第六十六話 一月五日 記録Ⅷ――VS.『七つの厄災』〝強欲が果ての騒乱〟/祈りよ堕ちよ
「――、ないでください」
我ながら馬鹿な事をしているという自覚はあった。
なんでこんな事をしているのか自分で自分が分からない。やるだけ無駄で、無意味で、非生産的な行いだ。そんな風に自分自身の愚行を糾弾する声が頭の中で絶えず鳴り響いている。
立ち上がる事が恐ろしい。
立ち向かう事はもっともっと恐ろしい。
怖くて怖くて堪らない。恐ろしさのあまり、意味も分からず涙が溢れ出してしまいそうだし、出来る事なら今すぐこの場から逃げ出したいと思っている。
……当然だ、相手は『厄災』。一度は完膚なきまでに叩きのめされ、奴隷みたいに好き勝手に使われて、大切な人をこの手で傷つける羽目になって――そんな最悪の相手を恐れるなという方が土台無理な話なのだ。
けれど。これ以上、この感情に蓋をしておく事なんて不可能だったから。
「――そっちこそ、ふざけるなって言ったんです」
約束をした。
何があっても彼を信じると。
お前が背中にいる限り、絶対に倒れない。彼はそう言って、自らの命を盾に、私を守ろうとしてくれている。
不謹慎だと分かっていても、その気持ちが嬉しかった。
彼の戦う理由の中心に私がいる事が幸せですらあった。
でも、目の前で大切な人が死へ向かっていく様を見せつけられるのは、それ以上に辛くて苦しくて耐えられなくて、心が壊れてしまいそうで。
それでも私は、私を信じた彼を裏切れなかった。
彼を信じる私を裏切りたくなかったのだ。
けれど、そんな想いも葛藤も。あの光景を見せつけられた瞬間に全てどうでも良くなってしまったのだと思う。
――『い、いや……そんな、いやぁあああああああぁぁ……っ!! ……ロジャー、首……だって、うそ。首が……っ!?』
あらぬ方向へ捻じ曲がった首。歪で醜悪ですらある、壊れた人間の末路。
瞳に映る愛する人の無残な姿に心がすとんと身体から抜け落ちていくような重たく空虚な絶望が、脳裏にこびりついて離れない。
それは、紛れもない『死』だった。
ロジャー=ロイの、私が憧れ追いかけた、私の英雄の『死』。
見せつけられた現実の冷たさに、奇麗な願いや想いだけでは捻じ曲げる事の出来ないどうしようもない不条理に、私は打ちのめされ、この時はじめて実感したのだと思う。
いや、本当はもっと前から分かっていた。
分からないふりをして、目を逸らしていただけだ。
ロジャー=ロイは。あの人は絶対無敵の最強の矛でもなければ、私の英雄なんていう都合のいい存在でもないんだって。
――だって、私達の出会いはきっと初めから何もかも間違っていたから。
出会った日の事を、覚えている。
出会ってから交わした言葉を。結び育んだ温かな絆を。共に在った時間を忘れない。
一日だって忘れたことのない、私の原点。私の全て。
今の私を形作った、出会いと別れ。
そして再会から今日までの彼との日々を、私は――
――きっかけは唐突だった。
今から二十年前も前の話だ。ある日を境に、私の父と母はまだ幼かった私の前からその姿を消してしまった。
この街ではさして珍しくもない、そんな悲劇が今の私の始まり。
元々多忙な人達ではあった。
夫婦揃って研究職についていた彼らは、平日は勿論休みの日も泊まり込みで研究室に籠る事が多く、私は家ではいつも一人だった。
優秀な研究者だった彼らからの遺伝なのか、私は幼い頃から年齢以上に聡く頭のいい子供だったらしい。
私が神の能力者で、育ちが普通の子供より早かったのも影響しているのかもしれないけれど、大抵の事は一度丁寧に教えれば一通りこなせるようになってしまう私は、恐ろしい程に手の掛からない子供だったとか。
幸か不幸かはさておき、それが彼らの子離れを加速させてしまった原因の一つでもあったのだろう。
