第十五話 不都合Ⅱ──意地
既に身体は満身創痍だった。
身体を打つ冷たい雨が、傷だらけの勇麻から体温を奪っていく。
まぶたが切れて血が目に流れ込むのに加え、目元は大きく腫れてしまい、左の視界はそのダブルパンチで完全に死んでいる。
今も内臓がぐちゃぐちゃにかき回されたような気持ち悪い感覚に襲われているし、あばら骨は完全にイッてしまっている。左腕は折れていても何らおかしくない痛みを発していた。
鼻も折れ曲がってる気がするし、脚は立っているだけで悲鳴を上げている。
頭が痛む。
今すぐぶっ倒れて楽になってしまいたい衝動が勇麻の心を揺さぶる。
何でこんな馬鹿げていて無謀な戦いに挑むのか。なぜまだ立ち上がるのか。そんな問いかけが頭の中を何度も揺さぶった。
だがそれでも、聞き逃せない言葉があった。
「……そもそもアンタらは、何で楓が博物館事を襲うなんて真似をしてるのか、分かっているのかよ……」
「さあ? 理由なんてどうでもいいでしょう。問題なのは、彼女の犯した行動は紛れもない犯罪だという事実です」
「だから殺そうってのか? 理由も事情も尋ねずに、ただ害虫を駆除するみたいに」
「彼女の場合はその影響力が問題なんですよ。もともと偶像のように崇拝されている一面を持つうえ、彼女は今年開催される『三大都市対抗戦』の出場候補者に推薦される程の人気と実力があります。……そんな彼女が破壊行為を繰り返しているなどという噂が広まれば、周囲にどんな影響を与えるか。そんな事も分からないほどアナタが馬鹿じゃない事を願いたいものですけどぉ」
「……ふざけんなよ。そんな理由で、楓の話も碌に聴かずに悪だと断じて殺すなんて、絶対に間違ってる。そんなの認められる訳ねえだろ」
ギュッと、唇を噛み締め拳を握りしめる。
ふらふらと揺れる脚に、再び力を込める。
潰れた眼孔に、熱い闘志が灯る。右拳が燃えるように熱い。
熱くなるだけの理由があったから。
天風楓は殺させない。
確かに彼女のやっている事は悪い事かもしれない。けれど、彼女の事情も何も考慮せずに、ただ害を及ぼす可能性があるからと言うだけで、害虫でも駆除するような勢いで殺してしまうなどと言う選択は、絶対に間違っている。
彼女は他の人々同様、温かい血が流れる。思いやりに満ちた一人の人間なのだから。
そんな結末だけは許容できないから。
「絶対勝つ」
「弱い癖に……後悔しても知りませんからね」
後悔、か。
その言葉を聞いて、勇麻の顔が一瞬破顔する。
だって、
今ここで拳を握って立ち上がれたのだから、後悔なんてするハズが無いではないか。
後は簡単だ。目の前に立ちふさがる少女を打ち倒し、天風楓との決着をこの手で着けるだけ。
破壊行為の理由を、彼女が抱える物が何なのか、それを楓自身から聞き出す為に。
「それだけ大口を叩いたんだ。あっさり死んだらぶっ殺します!」
「はっ、そう何度も殺されてたまるかよ! 死んでも勝つ!」
相手は干渉レベル『Aマイナス』。
勝ち目なんて見いだせないような絶望的戦いに、少年は怯む事無く自ら突っ込んで行く。
☆ ☆ ☆ ☆
スカーレの抱いた正直な感想は『もう見ていられない』の一言に尽きた。
目の前で行われている行為はもはや戦闘の体をなしていない。
実力の違い過ぎる両名の激突は、ただの蹂躙と何ら変わりはしなかった。
「ぐぉッ!?」
潰れたカエルのような声と共に、空気と血反吐が吐き出される。
ドテっ腹に突き刺さった一撃の威力に、少年の身体がたまらずぬかるんだ地面を転がった。
まただ。
スカーレは反射的に目を細めて逸らしてしまいそうになる。
痛々しくて、とてもではないがこれ以上は見ていられない。
お世辞にも少年がシャルトル相手に健闘してるとは言えない。
それどころか、そもそも勝ち目があるような戦いでは無いのだ。
本人だってとっくに気が付いているハズだ。絶対的なまでの比我の実力差に。
立ち上がる事に意味などなく、何度立ち上がろうが同じ数だけ土の味を舐めさせられるだけなのだから。
なのに、
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「なんでよ。なんなんですかぁ! なんでそんなになってるのにッ! アナタは、立ち上がるッ!?」
シャルトルの叫びに少年は何も答えない。
否、もはや答えるだけの体力も気力も残されてはいないのだ。
勝敗など誰の目にも明らか。
