第三話 非日常、開幕Ⅰ──神に唾吐く暗黒の騎士
(――背神の騎士団、か。……高見のヤツ、俺がトラブルに巻き込まれそうだとか、適当な事言いやがって。だいたい、なんだって神の能力者で構成された組織が、神の能力者最後の楽園である天界の箱庭の崩壊を目論んでるんだよ、意味が分からん)
一人ぼんやりと友人たちとのやり取りを想起していた勇麻は、いつの間にか帰り道の三分の二を通り過ぎていた。
一時的な暑さからの逃避には成功したようだが、重要な案件の忘却も促進させてしまっていたらしい。
少年はふと、我に返って、
「…………あ、いっけね。勇火に夕飯の材料頼まれてるんだった……」
天界の箱庭の学生は基本的に一人暮らしの者が多い。
そもそもこの実験都市は力を持つが故に周りから恐れられ、行き場を失った『神の能力者』最後の楽園。爪弾き者の嫌われ者たちの唯一の居場所だ。
人間から恐れられ、差別の対象にある『神の能力者』は、自分自身を研究対象として提供する代わりに、この実験都市から研究協力の報酬という形でお金を貰い自由な生活を保障してもらっている。
自身を研究対象として提供……などと言うと、非人道的な人体実験を強制させられるのかと誤解する人もいるかも知れないが、なんてことはない。住人には月ごとに力測定を行う義務があるという物で、要は詳細な自身のデータを街に提供している訳だ。勿論、個別にスポンサーがついてさらに詳しく数値を取りたいと言った依頼をされる場合もあるが、基本的には月一の力測定で測定された干渉レベルの強度によって、報酬金が給料のように毎月口座に振り込まれるという仕組みである。
勿論、干渉レベルが高い程貴重なデータとなる場合が多く、報酬も上がる傾向にあるが、最低クラスの干渉レベルでも充分生活が可能な金額が振り込まれている(働かなくても生きていける為、天界の箱庭では成人男性のニートが増加し社会問題になった事もあったが、生活必需品を除く嗜好品や玩具書籍電子機器などの価格を高めに設定する事でこれらの問題に対策をしている)。
通常、普通の人間は基本的にこの街に住む事はできない。というか、誰も進んで住みたがらない。
例外となるのは、研究者などの有用で有能な人材と、年齢的に保護者の同伴が必要だと判断された場合にのみ、保護者の一時同棲が認められるぐらいだ。
それだって自立が可能と判断された時点で追い出されてしまうし、そもそも親と良好な関係を築けている神の能力者というのはそう多くはない。
神の能力者である事が発覚する前後で変わらぬ愛を親に注いで貰った勇麻たちは、とても幸運なのだろう。
そんな東条兄弟が今住んでいる学生寮も、天界の箱庭提供の家賃無料物件である。
学生寮、とは言うが同じ学校に通う人間が固まって住んでいる訳ではなく、広義な意味での学生が暮らすマンションのような施設である。基本的に、兄弟や家族で同じ部屋が割り当てられるようになっており、自立前は両親も一緒に住んでいたくらいなので部屋はそこそこ広い。
なので勇火が大きくなってからも二人暮らしは継続しており、親から自立した二人は小学校低学年のうちから家事を分担して行っている。
先の呟きら分かるように今日は勇麻が買い出し担当。勇火は調理担当である。
「……ヤバい、完全に忘れてた。これ早く買って帰んないと、勇火の説教が待ってるパターンじゃん」
時刻を見るとあと少しで午後六時半。東条家の食卓はだいたい七時半ごろ。調理時間を考えると、もう十分に遅刻だ。
(くそ、罰掃除決まった段階で連絡しておくんだった……!)
