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神ナリシ模倣者ト神門審判  作者: 高木カズマ
最終章 承/弐 人世ノ業、詠イ奏デルハ『厄災遊戯』――醜ク愚カナ『人間』ノ物語ヲ貴方ニ
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行間β/断章Ⅲ

 ――【警告】


 本文書は現存する複数の文章の断片を繋ぎ合わせ、一つの文書として成立するように修復・復元されたものです。本文書の内容には致命的な誤りが含まれている可能性があります。これより先に進む場合、本文書によって被るあらゆる不利益に関する責任を本書は負いかねますので予めご了承ください。



☆ ☆ ☆ ☆



「君が必要だ、エリス。俺の妻になってくれ」


「……はい。よろしく、お願いします」



 愛を欲する女と、唯一の欲望を除いて何も欲さない男。

 互いが互いにとって都合が良い、ただそれだけの理由により結ばれた二人の夫婦生活は思いのほか順風満帆に過ぎていった。



「……おはようございます、あなた」

「ああ、おはよう。エリス」


 同じ寝床で共に朝日を迎え、



「……いってらっしゃい、あなた」

「ああ、行ってくるよ、エリス。義父さんと義母さんも、行ってきます」


 家族の為に山へと向かう夫を妻が心配そうに見送り、



「……おかえりなさい、あなた。食事にしますか?」

「ただいま、エリス。そうだな、お願いしようか」


 帰ってきた夫を妻が温かい料理で出迎え労い、



「……おやすみなさい、あなた」

「ああ、おやすみ。エリス」


 一日の最後、月明かりに包まれて二人寄り添い床に就く。



 お互いを尊重し過度に干渉せず、されど寄り添い助け合う。互いへの慈愛と敬意に満ちた二人の関係は、まさに理想的な夫婦そのものであるように思えた。


 あくまで表面上は――






「――エリス。夜遅くに呼び出してすまない。少し、いいか?」

「……はい。私は、大丈夫です」


 義父と義母が寝静まった真夜中である。

 明日の為仕事の為、早々に床についていたはずの二人は、いつの間にか寝床を抜け出し月明かりを照明代わりに山中にて秘密の逢瀬を繰り広げていた。

とはいえ、並ぶ字面に反して、両者のやり取りに男女の仲を想起させるような色っぽさなど微塵もない。


「君と夫婦になって三週間。俺達は、お互いうまくやれていると俺は思う。けれど、少し気になる事もあってね、その事でいくつか君に確認しておきたいことがあるんだ」


 相手の反応を伺うように慎重に話を切り出すアレクサンドロスに対し、エリスは意思の薄弱な瞳を向ける。

 それから、いつも通りややワンテンポ遅れて、


「……はい、なんでしょう。あなた」


 と、首を傾げてアレクサンドロスに先を促した。

 そこに拒絶や警戒の色は見られない。

 アレクサンドロスは少し言葉を選ぶように息を吸って、エリス相手に回りくどい尋ね方をしても意味がないと脳内で論付けると。

 

「……君は自分を占星術師だと言ったが――それだけではないのだろう?」

「……」

「君の本当の力を教えてくれ。そして、俺にその力を貸して欲しいんだ」


 アレクサンドロスがこのエリスと名乗る奇妙な女を己の妻としたのにはいくつか理由があった。

 まず一つは彼女の容姿が磨けば光るであろう美しいものだったという点だ。

 美しい妻の有無は男としての格に直結する。故に、アレクサンドロスは己の欲望の成就の為、近いうちに美しい妻を用意する予定だった。

 エリスの容姿はアレクサンドロスの求める基準に充分に達しており、わざわざ相手を探す手前が省けるという意味でも、彼女を妻とするメリットはあった。

 いくらアレクサンドロスが美丈夫だとはいえ、婚約にはそれなりのハードルがある。


 そして二つ目。

 エリスを受け入れる最大の決め手となったのが、占星術師を自称する彼女の持つ力だった。

 アレクサンドロスの破滅の定めを占った彼女の力。これを上手く利用する事が出来れば、アレクサンドロスが抱く強欲の実現にまた一歩近づくことが出来る。

 こればかりは、どれだけ顔のいい女を見繕ったところで手に出来るかは分からない、奇跡的な幸運だと言えるだろう。

 占星術師。今後の事を考えると、喉から手が出る程に欲しい存在だ――というエリスに対する最初の認識は、彼女と共に時間を過ごす内にいい意味で塗替えられていくことになる。


