第六十七話 一月五日 記録Ⅸ――VS.『七つの厄災』〝強欲が果ての騒乱〟/祈りよ堕ちよ、諦観へ沈め
――ザっ、ザっ。何もない、焼け落ちた地平に、砂を食むような男の足音が響く。
静かな歩みだった。
いくつもの致命傷を受け、既に男の身体は死に体だというのに、その歩みには迷いがない。恐れがない。痛みすらも感じさせない。
実際、ロジャーは痛みも恐れも感じてなどいなかった。
正確には、最早そんなものを感じていられる段階はとうに通り越している、というのが正しいか。
生命を維持するための機能は既に底を突いていて、だからこそ痛みも恐怖も感じない。
戦うことは愚か、生きている事さえ儘ならない。
単に死が現実に追いついていないだけの動く屍、それこそゾンビだなんて例えはあまりに陳腐で笑ってしまうが――まあ似たようなモノだろう。
今のロジャーを突き動かすのは言ってしまえば慣性のようなもの。
『厄災』の拳を砕くなどという偉業を成そうとも、この身が既に死に体であるというその事実は変わらない。
それでも。
立ち上がり、意思があり、動くことが出来るのならば。
こけおどしとしとしては十分。
己の果たすべきを果たすには十二分だ。
「……何故だ」
崩れた右手を抑えたままのアレクサンドロスが忌々しげに口を開いた。
「……その身体、いくら遊戯のルールで蘇生されるとはいえ、神の力を発動させるだけの余力なんてないはずだ」
『厄災』の男は、立ち上がり、あり得ないはずの一歩を重ねて自らへ届かんとする動く屍を、殺意と憎悪の籠った瞳でねめつけている。
「有り得ない……俺は奪ったはずだ、お前の悉くを。戦う力も抗う意思も既に……! それなのにッ、どうして動ける。何故戦える! 歩みを、何故止めないのだ貴様はッ!」
軽薄な鍍金が剥がれ落ちた、男本来の口調が滲んだ剥き出しの怒号。
それは怒りであり、それ以上に恐れであり怯えだった。
『厄災』と化した男にとって、他者から全てを奪う事は文字通りの『全て』。
それを否定される事は、全てを奪って尚立ち上がり突き進もうとするロジャー=ロイの姿は、全てを奪われたが故に全てを奪う事に人生を捧げた男にとって決して受け入れられない悪夢に等しい。
何故ならそれは、強奪だ。
その身に宿った唯一の〝強欲〟が囁くままに行動し願いを叶えた男の末路を『空虚な空である』などと嘯いた彼女と同じ。
絶対に看過できない男の人生に対する略奪行為だ。
『厄災』と化した今の自分は、あの言葉を否定するただそれだけの為に――
「――止まれ、屈しろ、諦めろ……ッ! それ以上、俺から奪う事は、許されない……ッ」
憎悪の中に嫉妬や妬みのような感情が見え隠れするアレクサンドロスの絶叫に、ロジャーは「ああなんだ、そんなことか」と鼻を鳴らすと。
「そう睨むなって、おっかねえ。……別に、戦う力も抗う意思も残っちゃいねえよ。お前の言う通りだ、あらゆるモンを奪われた俺の身体はボロボロで、今立ってるこいつは搾りかすみてえなモンだ」
「ならば、その干渉力は一体――」
「言ったろ。お前でも奪えねえモノがあるってな」
ニヒルに不敵に、いっそ勝ち誇るようなふてぶてしい嘲笑を引き裂いた。
「……あり得ない。俺は、貴様から全てを奪う。奪う事が、俺の意味だ。この身に宿った唯一の欲望だッ! それを、それを貴様は……ッ」
「奪えはしねえよ、お前なんかにはな。お前は俺から全てを奪うからこそ、唯一残ったコレだけは、絶対に奪えやしねえよ。俺のこの――」
そうだ。いかにアレクサンドロスが全てを奪う〝強欲が果ての騒乱〟であろうとも、こればかりは絶対に奪えない。
奪えるはずがない。
誰もロジャーからそれを奪う事が出来なくて、手放す事も不可能で、だからこそロジャー=ロイという男は永遠に苦しめられているのだから。
「――クソったれの『諦観』だけはな」
ロジャーの言にアレクサンドロスは目を細める。
「……諦観……だと?」
予期せぬ答えを訝しむような声だった。
そんな反応をされると思わず苦笑が漏れてしまう。
何故ならロジャー=ロイの辿り着いたその答えは、意外でも奇をてらったものでもなく、あの日から永遠とロジャーに付き纏ってきた感情だったから。
(――ああ、最悪の気分だ、胸糞が悪い)
……ああ、そうだ。
わざわざ思い返すまでもない。ロジャー=ロイという男の人生は、常に何かを諦め続けてきた人生だった。
(……ずっとだ。さっきからずっと、手足の震えが止まらない。視界はぼやけて何も聞こえねえってのに、気持ち悪いくらい精密に、身体が音の振動まで拾いやがる)
諦めて諦めて諦めた。
英雄への憧れも、理想も正義も、幼き頃の夢も希望も何かも。悉くはこの腕の中で壊死していったから。
諦めるしか、ロジャー=ロイには道がなかった。
(……ずっとだ。我が身可愛さから守るべきガキを手に掛けたあの日からずっと。こびり付いたヘドロみてえに、いつまで経っても消えやしねえんだ、この気持の悪い『諦観』が……)
諦めて諦めて諦めた。
守るべき命を。倒すべき命を。救うべき命を。誰かの命を諦めた。
築き上げるは屍山血河。積みあげた罪に、己の命の価値を諦めた。
人である事を諦めて、心を持つことを諦めて、兵器として破壊と殺戮を振るい続ける。
それがロジャー=ロイという男の人生だ。大切なものを諦める事でしか何かを得られない。何も成せない呪われた生。
