第十七話 圧倒Ⅰ――天風楓
天風楓は優しい女の子だ。
他者への思いやりがあり、おとなしくて、自然や綺麗な風景なんかを愛するような、そんなどこにでもいそうな気弱な女の子だった。
誰かを憎むだけの強さも持てず、真っ黒な悪意や理不尽に直面すると、泣き虫な彼女は決まって膝を抱えて泣いてしまうのだ。
天風楓はそれ以外の解決法を知らなくて、またそれ以外の方法を求めてすらいなかった。
自分が嫌な思いをしたからといって、その理不尽をまた別の誰かに擦り付けるような真似はしたくなかったのだ。
痛いのも怖いのも嫌だけど、だからといって別の誰かに同じような思いをして欲しいとは思わないから。
けれども、そんな少女もある日気が付いてしまう。
優しいだけじゃ、意味なんて無いのだ、と。
天風楓は確かに優しい人間だ。
人を傷つけるような事をした事はなかったし、誰かを傷つけるような事など絶対にしたいと思わない心の持ち主だ。
でも、だからと言って。
優しい彼女によって救われた人間などいたのだろうか?
楓にいじわるをしてくる男の子がいた。楓は彼の行為に対して何も文句を言わなかったけれど、その結果、彼は今後も何処かの誰かにそんな嫌がらせを続けるのだろう。嫌がらせの被害者は増えるばかりだし、彼自身も間違った道から抜け出せない。
やつれきった野良犬をいじめている子供の集団を見かけた事があった。急いで周りの大人に助けを求めている間に、犬をいじめている集団はどこかに逃げてしまった。病院に運び込まれた野良犬は、命こそ取り留めたものの、今後一切歩けない身体になってしまっていた。
楓にいつも宿題をやって貰いに来る女の子。
彼女の為にと自分に言い聞かせつつも、本当は嫌われるのが怖くて断れなかっただけではないだろうか。絶対に彼女の為にはならないのに、優しさという言葉で誤魔化して自分の事を友達だと言ってくれる彼女と正面から向き合うことから逃げていたのではないのか。
そして『あの時』、楓の兄は――
どれもこれも、彼女がもう少し強ければ、結果は違っていたかもしれない。
薄々感づいてはいた。
『あの時』だって天風楓に強さがあれば、きっと結果は変わっていたハズなのだから。
優しいだけでは何も救えない。
強さの伴わない優しさなど、ただの甘ったるい毒でしかない。
周りを惑わせ、心地良い暖かさの中に包み込み、生殺しにしていくのだ。
天風楓はそんな物は欲しくなかった。
今はまだ守られるだけの存在だけど、いつか、きっといつの日か皆を守れるような、優しくて強い自分に成りたい。
少女はそう決意するのだった。
それから彼女は人一倍努力した。
弱虫なまま、泣き虫なまま、優しいままに、力を手に入れようと奮闘した。
人一倍下手くそなら人一倍頑張る。努力する。
力の不足は思考で補う。
足りない物を別の何かで補い、つぎはぎだらけになりながらも、それでも必死で前だけを向いて進んできた。
辛くても苦しくても、頑張った。
強くなりたいというその一心で。
そして彼女が中学生になった頃、少女は開花する。
最低位の干渉レベルしか持たなかった彼女が、中学に入学する頃には『Bマイナス』に。そしてさらに『Bプラス』から『Aマイナス』へ。そしてその二年後、中学を卒業するころには『神の能力者』としての最高位『Aプラス』の力を手に入れていた。
力を手にした彼女の生活は劇的に変化した。
でもそれは、彼女の望んでいた物とは少し違う物だった。
ただひたすらにがむしゃらに走ってきただけの彼女は、いつの間にか『最強の優等生』なんて呼び名を付けられ、まるでオモチャか何かのように周囲に持て囃された。
まるでアイドルか何かのように都合のいい幻想を押し付けられ、誰かの理想であり続ける事を暗に強制される。
まるで生きた広告塔だ。
正直、息苦しい。
彼女が力を望んだのは、こんなくだらない事の為じゃなかったのに。顔の見えない誰かの為の広告塔などではなく、顔が見える目の前の人達の助けになりたかっただけなのに。
理想と比べた現実は、見るに堪えないくらい情けなかった。だがそれでも、この力で誰かを救えるのだと、天風楓は喜んだのだ。
強さを伴った優しさならば、きっとどこかの誰かを救えると信じて。
そしてそれこそが罪滅ぼしになるのだと、彼女は信じて疑わなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