 明日の天気から一時間後に起きる羊の怪我。さらには一週間後のボヤ騒ぎまで、その目で見てきたようにあらゆる事象を言い当ててしまうエリスの力は、占星術の一言で片付けてしまうにはあまりに未来予知めいていた。


 ……もしかするとエリスは、自分が思っていた以上に特別な存在なのかもしれない。


 アレクサンドロスが彼女に対してそんな疑惑と期待を抱くのも無理のない話だ。

 なにせ、彼女の力が占いという範疇に収まらない未来を見通す予知の力であると言うのであれば、最早それは疑いようもない神の御業に他ならないのだから。

 あくまで例えとして用いたエリスが神の使いであるという言葉が、まさか現実味を帯びる事になろうとは、流石のアレクサンドロスも予想出来なかった。


「……なあ、エリスよ。俺は君を愛している。約束の通り、君が求める愛を俺は君が求める限り与え続けると再び誓おう。だからこそ、君も応えて欲しいんだ。俺の愛に」

「……あなたの、愛……」


 ……アレクサンドロスの勘が正しければ、彼女は自身の真の力を隠している。


 未来予知。

 神にも等しい超常の力。

 そんな力をその身に宿していると知られれば、どんな面倒事が起こるか分かったものではない。多くの権力者からその身を狙われる事になるだろうし、捕まったら最後、奴隷のように一生その力を使わせられる事になるかもしれない。

 結婚した夫にさえ己の力を秘密にしようとしたエリスの判断は正しい。アレクサンドロスが彼女の立場でも確実にそうしているだろう。

 だが、それを理解して尚、アレクサンドロは彼女への追求を辞めようとはしない。


「ああ、そうだ。俺が頼れるのは君しかいないんだ。エリス。恐れることは何もない、君の本当の力を、俺に教えてはくれないか?」


 彼女の警戒心を、疑念を、恐怖を、アレクサンドロスは言葉巧みに少しずつ解いていく。

 華奢な少女の肩を優しく抱いて、美しい紫紺の瞳をじっと覗き込む。決して無理強いはしない。ただゆっくりと、頭を撫でるように優しく懇願し、その秘密を喋るよう促す。

 甘く優しく、見かけだけは極上の愛をアレクサンドロスは彼女の耳元で囁く。

 全ては己が欲望を叶える為。この空の身に唯一残った強欲のまま。エリスの抱える事情などお構いなしに、ただ自分にとって有益であるからと彼女が隠そうとしている秘密へ無遠慮に手を伸ばす。


 そうして、しばらくして。

 エリスの感情の読み取りにくい被造物めいた瞳の至高の輝きの中に、僅かな感情の揺れをアレクサンドロスは見て取って――


「――わかり、ました。あなたであれば、話します。話しても、いいと思います。私は――」


 予想通りに折れたエリスの口から彼女の持つ真の力、その正体が告げられた。




「……はは、ふはははははは!!! そうか、そうか! 只者ではないと思っていたが、まさかここまでとは! やはり君こそが俺の伴侶に相応しい!」

「……あなたは信じるのですか? 私の……言葉を」

「無論だ、愛しのエリスよ。君の言葉を十全に理解したと自惚れるつもりはないが、俺とて人を見る目はある。ああ、君は人ではなかった訳だが……ともかく、俺は君の言葉を疑ってなどいない。そして、たかが人ではない程度の事で私の君への愛は揺らがないよ」


