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神ナリシ模倣者ト神門審判  作者: 高木カズマ
最終章 承/弐 人世ノ業、詠イ奏デルハ『厄災遊戯』――醜ク愚カナ『人間』ノ物語ヲ貴方ニ
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行間β/断章Ⅳ

 ――【警告】


 本文書は現存する複数の文章の断片を繋ぎ合わせ、一つの文書として成立するように修復・復元されたものです。本文書の内容には致命的な誤りが含まれている可能性があります。これより先に進む場合、本文書によって被るあらゆる不利益に関する責任を本書は負いかねますので予めご了承ください。



☆ ☆ ☆ ☆



 アレクサンドロスの計画の第一段階。その達成は、王族追悼の競技大会にて訪れた。


 多くの王侯貴族や名だたる名士達が出場し、その日々の研鑽を競い合う誉れ高き競技大会。

 現国王ラオメドンの兄、プリアモスとその妻子が襲撃により命を落として二十年目の慰みとして開催された本大会において、ある問題が発生していた。

 優勝を期待される華やかな出場者たちを差し置いて、引き立て役たる有象無象の内の一人、■■■と名乗る貧しき身なりをした羊飼いの美丈夫が圧倒的な成績を収め、競技大会を優勝してしまったのだ。


 あのような卑しい羊飼いに勝たれてしまっては他の参加者の面目が立たないと、彼の優勝を取り下げようと様々な言い掛かりをつける他の参加者たち。

 しかし、■■■に対して難癖をつける彼らの眼前でそれらの雑音を遮らんとする大声を張り上げたのは、イリアス大火の際に■■■の手で炎の中より救出された王女その人であった――


「――静まりなさい! 彼の優勝は何物にも否定できない純然たる事実。それを捻じ曲げようとするのは神聖なる競技大会、ひいては王族に対する侮辱に他なりません。そして、アナタ方の言い分は極めて的外れな言い掛かりに過ぎないのです。何故なら、彼こそは二十年前に王家を襲った襲撃事件唯一の生き残り、アレクサンドロス王子その人なのですから……ッ!」


 女王の宣言に、民衆は沸き上がった。

 競技大会を見物に来た誰もが■■■の事を知っている。既に民衆から英雄として受け入れられていた■■■の衝撃の正体と二十年越しに明らかとなった王子の無事の吉報に、王都では三日三晩に渡って宴が開かれ、人々は大いに食らい大いに騒ぎ盛り上がった。


 ……ここまでの騒ぎとなってしまえば、いくら現国王ラオメドンと言えど、逝去していたと思われていた王子の生還を否定する事は出来ない。


 なにせ■■■が王子であることを愛娘である王女が公衆の面前で宣言し、民はそれを事実であるとし受け入れ、盛大に祝福をあげているような状況だ。

 この流れに水を差すのは最終的に自らの首を絞めることになる――最悪、兄の暗殺が発覚する可能性すらあるとラオメドンは理解していたのだ。


 その為、彼は始末したはずの兄王の息子を、王子の一人として王宮へと迎え入れる他なかった。

 ……幸い、当時のアレクサンドロスはまだ赤子。当時の事を覚えている訳がない。ラオメドンはそう考えたのだろう。


 結果として、アレクサンドロスの望んだ王宮への凱旋は、王女の宣言によってあっけなく果たされた。

 だがそれは、本来であれば王女が知りえないはずの真実だ。

 であればそこには当然タネも仕掛けもある。


 ――エリス。

 後の世において不和と争いの女神であるとされる存在。黄金の林檎を宴の場に投げ入れ、とある戦争の遠因を作ったとされる者。そんな女神の名を冠する少女と出会いを果たした事こそが、アレクサンドロスの運命をこれ以上なく決定付けた。


 今回だってそうだ。

 『魔術』を駆使する彼女の手に掛かれば、王女の発言を操作することなど造作もない。

 いかに王女の発言といえど何の根拠もないその言葉を民衆が疑いもなく信じ込むこの空気を造り出す事さえもだ。


 最早、卵が先か鶏が先かの議論に意味はない。

 アレクサンドロスを主人公とするこの物語の結末が騒乱と破滅であるのならば、その彼に深く関わったエリスを名乗る彼女が不和と争いを引き起こしたという事は紛れもない事実。であればエリスが実際に不和と争いの女神であるかどうかなど実に些細な問題だ。


 彼女が女神であるかどうかに関わらず、彼女の関与によって間違いなく物語は破滅へと進んでいるのだから。

 


☆ ☆ ☆ ☆



 ――『最も美しい女神へ』。

 そう書かれた一つの黄金の林檎。それが騒乱のきっかけだった。


 全ての神々が招かれたとある結婚式の宴会場。そこへ、唯一招待されなかった不和と争いの女神の手によって黄金の林檎が投げ入れられた事により、三柱の女神が対立した。


 神々の女王ヘラ。

 知恵と戦争の女神アテナ。

 愛と美の女神アフロディーテ。


 自分こそが最も美しい女神であると主張する彼女たちの争いを仲裁すべく、神々の話し合いの結果、イリオス王家の正当な王位継承者である■■■を審判役として、裁定が成される事となる。


