第十三話 不穏な雲行きⅤ──決別
「くそッ、くそッ、 くそッ!」
躊躇った。迷ってしまった。動揺した。信じられなかった。信じたくなかった。
感情はぐちゃぐちゃで、それ以上に、頭の中は土砂崩れでも起きたかのように滅茶苦茶だ。
自分の考えをまとめきる間もなく、また別の考えが飛来し、勇麻の思考回路を乱していく。
どれだけの距離を吹き飛ばされたのか分からない。
どのくらいの時間何もできずに空を舞っていたのか分からない。
ただ一つ確かなのは、優しい風に包まれた緩やかな着地と同時、文句を叫びながらガムシャラに楓の元へと走り出していた事だけ。
限界ギリギリの勇気の拳による身体能力の強化に、足の筋肉が悲鳴を上げているのが分かる。
だが、それがどうした。
今一番悲鳴を上げているのは天風楓じゃないか。
「あの馬鹿野郎が! 俺に何の相談もなく厄介事を抱えやがって……無理してるのが見え見えなんだよ!」
足手まといとして勇麻を切り捨てた楓への苛立ちと、足手まといにしかならない上に、躊躇い、迷い、結局何もできなかった自分への苛立ちとで、勇麻の頭は今にも沸騰しそうだった。
あれだけ勇麻の頭部を焼いていた太陽はもう見えない。
薄暗い、どんよりとした気持ちの悪い曇り空の下、勇麻は脇腹が痛むのも無視して、ただの人間を越えた速度でひた走る。
言葉では言い表せない複雑な感情が体内を迸り、まるで血を得た獣のように『勇気の拳』が唸る。
両脚に莫大なエネルギーが集中し、一歩一歩、力強く大地を踏みしめていく。
身体の中から滲み出た汗でシャツはびっしょりと濡れ、体の中に籠もった熱が不快感を与える。
今にも泣きだしそうな曇天の中、勇麻は自責の念と後悔、そして行場の無い怒りと苛立ちとを抱えながらひたすら前に進んで行く。
目的地を見失う心配はない。
目指すは風の集まる場所だ。
☆ ☆ ☆ ☆
後悔はしていない。
だってきっといつかはこうなる事が分かっていたから。
反省はしていない。
別に自分が正しい事をしているとは思っていないが、それでもこの選択に意味はあったのだと信じているから。
だけど、こんな顔を見せるつもりは無かったのだ。
こんなみっともなくてどうしようもないところを見せても、心配をかけてしまうだけなのだから。
……いや、自分がやっている事を考えれば心配してもらおうなんて虫が良すぎるか。
ただの犯罪者が何を求めて期待しているのか。自分でも苦笑がこみ上げてしまう。
「楓……」
目の前の少年は顔中に汗を浮かべて、膝に手をついて荒い呼吸を必死に整えていた。
楓としては十分な距離吹き飛ばしたつもりだったのに、まさかこんなに早くここまで戻ってくるなんて予想外だった。
そこまで考えて、そういえばこの人は少し変わった『神の力』を持っていたっけ、と他人事のように思い出した。
……他人事だと、そう切り捨ててしまった。
「……さっきの人達なら追っ払ったよ。けっこう手強かったけど、四人の内の一人の意識を奪ったら残りの三人が急激に弱くなって、そこで諦めてくれたみたい。おとなしく撤退してくれたから、もう平気」
無理にでも笑顔を作って、笑う。
その行為に、もうどれだけの意味があるのかも、楓には分からない。
ただ、これまでを焼き直すかのように、いつもと同じように笑みを浮かべた。
「だから言ったでしょ、勇麻くん。わたしだって成長してるんだからね、もう勇麻くんに守られてばかりだった頃のわたしとは違うんだよ?」
うん。完璧だ。
我ながら中々に完成度の高い笑顔だと思う。
もう全てがバレてしまっているのにも関わらず、こんな無駄な事を続ける自分の未練がましさに、楓は内心呆れ果てていた。
もう終わったのに。
目の前の少年は、きっともう自分の味方ではいてくれないのに、それなのに醜くしがみ付き、依存している。
そんな自分が情けなくて、醜くて、気持ちが悪い。
「あの、その……さっきは、いきなり飛ばしちゃってごめんね。でも、ああでもしないと、危なかったから。……あ、ほら、勇麻くんならあの四人が相手でも勝てただろうけど、その、すぐ無理してケガするから、さ」
勇麻の表情からは苦悩の色が伺えた。
きっと、楓にどう声を掛けるべきなのか、まだ決めかねているのだろう。
先ほどの話を聞いていたのなら、まっさきに糾弾すべき事があるだろうに、それなのに躊躇してくれている目の前の少年のお人好しさに、また苦笑が零れそうだった。
それでも勇麻は、決心したように喉を鳴らすと、一歩楓に近づいてこう言った。
「楓……お前、なのか?」
楓はその質問に答えない。
その言葉足らずの質問の意味が分からない訳ではない。
全てを分かったうえで、天風楓は黙秘を選択している。
ただ黙って、微笑を浮かべたまま濡れた瞳で勇麻の事をジッと見ているだけ。
「おい……応えてくれよ、楓。否定してくれよ、なんで……なんで! なんで黙ったままなんだよ!」
「……ごめんなさい」
「俺に謝ってどうすんだよ! なんで、お前がそんな事をした。博物館を襲って、『背神の騎士団』と敵対しなけりゃならないような事を……どうしてッ!?」
どうして?