シャルトルがダメージを負ったのは最初の数発のみ。それ以降は勇麻の攻撃を完封し、好きなようにダメージを与え続けてきた。
別に東条勇麻が驚くほど弱かった訳では無い。単純にシャルトルが強いのだ。
打たれ続けた勇麻は当然ボロボロだ。
もはや赤が滲んでいない所を探す方が難しく、こうしている今も何故立っているのか分からないような有り様だった。
雨と泥と血で濡れた身体はグジャグジャで、まるでボロ雑巾。
既に意識も朦朧としているのか、フラフラと頼りなく揺れる身体は幼稚園生の一突きで倒れてしまいそうだった。
血生臭い光景に慣れているスカーレではあったが、こうも一方的な展開では心も痛む。
それにもうそろそろ少年の方は限界だ。
いい加減にしないと本当に死んでしまう。
「セルリア姉……。これ以上はマズイんじゃねーのか? アイツ、このままじゃシャルトルに殺されちまうぞ」
いつ意識を失ってもおかしくない状況なのに、目の前の少年は決して拳を解こうとしなかった。
戦う意思がまだ残っているのだ。
スカーレはその様に得体のしれない寒気のようなものを感じ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
目を背けたい光景のハズなのに、目を背けてはいけない。そんな強迫観念にも似た圧力が、場を覆っていた。
「確かにあの子、もう体力の限界だわ~。まだ意識が残ってるのがおかしいくらいよ」
「……ンな。」
「セピアの言う通りだよセルリア姉。ここは一旦止めるべきだ。ここまですればアイツだってもう手の出しようがないだろ。あのケガじゃ、まともに動ける訳がねえんだからよ」
スカーレが思わずそんな言葉を掛けてしまうくらいには、東条勇麻はボロボロだった。
スカーレとセピアの視線を受けたセルリアは、しかし勇麻から目を離すことなく口を開いた。
「……ねえスカーレちゃん。『起き上がりこぼし』って知ってるかしら」
「え? ……ああ。アレだろ、赤ん坊用のオモチャだろ。何度倒しても勝手に起き上がる人形みたいなヤツ。下の方に重りが入ってるんだっけか?」
「似てると思わない? あの子に」
「……へ?」
真剣な顔で言われて、スカーレは思わずポカンとしてしまう。
セルリアが言った言葉の意味を理解するのに数秒の時間を要した。
若干の間があってから、スカーレは思い出したように、
「いやいやセルリア姉、ふざけてる場合じゃねえだろ! 人の話を真面目に聞いてんのか!?」
「あらあら、別にふざけてなんかないわ~。わたしはいつだって真面目よ。マジメにマジカルマジ子ちゃんよ?」
「いや、今のは流石に確信犯だよな! 今までで一番ふざけきってるよ!?」
セルリアはまるで何事も無かったかのように、リアクションの大きいスカーレの追及を無視すると、
「ねえセピアちゃん。私達が天風楓を狙うのはどうしてかしら?」
「な。……ンな」
問いにセピアは迷うことなくそう即答した。
セルリアはその回答に満足げに頷いて、
「そうね。私達は結局ビジネスの為、生きる為に天風楓を潰そうとしているのよ。正義だの抑止力だの、どれだけ綺麗な言葉を並べた所で、結局私達は私達の為にしか戦えない。天風楓がどうとか、この街がどうとかなんて、心の奥ではきっとたいして考えてないんだわ」
「セルリア姉……。」
「でもあの子はきっと違うのでしょうね。あの子は私達には無い理由を持っている。それはきっと私達の抱える物よりずっとずっしりと重いのでしょう。彼の根底にはソレがある。だからあの子は何度倒れようと立ち上がるのよ。重い想いが、それこそ起き上がりこぼしのように、彼を立ち上がらせるのよ。……ううん、倒れている事を許さないのよ」
一際強力な強風が吹き荒れ、勇麻の身体を攫って空高く舞い上げる。
天高く上昇し、力が釣りあってその場で一瞬静止。直後重力に引かれて、そのまま五メートル以上の高さから少年の身体が落下した。
肉の潰れる音。
激しく打ちつけられて、壊れたみたいに勇麻の身体から血が飛び散り零れ出す。
水溜りが赤く染まり、真紅の血溜まりへと変貌を遂げる。
「はぁ、はぁ、はぁ……これでいい加減に――」
終わった。誰もがそう思った。
なのに、
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……ごっほッげほっ!」
「――ッ!!?」
理解できない、という顔でシャルトルは絶句した。
もはや意識があるのかどうかも怪しい。