 それを知った女神たちは■■■に対して様々な賄賂を持ち掛け、審判役の■■■を買収しようとした。

 

 神々の女王ヘラは世界を支配する力、つまりはこの世の王の座を与えることを申し出た。


 知恵と戦争の女神アテナは、ありとあらゆる戦における勝利を約束した。


 そして愛と美の女神アフロディーテは、この世で最も美しい女を与えると宣言した。


 

 審判役として裁定を任された■■■はアフロディーテこそが最も美しい女神であるとして、三柱の女神による争いは愛と美の女神アフロディーテが制する事となった。

 

 選ばれたアフロディーテは約束通り、この世で最も美しい女を■■■に与えんとした。

 彼女は■■■に言う。


『――船を作ってスパルタへと赴き、スパルタ王メラネーオスの妻、ヘレネーを攫って妻となさい』


 ■■■はアフロディーテに言われるがままに船を作り、トロイアの王子としてスパルタに赴くと、ヘレネーをメラネーオスから奪い、イリオスへと帰還してヘレネーを妻としてしまう。

 

 当然妻を奪われたメラネーオスは怒り狂い、ヘレネーの返還をトロイア側へと要求。

 しかし■■■はこれを断固拒否。

 

 メラネーオスは同盟を持ち出し全ギリシアの英雄を招集、トロイア遠征軍を組織すると、ヘレネー奪還の為、王都イリアスへと出陣。


 醜く愚かな『人間』の〝強欲〟に端を発した泥沼の戦争が始まる――

 



☆ ☆ ☆ ☆



 元来、人が抱く『欲望』は悪などではない。


 欲望とは、生物がその生命を維持し子孫を残す為に生じた機能であり、生きるうえで必要不可欠なもの。欲を抱くことはこの世界で生きる為に自然な事であり、そういった意味で無欲な生物などきっとこの世に存在しない。

 

 故に、己が破滅に至るまでの道程を己の欲望なのだと嬉々として語るその男は、生物として致命的に破綻してしまっているのだろう。

 本来であれば生存の為に発生するはずの欲の一切を切り捨ててたった一つを求めるその姿勢は、確かに謙虚で控えめで、慎ましいとさえ表現できる狂った強欲だった。


「――と、これが今回の筋書きだ」


 煌びやかな装飾の施された王宮の寝室だった。 

 天蓋付きのベッドに優雅に腰掛け、器に注がれた葡萄酒を優雅に喉の奥へ流し込みながら、アレクサンドロスは隣に座る最愛の妻に計画の全貌を語って聞かせていた。


「……これを、私が?」

「そうだ。と言っても、お前がやるべき事はいつもとそうは変わらない。俺が女神に裁定者として認められたという事を、事実として流してくれればそれでいい。幻覚、洗脳、流言操作に思考誘導。方法は任せる。俺は明日にでもスパルタへ発つつもりだ。一週間以内に王都は戦火に包まれるだろうから、お前は義父と義母の元にでも戻っているといい。後は全て俺の役目だ」


 己から全てを奪った者達に対する復讐。

 アレクサンドロスから全てを奪った者の全てを奪う。

 それはこの国であり、現国王ラオメドンであり、何も知らずにのうのうとヤツの統治を受け入れる愚昧なる民衆たちさえもその復讐の対象だった。


 エリスに語ったのは、そのための茶番劇。

 神の名を後ろ盾に、自らの欲望に吞まれて国諸共破滅する愚かで滑稽な道化を演じる喜劇めいた筋書きは、アレクサンドロスの王家の強欲に対する嫌悪と侮蔑の滲んだものだった。


 今こそ、全てを奪われたこの身に残った唯一の欲望を叶える時。

 くだらない権力闘争。尽きぬことなき醜い欲望に支配され肉親を殺した現王を、この国を、何も知らずに安寧を貪る民草を、決して許しはしないのだと。

 ただそれだけの為に、国を――世界すらをも巻き込んだ大きな戦争を起こすのだ。


「……あなた」


 今まで誰にも話した事のなかった計画の最終段階。それが突如とし明かされた事に動揺を露わにするエリスは、戸惑った様子でアレクサンドロスを見つめている。その瞳に、揺れる感情を見取ったアレクサンドロスは、


「なんだエリス。質問があるなら今のうちに聞いておいてくれ。問題点があるというのなら、それも今潰してしまおうか」


 淡々と、いっそ事務的な口調でアレクサンドロスはエリスを促した。

 迂遠で壮大な計画とアレクサンドロスの態度との落差に心がついてこないのか、エリスは余計に困惑を膨らませた様子で、口を開く事を躊躇っているようだっだ。


 ……何も無いならこの話はここまでとしよう。何か言いたい事があるらしいエリスの沈黙をあえてそう解釈し、話を切り上げベッドから腰を上げようとして、


「……本当に、このような事をやるのですか……?」


 揺れていた瞳を決意に固め、思い詰めた表情をしたエリスの声に引き止められた。


「? どういう意味だ。お前の力なら決して難しい事ではないだろう? それとも、もう一人のお前(ヘレネー)が心配か? なら、そちらも安心していい。戦争の着火剤として使うだけだ、役目が済めばすぐにでも回収して一つへ戻ればいい」 


