第六十四話 一月五日 記録Ⅵ――VS.『七つの厄災』〝強欲が果ての騒乱〟/散り際に見る白昼夢Ⅳ 英雄譚に幕引きを
ロジャー=ロイの懇願を、あろうことかブラッドフォード=アルバーンは二つ返事で引き受けた。
ブラッドフォードの協力を取り付ける。
それは、勝率の低い賭けであり、ロジャー=ロイにとって今回の戦い最大の正念場となる。最悪の場合は戦闘すら避けられない――そう思っていただけに些か拍子抜けではあるものの、結果それ自体は喜ばしい。
そればかりか、ロジャーの懸念の一つだった彼の肉親の保護に関してもブラッドフォードは約束してくれており、既に先ほど全員の保護が確認されたとの連絡も入っている。
今頃、『争世会』もロジャーの不審な動きに感づいているかもしれないが、これで肉親を人質にされる最悪の展開は避けられる。
ブラッドフォードの正確な状況判断と迅速な指示。そしてそれに見事応えてみせる『強さの流儀』の練度、機動力。それらを改めて思い知らされる形となった。
敵対すれば厄介な組織だが、味方となった今これほどに頼もしい後ろ盾はそういない。
滑り出しはこれ以上ないくらいに順調。
これで思う存分に暴れることが出来る。
とはいえ、ここまで事がスムーズに運ぶとそれはそれで却って不気味に感じてしまうのが人間というモノで――
『――アンタ、何を考えている』
協力を要請した立場であるにも関わらず思わずそんな言葉が口を突いてしまう程度には、ブラッドフォードの思惑が読み取れないのも確かだった。
現状、都市の暗部がいかにブラッドフォードの手が届かない領域であるとはいえ、情報収集の手段がない訳ではない。
ロジャー=ロイが提示したリーク情報。ろくでなしの人殺しが誰の事を指し示しているかなど、この男は当然の如く見抜いている。
だとするならば、ブラッドフォードがロジャーの協力要請を受け入れた理由はリーク情報とは異なる部分にあるという事になるのだが……。
『……』
そんなロジャーの問いかけに、やはりブラッドフォードは意味深な視線を向け薄く笑うばかりで何も答えようとしなかった。
獅子のように厳しくも雄大な瞳は底が知れず、何かを読み取ろうとその瞳を見据えるこちらが飲み込まれてしまいそうになる。
ブラッドフォード=アルバーン。
その身一つで成り上がり、新人類の砦の頂きにまで上り詰めた最強。
かつてロジャー=ロイが憧れた、英雄そのものであるかのような男。
全てをねじ伏せる圧倒的な腕力ばかりに目がいきがちだが、ただそれだけで新人類の砦の支配者として君臨出来ようはずもない、という事か。
『……いや、いい。アンタの狙いが何であれ、俺がやるべき事は変わらねえ。今は時間が惜しい、情報は後で渡す。アンタは後詰めを頼む』
『――小僧』
『……なんだよ』
『我に示してみせるが良い。その身、その槍で何を貫くか。貴様の成すべき事とやらを」
踵を返した所を呼び止められ、首だけで振り向いたロジャーに向けられた試すような不敵な笑みと言葉。
自然、それに自嘲混じりの苦笑を浮かべて。
『……知るかよ。言ったろ、アンタの狙いが何であれ、俺のやるべき事は変わらねえんだよ』
ぞくりと背筋を駆け抜ける正体不明の鳥肌を無視して、それ以上は振り返らずに都市最強の男の元を後にする。
対峙した時間こそごく僅かだったが、ブラッドフォード=アルバーンという男の底知れなさの一端を垣間見た気がした。
「ナンバープレート照会――、一致。標的の搭乗するワゴン車を発見しました」
と、ロジャーの少し前方から響いたそんな声に、思考が過去より現実へと引き戻された。
瞑っていた目を開けて、窓の外へと目を向ける。
「早いな、流石は最新機。実験都市サマサマだな」
「性能については隊長も太鼓判を推しているくらいですからね。と言っても、残念ながら本機は天界の箱庭製の輸入機体なんですけど」
「……ま、そりゃそうか。天界の箱庭と違って新人類の砦にそっちの開発にまで掛けるような金はないわな」
「未知の楽園よりはマシでしょうけどね」
「はは、違いねえ」
雑談に応じながらも、ロジャーの視線は窓の外を走るワゴン車から一度も外れない。
……絶対に逃さない。逃がしてなるものか。
緩められた口元とは対照的に鋭く細められた瞳からは、そんな強い意志が感じ取れる。
(――追いついたぞ、クソ野郎)
ブラッドフォードと彼の率いる『強者の流儀』の協力を取り付けた今、ユーリャ=シャモフを攫い逃走した未知の楽園の工作員エアルを補足する事はそう難しい事ではなかった。
新人類の砦の誇る監視網をフルに活用する事で誘拐犯どもとその車を特定、足取りを追跡。
さらには、今となっては実験都市最大の勢力、規模を誇る治安維持部隊である『強者の流儀』による人海戦術で徹底的に逃げ道を封鎖、さらには包囲網にあえて一部穴をあける事でエアル達を誘導する。
(……幼稚園児でも分かるあからさまな罠だ。だが、そうだと分かってもお前は食いつかざるを得なかった。それで確信が持てた)
エアルの目的は分かっている。
奴が依頼されたのは、新人類の砦の研究者が残した『神化』に関する研究レポートの強奪。
奴の手には既にその研究レポートがあるが、USBに記録されたデータにはロックがかかっており、閲覧には生体認証でロックを解除する必要がある。