祈りは堕ち、諦観へと沈む人生に光はない。
ヘドロめいた闇の中を、途方に暮れてさまよい歩く恐怖に震える迷子こそが自分だった。
「……諦めるという感情が、貴様に残った唯一だと言うのか?」
「ああ、そうだ。お前の欲望と同じ、この諦観こそが俺に残った唯一無二だよ」
決して短くはない己の半生を通して至った結論に、ロジャーは諦めたように肩を竦める。
そんなロジャー=ロイの答えのどこが琴線に触れたのか、アレクサンドロスは心底嬉しそうに呵々大笑して、次の瞬間には取り繕った粗野で軽薄な口調を取り戻していた。
「くくく……はははははははは!! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッ!!! ……ああ! そうか、確かにそれは――俺でも奪えねえかもなぁ! だがそんなモノが残った所で何が――っ! ……いや、待てよ」
言葉の途中で、アレクサンドロスが何かに気付いたようにハッとする。
「……まさか、アンタのその馬鹿げた干渉力の上昇は……ッ!」
「さてね、知らねえな。なにせオジサン、全てを諦めてるんでな。どうでもいいんだわ、その辺の細かいコトは」
望んだものは総じて掌の隙間から零れ落ち、何一つとして残らない。
全てを諦めるしかなかった、かつて英雄に焦れた青年の諦念に底はない。
(……我ながら、最低で最悪の人生だった)
それでも手にしたいと希ってしまった最後の望みがあった。
一寸先だって見通せないような闇の中。一筋の希望と、彼女と出会ってしまったから。
(――それでも。ありがとう、ユーリャ=シャモフ)
諦観に沈んだ闇の中、少女の憧憬に呪われて、英雄という光を見た。
全てを諦めたはずの人生で、彼女と共に在ったあの瞬間はキラキラと歪な程に輝いて、諦めるだけだったロジャーの人生にもう一度命を吹き込んでくれたのだ。
(俺に夢を見せてくれた女の子。英雄に憧れていた男は、お前のおかげで確かに英雄になれた。例えそれが、噓で塗り固めた、一時限りの偽物だとしても――ああ、最高に幸福な夢だったとも……!)
現実は冷たく、理不尽だ。
平等に不平等が襲い掛かり、弱者は強者に貪り喰われ、祈りは届かず願いは叶わない。
救いの手などどこにも現われはしない。
理想も夢も憧憬も。
正義の味方も英雄も。
そんな綺麗なだけの絵空事じゃあ、何も救えない。
それでも人は、綺麗なものに憧れる。
だから縋り続けた。
ありもしない幻想に。
希った綺麗な祈りに。
英雄になんてなれはしないと、そんな理想では何も得られない何も守れないと誰よりも知っていたのに、自の手が血に塗れ薄汚れて醜くなればなる程に渇望する。
人は、その輝きに身を焼かれると知って尚その手を輝きへと伸ばしたくなってしまう愚かな生きものだから。
けれど、男の人生は諦める事と同義で、それらを諦めないでいる限り、何かを掴むことは絶対に有り得なくて。
嫌悪すらしていた綺麗なそれらをどうしても諦めきれなかったが故に、ロジャー=ロイは望む悉くをその掌から取り零す運命を背負い続けた。
……ああ、そうだ。かつては足りず、届かなかった。
何もかもを諦めると宣言しておきながら、その諦観に沈まない希望があったから。
祈りがあったから。
光があったから。
そして――
(成すべき事は分かっている)
――ユーリャ=シャモフが、いたから。
(以前、一度だけ似たような事をしたことがある)
だから届かず、至れなかった。
(ユーリャが攫われて、エアルの野郎を追って……逆に、俺の方が追い詰められたあの時――)
諦めていれば救えたはずの何かを、諦めきれなかったが故に救えない。
そんな無様な矛盾も道化めいた絶望も、神にとっては垂涎ものの馳走で、だがそれでも定められた値には届かぬからと、諧謔心故に与えるべき恩寵は与えられない。
諦めなかったが故に壁に手を掛け、諦めきれなかったからこそ壁を越えられない。それは悲劇かそれとも喜劇か。
ともあれ、そんな停滞ももう終わる。否、終わらせる。
(――あの感覚を、思い出せ。精神状態を意識的に再現しろ。そのうえでもう一歩、諦観へと踏み込め。なぁに簡単だ、総てを諦める。ただそれだけでいいんだから。得意だろ、そういうの)
己の感情を意識する。
己が裡で暴れ狂う力の指向性を外から内へ。
自分自身への意識的な干渉を開始する。
己が起こすべき事象は理解している。
鍵となるキーワードも把握している。
『諦観』。
ロジャー=ロイの人生において、それ以外はあり得ない。
深く。深く。闇の中へと潜っていく。意識を、深淵へ。諦めの底、負の極点へと向かう己の感情の加速が主観世界の時を止め、どこまでもどこまでも独り落ちて堕ちて沈んでいく感覚に身を任せて――
(――諦める。理想を英雄を、夢を命を憧憬を――諦める)
ずっと昔に諦めた事だ。
ロジャー=ロイはそれらの無価値を。無意味さを知っている。
けれど同時に、それらが綺麗で美しくて尊いモノだという事も理解していて――だから血に汚れた自分とは相容れないのだと、諦める事が出来る。
(――諦める。女王の正義であることを。絶対無敵の最強の矛であることを。世界平和を――諦める)
この身この槍こそが女王の正義。
