第十一話 不穏な雲行きⅢ――敵意の行き先
ベンチに座りなおした天風楓は、無言のまま背後の勇麻の事を睨み付けていた。
視線が痛い。
「……………………」
「だからごめんって、悪気は無かったんだよ。悪気は。ただちょっとビックリさせようかと思いまして……まさかあんな盛大にすっ転ぶとは……」
「……どうせわたしは間抜けですよトロイですよドジですよ。べぇーだ」
フン、と鼻を鳴らしながら天風楓さんはご機嫌斜めだった。
地面にぶつけた頭が痛むのか、自分の後頭部を掌でなでなでしながらそっぽを向いている。
勇麻は苦笑を浮かべながら、とりあえずドッキリに使われた冷たい缶ジュースを顔の前に差し出してみた。
すると楓は、勢いよくそれをひったくりゴクゴクと一息で飲み干してしまった。
そんなに急いで飲むと気管に入るぞ、と思っていると、やはり慌て過ぎたのか案の定ケホケホと楓はむせ返ってしまう。
そんなに喉が渇いていたのだろうか。
楓は暑いのかやけに真っ赤な顔で咳払いをして、何かを誤魔化すようにすると、
「……ところで、勇麻くんは何でこんな所にいるの? 見た感じ、泉くんとか……あと、ええっと高見くんもいないみたいだけど……」
ベンチの後ろで背もたれに腕を乗せて体重を掛けるようにしていた勇麻はベンチの前に回り込み、楓の隣に座りなおす。
「ああ、俺は別に何もないよ。暇だったからな、ただの散歩だよ散歩。そういう楓こそなんでここに? 随分疲れてるみたいだったけど」
勇麻が楓を見かけたとき、楓は疲れ切ったようにして目を瞑っていた。
女の子がこんな暑い日に街中のベンチの上で無防備に寝顔を晒すなんて、割と異常な事態だと言えるだろう。
楓は困ったように一瞬視線を宙に彷徨わせると、
「……。わたしは……ほら、ええっと、あのー。……その、“夏休みの課題”から逃げてきた所というか、そのまあ、勇麻くんと似たようなところ、かな」
てへへと照れたように頭の後ろを搔きながら、天風楓はそう言った。
勇麻の問いに答えるまでに、確かに生じた“間”のような物が勇麻の胃をきりきりと苛む。
楓の何て事のない行動の一つ一つが、今の勇麻にとっては不自然な物に感じられてしまう。そしてそんな風に楓を疑ってしまう自分が、どうしようも無く嫌だった。
勇麻の表情がほんの一瞬、普通では気が付かないくらいに一瞬だけ歪んだ事に、おそらくすぐ隣りの楓は気が付かない。
「へぇ、そうなのか。なんだよ、やっぱり名門校だと課題も面倒臭かったりするの? 成績の良いお前が逃げ出すってよっぽどのレベルだと思うんだけど」
天風楓が通っている天門第一高校は『天界の箱庭』屈指の名門校だ。
当然受験の難易度はそうとう高い。干渉レベルC以下の生徒は書類審査の時点で無条件に落とされるし、例え書類審査を通っても、ペーパーテストと体力テストが残っているのだ。
高い干渉レベル。高い学力。高い運動能力。その三つが揃って初めて入学を許可される超難関校。
そんなエリート様ばかりが通う超難関校で干渉レベルに成績と、一年生ながら共にトップの座についている天風楓はかなりの化け物なのだが、小さい頃からずっと一緒にいる勇麻からしてみれば『化け物』というより『泣き虫』の印象の方が強かったりする。
干渉レベルの高さ、彼女の『神の力』の強力さについては疑う余地はないのだが、それでもなお、小さい頃のイメージというヤツは中々に離れない物なのだ。
「……まあ、ね。わたしだって別に勉強が好きな訳じゃないもの。“逃げ出したい時”くらいあるよ」
「そりゃそうだ。もしお前が勉強大好きガリ勉メガネちゃんキャラだったら、あんな風に俺らと馬鹿みたいな事して遊んでねえよな」
「あはは、それもそうだね。あの頃は皆揃って暗くなるまで泥だらけになってたっけ」
勇麻の返事に、楓は昔を懐かしむようにそう言うと、どこかここでは無い遠くを眺めるように目を細めた。
