第九話 不穏な雲行きⅠ──動き出す
『背神の騎士団』の臨時アジトを出た勇麻の足取りは重かった。
雲行きが怪しい。
湿った空気はじっとりと肌に纏わりつき、まるで生暖かい鎧を着ているような気分になる。
塩を乗せた海風が勇麻の髪の毛を揺らしていく。
けれどその風も気持ちのいい類の物では無く、うっとおしい粘り気のような物を含んでいるような気がした。
空気が淀んでいる。
不快感。という単語が勇麻の頭の隅から覗く。
本当に、不快だ。
思わず髪の毛を掻き乱したくなる衝動に駆られた。
「結局あれで良かったの? 兄ちゃん」
隣を歩く勇火の問いかけに泉は割り込むと、吐き捨てるようにして、
「ケッ、あんな怪しい奴らの手なんか借りる意味が分かんねえよ。『創世会』の雇った『小さな組織』なんて怖くねえっつーの。あの『黒騎士』より強い奴なんてそうそう居てたまるかよ」
「まあそれはそうなんですけど……。でも、『小さな組織』の方ならともかく『創世会』が出てきたらどうするんです?」
「あ? 何当たり前の事聞いてんだお前。馬鹿か? 俺がぶっ飛ばせば全部終わりじゃねえかよ」
「はあ……。確かに俺が馬鹿でしたよ、泉センパイに聞いた」
勇麻がした事は結局のところ単なる先延ばしだ。
いずれは出さなければいけない結論から、ただ逃げただけだ。
『俺は――今は……、今はまだ、アンタ達を――『背神の騎士団』を信用する事ができない。でも、アンタ達の言う通り『創世会』に睨まれたままこの街で生きて行けるとも思っていない。だから、少し考える時間をくれないか?』
今はまだ信用できない。なんて都合のいい言い訳だろう。自分の臆病を他人のせいにする責任のすり替え。その癖に、相手から見放される事を恐れている自分がいて、勇麻はその余りにも我儘で傲慢な考え方に嫌悪感を催す。
勇麻の出した逃げの回答を、テイラーは快く承諾してくれた。
けれども、テイラー=アルスタインが勇麻の返事を待っていてくれるとしても、『創世会』は勇麻の決心が着くのをゆっくりと待っていてくれる訳ではないのだ。
自分の決断力の無さにも、他人を信じる事が出来ない自分にもイライラする。
勇麻は無言のまま、学生寮への道を歩き続ける。
そんな時だった。
不意に首筋に冷たい水滴が落ちるのを感じた。
「……」
思わず空を見上げる。
ポツリ、と。コンクリートの地面に小さな染みが出来たかと思うと、その染みの数が次第に多くなり、わずか数秒のうちに辺り一面を覆う大雨に変わってしまった。
「は? マジかよ」
「あ、やばい。洗濯物取り込まないと!」
雨脚はどんどん強くなる。
突然の雨に走り出した泉と勇火の背中を眺めながら、勇麻はどこか遠い記憶に触れるように目を細めると、肩を震わせるように息を吐いた。
前を行く二人の会話すら遠くに感じるような、雨音の響く帰り道。
目の前に広がる景色が、どこかピンボケしたように薄れていく中で、勇麻は帰り際の一幕を思い出していた。
『……いやなに、これはさっきまでの話とは全く関係なくなるんだけどさ、君達も博物館襲撃事件の事は知ってるよね? 二週間くらい前から話題になっていたヤツ』
テイラーの話によると、『背神の騎士団』も襲撃犯を追っているらしい。
彼らが襲撃犯を追う理由は分からないし、きっと聞いても教えてくれないのだろう、だからそんな事は別段大した事ではない。
問題なのは次だ。
帰り際、彼はこう持ちかけてきたのだ。
『君たちにも襲撃犯を捕獲するのを手伝ってもらいたいんだ。一種の協力体制ってヤツだ。どうだ、手伝ってくれるかい?』
なぜあの時の自分は首を縦に振ってしまったのだろうか。
勇麻はほんの十数分前の自分の行動を思い出して、自分自身に深い殺意のようなものを覚えた。
なぜ? どうして?