敬愛する女王エリザベス=オルブライト。彼女の掲げる絶対正義そのものとして、女王の槍ロジャー=ロイに敗北は認められない。
されど既に無敵神話は脆くも崩れ去り、矛盾さえ穿つ絶対無敵最強の矛など最早どこにもありはしない。だから、そんな自分に女王の正義を名乗る資格はない。
故に、虚勢を張ることなくきっぱりと諦められる。
(――諦める。心を。人であることを。大切なひとたちを守ることを――諦める)
兵器としての在り方を肯定しながら敗北を、失う事を、奪われる事を恐れ続けた。
合理性を追及し、理想ではなく現実に生きようとした男は、それでも人間である事を捨てられなかった。感情を排しきれなかった。
守りたいと願う大切な人たちが、脳裏に浮かぶ。
ロジャーを最後の最後で人間たらしめていた光。そんな人達のことを――諦める。
ロジャー=ロイはどうしようもない人殺しで、大切な人の肉親をこの手に掛けたような男に、彼女たちを守る資格などありはしないのだから。
そうだ。
ロジャーはもう、青臭い綺麗ごとを無邪気に信じていられるような子供ではない。
人生と諦めとを積み重ねる中で、少年は青年へ。
青年はいつしか汚い大人へと成長している。
大人の夢とは醒めるもので、終わるもの。
随分と寝坊してしまったが、いい加減、夢から醒めるべきなのだ。
笑ってしまう程に当たり前の事だけれど、夢を見ている間、人は辛く厳しいこの現実を生きる事が出来ないのだから。
だから今こそ。夢から目覚め、全てを諦め、そして総てを終わらせよう――
(――諦める)
祈りは堕ちた。/血が沸騰する感覚。
(――諦める)
総ては諦観へ沈み往く。/視界が白熱し白濁する。
(――諦める)
定められし鍵、特定の感情の上昇を確認。/感情値は閾値へと至る。
裡なる神は自儘に傲慢に。
矮小なる青年が自らに刻み込むその葛藤を、その強欲を、その諦観を、この世の何よりも愛で、慈しむ。
無邪気に残酷に酷薄に。
それこそ虫の手足を捥いで遊ぶ純真無垢な子供のように。
捧げられた極上の『諦観』に全身を巡る血潮が、そこに宿る神の性が、歓喜に震え暴れだす。
そんな己を俯瞰するような意識が、自身の『神性』の急激な上昇と、それに伴う干渉力の爆発的膨張を確認する。
――時は満ちた。さあッ、今こそ人の想いこそが至上の馳走であると高らかに!
自らに捧げられし贄に涎を垂らし、次の領域へと手を届かせんとする勇者に祝福を……!
神々の饗宴をいざここに――
想いを代価に、報酬には真なる力の覚醒を。
眼前に立ち塞がる『壁』を乗り越えた先に広がるは神世界。新たなる領域へと至るべく、滾るその血が導かん。
それは謂わば内的御供。
己が裡に潜む神へと、自らの感情を贄とし捧げるある種の神的儀式。
「俺は俺を――」
底なし沼の如き男の諦観を飲み下し、神は恩寵を男に授ける。
全てを諦めようやく手の届く、絶望的な諦観すらも打ち砕く破壊の力。
悉くを諦めて古き己を打ち砕き、諦観の先へ。新たな己を再構築しろ。
それすなわち――
「――諦める」
囁くような小さな呟きが世界に堕ちたその刹那だった。
宇宙開闢の如き白閃が世界を瞬時に染め上げたかと思うと、直後に赤黒くおどろおどろしい亀裂が放射状に純白を駆け抜けて――甲高い破砕音が響き渡って、既存世界の法則を打ち砕き―――、―――――――。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――震える破壊の断絶が総てを覆った。
☆ ☆ ☆ ☆
決着の前に、再度、戦況を確認しよう。
――厄災遊戯:『欲物狂争』に割り込む形で展開されたアレクサンドロスの第二遊戯:『覇名彙徴問愛』。
単純な戦闘能力や実力だけではなく、心理戦的な駆け引きや運の要素が重要となってくるこの遊戯は、一見して参加者であるロジャー側に有利なものであるように思える。
だが実際はユーリャ=シャモフという存在を餌にロジャーから選択肢を奪い、逆にその悉くを強奪する為だけに用意された、ある種の袋小路的な構造をした悪趣味な遊戯だった。
当然の帰結として、ロジャーは予定調和的に敗北を積み重ねる事となる。
なにせ相手は〝強欲が果ての騒乱〟アレクサンドロス。
遊戯の進行に著しい影響を及ぼすレベルの『神性』は無効化されているとはいえ、人知を超えた超常の存在である事に変わりはない。
実力差は歴然。《バトルフェイズ》において、ロジャーに勝ち目などない。
その上、ロジャーは守備の際にはユーリャを必ず守らねばならない為、アレクサンドロスの攻撃は自動的に成功する事が確定してしまうのだ。
その為、一見してロジャー有利に思えた第二遊戯は、アレクサンドロスは攻撃時の白星が保証されている事に加え、ロジャーは一度でも攻撃を失敗した時点でアレクサンドロスの白星を絶対に上回れなくなる、という一方的なハンデを背負わされる展開となった。
現に、三回戦で攻撃に失敗し続く《バトルフェイズ》でも瞬殺され白星を一つ落としてしまったロジャーの白星数は最終戦を残して四つ。アレクサンドロスは五つと、この時点でロジャーがアレクサンドロスの白星を上回れない事は確定してしまっている。
だが、必ずしもロジャーの勝機がなくなった訳ではない。
注目すべきは厄災遊戯のルールに記されたこの一文。