そのノスタルジーな横顔が、あの楽しかった日々が既に通り過ぎた過去の異物となり、懐かしむべき対象となってしまっている事を勇麻に強く意識させた。
もう戻ってこない過去。
そして今後とも勇麻が向き合っていくべき過去。
天風楓の瞳には、あの過去の日々がどんな風に映っているのだろうか。
ふと、そんな事が気になった。
「ま、楓の“夏休みの課題”が終わったら、また皆で集まって遊べばいいだろ。……またそんな泣きそうな顔して、泣き虫は相変わらず健在なのな」
「な、泣きそうになんかなってないよ!」
「ホント頼むぜ、『最強の優等生』さんよ。お前が泣くと天気が悪くなるんだから」
「もう。その呼び方わたしが好きじゃないって知ってる癖に、そうやってまた馬鹿にして。それに雨が降るのはわたしのせいじゃないですぅ!」
ふて腐れたように頬を膨らましてそっぽを向き、楓は肩を怒らした。
楓が泣くとよく雨が降る。
小さい頃から一緒だったメンツにとっては当然の認識なのだが、当の本人はいっこうに認めようとしないのだ。
小さい頃からその事をからかうと割と本気で怒っていたのを思い出す。
最終的には楓が泣いてしまい、急な夕立に襲われる羽目になる事も多かった。
「……」
「……」
二人の間の会話が一旦そこで切れる。
エレベーターの中の気まずい沈黙とは違う、長年共にあり互いを知るからこその心地の良い静寂が二人を優しく包み込んでいた。
勇麻は頭上の巨大な入道雲を見上げながら、このまま気楽な時間がずっと続けばいいのに、と考えていた。それはできない願いなのに。それをぶち壊す為に勇麻はここにいるというのに。
そんな事を願ってしまった。
それは決して手の届かない安寧への渇望なのか、それとも勇麻がこれから手に入れるべき現実の姿なのか。
その答えは、否が応でもすぐに分かる。
勇麻は静寂の中、一度深呼吸をして心に弾みをつけると、
「……ていうかさ。楓最近忙しかったみたいだけど、それも“夏休みの課題”絡みだったりしたのか?」
それは、確信に迫るような質問だった。
だが勇麻の側に言葉を躊躇う理由など無いハズだ。ただ散歩に来ているだけの東条勇麻の口からその言葉が出てきても、何らおかしくは無いのだから。
勇麻のその何でもないような問い掛けに一瞬、楓の動作が固まったようにも思えたが、すぐに何かに気が付いたようにハッとすると、
「……あ、もしかしてメール送ってた?」
「勇火が俺のスマホで送ってたらしくてさ、返信ないって心配してたぞ」
「ごめんなさい! わたし、その、ホントに忙しくて……もしかして急ぎの用事だったりした?」
「いや、まあ用事っていうか、ちょっと厄介事があってな。俺は止めたんだけど、勇火の奴が問題の解決に『最強の優等生』さんの力を借りたかったんだとよ。まあその問題自体は解決したから、もう気にしなくても大丈夫だ」
慌てたようにして携帯を確認している楓を茶化すように勇麻はそう言った。
だが楓はメールの内容を確認した途端に、酔っ払いみたいに顔を真っ赤にして、携帯を取り落としかける。
「なっ、なななっ!? あ、ああ愛してるってななに、なにコレ!?」
「ああ、内容はともかく、その辺りの俺の台詞は勇火のアホが勝手に脚色して付け足したのだから気にしないでくれ。……ホント、ふざけてるのかと思うだろ? あの馬鹿、真面目な時にこんなふざけた文章送りやがって。てっきり俺は、このメールをイタズラだと思って楓が無視してるのかと思ってたくらいだよ」
勇麻がそう言った途端、何故か楓はますます顔を真っ赤にして全力で勇麻から視線を逸らした。
頭上にハテナマークを浮かべた勇麻が不思議に思って楓の顔を覗きこもうとすると、またも全力で首を振ってしまう。……頑なに勇麻の方を見ようとしないのは何故なんだろうか。
