第十九話 リミットⅠ――知識の砦
冷たい雨が降りしきる中、闇の降りた天界の箱庭の空気を少年の身体が切り裂いてゆく。
度を越したハイペースに脇腹がじくじく痛む。足を止めれば押し寄せる疲労に追いつかれてしまいそうだ。
セルリアの治癒を受け、身体を動かせるようになったとはいえ、本調子にはまるで遠いのをこの短い時間のランニングの中で痛感させられていた。
懸命に足を前に動かしながら、迷うことなく番号を打ち込むと耳にスマホを当てる。
通話先は勿論アリシアだ。
コール音がまどろっこしい。急かすように足を速める。
二回、三回、四回……と鳴った所で反応があった。
「アリシアか?」
『うむ、こちらアリシアなのだ』
「走りながらで申し訳ないけど、例の件について聞きたい。頼めるか?」
『うむ。勇麻に言われた通り、しっかりと調べておいたぞ』
そのどこか誇らしげな口調が、言外に褒めてくれと語っていて、こんな状況だと言うのを忘れて笑ってしまいそうになる。
しかし今は時間が無い。
面倒事を片づけたら心ゆくまで褒めちぎってやる。勇麻はそう心に決めると、気持ちを切り替えるようにして口を開く。
今は一刻も早く情報が欲しい。
「じゃあさっそくで済まないが、頼む」
『うむ。了解したのだ』
いよいよ情報が開示されるのだ。
アリシアに頼んだ一つ目の願いが果たされる。
勇麻がアリシアに天風楓の事を調べて欲しいと依頼したのは、背神の騎士団の副団長、テイラー=アルスタインとの会談直後の事だ。
彼女の持つ神器、『天智の書』の可能性に掛けてそうアリシアにそう持ちかけはしたが、正直可能性は薄いだろうな、というのが当時の勇麻の心境だった。
なにせ『天智の書』は、調べたい物についてアリシアの持つイメージを脳内から汲み取って共有する必要があるので、楓を知らないアリシアでは楓の事を調べられない可能性が高かったのだ。
それがまさかあんな偶然に助けられるとは誰も思わないだろう。
そんな風に、数日前の出来事が勇麻の頭の中で思い出された。
☆ ☆ ☆ ☆
「アリシア、少し手伝って貰いたい事があるんだ。……頼めるか?」
テイラーとの会談の後、勇火に怒られて慌てて洗濯物を取り込んだ勇麻はアリシアにそう切り出した。
座卓越しに向かい合って座るこのシチュエーションに既視感を覚えながら、勇麻はアリシアの反応を窺う。
「む、勇麻が私を頼りにするとは珍しいな。なんだ、私にできる事ならなんでもするぞ? なんでも言って欲しいのだ」
無表情のまま身を乗り出して、かなりノリノリな様子のアリシア。その大袈裟な物言いに勇麻は少し苦笑する。
確かにここ数日、アリシアには何かを教えるばかりでアリシアを頼るような場面は無かったのは事実だが、ここまでやる気に満ちていると色々と無理をしそうで逆に頼みづらい。
「なんでもするってお前……。あんまり軽々しく使っていい言葉じゃねえと思うんだけど?」
「む、何を言うか勇麻。わたしは軽々しい気持ちでそんな事を言ってなどいないのだぞ。重々しいぞ、それこそ頼まれごとを完遂できなかった暁には針を千本ほど飲み干す覚悟なのだ」
「覚悟が重いっ! 指切りが重々しすぎる!? なんか色々間違ってんぞおい!」
「む、『指切り』という名前があったのか。針を飲み干すだけでは飽きたらず指を切り落とさねばならないとは。うむ。恐ろしきかな、じゃぱにーずかるちゃー……ッ!?」
「……なんか外国人とかが日本に対して若干間違ったイメージ抱いてるって話があったりするけど、これと似たようなもんなんだろうな」
「?」
可愛らしくこてりと首を傾げるアリシアを見ていると、そんな些細な勘違いなどどうでもいい事のように思えてくるから不思議だ。
些細じゃないけど。
アリシアの場合、時々本気で言っている場合があるので怖い。
「まあ冗談はこの辺りにしておこうぜ。ちょっと真面目な話なんでな」
「……ふむ、めずらしいな。勇麻がマジメな話を私に持ってくるなんて」
「俺だってお前に頼むのは心苦しいんだ、けど、この件に関しては俺の力じゃ無理なんだよ。だからお前の力が必要なんだ、アリシア」