――『・一〇回戦が終了して白星の数が同数だった場合、遊戯を仕掛けた主催者の敗北とし、奪った『賞品』を参加者へと返却します(扱いとしては無効試合となり、遊戯勝利の報酬は支払わません)』
つまり、ロジャーに残された勝利の道はただ一つ。ユーリャ=シャモフを巡る最終戦の《バトルフェイズ》を制し白星を同数に持ち込み、引き分けによる無効試合とする事。
その場合、『覇名彙徴問愛』は無効試合扱いとなる為、『厄災遊戯』の勝利者に与えられる『万能の権限』こそ得られないが――ロジャーがアレクサンドロスから奪った『賞品』はそのままに、奪われた『賞品』は主催者を退けたロジャーへと戻ってくる事となる。
現状、ロジャーはアレクサンドロスの身体能力の五〇%と体力の五〇%を奪い、その数値が加算されている状態にある。
それでも《バトルフェイズ》でアレクサンドロスに届かず敗北したのは、奪ったもの以上に奪われた影響が大きく、総合的にアレクサンドロスの技量を超える事が出来なかった為だ。
だが、奪ったモノはそのままに、奪われたモノがロジャーに返ってくるのであれば形勢は一気に逆転する。
中断されている第一遊戯の再開後、アレクサンドロスを倒す事は充分に可能。
それこそがロジャーが狙うべき真の勝機であると言えた。
とは言えそれも、ユーリャ=シャモフを懸けたこの最終戦の《バトルフェイズ》でロジャーがアレクサンドロスに勝つ事が出来ればの話だ。
負ければその時点でアレクサンドロスが遊戯の勝者となって『万能の権限』を得る事となり、ロジャーが遊戯で奪われ失ったモノは未来永劫戻ってくる事はない。
――最後にもう一度、遊戯の勝利条件、アレクサンドロスを攻略する上での大前提を確認しよう。
既に遊戯は最終戦。
この時点で、ロジャーの白星がアレクサンドロスの白星の数を上回る事はありえず、第二遊戯の勝利者となる事は最早叶わない。
ロジャー=ロイとアレクサンドロスの実力差は歴然で、単純な武力、暴力ではまずロジャーに勝ち目はない。
このまま無策で戦えばロジャーは遊戯に敗北してしまうだろう。
だが、仮にユーリャ=シャモフを懸けた最終戦の《バトルフェイズ》をロジャーが制し、引き分けに持ち込む事が出来れば――状況は一転。ここまでの遊戯は無効となり、『厄災』を退けた報酬として遊戯で奪われた『賞品』は総て返却され、奪った『賞品』がそのままロジャーに与えられることとなる。
そうなればロジャーにも純粋な戦闘での勝ちの目が見えてくる。
けれどその為には最終戦の《バトルフェイズ》でロジャーがアレクサンドロスを打ち倒す必要があり、しかし今のロジャーではアレクサンドロス打倒は困難。
アレクサンドロスを確実に打倒するには、やはり《バトルフェイズ》を制して遊戯を引き分けに持ち込み、奪われた『賞品』を取り戻した万全の状態で、奪った『賞品』の効力を最大限利用する他ない。
『Aを得る為にはBが必要だが、Bを得るにはAが必要』と言うような矛盾を孕んだ堂々巡り。
一見して、状況は既に詰んでいるようにも思える。
しかし、ロジャーには一つ、とっておきの秘策があった。
『俺は俺を――』
それは、かつてエアルを名乗る敵と対峙した際にロジャーが見せた土壇場での限界突破。
ソレを意図的に再現したうえで、当時をさらに上回ってみせるという無茶苦茶な策で――否、それは策と呼ぶのも烏滸がましい、奇跡に縋るような危険な賭けではあったけれど。
『――諦める』
ロジャーは見事、その賭けに勝利した。
己が感情を贄へと捧げる内的御供による不可視の『壁』の突破。
その結果齎される『神性』の拡張と干渉力の爆発的な上昇、それに伴い発生するのは、自身の干渉力制御の許容値を一時的に超過した余剰干渉力の放出現象。つまりは『暴走』――
――人はそれを『神化』と呼ぶ。
端的に言ってしまえばそういう事だった。
ロジャー=ロイは意図的に『神化』を果たし神の子供達へと到達した。
世界初の偉業であり、勝利へ繋ぐ希望そのもの。
だが、たかが神の子供達へ至った程度で倒せる程『七つの厄災』は、〝強欲が果ての騒乱〟アレクサンドロスは甘くない。
当然、そんな事はロジャーとて理解している。
そもそも、天空浮遊都市オリンピアシスで彼ら『厄災』と初対峙した際、人類側には六名もの神の子供達がいたのだ。
それでもまるで歯が立たなかった絶望的な現実は、ロジャーの脳裏に深々と刻まれている。
だが、それでも。
そんな彼我の戦力差を加味しても尚、ロジャー=ロイには確信に近い勝算があった。
……アレクサンドロスが展開した第二遊戯:『覇名彙徴問愛』が開催されている今この状況であれば、本来不可能な勝利を掴み取る事が出来るかもしれない、と。
だがその為には、ロジャー=ロイはここで全てを諦める必要がある。
それは、ロジャーにとって限りない痛みを伴う行為だ。
自らを犠牲にするのはまだいい。
理想も憧れも裏切り裏切られ、この身は所詮は兵器であると諦観に沈み、唾棄すべき人殺しへと堕ちて以来一度と言わず幾度となく切り捨ててきた身だ。
この身一つで事足りるなら、いくらでも贄として捧げてやろう。心からそう思う。
だが、エリザベス=オルブライト。そして、ユーリャ=シャモフの存在だけは別だ。
彼女たちの存在とその絆は、今のロジャー=ロイを構成する最も重要な要素。
理不尽と不条理に満ちた薄汚れたこの世界をロジャー=ロイが生きる理由そのものであり、指針でもある。そんな大切な存在なのだ。