勇麻は訳が分からずまた首を傾げた。
「……へ、へぇー。た、確かにこの内容じゃちょっとアレだよね。うん。ごっごごご誤解が生じたり、嬉し……じゃなくて勘違いとか、その、色々問題があるような、ないような、だよね!!」
若干不自然というか、どこか声が上ずっているような楓。
そのどこか不自然な楓の態度に、引っ掛かりを覚えながら勇麻は自然な会話を続けようとする。
そう。これはあくまでも、ただの散歩なのだから。
東条勇麻が、天風楓という人物に抱いている疑惑を、露見させる訳にはいかない。
それを解消する為に、勇麻はこうして行動しているのだから。
だから勇麻はごくごく自然な流れで会話を続けようとした。
「だよなー、俺が楓のことを愛してるとか急にそんな事言われても笑っちまうよなー」
「うっ、」
「ん? なんか俺おかしな事言ったか?」
変な呻き声みたいな物が隣から聞こえた気がして、勇麻はそう楓に尋ねた。
だが楓は力なく首を横に振って、
「う、ううん。何でもないよ。……なんでも」
「?」
心なしか先ほどよりも元気が無くなっているような楓に、勇麻はまた首を傾げる。
もしかしたらこの暑さにやられているのかもしれない。
今日は最高気温更新だとかお天気おねえさんが言っていたし、熱中症や脱水症状などの症状がでている事だって考えられる。
「……おい、どした。なんか元気ないみたいだけど大丈夫か? 水飲む?」
「……え? あ。ああ、大丈夫だよ。全然平気別に何も気にしてないよ」
パッと見、体調が悪いという訳ではなさそうだ。
さっぱり訳が分からない勇麻を置いて、楓は視線を地面に落として意気消沈している。
なんだかお正月にお年玉を貰えなかった子供みたいになってしまっている。
「……まあいいか。ところで楓、お前この後暇か?」
「え?」
「まあいいから、暇ならちょっと付き合えよ」
「でも、ちょっとこの後……」
「なに、なんか用事でもあんの?」
ええっと、と楓は困ったように口ごもってしまう。
それを見て勇麻の目がわずかに細められる。
楓の躊躇いが、その煮え切らない態度が、勇麻の中の猜疑心が膨らんでゆく。
もしかしたら、本当に、いやでも、あんな事をする理由が、でも、怪しい、なぜ答えられないのか、
そんな単語ばかりが勇麻の脳みその中を駆け巡り、冷静にあろうとしていた勇麻の思考を乱していく。
焦りが生じる。不信感がその勢力を増す。
天風楓という少女は勇麻の心の大切な場所に位置する人間の一人だ。
いつだって勇麻は楓の隣に立っていたし、彼女の味方でいた。今にも泣き出しそうな少女の手を握る側の人間だった。
天風楓という少女は勇麻が守りたい人達の一人であり、彼女がどれだけ強くなろうが、以前の泣き虫な少女からどれだけ成長していようが、既に勇麻などと比べ物にならないくらい強かろうが、それは変わらない。
だからこそ、不快なのだ。彼女を疑わなければならない、この状況が。
不快。
手の届かない所が無性に痒いような、そんな感覚。
身を捩った程度では痒みは消えない。その身を苛む痒みを止めたければ、その元凶を直接叩くのが手っ取り早い。
だから、
ごくり、と生唾を呑み込む音が自分の喉から聞こえた。
心臓がうるさい。垂れ流れてくる汗が目に入って沁みる。
言葉が喉元までせりあがって、けれども様々な声が勇麻の決心を鈍らせる。
……これで彼女が黒だったらどうするつもりだ。いや、そもそもそんな風に疑ってるのが間違っている。
踏み込むべきでは無い決定的な境界線。そのラインを超えるのか? 今ならまだ引き返せる。取り返しのつかなくなる前に止めておけば、何も知らない顔をして彼女の隣で笑っていられるならそれでいいじゃないか。それでも、そこに触れると言うのか。自分を、そして彼女を苦しめるだけの結果に終わるかもしれないその行為に。意味なんてあるのか?