僅か四歳の少女が一人で留守番をこなし、簡単な家事や買い物まで自分で行うというのは、一般的には異常な家庭に分類されるらしい……という事を知ったのも随分と後になってからだった気がする。
『――ユーリャは賢くてイイ子だから、一人でも大丈夫よね』
幼い子供を家に一人残し、研究に没頭する彼らは、今思えば確かにどこかネジが外れていた。
それでも、当時の私は両親の事が大好きだったし、彼らも限られた時間ではあれどちゃんと私を愛してくれていた。少なくとも、私はそう思っていた。
だから、寂しかったけれど不満はなかったのだ。
そもそも、私は私の家の事しか知らないし、分からない。
基本一人でお留守番の毎日だ。よその家の常識や普通なんて触れた事もなかったから、これが当たり前なのだとずっと思っていた。だから、不満を抱きようがなかったのだけれど。
それでも。一週間もの間、彼らが家に戻らず連絡一つ寄越さないという事態は極めて異常な事で。
『――お父さん、お母さん……どこですか……』
何度か訪れた事のあった彼らの勤め先。
行き方は覚えていた。施設に入る為のパスワードも。
だから後は、行動を起こすだけだった。
夜の街を一人で進んだ。
バスや電車を乗り継いで、たった一人で目的地へ辿り着く。
けれど中には誰もいなくて、どれだけ大声で呼んで探しても、父や母の姿は見つからない。
夜半で人がいないからか、施設は記憶の中よりも寂しく空虚でうすら寒さを湛えていた。独りぼっちが不安で怖くて心細くて、今にも泣き出してしまいそうな悲しい気持ちのまま、私は両親を探して施設内部を歩き回った。
そのうち、あることに気が付いた。
施設内は不自然な程に綺麗で、埃一つ見当たらない。それだけでも充分におかしいのに、どうしてだろう。よくよく目を凝らしてみれば、辺りの床や壁に地震でも起きたような亀裂や抉られたような破壊の爪痕が刻まれていたのだ。
それだけではない。嫌に寂しく空虚な理由が、以前はあったはずの様々な資料や機材が施設内からなくなってしまっている。
そうして遅れて、私は理解する。
おそらくは、この施設で――そしてここで働いていた父と母の身に何かがあったのだ、と。
『――お父さん。お母さん……』
……きっともう、父と母が家に戻る事はない。子供ながらにそう悟った私は、途方に暮れながら帰路に着いた。
父と母にはもう会えない。その事実を正しく理解しても、涙は出なかった。
悲しくなかった訳じゃない。
寂しくなかった訳じゃない。
辛くなかった訳じゃない。
けれど、渇いた心のどこかで思ってしまったのだ。
……それって別に、今までと何も変わらないなぁ、と。
そして不幸は連鎖する。不運は畳み掛けるように、私はどこまでも堕ちていく。
誰もいない我が家に戻った私を待っていたのは、覆面で顔を隠した見知らぬ男達。家に入ろうと扉を開けた瞬間に背後から襲われ意識を失った私は、そのまま手足を拘束され、大きな車に放り込まれる事となる。
当時は何が何だか分からなかったけれど……おそらくは、施設を見張っていた者達がいたのだろう。
何らかの理由で無人となっていた施設。
明らかに事件性を感じる状況にも関わらず、警察はおろか誰一人として声をあげないその異常事態が意図的に作られたものだという事に、幼い私は気付けなかった。
そうして結果、施設内部に侵入してしまった私は、口封じの為に捕らえられてしまったのだ。
次に目を覚ました時、私の視界に飛び込んできたのは見知らぬ白い天井だった。
アルコール消毒の匂いがする清潔そうな白く殺風景な部屋の中、その中央にぽつんと配置されたベッドの上に寝かされていたらしい。