「……ふむ。頼られるというのは悪い気分はしないな。針を千本呑む約束はできないが、できる範囲の事でなら協力しよう」
「針千本は頼まれてもやらせねえよアホ」
勇麻は居心地を正すように、もぞもぞと座り直して、
「アリシア、お前の『天智の書』で調べて欲しい人間がいるんだ」
天智の書という単語が出た瞬間アリシアの目の色が変わった。
見た目の年齢からは想像もできない程真剣身を帯びたその顔からは、アリシアという少女の壮絶な人生が滲みだしているようにさえ感じた。
オンとオフがはっきりと切り替わる。アリシアの中で明確なスイッチが入ったのだ。
アリシアの反応を窺っていた勇麻に、少女は目線だけで続きを促す。
「天風楓。この天界の箱庭で最高位の干渉レベル、『Aプラス』を持つ『最強の優等生』。最近頻発している博物館襲撃事件とコイツの関連を調べたい。……できるか?」
勇麻の問いにアリシアはしばし瞑目。
沈黙に否応なしに勇麻の緊張が高まるのを感じた。
やがてアリシアはゆっくりと目を開けると、
「『天智の書』で、か。……勇麻、お主にこの前説明した『天智の書』の特性については覚えているか?」
「ああ、覚えているぜ」
『天智の書』。
今もアリシアの首に掛かった紐に括り付けられ、その胸元で揺れている気の遠くなるような歴史を感じさせるボロボロの古書。
遺跡などから発掘しましたと言われればそのまま信じてしまいそうな風貌の古い書物型の『神器』。
その効力は絶大的で、世界中のありとあらゆる知識を蒐集する事ができるらしい。
世界中のあらゆる書物。文献。論文。ネット上の文章。果ては漫画から子どもの日記に手紙まで。
一度文字として残された物ならば、どんな物であろうと自動的に蒐集してしまい、大元を削除しようが全く意に介さず、その記録は天智の書には永遠に残り続けるという、人類の英知の結晶のような魔本だ。
『天智の書』と契約を結んだ者は、その数多の情報から知りたい事をピンポイントで検索する事ができるのだ。
絶大的な力を秘めてはいるが、その力を扱う際に支払う対価も当然大きい。
どんな事にでも共通かもしれないが、何かを手に入れる為には代わりに何かを捧げなければいけないという訳だ。
特に『天智の書』は対価が大きく、支払う対価と与えられる報酬が釣りあっているとは思えないのが難点なのだ。
この世の何より知識を崇める『天智の書』が求める代価。
それは、
記憶。
契約を結ぶ者の記憶を貪り喰らうという、恐ろしくおぞましい儀式を経て、ようやく人は天智の書を扱えるようになる。
その契約の光景を一度目にしている勇麻としては、本当にゾッとしない話だ。
あの終わってしまった物語の唯一の生き残りにして最後の被害者こそが、今こうして目の前にいる女の子なのだから。
そしてこの場合、アリシアの言う『天智の書』の特性とは、その面倒な制約の事だろう。
『天智の書』を用いて何らかについて調べる場合、契約者――この場合アリシア――とのイメージの共有ができている事が絶対条件であり、そのイメージの共有ができていないと、検索に失敗してしまう、という非常に面倒で不便な制約があるのだ。
こんなに面倒な縛りがある癖に記憶を頂こうとするなんて、なんて欲の深い神器なのだろう。
「アリシアがその目で見た物じゃないと、『天智の書』で調べる事はできないんだろ? イメージの共有が出来ないからとかで」
「うむ。だいたい正解なのだ。まあ本当は調べられない事も無いのだが、わたしの調べたい事に対するイメージの把握に失敗してしまうと、検索がうまくいかなくなってな。絞り込みがまったくされていない情報の山を丸ごとブン投げられたりしてしまって、正直どれだけ時間が掛かるか分からないのだ。逆に言えば、見たことの無い物でも他の情報で外堀からイメージを強化してやれば、成功する可能性もある。という事だな」
「つまり今のままだと天風楓の事を『天智の書』で調べても、それが成功する可能性は低い、と」
「うむ。実質ゼロに等しいのだ」
「ならさ。こんなのはどうだ」
とここまでは既に予想済みだった勇麻の手元から、あらかじめ用意されていた秘密兵器が飛び出した。
それは……
「これは……」