(――それでも、楓を信じているなら)
ぐちゃぐちゃとした己の声を振り切って、勇麻は一度目を瞑った。
彼女を信じているのならば、恐れる必要など無いではないか。
一度覚悟を決めたらもう止まれない。
坂道を転がり落ちるボールのように、あとは流れに全てを任せるしかなくなってしまう。
それでも、東条勇麻は――
「……なあ、楓。お前――」
勇麻が決定的な一言を言いかけた、その瞬間だった。
ビクリ、と楓の肩が大きく震えた。
楓の瞳に殺気とも言えぬような濃密な何かが宿り、その目を蛇のように細める。
瞬きをする間もなく、楓を中心に一陣の風が巻き起こり、楓の茶色い髪の毛が踊るように跳ねた。隣に座っていた勇麻の身体が、楓の造り出した暴風に煽られるようにしてベンチから転がり落ち、無様に尻餅をついた。
何の因果か、殺意を瞳に宿す楓と向かい合うような位置に勇麻は転がり出ていた。
痛みを口に出す間も無い。ただ何もできず呆然とする勇麻の目の前で、事態だけが進行していく。
取り返しのつかない、何かが。
あまりの豹変ぶりに、事態に全くついてこれない勇麻を無視して、立ち上がった楓は女の子らしい綺麗な右手をアスファルトの上に座り込む勇麻の顔面目掛けて突き出す。
まるで照準を合わせるかのように掌を突き付けられ、そして――意志を纏った風が楓の身体を這うようにしてその右手の掌に集まり、収束し、束ねられ、圧縮される。鋭い破壊力を宿す一つの弾丸と化す。ここまで僅か二秒。不可視の風の弾丸は楓の掌の上で蠢き、乱れる空気の流によって勇麻の目でもかろうじで捉える事ができた。
「お……い、楓?」
うわずった勇麻の問いかけを楓は黙殺。殺伐とした表情も、ピクリとも動かない。
感情が追い付かない。
置き去りにされた日常が、先ほどまでの和やかな幼馴染との会話が、まるで嘘みたいな状況に立たされているというのに、勇麻は頭の中のギアを切り替える事が出来ない。
目の前の現実を、脳みそが受け入れようとしない。
なんで、なにが。どうして……こうなる!?
天風楓という少女が今まさに、自分に向けて必殺の凶器を突き付けているという事実を頭の方は認識できていても心の方がついてこない。
そして、勇麻が自身の陥った絶体絶命の状況を呑み込むより前に、楓の掌から行場を求める力の塊が勇麻の顔面目掛けて飛来した。
東条勇麻にできたことは、ただ目を瞑って体を抉る感覚に襲われるのを待つ事だけだった。
が、
「っ……………………あ、れ?」
いつまで待っても、勇麻を襲うはずの身を切るような痛みはやってこない。
直撃しなかった?