……ここはどこ? 私を攫った目的はなに? 分からない。何も分からない。確かな事は、父や母はもういなくて、そんな私が攫われて行方不明になった所で、助けに来てくれる人なんて誰もいないという絶望的な事実だけ。
それでもやっぱり涙は出なかった。長い間独りで放置されてきた私の心は渇いて、枯れ果ててしまっていたから。
そんな私を、さらなる困惑が襲う。
突如として連続する轟音と怒号。耳を打つこの世のモノとは思えぬ悲鳴の数々。部屋の壁を貫通して耳朶を震わせるその一つ一つが私の心を恐怖に竦ませた。
何が起きたか分からない。怖い。
分からない事は恐怖で、恐怖は不安を煽りさらに大きな恐怖となって私を飲み込んでいく。
唐突に訪れた状況の変化に全くついていけない私はベッドの中に潜り込み、耳を塞ぎ縮こまって恐ろしい音が止むのをひたすらに待った。
そうして、何の音も聞こえなくなって、身体の震えも収まった頃。私はベッドから飛び降りると逃げるように部屋から飛び出していた。
その果てに私は――
――『……こちら「ランサー01」』
彼と。私の英雄と出会ったのだ。
『任務完了、予定通り全てのターゲットの破壊を確認した。これより帰投す――――あ? 子供……だと? だがリストには……――』
私を連れ去った悪い人たちを打ち倒し、私を助けに来てくれた私のヒーロー。
彼が、そんな都合のいい存在――ではない事は、本当はもう、この時点で分かっていたけれど。
『ガキ、お前……泣いてるのか?』
『……うぇ、だってぇ……こ、怖かったよぉおおお。おじさん、助けてくれて、うぅ……すん、ずっ、ありがとぉお……うわああぁぁぁああああああああああん……っ』
私を心配するようなその声に、久しぶりに感じた自分以外の『人間』の温かさに、涙が止まらなかった。その優しさに、甘えてしまったのだ。
『――お前、なんだってあんな場所に……いや、それはいい。ガキ。お前、名前は?』
興味がないようなふりをして。どうでもいいような無関心を装って。
『――寝惚けた事言ってんな、俺はヒーローなんかじゃねえよ』
それでも彼は、擦り切れた迷子の子供みたいな悲しい目をして、私をじっと見つめていた。
『――やる。その金で家に帰るも何食うも好きにしろ』
口では突っぱねるような態度を散々取っておいて、それでも最後まで、彼は私を拒絶することだけはしなかったから。
その日私は、私を助けてくれた人の腕の中で眠りについた。
記憶にある限りじゃ、父と母と一緒に眠った事なんて一度もない。誰かの温もりを感じながら眠るのは生まれて初めての体験で、すごく……すごく心がほわほわ温かくて安心したのを覚えている。
きっと私は、この瞬間に救われたのだ、どうしようもなく。
自覚症状もなかった寂しさを、孤独を、渇きを。私は彼に埋めて貰った。
何も言わず、ただ一緒にいてくれた。
寂しい夜を、何も言わず隣で眠ってくれた。
ただそれだけ。本当に些細なそんな事が、私が心の底から求めていたモノだった。
だから、例え彼にその気が欠片もなかったのだとしても――ロジャー=ロイはあの日からずっと、私のただ一人のヒーローだった。
彼と過ごした日常は、互いに壊れてしまうことを恐れるその関係性は、傍から見れば歪なモノだったかもしれないけれど。
『――ただいま』
『あ、お帰りなさいロジャー!』
『お、いい匂いじゃねえか。腹も減ったし。んじゃ、食うか』
『はい、それじゃあ――いただきます』
『――ロジャー、お風呂まだですかー? もうそろそろご飯出来ますけどー』
『あー、了解。もうそろ出るからそのまま用意しといてくれー』
『ありがとう、ロジャー! 約束ですよ!」
『……ばっ、分かったからいきなり飛びついてくんじゃねえ、危ねぇだろうが』
ロジャーと交わした何気ない言葉が。やり取りが。その一つ一つが本当に温かくて、愛おしくて、尊くて。