「そうだ。天風楓の写真だ。二年前くらいに皆で撮ったヤツが残っててさ。実物を見たことが無くても、写真で代用できるんじゃないのか? って思ってな」
ドヤ顔で座卓の上に写真を叩き付けながら、自信満々でそう言った。
のだが……。
「あ、あれ? あの……アリシアさん……?」
無言で写真を凝視したまま固まってしまったアリシアを見て、その顔に浮かべていた勝利の確信が若干剥がれ落ちる。
目を見開いて写真の中の天風楓を見つめ続けるアリシアに、勇麻は少しばかり心配になって、
「……知ってる」
「へ?」
没我の表情でアリシアはそう呟いた。
「わたしは天風楓を知っているぞ」
ポカンとしたまま一時停止している勇麻に、アリシアは少し興奮気味にそう言い切ったのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
アリシアが楓と知り合いだと聞かされた時は驚いたが、それ以上にありがたい話でもあった。
これでアリシアは何の縛りも無く、思う存分楓の事を知らべる事ができる。
あの時はそう喜んだものだ。
だが蓋を開けて見ればこのザマだ。
せっかく最短距離のルートを発見したと思っていたのに、そのルート上で思いっきりズッコケ骨を折った挙げ句、片足の靴が脱げてどっかへ飛んでってしまったような気分だ。
それもこれも勇麻がはやまってシャルトル達を刺激してしまったのが原因だ。
あのトラブルが無ければもっと早く行動を起こす事ができていたかもしれない。
が、起きたことにごちゃごちゃと文句を言ったところで仕方がない。
大切なのは切り替え。過去を悔やむより前に、やるべきことが今の勇麻の前には山積みなのだから。
それに、彼女達と和解を結ぶ事が出来たのは、勇麻にとっても決して少なくない収穫だ。
今後の事を考えるうえで、彼女達との関係は良好な方が好ましい。何よりシャルトルもセルリアもスカーレもセピアも、みんな根は良い子たちなんだという事が分かった。
それだけでも勇麻にとっては大きな収穫だった。
(シャルトルにもあんな風に啖呵切っちまったからな。負ける訳にはいかない理由が、また増えたな)
未だにどうやって自分が勝ったのかも分からないくらい強かったあの少女の顔が浮かぶ。
負けないと、そう約束したからにはそれは守らなければならない。
スカーレも言っていたではないか。
正義の味方なんだから、約束くらい守ると。
走りながらも思考を止めない勇麻に、スマホの向こう側からアリシアの声が飛ぶ。
『勇麻、まず初めに天風楓が博物館を襲撃していた理由なのだが……』
続くアリシアの言葉に、勇麻は驚きを隠しもせずに大声を上げていた。
「なに? 楓が博物館を襲撃していた理由は、『天界の箱庭』の警戒のレベルを引き上げる為だって!? でも、何でわざわざそんな事を?」
勇麻のもっともな問いに電話の向こうのアリシアは、うむ、と頷き、
『どうやら天風楓の目的はある人物のある野望を阻止する事にあるみたいなのだ』
「ある人物? ある野望?」
『うむ。勇麻は楓とは小さな頃からの知り合いなのだよな?』
アリシアの確認するような問いに、
「ああ、そうだ。俺がこの天界の箱庭にやって来て初めてできた友達が楓だ。……この街に来たのが小学校に入る前だったから、俺が五歳、楓が四歳くらいの頃か」
弟の勇火に神の力が発現して、親子四人で天界の箱庭に引っ越してきたのが、今からおよそ一二年前。
今勇麻達の暮らしている学生寮にやってきたばかりの頃、そこで出会ったのが天風楓だった。
あの頃の楓はいつも泣いてばかりで、勇麻は彼女をどうにか笑わせてやろうと必死だった事を覚えている。
『なら勇麻は天風楓に三つ上の兄がいる事は知っているか?』
予想だにしていなかったアリシアの言葉に、勇麻の表情が驚きに染まる。
「なに?」
あくまでアリシアは淡々と説明を続けた。
『天風駆。楓の三つ上の兄で神の能力者。楓が四歳、駆が七歳の時、神の力を宿している事が発覚して、親に見放され楓と共に施設に預けられていたようだな。神の力が発覚するまでの周りの評価は高く、成績優秀で妹思いの優しい子だったらしい』
