第二十一話 リミットⅢ――救い、死
頭も身体もふわふわする不思議な感覚。まるで夢遊病者のように、気が付くと天風楓は立ちつくしていた。
――ここは……?
辺り一面真っ白な世界。
どこまでも無限に、限りなく広がる虚無の世界に楓は独り立っていた。
辺りには誰もいない。何も無い。
気が遠くなるような地平線が広がり、障害物が皆無な為、遥か遠くまで見渡す事ができる。
人の気配なんて、当然ながら微塵も感じない。
正真正銘の独りぼっちだ。
『独りぼっち』。
懐かしいその単語に思わず笑みが零れた。
特に目的も何も無く、空虚な空間をぶらりと歩く。
何故だか少しばかり肌寒い。
白いプラスチックのような大地へ一歩一歩を踏み出すたびに、楓のこれまでの人生の、楽しかった記憶が脳裏に蘇ってきた。
本当に小さい頃、母と父と兄に囲まれていた記憶。
天界の箱庭で、勇麻や泉、それに南雲龍也達と遊んだ記憶。
楽しかった記憶は尽きる事なく、とめどなく脳内に溢れ自動的に再生されていく。
自然と顔がほころんでしまう。
しばらくそのまま空白の世界を歩き続ける。
景色の変化が皆無な為、距離感と時間の感覚が狂いそうだった。
一体どれくらいの時間が経っただろう。
何も無いと思っていたその矢先、小さな小川が楓の目の前に流れているのを発見した。
白一色。障害物どころか地面に起伏すら存在しない世界にその小川は明らかに異質で、異物感が拭えない。
この距離に近づくまで、明らかに悪目立ちをしている異質な小川の存在に全く気が付かなかった。
理由は単純だ。
音が無い。
小川のせせらぎどころか、音が死んでいる。何も聞こえない。
緩やかな水の流れを無心で眺めていると、心の中が空っぽになっていくような、そんな不思議な感覚が楓を包んでいく。
しばらくそうやって益体の無い行為に身を投じていた。
ふと、音の無かった世界に誰かのすすり泣きが響いた。楓が顔を上げると、少し先に膝を抱えてすすり泣いている四歳くらいの少女がいるのを発見した。
今まで人の気配どころか自分以外の生物の気配も感じなかったというのに、これまた唐突過ぎる登場だった。
どうしてこんな小さな子がこんな所にいるのだろう。
自分がこの謎の空間にいる事は棚に上げて、そんな心配を楓はしてしまう。
天風楓という少女の優しさという本質は、どんな場所にあろうとも変わらないのだ。
小さな背中を悲しみに震わせて泣きじゃくるその後ろ姿に、何故だか酷く見覚えがあって、少し思案するように目を閉じる。
だが想いだせない。
答えが喉元まで出かかっているのに、何かが引っ掛かっていて出てこない。もどかしい感覚だった。
もしかしたら勘違いだったのかな、と首を傾げる楓。
ともあれ、こんな所で一人泣いている女の子を放って置くのは楓の良心が咎める。
とりあえず、いつまでも泣き続ける少女に楓は優しく声をかけた。
――大丈夫? どうしてあなたは泣いているの?
問いかけに答え。
『――そんな事、アナタが一番分かってるハズよ』
気が動転でもしているのか、会話が成立しているかも怪しい返答だ。
――あなたはどうしてここにいるの? お母さんやお父さんは?
