第二十五話 VS.光の術師《シャイニング・アルス》Ⅳ――抱える物、抱える者
自身を『天風駆の弱さの集合体』と称した天風駆は、強かだった。
強い、では無く。強か。
「はははっ、いいねぇ! 愉しいねぇ!」
先ほどまでの天風駆よりも『神の力』の扱い方がうまい。
「なっ!?」
勇麻の両脚の間に滑り込むようにして、仰向けの状態の天風駆が突如出現する、そのまま勇麻の脚を掴んでひっかけ、バランスを崩させて勇麻の身体がグラリと傾いた。
駆の姿が掻き消えたかと思うと、倒れかけた勇麻の頭上に出現し、重力と共に上から勇麻に襲い掛かる。
想像だにしない攻撃に、勇麻の反撃が間に合わない。
届かない。
タイムラグを逃してしまう。
不規則で予測のできない駆の動きに、勇麻の対応が遅れる。
光速移動を一切使わずに、駆が正面から突っ込んでくる。
勇麻のジャブ気味の右の一撃を首を横に振って軽々とに躱し、すれ違いに駆の拳が勇麻の顔面にヒットする。
こちらの攻撃を躱す為に光の粒子化をするだろうとの勇麻の睨みが外れた。
鈍痛が走り、勇麻の視界が明滅する。
手痛い一撃に、大きく身体が揺らいだ勇麻の反撃は届かない。
ズレる。
明らかに勇麻のペースは崩れている。
少しずつ。だが着実に。
勇麻の顔は苦痛で歪み、天風駆は終始楽しそうに口を横に裂いていた。
「く、そ……どこに」
「ここだよ」
「が、ぁ……ッ!?」
光速移動で勇麻の背後に回り込んだ駆は、勇麻の首に自分の腕を絡み付けるようにヘッドロックを掛けると、そのまま勢いよく首を締め上げにかかる。
酸素の通り道が封鎖されて息が詰まる。
顔が真っ赤になり、じたばたと暴れる手足が駆の身体を打つ。
苦しい。声にならない悲鳴が勇麻の中から上がるのが分かる。
酸素が足りなくなった池の鯉の気分を、こんな形で理解出来る日が来るとは思っていなかった。
(ヤバい苦しい、死ぬッ! ……本当に死ぬってッ!)
もうなりふり構ってなどいられなかった。
勇麻はどうにか顔を動かすと、首を絞める駆の細い腕に思いっきり噛み付いた。
肉に犬歯が突き刺さる嫌な音が、感触と共に直接伝わってきた。
駆の口から短い悲鳴が上がり、首の拘束が緩む。
そこをついて、勇麻は背後から纏わりついている駆の身体を後ろげに蹴り飛ばした。
駆の靴底が僅かに地面を滑り、互いの距離が離れる。
期せずして仕切り直し。
ぺッ、と血と肉の味を吐き出す。
「はぁ、はぁ、はぁはぁ……」
「いいね、命のやり取りってのはやっぱり興奮するね」
「……一人で勝手に興奮してろ、マゾヒスト野郎」
「バーカ、俺はいたぶる方専門だっての!」
身体中ボロボロの勇麻にもう余裕は無い。
僅かな『ズレ』がつもりに積もって、ゆっくりと、しかし確実に勇麻の首を絞めていた。
☆ ☆ ☆ ☆
『だからさ、楓。ここは俺に任してくれ』
そんな一人の少年の言葉の通り、天風楓は戦う“三人”の姿を眺めていた。
理想の世界を望む天風駆と、世界の堕落を願うもう一人の天風駆。
そしてそれらを止める為に立ちはだかる東条勇麻。
自分の大切な人同士が互いに命を削り、凌ぎ合う様をまざまざと見せつけられていた。
「……お兄ちゃん」
痛む。
胸が内側から張り裂けてしまいそうで、目の前で起こっている戦いをなんとかしたいのに、何もできない自分が情けなくて憎かった。
「……勇麻くん」
自分自身を駆に殺させる為の戦いで受けたダメージで、楓はもうまともに動けない。
罪悪感から逃れたいという自分の弱さのしわ寄せがこの戦いを、そしてこの状況を生み出してしまったのだと思うと、本当に自分の弱さに腹が立ってくる。
干渉レベル『Aプラス』の『神の能力者』になって、最強の優等生なんて呼ばれるようになっても、結局のところ天風楓は強くなんかなれていなかったのだ。
誰も救えない優しさに何の意味があるのだろう。
きっとそんな優しさは他のどんなものより邪悪だ。
きっと嫌われる事に耐えうる強さがないから、だから天風楓は優しさを周囲に振りまくのだろう。
わたしを嫌わないで、わたしを傷つけないで、わたしを認めて、と。優しさによって言外にそう脅迫しているのだ。
そんな自己の為だけの優しさなど、忌むべき汚らわしい感情の集約された醜い汚物でしかない。
天風楓は自分恋しさに兄を見捨てた人間だ。
そこから変わろうと、強くなろうと、必死で足掻いてきたつもりだった。
だというのに、今も楓の脚は動かない。
両腕に力が入らない。
自分を守ると為に戦ってくれる人がいる事実に、心のどこかで安心感を抱いてしまう。
天風楓という人間は、このまま気持ちの悪い優しさと共にいつまでも人生を歩まねばならないのだろうか。
犠牲者を出し続け、人々を不幸にする優しさ。
誰も救えないどころか、天風楓は自分以外を傷つけて生きていく。
そもそも天風駆だって楓の被害者だろう。
兄のもう一つの人格。
全てに裏切られ、全てを押し付けられてきた少年。世界の堕落を願うもう一人の天風駆。
彼を生み出した原因の一つはまず間違いなく楓にある。