けれど、だからこそ――ロジャー=ロイは自らの意思で己の全てを諦め壊さなければならない。
負ければ全てを奪われ失い、勝者だけが全てを得る。
『厄災』と人間とが強欲のままにぶつかり合い互いを奪い尽くさんとする此度の騒乱もまた、人類が惑星の支配者に相応しいか否かの是非を問う『裁定戦争』の一幕である。
〝強欲が果ての騒乱〟アレクサンドロス。
『恐れ知らず』ロジャー=ロイ。
どちらが勝利しどちらが敗北しようとも、その結果は世界の命運すら左右する事になるだろう。
――既に、勝利に必要なパズルのピースは提示されている。
故に、遊戯終幕はすぐそこに。
……後は、決意と選択によってその結末を確定させるのみ――
☆ ☆ ☆ ☆
世界を断絶が覆っていたのは、時間にしてほんの一瞬の事だった。
ロジャー=ロイを爆心地として放射状に広がった衝撃波――否、ここは振動と呼ぶべきだろうか。
ともかく、その振動波がアレクサンドロスの展開する異界結界内部を覆い尽くした結果、空間内にいた誰もが僅かな時間ではあれど意識を失う事となる。
しかし、前述したように、それも一瞬。
断絶に巻き込まれた三名がほぼ同時に意識を取り戻す中、その異変に真っ先に気が付いたのはユーリャ=シャモフだった。
「ロジャー……、その傷――」
ピシり。
ロジャーの内側から卵の殻を破るような異音が響いたかと思うと、その背中を縦に割るように大きな亀裂が走ったのだ。
……いや、起きている異変はそれだけではない。よくよく周囲を観察してみれば、遮蔽物一つなかった焼け跡のようなこの空間そのものに赤黒い亀裂が縦横無尽に刻まれているではないか。
一体何が起きたのか、ユーリャは目まぐるしい状況の変化にまるで理解が追いつかない。
だがそれ以上に、胸騒ぎがした。
彼は一体何をした? ……否、一体これから何をするつもりなのだ?
「……もう始まったか。つっても、干渉の中心地点がもっとも影響が高いんだから、そりゃそうだわなって感じだけどな」
背中側から響くユーリャの問い掛けには答えず、振り向きもしないまま、ロジャーはシニカルな笑みを浮かべながら眼前で警戒を強めるアレクサンドロスとの距離をゆっくりと詰めていく。
そうしている間にも、絶えず微細な破砕音がロジャーの内側から連続していて、体表面に無数の小さな亀裂を刻んでいく。
「アンタ、俺の世界に一体何を……いや、俺の世界で何をした?」
低く、唸るような声が投げかけられる。それは、己が欲望の具現化たる異界の惨状に対する静かな激昂だった。
自らの聖域を、願いを、世界を侵された事に対し『厄災』が発したあまりに人間めいた激情。
「ご明察の通りだ、『厄災』」
自らの殺気を隠そうともしないアレクサンドロスに、ロジャーは肩を竦めて、
「確かにこの空間は遊戯のルールによって支配された異界だ。だがな、そいつはお前が支配している事と同義じゃねえ」
この空間がアレクサンドロスの願望を元に創造されたという事実は、この空間の支配者がアレクサンドロスであるという事を意味しない。
そう、あくまでここは遊戯の舞台。
この異界結界を支配するのは、遊戯の強制力。いくら遊戯主催者であろうとも、それを破る事は許されない。
「遊戯進行の妨げになり得るレベルの『神性』が無効化される以上、この空間は俺にとってもフェアなんだよ。だから当然、強制力によって弱体化されてるお前を干渉力で上回ればこうなる」
――ピシ、パキッ
ロジャーが一歩を踏み出す度に、足裏から異音が響き亀裂が生じる。
ロジャーの身体を這いまわる罅割れがロジャーを通して周囲の空間に伝播し、次々と蜘蛛の巣めいた罅割れが走っていく。
それはまるで、ロジャー=ロイという器の裡に収めきれず漏れ出た干渉力が、ロジャー諸共世界を喰らおうと広げた顎から強酸の涎を垂れ流しているような、そんな不穏な未来を暗示させる光景だった。
「俺を上回った? クク……面白い冗談だなぁオイ。けどよ、思い上がりも程々にしておかねえと、後で恥を掻くのはアンタだぜ、人間。いくら『神化』を果たして干渉力が上昇したとは言え、たかが神の子供達如きが、『七つの厄災』である俺に届くと本気で思ってんのかよ?」
「思わねえよ」
切り捨てるようにそう即答する。
「神の子供達になった程度でどうにかなるような相手なら、お前ら全員、顔見せの段階でやられてんだろ。それこそあの場には、馬鹿みたいな数の神の子供達がいたんだからな。遊戯のルールっつう制約があったとしても、まともに正面からやりあって勝てるのは『設定使い』の野郎くらいなんじゃねえの? 知らんけど」
しかしそれは、自身の敗北を確信した諦観から導き出された言葉ではない。
だがな、と。ロジャーは一度言葉を区切って、
「今の俺は、まともにやり合わずとも『設定使い』を凌駕する、ぜ――ッ」
「――……っ!」
力強く地面を蹴りつけ、大地が砕ける破砕音と共に致命傷を負っているはずのロジャーの身体が一気に加速した。
驚異的な速度でアレクサンドロスとの距離を瞬時に縮めゼロにすると、肉薄の勢いそのままに右腕一つで『厄災』へと掴み掛かる。
立ち上がり、歩いているだけでも奇跡のような死に体の男の速度ではなかった。
命を削るどころか、自らの命を炎にくべるような命懸けの加速に意表を突かれたアレクサンドロスは、ロジャーの接近を許してしまう。