『――ワタシが犯した罪を償う為。……お母さんとお父さんは、ここにはいないんだよ』
要領を得ない少女の答えに、楓は困ったように頭を搔いて、
……何かいけない事をしてご両親に怒られて、置いていかれちゃったのかな? と少女の答えからどうにか平穏な回答を導き出そうとする。
それなのに、
『違うよ』
まるで楓の心を読んだかのように否定の語を放つと、
だって、と少女は言葉を一度切って、
『あの時お兄ちゃんを見捨てて逃げたのは、ワタシじゃない』
そう言って、蒼白な表情で楓の方を少女は振り向いた。
「あ」
ゾッと、背筋が凍りついた。
酷く見覚えがある顔が、泣きながら楓を睨めつけるようにしていた。
どうして今まで気が付かなかったのだろう。
どうして今まで忘れていたんだろう。
いや、違う。本当は一目見た時から気が付いていた。
だが、その事実を認めるだけの強さが天風楓にはなかったのだ。
そこにいたのは、幼いころの楓自身だった。
いつも泣いてばかりで、いつだって諦めてばかりの、弱く無力な天風楓そのものだ。
がしっ、と楓の足を幼い楓の手が掴む。思わず短い悲鳴を上げて、その手から逃れようとする。
けれど、その小さな手からは想像できない馬鹿力で、楓を掴んで離さない。
歪んだ声が問いかける。
『なんで、どうしてお兄ちゃんを見捨てたの? ワタシが助けにいけば、お兄ちゃんがあの人たちに連れ去られる事なんて、なかったのに!!』
「ち、違う……。だって、あの時わたしは弱くて……だから、」
『逃げるの?』
「!?」
『またそうやって、自分の都合の悪い事から逃げるの? あの時もワタシはそうやって、怖い事から逃げたんだ。お兄ちゃんを見捨てたんだ』
「そんな事は……ッ! わたしが行ったって、何の役にも立たないから……だからわたしは助けを呼びに行こうとして、それでッ!」
「助けを呼びに、ね」
幼い楓は狂ったように悲しい微笑をその顔に浮かべて、
「なら。駆お兄ちゃんを前にしても、その言い訳が出来るの?』
ざ、ざざざ……
ざざ、ッザザザザザザザ、ザザガッガガガガガガガガガガガガガガッガガガッガガガガガッガガガガガガガ…………………………………………………………
「…………ハッ!?」
意識が一瞬暗転した。
気が付くと天風楓は住宅街の中にある児童公園に立っていた。純白の世界も、泣いていた幼いころの天風楓も、どこにも見当たらない。
まるでさっきまでの光景は全て幻であったかのように、世界は色付いていた。
背中まで脂汗でびっしょりで、荒い呼吸を何度か繰り返し、逸る動悸を落ち着かせる。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
春風が気持ちよく楓の髪の毛を撫でていき、これまでの緊張から解放されるように楓の身体から力が抜けた。
膝から崩れ落ちて、ぽすん、と地面に尻餅を着く。
一体さっきの場所は、あの女の子は何だったのか。
分かるはずもないそんな疑問が、今更のように楓の頭の中に浮き上がる。
「ここは……」
どことなく見覚えのある場所だった。強い既視感を覚えて、記憶の蓋をこじ開けるように目を瞑る。
けれど靄が掛かったように、懐かしさの正体はあと一歩の所で顔を出そうとしない。
平日の午前中らしく、公園は閑散としている
だがそんな人気の無い公園で、一組の兄妹が楽しそうにボールで遊んでいるのが見えた。
茶色いボブカットの四歳くらいの女の子と、小学生くらいの男の子。
ずきり。
その兄妹を見た途端、頭に痛みが走った。
なんだこれは。
収まっていたはずの胸の鼓動が煩さを増す。息苦しい。酸素を求めて肺が喘ぐ。
知っている。
天風楓はこの先の結末を知っている。
「だめ……、だめ! そこから早く、逃げて!」
楓はうまく力の入らない身体を無理やりに立ち上がらせて、走り出す。
女の子と男の子へ手を伸ばしながら、悲痛に叫ぶ。
だが届かない。声は形にならず、魚が水面で口をぱくぱくするかのように、空気が出入りするだけ。
妹の投げたボールが、狙いを違えて大きく兄の頭上を越える。
公園の植え込みを越え、ゴムボールが道路へ。
だめ、戻って!
楓も道路へ飛び出す。
走る。ただただ走る。
いつの間にか楓の瞳からはとめどなく涙が流れ、胸に走る痛みでその顔を痛嘆に歪めていた。
謝る妹と、笑いながらボールを拾いに走る兄。
このままでは、その幸せそうな笑顔が、次の瞬間訪れる悲劇によってボロボロに引き裂かれてしまう。
楓なら食い止められるハズだ。
その為に力を得た。今度こそその手で誰かを助ける事が天風楓にはできるハズだ。
なのに。
足は驚くほど前に進まず、身体で切り裂く空気は泥のように重い。
音にならない絶叫と共に手を伸ばす。
道路に出た男の子の前にナンバープレートの無いワゴン車が止まる。
楓は力を解放しようとする。
天風楓を中心に世界に風が巻き起こり、背中へと力の流れが収束していく。
「届いて!」
ワゴン車の中から複数の腕が伸び、男の子を掴む。
抵抗も虚しく、大人の力に男の子が車の中に引きずり込まれる。その寸前で楓の背中に接続された一対の竜巻の翼が、複数の腕から強奪するかのように男の子を呑み込まんとして――
――あれ?