天風楓は彼を裏切った人間の一人なのだから。
どれだけ憎まれているのかは、世界の堕落を願うもう一人の兄の言葉から滲み出る感情から推測できる。
殺意が、憎しみが、大好きだった兄から自分に向けられているのだと自覚すると頭がおかしくなりそうだった。
けれど、
一番つらかったのは間違いなく、天風駆だ。
兄を犠牲に平穏な人生を送ってきた楓に、その殺意を否定する権利などきっと無い。
だけど、思うのだ。
もし許されるのなら、
もし、天風駆が――兄が、こんな血も涙も無い自己中な妹の願いを聞いてくれると言うのなら。
もう一度だけ、話がしたい。
ちゃんと話をして、ちゃんと『ごめんなさい』を言いたい。
許してもらえるかは分からない。それでも、きっちりと正面から兄と向き合って、決着を着けなければいけない気がした。
だから。
「……お願い。わたしにもう一度だけ、自分の足で立つ力を貸して。ほんのちょっとでいいの。わたしが一歩踏み出す為の力を、貸して」
ふわり。
楓の身体を優しく包み込む浮遊感があった。
風。
楓の願いに答えるかのように、風が天風楓を包み込む。
それは楓とは異なり、他者を思いやる正しい優しさを秘めていて、同時に、ただ助けるだけでなく自立を促すような、暖かい厳しさも秘めていた。
今はまだ強くはないけれど、それでも、立ち上がろうと思えた。
風の助けを得て、心身共にボロボロだった楓の瞳に再びの闘志が宿る。
今にも倒れてしまいそうな心を鼓舞するように唇を噛み締め、拳を固く握りしめた。
二本の足で大地を踏みしめ、ただ前に存在する戦場だけを見据える。
立つことができる。
当たり前だ。
自分を変える為の一歩など、初めから自分の中にあったのだ。
『神の力』とか『干渉レベル』とかそんなくだらない物とは一切関係の無い、もっと大切な物。
今までただただ『強くなろう』と、必死に己の『神の力』を鍛えてきた楓には決して見えなかった物。
形だけの物じゃない、力を失うと同時に喪失する事も無い、真の意味での強さ。
そんな何かの存在を、天風楓は確かに感じ取った。
「……もう、優しさの影に隠れて縮こまるのは終わりにするってそう決めたから。わたしは強くなんかないけれど、それでも、強くあろうとするぐらいなら、きっと――」
――できるはずだから。
誰も救えぬ優しさよりも、誰もを救える強さを欲した少女は、
「……ごめん勇麻くん、でも、やっぱり分かったんだ」
十二年の時を経て、ようやく本当の意味で強さへの一歩を踏み出す。
「お兄ちゃんはわたしが止める。そうしなきゃ、きっとダメなの」
過去そして自分と向き合い、自分の成すべきことを成すと決意した少女のその凛とした顔は、きっと世界中の誰よりも気高く美しい。
☆ ☆ ☆ ☆
一撃一撃を喰らう毎に両者の距離は遠くなる。
少しずつ。だが確かに生じるのは地力の差か。それともこの戦いに至るまでに蓄積したダメージの差か。
どちらにしても、負ければ終わり。言い訳をするのは個人の勝手ではあるが、死人に口は無い。
歴史上の戦において敗北を喫した英雄が、事実とは異なる臆病者として後生に語られるのと同じ。
敗北した者には最低限の名誉すら保証されない。
命懸けの戦いとはそういう物だ。
負ければ全てを失い。
勝利すれば全てを得る。
勝ち負けが全てでは無いなどと言う綺麗事は、学生達の部活動くらいにしか通用しないだろう。
つまりは勝敗が──生き死にが全てだ。
「なあ、もうそろそろ終わりみたいだけどさ。なんか言い残した事とかあるか?」
フラフラと頼りなく揺れる東条勇麻に向けて、天風駆はそんな言葉を口にした。
天風駆は『神の子供達』では無い。
だからと言って、己を光の粒子に変換する事ができ光の速度で移動する彼が、弱い道理は無い。
「はぁ、はぁ、……ごほっ、俺は……負けられない。アンタを通せば……次は楓が殺される。それは、ダメだ。俺は、そんな結末だけは許せない」
「まあ、お前が何に命を懸けようと勝手だがよ、自分の為じゃなく他人の為に死のうなんて頭湧いてんじゃねえの?」
「馬鹿、言え。死ぬ気なんてねえよ。全員生きて帰るに……決まってるだろ。……あぁ、安心していいぜ。勿論アンタもその全員の中に入れといてやるよ。中ニ病全開の発言で、恥ずかしくって一人じゃ帰れないだろうから、足引きずって連れて帰るサービス付きな」
勇麻の言葉に駆は心底馬鹿にしたような笑みを浮かべて、
「はぁ? 何言ってるか分かんねえんだけど。お前馬鹿だろ。その有り様でどうやって俺に勝つって?」
「へっ、秘策があんだよ、秘策が。恥ずかしいから言わせんなよ」
不適に笑ってそう嘯くのが、東条勇麻の限界だった。
駆は勇麻の強がりを無視して、
「そうかよ。ならその秘策とやらを出してみるんだな。気持ちの悪いヒーロー気取り様」
言葉と同時。駆の身体が掻き消える。
痛みなど全く感じさせないその動きに、勇麻の喉が干上がる。
(くそ、……あの野郎、人格変わった途端あれだけのダメージがまるで無かったかのように動きやがって!)