 エリスの問い掛けの意味が分からないとばかりにアレクサンドロスは首を傾げる。

 うまく言葉が、意思が、意味が、エリスの伝えたい事が伝わっていないのだ。

 

「……いえ、そうではなくて……」


 ギリシアを巻き込み、トロイアに戦乱を招く。アレクサンドロスの中で、これは最初から決まっていた事だ。

 二十年前のあの日、家族を、地位を、土地を、財産を。すべてを奪われ命を落とすはずだったアレクサンドロスが偶然にも命を繋いだその瞬間から決定事項だった破滅。

 アレクサンドロスの人生には、常にその終着点が大前提として存在し続けていた。 


 だが、エリスにとってはそうではない。

 彼女はアレクサンドロスの未来に破滅を見た。

 とはいえ、その結末は変えられるモノであると考えていた。

 未来に訪れるその破滅が、まさかアレクサンドロス自らの手で招き入れられるモノだとは思ってもみなかった。


 だから。


「……本当に、そんなことをする必要が、今のあなたにはあるのですか?」


 その温度差、認識のズレが、アレクサンドロスとエリスの会話に、ある種の断絶を生じさせている。


「……私には、分かりません。……あなたの過去に、何があったのか。あなたが、戦争を起こそうとしている理由も。それでも私は、あなたが愛する妻として、あなたを愛する妻として、あなたの望むままにあなたを支えてきました。だから、何も聞かなかった。あなたの抱えたモノを知らずとも、私はあなたを救えるのだと、そう信じたかったのです」


 だからこそ、踏み越えてはならない一線を越えてしまった事に、エリスは気付かない。


「……あなたは、今の暮らしが……私や、お義父さま、お義母さまと共にあり、王子の座さえも取り戻した今の生活が……幸せではないのですか? 満たされてはいないのですか? 私は、……そうは思えません。あなたはもう、手にしているはずです。人としての幸福を。それなのに、どうして自らの手で自らの幸せを壊そうと――






「――エリス」



 優しく、肩に手が置かれた。

 聞き分けのない幼子を諭すような声が、エリスの懇願に割り込みを掛ける。

 それは温かく、柔らかい声色ではあったが、同時にそれ以上の反論を許さない優しい拒絶をも孕んでいた。

 アレクサンドロスは今度こそベッドから腰を上げると、数歩だけ歩いた所で立ち止まる。エリスからは表情を伺う事ができない立ち位置だ。


「……俺はこの世に生れ落ちてすぐに全てを奪われた」


 アレクサンドロスは、右手を開いては閉じてを繰り返す。視線を落とした掌の中には当然なにもない。何もない事を再確認するように、何度も何度も閉じて開いてを繰り返す。


「何もかもを失った空の俺に唯一生じた欲望がコレだ。この『強欲』しかないんだよエリス。俺は、この欲望を叶える為の機能しかない。それ以外の全てが不要だ。何せこの身は空だ。失うモノなど何もない。己が命さえもこの身を焦がす俺の唯一、この〝強欲〟の炎にくべてやろう。幸せも、義父も義母も金も王宮での暮らしも地位も名声も愛も何もかも――勿論、お前という妻の存在でさえもな」


 唇を滑るようにして吐き出される言葉には決して烈火の如き激しさや、勢いがある訳ではなかった。

 だが、並べ立てたその一言一句に込められた熱量は、安易に触れようとする者を拒絶する近寄りがたい圧を纏っている。

 静かな、燃え尽きた後の灰の奥深くで静かに再燃の時を待つ種火のような、裡なる激情を。


「……それでも、今のあなたは――」


 それでもエリスは、自分の夫であるその男に手を伸ばそうとして、


 しかしその手は、届かない。


「それでも俺はお前を愛してやろう、エリス。俺に不要なこの愛でいいのなら、いくらでもお前にくれてやる。いくらでも愛を囁こう。愛を求めるその欲望を、俺は否定しない。俺もまた自身の強欲に支配された人間なのだからな」


 ――だから、お前と共に在るのも此処までだ。


「愛してるよ、エリス。永遠に」

 

 自らの生を嘲笑うように酷く空虚な愛の言葉を残して、呆然と目を見開くエリスを一人その場に残しアレクサンドロスは一人スパルタへと発った。


 