たった一年間という僅かな時間しか一緒にいれなかったけれど、あの時間は今でも一番大切な宝物として、この胸に残っている。
だから。別れの時だって。
『俺は、ずっとお前を騙してた』
『――違う! だって、ロジャーはわたしと一緒にいてくれた』
『お前の存在が俺にとって都合が良かっただけだ』
『そんなの、噓です……っ!』
『噓なもんか。うまい料理にあったかい風呂。仕事終わりにそういうモンが出迎えてくれるってのは悪くねえ』
『……ロジャーは、約束破りの、噓つきです……っ』
『そうだな。俺は嘘つきだ。だから、心にも思って無い言葉も、いくらだって吐ける。――ユーリャ』
『――嫌だ。聞きたくない。離れたくないです。ロジャー、お願いだから、もうワガママも言わないから、わたしを置いていかないで……っ』
『さよならだ。もう、二度と会う事もないだろうが――元気でやれよ。お前の人生が、幸福であることを祈ってるよ』
そんな最後の言葉も無視して。彼が望んでいないと知ってなお――
『わたしを、助けてくれてありがとう! わたしはロジャーのことが大好きです!』
『あのね。わたしっ、いつかロジャーみたいになります! だれかを助けられる、そんなヒーローに!』
『そしたらいつか、ロジャーを迎えに来るから! だから――』
『だからきっと、それまで待っていてください。約束ですからっ!』
私は、必死でその背中を追いかけ続けたのだ。
私もいつかあんな風に、誰かを救えるようなカッコイイ英雄になりたかった。……ううん、違う。本当はそうじゃない。きっとそんな夢すらも、手段でしかなかったんだと思う。
強者の流儀に保護された私は、強者の流儀の育成学校に進み、力の扱い方や戦い方を学んで雌伏の時を過ごした。
女王エリザベス=オルブライトの台頭に、ブラッドフォード=アルバーンの支配体制が崩れ去って、大きくうねり脈打つ時代の流れの中で、それでも私の想いは最初からずっと変わらぬまま。
駆け抜けるような日々は長く、けれども一瞬で。
『――ようやく、会えた。ずっと、貴方に会いたかったんですっ。ロジャー……!』
破壊の槍。そう呼ばれる男が彼の『最弱最大』、女王エリザベス=オルブライトの側近にいると知ったその日から、どうにかして女王の目に留まろうと必死になって行動した。力が女王に認められて、彼女の臣下になれたのは今から五年前。
私が十九歳になった年の事。およそ十四年ぶりの再会だった。
なのにロジャーは、瞳に涙を溜めて駆け寄ろうとする私に、
『あー。感動の再会、みたいな雰囲気な所申し訳ないんだが……御嬢さん、俺とどこかで会ったか?」
『……お、覚えて、ないのですか? 私です、ロジャー。ユーリャですっ。十五年前、貴方に助けられたユーリャ=シャモフです……! 私、約束通りもう一度貴方に会いに――』
『――悪いが、勘違いじゃねえの? 生憎俺はもうちょい塾した尻の姉ちゃんが好みでな。御嬢さんみたいな青い果実は趣味じゃねえんだわ』
『――なっ』
『あ、もしかして酔った勢いで抱いたりしちまった感じか? いやー、オジサン酒入ると見境なくなっちまうからな~、もしそうならすまんね本当、全く記憶にねえわ』
『だっ、だだだだだだ抱いた……っっっ!!?』
本当に最低で最悪だ。
よりにもよって年頃の乙女に対して初手から下衆な下ネタをかますなんて普通じゃない。
私を遠ざける為に記憶にないフリをして誤魔化すにしても、もうちょっとやり方というものがあるだろうに。
『ロジャー……! 今日という今日はもう逃がしませんっ! 私の教育担当なのに、あからさまに逃げて……本当は全部覚えているんでしょう? いい加減に観念して――』
『ロジャー……? はて、そいつはどこのどなたのどちら様だ? 俺は通りすがりのダンディオジサン。そんな物騒な男なんざ知らねえな。という訳で、さらばだ新人。今日の研修は自習ってことでヨロシク』