力が消失していた。背中に接続されていたはずの天風楓の力の象徴、竜巻の翼は跡形も無く消え去っている。
それだけじゃない。
一瞬前まで道路に居たハズなのに、なぜか楓の身体は公園に逆戻りしていた。
視界が妙に低い。まるで背丈が縮んでしまったようで、恐る恐る自分の身体を見回すと、つい先ほどまで男の子とボール投げをして遊んでいた女の子がそこには立っていたのだった。
天風楓と女の子の身体が入れ替わった? いいや違う。そうじゃない。だって、だってあそこで兄と仲良くボールで遊んでいたのは、紛れも無い天風楓自身――
『――ほら、また言い訳をしてみなよ』
「!!?」
耳元でそんな声がして、幼い楓は思わず飛び上がる。
小さな楓の隣に、まったく同じ容姿をした女の子が立っていた。
「あなたは、さっきの……」
『ワタシがワタシの事を気にしてどうするの? それよりほら、見てよ』
自分自身が指し示す先へ目をやると、必死に最後の抵抗をしている男の子と目が合った。
瞳に恐怖と涙を浮かべ、それでもこちらに助けを求めようとはしない。
お前は逃げろ! そう視線で訴えてきているのが、楓には痛いほどよく分かっていた。
けれどそれじゃダメだ。
ここで逃げたら、また繰り返しではないか。
天風楓が力を得たのは、何の為だ? 少なくとも、この場面で抵抗虚しく連行される男の子を黙って見捨てる為に強くなった訳では無い。
だから、天風楓は。
…………………………………………。
『どうしたの? 助けに行かないの?』
自身の声でハッと我に返る。
そしてそこで、男の子を助ける為に動こうとしていたハズなのに、いつの間にかフリーズしていた自分に気が付いた。
『お兄ちゃんを救えなかった事を後悔して、力を手に入れたんでしょ? 自分が弱かったから助けられなかった。優しいけれど、それだけで無力だったから。そんな現状をどうにか打開したくて、強くなったんでしょ? ほら、早く強くなったところを見せてよ。お兄ちゃんを助けてあげて』
「でも、力が……。わたし、身体が小さな頃に戻ってる。これじゃあ、力が……使えないっ」
楓の言葉に、もう一人の楓は退屈そうに両手を広げヘリコプターのプロペラのようにくるくるその場で回りながら。
『“干渉レベルの差なんていくらでも覆せる”。強くなったワタシはそう言ったハズだよ。ましてや相手はただの人間。覆すどころか、神の能力者でも無い人達相手に、ワタシが負ける訳ないよね?』
「そ、れは……」
楓の言葉が突き刺さる。
強くなったはずの少女に、弱いままの少女の言葉が突き刺さっていく。
『どうしたの? ほら早く。お兄ちゃん、連れてかれちゃう』
足が震えている。動かない。頭が痛い。
両目から涙が溢れ、視界が歪む。
怖い、怖い、怖い。
『神の力』が使えない。その酷く単純な事実に堪らなく恐怖を覚える。
まるで半身をもぎ取られたかのような不安感と無力感。
涙と共に、天風楓の何もかもが零れ落ちていってしまうような錯覚を覚える。
泣き虫で弱虫な自分が簡単に顔を出す。力を得て、変われたハズだった。
それなのに、自分を特別たらしめていた物が消え失せただけで、こうも簡単に弱い自分に成り下がってしまう。
心身共に成長したと思っていたのに、それは幻想でしかなかった。
「わたし、わたしはっ! うっ……なんで、なんで動けない!! 動いてよッ!」
嗤う膝を乱雑に殴りつけても、喉が痛くなるまで叫んでも、身体が言う事を聞かない。
まるで糸で縫い付けられたかのように、足の裏は地面を離さない。
男の子の身体がワゴン車の中に消えて行く。
また届かない。また失う。
恐怖に打ち震えるこの身体では、助けを呼びに行くことすらできない。
これじゃあ丸っきり同じだ。
兄が攫われた恐怖にこの公園から逃げ出して、建物の隅に隠れて縮こまり、助けすら呼べずにブルブルと震えているだけだったあの時と同じだ。
あの時も結局、近くに住むおじさんが路地の隅で膝を抱えて震えている楓を発見するまで、天風楓は何もできなかったのだ。
誰かに助けを求める事も出来ずに、自分可愛さに隠れて縮こまっている事しかできなかった。
それをまた繰り返すのか。