実際、人格が変わる前の天風駆は立つのも辛い程のダメージを負っていたはずなのだ。
それなのに、まるで体に掛かる負担そのものを無視しているかのような軽やかな挙動に、既にボロボロの勇麻はついていくことができない。
何か反撃の手はないのか。策を巡らせようにも時間は待ってくれない。
一秒も経たず、次の瞬間には懐深くに駆が潜り込んでいる。
ドゴッ!
より一層大きな鈍い音が勇麻の身体を駆け抜ける。
「あ、……がぁ」
内臓のほうがおかしくなったのか、血反吐を吐いた。
「……あれだけボロボロだった天風駆がどうしてこんなに動けるのか分からない、って顔してるなぁ?」
鳩尾に一撃を喰らわせ、インパクト地点を中心にくの字に折れ曲がる勇麻の耳元で駆はそう嗤った。
それでも懸命に踏ん張る勇麻を嘲笑うかのように追撃の回し蹴りが顔面に直撃し、勇麻の身体がアスファルトの上を転がる。
反撃のタイミングを失う。
「なに、別に小難しいトリックなんてねえぞ? 俺は痛みってヤツには慣れててさ、ちょこっと痛覚ってのを無視してやってんのよ」
痛みはある。
ダメージは残っている。
だが、それらを天風駆は完全に無視する。
「でも、そんな事したらアンタの身体は……」
「そりゃまあな。身体からの危険信号を無視して無理やり動かしてるんだから、命を削ってるみたいなモンだ。で、それがどうした?」
まるで、何を当たり前の事を? とでも言うかのように天風駆はそう首を傾げたのだ。
「どうせいつか死ぬんだし、別にちょっとくらい寿命削ろうが変わんねえよ。それに、それでお前みたいな鬱陶しい奴をぶっ殺せるなら安い買いモンだろ?」
「……どうしてだ。どうしてそこまで……アンタはッ!」
吠える勇麻を鬱陶しげに睨み付けて、
「あー、うるっせえなー。つーかウザい。お前との会話にもいい加減飽きてきたしな。そろそろ殺すけど、いいか?」
興が覚めたとでも言いたげに首を鳴らし、片膝をついたまま荒い息を吐く勇麻に駆が歩み寄る。
両者の距離が縮まる。立ち上がろうにも脚に力が入らない。勇気の拳による身体強化が追い付かない程のレベルのダメージと疲労の蓄積が勇麻の身体を蝕んでいた。
天風駆から距離を取るどころか、自分の足で立ち上がる事すら難しい。
絶体絶命の勇麻は己の血のこびりついた口元を腕で拭いながら問いかける。
「……抵抗する人間を殴打だけで殺すって、案外難しいと思うけど?」
「ああ、それなら安心しろ」
時間稼ぎのようなくだらない問いに、くだらない答えで駆は応答した。
黄金の輝きの後、駆は掌から光り輝く一本の短刀を造り出すと、その手にそれを握る。
光の短剣のように眩く光り輝く事はなく、刀身は薄っすらと鈍く輝く黄金。しかし決してただの刃物ではない。『神の力』の力で精製された正真正銘の業物だ。
「遊びは終わりだ。殺す時はちゃんとこれでバラしてやるよ」
「……光の短剣に比べて随分ちゃっちく見えるけど、そんなので『神の能力者』を殺せんのかよ」
「心配はいらねえよ。こっちは俺の力を圧縮した特別制だ。量産できる光の短剣とは質が違う。少し掠ればそれでお前の首はコロリだ」
刃物を手の中で弄ぶ駆に対して、
「……ははっ、なんだ、てっきりこれ以上髪の毛ハゲるのが心配で光の短剣を使わないんだと思ったら、そういう訳じゃないのか」
鼻で笑って、ふざけきった調子でそう言った。
この期に及んでの挑発。
あくまで強気の姿勢を崩さない勇麻に、駆は氷点下の凍てつく視線を向ける。
ビリビリと、莫大な感情の矛先を向けられた事によるプレッシャーが勇麻の肌を震わせる。