東ブロック第四エリア。
時刻は八時四〇分を回った所。
『キズナ☆ミライ館』は過去と未来とをテーマにした科学博物館だ。
科学技術の発展の歴史や、神の力に関する展示。
子供のみならず、大人までもが思わず興味を引かれてしまうような展示内容が魅力的な博物館だ。
土日祝日は沢山の子供たちで賑わう、東ブロックの数少ないレジャースポットの一つ。
そんな子供達に夢と希望を与えてくれるはずの場所が、ものの見事に壊滅していた。
それは、ほんの僅か数十秒の間の出来事だった。
まるで巨大な竜巻の通り道にぶつかってしまったかのような有り様だが、これを一人の少女がやったと言うのだから笑えない。
本当に、恐ろしい話だ。
そして今、一人の少年がその破壊の元凶である少女と対峙していた。
夏だというのに、どこか季節はずれな冷たい雨が降り注ぐ。
彼我の距離は一〇メートル。
天風楓にとっては、相手の額に拳銃の銃口を突きつけているのとなんら遜色の無い距離だ。
「天風、楓……」
少年の呼びかに楓は視線を向ける。
乾いた笑顔をその顔に張り付けて、天風楓は流れるように話す。
「今回の件を受けて『天界の箱庭』もようやく重い腰を上げたみたい。博物館およびそれに準する施設の無期限休止。展示品も回収されて、一時的にどこか安全な場所へ格納される事が決定……。これで駆お兄ちゃんの目論みは潰えて、わたしの目的に近づいた」
「楓、君はこれで満足なのか?」
場違いに明るい声で話す天風楓に、駆は突き放すような声色の言葉をぶつけた。
「満足? ……そんな訳ないよ。たったこれだけじゃ、全然足りない。それは、駆お兄ちゃんが一番分かってるハズだよ」
「それもそうかもしれないな」
駆は納得した様子でそう呟くと、続けてこう口を開いた。
「でもね楓、僕は今の状況に満足しているんだよ」
「……どういう事?」
意味が分からないと言いたげな顔でこちらを見つめてくる楓に肩を竦めて、
「いやなに、こちらの話さ。楓には何の事だか分からなくても無理は無い。……時期、全て分かる」
「……よく分からない。分からないよ。やっぱりわたしには、お兄ちゃんが分からない。」
楓は諦めたように首を横に振る。
「……そうかい。まあいいさ。とりあえずここでお前を終わらせるのが兄としての僕の務めだ。……少し痛いかもしれないけど、正気に戻って貰うよ楓」
鋭い意志を宿した駆の言葉を楓は笑って一蹴。
「……正気? 冗談。わたしに勝とうなんて、正気じゃないのはどっち? そもそもアナタはこの街の住民ですら無いんだよ。神の能力者としての正しい訓練も受けてないアナタが、わたしと戦える訳がない」
「……確かに、楓の言う通りかもしれない」
「だったら……」
「楓、そこから先は何も言うな。お互い、折れる事はないと分かっているんだから、今更そんな問いかけは無意味だよ。僕はお前を倒すと、そう決めたのだから」
天風駆の言葉に嘘は無い。
彼は覚悟を決めてここに立っている。それが楓にも理解できた。
楓は周囲の風を己に纏わせながら、低い声で告げる。
「そう。……ならわたしだって手加減はしない。全力でアナタを潰す」
莫大な風の力を圧縮。背中に小さな竜巻が接続され、飛行の際に揚力を生み出す翼となる。身体に纏い、巻き上がる風の力で楓の足の裏が地面を離れる。
地面からほんの僅か宙に浮き、風を纏った天風楓の茶色の髪が不規則に揺れる。
降りしきる雨粒すら風の衣が弾き、彼女の周囲の空間全てが彼女の支配下に置かれた事を表しているようだった。
楓は感情を凍えさせるような瞳を駆へ向けながら、最後に一言。
「干渉レベル『Aプラス』、『暴風御手』天風楓。 ……これで、終わりにしよう。お兄ちゃん」
直後、風が瞬いた。
「!?」
天風駆の頭が強烈な衝撃に揺さぶられる。
一瞬、頭を鉄パイプか何かで殴られたのかと錯覚するが、違う。
一〇メートル先の天風楓はまだ一歩たりとも歩いていない。今のは――そう、ただの風だ。
楓がその身に纏い、周囲に放出する風圧の一端に触れただけでこの威力。
ならば彼女が本気を出したらどうなってしまうのだろうか。
「これからわたしが始めるのは戦いなんかじゃない。一方的な制圧。アナタはわたしに近付く事すら出来ずに終わる」
轟ッ!