(手元に機材がねえんだろ。分かるぜ、そうじゃなけりゃあわざわざユーリャを攫って未知の楽園へ連れていく理由がないし、こんな誘いに乗る必要もない)
本来であれば、ユーリャを攫い迅速に新人類の砦を離脱し、未知の楽園まで逃げ帰ってから安全に生体認証を行うつもりだったのだろう。
だが、ユーリャを攫った時点と今とでは都市全体の警戒度が大きく異なっている。ありとあらゆる関所には検問が敷かれ、都市への入退出にも制限が掛かっている状態。こうなっては、流石のエアルとてユーリャを連れたまま新人類の砦を脱出するのは困難なはずだ。
(これだけ警備が厳重になれば話は違う。お前は現地での解除を試みようとする。なにせ、邪魔な荷物を下ろしちまえばお前一人ならいくらでも逃げられるんだからな)
エアルが使っていた連中が未知の楽園の人間ではなく、新人類の砦の人間だという事も調べがついている。
単身で敵地へ乗り込み、現地で人材を募り、捨て駒として使い潰す。おそらく、それがエアルの基本スタイル。
姿を眩ます神の力とその身の軽さは、なるほど確かに潜入任務向きだ。人を人とも思わないその冷徹さと併せて、工作員に適している。
だが同時に、その事実はエアル一人を倒してしまえば事態は一気に収束へ向かうという事も示している。
一部開放した包囲網、連中の誘導先は工業地帯。エアルは、そこで生体認証を行おうとするだろう。罠だと分かっていても、邪魔なユーリャをさっさと使ってしまって身軽になりたいと考えるはずだ。
後は予測されるルート上に先回りして、奇襲を仕掛けるだけ。
「――予定作戦エリアに到達。いつでも行けますが、扉を開きますか?」
「ああ、かくれんぼも鬼ごっこもまとめて終わりだ」
上空およそ六〇〇メートル。
操縦手の神の力により騒音を除去した静音ヘリコプターより眼下を走行するワゴン車を見下ろしながら、ロジャー=ロイの口端が獰猛な笑みの形に吊り上がる。
ホバリング状態へ移行したヘリコプターの扉が開き、操縦手からのGOサインが下る。あとは、事前の打ち合わせ通り機内に搭載された兵器を地上目掛けて投下するだけだ。
「運搬ご苦労サン。んじゃまあ、後は任せて貰おうか」
手段は問わない。
何を使ってでも彼女を救い出すとそう決めた。だから、恥も外聞もなくブラッドフォード=アルバーンの手を借りてこの状況を作り上げた。
ならばあとは勝利するのみだ。
この偽りだらけの英雄譚に幕を引くべく、最後の最後は英雄のように見事悪を打ち倒し、囚われの少女を救ってみせよう。
「……ご武運を」
都市の治安維持を担う組織の一員らしい堅苦しい敬礼に苦笑しつつ、ロジャー=ロイは躊躇なくその身を中空へと投げ出した。
命綱もパラシュートも必要ない。
なにせこの身は、全てを破壊するただ一筋の槍なのだから。
☆ ☆ ☆ ☆
「予想よりも対応が早いですね。……俺としたことが、些か敵を侮り過ぎましたか」
手にした情報端末から、あるいは耳にセットした無線のイヤホンから。絶えず変化する実験都市の状況をリアルタイムで把握すべく各地に配置した人員を使って様々な情報を収集していたエアルは、既に想定していた脱出ルートが八割方遮断されている状況に呟きを漏らした。
現在、エアルは新人類の砦最南端に位置する港を目指し陸路を進んでいた。
誘拐に使ったトラックを乗り捨て道端で新たに盗んだワゴン車に乗り込んでいるエアルは、車の運転を雇いの傭兵に任せ助手席に座り、窓を半分ほど開けた状態で窓枠に腕を持たれかけさせ、どこか不機嫌な面持ちで風を浴びるように顔を外に出している。
先ほどまで降っていた雨はもう止んでいるとはいえ、相変わらずのどんよりとした曇天に湿り気を帯びた風は決して心地の良いものではなかったが、ワゴン車の持ち主が喫煙者だったらしくシートにまでこびり付いたタバコの匂いに包まれるよりはマシだ。
後部座席には意識を失った状態でぐったりしているユーリャ=シャモフとその監視の為の人員が一人座っているのだが……震える手で銃を抱えるその男は、血の気の引いた顔でしきりに窓の外を確認しており、緊張と怯えとが手に取るように分かってしまう。
(……使える駒も随分と減ってしまいましたね。まあ、各地に散らしてある『目』と『耳』が生きていれば任務に支障はありませんし、死んで貰った方が報酬を払う必要もなくなるので別に構わないのですが――次からはもう少し質にも気を遣うようにしますか)
エアルはその神の力の性質上、単身で敵の懐へと潜入することが多い。
そのため、エアルが使う人員は基本的に現地調達の使い捨てだ。
ロジャーに壊滅させられた部隊は勿論、今車内にいる人員もあらかじめ予備として用意していた補充要員に過ぎないので、元から捨て駒以上の働きは期待していないのだが……この様ではこちらの求める最低限の働きさえ全うしてくれそうにない。
とはいえ、エアルのやるべき事は変わらない。
問題が発生すればその対応策を考え、実行し指示を出し指揮を執る。
神の力を活かした単独行動と現地調達の捨て駒故の身軽さという自身の持つ利点を最大限に活かせるかどうかは、エアル自身に掛かっている。
エアルは、開いた窓から吹き込む風に目を閉じながら、現状をもう一度整理するように独り言をぽつりと落としていく。