『あ、ちょっとロジャーっ! 待って――』
覚えてないとか人違いだとか、酔った勢いだったとか記憶にないだとか、流石にその設定には無理があるしセクハラだし性格が悪いし頭も悪いし適当過ぎるしなによりセクハラだし本当に最悪だ。
というか、せめて設定を一つに統一する努力くらいはしてほしかった。毎回毎回言い訳する度に内容がブレブレのバラバラで、視線も泳ぎまくっていて、本当は私のことを覚えているのが丸わかりだから本当に何とかして欲しい。あとセクハラも。
そんなくだらない事で嫌いになれるなら、諦めきれるなら、人生懸けてこんな所まで追いかけて来ない。私の想いを馬鹿にするのも大概にしろと本気で思う。
『――きゃっ!』
『なーにやってんだよ優等生。言っただろうが、戦場に絶対なんざねえ。敵が一人と決め付けるな。常に周囲に意識をくばり、戦場全てを俯瞰するくらいのつもりでいろ。あんだけ背後ががら空きじゃあ、狙ってくれって言ってるようなモンだ』
『……すみません、「ドレットノート」。助けて頂き、ありがとうございます。以後、気をつけます……』
『礼なんていらねえよ、尻の青いガキの尻ぬぐいも任務の内だ。……なんだよその目は、大丈夫だって、俺にガキの尻見て欲情する癖はねえから安心して尻出して尻拭かれてろ』
『……いえ、そうではなく。感謝する気が失せるので、尻を連呼しないで欲しいんですけど……』
『ったく、初任務だからって気負い過ぎなんだよお前は。優等生のくせしてこういうトコでは律儀に失敗するのは相変わらずか』
『……え、ロジャー。今なんて……』
『任務中だぞ、「フット」。ボケッとした面晒してないで集中しろ。次、行くぞ。付いて来い』
『……! は、はい!』
些細な言葉一つで心が躍って、何気ないやり取り一つに懐かしさと愛おしさが込み上げて、こんなセクハラオヤジにここまで翻弄されるなんて、まるで私が馬鹿みたい。
でも、本当に馬鹿なのはロジャー、貴方なんだから。
貴方は私のことを覚えていないと言い張って、これ以上私が貴方の背中を追わないように遠ざけようとするけれど、拒絶だけはしなかった。
だから、私みたいな勘違いした小娘がいつまで経っても離れない。自業自得だ、ざまあみろ。
気付いてないかもしれないけれど、貴方に対する好感度なんてとっくの昔にカンストしてる。だから、そんな半端に遠ざけようとしても意味がないんだって、いい加減分かってよ。
突き放すならもっと冷たくして。私が貴方を諦められるくらいに拒絶してくれなきゃ、絶対に離れてなんてあげないんだから。
『……なあ、「フッド」』
『今はプライベートですよ、ロジャー。艦名で呼ぶのは辞めてください。おじさんみたいで好きじゃないって何回説明すれば分かって貰えるんですか?』
『はっはっは、おじさんは嫌いか。何だかんだ言って年頃の娘だもんな、お前も。我らが秘書艦様も、所詮はミーハーの面食いっと』
『あ、いえ別に。そういう嫌ではないですしどちらかと言えば渋いおじさんは好みですけど……って、だから何言わせてくれるんですかっ! 本当に、貴方という人は隙あらばそうやって……ッ!』
『だぁー、冗談だよ、冗談。痛かねえがぽかすか殴るな子供か!? ……悪かったって、お前と喋ってるとついな』
『……まあ、別に。このくらいの悪ふざけは構わないですけど。いい加減慣れましたし』
『そうか……』
貴方の背中を追いかけて、ここまで来た。
憧れて、好きになって、もう一度。ううん、何度だって会いたくて、隣で生きていたくて。……多分、一度は失われてしまったあの日々を、私はずっと取り戻したかったんだと思う。
貴方は私の英雄で。私の人生は、貴方という憧憬に縛られている。