 その僅か数日後。

 醜く愚かな『人間』の〝強欲〟に端を発した泥沼の戦争が始まった。


 本当に。

 彼の言葉の通りに、破滅に至るその騒乱は始まってしまったのだ。



☆ ☆ ☆ ☆



 チラチラと。視界の端で炎が揺れている。


 吹きすさぶ風に乗る血臭腐臭、肉の焼け焦げたような臭いまでもが混ざり合ってその場にいる人間の鼻孔をこれでもかとばかりに殴りつける。

 耳朶を叩くは阿鼻叫喚。人の絶叫が混濁したその塊は、それを耳にする者の精神をとガリガリと削っていく。

 まともな感性の人間であれば、三秒で卒倒できる最低最悪の多重奏だ。


 人間がこの星に誕生してから今日まで、幾多の戦場がこの大地に生じ、そして数多の命を呑み込んでは消えていった。

 だがいつの時代もそこにある光景は変わらない。

 武勲、戦士の誉れ、武人英雄英傑による輝かしい武勇伝の数々。誰もが憧れる英雄譚。どれだけ華々しい言葉で飾り立て、美辞麗句を尽くそうとも、その本質は永遠に変わらず、揺るがず、平等に、容赦なく、飽きもせずに地獄と形容されるモノなのだろう。


 イリアスの大地に生じた此度の戦場も、そんな数ある極彩色の地獄の一つだ。

 泥沼化するトロイアとギリシアの戦争において、アレクサンドロスは鍛え上げた弓を存分に振るい、英雄と呼ばれるに相応しい活躍を見せた。

 トロイア側に甚大な被害を与えた敵将の一人を見事討ち取る大戦果を挙げてもいる。

 この戦争を起こした張本人でありながら、アレクサンドロスはトロイアを勝利に導くべく奮戦し続けた。


 だが決着はつかない。否、だから決着はつかない。

 当然だ。

 両陣営、ともに出し惜しみなしの死力を尽くしての殺し合い。どちらも一歩も引かない全力の意地の張り合いにまで発展したこの戦は、最早終わりどころを見失っている。

 なにせ、どちらも失ったモノがあまりに多すぎた。

 ギリシア側の目的であったヘレネーは露と消え、もはやどちらの陣営にもこの戦を止める手立てがなくなっていたのだ。


 全てはアレクサンドロスの思惑通り。

 ……アレクサンドロスがトロイアの英雄? 馬鹿馬鹿しいにも程がある。戦乱の元凶となった男を祀り上げ、どいつもこいつも馬鹿ばかり。自分たちがこのアレクサンドロスの掌の上で踊らされているだけの哀れで愚かな道化だとも知らずに実に滑稽だ。

 王子である自分が最前線に立ち勇猛果敢に戦えば、兵士たちの士気もあがり、文字通り死ぬまで戦ってくれる。

 アレクサンドロスがこの戦争でその弓の絶技を振るう理由など、そんな程度のモノ。

 彼らの死をも厭わぬ蛮勇こそが、祖国を思う決死の想いこそが、絶望的なまでのギリシアとの戦力差を埋めてくれる。

 戦争を激化させ、戦況を膠着状態へと落とし込む。その為にはアレクサンドロスが先陣を切る事が必要だった。

 アレクサンドロスから全てを奪ったこの国の全てを奪う事が目的である以上、折角起こした戦争にあっさり終結されては困るのだから――

  

「……嗚呼、痛い……」


 転がる屍の上、泥と血に塗れたまま這いずる男――アレクサンドロスを名乗る炎髪の弓使いは、己の手で生み出した地獄に今まさに呑み込まれようとしていた。

 

 死体に塗れて足の踏み場もなくなっているトロイアの大地。血と臓腑と脂、糞尿に塗れた汚濁の中にアレクサンドロスは沈み込むように倒れている。

 死体に紛れ、敵の狙いから外れてはいるが、いつまでもこのままでは危険だ。


 早く立ち上がらなければ――無理だ。射抜かれた脚がまるで言う事を聞かない。

 感覚という感覚が壊死し、まるで心臓がもう一つ出来たかのように傷口が脈動している。熱くて、痛くて、痛くて、熱い。 


 矢を受けた右脚の傷自体はそう深くはなかった。

 出血はあるが、命に別状はないレベル。

 この程度であれば問題はない、まだ戦える。そのハズだったのに……。


「……ハハ、は。その時が来てみれば、呆気ないモノだ。流れ矢で死ぬか、俺は……」

 

 アレクサンドロスの脚を貫いた矢には毒が塗られていたらしい。

 おそらくは蛇由来の強力な神経毒。既にアレクサンドロスはまともに呂律が回っておらず、毒矢を受けた右脚は麻痺の症状が出始めていた。


 霞む視界で周囲を見やる。

 

 数多の血を吸い込んだ大地は、死した者達の怨念を讃えているかのように黒ずんでいる。

 戦火に焼かれ、植物という植物が戦場から死滅しているのだ。

 

 破滅、滅亡、終焉。そんな言葉ばかりを連想させる生命の気配が絶えた大地。

 だがそれは、何も此処に限った話ではない。


 長く続く戦争は、国土に荒廃を齎した。戦争による食糧難。田畑はやせ細り、度重なる徴収に民は貧困に瀕している。そんな彼らの血税で以てしてその命を繋ぐ兵士たちさえも疲弊しきっており、最早どこにも余力は残されていない。