正真正銘の殺意が、勇麻目掛けて照準されているのが分かる。
「……そうかよ。そんなに痛めつけてほしいのかよッ!」
怒れる駆の言葉が発せられ、目もくらむような輝きとほぼ同時に無数の光の短剣が精製、勇麻目掛けて放たれた。
連続する轟音が響き、勇麻の身体を揺らす。
美麗な黄金の輝きに毒々しいほど鮮やかな赤が混じり、妖艶な美を醸し出す。
それは切り裂くというよりも殴打のように勇麻の身体を叩く、細微な砲撃だ。
衝撃が連続し、勇麻の身体が宙を舞う。
逃げ場のない宙に投げ出された勇麻に容赦なく追い打ちが浴びせられる。
衝撃が身体を叩き、抵抗すら出来ずに鉄パイプの嵐の中にぶち込まれるような感覚。
気持ちの悪い浮遊感が一生にも感じられ、背中から受け身も取れずに勇麻は落下した。
落ちた場所にジワリと血の海が広がり、それでも彼は必死に立ち上がろうとして、
(こ……。く、そ……っ)
それが限界だった。
そして――東条勇麻は意識を失った。
☆ ☆ ☆ ☆
決着は着いた。
東条勇麻はあぐらを中途半端に崩して手足をダランと投げ出したような格好で座っていて、首も力なくダラリと垂れ下がっている。
大口を叩くしか能の無い目障りな男はもう口を開かないだろう。
先ほどの攻撃で完全に意識を失っている。
後は動かなくなったこの男にトドメを刺すだけだ。
「これで終わりか? ……なら死ねよ。ヒーロ様よぉ」
とんっ、と地面を蹴る音があった。
『神の力』による移動など必要ない。
目の前の死に体には、こちらの攻撃を躱す力も自分の足で立ち上がる力も、その意志も、何一つとしてもう残されていないのだから。
駆と東条勇麻の距離が一瞬で縮まる。
目の前の男は動かない。
当たり前だ。意識は奪っているし、それ以前からもうまともに動けないくらいのダメージを負っていたのだから。
例えこのタイミングで東条勇麻が目を覚ましたとしても、駆の一撃を躱すなど不可能だ。
もう何もかもが手遅れ。
天風駆の手によって一人目の犠牲者が生まれる。そして東条勇麻の死を皮切りに、様々な人間の命が駆の手によって散っていく事になるのだろう。
東条勇麻を殺してしまえば、『主神玉座』を手に入れようとする駆の前に立ちふさがる障害物は無くなるのだから。
だから、これで終わる。
全てが堕落した世界が始まる。
全てを押し付けられ、全てを憎む天風駆の、くだらないささやかな復讐劇が始まるのだ。
天風駆は勝利の確信を持って、その顔に歪んだ笑みを張り付けた。
「死ね!」
一切の容赦なく鈍く輝く刃物が振るわれ、それが勇麻の首元を切り裂く。
勇麻の喉仏が掻っ捌かれ、赤々しい粘着質の液体が宙を舞って――
――などという事にはならなかった。
「……な、なん」
動揺したような駆の声が響く。
駆が横薙ぎに振るった短刀は、首先一ミリの所で見えない壁に遮られるかのように、ピタリと軌道を停止させていた。
ただし刃物があてがわれているその華奢な首は、東条勇麻の物では無い。
「……なぜだ。どうして! どうしてお前がこの場で出てきやがる!」
駆の目の前、勇麻の首が切り裂かれるその直前に、一陣の風と共に割り込んできた人物がいた。
毅然とした表情で駆の顔を注視し、割り込むようにして勇麻と駆の間で両手を広げる少女、天風楓。
全ての力をここまでの移動に注いだのか、息は荒く風の衣も、竜巻の翼も纏っていない。
完全に丸腰の女の子を前にして、天風駆は完全にフリーズしていた。
天風駆が妹への攻撃を躊躇った?