 ……ああ、そうだ。もとより形式上の夫婦。形だけの愛情なのだ。

 中身も芯もない虚構が揺らぐものか。どんな奇怪な現実だって、異常な真相だって、不気味な正体だって受け止められる。

 その力が我が強欲の成就に役立つのであれば。それさえあれば、どれほど醜かろうとも心の底から愛することができるとも。


 表情の硬いエリスを安心させるように微笑みかけ、その紫の長髪を優しく梳いてやる。

 アレクサンドロスの言葉と触れる掌の体温に緊張がほぐれたのか、エリスはその端正な顔に微笑を浮かべて、 


「……それは、良かった。です」

「俺と共に新たな伝説を刻もう。この国に、いや世界にッ、決して癒えぬ瑕疵を残そう。俺と君であれば、きっとやり遂げることが出来る。俺と共に歩んでくれ、エリス」

「……はい、あなた。私に愛を与える人」


 ……己が唯一の強欲。アレクサンドロスから全てを奪った醜く強欲なる愚か者共――すなわち忌まわしきこの故国から全てを奪う。

 国に破滅を齎す『厄災』、予言の子。

 後にそう語り継がれる一人の復讐者の強欲が、この瞬間、確かな指向性を持って動き出したのだ。


 ――まずは、あの地獄へ。王宮へと舞い戻る。


 エリスの力を借りて、計画の第一段階が実行に移される。



☆ ☆ ☆ ☆



 ――この文書にて語られる物語はいずれ神話となる過去語りであり原典である。 


 何分有名な話であるが故、ここまでお付き合い頂いた読者の方にはこの物語が後の世においてどのように語られる何と呼ばれる神話であるのか、既にお気付きの方もいるかもしれない。そんな方々には一つ謝罪を。

 此処で語られる物語がいかに後世の人々が信ずる幻想とは細部が異なるモノとはいえ、その大まかな流れや、最終的に彼彼女らが辿る結末ばかりは揺らぎようがない。

 何か大きなどんでん返しや、神話では語られる事のなかった衝撃的な結末をご期待している方には予めご容赦頂きたい。

 きっと、その結末は貴方がよく知るソレと同じであろう。

 

 そして、だからこそ。

 この場で語られるべきは、誰もが知る神話・伝承におけることの顛末などではなく、彼と彼女の破滅への道行きを、その中で交わされた言葉と感情を描くべきなのだろう。


 何故なら、この物語の主役を張るのは神話の英雄や英傑とは程遠い愚かな人間で。


 騒乱という名の破滅で終わる強欲の物語なのだから――




 ――そんな物語の主役を務めるアレクサンドロスは、己が唯一の欲望――その身に抱いた強欲の成就の為に今日までその生を捧げてきた。

 自らを磨き、高め、思考を続け、策を練り、計画を立案し、布石を打ち、考え得る限り最善の準備を整えて、その時が来るのを忍耐強く待ち付けた。


 で、あれば。一度終わりへと向けて動き出した彼の物語は止まらない。

 坂道の天辺から転がり始めた球体は、その終点まで決して止まらないように、後は勢いよく転がり落ちるのみだ。



☆ ☆ ☆ ☆



 アレクサンドロスがエリスという名の不思議な少女と結ばれてからおよそ一年が経過した頃。

 王都イリオスは、ある青年と美少女の噂で持ち切りだった。





「おいおい聞いたかよ。パストライアスさんの所の話」

「ああ、聞いた聞いた。なんでも、まだ七つの息子が人攫いにあったところを通りがかりの羊飼いに助けて貰ったんだってな。大事にならなくて良かったよ本当に」

「通りがかりの羊飼い? なんだいそりゃあ」

「おや、アンタ知らないのかい? イーデー山からたまに降りてくるとんでもねえ美丈夫がいんだよ。美しい娘さんとの二人連れでよ」

「あー、思い出した! それって、街外れのイダニアの所の家畜を襲ってたっていう狼の群れを一人で退治した凄腕の弓使いの……!」

「私は氾濫したスカマンドロス河で溺れていた兄弟二人を助けたって話を聞いたぞ」

「街外れの洞窟に居ついていた悪霊を払ったって話も……!」

「違う、違う。本当に凄いのは奥方の方だって。なんでも彼女は本物の預言者らしいぞ。夫の英傑っぷりは妻の預言を受けて行動した結果だって」

「氾濫した河を物ともしない正義感に溢れた美丈夫で狼から盗賊、悪霊まで何でもござれの弓の達人の羊飼い。ついでに妻は美少女預言者……? おいおい、いくら何でも盛り過ぎなんじゃねえか?」