勇火は兄と違い真面目なしっかり者なので、時間とか約束とか決まりとかには結構うるさい。
また連絡もなしに遅れたとなると、二つ下の弟に説教をされるという屈辱的な展開が勇麻を襲う羽目になる。
勇麻は急いで目的地を近所のスーパーへと設定しなおすと、、夏の蒸し暑い空気を引き裂いて走りはじめるのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
――ありがとうございましたー、またのご来店をお待ちしておりまーす。
棒読み感満載の店員さんの声に背中を押され自動ドアを潜ると、冷房の効いた天国から蒸し蒸しの地獄へと一瞬で叩き落された。
「……なんで頭のいい学者さん達はゲテモノ系ばっか作るんだろうな。もっと需要あるもん作れよ……」
暑くてたまらんと小銭を取り出して自販機のラインアップを眺める勇麻は、一個一〇円の特売となっていた『宇宙トマト』やら『スマート大根』と言ったゲテモノ賞品を思い出しながら、これまた自販機に並ぶゲテモノジュースの類にげっそりとした感想を零した。
実験都市の名の通り、天界の箱庭は島全体が巨大な一つの研究施設だと言える。
外部と比べて数世代進んだ化学力を持っている彼らが研究しているのは、なにも神の力についてのみではない。
先の時代が追いついてない感満載のゲテモノ賞品たちも、れっきとした最新技術の結晶。開発途中の実験品という訳だ。
まだ商品としての価値が無いため、これらの実験品はとても安く販売されている。
消費者達の様子を見て、今後市場に出す時にどう改良すれば良いかの参考にしているのだ。
要するにテスト品を売っているのだ。この街の住民はテスター役なのである。
一応安全面のテストは終わっているらしいが、それでも積極的に手を出すのは憚られるというのが、正直な感想だった。
一番無難そうなカボチャソーダで喉を潤し、勇火の待つ学生寮へと急ぐ。
走るとレジ袋の中身が大変な事になりそうなので早歩き。しばらく行くと大きな公園へとぶつかる。
大きく回っても帰れるのだが、それでは明らかに遠回りになってしまうし、いつも通っている場所なのでわざわざ避ける理由もない。
一応時間を気にする立場である勇麻は、公園内を突っ切るルートを選択する。
――さて、人生には帰還不能点と呼ばれる転換点がいくつか訪れる。
それは、人生最大の大一番に訪れたり――あるいは、本当に何気ない気紛れの中にポツリと現れる。普段は右に曲がる道を左に曲がってみたり、いつも買わないジュースを買ってみたり、話したことのないクラスメイトにたまたま挨拶をしてみたり、そんな何気ない出来事を発端として、人生を変える瞬間が襲いかかってくる事もある。
そして、今回の場合においてそれは後者だった。
……普段からこの公園を突っ切っている勇麻にとって、『公園の中を突っ切らない』という選択肢は最初から無かったのかもしれない。
それでも、この場この時に限ってそれは『選択肢』に入れるべきだった。
それほどまでにこの時の東条勇麻の選択は、彼の今後を左右する物だったからだ。
そう、これこそが運命の分かれ道だったのかも知れない。と、言える程に。
勇麻が公園に踏み込んだ瞬間だった。
「――なっ、人、か……?」
人が公園のグラウンドの真ん中で、仰向けに倒れていた。
ここからだと暗くてよく見えないが、中学生くらいの子供のようだ。
地面に広がる髪の長さからして、おそらくは女の子。
公園は人気が無く、辺りには少女以外に誰も見当たら無い。
乱雑に手足を投げ出したその姿は、唐突に意識を奪われた事を物語っている。
どうやら、遊びや悪ふざけで倒れている訳では無さそうだ。
勇麻は「マジかよ」とボヤくと、
「……おい、大丈夫かアンタ!」
青ざめた顔で叫び、少女の元へ駆け寄ろうとして──
──やめておけ……!
「……なんだ、今のは」
寒気──何か嫌な感覚が勇麻を制止させていた。
その感覚は勇麻にとっても想定外の代物だ。
不安。恐怖。危機感。
そしてそれ以外の何か、得体の知れない感覚。
不安の理由も恐怖の訳も危険の種類も、何も分からない。
ただ、言いようの無い違和感のような物だけを感じ取っている。
なぜ自分がそう感じたのか、勇麻自身にもよく分からない。何か、身体の中の何かが警告を発しているような――警戒? この女の子に、か……?
そう。倒れているのはただの女の子だ。仮に彼女が死体であったなら、一目見た瞬間に死への忌避感から恐れを抱いてもおかしくないかもしれないが――少なくとも、この距離からでは正確なことはなにも分からない。
(てか、こんな所で迷ってる場合じゃないっての……! はやく、助けないと……!)