(――なるほど、確かに速い。とても致命傷を負った死にぞこないの速度とは思えねぇ。干渉力もただ突っ立ってるだけで周囲に干渉しちまう程の上昇を見せている。が――それだけだろうがッ)
確かに驚かされはした。
神の子供達となって、身体能力を含めた全体的な能力も桁違いに上昇しているのを感じる。
なるほど、確かに干渉レベルSオーバーというのは伊達じゃない。彼らは人類側が誇る最強戦力なのだと納得できる。賞賛もしよう。
だがそれも、所詮は神の能力者という括りの中での最強でしかない。
人智を超えた超常であり、ただそこに在るだけで人類に仇なす人類の天敵、『七つの厄災』には遠く及ばない。
意識の間隙を突いた速攻、それは要するに愚直な直線軌道の特攻だ。
回避も防御もカウンターも自由自在。意識が、身体が速度に追いつきさえするのであれば対処は容易。
『七つの厄災』屈指の近接格闘能力を誇るアレクサンドロスに限って、この程度の不意打ちは脅威に足り得ない。
すぐさま冷静さを取り戻したアレクサンドロスは僅かな時間、対処を思案。
物理法則を無視した軌道を描くアレクサンドロスの弓撃は、彼の固有魔術ではなく彼が持つ『厄災』としての特性『英雄殺しの弓矢』によるものだ。
これは、アレクサンドロス自身の技量に由来する力であり、右手が砕けた今の状態では、弓矢を繰る事は難しい。
故に、ここから先は否が応でも白兵戦に移行する事になる。
よって、ここで相手の勢いに押されて下がり防御や回避に回る必要性は微塵もない。
迎撃一択。
とはいえ、相手の干渉力の上昇は事実。『神性』の上昇具合も馬鹿にならない。
ロジャー=ロイの『震え恐怖に』はアレクサンドロスに対して充分な脅威となる。その希少性と危険性は認めよう。
アレクサンドロスはその右手で掴まれる事だけは避けるべきだと結論付け、リーチで勝る前蹴りを選択。
初速重視、ボクシングのジャブにも似た、引き戻す動作の方に重きを置いた牽制の一撃で充分だ。
なにせロジャー=ロイの方からこちらへ突っ込んできてくれるというのだから、その勢いを利用してやらない手はないだろう。
只人では捉える事も出来ないであろう速度で、アレクサンドロスの右足が僅かに霞んで、
「がはぁ……っ」
次の瞬間には、凄まじい勢いで弾き返されたロジャー=ロイが、血反吐を吐きながら地面を転げ回っていた。
突進の勢いそのままに『厄災』の爪先がどてっ腹に深々と突き刺さったのだ。
腹が裂けなかっただけ儲けものだが、こうしている今も、千切られた腕の付け根や穴の開いた眼窩から血が流れ続けており、ロジャーの通った道をなぞるように赤が異界を汚していく。
「くはははははは! 何が凌駕するだぁこの鈍間ァ……!」
その無様を前に、アレクサンドロスが勝ち誇る。
「干渉力の上昇は認める。俺の世界に傷を刻んだ事も褒めてやるよ、中々の強度だ。だが、アンタの力は触れなきゃ意味がねえ、ならこれまでと何ら変わりねえだろうが!」
右手が砕けたとはいえ、アレクサンドロスの有利は変わらない。
なにせロジャー=ロイは左腕を丸々一本失っているのだ。まともにボディバランスも取れていないような状態で疾走し、転ばなかったのは奇跡と言ってもいいだろう。
そんな状態で、アレクサンドロスに近接戦を挑み殴り勝とうなどとは笑わせる。
「アンタは俺に嬲り殺され、その悉くを奪われる。諦観さえ浮かべられない程に徹底的になぁ……!」
地面に蹲り、さらに血を吐きながらそれでも懸命に立ち上がろうとするロジャーは、唯一残った右の瞳を縦に割るような亀裂を走らせながら、それでも不敵に笑っていた。
「……今の、俺は……『神化』、直後の暴走状態……に、ある」
「は、だから何だってんだよ。僕ちん暴走してて自分を抑えられないーうまく力を制御できなくて負けちゃうよ~ってか? その年齢で中二病は色々キツいぜ?」
「……本来、ブレーキベタ踏みでも抑えらきれねえ余剰干渉力の放出を……逆に、アクセル全開で加速させたら、……なあ。一体どうなると思うよ?」
「分からないヤツだな。だからそんなことをした所で何になる」
いくら干渉力が上昇した所で、神の子供達になった所で、ロジャー=ロイではアレクサンドロスの身体をまともに捉える事も叶わない。
自ら触れる事が出来なければ、最強の矛とて宝の持ち腐れ。
ロジャー=ロイの勝利など万に一つもあり得ない。
呆れと鬱陶しさに思わずため息を重ねながら、アレクサンドロスはロジャー=ロイの戯言を鼻で笑い飛ばそうとして――ピシビキッ、と。己の内側から異音を聞いた。
「――おい、待て。なんだ、これは……」
……いや、異変はそれだけではない。
空間やロジャー自身に走る亀裂と比べて、その始まりはあまりに些細でゆるやかなものだったが、それでも確かにロジャー『神化』の直後から、アレクサンドロスの構築したこの異界結界は微かな揺れに襲われ続けていた。
その揺れが、少しずつ……今や肌で感じ取れる程に明確に、雪玉が坂道を転がり落ちていくように加速度的に大きくなっているのだ。
地震――ではない。
ロジャー=ロイを起点として放射状に拡散する振動波が、漏れ出す超高密度の破壊の干渉力が、アレクサンドロスの構築した異界結界中に充満していっている――!?