 王都イリアスは未だ陥落せず、その威容は健在であるとはいえ、かつてそこにあった民衆の平穏な暮らしは根こそぎ奪われている。

 活気ある人々の笑い声などもう何処からも聞こえない。

 そこにあるのは、その日一日をどうにか生き延びているだけの生きた亡者どもの苦痛と諦観、そして絶望的な未来への不安と恐怖だけだ。


 ……三年。

 迷走する戦争は三年もの長きに渡って国を、人々を、このトロイアを苦しめている。

 誰もが戦争の終結を祈っている。願っている。なのに戦争は終わらない。終わらないから人が死ぬ。人が死ねば怒りが、悲しみが、憎悪が生まれ。産声をあげたそれらの感情はまた新たな戦の火種となる。憎悪と人の死は連鎖する。

 終わらない。止まらない。終われない。

 どちらかが倒れるまで。

 破滅に至るまで。

 その命の灯が完全に尽きるまで、この馬鹿げた騒乱は終わりはしない。


 この終わらない戦争の中、騒乱の元凶たる自分が最後まで生き残れるなどとは、パリス自身思っていなかった。

 だから、この結末にも驚きはない。

 流れ矢に偶然毒が塗られてあったという不運には少しだけ思うところがない事もないが、岩陰からこそこそと矢を射ち放ち敵将を討ち取り、英雄などと讃えられていた卑怯者には相応しい末路なのかもしれないとも思う。


 この目で故国の滅亡の瞬間を見届ける事が出来ないのは残念だが、それだけだ。

 トロイアは既に滅亡が避けられない程に血を流し、疲弊しきっている。

 この国はもう終わりだ。国王ラオメドン共々、そう遠くない未来に崩壊する事は未来予知など出来ずとも分かる確定事項。 

 この国が、他人の女に手を出す性欲野郎の塵のような欲望一つで滅亡するお笑い国家として歴史に名を残すかと思うと、笑い過ぎて腸がねじ切れそうになる。最高に愉快だ。最高の気分だ。ざまあみろ。そう叫んで高笑いしてやりたい。



 全てを奪うというパリスの強欲の達成は、ここに約束された。


 だから、ここで己の命が終わる事にも悔いなどありはしない。


「――……そうだ、トロイアはもう、終わりだ。そして、この戦争は、終わらない……それが、それさえ分かっていれば俺は……」


 差し迫る死。自身の人生の幕切れを目前にして、アレクサンドロスは己の齎したこの破滅に確かな手応えと充足感を感じている。

 己が生涯を賭けて達成したいと思える願いを持ち、ソレを叶える為の目標を設定して、その達成の為に準備を整え地道に努力を繰り返す。

 階段を登るように一つずつ着実に目標を達成し、少しずつ己が欲望へと近づいて、その人生の終わりにその願望を、野望を、欲望を――この身に宿る唯一、何もかもを奪われ失ったアレクサンドロスに残った〝強欲〟をついにこの手で掴み取り、叶えたのだ。


 ……ああ、なんて素晴らしい、実に模範的で理想的な人生とその終幕だ。

 一人の人間として、これ以上に幸福な事があるだろうか? これ以上の人生があるだろうか?

 満たされる。何もかもを奪われ、ずっと空っぽだった自分が、ただ一つの強欲が叶えられた事で満たされる。満たされているのだ、自分はこれでようやく――




 本当に?

                       

                      

           

          お前は本当に、こんな結末で満たされているのか……?





 最初から空だったお前が。


 

                   何も無いお前が。




                         一度も満たされたことのないお前が。



 



            どうして今の自分が満たされている状態だなどと言い切れる?







        ■■■などという名を持つお前が、どうして自分が満たされているなどという確信を持つことが出来るんだ?






 ――ふと、確信に満ちていたはずのアレクサンドロスの思考に、そんな一筋の影が差した。

 


「――……、俺は、満たされて……、満たされている、んだよな……?」


 満たされていたはずの心に、自分自身の状態に、疑問を覚える。思わず、怯えるようにそう口にしてしまって――その瞬間、アレクサンドロスは自身の失敗を悟った。


 呟いた言葉は、明確な形を、力を得る。

 それは不安。

 今の今までアレクサンドロスの心を安らかに包んでいた安堵が、眼前の破滅に対して感じていたはずの手ごたえと充足感が、途端に狂おしいほどの焦燥に反転する。


 一度疑ってしまったらもう止められない。

 この流れはもう変えられない。

 生じた疑惑は一瞬で膨れ上がり、堰を切って溢れ出す。

 その疑いを否定しようとする心の動きそのものが、自らに生じた疑いを肯定する悪循環となって、アレクサンドロスの逃げ場を奪う。奪われる。


「……なんだ。なんなんだ。なぜ、最後の最後でこんな事を……分からない。俺は……俺は今、本当に今満たされているのか……!?」

 

 ――違う。違う違う違う! やめろ。その思考をやめるんだ。その疑問に意味はない。そんな事を考えてはならない。俺は満たされている。満たされているんだ。そのはずだ。そうであるはずだ。そうでなければおかしい。

 おかしいんだ。おかしいから。おかしいから満たされている。満たされていなければおかしい。だから満たされている例え満たされていないのだとしても満たされていると思いこまなければならない。

 アレクサンドロスはこの結末に満足している満たされたのだだってそうでなければおかしいだろうおかしいんだよだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってだってッッ!!! 自分は、アレクサンドロスという人間の全ては、この時、この瞬間の為だけに存在したのだ。

 この身に唯一残った〝強欲〟。それを叶える事だけが、全てだった。


 それなのに、己の存在意義全てを賭けたこの偉業が、この空の身を満たしてくれないと言うのなら。アレクサンドロスにとっての救い足り得ぬと言うのなら。

 アレクサンドロスという男の人生には一体何の価値があったと言うのか。


 最初から最後まで空虚で虚ろな空のままだったなんて、認めない。認められる訳がない……ッ!