「……ブラッドフォードの支配に反発している『争世会』上層部の一部が秘密裏に利用している貨物船。運航ダイヤにも記されていない存在しない便というのは、密航に利用するにはうってつけだったのですが……」
元々新人類の砦はロシア軍基地のあったセヴェルヌイ島に建設された実験都市だ。
地下とは言え自然公園のど真ん中に位置する陸続きの未知の楽園とは異なり、都市の外へ脱出するには空路か海路を頼るしかない。入退場を徹底的に『争世会』が管理している都合上、港は東西南北に一つずつ。空港に関しては南端に一つしか存在しない。
当初の予定では、ユーリャ=シャモフを確保後は南端の貨物船に乗り込み欧州経由で未知の楽園へと戻ろうと思っていたのだが……周辺の道路情報を見るに、既に港までの道のりに検問が敷かれていると見て間違いないだろう。
港の方も、準備が整い次第貨物船の積荷の再チェックが行われるだろう。検問はそのための時間稼ぎでもあるはずだ。
「ブラッドフォード=アルバーン。対立の表面化を恐れず、ここまで堂々と踏み込んでくるとは。部隊の展開も実に迅速で無駄がない。暴力だけの男ではないという事ですか。……いや、それよりも恥も外聞もかなぐり捨てて自らに取れる最善手を打った彼を称賛すべきですかね」
予備に用意していたルートも、既にブラッドフォード率いる治安維持部隊『強者の流儀』の手が及んでいる。
単身での離脱ならばいくらでも取れる手段はあるが、ユーリャ=シャモフを連れてだとその選択肢も限られてくる。
ならば、この場でユーリャ=シャモフを使用してデータのロックを解除し、USBのみを持ち帰るのが最善か。
しかし、盗んだデータそれ自体は手元にあるが、ロックを解除する為の生体認証を行う為の機材が手元にない。
「……仕方がありませんね。少し、寄り道をする事にしますか」
機材がある場所に立ち寄り、そこでロックを解除する。
ユーリャ=シャモフを連れての脱出が困難となった以上、生体認証によるロック解除を先に済ませてしまおうという考えに至るのはごく自然な流れだったが、エアルは情報端末に表示される『強者の流儀』の包囲網の分布から、その結論が誘導されているものだと理解していた。
南端の港へ向かう途中にある工場地帯へのルート。ここだけがぽっかりと連中の検問エリアから外れているのだ。
(……おそらくは、罠。というよりも、ここまで露骨だと誘っていると言った方がいいですかね。いいでしょう、その安い挑発に乗ってあげますよ、ロジャー=ロイ。アナタが俺をどう攻略しようとするのか、楽しみ――)
運転手に指示を出し、進行方向を変更した直後だった。
――走行中のワゴン車の側面に超速で飛来した何かが突き刺さり、直後。破壊の共振が車体を伝播して凄まじい轟音と共に車体が爆発炎上した。
☆ ☆ ☆ ☆
――彼に、信ずるに足る信念などなかった。
焦れるような理想を抱いた事も。
届かぬが故に手を伸ばした憧憬も。
絶対に譲れない志も、揺るがぬ正義も。
生まれてから今までそのような確たる代物には縁がなく、だからいつだって彼の手元にあったのはふわふわと掴みどころのない鬱屈とした退屈だけ。
だから――
特にこれと言った理由もなく実験都市の暗部に身を置き、窃盗から誘拐、果ては殺しまで何でもござれの便利屋として日銭を稼いで刹那的に生きてきた彼にとって、与えられる任務とはある種の娯楽。それこそゲームのようなものだ。
高難易度のゲームを如何にクリアするか。あるいは、簡単なゲームに自ら条件を設け、縛りを設定した状態でいかに攻略するか。
幼い頃から要領がよく、器用で頭の良い子供だった彼にとって、人生とは取るに足らないものだったのだ。
とはいえ別段、彼が特別抜きん出て秀でた人間だったという訳ではない。
確かに彼は優秀ではあったが、彼と同い年でより成功した人間も、彼以上に要領がよく器用で頭がいい人間も、彼とは比べ物にならない才能を有した人間も、探せばそれこそいくらだっていただろう。
ただ、幸か不幸か彼はこれまでの人生で一度も挫折というものを味わった事がなかった。
彼の前に現れる壁は、いつだって彼が余力を残して乗り越えられるようなものばかりで、努力も敗北も挫折も諦観も彼の人生には無縁の代物で、勝利も成功も珍しいものではなかった。
例えるのなら、人生というゲームの難易度がイージーで固定されてしまっているような停滞感。何をしていてもどこか物足りなくて、積み上がっていく成功勝利とは裏腹にその心は満たされない。
だからこそ惰性に、慣性に。目的意識も向上心もないまま暇を潰すように今日までを生きてきた。
それが彼にとっての人生の価値で、その程度にしか自らの人生に価値を見出せなかったことは、いっそ悲劇ですらあったのかもしれなかったけれど。
「……正気ですか、アナタ」
だから、爆炎を背景に佇むその男に、彼は今までの人生で感じたことのない感覚を――高揚とも畏怖ともつかぬ生まれて初めての感情を覚えたのだ。
「――よぉ。会いたかったぜ、陰険透明男」
☆ ☆ ☆ ☆
――落ちた。落ちる。真っ逆さまに、どこまでも吸い込まれるように空を滑り落ちていく。
否、その表現は適切ではない。
己は天高くより投下された槍である。
ならばこれは標的を打ち抜く為の加速に他ならない。