違う。
そうじゃない。
そもそも天風駆は、己の妹の介入に対して叫んだのでは無かった。
「天風ェ……駆ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅうううううううううううううううううううううううううううううううううッ!!?」
☆ ☆ ☆ ☆
地面を蹴ったその瞬間。
天風楓が動くであろう事を、駆は既に予測していた。
彼女の性格。そして目の前の男に抱いているであろう感情を考えれば、可能性自体は決して低い話では無い。
だから実際に楓が動いた気配を察知した時も、彼の思考に焦りや戸惑い、迷いは微塵も無かった。
元々妹はあの目障りで鬱陶しい男の後に殺す気だった。
その順番が入れ替わった所で、特に大きな問題も無い。
実の妹だから殺されずに済むかも知れない。
もしそんな都合のいい打算混じりの推測を並べて飛び込んで来たと言うのなら、浅はかも良いところだ。
そんな奴は喉を貫く痛みと共に自分の甘さと愚かさ、そして全身を焼き尽くす天風駆の憎しみを思い知ればいい。
もし自己犠牲の精神の為した業だとするならば、そんな行為が糞以下の価値も無いという事を分からせる為に二人同時に仲良くブチ殺してやればいい。
そう判断した天風駆は短刀を振るう手を止める気は無かった。
むしろ一層の加速と共に、全力で刃物を振るっていたハズだった。
それなのに、
真っ赤な惨状で覆われていなければおかしいハズなのに。
「……なぜだ。どうして! どうしてお前がこの場で出てきやがる!」
惨劇は起こらない。
短刀を握った右腕は、まるで金縛りにでもあったかのように微動だにしない。
どうしてこうなったのか。
考えられる原因など、一つしかなかった。
怒りも露わに、天風駆は叫んでいた。
「天風ェ……駆ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅうううううううううううううううううううううううううううううううううッ!!?」
奇妙な光景がそこには広がっていた。
駆の短刀を持つ右腕を、短刀を持たない方の左手が掴んでいる。
まるで、自らに刃向うかのように、天風駆の意志に逆らって左手が動いている。
そうとしか思えない状況が楓の目の前に広がっていた。
「なぜだ、どうして……どうして今頃お前がノコノコ顔を出しやがる! よりにもよってこのタイミングで、なぜだァ!!」
楓自身こうなる確信があった訳では無い。
ただ勇麻のピンチに自然と身体が動き、気が付いたら彼を庇うような形で跳び出していたのだ。
結果オーラいと言えば結果オーライだが、楓にとっても目の前の光景は予想外の物であった。
短刀を持つ駆の腕が、ふるふると震える。
しかし、楓の首と刃の距離は縮まるどころか離れるばかりだ。
「お兄ちゃん……」
「天風楓ぇッ! お前もだァ! ノコノコ自分から跳び込んでくるとかお前は馬鹿かァッ! 妹の自分が跳びこめば俺が攻撃を止めるとでも思ったのか!? 甘いんだよォォォ! 俺にとっちゃお前も殺す標的の一人でしかねえ。妹のお前も、目障りなそこの男も、この世でのうのうと平穏を謳歌してやがる全てが、俺以外の全ては俺の敵だァッ!!」
目を血走らせ、口から滝のように唾を飛ばし、殺意を放出する。
しかし言葉とは裏腹に、天風駆の刃が楓の首を引き裂く事は無い。
悲劇は起こらない。
あとたった数センチ前にナイフを動かすだけで、憎み殺意すら抱いていた実の妹の首を引き裂けるのに、まるで二つの相反する意思がぶつかり合っているかのように駆の身体を縛っている。
「ごめんね、勇麻くん。勇麻くんに全部任せてた癖に、結局出てきちゃった」
楓は兄を見つめたまま、視線すら送らずに背後の勇麻に話掛けた。
当然返事は無い。
意識が無いのは分かっている。けれど、自己満足であろうとも、そうする事が正しいような気がしたから。
「でもね、こうしなきゃいけなかったんだ。兄妹ゲンカするにしても、“こっち”の駆お兄ちゃんとも話さなきゃいけないから」
ピクリとも動かない勇麻に、目の前の兄に、そして自分自身に語りかけるように、改めて再確認するような口調で楓はそう言った。
これは天風楓にとって、絶対に通らなければならない道なのだ。彼女が本当の意味で兄と向き合うためには、天風駆の弱さの集合体である目の前の男と正面から対峙する必要がある。
楓は己の意識の矛先を気絶している勇麻から一度離して、
「……ねえ、お兄ちゃん。わたし、さ。お兄ちゃんに謝らなきゃいけない事があるんだ」
「黙れ売女ァ! ……俺がお前を許すとでも本気で思ってるのか!? あの日俺を見捨て、その後俺を助けようともしなかったお前を!」
「……」
その罵倒の言葉が、楓にとってどれだけの痛みを伴う物なのか、想像できる人物はきっといない。
だがそれでも、兄の前でだけは痛みに顔を歪める事は許されない。
他の誰でもない天風駆には、その暴言を吐くだけの権利があるのだから。
実の兄から向けられる殺意。己に向かう罪の意識。後悔と懺悔。そしてようやく過去と向き合うと決めた今の彼女の思いを推し量る事など、それこそ他人には不可能だ。
けれど、それでいい気がした。