そんな問いは幾度となく自分の中で繰り返してきた。
自分自身の行動の意味を。自分自身を巻き込んでいく世界の理不尽さを。自分自身の過去を。
でも、その問いに対する答えなんて始めから決まりきっていた。
何度問い直しても、自分の中でその答えが変わる事は無かった。
「どうして、ね。……ねえ勇麻くん。友達の事を理解してると豪語する人の内、どれだけの人が本当にその友達の事を理解できているんだと思う?」
「……?」
いきなり話題があさっての方向に飛んだ事に眉をひそめる勇麻を置いて、楓は続ける。
愛おしく儚い物を触る時のように目を細めながら勇麻に背を向けるように適当に歩くと、靴底がアスファルトをコツコツと叩く音がした。
「わたしは勇麻くんの事を知っている。優しくて頼りになって、カッコよくて、まるでヒーローみたいに駆けつけてくれて、いつもわたしの事を助けてくれる、勇麻くんの事を。でもそれってさ、『知っている』ってだけで『理解している』訳じゃないんだよね、きっと。ううん、本当は何も理解してないんだと思う」
「楓、……何を言っているんだ?」
「わたしが勇麻くんの事を理解できないように、勇麻くんもわたしを理解できないよ。だから――」
きっとこれは勇麻の求めている返答ではない。
それを理解しながらも、楓は躊躇わなかった。
もう、覚悟はできていたから。
――さようなら。
そう言おうとして――
「楓……泣いてる、のか?」
「え?」
心配そうにこちらを覗き込む勇麻の言葉に、反射的に頬に手を伸ばす。
楓の繊細な指先が、流れる水滴に触れた。
濡れそぼった瞳から零れ落ちているその透明な液体は、まごう事なき涙だった。
涙を自覚すると、もうダメだった。
まるで堰き止めたダムが氾濫するかのように、瞳から涙が溢れ出してきた。胸の奥がきゅっとなって、頭がぐちゃぐちゃになる。まるで体の中にモヤモヤとした霧がかかったかのようで、理由も分からないのに苦しい。
ごしごしと、目元をどれだけ擦っても透明な液体は止まってはくれなかった。
ごまかすように楓は笑った。
「あ、あははは……。はぁあー。ダメだなー、わたし。これでも覚悟を決めてきたつもりだったのに……もう何だか、わたしもわたしの事が分からないや」
ぽろぽろと涙を地面に零しながら、アスファルトに染みを作っていく。
そんな楓を心配げな眼差しで見つめて、勇麻は一歩楓に歩み寄る。
伸ばした手を中途半端な位置で泳がせて、一回躊躇うような様子を見せる。
それでもブルリと首を振るって、
「楓、お前が何に悩んで、どんな問題を抱えているのかは知らない。お前の言うように、俺もお前の事を完璧に理解してやれる訳じゃない。でも、理解できないからこそ人と人は話し合うんだろ? 理解できないから、知らないからこそ、その人の事をもっと知ろうって、そう思うもんだろ?」
楓は答えなかった。
勇麻もそれについて拘泥しない。そもそも始めから楓の回答は期待していないのだ。
「考えてもみろよ。相手の全てを完璧に知りたいなんて、めちゃくちゃ我儘で傲慢な話だと思わないか? 知らない部分があるから、もっとその人の事を知りたいって思える訳だし、少なくとも俺は、まだ知らないお前の事も知っていきたいと思ってる」
きっと自分でも何を言っているのか分からないのだろう。
笑ったまま静かに泣き続ける楓に、勇麻は顔を赤くさせながらまくしたてるようにして、