巻き起こる音の渦。
思わず瞳を閉じた次の瞬間。駆の目の前、背中に黒々とした翼を生やした少女が降臨していた。
莫大なエネルギーを凝縮し圧縮して生成された一対の竜巻の翼。
彼女の力の象徴が、その華奢な背中で踊る。
天風楓を中心として、凄まじい威力の風が巻き起こっていた。
暴風。否、まるで猛烈な勢いで迫る壁に押し潰されるような風圧に、駆の足の裏がジリジリとアスファルトの上を滑る。
まともに立っていられない。
気を抜くと一瞬で身体を持っていかれそうだ。
前に進む事はおろか、留まる事すら不可能。
攻撃とか防御とか、そんな次元の話では無い。
天風楓と同じフィールドに立つ事すら不可能なのだ。
これでは、まともな勝負になる訳がなかった。
「く、馬鹿……なッ!? ここまで、なんて……ッ!」
「避けられたら、褒めてあげる」
楓は右手を横に大きく広げる。
背中に禍々しい翼を生やした彼女の姿は、まるでこの場を支配する悪魔だ。
美しくも無感情に、楓は右腕を振るった。
たったそれだけの動作で、一〇〇を超える風の圧縮弾が天風駆目掛けて飛来した。
音と音が重なり、互いを喰らいあって――
結果は圧倒的だった。
破壊の轟音と風の吹き荒れる音とが、無差別的に空間を荒らしまわる。
しかし竜巻の翼を背中に接続し、風の衣をまとった楓には、そんな騒音も衝撃波も風の衣でかき消され、あまり気になりはしなかった。
着弾の衝撃でアスファルトが抉れ、凄まじい勢いで破片が飛び散っていた。
楓が右腕を一度振るっただけでこの有り様。
明らかにオーバーキル。
人一人に対して向けられる火力では無い。
直撃を避けた所で、絶対に無傷では済まない規模の破壊が一人の少年に降りかかっていた。
それなのに、
「凄い威力だな。これが『Aプラス』か。……流石に圧倒的だな」
立ち込める砂埃を雨が抑え、視界が開けたその先。圧倒的な攻撃で瓦礫の山とかしたその場所に天風駆は悠然と立っていた。
見たところ大きなダメージを与えられた様子は無い。
「っ!? 避けられた? でも、一体どうやって……?」
予想外の結果に思わず言葉が漏れたような、そんな呟きだった。
明らかに想定していない事態が楓の目の前で進行している。
天風駆に宿る神の力がどういう物なのか、楓は一二年前の記憶を元に推理している。
あの頃兄ができた事から、駆の神の力がどういう物なのかを予想しているのだ。
だがそれはあくまで一二年も前の話だ。
五年もあれば、人は全く別人のような成長を遂げる事ができるものだ。
他の誰でも無い、天風楓はその事を知っている。知っていなければならなかったのに。
あの頃できた事から、今現在駆が出来る事を予想できるとは限らない。
一二年という年月には、それだけの重みがある。
その重大な事実を、天風楓の頭は失念していたのだった。
目の前で妹の顔が驚愕に染まるのを、天風駆は満足げに眺めていた。
(恐らく、あれだけの攻撃を防がれた、もしくは躱されたという事実を前に楓は少なからず動揺しているハズだ。……畳み掛けるなら今か)
と、駆がそんな事を思っていると、素直な驚嘆の声が上がった。
「正直言って、今のを避けるとは思わなかった。お兄ちゃん……アナタは一体──」
「あまり兄をからかう物じゃないよ、楓。アレがお前の全力の訳が無いだろ?」