今の話の流れからして、楓が止めたいと思っている人物がその天風駆という男なのだろう。それくらいは分かる。
が、それはいいとしても勇麻には腑に落ちない事があった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。兄貴がいたなんて初耳だぞ。見た事どころか、聞いた事すらねえ。楓は天界の箱庭には一人で来たんだ。最初に会った時も一人ぼっちだった。だいたいそいつも神の能力者だって言うなら、なんで天界の箱庭にいないんだ?」
『ふむ。それは簡単な話なのだ』
アリシアは感情を感じさせないような、凍えきった声で事実のみを告げる。
『天風駆は天界の箱庭への移動前日に、何者かによって誘拐されている。それも妹――天風楓の目の前で』
「!?」
『おそらくは神の能力者を狙った誘拐事件だろう。天界の箱庭内でも誘拐事件は多発しているが、警備の硬さから発生した事件に対しての成功例は驚く程少ない。だが逆に言えば天界の箱庭に入る前の神の能力者など攫い放題という訳なのだ。天風駆はそこを狙われた』
同情も哀れみも、何の罪も無い子供を絶望の底へ叩きつけた犯罪への怒りも何も無く、ただ淡々と冷静を通り越して冷たいまでに起こった事を読み上げるアリシア。
自分ばかりが動揺していて、勇麻は感覚が麻痺したような気分になった。
おかしいのは自分なのか? それとも……。
勇麻は電話越しに感じる声がもっと遠く、この世の果てから聞こえてくるような気がした。
「じゃ、じゃあ。攫われた天風駆は死んじまったのか? それで楓は復讐を……」
『落ち着くのだ勇麻。言ったであろう。天風楓の目的はとある人物の暴走を阻止する事だと。それに、天風駆は死んではいないぞ』
「そ、そうか……」
思わず安堵の息を吐いた勇麻に、しかしアリシアは否定的だった。
『けれどな勇麻、死ななかったからといって救いがもたらされるとは限らないのだ。天風駆の場合、もたらされたのは終わりの見えない地獄の苦痛だったようだな。……ここから先の天風駆に関する情報は、天風楓を調べる上で偶然ヒットした代物だ。故に信憑性も低く、私自身の推測も混じった物になってしまう。その辺りを踏まえた上で聞いて欲しい』
「ああ、分かった。……続けてくれ」
先を促され、アリシアも息遣いで応じるように一呼吸わざと間を開けて、
『天風駆はとある組織の実験施設に連行されたらしい。目的は……勿論決まっているのだ』
「神の力の解析とかか?」
勇麻の答えにアリシアは受話器越しに頷き返して、
『うむ。正解だ。組織の連中は新たな軍事力として随分前から「神の能力者」に目を付けていたらしい。人工的に強力な神の能力者を製造する事。それが連中の最終目標だったようだな。天風駆はその前段階、神の能力者の人間との相違点の数値化。強力な神の能力者を製造する為の理論値の確立。要するに“捨て石”として連れて来られたのだ』
捨て石。
天風駆は元から人間とすら見られてはいなかった。
幼い彼は組織の連中の目的の為の犠牲として、理不尽にも連れ去られてしまったのだ。
『今現在、神の力関連の研究でまともな成果を上げている研究組織など「天界の箱庭」を含めても三つしかない。勇麻も知っているだろう?』
「あ、ああ。確か、アメリカ大陸の『未知の楽園』と、ロシアの方にある『新人類の砦』だっけか?」
『うむ。そうだ。その三つの実験都市以外の研究組織など、カルト教団と大して変わらぬのだ。政府公認の研究所でさえ、やっている事は何の意味も無い子供のママゴト同然。ましてや子供を誘拐してまで実験体を得ようとする組織など、どれだけ悲惨な物か……。神の力の解析だ、実験だと言って、奴らが行っているのは、中世の魔女狩りでもやらないような、ペテン紛いで血生臭い実験とは名前だけの拷問ばかり。当然、何のノウハウもメソッドも無い連中に神の力の解析など出来るハズも無く、心身共にボロボロになった実験体は大抵が死んでしまう』
実験。
それがどれだけ悲惨な物なのか、勇麻は知っている。
黒騎士に見せられたあの映像を思い出し、胃の中身がせり上がってくるのを強引に押し戻す。
あの地獄……あれと似たような地獄に天風駆はぶち込まれたというのか。