 吹聴される噂の数々は、そのどれもがイーデー山に暮らす羊飼いとその妻の大活躍、そしてそれを称賛するものばかりだ。

 初めてそれらの噂を耳にした誰もが思う。

 所詮噂は噂。誰かが誇張した話が独り歩きした挙句に人から人へと伝わる過程で尾ひれがついて原型を留めぬ程に膨れ上がった面白おかしい物語ウソが流れてきているだけだろう、と。


 だが、その噂の全てに複数の目撃者、もしくは当事者が存在し、人々の間で交わされる噂話の流れを辿っていくとそこに必ず辿り着くことが出来るという点が常の噂とはまず異なっている。


 人から人へと口伝で流れていく以上、必ず生じるはずの齟齬すら許さず、一切の誇張なき真実があくまで噂話の体を取って世間へと広がっているのもおかしな話だ。

 それも、決まって彼らの名前だけが判然とせず薄暗闇のヴェールに包まれたままなのだから不思議だ。


 本来、無秩序に面白おかしく拡散されていくだけの噂話では有り得ない奇妙な規則性。

 まるで人の手が加えられたような人工物感がそこにある事に、一体どれだけの人間が気付く事が出来ただろうか――



「――ひとまずは成功のようだな」

「……はい、あなた」


 アレクサンドロス達が王都イリオスに繰り出すようになってから早半年。

 地道に繰り返してきた〝人助け〟という名のプロパガンダに一定以上の成果が表れてきていることを確認したアレクサンドロスは、多くの民で賑わう王都の市場を巡りながら、隣を歩くエリスの紫紺の髪を手櫛で梳いて満足げな微笑を浮かべている。


「……民衆の支持、という土台固めはこれで完璧……です。大層イケメンな羊飼いとして、あなたは王都でも有名人です。……若い女の視線が。危ない……」

「どうしてだろう。お前の言い方だと、俺が酷く軟派な目的で名声を求めているように聞こえてしまうな」

「……ナンパはダメ、ですよ?」

「だから、目的が違うと言っているだろうに。心配するな、俺の愛はお前だけのものだ、エリス」


 一方、アレクサンドロスに髪を梳かれて時折心地よさげに目を細めていたエリスは、夕食に使えそうな食材を見つけた途端そちらに駆け寄っていって、食材を手に取って目利きを始めてしまう。


「……あ。これ、あなたの好きなお野菜……。買っておきます、ね?」

「お、おう。そうか、ありがとう」

「……そうだ。あなた、今日の夕食は大麦のパンと山羊の香料焼きに……」

「んっ、ごほん。――エリス。夕食の話は少し待ってくれないか」

「……? 先に葡萄酒をお選びになりますか? でも、飲み過ぎは身体に毒、ですよ……?」

「あー、いや。そういう訳でもないのだが……」

「? ……あ。でしたら、今晩は王都で食事をして行きましょう。あなたが好きそうな肉料理店を先ほど見かけましたので。たまには、贅沢をしてもいいと思います」 

「あ、ああ。それもまあ、悪くはないが……」


 重要な密話の最中であるというのに、言動が完全に主婦のソレである。

 ……まあ、そちらの方が周囲の目や耳を欺く事にもつながるのでアレクサンドロスとしても都合はいいのだが――緊張感よりも生活感が出てしまっているのはいかがなものかとは思う。

 なにせアレクサンドロスが行おうとしているのは個人による国崩し。反乱や王位簒奪などと言った言葉では収まらない、全てを破滅で飲み込む強欲なる人災なのだから。


(……それにしても、おかしな女だ。以前は話しかけた事にただ応えるだけのつまらない女だったというのに、気付けばこの有様だ。一体いつからこうも喋るようになったのだか)


 この一年で、エリスは大きく変わっていた。

 どこかテンポがズレているというか、茫洋とした掴みどころのなさは相変わらずなのだが、出会った当初のような亡霊めいた世俗離れした雰囲気――同じ時間を生きていない存在と対峙したような印象は今のエリスからは感じなくなっている。