ダラリと両手からは力が抜け、顔を上げる事も苦しくなっているのか亡霊のように俯いている。
顎から滴り落ちる赤い血は、雨水に混ざりすぐに溶けて消えていく。
泥と血でぐちゃぐちゃになりながらも、それでも東条勇麻は拳を握って立ち上がってくる。
何度でも。
本当に本当に、何度でも。
プツリ、と。この時シャルトルの中で何かの線が切れた。
「う、うわあああああああああああああおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
絶叫が迸った。
きっと彼女自身自分が何をしているのか理解できていなかっただろう。
目の前の敵は瀕死の状態で、あとたった一撃。ほんの些細な一撃を加えれば目の前の少年を倒す事ができるハズだった。
それなのにシャルトルは、気が付くと走り出していたのだ。
分からない。分からない分からない分からない。
アレが立ち上がってくる意味が分からない。
もう、根性論とか気持ちの問題とか、そういう言葉で語れるレベルのダメージでは無いはずなのに。
事実少年の意識は既に朦朧としていて、普通に考えて立ち上がる事はおろか意識を保っている事すら難しいはずなのに。
シャルトルの心が、理性が、脳みそが、目の前の現象を拒絶していた。
こんな有り得ない物を放置しておく事はできない。
『神の力』を使わなかった理由なんて分からない。
ただ、これまで幾度と無くシャルトルの『神の力』をその身に受けても倒れなかったというその事実が、シャルトルの心を縛っていた。目の前の敵が『神の力』の通用しない化け物のように見えたのも、また事実だったのだ。
細かい事などシャルトル自身も分かっていない。
ただひたすらに走って走って、泥の大地を蹴りあげて、喉を傷めつけるような咆哮を放ちながら、東条勇麻目掛けて全力で拳を振り抜いていた。
立っているのがやっとな勇麻にシャルトルの攻撃を避ける術などある訳がない。
凄まじい勢いで繰り出され、鼻っ柱を叩き折るかに思えたシャルトルの右の一撃は――しかし勇麻に当たらなかった。
「!?」
シャルトルが勇麻の懐に踏み込み拳を振り抜いた瞬間、まるで思い出したかのように勇麻の身体がグラリと左斜め前に傾いたのだ。
結果、鼻っ柱を叩き折るハズだった拳は勇麻の右頬を掠めて通り過ぎる。
勢いを殺せず、シャルトルと勇麻はすれ違うような形になる。
そしてそのまま、前に倒れ込むような形で勢いをつけた勇麻の右拳が、すれ違いざまにシャルトルの顔面に深々と突き刺さった。
前に突っ込むシャルトルの運動エネルギーと、前のめりに倒れかかっている勇麻の運動エネルギーとが合わさった強烈な一撃。
悲鳴すら上げずに地面に沈んだシャルトルは、立ち上がらない。
東条勇麻ただ一人が、誰よりも血塗れになりながらも戦場に立っていた。
☆ ☆ ☆ ☆
目の前の光景を前にスカーレ達は言葉を失くしていた。
こうして決着が着いた今も、血塗れの少年は直立している。戦うべき敵もいないのに、握った拳が開かれる気配もない。
予想外というか、本来ならあり得ない結末だ。
こんな結果を誰が予想できただろうか。
「セルリア姉。これって……」
「ええ、そうね。シャルトルちゃんの……私達の負けね」
譫言のように呟いたスカーレの言葉をセルリアは首肯する。
勝敗が誰の目にも明らかな以上、拘泥する事に価値などない。
ここで我儘を振りかざし、約束を反故にするほどセルリアは勿論、スカーレもセピアも子供ではない。
敗北は敗北。
事実は受け止めるしかないから事実なのだ。
セルリアはふぅ、と小さく溜め息を吐く。
これじゃあ、ボスに彼を諦めて貰うどころか益々仲間に引き入れたい理由を増やす事になってしまったわね、と心の中で苦笑い。
セルリア的には別に問題は無いのだが、シャルトルの行動が完全に空回りする結果になってしまったのは、少しばかりいたたまれない。
とは言え、可愛い妹の心配ばかりしていられない。
目下の問題はあのボロボロ死にかけの少年だ。
「さてさて、負けてしまったのだから私達は天風楓の件をあの子に任せなくちゃいけなくなった訳なのだけれど、流石にあんなボロボロの状態の子を放っておくのは忍びないと思わないかしら~?」
「? どうする気なんだ?」
首を傾げるセピアとスカーレにセルリアは微笑みかけて、
「勝者には然るべき報酬が与えられるべきよ。なら私にできる事は一つしか思いつかないわね~」