僅か七歳で親に捨てられ、妹と二人きりになった少年。きっとこれから先の生活は自分が頑張らなければと、そう決意していただろう。
あとたった一日。だけれど届かなかった一日。
少年の胸中に渦巻いた絶望は、どれほどの物だったのだろう。
しかしそれでも、
「天風駆は生き残った……」
そして、それ以上の奇跡が起こった。
奇跡と言うには、あまりにも救いのない、悪魔に魅入られたような偶然を。
『しかし、天風駆は生き残っただけには留まらなかったのだ。二年間に渡る地獄の苦しみの末、天風駆は一つの到達点へと達する事ができた』
「それってつまり、実験は成功したって事なのか?」
『……』
何かを躊躇うような沈黙が、受話器の向こう側であった。
そして、衝撃的な言葉が勇麻の耳を打つ事になる。
『先も言ったが、これは決して信憑性が高い情報では無い。だから話半分に聞いて欲しいのだ。……人間と神の能力者との相違点の数値化。そして人工的に強力な神の能力者を造り出す為の理論値の確立。神の力に関してマトモな知識を持ち合わせていない連中によって行われたこれら二つの実験は、当然いきあたりばったりの物だった。だが悪魔的な偶然が、決して実現不可能だった偉業を成し遂げる事を、連中に許してしまったのだ』
流れるように言葉が紡ぎだされるのを、ただ聞いていた。
『壮絶な実験の結果。……天風駆の干渉レベルは「Sオーバー」。すなわち……「神の子供達」と呼ばれる次元に到達していたらしい』
『Sオーバー』。
そして『神の子供達』。
片方は聞いた事の無い言葉だったが、言葉の羅列を見ればだいたいの意味は想像できる。
そしてもう片方は、つい最近知ったばかりの単語だった。
(『神の子供達』だって!? おいおい、冗談だろ。こんな所で繋がるのかよ!)
忘れもしない、黒騎士との戦闘の際。
その単語はレインハート=カルヴァートから伝えられた物だった。
彼女程の実力者をして、「この単語を知らないのならば、それはアナタが幸せな証拠」とまで言わせしめた畏怖の存在。
あの黒騎士が“化け物”と呼称した個体。
(アリシアは神の子供達についてどこまで知っているんだ? いや、そもそもだ。アリシアは、……自分が『そう』呼ばれている事を、知っているのか?)
気になる単語ではあった。
黒騎士が化け物と呼び、レインハートが畏怖を込めて直視を拒んだ存在。
そもそも勇麻は、彼らに『神門審判』と呼ばれるアリシアという少女の持つ実力を、まだ何一つも知らないのだ。
神の子供達と呼ばれる、純白の少女。
既に一週間近く共に暮らしている勇麻は、もしかしたら彼女の事をまだ何も知らないのかもしれない。
感情の凍えた声で淡々と事実を告げるアリシアが、ますます遠くの人間になってしまったような気がして――
(……落ち着け、今その思考の渦に呑み込まれる必要はない。今優先すべきはそっちじゃないんだ。『神の子供達』もアリシアの事も気になるけど今は後回しでいい。目的を見失うな。今は俺がやるべきことをやろう)
強引に頭を振って、忍び寄る不穏な思いを無理やりにでも霧散させる。
意識的に意識を切り替えて、勇麻は続きを促すようにこう続けた。
「ちょっと待ってくれアリシア。……それが偶発的な産物か奇跡か神様のイタズラかは分からないけど、例えどんな因果があったにせよ、実験は成功し、天風駆は『Sオーバー』なんていう力を手に入れた。そこまでは何となく分かった。けど、それで天風駆はどうなったんだ? 実験が成功して強くなったからって、『はい、めでたしめでたし』とはいかないだろ? 力を得た天風駆は、その後どうなったんだ?」
嫌な予感が、勇麻の胸中に渡来していた。
それは夏の暑さにやられて溶けだすアイスのように、勇麻の心に広がって大きな染みを作っていく。
『強力な力を得た駆は奴らにとって最後の切り札だったが、同時に目の上のたんこぶでもあった。当然、組織の研究者達も天風駆を制御しようと策を弄したのだ。けれどダメだった』
まるで勇麻の不安を裏付けるかのような言葉。
『今から十年前。天風駆は「神の子供達」として覚醒した力で、組織の人間全てを殺して二年間の地獄に終止符を打つと、単身、その研究施設から脱出したのだ』