けれどあの距離で、あの天風楓が攻撃を外すとは考えられない。
いや、そもそもだ。
風の弾丸は“東条勇麻を狙ってなどいない。
風の弾丸は座り込む勇麻の頭上を通過しその後方、およそ一〇メートル先のアスファルトに大きな穴を穿っていた。
「……アナタ達、一体何なの?」
楓は勇麻を見据えたまま――否、勇麻の後方を見据えたまま敵意を顕わにそう吐き捨てた。
普段からは想像もできないような表情で、瞳で、その身から闘志を放つ楓。勇麻は目の前に立つその人物が自分の幼馴染であり年下の女の子であるという事実を一瞬忘れそうになっていた。
それほどまでに今の楓からは鬼気迫る物を感じるのだ。長い付き合いで、彼女が戦っているところを何度か見たこともある勇麻ですらも、こんな天風楓は見たことが無かった。
「あらあら、さすがは『最強の優等生』。スカーレちゃんがわざわざ造った『蜃気楼』がこうもあっさり破られるなんて、一体どうやって見破ったのかしら~?」
くすくす、と。
何もない所から、そんな声が聞えた。
「……そんなの、教えると本気で思ってる?」
くすくす。
威嚇するように低く告げる楓に、見えない声は愉快そうにくすくす笑う。
場違いにゆったりとした穏やかそうな声からは、敵意すら感じなかった。
のほほんとした声は、緊張感の欠片もなく言う。
「あら。もしかして、世間話はあまり好きじゃないのかしら?」
「アナタ達がその気なら、いくらでもおしゃべりに応じてもいいけど。でも、どうせそういう訳じゃないんでしょ?」
楓の問いに答えたのは先ほどまでとは違う声だった。
どこかかったるそうな、不満たらたらな様子で、
「……だから言ったじゃないえですかぁー、セルリア姉ちゃん。スカーレの『蜃気楼』なんてどうせ破られるんだから、最初っから素直に奇襲掛けた方が早いって」
「おいシャルトルお前な……」
「どうするんですぅー。見事に先手取られちゃいましたけどぉー」
「うぉぉい! 無視すんじゃねえよこのバカッ!!」
「……んなっ」
「そうね~。とりあえずセピアちゃんの言うように、もう『蜃気楼』はいらないんじゃない?」
「セピアにセルリア姉まで……チッ、折角このスカーレ様がわざわざ……あーもう、分かったよもう」
変化は唐突に起こった。
勇麻の後方わずか一〇メートルほど先。
楓が風の弾丸を撃ち込んだ辺りの空間が、ぐにゃりと歪んだかと思うと、まるで砂漠に浮き上がる幻影のように四つの人影が浮かび上がってきたのだ。
おそらく全員、歳は高校生くらいだろう。
……一人は翠色の瞳の少女。緑系のティーシャツの裾を縛ってへそを出し、下はホットパンツ。セミロングのブロンドヘアーが美しい女の子だ。やる気を削がれるような出来事でもあったのか、かったるそうな雰囲気を周囲にまき散らしているようにも見えた。
……一人はこのクソ暑いのにも関わらず袖の余る程大きなロングコートに身を包み込んだ、前髪ぱっつんの黒髪少女だった。黄色い髪留めがアクセントとなっている。むっすとしたままジト目でこちらを睨めつけてくるのだが、何か嫌な事でもあったのだろか。
……一人は碧い瞳をした、やたらと露出の高い青系の衣服に身を包んだブロンドの髪の少女だ。
ただでさえ露出の高い衣服を内側から盛り上げる大きな塊。腰まである艶やかな髪の毛。そしてその愛らしい顔に浮かべる柔和な笑みとおっとりとした雰囲気。異性からの人気の高そうな女の子だった。
……そして最後の一人は真っ赤な髪の毛に緋色の瞳を持つ、ベリーショートの少女だ。他の三人と比べて特に慎ましい胸。そしてかなり残念なセンスの服装をしている。でっかく『漢気』と書かれたティーシャツなんて、今時修学旅行の罰ゲームくらいでしか着ない。