それを呪いだと貴方は言うけれど、私はそれでも構わなかった。貴方に掛けられた呪いなら、呪いそのものさえも愛する事が出来たから。
『……ところで、あー……その、なんだ。どうだよ最近は』
『? どうしたんですか、藪から棒に。貴方らしくもない』
『別に。元教育係として、第五艦隊旗艦に任命されたばかりの生真面目委員長様が律儀にドジっ子属性発揮してないか気になっただけだ。……要するに気紛れだ気紛れ、もしくは気の迷い。なんでもねえから忘れろ』
『ふふっ、変なロジャーですね。けどまあ……そうですね、女王艦隊なんて組織に所属してる以上、辛い事もキツイ事も当然あります。辞めたいなって思う事も、一度や二度じゃなかったです。でも、入って良かったと思いますよ、ええ。本当に。会いたかった人は――なんだかちゃらんぽらんでだらしがなくて適当で、色々と文句も山ほどありますけどね』
『……ほーん』
『ほら、そういう所ですよっ。全く、自分から尋ねておいてなんですかその興味なさげな適当な返事は。真面目に答えた私が馬鹿みたいじゃ――』
でも、それだけじゃなかった。
呪いを掛けたのは、貴方だけじゃなくて。
呪いに掛けられていたのは、私だけじゃなくて。
『なら。ちゃんと、幸福か。お前の人生は』
『――っ。……はい。おかげさまで』
『そうかい。そいつは良かったな』
『……ええ、本当に』
貴方はいつも、いつまでも。私の幸福を祈ってくれていた。
私と離れ離れになってから今日までずっと、私のことを想っていてくれた事、今なら分かる。
だからありがとう。
そして、さようなら。
「何もかもを奪う? 〝強欲が果ての騒乱〟? 笑わせないでください。ご大層な言葉を並べておいて、貴方のやっている事は街のチンピラ同然の自慰行為だ。相手が抵抗出来ないように罠を張って、ボロボロの怪我人を一方的に甚振って悦に浸って、それで勝ち誇って全てを奪っただなんて笑わせる。第一貴方は、私にだって勝っていません。そうでしょう?」
私の存在が、貴方にとっての呪いだった。
その事実それ自体は私にとっては望外の喜びだったけれど、私の存在が私が思っている以上に貴方の中で大きかった事を、私はきっと人生最大のトロフィーとして自分自身に一生自慢し続けるけれど。
私の無邪気な憧憬が、貴方を英雄として縛り付け、貴方を死地へと向かわせた。貴方を何度も苦しめた。
そんな結末、私は欠片も望んでいなかった。
私のせいで貴方が死んでしまうなんて、そんなの絶対に耐えられない。
私のこの感情が恋と呼ぶべきものなのかは分からない。憧れも尊敬も家族愛も、当てはまるけれど多分正解そのものじゃない。
「私が今、貴方の目の前に立っている」
それでも私は、貴方の為なら死んだって構わない。そう思えるから。
「それが答えです。全てを奪うと豪語しておきながら、貴方は私からこの『感情』を奪えなかった。だから、貴方は私にすら勝っていない。その程度の男が、女王艦隊クイーン・フリート総旗艦代理『恐れ知らず』と戦おうなどと百年早いんですよ」
名前を付ける事に意味はないのかもしれない。
けれど私は――私の中に生まれたこの果てしなく大きく強い揺るがぬ想いをこそ『愛』と呼びたい。
本当の家族からは与えられることのなかったこの感情を、ロジャーが私にくれたこの想いを『愛』と呼ぶ事が出来たなら、それは素敵な事だと思うから。
「貴方の相手は、私で充分です」
相手は〝強欲が果ての騒乱〟アレクサンドロス。『女王艦隊』最強の男、『恐れ知らず』ロジャー=ロイでさえ歯が立たなかった怪物だ。 私なんかに、勝ち目があるとは思わない。
でも、遊戯の賞品である私が消滅してしまえば、賞品の争奪を前提としたこの第二遊戯:覇名彙徴問愛は崩壊するのではないだろうか?