これは楓が一人で乗り越えねばならない壁なのだから。
「……わたし、さ。強くなりたかったんだ。あの日からずっと、強くなりたいって思ってた。優しいだけで何もできないわたしが嫌いで、あの時お兄ちゃんを助ける事が出来ず、恐怖から逃げる事しかできなかったわたしが嫌いで、だから誰かを助けられるくらい強くなりたかった。変わりたかった」
「……黙れ」
声は、震えていない。
楓は極めて落ち着いた声色で、兄に語り掛ける。
いや、語りかけると言うより、懺悔をしているような形に近かった。
「でもね、わたしが追い求めていた強さなんて、形だけの物でしかなかったんだって、ようやく気が付いたんだ。周りからは『最強の優等生』なんて言われて、神の能力者としては強くなれた。けど、怖い事から、嫌な事から逃げる弱さだけは変わっていなかった。だから、わたしは決めたんだ」
「……うるさい」
それは一つの決意表明。
「わたしはまだ弱いけど、それでも傷つく事を恐れて逃げるのだけはもう止めるって、決めたから。だから――きちんと、謝らせてください」
天風楓は、ようやく過去ときちんと向き合う事を決意したのだ。
「……やめろ」
「お兄、ちゃん」
楓の声が震える。
堪えられなかった熱い何かが、頬を伝って地面に落ちていく。
既に雨で濡れた地面の上には何一つ痕跡を残せなくて、けれどもその暖かい液体には、確かな何かが詰まっていた。
「あの時、怖くて自分の事しか考えられなくて、ごめんなさい。お兄ちゃんをおいて逃げちゃって、ごめんなさい。十二年もお兄ちゃんを独りにして、ごめんなさい。……本当に、ごめ……んなさ、い……。許してっ、もらえるとは思わないけど、だけど、わたしは……っ、今でも……お兄ちゃんが大好きだから。だから……っ」
「黙れえええええええええええええええええええええ!!!」
天風駆の叫びが、楓の後悔と懺悔の言葉を掻き消す。
駆は短刀を持つ手に再び力を注ぐ。しかし左手に掴まれた右腕は微動だにしない。
駆は頬の筋肉を硬直させるように歯を食いしばる。
まるで何かを堪えるように、顎が噛み砕ける程の勢いで噛み潰す。
「謝るのか、お前が。……今更になって。何もかもが手遅れなのにッ!!!」
「許してもらおうなんて、思ってないよ。でも、わたっ、わたしは、逃げずにきちんと向き合うって、そう決めたから」
「……ふざけるな。ふざけるなァ! そんなのは自己満足だ! お前が過去とどうケジメを着けようかなんて俺の知った事じゃない。俺の苦しみは、憎しみは、絶望は! そんな茶番劇を見せられただけで消えるようなヤワな物じゃねえんだよぉおおおお!」
「うん。分かってる」
駆の何かがブチ切れる音が、辺り一面に響いた気がした。
よろよろと数歩後退り、駆の手から黄金の短刀が落ちる。
ボソリ、と口の中で何かを呟いているようだが、何と言ったのかを聞き取る事は出来なかった。
戦意を失ったのとは違う。
フツフツと湧き上がるような、もっと危険な何かを楓は感じていた。
駆の喉から乾いた嗤いが零れる。
「は、ははは……。分かっている、だぁ?」
薄暗い笑みと、
やがてそんな呟きが聞こえて、
「ふっざけるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああ!!」
駆が爆発したように突撃した。神の力なんて使われなかった。
怒りのまま、自らの足で大地を蹴り上げ天風楓の元へと突っ込んでいく。
血走った目から殺気が迸る。
その鬼気迫る形相に、しかし楓は動こうとしない。
まるで兄の怒りを受け入れるように、ただ黙って結末を待つ。
尋常ではない咆哮と共に振るわれた右拳の一撃は楓の顔面を捉えて──またも一ミリの距離で駆の拳が見えない壁に阻まれるかのように止まってしまう。
「なんでだ……、なんでだよ! どうして止める天風駆! お前だって本当は憎いハズだ、殺したいハズだ、奪いたいハズだ、違うか!」
返事は無い。
ただ、答えるまでも無いとでも言うように、駆の拳はそれ以上前に進もうとしない。
口汚くどれだけ罵ろうが、どんなに鋭く睨めつけようが、結果は変わらない。
天風駆は天風楓を傷つけられない。
そして、
「……勇麻、くん?」
「な……! お前、そんな馬鹿な! 動けるはずが……ありえない!」
楓の背後。
満身創痍の東条勇麻が、無言で立ち上がっていた。
身体の軸はブレブレで、足取りもふらふらと頼りない。
俯いたままの顔の表情を窺うことは出来ないが、それでも苦痛をかみ殺しているのが、漏れる吐息から容易に想像できた。
相も変わらず手足に力は入っておらず、少しでも押せばすぐに倒れてしまいそうだ。
全くもって頼りない。藁のように貧弱な男。
けれども立ち上がった。
あれだけのダメージを受けておいて、それでも立ち上がる少年の姿に天風駆は何を感じたのだろうか。
「目障り、なんだよ……お前はァ!!」
うまくいかない事に苛立ち、行場のない感情をぶちまけながら、駆は東条勇麻に怒りの照準を合わせる。
憤怒に顔を赤く染めて叫ぶ駆の姿は、どこか幼子が癇癪を起している様にも見えた。
