに落とし穴があるか分からなくても、後ろから大質量の巨大な岩が自分達目掛けて転がってきているなら前に進むしかないのと同じだ。
立ち止まれば、たちどころに食われてしまう。
「その、……勇麻くんはケガの具合はどうなの?」
気遣わしげな顔をして楓が尋ねる。言いながら来客用の丸椅子に腰を下ろして、楓の目線の高さが勇麻に近づく。
勇麻は力なく笑うと、
「まあ、大した事はねえよ。何か知らないけど俺ってケガの治りが人より速いらしくてさ。医者の話だと一週間もしないで退院できるってさ」
「そう、良かった……」
「まあ俺も楓も、こうして無事に帰って来れて何よりだよ。で、そっちはどうなんだ? “兄妹ゲンカの続き”はできそうなのか?」
「……うん。駆お兄ちゃんも、だいぶ落ち着いてきたみたい。明後日には、天界の箱庭を発つって」
「そうか……」
楓の話によると、背神の騎士団に保護され手当てを受けていた駆も、ある程度の回復を完了しているらしい。
背神の騎士団としては天界の箱庭に対する事実上の侵略行為を行おうとしていた駆の身柄をどうするかで一悶着あったらしいが、一部の団員の説得と勇麻達の嘆願によって事なきを得たらしい。
その際にも勇麻達の功績が評価されたとかいう話だったが、正直買いかぶり過ぎだと勇麻は思っている。
まあ今回は役にたった訳だし別に文句がある訳ではないのだが、あまりにも過剰な評価をされると少し面はゆいのだ。
今回頑張ったのは良くも悪くも楓と駆の二人で、勇麻など所詮おまけに過ぎないのだから。
「駆お兄ちゃん。今度こそ理想の世界への鍵を見つけてやるんだって、凄くはりきってた」
「そうか。結局、この街には残らなかったか。……こんな事聞くのもアレなんだけど、楓はこれでいいのか?」
「あはは、……まあ、何となくこうなる気はしてたんだ。それでも、ようやく会えたのに、って少しは思っちゃうよ、やっぱり。でも、駆お兄ちゃんの時間を奪ったわたしが、駆お兄ちゃんのやりたい事を止められるはずが無いもの。わたしにできる事は、またお兄ちゃんが帰ってきた時に笑顔でおかえりなさいを言ってあげる事くらいだから」
……駆は、あいつは妹に時間を奪われただなんて思っていないと思うぞ。
そう口に出そうとして、しかし勇麻は喉元まで出かかった言葉を喉の奥に無理くり封じ込めた。
彼も彼女も不完全な人間だ、殴れば血が出るし、痛みに涙を流し、悲しみに声を枯らして叫ぶ、人間なのだ。
実の妹を憎む事もあれば、実の兄の事を裏切ってしまう事だってきっとあるだろう。人間は決して完璧な生き物ではなく、間違える生き物なのだから。
だからそんな綺麗事を部外者如きが吐いて良いハズがない。
間違いを間違いなんかじゃなかったと、採点者気取りで勝手に答えを書き換えてはいけないのだ。
きっと楓と駆にしか分からない痛みがある。
彼と彼女にでしか、感じ取れない事もある。
何も恥ずかしい事じゃない。醜い感情や汚い一面など誰にでもある。それが色濃く表に表出した存在が、自分を裏切った世界に復讐しようとしたもう一人の天風駆であり、幼い頃に、自分可愛さから兄を助けようともしなかった時の天風楓なのだ。
そのどちらもが否定のできない彼、彼女自身であり、捨てられない人間らしさという物なのだから。
だから勇麻は代わりに、「……そうか」とだけ答えた。
それで会話が止み、二人とも無言で押し黙る。
けれど、楓と過ごす無言の時間は、不思議と窮屈ではない。どこか、心地良さすら感じた。
無言のまま、勇麻は窓の外に目をやる。
細められた瞳が見つめる先に何があるのか、勇麻自身にも分からない。
でも、先を見据えていれば何かが見えるような気がしていた。
そんな勇麻の横では、楓が落ち着きない様子でずっとそわそわとしているのだが、勇麻は気づかない。
いや気づかれても困るのだが、そこはそこ。
乙女心は複雑とだけ言っておこう。
一つ上の幼馴染の少年。
ずっとその後ろ姿を追いかけてきたけれど、何度助けられてきたか数えるのも馬鹿馬鹿しい。
干渉レベルとか、神の力とか、そういう目に見える部分では楓の方が強くなってしまったけれど、それでも、東条勇麻という少年は小さな頃と変わらずに楓の為に立ち上がり、楓の事を助けてくれる。
「……」
……今なら言えるだろうか、胸に秘めるこの想いを。抑え切れないこの感情を。
勇麻の横顔をそれとなく眺めながら、楓は意を決したように一度深呼吸をする。
一度で終わらず、何度か深呼吸を繰り返し引き伸ばし――そしてついに、耳まで真っ赤に染めながら勢いよく口を開いた。
「あ、あのっ──」
「勇麻ー生きているかー? お見舞いに来たのだぞ──って……お主は」
決意の第一声を放った途端だった。
ちょうど病室のドアを開けた新たな来訪者の声と楓の声が重なって混ざり、尻すぼみに消えていってしまう。
開け放たれたドアの先、そこにいたのは少女だった。
何よりも白く、美しい碧色の目をした、純白の少女。