いきなり。本当にいきなり目の前に現れた少女達を前に、勇麻の頭の中は、意味が分からないで一杯だった。
ただ、自分の理解できない所で、何らかの事態が進行している。その事実にどうにか追いついた勇麻は、既に臨戦態勢に入っている楓に恐る恐る尋ねる。
「楓、……これは、一体……」
楓は視線を逸らす事なく早口で、
「ごめん勇麻くん。ちょっとヤボ用ができちゃってみたいだから、先に帰ってていいよ」
「は? でもお前、アイツらは? 口ぶりからしてどう考えてもお前の事狙ってるだろ! だったら俺も――」
――一緒に戦う。
そう言いかけた勇麻を楓の言葉が遮った。
「大丈夫。あれくらいなら、わたし一人でも平気だから」
その声には否定を決して許さない、強い響きがあった。
ある意味では拒絶とも取れるその言葉に、勇麻の動きが止まる。
天風楓は確かに強い。
東条勇麻が知る中で、まず間違いなく最強の『神の能力者』だ。
きっと四対一で戦っても、目の前の連中を打破する事ができるだろう。
むしろ、勇麻など足手まといになるかもしれないし、勇麻自身彼女の強さを当てにして、その可憐な背中を頼ってしまう事だってあるだろう。
黒騎士との戦いの際、勇火からの提案を──切り札として、もしもの時は天風楓に頼るという選択肢を──勇麻はもっと強く反対できたハズだ。
彼女を巻き込む事に反対しながらも、弱い勇麻は彼女の強さを求めていたのではないか?
本当に、心の底から彼女を巻き込みたくないと、そう思っていたと言えるのか? 言い切る事ができるのか?
(俺は……)
分かっている。東条勇麻は、きっとどこかで期待していたのだ。
自分達だけではもうどうしようも無いような状況に陥った時、天風楓なら何とかしてくれる、と。
アリシアを、弟の勇火を、友の泉を、東条勇麻の力では守れない。
でも天風楓なら。
彼らすべてを守りきるだけの力を持つ彼女ならば……。
(くそ、何が“彼女を巻き込みたくない”だ。自分の弱さの責任を押し付ける気マンマンじゃねぇかよ!)
弱さは罪では無い。
だが、その結果生じる不利益を誰かに押し付けようとするその浅ましいまでの図々しさは、惨めで醜い。
言葉では否定しておきながら、心のどこかでそれを求めてしまう自分の弱さが、気持ち悪い。
自己嫌悪に沈みそうになる。
東条勇麻は弱い。
そんな分かりきった事実が、本物の強さを持つ天風楓の隣へ並ぶ事を躊躇わせる。
加勢しても邪魔にしかならないのなら、勇麻など楓に守られ、流れ弾が当たらないように小さくうずくまっているのがお似合いなのではないか。
勇麻にできる事など、きっと何も無いのだから。
(本当に嫌になるぜ。正義のヒーローが聞いて呆れる。何が南雲龍也の代理品だ。何の関係も無い女の子を頼ろうとするなんて、俺は馬鹿か。こんなの、偽物にすら成れてねぇじゃねぇか)
南雲龍也を演じるには、勇麻はあまりにも無力だった。
(俺は、弱い。そんな事ははっきり分かっている。……いや、遠の昔に分かっていた事だ。俺に南雲龍也と同じだけの強さがあったなら、黒騎士との戦いだって、もっと簡単に決着がついていた)
勇麻は弱い。
(でも……)
だからと言ってこの場面。
得体の知れない四人から、その身に敵意を浴びせかけられている女の子を見捨てるなんていう選択肢は、本当に正しいのか?
足手まといだからと言って、いない方が彼女の負担が減るからと言って、合理性だけを求めて目の前の少女に全てを押し付けて逃げ出すような行為が正当化されるのか?