楓は駆の余裕に眉をひそめて、
「……随分、余裕なんだね」
「そんな事はないよ。今のはたまたま運が良かっただけだ」
余裕を失わずにニコリと笑う兄の顔に、楓は何を思ったのだろうか。
唇の端を若干震わせつつも、表情を凍てつかせた少女は揺るがない。
視線を細めて実の兄を見据えて、
「……わかった。なら、その余裕を奪う所から始める事にする」
「へぇ、案外動揺が少ないんだね。楓」
「さっきのを防いだくらいで、強気になってるなら認識を改めた方がいいよ」
「?」
次の瞬間。訝しげに眉をひそめる駆が見た光景は彼の想像を絶する物だった。
否、それは光景ではなかった。
何か特別な物が見える訳では無い。何か景色に変化があった訳では無い。
けれど肌に感じるプレッシャーだけは誤魔化しようが無い。
無数の殺意。
まるで猛獣の溢れかえった檻の中に、裸のまま投げ込まれたような、そんな絶望感。
行き過ぎの恐怖が駆の全身を苛んでいた。
これは、これはまさか……
「──数え切れない……いや、数える事に意味なんて無いのか! 空間一帯を、僕諸共制圧する超広範囲の多撃!」
一〇〇を超える風の圧縮弾など文字通りの意味で様子見の一手だったのだ。
辺り一面。それこそ逃げ場など存在しないレベルで、駆の周囲には不可視の刃が滞空している。
避けるとか防ぐとか、そんな当たり前の常識が通用しない。
一歩も動く事を許されず、尚且つ楓の号令一つで瞬時に天風駆は細かい肉片へと成り果てる。
今この瞬間にも楓の気まぐれ一つで、命を落としてしまうような、そんな極限。
「これが……『Aプラス』。個人が戦争を左右するレベルの、怪物」
死。
その一文字が何よりも、重い。明確に意識して初めて恐怖に身体が竦む。
無自覚に、駆の声が震える。
駆の視線の先、宙に浮かぶ少女は特に感慨に浸る訳でも無く、ただただ冷めた視線を送り続けていた。
勝敗は既に決した、とその目が語っていた。
駆の知る所ではなかったが、この時既に天風楓を中心とする半径ニキロ圏内全ての空間が不可視の風の刃で埋め尽くされていた。
万……いや、億を超えるであろう不可視の風刃。
それこそくしゃみ一つで大惨事に成りかねないような状況にまで駆は追い込まれていたのだ。
「わたしは空間を支配する。回避も防御も反撃も迎撃も全ては無意味。圧倒的な力でただねじ伏せる。これが、わたしが望んだ力の成れの果て」
楓の言葉に力は無く、吹きすさぶ暴風にかき消されて良く聞き取れない。
言葉の切れ端から僅かに覗かせるどこか悲しげな、憂いを秘めた感情も、諦観と共にすぐに切り替わってしまう。
「だからこれが最後。もう諦めてよ、お兄ちゃん。大人しく降伏してくれるなら命までは取らない。だか」
「断る」
楓の最後の優しさは、実の兄のそんな短い一言によって遮られてしまう。
驚きに目を見開く楓に、天風駆は精一杯の笑顔と共にこう告げる。
宣戦布告のように、高らかに。
「負けるのは楓、お前だ。僕じゃない。だから断る」
「……っくッ!」
苛立たしげに歯を噛み締める楓の表情は、駆からでは上手く読み取れなかった。
ただほんの少しの逡巡の後に、諦めるような楓の吐息があって──
「あ、ああ。あああああああああああああああああああああああああ!!?」
──直後、空間全てが天風駆に牙を剥いた。