「いや、だから、その……何が言いたいかっていうとだな。……理解できるできない関係なく、お前がどんな厄介な問題抱えてようが、俺が相談くらいならいつでも乗ってやるって事だ。だから――」
「いやー優しいなー、勇麻くんは」
勇麻が最後まで言い切る前に、被せるような大声で楓はその言葉を遮った。
止まらない涙をごしごし擦りながら、嬉しそうな微笑を浮かべる。
「でも、その優しさが痛い事だってあるんだよ。わたしは、勇麻くんみたいな人に優しく話を聞いてもらえる資格なんてない。ただの、犯罪者なんだから。だからさ、もうやめて」
突き放すような言葉は、口に出した先から震えてしまった。
「もう、めんどくさいんだ、そういうの。余計なお世話っていうかさ、別に困ってもないのに偽善を振るわれても鬱陶しいだけでしょ? だから、さ。もうわたしに関わらないで。……さようなら」
勇麻が何かを叫びながら、こちらに踏み出してくるのが見えた。
でも、何を叫んでいたのかは分からない。
一瞬で楓の背中に接続された竜巻の翼が唸りを上げ、暴風がその場に巻き起こったからだ。
耳元を乱暴に吹き抜ける風に包まれて、楓の身体が宙に浮いた。荒々しい風の音に全ての雑音が掻き消され、余計な音も声も何も聞こえない。
天風楓はそれ以上勇麻の事を一瞥もせずに、その場から飛び去った。
彼女の中の大切な何かが、音を立てて崩れていった気がした。
涙はもう出なかった。ただ、彼女の身体を冷たい雨粒が痛いくらいに叩き始めた。
☆ ☆ ☆ ☆
「楓……」
冷たい水滴が勇麻の肩を叩く。
だんだんと速まるリズムはやがて一定になり、視界を覆うカーテンのように、途切れることなく雨粒が世界に降り注ぐ。
何も出来ずに、何も伝えられずに、ただただ立ちつくす自分が酷く情けなくて唇を強く噛み締めた。
鉄の味を感じながら、あまりにも無力な自分が許せそうもない。
「くそッ!」
怒りの感情に身を任せ、雨で濡れたアスファルトに拳を叩き付けた。
地面が揺れた。
肉を叩く鈍い音も雨音にかき消されてしまう。
怒りによって威力の底上げされた一撃。その衝撃によってへこみ、亀裂の入ったアスファルトに雨水が流れ込んで、一瞬で小さな水たまりができる。
天風楓は泣いていた。
泣き虫な彼女が、自分を偽るように下手くそな作り笑いを浮かべて、涙を見せないようにしていた。
誰にも見られないように、心配を掛けないように、下手くそな芝居を打って、勇麻を遠ざけた。
それが勇麻は許せなかった。
彼女が泣いている事が、そのうえその涙を勇麻に隠そうとした事が。
「楓……俺は……もう訳が分からないよ……」
だが、彼女がもし本当に博物館襲撃事件の犯人だとしたら、東条勇麻はどうするべきなのだろうか。
天風楓がなぜそんな事をするのか、その理由が勇麻には分からない。
博物館を襲い続ける事に一体何の意味があるのか。何の意味も無いのか、それさえも分からない。
不気味なまでに目的が見えてこない天風楓の狂行。
だが確かな事は一つ。天風楓の行いは決して許される事では無いという事だ。
既に彼女の行為は子どものイタズラのレベルをゆうに超えてしまっている。
誰かに迷惑を掛けてはいけない。これは人の守るべき確かな常識である。
その中で楓の破壊行為は紛れも無く犯罪であり、犯罪は悪だ。
悪は裁かれるべきであり、正義の味方は悪を挫く為に存在する。
ならば東条勇麻は、
(俺は――)
何の為に拳を振るえばいいのだろうか。
(――どうすればいい?)