「――ッ! づぅ……がぁっ、ごはぁ……ッ!?」
認識が現実に追いついた途端だった。
アレクサンドロスの全身に雷に撃たれたような激痛が走り、堪らず身体をくの字に折る。喉元を灼熱が一気にせり上がってきて、息苦しさから喘ぐように口を開くと、そこからおどろおどろしい血の塊が飛び出していく。
口元を拭い、掌をべたりと汚すその赤に、アレクサンドロスは思わず声を震わせる。
「……ぜぇ、はぁ……っ。馬鹿な、俺は、触れられてねえぞぉ……ッ!」
ロジャー=ロイの『震え恐怖に』は確かに凶悪だが、直接触れられない限り破壊の共振を起こす事は不可能なはず。
それなのに、触られていないはずのアレクサンドロスの身体に亀裂が走り、その一部が砂の城のようにボロボロと崩れ始めていたのだ。
崩壊は、何も身体の表面だけの話ではない。その内側……骨や血管や内臓も外面同様にボロボロと劣化し崩れていっているのが分かる。唐突に血を吐いたのがその証拠だ。
そんなアレクサンドロスの有様に、ロジャーは不敵な笑みを讃え、血の咳で途切れ途切れの声で勝ち誇る。
「無意識に力を御そうとする生存本能ってヤツは……厄介、だな。まさか、制御を手放す制御をしなけりゃならねえとは、思わなかったぜ……」
眼前、倒れたまま起き上がれずにいるロジャーが負っているダメージも尋常ではなかった。
咳き込みながら血反吐を吐き、体中にこれまで以上の勢いで大きな亀裂を走らせているその様は、誰の目にもあからさまな死に体だ。
破壊の爆心地、その中心に否応なくあり続ける為、負傷度合いはアレクサンドロス以上だ。
そして、その後方で両者の戦いを祈るように見つめていたユーリャ=シャモフも、いつの間にかその場にぺたりと座り込んで、憔悴しきった顔で苦しそうに胸元を押さえている。
眼前の男が全てを賭して守ろうとしていたその彼女さえも、ロジャーを起点に広がりゆく破壊の顎は呑み込まんとしているのだ。
……この状況で、そんな満身創痍な姿で、命懸けで守りたかった大切なモノまで犠牲にして、何故そんな風に笑えるのか。アレクサンドロスの胸を、戦慄とも畏怖とも突かぬ感情が駆けぬけていく。
「……クソ、が……力が、入ら――」
身体を駆け巡る痛苦にアレクサンドロスの四肢からついに力が抜け、堪らず地面に膝を突き、そのまま地面に倒れ込んだ。
ぜえはあと荒い呼吸を繰り返すアレクサンドロスは、まるで空気中に生物兵器でも散布されたかのような眼前の惨状に、瞠目し声を震わせる。
「……やって、くれたなぁ……気でも触れたか、ロジャー=ロイ……っっ!!」
「気が触れた、ね。ま、総てを諦めるってのはそういう事だろってオジサン思う訳だが――」
ロジャーはアレクサンドロスの罵倒を否定することなく、倒れ伏したまま受け流すように肩を竦めてみせる。
体中に亀裂が走り、今にも内側から崩壊してしまいそうな状態でおどけてみせるその様は、人の在り方として余りにも歪で異質だった。
「察しの通りだ、厄災。無差別に無秩序に全てを破壊する終焉の共振。今の俺が振りまく振動は、一切の例外なく全てを破壊する」
総てを諦め至った神を模倣す至天の領域。
『神化』を果たし、『神の子供達』へと至り、意図的に自身の暴走を加速させる事で文字通り『破壊』という概念そのものを振りかざす。
無秩序に無差別に。
ロジャー=ロイを中心として周囲に伝播し拡散する終焉の振動は、アレクサンドロスは愚かロジャーが守ると誓ったユーリャ=シャモフもロジャー=ロイ自身さえをも喰らい尽くす。
総てを呑み込む大破壊。
それが、それこそがロジャー=ロイがアレクサンドロスに勝利する可能性がある唯一の方法だった。
その可能性に今頃になって思い至った愚かな厄災をロジャー=ロイは嘲笑って、
「――俺諸共、総てを完膚なきまでにぶっ壊す」
背後から、人の倒れるような音が聞こえた。
もう後ろを振り向く力も残されていないが……おそらく、ユーリャ=シャモフが座り続ける力さえを失いその場に倒れ伏したのだろう。おそらく、もう意識もないに違いない。
破壊の中心そのものであるロジャーや、ロジャーと対峙するアレクサンドロスと比べ距離がある為、破壊の振動の影響を両者ほどは受けてはいないとは言え、この異界結界内部は既にロジャーの干渉力が充満しており、逃げ場もない。