勇麻は我が身に走った寒気に一瞬だけ逡巡したが、すぐに正体不明の違和感を思考からを振り払うように大げさに首を振ると、買い物袋も放り捨てて、すぐさま倒れている少女の元へ駆け寄って――
――思わず、目を奪われた。
端的に言って、倒れていた女の子はとてつもなく可愛らしかった。
白だ──白い……純白の少女だ。
勇麻は、その少女の美しさと可憐さに状況も忘れ声を失っていた。ついさっきまで倒れる彼女に感じていた違和感や寒気の事すら忘れ、ただただ少女に魅入っていた。
アルビノとでも言うのだろうか、色素の抜けた腰の辺りまである流れるような白い髪。粉雪のようにきめ細やかで白く美しい肌、不自然な白さでは無く、不健康な印象を与える事も無いその肌は、触れようしても素通りしまいそうな程透明感に満ち溢れていて、まるでプラチナのように月明かりで輝いている。
夏の暑さで桜色に蒸気した頬と、首筋を滴り落ちる汗の水滴が艶めかしい。
女の子らしい長いまつげ、中途半端に開かれた口は小動物みたいで、なんとも可愛らしかった。
小さく華奢な身体を包む込むワンピースまで純白。
見た感じだと、勇麻……否、勇火よりも年下なのだろうか。西洋人は年齢が読めない。
金髪碧眼少女はこの街じゃ別段珍しい訳でもないが、ここまで可愛らしい──それこそ、処女雪のように純白でお人形のように可憐なこの女の子のような子はなかなかいない。
「……って、呆けてんな東条勇麻ッ!」
ふるふると、思考停止の呪いを再度頭を振って振り解く。
少女の身体を抱えて起きあがらせようとして、頭を打っていたりしたら大変だと踏みとどまり、できるだけ身体を動かさないように肩を叩きつつ声を掛けた。
「おい、アンタ大丈夫か。しっかりしろ、どうしたんだよ。……ダメだ、気を失っているのか?」
返事はない。意識を完全に失っているらしい。だが、桜色の薄い唇に手をかざすと息がある事は確認できた。大丈夫、当然だ。こんな綺麗な死体がある訳ない。
「……それにしても」
改めて落ち着いた状態で眺めていると、その少女はすこし異様だった。
「……何だ、コレ。本、なのか?」
古臭い。
この街では決して目にする事のないであろう、古い辞典か辞書? ……いや古文書のような分厚い書物が、少女の首から垂れている紐に括り付けられ、ぶら下がっていた。
紐は本の背表紙を貫くようにして固定されている。
かなり乱暴な扱いを受けている本だが、ボロボロなのは扱い云々以前に、単にその本が古い物だからだろう。
古本とかそういうレベルではなく。時代を感じさせる大昔の魔導書のような、地下の遺跡から発掘されましたと言われても不思議ではないような外見の分厚い本だった。
……何故だろう、こんな古書に何の興味も無いはずなのに、ソレを目にした途端、不思議と勇麻の胸が高揚に高鳴った。
それは子供の頃、林の中でカブトムシを見つけた時の興奮にも似ていた。
手を伸ばしたい。ページを捲ってみたい。書いてある内容が知りたい。
そんな、幼い子供の持つ知識欲を刺激されるような感覚。
気が付くと勇麻は、その本を手に取っていた。
……これは別に好奇心では無い、この本がもし彼女の日記とかだったら彼女の身柄が分かるかも知れない、だから少し覗くだけだ。
勇麻は誰かに言い訳するかのように、心の中でそんな事を言っていた。
普通に考えたら人の日記を覗こうとする時点で非常識なのだが、緊急事態だから、という言い訳で片付けてしまう。
少女に悪いと思いつつも、表紙に掛かる手は止まらない。なぜか、ただそれだけの行為で勇麻の心臓の鼓動が跳ね上がった。
この本の中身が、重大な何かであるような、東条勇麻の今後の人生を左右する重大な情報を与えてくるような、そんな気がした。
(──落ち着け、落ち着け東条勇麻。何をそんなにびびっているんだよ、ただ少し本を覗くだけじゃねぇか。この子には少し申し訳ないけどこの子を助ける為にも必要かもしんないだろ)
いつの間にか、身体じゅうにびっしりと嫌な汗を搔いていた。きっと夏の暑さだけが原因ではない。
一筋の汗が勇麻の顎を伝って地面に落ちる。
心臓の鼓動が伝染したのか、表紙を捲ろうとする手まで震えてきた。
呼吸は荒く、まるで過呼吸だ。
ゆっくり、ゆっくりと東条勇麻は表紙を捲る、そして──
「なっ、白紙?」