『楓……お前は、また僕を見捨てるんだな』
怨念の込められた声が、確かに聞こえた。
怖い。
感情を向けられる事が怖い。
目を瞑って耳を塞いだ。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいと、何度も念仏のように唱えて、首を横に振り続ける。
こんなハズじゃなかった。断じてこんなハズでは、なかったのに。
こうならない為に強くなったのに。どうして……。
『天風楓、ワタシにはその無様な姿がお似合いよ。結局弱いままのワタシには、もう生きてる価値なんて無い』
だから、
『今度こそお兄ちゃんを助けよう。強くないワタシ達で、どうしようもなく弱いまま、お兄ちゃんの為に――』
――死んで全てを終わらせようよ。
☆ ☆ ☆ ☆
ぼきり。
そんな嫌な音を、感覚の死に行く中でもよく通るその音を、楓は確かに耳にした。
あ、終わった。
訪れてしまえば酷くあっけない物で、一番最初に浮かんだ感想はそんな物だった。
首の骨が折れた。
痛みどころか、感覚すら感じない。
でも頭に鳴りひびくその嫌な音が、無慈悲な現実を楓に突き付けていた。
さっき見えた悪夢のような不思議な世界は、走馬灯とかいうヤツだろうか。
だとしたら、あれを見るのもこれが最初で最後という訳だ。もう二度とアレを見なくても済むと思うと、それだけで安堵に肩の力が少しだけ抜ける。
きっとあと一秒か二秒後。もしかしたらもっと短い時間の間に天風楓の生命活動は停止する。
『死』という名の終り。終着点。一種の救い。それが訪れるまであとどのくらいか。
確定してしまった『死』ならば、一刻も早く訪れて欲しかった。
時間は引き伸ばされ、一体いつまでこの身を襲う『恐怖』と対峙し続ければいいのだろう。
気が狂いそうな程怖い。
死ぬのは嫌だ。けれども早く訪れて欲しい。
そんな矛盾ともいえる思いが楓の心をぐちゃぐちゃに凌辱する。
早く殺してくれ。
もう死んでいるというのに、そんな願望を口にするなんて酷く滑稽な話だ。そう馬鹿にする人もいるかもしれない。
けれども、実際にこの場に立たなければこの恐怖は分からないだろう。
確実に訪れる終わり。けれどもいつ、どのタイミングでそれが訪れるのかが分からない。
真っ暗闇の中を、明かりの一つも無しに進んでいく。止まる事も引き返す事も許されずに、でも確実に道はどこかで終わりを告げて、楓の身体は奈落の底へと落ちていくのだ。
なのに、
(あ、れ……?)
いつまで経っても、天風楓が拒絶し、渇望したハズの終りはやって来ない。
死にかけていた感覚が戻る。五感が正常に辺りの情報を入手し始める。
酸素が肺を通り抜け、身体中に循環し始める。
死にかけていた細胞が、活動を再開する。
寒さも、息苦しさも感じない。
でも、一体どうして?
恐怖も忘れ、ただ純粋な疑問だけが少女の胸中を埋めて――ゆっくりと見開いた視界の先、まるでコマ送りのようにスローモーションな世界の中。
一人の少年の拳が天風駆の顔面に深々と突き刺さっている光景が、少年の叫び声と共に楓の脳を震わせた。
「っざけんなよ!この、クソ野郎がぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああッ!!?」
“天風駆”の首が“ぼきり”という嫌な音と共に変な方向に曲がりながら、金髪の少年の身体は一〇数メートルもの距離をバウンドしながら転がっていった。
どうしてだろうか。その時。
雨が、止んだ気がした。
☆ ☆ ☆ ☆
間に合った。
よかった。本当に良かった。
勇麻は腕の中の少女を抱きしめて、唇を噛み締めた。
失わずに済んだ。手遅れにならずに済んだ。
勇麻はその事実に安堵し、大きく息を吐いて、その大切な少女をお姫様抱っこの要領でそっと抱きかかえる。
確かな呼吸に胸が上下して、その暖かな温もりが、勇麻の心を満たした。
大遅刻だが、ギリギリセーフ。
ようやく勇麻も盤上に上がる事が出来たのだ。
(そう。俺は今ようやくスタートラインに立てただけだ。まだ、問題は何も解決していねえ)
勇麻の視線の先、一〇数メートルもアスファルトの上を転がったとはいえ、あの金髪の少年はまだ意識がある。