 自分が吐いた言霊に心を、感情を搔き乱される。

 それは自らの手で自らに掛けた呪いだ。

 不安と焦燥は身体を蝕む毒の痛み以上の燃え盛るような苦痛となって、アレクサンドロスの精神を蹂躙する。

 

 ……ダメだ。まだだ。まだ終われない。このままでは死ねない。死ねなくなってしまった。

 

 トロイアに滅亡を齎し、唯一残った強欲を叶えたアレクサンドロスは満たされてその人生に幕を降ろしたのだと、そう確信出来るだけの何かがなければ自分は――


「――そうだ、エリス」


 ふいに、アレクサンドロスが愛を与えていた少女の顔が、脳裏に過った。

 理由は分からない。

 けれど、彼女に会いたい。会わなければならないのだと主張する自分がどこかにいる。


「……エリス。行かなくては。そこにきっと……俺の、答えが……」


 毒に侵された身体で汚い地面を這いずって、アレクサンドロスはどこにいるかも分からない彼女の元へ。懐かしのイーデー山へと向かった。



☆ ☆ ☆ ☆



 三年ぶりに訪れた故郷は一見して以前と変わらぬ姿でアレクサンドロスの帰りを待っていてくれた。

 ただやはり戦争の影響はイーデー山にも及んでいて、かつては山中で観察することが出来た動物たちの数が極端に少なくなっており、アレクサンドロスが飼育していた羊などの家畜に関しては一頭たりともその姿を確認することが出来なかった。

 おそらくは、戦争による食糧難によってその全てが食用として出荷されてしまったのだろう。


「……エリス。エリスは、いるか……」


 その身に致命的な毒を受けたアレクサンドロスがイーデー山まで辿り着くことが出来たのは奇跡だった。戦場を抜け出す途中に敵に見つからなかったのは勿論のこと、その命がここまで持った事自体が普通であれば考えられない。

 神経毒は毒の回りが早い。本来であればとっくにその心臓は鼓動を止めていなければおかしいというのに、まるで神か何かの加護でも受けているかのように、アレクサンドロスの命はここまで繋がっている。

 その分、毒による体中の神経という神経を内側から炙るような命を削る地獄の苦痛も長引いていたが、今のアレクサンドロスにとっては心を侵す不安と焦燥を何とかする事の方が重要だった。



 人生の大半を過ごした山小屋へと、かつて羊飼いだった英雄が帰還する。

 だがその凱旋を祝う声はどこにもなく、男の帰りを待っていたのは、荒れ果てたかつての我が家だけだった。


「……今、帰ったぞ。エリス……」


 奇跡的にここまで意識を保っていたアレクサンドロスだったが、その命も今度こそ尽きようとしている。

 イリアスよりイーデー山まで、長い道のりを地面を這いずって進んできたのだ。腕も足も、腹も。地面に接触していた部分は全て皮が捲れ肉が露出しており血塗れだ。

 毒などなくても体力はとっくに限界。衰弱しきっており、いつ命を落としてもおかしくない。


「……義父さん、義母さん。……誰も、いないのか……?」


 それでも最後の力を振り絞り、山小屋の中を這って移動する。

 アレクサンドロスを拾い、育ててくれた義父と義母の姿もどこにも見当たらない。

 王宮へと呼び戻された時点で、彼らももう歳だった。長い戦争の中で既に命を落としてしまったのだろうか……?

 全てを奪われ、何もない。故に失うものなど何もなく、己が強欲を叶える事以外の全てが不要であると豪語していた男の胸が、僅かに疼く。

 ……かつて、どこかで味わった気がする。身に覚えのある不快感に無意識に眉根が歪む。


 自身を襲う意味不明の感覚に、しかし思考を割いている余裕はない。

 この場に、この家にエリスをがいるはずだ。

 エリスに会いたい。エリスに会わなくては。

 この胸を搔き乱す不安と焦燥を取り除き、我が人生の価値の証明を、この心を満たした結末を、一刻も早く証明しなければならない。

 今はその一心のみが、途切れそうなアレクサンドロスの意識と命とを現世に繋ぎとめる唯一の楔だった。


「……頼む……返事を、してくれ……エリス……我が、妻……よ――」


 だから。


「――……はい、なんですか。あなた」


 聞き慣れたその声が、数年ぶりに優しく鼓膜を震わせた瞬間。アレクサンドロスは不覚にも涙が溢れそうになるほどの喜びと安堵を覚えたのだ。


「……おお、エリス。やはりお前は、俺を待っていてくれたんだな……」 


 立ち上がる事もできず、埃塗れの床に這いつくばったまま、顔を上げ手を伸ばす。するとその手を、温かく柔らかい少女の掌がそっと包み込んでくれる。

 アレクサンドロスが愛を与え続けた妻は、エリスは、死に際の夫を優しく見つめて、


「……はい、あなた。待っていました、この時を。あなたが辿る結末を見届ける。それが私の――『特異体』パンドラの作り上げた模倣疑似人格シュミレーター『エリス』の存在意義でしたので」