──勇麻が捲った一ページ目は少女の髪の色、つまりは白紙だった。
そんな馬鹿な、と勇麻は取り憑かれたように次々とページを捲っていく。
その次のページも、さらにその次も次も次も......いくらページを捲ってもそこに何か文字が書かれている事は無かった。
最後のページすらも完全な白紙だった。
「……は、はは」
勇麻の手を離れた本がパタリと音を立てて地面に落ちた。
落とした拍子に古書のページが閉じる。
勇麻は自分の手から本が落ちた事に、気がついていない。
動揺。
何に動揺しているのかも分からないのに、勇麻の心は激しく揺れ動いた。
無意識の内に張っていた緊張の糸が切れ、ドッと疲れが出たように、勇麻はその場にペタリと座ってしまう。
「何だよ、何にも書いてねぇじゃねぇか。……ったく一体何やってんだか。――って、いや違うだろ、その前に早く救急車呼ばなきゃ! 倒れてる女の子ほったらかしてマジで何してんだ俺──」
我に返り立ち上がった勇麻が慌ててスマホを取り出そうとした所で、
何かが、――いや。
誰かが、東条勇麻の前に現れた。
「――あーやめとけやめとけ。その本、お前なんかじゃ読めねーから」
それは黒い何かで、誰かだった。
「つーかさ、そこのガキが無駄に足掻いたりするから、見られちまったじゃねーかよ。どうすんだコレ。俺は面倒くさいのはゴメンだからな、いや証拠隠滅とか言われても本当にやらんよ?」
不気味に笑う不吉な仮面を身につけた黒ずくめの男が、いた。
☆ ☆ ☆ ☆
「──っ!!?」
不気味に笑う不吉な仮面を身につけ、黒いローブにその身を包んだ男が、勇麻の目の前に立っていた。
勇麻は男が喋るまで、その存在に全く気がつかなかった。
まるで闇からいきなり出現したかのように音もなく、気がついたらほんの二〇メートルの距離まで接近を許してしまっている。
気配が無いのではなく、違和感が無いように気配を周囲に溶け込ませている。という表現が正しいように思える。
この距離で対峙していても、男の気配をハッキリと掴めないのだ。
まるで森の中で自分自身を風景の一部に紛れさせるカメレオンのよう。
だが、重要なのはそんな事では無い。
「おまえ、は……」
不気味に笑う不吉な仮面。
「お前は……」
全身を包む黒いローブ、
東条勇麻は、こいつを知っている。
過去、確実にこいつに遭っている。
☆ ☆ ☆ ☆
頭が痛い。
目の前のこの男を見ていると無性に頭が痛む。
ズキズキと痛む傷口に、はんだごてを当てがうような灼熱の激痛。
突き刺すようなその痛みは、いつしか勇麻の体中を侵食していた。
「はぁ……はぁっ……はぁ、はぁ……っ!」
頭の痛みが次第に過去の記憶を呼び覚ます。
決して忘れていた訳ではない。むしろあの日の事を忘れようとした事すら無い。
あの忌々しい記憶は、勇麻にとっては絶対に忘れてはいけない類の物なのだ。
ただ、記憶の奥底に埋もれて、薄くなっていたはずのあの映像が、鮮明さを取り戻して、勇麻の脳裏に浮かび上がってきた――
――赤一色に染められた視界。
人の倒れる音――
――誰かの叫び声。
そして不気味に笑う不吉な仮面――
小間切れで浮かび上がった映像は、壊れたビデオを無理やり再生させたようにボロボロで、継ぎ接ぎだらけだった。
それでも、
確かに東条勇麻は覚えている。
あの不気味に笑う不吉な仮面だけは、絶対に忘れない。
「お前は、あの時……あの時龍也にぃを……ッ!!」
いつの間にか夕日も沈み、完全に夜へと景色を変えた公園に、歯を噛み締める音が響く。
本来、こんな得体の知れない奴を目の前にしたら、即刻その場から逃げるべきなのだろう。
命からがら助けを求めながら、どこかへ走り去るべきだ。誰だってそう考える。
だが、今の勇麻の頭の中には「逃げる」という選択肢だけは存在しない。
いつか巡り会う日を待っていた、あの日の弱い自分に別れを告げるのには絶好すぎる相手だ。
東条勇麻はもう後悔したくなかった。
あの日のような惨めな思いはもうしないと、自分に、そしてあの人に誓ったから。
あの人のように恐れる事無く誰かを救えるようになるんだ、と。
一歩前に踏み出す勇気が欲しい、と。
そう願い、そうあろうとした。
だから、
(……待ってたぜ仮面野郎ッ、お前のその胸糞悪いツラを拝める日を……ッ!!)