『背神の騎士団』からの協力要請を受け入れ、あまつさえあんな質問をしてしまったのだろうか。
勇火と泉が部屋を出てからわざわざその質問を持ち出した時点で、自分でも何となく分かっている証拠だったというのに。
なぜ。
もしかしたら誰かに否定して欲しかったのかもしれない。
今になって思えば、きっとそんな心情だったのだろう。
期待して、一縷の望みに全てを掛けるかのようにその問いを口にしたのだ。
『テイラーさん。アンタ、その襲撃犯がどんな奴なのか、だいたいの目星とか付いてたりするのか?』
勇麻の質問に、テイラーは首肯すると、惜しみなく協力者に襲撃犯の特徴を伝えたのだった。
『……施設の破壊痕からして、相手はおそらくかなり強力な、それこそ高レベルの『神の能力者』だね。確証は無いが、『風』を扱う『神の能力者』の可能性が高いと思うね』
『ちなみに、これにも『創世会』が絡んでたりする可能性は?』
『……そうだな、今のところその線は薄いかな。今回の犯行からは『組織』の匂いがあまりしないからね。おじさん個人の見解だと何らかの思想を持った『個人』の可能性の方が高いと思うけど?』
聞かなければ良かった。
と、聞いてから後悔した。胸の中に何か靄が掛かったような、しこりのような物が出来ている感覚。
身体の中に手を突っ込んでソレを引きずり出したい。そんな不快感が勇麻の中にわだかまっていた。
『創世会』が絡んでいるとネットで噂されていると高見は言っていたが、どうやらその可能性に関してはあまり期待できそうにない。
勇麻の脳裏に浮かぶのは一人の人物。
勇麻が知る限り『最強』の『神の能力者』で『風』系統の力を持つ者。
「ちくしょう。……ちくしょうっ」
天を見上げると瞳の中に雨粒が落ちてきて、眼球を震わす痛みに一滴の涙が頬の上を流れ落ちた。
それは顔を濡らす雨の水滴に混じって、すぐに分からなくなってしまうのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
玄関の扉を開けて学生寮に戻ってみると勇火とアリシアが洗濯物を取り込んでいた。
「あーくそ、びしょびしょだよ。まさか天気予知がこんなに当たるなんて……。梅雨でも無いのに何でこんなに降るかなー。また洗い直しとか勘弁して欲しいんだけど……」
文句を言いながらも勇火は手際よく雨に濡れる洗濯物を取り込んでいく。
一方のアリシアは、頭の上いっぱいに洗濯物を抱えるようにして、えっちらおっちら運んでいく。
ちゃんとした塊に纏められていなかったからか、下に垂れる何枚かのタオルで床を雑巾がけしてしまうのはご愛嬌。
ついでにその垂れ下がった布に足をとられて、アリシアがひっくり返ってしまった。
ドデッ、と尻餅を着く音が勇麻の耳に届いた。
すっ転んだ拍子に頭上に舞い上がった洗濯物が、キョトンとした表情のアリシアの上に降り注ぐ中、勇麻は口を開いた。
「アリシア、少し手伝って貰いたい事があるんだ。……頼めるか?」
「?」
首を傾げた拍子に、頭の上に乗っかっていた衣服がアリシアの顔を隠した。
モガモガと衣服の山から脱出しようともがくその様子が、小動物じみていて可愛らしい。
呑気にもそんな感想をいだいていると、
「奇遇だね兄ちゃん。俺も丁度手伝って欲しい事があったんだ。……さっさと洗濯物取り込むの手伝いやがれ」
そんな風に、部屋の奥から当たり前の小言を頂戴した。
弟の言葉に慌てて洗濯物を取り込みなが、勇麻は止みそうにない外の雨を睨みつけた。
止まない雨など無いのだということを、どこかの誰かに教えてやらねばならない。
☆ ☆ ☆ ☆
少女は夢を見る。
そこでは少女も少女の家族も友人も、皆が笑顔で笑っていて、誰もが幸せそうに世界を享受していた。
当たり前が当たり前のように目の前に広がっている。
それが嬉しくて、少女もいつまでも笑っているのだ。
けれどそんな幸せにも、いつかは終焉が訪れる。
ポツリ、と少女の頬を何か冷たい物が叩く。
それは徐々に激しさを増し、やがては世界を叩く轟音が辺り一面に響くようになっていた。
唐突に降り出した雨に少女の視界が歪む。
歪んだ視界の中、次々と少女の家族が、友人が、まるで金魚すくいの和紙のように、雨に打たれて溶けていってしまう。