 人間味が増したというか、安っぽい表現ではあるが、以前よりも親しみやすくなったと言えばいいだろうか。


「……なら、決まりです。楽しみ、ですね。あなた」


 にこりと嬉しそうに微笑むエリスに、アレクサンドロスもため息を吐きながらも同意する。拒否する理由もとくに見当たらなかったからだ。


「確かに、二人だけで外食は久しぶりか……」


 呟きながら、一年間もの間よくコレとの夫婦ごっこに根気よく付き合ったものだとアレクサンドロスは思う。

 ――互いが互いにとって都合がいい存在だった。

 アレクサンドロスとエリスの関係の始まりなんてそんなモノで、だからただ相手を利用する為だけに夫婦になったというのに、どうしてだろう。今は彼女との何気ないやり取りが全く苦ではない自分がいるのだから驚きだ。

 ……いや、むしろ彼女と共に過ごす時間に居心地の良ささえ覚えてしまっているような――


(――馬鹿馬鹿しい。居心地の良さ? そんなモノを求める機能は俺にはない。俺にあるのは唯一、全てを奪うというこの強欲だけ。それ以外のモノなど何もかも不要だというのに……)


 ともすればエリスの吞気な空気に引き摺られそうになっている自分を戒めるように自身の考えを否定して、アレクサンドロスは一度瞑目すると声のトーンを一つ下げた。

 

「……夕食の話題はともかく、だ。先も言ったように、事は当初の予定通りに進んでいる。既に俺達の存在は王都中に知れ渡っていると言っても過言ではない。王宮にも俺達の評判が届いていることだろう。後は、俺の王子としての名を表に出すタイミング次第、と言った所だが」


 ここまで総てはアレクサンドロスの計画通り。 


 都合のいい目撃者も。

 都合よく眼前にて発生する問題も。

 それを完璧に解決するアレクサンドロスとエリスの存在も。

 その全ては彼らの自作自演マッチポンプ

 占星術師を名乗るエリスが持つもう一つの顔――彼女が有するとある秘奥の儀を用いて創り出したモノに他ならない。

 

 子供が人攫いに狙われたのも、狼の群れが家畜を襲ったのも、嵐によって氾濫した河川に子供が近づいてしまったのも、悪霊の発生も、その全てにエリスの異能が関わっている。

 当然、流布している噂の流れを人為的に制御、操作しているのも彼女だった。


「それにしても便利なモノだな、『魔術』というものは。人を操り、幻を見せ、未来を見通す。まさに我々が信じる神とその神の力そのものだ。俺にも使う事が出来れば良かったのだが……」