勇麻の口から自然と笑みが零れ出す。
壊れんほどに拳を握りしめる勇麻を見て、仮面の男は驚いた風に口笛を吹いた。
「へぇ、この姿を知ってるって事は……お前、あれか、例の『二代目』か」
二代目? 一体コイツは何を言ってるんだ、と勇麻は眉をひそめる。
だが、そんな勇麻の様子などお構いなしに、仮面の男は話を続ける。
「こんな所で会うなんて、世の中凄い偶然もあるもんだ。だけど残念だったな。お前が『初代』の仇を取りたいって気持ちはまぁ分からんでもないが、そもそも俺はお前が知ってる男とは別人だ。……皮肉なことに俺もお前と同じで『二代目』だ。仲良くしようぜ」
少しずつこちらに歩み寄ってくる仮面の男は、端から見ると隙だらけだった。
だがそれが逆に不気味で、勇麻はそこから逃げる事も、仮面の男を迎い討つ為に前に進む事もできないでいた。
それでも何とか気力を振り絞って、一歩足を踏み出し、未だ意識の戻らない女の子を庇うように前に出る。
「東条勇麻、お前とやり合いたいのは山々なんだが……、生憎俺は今任務の最中でね、あんまり暇じゃねーんだわ」
「任務……? お前、一体何者だ? 何が目的なんだ」
「はっはっはっは、おいおい、何が目的かだって? 今更それを聞くのかよ。本当は勘付いてる癖に、面倒臭いヒーロー様だ」
「……ただの確認作業だ。どうせろくでもない事なんだろし、何だって別に構わねえよ。――そんなことより、アンタが何者なのかって質問に答えるつもりは?」
「そうだな。まぁ教えてやらない事もないんだが──」
双方の距離が一〇メートルを切る。
ここで初めて、仮面の男が放つどす黒い圧力に、勇麻の顔が緊張と恐怖に歪む。
なぜこんな凶悪な気配をこの距離になるまで感じ取れなかったのか不思議でしょうがないのと同時に、勇麻は今、自分が仮面の男の間合いに立っているのだと理解した。
勇麻はより一層拳に加える力を強め、意識を集中させて、奴の視界から完全に女の子を遮断するようにさらにもう一歩前に踏み出して──
「──まずは自分の心配するのが先なんじゃねーの?」
仮面の男の発言の意味を図りかねていると、
(──殺気ッ!?)
ぞわっ、と背後に鋭く尖ったつららのような、おぞましい殺気を感じた。
勇麻は反射的に、身体を仰け反らすように後ろを振り返る。
──ヒュバッ!