あの脅威を取り除かない限りは、何も終わらせられないし、始める事もできない。
と、不意に勇麻のティーシャツを引っ張られるような感触を感じて、意識が内側から帰還する。
見ると、腕の中の天風楓が朦朧としたような瞳を勇麻に向けている。
「な、んで……?」
短い言葉だった。
けれどその言葉には、様々な思いが込められているような気がした。
楓は悩んでいたのだ。自分の選択が一〇〇パーセント正しかったのか、それが分かる人間なんてこの世にいない。
この少女も、そんなごくごく当たり前で、普通の事に悩んでいたのだ。
ただそれだけの話。
「……楓。俺って雨が嫌いでさ。いい加減最近の天気にはうんざりしてたんだ。洗濯物は乾かないし。取り込むの手伝わないと勇火には怒られるし、凶暴なヤツにボコボコにのされるし、傘はぶっ壊れるし、今の所いい事が一つも無い。だから――」
勇麻はその顔に不敵な笑みを浮かべて、
「――お前の雨を、止めに来た」
「――っ!」
そう断じた。
まるで誰にも届かないはずの祈りを聞いて駆け付けたヒーローみたいに。
「違う……、違うよ。そうじゃ、なくて。だって。わ、わたっ、わたしは……勇麻くん。に、あんなに酷い、事言って。それ……なのに、なんで……ッ!?」
嗚咽に塗れた少女の顔は涙と鼻水と降りしきる雨とでぐしゃぐしゃだった。
楓はきっと勇麻に否定して欲しいかったのだ。自分の行いを、悪だと、非道だと、そう言って否定して糾弾して貰いたかった。
自分の価値を下げて、暴言を吐いて、勇麻を切り捨てたように演じた理由なんてたった一つだ。
勇麻を危険な目に巻き込まない為。
罪を背負いこみ、自分を貶めてまで彼女が手に入れようとした物。
だけれども、勇麻はそれを認めてやる訳にはいかないのだ、絶対に。
「楓、これだけ長い付き合いなんだぞ。悪いけどな、お前の考えてる事は分からなくても、お前が何かに悩んで苦しんでるって事くらい簡単に分かるんだよ。厄介事一人で抱え込んで、へったくそな作り笑い晒しやがって、よくあんな完成度の低さでバレないと思ったよな、お前」
「なっ、そんな事、ないもん。結構上手に出来たんだよ、あの時の笑顔は――」
「ほら、すぐボロを出す」
「あ」
言われて自分の失言に気が付き、楓の頬が朱に染まる。
頭がいい癖に案外おっちょこちょいな幼馴染に勇麻は苦笑をこぼして、
「お前の方が強いって事も分かってる。俺なんかじゃ足手まといにしかならないのかも知れない。けどな、それでも俺は天風楓の年上の幼馴染なんだよ。お前が何かに追い詰められて、泣いてる時にお前を助けるのは俺の役目なんだよ」
「でも、それでも……わたしのやってきた事は……」
「……分かってる。お前が自分の兄貴を止めようとしてた事も、全部、分かってるから」
「え?」
疑問の声を上げた楓に、勇麻は優しく微笑ながら抱きかかえていた楓をゆっくりと地面に下ろす。
頭を乱雑にくしゃっと撫でつけて、
「立てるか?」
「え、う、うん……」
心ここに非ずな返事を返しつつ、勇麻に困惑した瞳を向ける楓。
とはいえそれも当然だろう。
今まで楓がやってきた事は申し開きようの無い悪事であって、南雲龍也の亡霊に取りつかれ、偽者の英雄を演じ続ける勇麻にとっては、倒すべき標敵その物なのだから。
「あの、勇麻くん。……その、全部分かってるって、一体どういう――」
「楓。お前、アリシアに会ったんだってな」
「え?」
質問とは何の関係も無い答えに、思わず楓から素っ頓狂な声が上がる。
「アリシアのヤツ、だいぶ喜んでたぞ。今日は年上のお姉さんと遊べて楽しかったって。最後に名前が聞けなかったのが残念だけど、今日の事は絶対に忘れないって。……お前にまた会いたいって」
予想外の言葉だったのだろう。最初は目を丸くしていた楓だったが、やがて楓は少し嬉しそうに目を細めて、
「そうなんだ。……あの子、かなり抜けてるからさ。放って置けなかったんだよね。わたしが出会ったのも偶然だけど、勇麻くんの家に居候になってるなんて……。あの子、勇麻勇麻って、“どこかで聞いた事のある名前の人”の話ばっかりしてたから、まさかとは思ってたんだけどね」