「……それは、不可能です。アナタ達人間には、『魔力』を制御する為の器官がありませんから……」


 エリスの扱う『魔術』は文字通りの神の力。人々が信じ奉る神々と、彼らが振るうとされる権能のまさに原典とでも呼ぶべき力だった。

 当然、単なる人間であるアレクサンドロスに扱えるような代物ではない。

 アレクサンドロスも、それを分かったうえでの発言だったのだろう。エリスの言葉に軽く頷いて、


「まあ、いい。それで、スパルタの方に紛れ(・・・・・・・・・)込ませたもう一人の(・・・・・・・・・)お前(・・)の方はどうなっている?」

「……ええ、そちらも問題はない、です。ですが……」


 話題が切り替わった途端、その表情を分かりやすく曇らせるエリスに、アレクサンドロスは怪訝そうな視線を向ける。

 いくらか柔らかくなったとはいえ、エリスは表情の変化に乏しい方だ。

 その彼女が、ここまで分かりやすく不満を表情にするというのは珍しい。当然、アレクサンドロスとしてはエリスの不満を無視はできない。


「なんだ? 問題がないと言う割には浮かない顔だな。何か心配ごとでもあるのか? 我が妻よ」

「……いえ、その……問題はない、のですけど。あなたは、よろしいのですか……?」

「何がだ?」


 要領を得ないエリスの質問に質問で返すと、エリスは僅かに発言を躊躇うような間を空けて、


「……ですから、その。彼女・・は幻ではなく文字通りの私です。私は既にあなたに愛を頂いているあなたの妻です」

「そう言っていたな。自らを二つに分離させる秘術など、誰も想像できないだろう」

「……その私が、この私ではないとはいえ、他の方からの愛を頂くなど、私に愛を与えてくれるあなたに対して不貞ではないでしょうか……?」


 夫を気遣う妻としてエリスの心配に、アレクサンドロスは「ああ」と納得したように一度頷いて、


「そんな事を心配していたのか。大丈夫、問題はないとも。これも計画の為だ。俺の君への愛はその程度の事では揺らがないよ――」


 不安がるエリスを安心させるようにそう言って、アレクサンドロスは彼女の頭を優しく撫でつけた。




 ――微笑むアレクサンドロスの大きな掌が、エリスの頭を優しく撫でつけている。


 その感触は嫌じゃない。むしろ、好ましい。

 心地良さを覚えるし、胸の内側がぽかぽかと温かくなる不思議な感覚がある。 

 けれど同時に、エリスはアレクサンドロスとの触れ合いが堪らなく物悲しい。

  

(……何故、なのでしょう。この胸の痛みは、一体……?)


 エリスはその逞しい掌に身を委ねるように瞳を閉じて己の夫の言葉に頷きながら、閉じた瞼の奥の瞳に自覚すらない悲哀の色を浮かべていた。

 そしてそんな彼女の様子にアレクサンドロスが気付く気配はなく、それが一層彼女の嘆きを増幅させる。


 この、触れ合う体温に感じる悲哀と同じように。彼の心が此処にはないという事実を、否応なしに突き付けられてしまうから。


「……そう、ですか。それなら、いいのです。私は……」

 

 隣を歩く夫の言葉に嘘はない。

 アレクサンドロスはきっと、もう一人のエリスが他の男に愛される事になったとしても欠片も揺るがないのだろう。

 その程度の事は問題にもならないと、誓いの言葉通りに今までと何ら変わることなくエリスを愛するのだろう。


 だが――


(……私の探している『愛』。彼女(・・)が欲し、そしてその掌から取り零してしまったモノ。最終的に求める結果が、確証が得られれば良いのですけど……)


 ――嫉妬も執着も依存も、一切の欲がない男の語る愛。

 果たしてソレは真に愛と呼べるものなのだろうか?


(……分かりません。私は、『愛』を知りません。ですから、これが本当に彼女(・・)の救い足り得るモノなのか、分からない……)

  

 そう。問題はそこなのだ。結局、『愛』を探しているエリス自身、『愛』というものが何であるかを十全に理解出来ていない。

 記憶という名の情景として、感情という名の情報としてソレを知っているだけ。実際にソレを体験したのは彼女ではない彼女(・・)なのだから。

 実感の伴わない知識に意味はなく、故に彼女はソレを探し求めアレクサンドロスと出会い、つがいとなった。


 全ては、己が存在意義を果たす為。


(……分からないですけれど。それでも私は、望んでいるのでしょう。彼女(・・)にとって。そして、彼にとっても良き結末が訪れることを。それがきっと、私にとっても良き結末となるのですから……)


 幼き頃に全てを奪われたという夫の逞しい腕を見る。

 妻を持ち、家庭を得て、夫となった男の腕には今、一体何が抱かれているのだろうか。

 そこに、自分という存在は。彼の妻となった女と、その愛は抱かれているのだろうか。

 ……ほんの少しでもいい。願わくば、何もかもを失い空となった彼を満たすナニカに自分がなれていればいいと、そんな事をエリスは思ったのだった。

 


☆ ☆ ☆ ☆



 噂の拡散。自作自演の英雄劇。

 既に民衆から一定以上の支持を得ていたアレクサンドロス。その評判を揺るがぬモノへと変えたのは、後に『イリアス大火』と呼ばれる事になる大火災だった。


 全焼百四十七棟。死者三十二名。負傷者七十八名。トロイア史上最大とも言われる大火災において、アレクサンドロスは獅子奮迅の大活躍を見せ、二十六もの人命を救助。さらには王宮を抜け出し市場を訪れていた現王女を助け出すという勲章モノの功績を挙げたのだから。