当然と言えばあまりにも当然な話だが、最悪な展開だった。
相手は悪人とはいえ殺しは殺し。あまり後味がいい結末とはいえない。
勇麻は苦虫を噛み潰したような顔で、
「……皮肉なモンだな、三つの実験都市以外で唯一実験を成功させたが故に、神の能力者の本当の恐ろしさを思い知る事になるなんて。まあ完全に自業自得だし、そいつらを殺した天風駆を責める気にもなんねえけど」
『うむ。だが問題はこの後なのだ』
「問題、ね。ようやく話が一番最初に繋がったって感じだな。嫌な予感しかしないけど続けてくれ」
『了解なのだ。……今回の件、一番の問題は天風駆が天界の箱庭を訪れた理由にあるのだ』
「理由?」
『勇麻、「神器」の話は覚えてるか?』
「俺を馬鹿にしすぎだアリシア。お前の『天智の書』みたいに、特殊な力を持つ物の事だろ? 確か神様の法器とか書いて『神器』なんだっけ?」
ほぼ満点だ、というアリシアのお墨付きを貰えた。
『天風駆は一〇年もの間、世界中を旅してまわっていたらしいのだ。元から優しく、正義感の強かった彼は、旅の中で様々な悲劇に触れるうちに、人々の悲劇からの救済を願うようになった。全ての悲劇を失くし、理想の世界を造りたいと、そう願うようになったようなのだ』
「世界を救いたい、か。……ん? 待てよ。おいアリシア、もしかしてそれがお前が一番最初に言ってた天風楓の野望ってヤツか? 楓が止めようとしたって言う」
『うむ。そうだ。それこそが問題なのだ』
世界を救いたい。
子供の絵空事のような夢だと言われればそれまでだが、何故その野望とも呼べぬような尊い夢を、楓は否定しようと言うのだろうか。
楓が兄の野望を止める必要があるようには思えないのだが。
「でもそれって要するに、世界を平和にしたい、みたいな願いと同じだろ? その願望のどのあたりがヤバいんだ?」
だが勇麻は気が付かない。
叶わぬ理想を本気で追い求める人間の危うさを。
何故なら東条勇麻という少年もまた、彼と同じ人種なのだから。
『神器「主神玉座」。それが天風駆の狙いであり、悲願その物なのだ』
「『主神玉座』……だって?」
その単語を聞いた途端、頭の奥の方が弾けるような感触を感じた。
何故だろう。
何故だか知らないが、勇麻はその単語を知っている。
どこで誰に聞いたのかは分からない。分からないが、確実に知っている。
でも一体どうして?
勇麻は口元に手を当てて記憶の底を探ろうとする。
けれどもどこでその単語を聞いたのか、思い出せない。
ただ頭の端に引っ掛かるいくつかの言葉が、勇麻の頭をより混乱させた。
(『主神玉座』……。『今回の事件の本当の狙い、そして真の黒幕は誰なのか』……? なんだこれ、俺はどっちも何の事だか分からないぞ)
『主神玉座』。
『今回の事件の本当の狙い、そして真の黒幕は誰なのか』。
今の今まで意識の端にも昇らなかったその二つの言葉が、不意に勇麻の記憶に鮮明に浮かび上がったのだ。
身に覚えの無い言葉を知っているという異様な状況。
しかしそれ以上勇麻が何かを考える前に、アリシアが話を先に進めてしまう。
勇麻もとりあえず切り替えるように頭を降って、奇妙な感覚を追い払う。
気を取り直してアリシアの話を聞いた。
……不思議な事に意識から外した途端に、聞いた事も無い言葉を知っているという異様な状況に関する疑問や混乱は掻き消すように消えてしまった。
まるでついさっきまで見ていた夢を思い出せなくなるかのように、少しも気にならなくなる。
その二つの単語自体にもフィルターが掛かったかのように、認識できなくなっていた。
勿論その事に勇麻は気が付かない。
まるで何事も無かったかのように、アリシアとの会話が続く。
『……天風楓の手に入れた情報が正しければ、この椅子一つで天風駆は世界を思いのままに支配する事が可能になるのだ』
「世界を支配……だって? おいおい、なんでそこまで話が飛躍しちまう。そんなの自分から新しい悲劇の創造主になるみたいなモンじゃねえか!? 天風駆は自分のしようとしてる事がどういう事なのか、気が付かないのか!?」