「悪かったな、あいつの面倒見て貰って」
「ううん。わたしも楽しかったから。……そう、アリシアちゃんに伝えて貰える?」
「それはできない」
「え?」
即答だった。
まさか拒否されるとは思っていなかったのだろう、楓は想定外の勇麻の答えに即座に対応する事が出来ず動揺に瞳が揺れる。
だが別に、勇麻としてはそれほど深い意味があって楓の頼みを断った訳では無い。
とても簡単な話だ。
それは、
「楓、そんくらい今度アイツにあった時に直接話してやれ。俺の口からじゃなくて、楓の口から直接、アイツにそう言ってやってくれよ」
真剣な口調でジッと楓の瞳を見据えながら、勇麻はそう言った。
居心地が悪いのか、楓は身を捩るようにして勇麻の視線から逃れようとする。が、勇麻の両手ががっしりと楓の両肩を掴んでそれを許さ無い。
「ひゃっ」という驚きの声が上がり、
「楓、お前。自分の兄貴に自分を殺させる気だったろ」
その一言が天風楓にトドメを刺した。
肩を掴む楓の身体が震えているのが分かる。俯いて唇を噛み締め、絞り出すように「……どうして」とだけ小さく囁く。
「そりゃお前の事だからな、大抵の事は想像つくんだよ……と格好よく言いたい所なんだけどな。お前の言う通りだったよ。俺もお前の事をちっとも理解なんかしちゃいなかったんだ」
楓の両肩から手を離して、そっぽを向きながら勇麻はそう話した。
東条勇麻には天風楓が博物館を襲う理由も、決別の時に見せた涙の理由も、何も分からなかった。
楓の言う通り、勇麻は身近な彼女の事をきっとどこか知った風な気になっていて、だから信じられない行動を取った彼女を信じられなくなってしまう所だったのだ。
だが考えてみれば当たり前の事なのかもしれない。
自分の事さえ満足に分からない男に、一体他人の何を理解しろと言うのだろうか。
「だから俺考えたんだ。考えて、悩んで、お前の気持ちに立って、立場に立とうとして、でもやっぱり分からなくて。なんでこんな事になっちまったのか、無性に悲しくなってさ。お前が悪い事をしてる事も、困ってるのに俺を頼ってくれない事も、あんな風に涙を作り笑いで誤魔化そうとした事もだけど、何よりお前を信じられなくなるかもしれないってのが、本当に悲しくて悔しくて、怖かった」
過去の亡霊に未だ囚われ、南雲龍也の代理品として紛い物の英雄を演じ続けるだけの東条勇麻としての答えなら既に見えていた。
簡単な話だ。正義の味方は、悪い事をする人間を倒せばいいのだから。
涙を流して絶望に暮れる少女を、二度と悪事が働けないように、ただ打ちのめせばそれで良かった。
でもそうはならなかった。
そうはならなかった事こそが、黒騎士との死闘を演じる以前との東条勇麻との違いだろう。
お前は空っぽだと、自分自身とその人生全てを否定され、人生の無意味さに押しつぶされそうになっていた時、勇麻を救ってくれた一人の少女。
義務でも贖罪でも無い、心の底から湧き上がる何かの為に戦う事を許してくれた。戦う理由を与えてくれた少女。
きっとあの時から、確実に東条勇麻は変わりはじめているのだ。
「でもな、分からない事だらけの中でも一つだけ分かった事があったんだよ。いくら考えても、どれだけ頭を捻っても、なんで楓がこんな事をするのかは分からなかったけど、最初から最後まで、『お前の味方であり続けたい』っていう俺の気持ちが変わる事は無かったんだ。この気持ちだけは本物だって、そう分かったんだ」
結局の所、勇麻は理解はできなかった。
自分の幼馴染の少女の事を、彼女の考えている事も、涙の意味も、何もかもを。
最後の最後はアリシアと『天智の書』に頼みっきりだったし、自分でも本当に情けないと思ってる。
でも、それでも、理解しようとしたのだ。
どれだけそれが難しい事か自分でも分かっていたのに、一生懸命に無い知恵を絞って、理解しようとした。
その行為に意味が無かったとは言わせない。
普通に考えて、どうでもいい事の為に何時間も頭を悩ませる人間なんていない。
勇麻が五分で英語の勉強を飽きてしまうように、どうでもいい他人の為に頭を悩ませ続けるなんて馬鹿げた話だ。
天風楓が本当に大切だったからこそ、勇麻は必死で彼女の事を理解しようとしたのだ。