音に迫る速度で打ち下ろされた破壊の槍は風を、空気を、音を、新人類の砦の空をその穂先で引き裂きまっすぐに突き進んでいく。
一秒を切り刻んだ無数の時間。緩慢に流れゆく刹那、その微かな間隙の間に、世界はどんどん視界の遥か彼方へ流れ往き眼前に広がる地平が眼前に迫っている。
予測と現実のズレ。誤着弾地点は標的のワゴン車から誤差三メートル。
故に、着弾の寸前、ロジャー=ロイは共振ではなくシンプルな衝撃波を地面目掛けて叩きつけ、槍の軌道を強引に九十度修正。
落下により蓄えたエネルギーを無駄に放出する事もなく、走行中のワゴン車目掛けて文字通りの飛び蹴りを叩き込み――次の瞬間、凄まじい轟音と共にひしゃげたユーリャを乗せたワゴン車が大爆発を起こした。
肌を焦がす熱。視界を塗り潰す光。そして――鼓膜を突き破り、脳を揺るがすような轟音が鳴り響く。
爆発炎上し、完全なスクラップと化した鉄の塊から間一髪で飛び出した人影は一つだけ。
「……正気ですか、アナタ」
燃え盛る鉄塊を背にして、正面。ロジャー=ロイは己の敵と対峙する。
背が高く線の細い、暗い茶髪を小さなポニーテールにまとめた軽薄で中性的な男だった。
ロジャー同様に動きやすさを重視した軽装、必要最低限の防具と火器を装備した同じ穴の狢は、装備の所々を焼き焦がしながらも爆破によるダメージをゼロに抑えたらしい。
思わず零れたという調子の舌打ち混じりの忌々しそうな呟きとは裏腹に、エアルの顔に張り付いていたのは狂ったような喜悦の色だった。
だから、こちらの正気を問うその質問にまっとうに答えてやる気になどなれなくて、答えの代わりに素直に今の心情を吐露すると、
「――よぉ。会いたかったぜ、陰険透明男」
自然口元が獰猛に吊り上がる。
そんなロジャーの反応を見たエアルもまた、薄い笑い声を漏らしながら。
「これまた随分と熱烈な殺意表明ですね。それに……どうやら先の問いは愚問だったようですね。既に存分にトチ狂っていられるご様子だ」
相も変わらず人を小馬鹿にしたような大仰な芝居がかった挙動で肩を竦め天を仰いで、クイとロジャーの背後で燃え盛るスクラップを顎で指し示すエアル。
轟々と燃え盛るそれに、最早ワゴン車としての原型を見出す事は難しい。それほどまでに破壊し尽くされた車に残っている人間がどうなっているかなど一々考えるまでもないだろうと、エアルは嘲笑と憐れみと侮蔑をかき混ぜたような表情で鼻を鳴らす。
「アナタにとってもあの子は大切な存在だったのでしょう? それを諸共爆破させるなんて可哀想に。それとも、誰かに奪われるくらいなら自分の手で――などという歪んだ愛の為せる業ですか?」
これほどの爆発。車内にいた人間はまず助からない。分かっている、そんな事は百も承知だ。それでも破壊の槍として、ロジャー=ロイは全てを理解したうえでこの破壊を実行した。
ならばそれは歪んだ愛が成せる業なのか?
ああ、それも否定は出来ないかもしれない。
ロジャー=ロイと彼女の関係は歪んでいる。
両者を繋ぐ絆は、絆であって絆にあらず、それはきっと呪いと呼ぶべきものだから。普通ではなく普遍でもない不変ですらなく時の流れによって二人を蝕む瑕疵へと化けるであろうその絆はきっと、歪と表現するに相応しい。
だが今は、そんな些細な事はどうだって良い。
目の前の男の鼻につく小芝居も、今は欠片も気にならない。
ロジャー=ロイは、これまでの鬱憤を晴らすように勝ち誇った笑みをその顔に刻み込んで、
「は、とんだ節穴だな、お前」
「なに……?」
「まだ分からないか? 俺は破壊の槍だ。この身で貫きぶち壊す対象の選別くらい訳はねぇって言ってるんだよ」
ロジャーの言葉にまさかと瞠目し、今日初めての動揺を露わに再びワゴン車へと目を凝らすエアル。
そこで彼が目にしたのは――木っ端微塵に爆破炎上し塵屑同然の鉄塊と化したはずのワゴン車の後部座席部分が原形を留めているというあり得ない現実と、まるでそこだけ時間の流れから取り残されてしまったかのように穏やかな寝息を立てる火傷一つないユーリャ=シャモフの姿だった。
それが、その事実が意味する所を、エアルは石のように固まったまま考えて――その答えに、辿り着いた。
一歩、思わず後ずさり、男は呆然としたままふるふると首を振る。
「……そんな、馬鹿な」
驚愕か。畏怖か。それとも戦慄か。開いた口から零れるエアルの言葉は、色を失い小刻みに震えている。
「まさか、破壊の共振ではなく相殺の共振を振るったと言うのですか? あり得ない。あの速度で衝突して、そんなことをすればアナタの身だってもたないはずだ……!?」
遥か上空より走行中のワゴン車目掛けて飛び蹴りをぶちかますと同時、ワゴン車の後ろ半分に伝播する爆発の衝撃を震え恐怖ににより『相殺』する。
失敗すればユーリャ=シャモフはまず間違いなく助からない。それどころか、落下の衝撃をその身体に受けるロジャー=ロイだって無事では済まないだろう。
どう考えても頭がおかしいとしか思えない、机上の空論どころか妄想妄言の類だと切って捨てるべき曲芸まがいのふざけた芸当を、目の前の男は一発勝負のぶつけ本場で見事成功させてみせた。
それが事実であると、目の前の事象が物語っている。
だが、頭ではそうだと理解できても感情が追いつかない。
理性ではなく感情で目の前の現実を否定しようとするエアルに、ロジャーはあくまで涼しい顔でいともあっさりと言う。