「どいつもこいつもどうして俺の邪魔ばかりするんだよ! 俺の人生、少しくらい俺に良い事あってもいいだろ? 何で俺ばかりが全てを否定されなきゃいけない! ふざけるな、本当にふざけるなァ!」
子供のわがままのような咆哮だった。
怒りという莫大な感情の矛先を向けられた東条勇麻は、今にも倒れそうな身体を懸命に両足で支えた、簡単にこう返した。
「…………んにしろ」
「なに?」
ボロボロの少年は、自らに残る体力全てを絞り出すような勢いで、天風駆に告げる。
言葉に勢いが、瞳に、抑えきれない闘志が宿る。
「いい加減にしろって、言ったんだよ。アンタが今まで辛い思いをしてきたのも、自分を裏切り続ける世界を憎んでいるのも、よく分かった。けどよ、それで自分だけが特別だと思ってるなら、それは大きな間違いだ」
「間違っているだ? ……ははは! 馬鹿かお前は。俺が間違っているかどうかなんて、この際どうでもいいんだよ! 俺がムカつく物全部ぶっ壊して、それで終わりだ。お前の採点なんて毛ほどの価値もねえんだよ!」
勇麻の言葉に両手を広げて哄笑する天風駆。もはや狂気に揺れる彼の瞳には誰の言葉も響かない。
辛く苦しい経験のみを押し付けられ、抑圧され続けた彼には自分しかいない。他人と向き合う事も無く、痛みや苦しみとばかり向き合ってきたこの天風駆には、自分を評価し、間違いを正してくれるような存在など持ち合わせていなかったのだ。
そのため、彼には暴走を止めてくれる者がいなかったのだ。
自己の中で完結した暴力的な結論が、後戻りできないレベルで彼を動かしてしまっている。
故に天風駆は自身の衝動に逆らわない。
壊したいから壊し、殺したいから殺す。
幼稚と言うには余りにも危険な思考回路が、彼の中では何の疑いも無く成立してしまっている。
まるで怒られる事を知らずに育てられた子供のように。
事実、自分を叱ってくれる存在に巡り会えなかったから。
「痛いのも、苦しいのも、別にお前だけじゃないって言ってるんだよ。規模に差こそあれ、誰しもそういうモンの一つや二つ抱えて生きていくのが、人間だろうが。……確かにアンタは人よりも抱えてる物が大きいのかもしれねえ。でもそれは別に悪い事じゃないはずなんだ。裏を返せば、アンタはそれだけの重みにも耐えられる強い人間だって事なんだから」
それは誰もが持っている物なのだと、勇麻は言った。
道端を歩くサラリーマンにも、将来有望なスポーツ少年にも、幸せそうな新妻だって、誰だって持っているのだ。痛みも辛い想いも、憎しみも後悔も、悲しみも惨めさも、誰だって人知れずに抱えて生きている物なのだ。
勿論それは天風楓にも、きっと東条勇麻にだってあるのだろう。
「それを、腹のうちに抱えておくべきその痛みを、これ見よがしに周りに振りかざして見せつけるなよ。そんなの自分の弱さを周りに宣伝してるのと同じだぞ」
東条勇麻は改めて天風駆の前に立ちふさがるように、彼の顔面目掛けて拳を突きつける。
「天風駆、確かに今のアンタは『弱さの集合体』だよ。理想の世界を掲げたアイツの方が、まだ強かった。……子供のわがままを振りかざすだけのアンタに、負ける訳にはいかない」
「上等だ……。上等だこのクソ野郎がぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああッ!!」
「楓! 俺から離れて風の衣を!」
「ゆ、勇麻くん!?」
楓の目の前で、ついに最後の激突の火蓋が切って落とされた。
怒りを露わにした叫びが駆から発せられた。その数瞬後には天風駆の姿が青白い燐光を残して消失する。
東条勇麻を殺害するため実体の無い光の粒子と化したのだ。
東条勇麻に手加減を加えてやる理由など何も無い。もう片方の天風駆も殺すのがこの男であれば、天風楓の時のような妨害は行わないはずだ。
もう誰にも邪魔はさせない。
この男を次で仕留める。
もううんざりだった。いちいち耳障りな説教も、ゴキブリのようなしぶとさとしつこさも、何もかもが駆の心を苛立たせた。
殺したいから殺し、壊したいから壊す。
その原理で行動を続ける駆にとって、東条勇麻という男の存在は鬼門すぎた。
絶対に殺してやる。
そんな粘着じみた想いすら宿しながら、駆は暗器の存在を思い出す。
やるべきことなどハッキリしている。
光のナイフで東条勇麻の生命を刈り取る。それを実行する事が可能なだけの力が天風駆にはあるのだから。
対して勇麻は、駆の突撃に身構えすらしなかった。
楓に声をかけながらも、勇麻は迅速に次の行動に移る。
駆の攻撃に対する防御ではない。そもそも勇気の拳の特性上、防御という選択肢は勇麻に存在しない。
とは言えやることは簡単だ。
東条勇麻は、右足を垂直に上にあげると、
「はぁッ!」
そのまま全力で足元の地面を踏み砕くため、右足を地面に踏み下ろした。
ただ一つ。通常とは異なる部分があった。
勇気の拳の出力ギリギリ。身体が耐えられるかどうかなどを全く考慮せずにその動作をおこなったのだ。
(ぐぅッお……)
全身の血管という血管が引きちぎれるような激痛が勇麻を襲う。不自然なほどに盛り上がった筋肉の至る所から血飛沫が吹き上がり、身体が崩壊していく音を勇麻は耳にしていた。
だがそれが何だというのか。偽物の英雄? 南雲龍也の代理品? 笑わせるな。大切な物も守り切れ無い人間には、そんな事で悩む資格すら無い。