そんなハズがない。
何度も言うが、天風楓がどれだけ強くなろうが、以前の泣き虫な少女からどれだけ成長していようが、既に勇麻なんか比べ物にならないくらい強かろうが、天風楓が東条勇麻の幼馴染の少女であるという事実は変わらないのだ。
勇麻はいつだって彼女の味方でいたし、これからもそうあり続けるのだから。
だから、
「楓……俺は、」
一歩踏み込もうとして躊躇い、言い淀む勇麻に、楓はニコっと笑いかけ、
「大丈夫だって、勇麻くん。もう小さい頃みたいに守られてばっかじゃないんだから。だから……安心して」
ズキリと勇麻の胸が痛んだ。
楓の笑顔を見た瞬間、どうしようもない程の痛みが胸に突き刺さったのだ。
理由など分かりきっている。
そのふざけた顔を、何度見てきた事か分からないから。
(くそっ! アイツ、作り笑いじゃねぇかよ!)
躊躇っている場合などでは無かった。
目の前の少女は、例えあれからどれだけ強くなろうとも、泣き虫だったあの天風楓なのだから。
(弱いとか、強いとか、そんなの関係ない! 俺はコイツの味方であり続ける。だから──)
勇麻は立ち上がり、彼女の横で肩を並べて戦う為に拳を握りしめようとした。
その時。
「ひゅー、さすがはたった一人で博物館をぶっ壊しまくった女。私たち四人が相手でも自分一人で余裕って訳ですかぁー」
「ッ!!?」
先ほどのやり取りで、おそらくシャルトルと呼ばれていた翠の瞳の少女の挑発に、楓は視線を鋭くする。
その楓の態度が、翠の瞳の少女の言葉が、加勢しようとした勇麻の身体をその場に縫い止めた。
「……アナタ達は何なの? 『神狩り』には見えないけど。わたしに何の用?」
すぐ隣で固まる勇麻を無視して、楓は語気を強める。
その口から出てきた言葉が否定の言葉では無かったという事実を、勇麻は受け入れる事ができない。
どこかフワフワとした、現実実の欠けた世界に自分が飛ばされたような気がした。
もしかしたらこれは全て夢なのかもしれない。
「あははっ! 惚けるんじゃねぇよ優等生様ァ! お前ほどの使い手がアタシらの事知らない訳が無いだろ」
確かスカーレと言われていた赤髪の少女は、歯を剥き出しにして獰猛に笑う、
そのやかましい声に、勇麻の中で不快感が募る。
ああ、本当にうるさい。
今この瞬間だけは、世界に音が存在しているのが憎たらしくてしょうがなかった。
スカーレの言葉に、今度はおっとりとした雰囲気の碧い瞳の少女が微笑んだ。
どうでもいいが、名前は確かセルリアだったか。
「まあまあスカーレちゃん、その辺りにしなさいな。仲良くなるのは構わないにしても、ちゃんと自己紹介もしないでそんな事言うなんて、ちょっと自意識過剰よ?」
「誰がいつ“アタシの名前”の事を指して言ったって!? “アタシら”の事指して言ったんだよ!!」
「まあ。スカーレちゃんてば、一人じゃ恥ずかしくて自己紹介もできないのかしら~。そんなんじゃ友達できないわよ? お姉ちゃんちょっと心配だわ~」
「アタシは小学生かァ!! ていうかなんでアイツと友達になりたい方向で話が進んでるんだよ! アイツはアタシらの標的だろうが! ……仕事中にふざけるのも大概にしてくれよセルリア姉」
「スカーレ、始める前から騒ぎ過ぎ。これ以上誰か来たらどうする気なんですかぁー? セピアも何とか言ってやって下さいよぉー」
「……な」
セピアと呼ばれた黒髪前髪ぱっつんの少女はそれだけ答えた。
「ちょセピア、そこまで言うか普通? ……くっ、アタシの味方はいないのかよ……」
セピアの呟きとも言えないような言葉に肩を落とすスカーレ。本当にこんなのでコミュニケーションが成立しているのだろうか。
「……それで、結局何なの? わたし、今から“夏休みの課題”をしなくちゃいけないから、もう帰りたいんだけど。漫才ならよそでやってもらえる?」
敵意をむき出し、その身に風を纏いながら低い声で楓は言う。
しかしそれは勇麻が欲している言葉ではない。
違う。そうじゃない。そんな言葉の応酬が聞きたいんじゃない。
そんな言葉が感情と共に爆発しそうになる。
「へぇー。“夏休みの課題”ねぇ……」
「……なに?」
「いいや別にぃー。……たださ、“夏休みの課題”をするのは構わないんですけどぉー。もうちょっと自分のやってる事の重大さを考えて欲しいっていうか」
シャルトルはその顔に仄暗い笑みを浮かべながら、
「私達、『背神の騎士団』の標的が『創世会』だけだと思ったら大間違いなんだよこのクソアマ!」
「!?」
シャルトルの放った言葉に今度の今度こそ、勇麻の思考が真っ白にフリーズした。
今、あのシャルトルとか言う少女は何と言った?