「問題ねえよ。どのみち、お前に撃ち抜かれた脚は使い物にならねえからな。この一撃で終わらせれば、何もかも」
元々、エアルとの戦いにより脚を負傷している今のロジャーに、素早く複雑な近接戦闘をこなすのは無理があった。
ブラッドフォードの元で応急手当を受けたとはいえ、所詮は応急手当。戦いが長引けば長引くほどに傷口は開き、悪化し、ロジャーが不利になるのは目に見えている。
だからこそロジャーは早期決着を望んだ。それと同時に、姿を消してしまうエアルの攻略法を考えた。
相手の神の力の正体はまだ分からない。
ただ、常時発動の垂れ流し型ではなく力の発動にオンオフがある以上、その隙を突くことは十分に可能。
まず大前提として、襲撃に感づかれればエアルは再びその神の力を用いて、ロジャーの一撃から逃れてしまうだろう。そのうえ、こちらの脚は使い物にならない。
上記の二点から、初撃を回避されれば追撃は困難。
チャンスは一度きり。
ならば、脚を用いることなく回避不可能な速度まで加速してしまえばそれでいい。
――超高度からの落下を利用した加速による最大最強の一撃をエアルの知覚の外からぶちかます。
それが、現状のロジャー=ロイの手札の中で最も確実にエアルを撃破できる方法だったのだ。
「……そうだ。俺はこの一撃で何もかも終わらせるはずだった。だがお前は生き残った。あの奇襲をどう察知したかは知らねえが……認めてやるよ、エアル。お前は強い。今まで俺が壊してきた誰よりも強かだ。それは、俺の知らない強さだった」
最初から、神の能力者としての能力で負けている点など一つもなかったはずだった。
干渉レベルも、生まれ持った力の質も、才覚も、圧倒的にロジャーが上。
それでもエアルは、最強などとは程遠く王道とは決して呼べないその力と戦い方で、最もロジャー=ロイを苦しめた。
慢心や油断があった事は言い訳にならない。戦局を完全に支配され、最後の最後まで掌のうえで転がされ続けた完全敗北の苦い記憶がある。
絶対の確信を持って繰り出された奇襲攻撃。ワゴン車諸共エアルを粉砕するはずだったあの一撃を、直撃の寸前で感知し回避された事も完全な想定外。
エアルを名乗るこの男は、ある意味ではロジャー=ロイが初めてぶつかった壁であり、一種のターニングポイントですらあるのだと。
と、そんなロジャーの言葉を黙って聞いていたエアルは、これ以上は堪えきれないと言った様子で盛大に吹き出した。
「……くっくく、あはっ、あはははははははははははははははははは……!! いや、上から目線で勝ち誇ってる所本ッ当に申し訳ないんですけどねぇ、アナタ、自分の発言を自分で理解できてますか……?」
これまでの動揺も驚愕も何もかも、一切合切が吹き飛んだ、タガが外れたような哄笑だった。
眼前の敵を讃え、その強かさを称賛するロジャー=ロイ。その的外れな言動にエアルは腹を抱えて笑いだす。笑うしかない。
だって、そうだろう。
何もかもを終わらせるつもりで放った諸刃の一撃を紙一重で躱したエアルと、攻撃の反動で一人手痛い反動を受け、既に戦闘不能に近い状態のロジャー=ロイ。
どちらが優勢であるかなど、火を見るより明らかだ。
それなのに、まるで既に決着が着いたような物言いで、自らが勝者のような余裕と傲慢さとでエアルを上から評しているのだから、こんな滑稽なことはない。
滑稽なことはない、はずなのに――
「アナタの言葉が本当なら、今追い詰められているのはアナタ自身という事になるんですよ? 状況、分かっているんですか?」
「……」
問いに、ロジャーは答えない。
……なんだそれは。
笑う。
気に入らない。
ふざけている。
笑えない冗談だから、笑うしかない。
エアルの零す乾いた笑い。それは彼の苛立ちであり、憤りであり、怒りだった。
必殺を躱し、有利に立っているのは自分のはずなのに、まるで勝利を確信しているかのような堂々たるロジャー=ロイの立ち姿が、エアルの心を搔き乱す。
その威容がまるで、絶対に敗けることのない物語の英雄のように思えてしまって――
「――確かに、裏の人間であるアナタがあのブラッドフォードに協力を仰いだのは予想外でした。狙い通りに誘い出され足も駒も失い、ユーリャ=シャモフまで奪い返された。ですが、それだけです。碌に動けないボロボロのアナタ一人、どうとでも出来る」
事実、ロジャーの肉体は超高度からの蹴撃の衝撃の反動で内外共にボロボロに傷ついていた。
筋肉や骨格は愚か、内蔵もダメージを受けている。それらの傷は決して無視していい代物ではない。
エアルの指摘通りだった。
意識を保ち、こうして立っているのがやっと。現時点でのロジャーは戦闘はおろか、走る事さえ儘ならない状態にある。
だから、終わりだ。
これでもう、終わりのはずなのだ。
「アナタを殺す予定はありませんでしたが――」
カチャリ。
擦れるような金属音を伴って、腰の銃火器を構えるエアル。その銃口はロジャー=ロイの心臓を真っ直ぐに射抜かんと、重たい黒光を放っている。
神の能力者を相手取るべく天界の箱庭で開発された代物だ。いかに神の能力者の肉体が頑丈であろうとも、肌を貫き心臓を貫かれれば死に至る。
今のロジャー=ロイに、銃弾を回避するだけの力は残されていない。
だから。だから。だから……!