背筋の凍るような風切り音と共に、勇麻の頬が浅く切り裂かれた。
「っ!?」
もし一歩前に出ていなかったら、もし殺気に気がつかずにあのままの場所にいたなら、この一撃で勇麻は首を跳ねられていただろう。
避けられたらのは偶然に偶然が重なったからだ。
明確に感じた死の恐怖に、勇麻の背筋にぶるりと怖気が走る。
まるで誰かに鷲掴みにされたみたいに、心臓が壊れんばかりの速さで脈打っている。
「……ナルミ、ごめんね。首、斬り損ねちゃった」
勇麻の後ろに、日本刀を握り黒いドレスに身を包んだショートヘアーの少女が立っていた。
勇麻の首を斬り落とし損ねた少女は、まるでテストで悪い点を取ってしまった子供のように、ボソリととても悲しげにそう呟いた。
「だめじゃないイルミ、標的は気付かれる前に、ちゃんと一撃で殺しなさいとあれほど言っておいたのに。本当にあなたはダメな子ね。あとでお仕置きが必要みたいだわ」
『イルミ』と呼ばれた日本刀女の後ろから優雅に歩いて出てきたのは、彼女と瓜二つの少女だった。
イルミから『ナルミ』と呼ばれたその少女は、イルミよりも髪を長く伸ばし、イルミとは対照的に白いドレスに身を包んでいる。
長い黒髪が白いドレスに栄えて美しい。
ナルミはまるで聖母のように優しく微笑みながらイルミの後ろに立つと、腰にぶら下げた鞘からナイフを引き抜き嗜虐に満ちた表情で舌を這わす。
「ナルミ、意地悪」
「お仕置きが嫌なら次でちゃんと殺しなさいよ。そしたら後でご褒美をあげますよ」
「うん。分かった」
……何だコレは。
勇麻は眼前で繰り広げられるあまりに突飛であまりに異常な事態に声が出ない。
この二人は笑顔で一体何を話しているんだ?
人を殺す類いの話は、こんな笑顔の中で交わされて良いものだったのか?
「おーおー。よく今のを躱したな。まぁ、おおかたイルミの奴が殺気満々で襲いかかってきたから気付いたんだろうけど」
仮面の男は勇麻がイルミの一撃を躱したのを見て、愉快そうに笑っている。本当に、命のやり取りを見ることは面白おかしい事なのだと言うように。
「彼女達が我らが誇る特殊暗殺部隊、イルミ、ナルミ姉妹だ。そいつら頭狂ってるから本気でやらないと殺されるぜ。逃げるなら今のうちに逃げる事をお勧めするよ」
仮面の男の若干小馬鹿にしたような紹介を受けたイルミは、何やら不機嫌げに日本刀を一度振り下ろして仮面の男を睨み付ける。
「あいつ、うるさいから嫌い。……ナルミ、あいつ斬っていい?」
「ダメよイルミ、あんな奴でも私達の上司なの。あいつ斬ったら私達、上の人間から消されちゃうわ」
仲間を殺す事に対する苦言ではなく、自分達の立場を危うんでの苦言だった。
自分の部下にボロクソに言われてるというのに、仮面の男はやはり楽しそうに笑っている。
勇麻は、自分の目の前にいる人間達の思考回路が理解できなかった。
言葉も文化も異なる国に行ったとしても、ここまでの疎外感は受けなかっただろう。
それぐらいに、目の前の人間達は勇麻とはズレている。
「ほらな、狂ってるだろ」
「……お前ら全員おかしいぜ、イカレてるよ」
仮面の男は「確かにそうだな」と、勇麻の言葉を軽い調子で肯定してから、面倒くさそうにイルミとナルミに指示を出し始めた。
「イルミ、ナルミ、そこの男の始末はお前らに任せるわ。目標の『神門審判』は俺が後で回収するから放っといていいぞー。後は……あーあれだ、あんまり派手に物とか壊すなよ。後で処理すんのが面倒くさそうだから。……って言っても片付けすんの俺じゃねーけど」
仮面の男はそれだけ言うと、勇麻の方も見ずにこう言い残した。
まるで、友達に自己紹介するみたいな気軽さで、
「おっと、さっきの一撃を躱したご褒美に教えておいてやるよ。俺の名は『黒騎士』。『背神の騎士団』戦闘員、悪夢を司る騎士だ。もしお前が生きていたら、また会おう『二代目』──いや、東条勇麻」
それだけを言い残して、黒騎士は夜の闇へと消えていった。