 

 ――尤も、市場に火を放ち三十二名もの尊い命を奪ったのもアレクサンドロスその人ではあるのだが。


「すみません、王女様。出来る事ならば王宮までお見送りしたいのですが……まだ逃げ遅れた人々がいるかもしれませんので、私はこれで――」 

「ま、待ってください! ――あ、あの……! お名前を、お聞かせくださいませんか?」

「私はしがない羊飼い。王女様に名乗る程の者ではないのですが……王女様に名を尋ねられ答えぬというのも無礼というもの。――私は■■■。イーデー山の■■■と申します、王女様」


 これまで意図して伏せてきた己の名。■■■の名前を名乗るタイミングとしてはこれ以上とない好機だった。

 今日までゆっくりと時間を掛けて準備を進めてきた。王都全体には、既に■■■という英雄を受け入れる土壌がある。土台がある。基盤がある。

 今回の一連の騒動がアレクサンドロス自身の手による自作自演の売名行為などとは、誰一人として疑うまい。

 仮に噓のようなその真実が噂として市井に出回ったとして、■■■という英雄を信じたい人々の手によって抹消されるだろう。

 既に、無辜の民を救う羊飼いという英雄像は王都の人々の心に根付いているのだから。


 炎と黒煙の中、絶体絶命の王女を助け、その王女自身が彼の手で助けられたことを証言したことによりアレクサンドロスの――もとい、■■■の名声とその評判はいよいよイリアスで知らぬ人がいない程にまで膨れ上がっていた。



 そして――

 

「――聞いてくれエリス。次の競技大会、俺も出場が決まった」


 ある晩の事だ。王都イリアスから帰宅したアレクサンドロスは、台所にて食事の用意をしていたエリスへと開口一番にそんな事を報告した。


「……そう、ですか」


 優勝者はその年の勇者として讃えられる競技大会。 

 その由緒正しき大会の優勝景品の一つとして、アレクサンドロスの元で飼育されている牛が徴収される事となったのだ。その決定を受け、アレクサンドロスは牛を提供する代わりに自らを参加枠にねじ込むことに成功していたのだ。

 喜びの声をあげるアレクサンドロスに対してエリスの反応はどこか鈍い。だがアレクサンドロスは、そんな彼女の異変に気づくことなく上機嫌で言葉を重ねていく。


「現国王ラオメドンは記憶に混乱があるらしい。二十年前のクーデター、己が王位に就くために父上たちを暗殺させた一連の事件を賊どもの仕業であると思い込んでいるらしくてな。此度の大会は父上たちが亡くなって二十年目の慰みなのだそうだ。……くっくっく、滑稽な話だとは思わないか? まさか亡霊となる前に己の慰霊祭に出場する事になるとはな。いや、ヤツにとって俺は既に死んだ人間、亡霊も同然か……」


 これで全ての準備は整ったと、アレクサンドロスは愉快げに笑う。

 本来であれば、ふざけた出鱈目を抜かした悪逆非道にして厚顔無恥の現王の五体を今すぐに八つ裂きにして野良犬の餌にでもしてやりたい。それ程にラオメドンの発言に対して腸が煮えくり返っているアレクサンドロスだったが、まだヤツを殺す訳にはいかないのも事実。

 ヤツを殺す為にも、一刻も早くこの国から全てを奪わなければならない。そうでなければ、アレクサンドロスの唯一の欲望が叶えられることはないのだ。


 そして、その瞬間は着実に迫ってきている。


「……包囲網は完成した。貴様の逃げ場などもうどこにもないぞ、ラオメドン」


 王宮主催の競技大会は毎年大きな盛り上がりを見せるイリアスの一大イベントだ。

 この前の火災からの復興を国民や周辺国家に見せつける為にも、例年にも増した大規模な物が開かれると聞いている。

 王族は勿論のこと、英雄■■■を慕う多くの民衆も観客として集まるだろう。 

 

 アレクサンドロスにとってはまたとない絶好の機会だった。



 ……己が愛を捧げた妻の表情が曇っている事に、やはり彼は気付けない。

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