黒騎士――あの時は南雲龍也を名乗っていた――にこれまでの人生その物を否定された時、自分自身の空っぽさに、これまでの人生の無意味さに襲われ潰れそうになっていた時、一人の少女に勇麻は救われた。
戦う理由を。
戦ってもいい理由を与えられた。
罪でも義務でも責任でも無く、自分の心の奥底から湧き上がる何かの為に戦う事ができた。
けど、それで勇麻が全てから解放される事は無かった。
南雲龍也の死の真相。
それを知るまで、きっと勇麻は過去の憧れという呪縛から永遠に逃れる事は出来ない。
いつまでもいつまでも、南雲龍也のいない世界で勇麻は英雄の影を探し続けてしまう。
それに黒騎士の正体が南雲龍也では無い可能性が浮上した今、南雲龍也の代わりに自分が誰かを助けなければならない、という義務感にも似た一種の呪いのような感情が再び勇麻の胸の内で燻っているというのも紛れも無い事実だった。
とは言え、以前のような鬼気迫る物がある訳では無い。
あの日を境に、確かに勇麻の中で何かが変わったのだろう。
それは紛れも無い事実だ。
だがそれでも、勇麻の中に過去の亡霊は未だ居座り続けている。勇麻の行動を縛り、道化のように偽物の英雄を演じさせ続けるのだ。
目の前で誰かが助けを求めていれば、自分の不利益など顧みずにすぐさま助けに行くだろう。その結果自分が酷く傷つく事になろうとも、それが誰かの為になるなら東条勇麻はきっとそれを許容してしまう。
自分の中の理由では無く、過去の理由に縋ってしまう。
そういう価値観が勇麻の中には根付いてしまっている
紛い物の英雄。
南雲龍也の代理品。
きっとこれまでと変わらずに、勇麻は演じ続けるのだ。
道化のように、免罪符を求める卑しい咎人のように、空っぽの写し鏡のように、紛い物のように、南雲龍也のような、
英雄を。
(やらなきゃならない事なら嫌って程に分かってる)
なら、その上で再び問おう。
(南雲龍也なら。……龍也にぃなら、きっと迷いすらしない)
博物館の襲撃を続ける天風楓。
南雲龍也の代理品として英雄を演じ続ける東条勇麻は、今何をするべきだ?
(ああそうだよ。答えなんて始めから分かってる。何が正しくて何が間違っているのかなんて、幼稚園児の目にも一目瞭然だ。第一、俺はそういう分かりやすい英雄ってのに憧れてたくらいだからな。こんな問いかけ自体が無意味なんだよ)
何をするべきかなんて決まっている。
東条勇麻が天風楓を倒す。
それがこのうえなく正しい選択だ。
涙を浮かべ、それを懸命にひた隠そうとする一人の少女を痛めつけてやればいい。
悪者を正義の味方が叩きのめす王道展開だ。
馬鹿な女を痛い目に遭わせて、二度とこんな真似が出来ないようにする。
それでハッピーエンド。『天界の箱庭』にも平和が戻る。
めでたし、めでたし。
(暴走する天風楓を俺が止める。……きっとこれが最善手)
でも、
(それで本当にいいのか? 俺はあの子の、楓の前に立ちはだかりたいんじゃない。あの子の隣で、あの子の味方でいたかったのに……なのにッ!)
苦しそうに頭を掻き毟る勇麻を冷たい雨が打ち続ける。
沸騰しそうになった傍から頭が冷やされていき、かろうじで勇麻の頭は平静を保っていた。
荒い呼吸を落ち着かせ、大きく息を吸い込み吐き出す。
ぐちゃぐちゃな感情も、滅茶苦茶な頭の中も、どうにかこうにか落ち着かせる。
(俺は……俺はそれで本当に後悔しないのか……?)
自身への問いに、勇麻は即答する事ができなかった。
即答できない時点で、勇麻の本来の願いなど分かりきってしまっている。
「……身勝手で、都合が良い話だよな。こんなの」
自嘲気味にそう呟いた勇麻の顔に浮かんだ笑みは、少し泣きそうな顔をしていた。
「あーちくしょう、やっぱりダメだよ。俺にはできない」
後悔だけは、もうしたくなかった。
東条勇麻は掴んだ答えを握りしめるように拳を握ると、頭上を見上げた。
雨脚は強くなるばかりで、雨が止む気配など微塵も感じない。
覚悟は決まった。
なら後は、行動に移すだけ。
勇麻はズボンのポケットからスマホを取り出すと、素早く数字を入力していく。
耳にスマホを当て、コール音が一回、二回、三回目で聞き慣れた少女の声。
「もしもし、アリシア」
勇麻は一度目を瞑り、間を開けると、
「もう一つ、頼みたい事がある」