まだ死んでしまった訳ではないだろうが……この空間にいる限り、彼女も確実に助からない。無差別に破壊を振りまくこの力は、確実にロジャーの大切な存在の命を奪う。
「……悪かったな、ユーリャ。俺は、壊すしか能がねえ男だから。こんな方法しか、思いつかなかった……」
息が、苦しい。
意識が、遠のく。
最早肉体は上半身が残るだけ、腰から下は完全に崩壊し、消失してしまっている。
それでも、破壊をまき散らす。
守りたかったユーリャ=シャモフを殺し、自らを殺し、そうしなければアレクサンドロスを倒せない。
その身を沈めた深い諦観は、神の子供達へと『神化』する為の条件であると同時に、ロジャー=ロイの決意であり覚悟そのものだった。
――そんな、諦観という名のその覚悟に、アレクサンドロスは今まさに敗れようとしていた。
(『賞品』諸共自爆だと……っ!? 有り得ないっ。自ら捨てたか、あの執着を、その強欲をっ、自らの意思で……ッ!?)
破壊の中心であるロジャー=ロイに今すぐトドメを刺せば、このふざけた事態も収束する。
単純な話だ。
簡単な話だ。
対処法はこれ以上なく明確。まだ負けていない。奪われていない。まだここからいくらでも挽回できる。そのはずだ。
それなのに、加速度的に上昇し満ちていく破壊の振動と干渉力は、既にアレクサンドロスから立ち上がるだけの力を奪い、その肉体を外と内の両面から粉微塵に崩壊させていく。
多少なりともロジャーの意思によって指向性が生じているのか、肉体の崩壊はロジャーと同じかそれ以上。
既に腰から下は存在せず、このまま破壊が進行すれば、ロジャー=ロイの死亡とほぼ同時にアレクサンドロスも死亡する。
アレクサンドロスが気紛れに行ったルールの改変によりロジャー=ロイは一撃死でない限り、死亡と認められず蘇生してしまう。
つまり、このままではアレクサンドロスだけが死亡し、ロジャー=ロイが白星を得る事になる。そうなれば第二遊戯は引き分け。無効試合となってしまう。
そうなれば、本当に敗北が見えてくる。
流石のアレクサンドロスも、自身の身体能力と体力の五〇%を奪い、加算されている状態のロジャー=ロイを相手に、固有魔術も業もなしに白兵戦を挑んで勝てるとは思わない。
だから、この状況をどうにか打破しなければ――
(――固有魔術で破壊の振動を相殺……っ、いや。駄目だ。アレを使えば俺もタダじゃ済まねえ――いや違うッ、何を馬鹿な事を言ってやがるんだ俺は。今は遊戯中、どんなダメージを受けようが関係ないだろうがッ!!)
ロジャー=ロイの『神化』、神の子供達への覚醒。
己諸共全てを破壊する蛮行。
肉体の崩壊。
予想外の事態に想定外のダメージだった。
総てを奪うはずの相手が、目の前で自ら全てを手放してしまうなどと、そんな状況を〝強欲の果ての騒乱〟であるアレクサンドロスが予想できるはずもない。
まさに思考と思想の間隙を突くような一撃に生じた焦りと動揺が、歴戦の戦士でもあるアレクサンドロスの判断を鈍らせ、彼にとってある種のトラウマの具現である固有魔術の使用を躊躇させた。
その一手の遅れが致命的な敗因だった。
「……これで終わりだ、〝強欲の果ての騒乱〟」
額を脂汗で濡らし苦悶の表情混じりの引き攣った笑顔を浮かべる死に体の男は、自らの身体を崩壊させながら、瞠目する『厄災』へと勝利を宣言する。
「せいぜい震えろよ、恐怖に」
躊躇い、時間を失った。
固有魔術の発動はもう間に合わない。
「――ぐっ、『業』、解崩……『騒乱齎す破滅の……――
アレクサンドロスは、咄嗟に自身が有する『七つの厄災』の一角としての本質、〝強欲の果ての騒乱〟がその身に宿す業を起動させようとして、
――遅えよ、鈍間」
終焉を齎す破壊の共振が、総てを無に帰した。
『――守備側プレイヤー:アレクサンドロスの死亡を確認。守備側プレイヤー:ロジャー=ロイの勝利の為、「賞品」の移動は行われません。《エンドフェイズ》へ突入します』
『――お疲れ様です。予定されていた全試合が無事に終了いたしました。集計の結果、白星の数が同数となった為、遊戯主催者:アレクサンドロスの敗北とし、参加者:ロジャー=ロイから奪った「賞品」の返却を行います』
――【Congratulations! winner:ロジャー=ロイ】