「やだ……みんな、私を置いていかないでよ! 私を……ひとりにしないで!」
声の限りに叫んだ。
喉が破れるほどに大声を出した。
けれど必死の慟哭は雨音が全て掻き消してしまい、大切な人達には届かない。
溶けて消えていく人達を前にして、少女は彼らを助ける為に駆け寄る事すらできなかった。
気が付けば、あれだけ笑い声で溢れていたハズの空間には人っ子一人もいなくなってしまっていた。
泣き叫ぶ事しかできなかった少女を除いて。
雨音で満たされるその空虚な空間で、膝を抱えながら涙を流す少女は、唇を噛み締めながらこう零した。
「ひとりに、しないでよ……」
誰もいないこの場所では、その呟きは誰にも届かない。
独りよがりな願いを垂れ流しながら、少女は自分の罪に苦しみ続ける。
そこに救いなど、ない。
雨は、やっぱり止んでくれなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
時刻は深夜一時。
雨が窓を叩くような音が、不気味な程静かな室内で響いている。
証明の消えた部屋は暗闇に包まれていて、一メートル先もまともに見えない。
「ふぅ……」
静寂を破るそんな吐息と共に、少女は柔らかなベッドに腰を下ろした。
艶のある髪は茶色に染められ、丁度肩にかかるくらいのミディアム。
一房だけ伸ばしているらしく、その長めの一房をヘアピンを使って後ろで束ねている。
優しげな大きな瞳、目元にある泣きぼくろが妙に色っぽい。
総評としては童顔だが、整った顔立ちをしている。
端的に言うなら美少女……というよりはかわいらしさの方がまだ目立つ年頃かもしれない。
少女の名は天風楓。
彼女を一言で表すとしたら、きっとこの単語が相応しいと誰もが声を揃えてそう言うだろう。
『最強の優等生』、と。
事実、彼女の干渉レベルは『Aプラス』。
現在公式に『創世会』に認められている干渉レベルの中で最上位のレベルである。
そのうえ、成績も優秀ときたのだから学校側や『創世会』としては文句のつけようがない。
だが、そんな楓だって人間だ。
そんな完璧な理想像を押し付けられて、勝手に偶像化されても困るのだ。
元々、目立つ事はそんなに好きではない。
出来ることなら、普通の女の子のような生活を送りたいと思っているし、事実少し前まではそうだったハズなのだ。
事あるごとに最強だのなんだのと騒ぎたてられ、路地裏で名前を名乗れば水戸黄門パワーを発揮してしまう。
『天界の箱庭』からは『外』に対する都合の良い広告塔みたいな認識をされているし、異性同性問わずに彼女のファンを名乗る人物からの苛烈なアプローチには、ほとほと辟易している。
正直言ってウンザリだった。
自分が『力』を望んだ理由は、こんな物の為じゃなかったのに。
だからこそ、今日みたいな純粋な出会いは、楓にとってはかけがえのない大切な宝物でもあるのだ。
「うーん、疲れた。でも、昼間は久しぶりに楽しかったな……」
昼間出会った不思議系少女の事を思い出しながら、楓はそう呟いた。
あのアリシアという少女の事も、あの少年の元にいるのなら安心して任せられる。
だから自分はやるべきことをやるのだ。
ただそれだけの為に、天風楓は今この瞬間を生きているのだから。
そう思った瞬間、ズキリと心に痛みのような物が走った。
その事実に、楓は悲しげに微笑した。未だにそんな未練を引きずっている自分があまりにも滑稽で、笑えたのだ。
溜め息をつきながら、楓はその華奢な身体をベッドに沈める。
低反撥の高級ベッドは楓を優しく抱き留める。正直言ってこのまま襲い来る眠気に身を任せてしまいたくなるが、そういう訳にもいかない。
彼女の通う『天門第一高校』はこの街でもかなり有名な高校だ。
進学高の癖に割と自由な校風で、楓が今いるこの部屋も学校側の用意した学生寮などではなく、学校周辺に建てられた高級マンションの一室だ。
地上二三階の最上階。
それなりに高い家賃を払っているだけあって、居住者のプライバシーの管理は徹底されている。
ここは彼女が唯一、周りのゴタゴタから切り離されて安息を得る事のできる場所なのかもしれない。
「でもここで止まる訳にはいかない。私がやるんだ。やりとげなくちゃ、いけないんだから」
少女は決意を新たにするようにそう呟くと、ベッドから起き上がった。