自分たちの事を、『背神の騎士団』だと、そう言ったのか?
自分の空耳か、それともおかしな方向に難聴スキルでも発揮したかと、勇麻は現実逃避気味に考えてしまう。
混乱する勇麻の頭も心も、目の前の出来事に付いていけない。
だが、状況は待ってくれなかった。
そして、
その瞬間シャルトルの身体が勇麻の視界から消失した。
耳元で風が鳴る。瞬間移動? いや違う。
これは、楓と同じ……。
「楓!!」
背後でアスファルトの地面が砕かれる轟音が聞えた。
原因は明白。瞬時に楓の懐近くまで潜り込んだシャルトルの放った一撃が、いともたやすく地面を切断したからだ。
もちろん直撃していれば人間の体などタダでは済まない。
が、
「……いやぁー。こうもあっさり躱されると流石にちょっと傷ついちゃうぜ。……流石は干渉レベル『Aプラス』の化け物って所ですかねぇー」
「……アナタ、わたしと同類の力……? でも、悪いけどそれなら負けない」
声のほうを振り向くと、楓はいつのまにか勇麻の目の前に立っていた。
先ほどまで纏っていた風を、直径二メートル程度の小型の竜巻のように変形させ、背中に接続させている。
莫大な力を圧縮した竜巻の翼だ。
その様子を見ていたスカーレは楽しげに笑っていた。
「おい、シャルトルのマックススピードより速いのかよ。……これはひっさびさに手ごたえのある敵さんの予感だぜ」
「……ンなっ」
「お、セピア気合入ってるじゃんか。いいぜフォローはしてやっから行ってきな」
状況に追いつけない勇麻に楓は一瞬視線を向けると、
「ごめんね、勇麻くん。なんだか変な事に巻きこんじゃったね」
「……ちょっと待ってくれ。アイツらが『背神の騎士団』? 一体何が……俺は。楓、お前――」
「勇麻くん、ここは危ないよ。だから……ごめんね。逃げて」
そう言った楓の顔には、笑顔さえ浮かんでいた。
でも、それはただ乱雑に貼り付けただけの偽物の笑みだと、長い付き合いの勇麻にはすぐに分かってしまった。
それを理解した瞬間だった。
勇麻の身体が風に包まれ、ふわりと、足が宙に浮かんだ。
まるで愛おしい人の手を優しく包み込むかのように、風は柔らかな感触で優しく勇麻の全身を包み込んでいく。
浮遊感を感じ、何か叫ぼうとした瞬間にはジェットコースターよりも凶暴な急加速に引っ張られ、勇麻の身体はその場から吹き飛ばされていた。
「く、そっ! 天風……楓ぇぇぇっぇぇぇぇぇぇええええええッ!!!」
天高く舞い上げられた勇麻の叫びはもう届かない。
躊躇い、疑い、何一つ行動に移せないまま、東条勇麻は戦場を退場させられたのだった。
端的に言って、東条勇麻が足手まとい以外の何物でも無いという事実を、起きた結果が告げていた。