次の瞬間、銃を構えるエアルの姿が空気に溶け入るように消えていく。
そうして誰もいなくなった空間から、殺意の籠もった声だけが響き始める。
「――気が変わりました。アナタの存在は、後々未知の楽園にとって大きな障害となり得る。だから……」
まるでそれはいつかの対峙の焼き直し。
エアルの有利は変わらない。それどころか、ロジャー=ロイの負傷の度合いを鑑みれば前回よりも条件が良いまである。それなのに。
(なんだこれは、なんなんだこの嫌な感覚はッ。知らない、不快だ不愉快だ。こんな気持ち悪い胸のざわつき、俺は知らない――)
何故自分はこんなにも焦っているのか。エアル自身にも説明出来ない炎に追われるような焦燥感があった。
挫折なんて知らない。
一人では乗り越えられない壁にぶつかったこともない。
敗北という敗北を味わった事がない。
難易度イージー固定のヌルゲー。それがエアルの人生だった。
仮にエアルに絶望があったとすれば、それは生きることの退屈さ。
停滞した己の人生のつまらなさこそがエアルが唯一勝利し得なかった敵で、だからこそ眼前に現れたロジャー=ロイという強敵は、エアルの退屈を破壊してくれる敵キャラなのだと、そんな心躍る予感があったのに――
「死んで下さいっ、今ここで……!」
絶叫と同時、自身に宿る力を起動する。
『空力操作』
自身の半径一メートル圏内の空気の密度を操る力。
空気の層を重ね蜃気楼のように姿を眩ましたり、自身から出る音の伝達を阻害、あるいは空気を圧縮して弾丸を作成、射出したり空気の壁で身を守ったり、様々な応用が可能な、干渉レベルBマイナスの神の力。
その力でもって周囲の空気を圧縮し弾丸を生成し、空気圧もって弾丸を射出する砲身機構を同時に作成。
さらには砲身を包むように二重の空気の層を展開し、砲身部分を真空状態に。音の伝達を阻害する。
この複雑な工程を僅か二秒余りで達成し、そうして放たれるは見えず聞こえない認識不能の必中必殺の弾丸。
不可視にして無音の一撃が、ロジャーの命を簒奪すべく放たれた。
☆ ☆ ☆ ☆
――「アナタの言葉が本当なら、今追い詰められているのはアナタ自身という事になるんですよ? 状況、分かっているんですか?」
別に、エアルの問いかけに答えなかった事に深い意味などない。
エアルの指摘の通りロジャー=ロイの身体はボロボロで、単純に無駄な事を喋っている体力も余裕も残されていなかったというだけの話なのだが、エアルはそうは思えなかったらしい。
とはいえ、それも無理はないのかもしれない。
既に死に体でありながら堂々たる威容を誇る若き偉丈夫の立ち姿は、まるで物語の英雄のように気高く美しく、他者を圧倒する存在感があった。
ただそれは、勝利を確信した余裕などでは断じてなくて――
(――集中しろ)
身体中の骨が軋む音がした。
落下の衝撃は臓腑蝕み、咥内は血の味で染まっている。
既に立っている事が精一杯なロジャーに、エアルの攻撃を回避する手段はない。
全てを終わらせるべく放った諸刃の一撃を回避され、唯一の勝機を逃したロジャーに、残された選択肢など限られている。
(――超えろ、今ここで。己の限界を)
今のロジャーに、エアルを打ち倒す手段はない。
ならば、ロジャーに出来る事などただ一つしかないだろう。
エアルを打ち倒す手段を。勝利を手にする最強を。少女を救う英雄を。
今此処で、今この瞬間に、今この手に掴み取る……!