 まるで出会った頃のような命の温度を感じない彼女の言葉に。何か、違和感を、覚えた。


「……エリス?」 

「……検証終了ミッションコンプリート模倣疑似人格シュミレーター『エリス』:感情エミュレーター、停止を確認。――それでは、実験に協力頂いた観察対象あなたにも今回の結果を報告したいと思います」


 何かが、大切な前提が。決定的な何かが崩れていく。


模倣疑似人格シュミレーター『エリス』の存在意義は特定の感情――すなわち『愛』が他者に与える影響の調査でした。空の器に『愛』を注ぎ、その人物にどのような変化が現れるかを観察する事で『愛』が彼女パンドラの救い足り得るか否かを検証する。破滅を望む空の器、あなたは『エリス』の実験に実に適した観察対象でした。『エリス』は最後のその瞬間まであなたを愛しましたが、あなたを破滅から救う事は出来なかった。それが『エリス』が得た答えです。お疲れ様です、観察対象あなた。ここまでの協力に感謝を。辿り着いた虚ろな結末に祝福を。『愛』では人を救えない、その確証を得ることが出来ました」


 ぺこりと。一度だけ頭を下げるエリス。震える手を握っていてくれた温度が、少女の温もりが、致命的に離れていく。


「待て。待って、くれ。……お前は、さっきから……一体何を……」


 一切の躊躇も迷いもなく、今まさに死へ向かおうとしているアレクサンドロスを置き去りにしてこの場から立ち去ろうとする妻の背中に必死で手を伸ばす。

 そんなアレクサンドロスの想いが届いたのか、エリスはその場で立ち止まり、嫌に規則的な挙動でこちらに振り返ると、こてりと首を傾げた。


「……? 検証は既に終了しましたが。まだ何か?」


 なぜ自分が呼び止められたのか、彼女の無を貼り付けたようなその表情が、アレクサンドロスの懸命の叫びの意味を微塵も理解していない事を如実に示している。 

 その断絶が、その豹変が、彼女との生活の中で確かに築いたはずの何らかの関係性が、ここに消滅してしまったのだという事実となって、アレクサンドロスの胸を貫いていく。


「……さっきから、意味が、分からないんだよ。検証、だと? 空の器とは、俺の、事か? 虚ろな、結末……だと? お前は、お前は俺に愛されたかったんじゃ……だから、俺は……お前に、愛を、与えていたのに……どうしてッ、俺は。俺は俺の唯一の強欲を、生きる意味を叶えたのに……どう、して……ッ」


 命の雫は残り僅か。既に意識は朦朧とし、視界も霞はじめている。血反吐混じりの言葉は途切れ途切れで、アレクサンドロス自身エリスへ何を伝えたいのか分かっていない。

 ただ、それでもアレクサンドロスは最後に知りたかったのだ。


 自分の人生に意味はあったのか。

 この強欲の果てに、空っぽだった自分は満たされることが出来たのか。

 それを知らなければ、死ぬ事が出来ない。終わる事が出来ない。

 だから――


「――はぁ。最後の最後まで愚かな奴じゃの。お主は」


 刹那。

 アレクサンドロスの目にする世界が――否、目の前に佇む少女の存在が、かちりと切り替わった。


「………………………………エリス、じゃ……ない……?」

「ほう、流石にそれくらいは気付くか。お主のような鈍い男にも、おなごの変化に気付くだけの最低限の礼儀はあったという訳か。あとは世辞でも言えるようになればもう一歩前進と言った所じゃの。まあ、次の機会などというものはここで終わるお主には訪れないのじゃが……」


 声や口調だけではない。気付けば、容姿そのものが変わっている。

 肌の色や髪の色。共通点や似通っている点は無数にあるが、そもそも年齢が違っている。エリスは歳若い娘とはいえ十七、八。対して目の前のこの少女はまだ十になったくらいの年齢にしか見えない。


「……呆けた面じゃの。まあ、突然妻が消えて幼女になったのを驚くなという方が無理な話じゃろうしな」


 褐色の少女は自嘲するように鼻を鳴らして、呆けたままのアレクサンドロスに歩み寄ると、汚濁に塗れた死にかけの英雄に憐れみの視線を向け、その傍らにしゃがみ込む。


「……お前は、何者だ? エリスでは……ないのか?」


 近づいた少女の顔をじっと見つめる。エリスの面影はあるが、やはりエリスとは違う顔をした少女のにアレクサンドロスはそう問いかけた。

 エリスのようでエリスではない少女はふるふると首を横に振る。


「……我輩の名はパンドラ。『厄災の贈り物』の名を冠するこの惑星の管理者たる管理神、『特異体』が一柱。『エリス』は我輩が人間と接する際に使用する為に作成した疑似人格じゃ。まあ、人間社会に溶け込む為の一種の『仮面』のようなモノだと思えば問題ないじゃろう」

「……エリスが……疑似、人格……」


 事実を事実として受け入れらず、告げられた言葉をただ繰り返す事しかできない。

 疑似人格。その言葉が意味する所は分かる。

 だが、分からない。理解できない。


 彼女は……エリスという少女は、本当はこの世のどこにも存在しないというのか……? 