正式な決着を迎えられない以上、この遊戯が無効試合となり奪われた部位がロジャーの元に戻る可能性は充分に考えられる。
私というロジャーを縛る楔がいなくなり致命傷が回復さえすれば、ロジャーなら厄災を相手に逃げ切る事だって出来るはずだ。
「いいだろう、そこまで言うなら壊れる程に奪ってやるよ。恋だの愛だの絆だのアンタら人類が信じ縋る悉くを――」
ずっと、ずっと思っていた事がある。
父の日でプレゼントを渡しそびれたあの日からずっと、私は貴方に恩返しがしたかった。
私は貴方に貰ってばかりで、何も返せていないから。
恩を仇で返すような形でしか貰ったものを返せない自分が情けないし歯がゆいし、結局私の行いは貴方を傷つけるんだと思うと、正直落ち込む。どうしようもない気持ちにもなる。
でも、今の私が貴方にしてあげられることなんて、やっぱりこれくらいしか思いつかない。
私は堅物で生真面目でつまらない重たい女だから。
いつも貴方にそんな風に言われていた意趣返しって訳でもないけれど、恩返しもそれなりに重たい感じになってしまうのも仕方ないかなって。
どうか自由に生きて欲しい。
英雄でも兵器でもなく、一人の人間として。外側から貴方を縛り付けるそんな定義に囚われないで、どうか心安らかに。
貴方を縛る呪いは――私は、もうこの世界からいなくなるから。
こんな滅びかけの世界で、絶体絶命の状況下で、何を馬鹿なことをと思うかもしれないけれど、それでも貴方が祈ってくれたように、私も貴方の幸せを祈ります。
「――さよなら、ロジャー」
末路を予期して目を閉じる。
本当は最後まで貴方の顔を見ていたかったけど、不細工な死に顔を見られるのは恥ずかしいから、ごめんなさい。貴方の記憶の中では私、最後まで綺麗でいたい――だなんて、流石に乙女が過ぎるか。二十四にもなって、何を言ってるんだろうって笑ってしまいそうになる。
「死んでも貴方を愛しています……っ!」
子供の頃と違って告白する勇気なんてありはしない。だから最後に、届かないと知っている陳腐な愛の告白を。
私は私から全てを奪わんとする破滅の魔手を、諦めたように受け入れて――
――ぐしゃり。何か、肉が潰れる破壊の音が、響き渡った。
次いで、破壊の痛みに漏れる野太い悲鳴。
「――ぐあぁぁ……ッ!?」
けれどそれは、私の顔面が潰れる音ではない。私が発した叫びではない。
未だ私は五体満足で、五感もこうして生きていて、だからこそ視界に映るその光景を、信じる事が出来ずに呆然とこう呟くのだ。
「うそ……」
その背中を、覚えている。
忘れられる訳がない。瞳に焼き付いた憧憬と重なるソレは、記憶の中のものと異なり血塗れで頼りなく傾いでいたけれど。
「いや、やめて…………なんで……どうして。貴方はもう、戦える身体じゃ…………っ」
その男は――私を押しのけるようにして私と厄災との間に割って入ったロジャー=ロイは、私を壊すはずだったアレクサンドロスの魔の手を無事な右手で受け止めると、そのまま木端微塵に握り砕いてしまったのだ。
「――く、馬鹿なッ。触れただけで、俺の手が崩れただと……!? いや、あり得ねえ。いくら神の能力者が頑丈とはいえ、まともに力を発動出来るようなダメージじゃねえはずだろ……っ、それにこの干渉力……死にぞこないのソレじゃねえッ!?」
崩れた右手を抑え、アレクサンドロスはその場から弾かれたように飛び退き距離を取る。
その目は信じられないモノを目にしたように見開かれ、この遊戯が始まって以来初めての動揺に揺れ動いている。
奇しくも、その光景に大きく動揺していたのは助けられた私も同じだった。
「……どう、して……」
……だって、有り得ない。
絶体絶命のピンチに都合よく救い手が現れるなんてことはもとより、人類を超える超常〝強欲が果ての騒乱〟として理不尽なまでの力で場を席巻していた『厄災』を退けるだなんて、妄想にしてもいくらなんでも話を盛り過ぎだ。
理性が、目の前の現象を否定する。こんな私にとって都合のいい出来事がこの冷たい現実で実際に起こる訳がないのに、と。
けれど、どれだけ目を擦っても、視界に映る現実は霞みはすれど揺らがない。
嬉しさと悲しさと悔しさと喜びと、相反する感情がぐちゃぐちゃと私の胸を搔き乱して、どうにかなってしまいそうだ。
知っているはずなのに。
諦めたはずなのに。
認めたはずなのに。