(……出来る出来ないの話じゃねえ、やれなきゃ此処で死ぬだけの話。簡単だろ、いつもと何も変わりはしねぇんだから)
大した価値もない人生だ。別に、自分が死ぬのは構わない。
ここで勝とうが負けようが、どの道もう、光へは戻れない。
この薄汚れた世界はとうの昔に狂っていて、生きていたって苦しい事ばかり。きっと自分はこのまま一生泥と闇の中で藻掻き続ける、よくて牢獄の中なんて人生だ。
夢も理想も正義も憧れも、何もかもを諦めた。
縋り付いた微かな希望も、もうこの手には掴めないと知っている。
ユーリャ=シャモフとの出会いは最初から間違っていて、血に塗れた人殺しの兵器には、彼女の笑顔を守る資格なんて欠片もなかったのだから。
だけど。それでも。最後に、一つだけ。
あと一度だけだからと、ロジャー=ロイは奇跡を願う。
(――この身、この命が壊れ果てようと構わない。ただの一度限りで構わねえんだ)
人の道を外れた我が身にではない。英雄を待ち望む罪なき少女に、ありもしない優しい噓を。
(俺を、あの子の英雄に――)
――願う。血が沸騰するような感覚に。/足りない。だが、足りない。
ロジャー=ロイの視界が白熱し白濁する。/神へ捧し供物が、贄が。すなわちその■■が。
そうして意識までもが暗闇のような白へと塗り潰れて。/己が裡に眠る『神』が、微睡より目を覚まして。
そして。/けれど。
そして。/感情値は。
そして。/閾値へ。
そして。/至れず。
そして……/故に……
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あ……?」
最初に感じたのは、温もりだった。
つまりは触覚。
掌に、腕に。人の暖かさと確かな命の重みを感じる。
……記憶に欠落がある。自分の現状と、その前後に関する認識がすっぽりと抜け落ちていて、自分の名前を思い出す事にさえ多少の時間が掛かった。
しかし相変わらず、意識はどこか靄がかったように曖昧で、今の今まで自分が何をしていたのかまるで思い出せない。
この腕に感じる人の温もりに関しても覚えがない。
そうやってまるで実感のない感覚に戸惑っていると、次に嗅覚と聴覚が、花のように爽やかな甘さを含んだ少女の髪の香りと、緩慢に歩く自らの足音とを伝えてきて、最後に視覚が回復する――
「――……ユーリャ」
一目、目にした瞬間。思い出すべき事を思い出すより前に、全身に安堵の感情が駆け巡っていた。
ユーリャ=シャモフ。
ロジャー=ロイが全てを賭して守ろうとした希望は、ロジャーの腕の中で穏やかな顔で安らかな寝息を立てていた。
「そう、か。俺は……掴めたんだな、最後に」
……ああ、良かった。本当に。
ユーリャが生きている。
ただそれだけの事実に全身の力が抜ける。この瞬間にも膝から崩れ落ちてしまいそうな程に安心した。
ユーリャが攫われてしまった事や、彼女を取り戻す為にブラッドフォードに協力を要請した事、そしてユーリャを救うべく頭上より奇襲を仕掛け、エアルと対峙した事。抜け落ちていた様々な記憶が次々と脳裏に蘇ってくる。
依然としてエアルとの決着をどのように着けたのかだけは曖昧で、中々うまく思い出せないけれど、そんな事は些細な事だ。
身体中、全身に罅割れたような傷が走っている事も、一歩歩くたびに骨という骨が悲鳴をあげる事も、口の中の血の味も、断裂する筋肉の苦悶も、何もかもがどうだっていい。
重要なのはただ一つ。ロジャー=ロイは最後にもう一度、ユーリャ=シャモフの英雄となって彼女を救う事が出来たのだ。
「……ろ、ジャー……?」
安堵と喜びを嚙み締めていると、腕の中で少女が身じろいで、寝起きのかすれた声をあげた。
ロジャーは、己の不安定な感情を悟られぬよう、意図してユーリャを安心させるような笑顔を作って、
「ああ、悪い。起こしちまったか。もう大丈夫だから、お前はまだ寝て――」
「……ん、なさい」
そんなロジャーの言葉を遮る形で、ユーリャの小さな唇が言葉を紡ぐ。
まだ半ば微睡にあるような状態で、それでもユーリャはロジャーへと必死で言葉を届けようする。
「……ロジャー、昨日はわがままを言って、ごめん、なさい。わたし……知ってたのに。ロジャーが、わたしの為にいつも頑張ってくれてること。なのに……」
きっとずっと、彼女はそれを言いたくて、伝えたくて、でも踏ん切りがつかなくて、きっかけが見つからなくて言い出せずにいて、それが苦しかったから。
意識が薄ぼんやりとしている今だからこそ、彼女の言葉は鮮明に形を取って、その気持ちを真っ直ぐにロジャー=ロイへと届けることが出来るのだろう。
「……いいんだ。約束を破ったのは俺の方だ。だから、お前が謝ることなんて何もねえよ」
ロジャーはユーリャを抱き直し、その顔を自らの胸に埋めさせると、ブロンドの髪を梳くようにその頭を優しく撫でてやる。
何も怖い事なんてなかったから、まだお前は寝ていていいのだと、夜泣きする子供をあやすように。
「わがままを言ってごめんなさい。困らせてごめんなさい。一人で勝手に出かけてごめんなさい。迷惑をかけて、ごめんなさい」
「……違う。何も悪くない。お前は、一つだって悪く……」
「でも、ね。わたし、今日はロジャーにどうしても言いたかったんです。……いつもありがとう、って。だって今日は……父の日だから」
父の日。
ユーリャの口から出てきたその単語に、ずきりと胸が軋んで痛む。