もしこの世に本当に神様がいるのだとしたら、きっと彼女のような姿をしているのではないだろうか。
そう思わせる程の美しさと可憐さが、その白い少女にはあった。
白い少女と楓の視線がぶつかってそこで停止する。
互いに目を驚きに見開いていた。楓は思う。目の前の少女ほど、驚いた顔というのが新鮮に思える人物はいないのではないだろうか、と。
「アリシア……ちゃん?」
「あの時の……という事は、楓……なのだな?」
奇妙な距離感のあるやり取り。お互いに言いたい事があり過ぎてかえって言葉を探してしまうような、そんな微妙な距離の感覚。
だがそんな態度とは裏腹に、楓は自分の心の内に高鳴りを覚えていた。
会ったのは一度きりなのに、たった数時間一緒に居ただけなのに、どうしてこんなにも再会が嬉しいのだろうか。
楓の手が無意識のうちに伸び、思い出したように動きが止まって中途半端な位置で空を掴む。
楓はその手を少女の元へと伸ばしきれなかった。
まるで逃げるような形になってしまったアリシアとのあの別れ方に、どこか引け目を感じていて、自分から彼女の元へと踏み込むのを躊躇ってしまっていた。
あの時の楓は兄に殺されるつもりだった。二度と出会う事もないだろうアリシアに救われたから、だからあの「さよなら」に勝手に重みを乗せて、アリシアの気持ちも考えずに自己満足に浸った別れ方をしたのだ。
そんな事を気にしているのは自分だけかもしれない。
でも、それでも何となく踏みだしづらい。
干渉レベルがどれだけ高くなろうとも、天風楓はちっぽけで小さな頃からの気の弱さは変わらない。
楓はそんな自分が情けなくて本当に嫌だった。
アリシアとは、彼女とは友達になれるかもかもしれないと、そう思っていたのに。
こんな態度を取ってしまっては、きっとアリシアも楓に避けられたと思って寄り付かなくなるだろう。
……また、傷つけてしまった。
ネガティブな思考にネガティブを重ねて悪循環に陥る。
視線も自然と俯き、アリシアの綺麗な碧い瞳を真っ直ぐに見つめ返す事すらできなくなる。
そんな楓の陰鬱な気持ちを、
タッ、と床を蹴る軽やかな足音が木っ端微塵に粉砕した。
「楓!」
え、という疑問の声すらあげる暇もなく、楓の身体に柔らかくて暖かい何かが抱きついてきた。
戸惑う事すら許さない何故か安心するその温もりに、楓が視線を少し上にあげる。
「アリシア……ちゃん……?」
楓の腕の中に飛び込んできたその白い少女の名前を、楓は現実味も湧かずに呆然としたまま呟いた。
「良かった……ッ、本当に良かったのだ。楓に、私の友達に……また会えて!」
「……!?」
アリシアはぎゅっと目を強く瞑って、楓を抱きしめる腕にさらに力を込めた。
痛いほどに込められたその思いが伝わってきて、楓は頭の奥に痺れるような衝撃が走ったのを自覚した。
「……」
「……むむ。楓? どうして楓が泣いているのだ?」
「ううん。違うの、アリシアちゃん。ぐすっ、ただ、わたし……えへへっ、ごめんね、何だか変だよね、こんなの。わたしってホント昔から何でこんなに涙が出るのかなぁ」
楓を見上げながら可愛らしく小首を傾げるアリシアに、楓は泣き笑う。
拭っても拭っても止まらない涙に、楓は恥ずかしいのと情けないのとで、アリシアから思わず顔を逸らしていた。
「いいんじゃねーの、別に」
と、ベッドのうえから少年の声。
楓が声の方に視線を向けると、ベッドの上で上体を起こした少年は少し楓を小馬鹿にしたような生暖かい笑みを浮かべていた。
「楓は昔っから泣き虫なんだし、今更それくらい気にしねえよ。それに……」
勇麻はそこで一度言葉を区切ると、ニカッと歯を見せて笑って、
「嬉しくて流す涙なら、ほら――雨だって降らねえだろ?」
いつだってその少年の言葉は楓に力を分けてくれる魔法の呪文だった。
小さい頃からいつも楓を支え続けてくれた幼馴染の少年。
彼は楓のヒーローで皆のヒーローだった。だから、この想いはきっと……
「泣いて笑えよ楓。お前はぐしゃぐしゃの泣き笑い顔が良く似合うんだからよ」
なにそれ、と心の中で笑いつつ、天風楓は、
「うん、……うんっ。ありがとう勇麻くん、……アリシアちゃん。──ただいま」
「おかえりなのだ。楓」
顔中を色んな汁でぐしゃぐしゃにしながら、満面の笑みでそう言った。
きっと今はまだこれでいい。
恥ずかしがらずに感謝の気持ちも伝えられた。アリシアともこうして再会を喜び合えている。だから今は、もう少しだけこの関係で幸せな時間の中を皆で一緒に歩いて行きたい。
楓は心の底からそう思った。そう、思うことができたから。
それがきっと幸せな事なんだなと、一人、何の根拠も無い確信をしていた。
……そんな風に自分の気持ちを先送りにした事を後悔する時がすぐに来るなどと微塵も思わずに、天風楓は無邪気で愚かな子供のように、そう信じていた。
信じて、いたのだ。
第二章完。
……第三章へ続く。
……第二章完! え、おざなりだって? まさかまさか。私はいつだって物語に真剣だよ?