例え彼女の事を理解できなかったとしても、大切な人を理解しようと、その人を少しでも分かろうと必死で足掻くその行いこそが尊い物なのではないだろうか。
「だから楓、俺はお前の味方であり続けようと思う。今までも、そしてこれからも。だから俺はお前を殺させないし、お前が死ぬ事も絶対に許さない」
「でも、……でもっ、わたしはっ!!」
ここまで必死に涙を堪えていた楓の瞳から熱い液体が溢れ出る。
勇麻が悩んだように、楓だってまた悩んだのだ。悩んで悩んで悩み抜いて、その結果出した結論が自分の死だった。
その覚悟を決めて、今ここに立っている少女。勇麻のしようとしている行いは、言い方と見方を変えればそんな少女の覚悟に泥を塗る行為となんら遜色ない。
感情を爆発させるように、彼女は叫ぶ。
「わたし……お兄ちゃんがあんな風になっちゃったのは、わたしのっ、わたしのせいなのっ! お兄ちゃんは、この世界から悲劇を失くそうとしてる。でも、お兄ちゃんの方法じゃきっとダメなの。だから、わたしがそれに気づかせてあげないと、お兄ちゃんは、もう帰ってこられなくなる! だから……わたしが、死ぬしかないの。わたしが死ねば、お兄ちゃんはきっと気が付く。自分の矛盾に。自分がやろうとしている事が、どれだけ大勢の人を傷つける事になるのかって事に」
「そうか。……でもさ」
自然と熱くなる楓に対して、勇麻はあくまでも静かに告げる。
「それじゃあ、お前を殺しちまったお前の兄貴はどうすんだ?」
勇麻の言葉に、一瞬楓の表情が曇る。だがそれをすぐに自嘲的な物に変えると、
「そ、そんなの……お兄ちゃんだって、本当は心のどこかで自分を見捨てたわたしを憎んでる。だから、わたしが死ねば少しは気が楽になるハズだもの」
「そうじゃねえよ。お前は自分の兄貴に、何よりも最も重い罪を被せる気なのかって聞いてるんだ」
「……最も重い、罪?」
天風駆という男が犯そうとしている事は最も重い罪だ。
それを東条勇麻は断じて許容できない。南雲龍也の代理品としてでは無く、単純に絶対に何がどうあっても勇麻はそれを許せない。
「ああ、そうだ。それにな楓。お前のその自己犠牲の根幹は、兄貴の為なんかじゃない」
今から十二年前。天風楓は自分の目の前で兄が拉致されていくのを、ただただ傍観する事しかできなかった自分に対して大きな罪の意識を感じている。
それこそ、兄の為に自分が犠牲になる事を容認できるくらいに。
兄を思うが故の自己犠牲。
傍から見ればそれは、美しい行いのように見える事もあるだろう。
でも違うのだ。
罪の意識は、罪悪感は、そんな綺麗な物じゃない。
勇麻だから。
東条勇麻だからこそ、理解できる物もあった。
「兄貴を止めたいってその想いを疑う訳じゃない、でもな楓。お前の自己犠牲は結局ただの“逃げ”なんだよ。兄貴の事を思っているようでいて、本質はそこじゃない。天風楓。お前は、自分を苦しめる罪の意識から解放されたかっただけなんだ。死を持ってして罪を償い免罪符を得て、自分を追い込むこの世界から逃げ出したかっただけなんだよ」
「……」
「そんなのただの自殺志願者と変わらない。お前が死ぬ事によって天風駆が正気に戻る? こう言っちゃ悪いが、そんな事じゃアイツは止まらないぞ。お前を笑顔で絞め殺そうとしてたヤツが、お前を殺した途端に昔の優しい兄貴に戻ったりする訳が無い。多分むしろ逆だ。お前の死を“最後の尊い犠牲”とか言って正当化して、悲劇のヒーローよろしく世界征服に乗り出すに決まってる」
「……」
勇麻には楓の気持ちが痛いほどよく分かる。
罪滅ぼしをしたいという想いも、罪悪感から逃れたいという願望も、免罪符を手に入れたいという渇望も、全て勇麻と同じだ。
未だにそれらの重苦しい呪いに囚われている勇麻に、楓の事をとやかく言う資格なんてきっと無い。
楓に向けて放った指摘が全て自分へ返ってきているのだから、酷く滑稽ですらある。
だけれども、それらが全て自己満足であると分かってしまう勇麻だからこそ、楓を止める事ができるのだ。
楓に死んでほしくない。
理由なんてそんな物だ。
楓の味方であり続けるとのたまっておきながら、楓の気持ちを無視している自分のなんと傲慢な事か。