その手に握られた携帯端末の画面には、この街の地図が表示されていた。
目的地を示す青い矢印のアイコンは、画面中央のとある施設を指し示している。
比較的大きな敷地を持つその場所に、天風楓の目的がある。
干渉レベル『Aプラス』だの最強だの天才少女だの、外野から好き放題言われてはいるが、自分の実力は自分が一番分かっているつもりだ。
天風楓にできる事など、そう大した事では無いという事を少女はその身を持って理解していた。
「……一発で成果を上げようなんて思わない。例え小さな積み重ねでも、それが重なる事で目的を達成できるのなら、それで間違いは無いはず!」
塵も積もれば山となる。
少女にできる事などたかが知れているが、それでも、その小さな積み重ねが現状を突破するための取っ掛かりになると、そう信じて。
意識を切り替えた楓は、雨風が吹き込むのを無視して窓を全開にする。
地上二三階の光景。以前までなら目が眩んでいただろうその圧倒的高さを無視して、楓は窓枠に足をかける。
私服のスカートが吹き込むビル風を受けて揺れる。
否、ビル風では無い。
彼女を中心とするように、大気中の空気が、風が集中、収束されていく。
彼女を軸として空気の流れが巻き起こり、中心に立つ彼女はさながら風の衣を纏った天女のようだ。
身につけた衣服がはためく、茶色の髪の毛が踊る。
目を瞑り、高僧の瞑想のように集中状態に入る。
「行くよ」
それだけだった。
彼女は何の躊躇もなく窓枠を蹴り、雨の降る曇天にその華奢な身体を投げ出す。
地球の重力という圧倒的な力に引きずられるのを感じながら、楓は猛烈なスピードで地面目掛けて垂直に落下していく。
常人なら既に気を失ってもおかしくない恐怖の中、楓は全身の力を背中に集中。
「はぁああああッ!!」
雨音をかき消そうとするような、咆哮。
次の瞬間、
背中に絶対的な力が宿る感覚を楓は覚える。
少女の身体を引きずろうとする地球の力、それを振り切るだけの浮力と推進力が可憐な少女の身に宿る。
何が起きたのか、という問いに対する答えは至極単純。
翼だ。
少女の背中に、黒々とした竜巻が接続されていた。
サイズは普通の竜巻から考えればかなり極小。
直径は一番大きなところでニメートル強。
大きさも四メートル足らずしかない。
だが、その小さな竜巻に込められたら力は恐ろしい物だった。
まるで巨大な竜巻を無理やり圧縮したかのように、今にも破裂しかねない程のエネルギーが、少女の背中で渦巻いていた。
猛烈な暴風を発生させるその竜巻が、少女の身体を支える翼となっている。
その凶暴なまでの出力があれば、この落下状態からでも簡単に上昇できるだろう。
だが、落下する少女は敢えてそのスピードを緩める事なく、むしろ竜巻の羽による加速すら加えながら直進し加速する。
景色が流れて流れて流れる。
もはや視界に移る全てが線の流れにしか見えない。
全くブレーキを掛けない楓の落下速度は時速四〇〇キロに到達。
地面が近付く。
近い。
このままいけば、あと数秒後には固いコンクリートに衝突し頭が砕けて、ドロリとした中身をさらけ出す事になってしまう。
いや、この勢いだと靴で踏みつけたありんこみたいに、身体中の体液をぶちまけながらペシャンコになってしまうだろう。
文字通り地面の染みになってしまう。
楓の心に若干の恐怖が芽生える。
だがブレーキは掛けない。
目を瞑れば待っているのは死。
楓は凄まじい風の中、懸命にその目を見開き、迫る地面を睨みつける。
(まだ。もう少し。……今!!)
そして地面スレスレ、視界一杯に灰色のコンクリートの地面が広がった所で背中の竜巻の羽を爆発させた。
轟音。
そしてコンクリートを砕くような音が、楓の遙か後方で聞こえたような気がした。
速度を殺す事なく、地面スレスレで自分にかかるベクトルの向きを効率良く上方向へ変換し、方向転換を果たした楓。
さらに加速しながら進む彼女の見据える先はただ一つだった。
「……私は捕まらない。『神狩り』だろうが何だろうが、全部薙払ってやる!」
北ブロックと東ブロックの境界付近へ凄まじい速度で向かう少女は、決意の籠もった瞳を見開いてそう宣言したのだった。
例えこの街に刃向かってでも、それでも少女は……罪を贖わなければならない。