また貴方が私にとって都合のいい英雄だなんて、勘違いしてしまいそうになる。
「……違う。違うんです! こんな都合のいい夢みたいな展開、求めてないッ。だって、知っているんです、私。貴方はそうやって、自分を犠牲にして私を救ってくれるって……! でも、だからこそ嫌なんですッ。貴方に犠牲になって欲しくないから、私……っ。なのにどうして、どうして貴方は立ち上がってしまうんですかッ! ロジャー……っ!」
こんな叫びにも意味はない。
両耳を奪われ聴力を失っている彼には届かない。
そもそも意識だってちゃんとあるのか分からないような、そんな状態だったはずだ。
私の声なんて、絶対に聞こえていない、そうじゃなきゃおかしいのに。
「――いやなに、一つ……お前に言いそびれた事があってな」
奇跡みたいに、私の慟哭に応えてロジャー=ロイは振り返る。
私を慈愛で包み込むような柔らかな視線を向けて、疲れたような笑みをその顔に浮かべて。
いつもは全然気にならないけれど、そうしていると出会った頃と比べて随分と歳を重ねたんだなと実感するような、年齢を感じさせる笑みだった。
そうしてロジャーは、掠れた声で私に言う。
「……ユーリャ、俺は、お前にずっと黙っていた事がある」
「……はい」
「俺は……お前の英雄なんかじゃねえ」
「…………はい」
彼は私の英雄ではない。
そんな事はもう、頭ではきちんと分かっているけれど。それでも本人の口から直接そう告げられると、堪えるものがある。
「ユーリャ。お前の……」
食いしばった歯がぎちぎちと音を立てる。
続く言葉を飲み込んでしまわないよう、大きく長く吐息が吐き出された。
そして、僅かな――けれどここへ至るまで果てしなく長く重い逡巡と葛藤とを乗り超えて、
「お前の両親を殺したのは……俺だ」
ロジャー=ロイは、そんな真実を私に告げた。
「お前から家族を奪った悪党は、俺だ。俺だったんだよ。……もっと早く、気付くべきだった。最初に出会った時、お前に誰かの面影を感じたその時点で俺は気付けたはずなんだ。いいや、真実を知った時点でちゃんと話すべきだった。なのに俺は……だから――」
十数年越しの懺悔に、大好きな人の顔が後悔と罪悪感に悲痛に歪む。
それは、その真実を知ったその瞬間から、彼が一人抱き続けてきた途方もなく重い感情。私に呪われ、私を呪った彼をさらに強く縛り付ける罪の十字架そのものだった。
きっと、その十字架こそが、彼が私の前で私の英雄であり続けようとした理由の一つなのだと、分かってしまったから。
だから私は、彼に重たくのしかかるその十字架を、どうにか軽くしてあげたくて。
「……何となく、気付いてた」
みっともないくらいしわくちゃになった頬を伝って、涙が一筋流れていく。
困ったように眉根を寄せて、泣き笑いみたいな表情になった私は、彼の告白にそう応えた。
だって、私は。
例え貴方が私から全てを奪った人なのだとしても、それ以上に沢山の幸せを確かに貴方から……
「……ロジャー。それでも私は貴方を――」
「――ユーリャ」
割り込むように、名前を呼ばれる。
……遮られることは、分かっていた。
そう。この先の言葉を私が口にすることをロジャーは望んでいない。きっと続きを言ってしまえば、彼はもう立ち上がる事が出来なくなってしまうから。
「悪いな、嫌な役回りをさせる。それでも今は」
それでも言いたかった。伝えたい言葉が、ずっと言えなかった想いが、この胸にある。
だからどうか、行かないで。
そう、離れ往く背中を抱きしめて引き留める事が出来たら、どれだけ良かっただろうか。
「頼む。俺を赦さないでくれ」
私は、貴方を――
「ようやくだ。これで、ようやく俺は――」
立ち止まることなく離れていく背中に、私の声は届かない。
届ける事は許されない。
身体の両脇で、この身を焦がす衝動を堪えるようにぎゅっと拳を握りこむ。
この胸の内で何よりも熱く燃える想いを、喉元まで出かかっていた言葉を飲み込み、嚙み締めた唇から朱が一筋線を引いた。
溢れる涙はボロボロと、もはや頬を伝う一筋の軌跡には収まらず、足元に点々と雨を降らす。
私の声は、祈りは、どう足掻いても届かない。
けれどそれは当然のこと。
この物語には英雄なんて最初から存在しなくて、だから当然、英雄が救うべきヒロインなんて存在もいるはずがないのだから。
……ううん、それも違うのか。
これはきっと、私と彼が物語から目覚める為の戦いなんだ。