 別に、それ自体は構わないはずだ。だって、アレクサンドロスには関係ないことだ。彼女とは確かに夫婦の中ではあったけれど、それはあくまでお互いの存在が互いにとって都合が良かったから。

 相手を利用するだけの、形だけの夫婦で、上辺だけの愛。そのはずなのに……


 ……どうしてその事実に、こうも動揺しているのか。アレクサンドロスにはそれが分からない。


「……結末が違えば、このような事実が明かされる事もなかったのじゃがな。お主にとっても、『エリス』にとっても、酷な結果となってしまった……もういいじゃろう。我輩も、少し疲れた。最後に、答え合わせを望むお主の求めに応じようか。自ら満たされる事を拒んだ虚ろなる空の器の男よ」

「空の器の男……俺が、空……だと?」

「なんじゃ、そこからか。自身を空だと言っておったのはお主自身ではなかったか?」


 呆れたような、面白がるような声色でそう言って、アレクサンドロスを眺めるパンドラ。

 その視線が気に食わなくて、彼女に言葉に反駁するように首を振る。


「……俺は……俺の強欲を、この手で叶えた……今の俺は、空っぽなどでは……」

「それで? その強欲を満たして、お主は満たされたのか? その手に何が残ったのじゃ?」


 からかうような問い掛け、その内容自体は至極単純なものだ。

 だが、言葉に詰まる。

 ……分からない。

 自分が今満たされているのか、今までの人生で一度とて満たされたことのないアレクサンドロスにはそれすら分からないのだ。

 分からないから答えを求めてエリスの元を訪れたというのに、この手に何が残っているかなんて、そんな問い掛けに答えられる訳がなかった。

 

「答えられぬ、か。まあ、そうじゃろうな。それが分かなかったが故に、お主は依然空のままなのじゃから」 

「……どういう、意味、だ」

「――『全てを奪われた。故に、己から全てを奪ったモノの全てを奪う』。……哀しき欲望じゃな。悲惨と言ってもいい。全てを奪われ、何故お主は憤った? 復讐を決意し、それだけが唯一の強欲であるなどと嘯いて見せたのは何の為じゃ? 何がお主をそこまで突き動かしたか、答えてみよ」

「……」

「それすら分からぬとは、つくづく哀れな男じゃ。騒乱に魅入られし強欲の獣よ。お主は、とっくに満たされていたはずの盃を自らの手で逆さにした、それだけの話じゃろうに」


 突き放すようにそう言って、今度こそパンドラはアレクサンドロスに背を向ける。

 失望。

 そうとしか表現できない冷たい視線が突き刺さり、立ち去る少女を引き留めようとする気力を、アレクサンドロスから根こそぎ奪っていく。

 彼女の言葉に反論する気力も、意味もない。

 アレクサンドロスという名の男の人生は、己以外から全てを奪う事に総てを費やしたその生は、虚しいだけの空っぽの生だったのだから。


「――、……」


 奇跡によって生き長らえていた命が、ついに尽きる。

 もはや言葉さえ紡げず、紡ぐ意味すら見いだせず、その絶命を待つだけの何もない空っぽの男。

 満たされて終わるはずだった人生の終幕に、己の無為を突き付けられて絶望する哀れな獣へ、パンドラは振り返らずに言葉を残した。


「……お主の咎は、その不条理な生まれでも全てを滅ぼす騒乱の起因となった事でもない。既に手に入れていたはずの『愛』を、満たされていたはずの人生を、己の幸せ総てを投げ捨ててまで誰かの幸せを奪おうとしたその悍ましき〝強欲〟にある」


 ……何かを致命的に間違えた。

 それは、分かる。だが、一体どこで何を間違えたというのか。

 だって、最初から何もなかった。生まれた次の瞬間には、総てを奪われていたのだ。

 

 ……この身に宿った欲望は……俺から全てを奪ったモノたちから全てを奪えと騒乱の結末ばかりを囁くこの〝強欲〟は――『俺』と言う人間は、本当は何を求めていたのだろうか……?


「お別れじゃ、哀しき人。『エリス』は、少なくとも彼女は、お前の愛によって『感情』を育まれ、お前を確かに愛していたよ。仮初の人格で、偽りの人生だったとしても、な」


 悲しみと後悔と、そして少しの罪悪感。

 そんな感情の滲んだ別れの言葉を『特異体』の少女が漏らした時、既に男の命はそこになく――総てを奪われた男はその手に何一つとして大切なモノを掴めぬまま、その空の人生に静かに幕を下ろしたのだった。

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