そしてそれ以前に、泣いている天風楓を守るのは幼馴染である東条勇麻の役目なのだから。
だから負けられない。こんな所で、こんな子供のわがままを振りかざす事しかできない臆病者に、勇麻が負ける訳にはいかない。
だから願う。力を寄越せと、ここで全てを終わらせる事ができるだけの力を、勇麻は勇気の拳に願っていた。望んでいた。希望を。
その思いに呼応するかのように右腕が白熱。
さらに供給される力の質と量が上がる。
ただ足を地面に振りおろすという行為、その結果生じた音は、もはや人には出せないような轟音の塊でしかなかった。
勇気の拳による勇麻自身の身体が耐えられないほどの高出力の身体強化。文字通り身体が崩壊するレベルの力で、一度限りの捨て身の攻撃を受けたアスファルトの地面は、勿論タダでは済まない。
起きた現象は単純明快。
勇麻の右足がアスファルトを踏み砕くように破壊し、突き刺さった右足を中心として大小さまざまな破片が散弾銃の如き勢いで辺り一面に飛び散った。
三百六十度。敵味方関係なく全ての方向に対して、だ。
その瞬間、天風駆は既に東条勇麻の死角に潜り込んでいた。
光の粒子化を解き、既に実体化している。ここまで僅か〇.一秒。
東条勇麻に対して、完全に先手を取っている形である。
しかし、実体化直後の天風駆は硬直状態にあり、すぐさま動くことはできない。その結果、光の粒子化を解いてから攻撃に移るまで、およそ一.五秒前後の時間が必要なのだ。
本来ならそれで何の問題も無い。
東条勇麻が駆の出現に気が付き、それに対応する前に攻撃を当てる事は容易だ。
だからこそ、これまでの戦闘で東条勇麻は駆の一手目を抵抗せずに受け切るという戦法を取っていたのだから。
しかし今回は事情が違った。
駆が光から実体化し、駆の身体が光の粒子化の影響で硬直している所へ、勇麻が全力で踏み砕いたアスファルト片が散弾銃の如き勢いで飛来してきたのだ。
「ぐッ!?」
アスファルト片の直撃を受け、駆の身体が大きくのけ反る。
思わず腕で顔を庇い覆い隠すような体勢を取る天風駆。
攻撃に入る前に駆の動きが止まる。実体化直後の為、光の粒子化で逃げる事もできない。正真正銘の無防備だ。
そして、その隙を東条勇麻は逃さない。
これがラストチャンスだという確信が勇麻にはあった。
タイミング的にも、そして勇麻の身体の限界を考えても、おそらくこれが最後。ここを逃せば勇麻の敗北が決まる。
だからこそ迷いは無かった。
全方位にばらまいた破片の散弾。苦痛の声が上がったのは勇麻の死角、後方。判断は瞬間、挙動はつむじ風の如く。
(最後の最後で分かりやすく真後ろ……人間、怒り狂うと行動が単純になるってか!)
地面に突き刺した足を軸にし、左足を後ろへと引くようにして身体をくるりと反転。
勇気の拳からの力の供給により、勇麻の筋肉が爆発的に膨張、そして圧縮されるかのように元の大きさに縮む。
「――これで最後だッ! この大馬鹿野郎ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」
肥大したかのように大きく浮き上がった勇麻の腕の血管。そこから血が噴水のように吹き出すのも無視して、回転の遠心力をそのまま運動エネルギーに変え、眼前の天風駆へと右拳を叩き込む。
刹那、赤黒いオーラが瞬くように明滅して――
――ドゴバァッグッシャァァァァッ!!
重機の先に括り付けた鉄球で建物を叩きつぶすような、凄まじい轟音が辺り一面に鳴り響いた。
勇麻の右の一撃を受けた天風駆は、まるで野球の打球のように地面を勢いよく跳ねるように転がって行き、二、三〇メートル先のコンクリ壁を倒壊させてようやくその動きを止めた。
まるで何かの通り道のように地面に残る天風駆の通過痕が、その一撃の凄まじさを端的に表していた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
まさに圧倒的。
ただの人間にだせるような威力の一撃では無い。
勇麻の神の力『勇気の拳』に防御は意味を成さない。それどころか、防御を無効化するなんて優しい話でも無い。
防御という行為自体が逆効果。
敵の攻撃に恐怖し己の保身を図る臆病者に勇気の拳は容赦をしない。
防御の行動に入ろうとする人間への攻撃の威力を何倍にも高めるという恐ろしい特性を、その拳は秘めていた。
直撃の瞬間、咄嗟に腕を交差させ攻撃を防ごうとした天風駆を誰が責められるだろうか。
初見殺しの、悪夢のような一撃。
最大級の一撃を放って全身から血を垂れ流す勇麻は、力が抜けたかのようにへなへなと地面に膝を着くと、疲れたように天を見上げる。
「……なあ天風駆。一人じゃ背負えない悲しみや痛みにぶつかったんなら、共にそいつを背負えるヤツを見つければよかったんだよ。アンタのすぐ傍には、こんなにも思いやりに溢れた優しい妹がいるんだから」
雨はいつの間にか止んでいた。
久しぶりの綺麗な星空を拝みながら、東条勇麻はその場に仰向けで倒れ込むと大の字で寝転んだ。
星空へ手を伸ばすと、一筋の流れ星が勇麻の視界を横切って行った。