「だったら……」
綺麗で繊細な指が、勇麻のティーシャツをぎゅっと掴んだ。
その声は本当に弱々しくて、今にも泣き崩れてしまいそうなか細さを秘めていた。
楓は涙を流しながら、勇麻の胸に頭を押し付け顔を埋めると、苦しげに感情の全てを吐き出した。
「だったら、どうすればいいの!? わたしっ、わたしだって、悩んだよ。本当は死にたくなんかなかった。苦しかったし、確かに全部から逃げ出して楽になりたいとも思ったよ。でも、さっき殺されかけた時は死ぬのが本当に怖かったし、勇麻くんが助けてくれた時、意味わかんないくらい嬉しかったんだッ! ……けど、わたしにワガママを言う資格なんて無い。お兄ちゃんの人生を狂わせたわたしばっかりが幸せになんてなっていいハズが無い。どこかで帳尻をあわせなくちゃいけなくて、きっとそれが今だから。だから死ぬしかないと思ってたのに! ……そんな風に言われたら、もう分かんないよ。わたしは、どうすればいいの? 教えてよ。助けてよ、勇麻くん!!」
言っている事は滅茶苦茶で、楓自身、自分が何を言いたいのか分かっていないのだろう。
でも、それでいいのだと勇麻は思った。
自分で自分が分からなくなるくらい、天風楓は悩み足掻き続けたという証なのだから。
彼女の抱える複雑極まる事情を、そう簡単に割り切ってしまえるようになる方が余程恐ろしい事だ。
言っている事は矛盾だらけで、筋なんて物は全くとおってはいない。感情論丸出しの言葉。
そんな楓の本心を聞けた事がただただ嬉しかった。
「死にたくないのか?」
勇麻の胸に顔を埋めて泣き続ける楓にそう問いかける。
「……」
無言で首が縦に振られる。
「兄貴の事、なんとかしたいのか?」
「……」
再び無言の首肯が返ってくる。
自分の罪に苦しみながらも、それでも天風楓は死にたくないと叫んだ。
兄を助けたい。暴走する兄を止めたい。
きっとそれも本心だ。
人が人である限り、願いは決して一つでは無い。
大きい願いに小さな願い。様々な願いや希望。浅ましい欲望に愚かしい願望が複雑に絡み合っている。
そしてその中から取捨選択をしつつ、自分の望みを叶える為の努力をする。それが人間だ。
「お前が、もし本当に兄貴の事を大事に思ってんなら、兄貴の為に死ぬんじゃなくて、兄貴と共に生きる道を選んでみろよ。苦しい事から逃げないで、兄貴が何かを間違えたら、その度にお前が導いてやれよ。ケンカするのは当然だけど、それ以前に兄妹ってのは互いを助けあう物だ。一二年前のでっかな借りを、少しずつ返してけばいいんじゃねえか?」
天風楓の死によって得られる結末もきっとあっただろう。
だが、解決策は一つでは無い。
天風楓が死なずに済む結末を、絶対に掴み取る。
「だからさ、楓。とりあえずここは俺に任してくれ」
勇麻は泣きやまない楓を一度強く抱き頭を撫でると、楓の身体を引き離し、涙で真っ赤に腫れた瞳を正面から覗きこんだ。
「お前のバカ兄貴を止めてくる。兄妹ゲンカするにしても、とりあえず会話が成立するレベルまで頭を冷やして貰わないとな。……大丈夫だ。そうすれば、お前の気持ちだって絶対に届くから」
それから、と一度言葉を区切って。
「アリシアがお前とカレー食べるの楽しみにしてたからさ。この面倒事がうまく片付いたら、皆でカレーを食べよう」
「ぐすっ、……うん」
楓は泣き笑いながらそう頷いたのだった。
「さてと、生きる覚悟が出来たなら、次は生き残る為にできる事をやんないとだな」
冷や汗が滲み、それを降りしきる雨粒が洗い流す。
勇麻は強がるように引き攣った笑みを浮かべながら、前方を見据えてそう零した。
このままエンディングに突入できそうな雰囲気だが、勇麻はようやく同じ盤上に立っただけなのだ。
まだ何も終わっていないどころか、始まってすらいない。
視線の先には拳をぶつけ合うべき男がいる。
「さあてと、実の兄貴だか何だか知らないが、こっちはアンタがいない間ずっとコイツの事見て来たんだ。お節介ながら、首を突っ込ませて貰うとしようか。……どっからでも掛かってきやがれクソッタレ」
天風駆という男が、あの程度の一撃で終わる訳が無いのだから。