『二年間も地獄のような苦痛を耐えてきたのだぞ。昔と比べてどれだけ人格が曲がっていようと驚きはしないのだ。そして勇麻、さらにマズイ情報があるぞ』
「だあぁぁあ! 何だよくそ! これ以上何があるって言うんだよ! もう十分以上にヤバいんだけど!」
アリシアの言葉に思わず頭を掻き毟る勇麻、
だが次に発せられたアリシアの言葉で、勇麻の思考が完全にフリーズした。
『天風楓は、目の前で兄が攫われるのを傍観するしかなかった自分に、嫌悪感と強い罪の意識を抱いているようなのだ。その自責の念は計り知れないのだ。早く天風駆を何とかしなければ、楓が危ない』
アリシアの話にどうにか付いていこうと、勇麻は止まりかけの脳みそを必死で動かす。
「待ってくれ、楓が危ないって、つまりそれはどういう事なんだ!? 駆は実の妹を殺そうとしてるって言うのか?」
『……今の天風楓は兄の為なら自殺すらしかねない精神状態にあるという事なのだ。急げ勇麻、このままだと楓は、……兄を正気に戻す為に自ら死にかねない。私は楓と約束したのだ。皆で勇麻の家でカレーを食べようって。だから、お願いなのだ。……楓を助けてくれ!』
最後の最後。
アリシアの声に暖かな人としての感情が乗っていた。
電話の向こうにいるのは、『神の子供達』などと呼ばれる怪物でも、『天智の書』などと言う『神器』と契約を結んだ契約者でも無い。
ただの友達の身を案じる少女だった。
その事が、勇麻はとても嬉しかった。
「……アリシア、後は俺に任せてくれ。アイツにもお前の作ったカレーを食べさせてやんねえとみたいだしな!」
『うむ。楓には皆で作った特製カレーを食べて貰うのだ。……だから、頼んだぞ、勇麻』
「ああ。後は任せろ。助かったぜ、アリシア」
と、勇麻はそこで電話を切ろうとしたが――
『ちょっと待ってくれ勇麻。天風駆の神の力についてまだ話していないのだ』
「あぁ。そういえばそうだな、「Sオーバー」なんて呼ばれてるくらいだ、どんだけ強力だか分かんないし、あんまし聞きたくねえけど、そうも言っていられないもんな」
で、どういう神の力なんだ? という勇麻の問いに、アリシアはやや間を開けて言いづらげに、
『それが天風駆の『神の力』についてなのだが……、正直な話、よく分からないのだ』
「分からない? どういう事だ?」
『それが、報告書はとても中途半端な状態で終わっていて、「光の術師」という名称以外一切の情報が存在しないのだ。おそらく、正確なデータを記す前に……』
「天風駆の手で、研究者たちはそれが不可能な状況に陥った」
覚醒の直後、天風駆はすぐに研究所からの脱出を画策したのだろう。
研究者たちに、詳細な記録を取る暇などありはしなかったのだ。
途中で記録が途絶えているのはそのためだ。
『気をつけてくれ勇麻。神の力の名称から、光に関連する力だという事は間違いないと思うのだ。だが相手は「Sオーバー」。こちらの常識は通用しないと考えたほうがいい』
☆ ☆ ☆ ☆
雨音に混じるように、一定のリズムの足音が夜の天界の箱庭に響く。
既にアリシアとの通話は切れている。
繋がりを失ったスマホを再びズボンの中にねじ込みながら、先ほどの会話を頭の中で反芻し、今一度自分の成すべき事を再確認する。
南雲龍也の代理品。過去の亡霊。英雄を演じ続ける道化。正義の味方としての東条勇麻のやるべきこと。
正しい選択。何をすべきか、その答えなど最初から分かり切っていて、けれども後悔だけはしたくなかったから。天風楓の味方でいたかった。拳を握る理由。
天風楓の涙。楓が語らなかった真実。苦悩と決断。そして覚悟。
天風駆という存在。
自分の敵は誰なのか。倒すべき相手。勝利へのイメージ。
シャルトルとの、そしてアリシアとの約束。
負けられない理由を確認したか。
勝利したい理由を認識したか。
なら後は一つ。結果を叩き出すのみだ。
「楓、お前には言いたい文句が山ほどあるんだ、だから……」
顔を打つ鬱陶しい雨を無視して、勇麻は全力を絞り出して走り続けた。
「待ってろよ。お前は必ず俺が……」
天風楓と天風駆。
兄妹が対峙しているであろう戦場に、東条勇麻は向かう。