「わたし、一度も父の日をやったことはないし、そもそもロジャーはわたしのお父さんじゃないです。けど、家族ってきっと、こういうのかなーって。ロジャーと一緒にいて思ったの。だから……プレゼント、買いにいきたかった。ロジャーはいつもわたしを助けてくれて、優しくしてくれて、なのにわたしは、何もロジャーに返してない。何も、出来てない」
「……別に、優しくしたことなんてねえよ。全部、単なる気まぐれだ。恩を感じる必要なんざ、どこにも」
……ユーリャの顔を見ていなくて、さっき彼女を抱え直しておいて本当に良かった。きっと自分は今、酷い顔をしているだろうから。
「ねえ、ロジャー」
そんな風に愛おしげに、名前を呼ばないでくれ。
ユーリャが無事でいてくれた。彼女を救う事が出来た。それだけで救われたし、報われた。
果たすべき責任も果たした。
こんな血に塗れた人殺しを英雄だと信じる少女の夢を壊すことなく、最後まで偽りの英雄を演じきってみせた。
「いつも、助けてくれてありがとう」
だからもう、思い残すことなどなにもない。
これでようやく、終わらせる事が出来るんだ。
「わたしと、一緒にいてくれてありがとう」
間違った出会いから始まってしまった二人の関係を。
呪いを掛けて、駆けられた。この歪な形をした絆を、断ち切る事が――諦める事がようやく出来る。
出来る、のに……。
「ロジャー、大好き、愛してます。わたしの、英雄……」
大胆不敵な愛の告白と共に大好きな人の胸に顔を埋め、その匂いに包まれながら再び少女は静かに眠りにつく。
その静かな寝息を耳にしながら、ロジャー=ロイは震えながら一度だけ、呟いた。
決して届かず、聞こえない。
されど分かり切っている、その答えを。
「ああ、俺も――」
英雄になどなれないと最初から分かっていた。だから、偽りの英雄譚はもうおしまい。
それでも、叶う事ならば。
少女の愛するその夢が、永遠のものになればいいのにと。どうしても、そう思わずにはいられなかった。
「……時間、だな」
遠くからサイレンの音がする。
物語は幕を引き、冷たく退屈な現実へと引き戻される時間がやってくる。
☆ ☆ ☆ ☆
エアルを倒し、ユーリャを救出して、どれくらいの時間が経ったのだろう。
記憶は朧気なまま。エアルとの対峙が、未だにどのような決着を迎えたのかも思い出せないでいるが、時間はロジャーを待ってはくれなかった。
少しだけ目を覚ましたユーリャといくつか言葉を交わし間もなくして、ロジャーの元へと『強者の流儀』の車両群が駆け付けた。
車のドアが開き、武装した隊員たちが雪崩のような勢いで飛び出してくる。
彼らはロジャーに対する敵意と警戒を隠そうともせず、躊躇なくこちらに銃口を突き付けると、完全にロジャーを包囲した。
つい先ほどまで未知の楽園の工作員エアル捕縛の為に協力していたのが噓のような態度に、思わず苦笑してしまう。
そんな物々しい雰囲気の中、泰然とした態度でこちらへ近づいてくる男の名をロジャーは思わず口に出していた。
「……ブラッドフォード=アルバーン」
ブラッドフォードは中空に手を翳し、隊員たちに銃口を下げさせると、
「もう、良いのか」
「……良いも悪いも、俺は人殺しだぞ。そんな事を気にする義理はアンタらにはないんじゃねえの?」
「善人だろうが悪人だろうが、人は人。誰しも尊重されるべき尊厳というものはあろう。ましてや、それが我らが守るべき弱者の――」
言いながら、ブラッドフォードの視線がロジャーの腕の中の少女へと向けられた。
最強を誇る獅子の視線がほんの一瞬柔らかみを帯びたような、そんな錯覚をロジャーは覚えた。いや、それはきっと錯覚ではなかったのだろう。
「――子供の想いを守る為なら、尚更な」
「なるほど、ね。案外お優しいんだな、実験都市の支配者様ってのは」
「優しさや憐れみなどではない。強き者、支配する者として、弱きを守る事は我が全うすべき義務だ」
「……そうだったな、アンタはそういう人間だった」
からかい半分の戯言だったのだが、ブラッドフォードに憧れ、その半生を知っている者としては冗談でも口にするべきではなかったかもしれないと、若干の後悔が襲ってくる。
ブラッドフォードの信念、その覚悟の一端でさえも、生中な気持ちで触れていいものではないだろう。
「なあ、ところでエアルの野郎はどうなった? 情けねえ話だが、最後の方の記憶が曖昧でな。ちゃんと確保できたのか?」
話題を切り替えるロジャーの問いにブラッドフォードは口元を固く引き結ぶと、しばしの間思案するように顎髭に手をやって、それから一人得心いったように頷いた。
「……なるほど。確かにあの破壊の規模を考えれば、身体の方に何らかの異常や反動が返ってきていても不思議ではないか」
どこか不穏な匂いのする発言に怪訝な顔をするロジャーに、ブラッドフォードは顔色一つ変えぬままエアルの末路を告げた。
「心配は無用だ。エアルであれば死んだ。貴様が最後に見せた破壊の共振に巻き込まれ、跡形もなくな」
「跡形もなく……俺がか?」
予期せぬ内容に、思わずそう尋ね返す。
頷くブラッドフォードの表情は、相変わらず揺るぎもしない。それで少し、冷静になれた。
「貴様を中心とした半径五百メートルは完全な更地と化した、と言えば破壊の規模が分かるか? 残ったのは貴様とこの子供だけだ。どんな力の使い方をすればあのような現象を起こせるのか分からないが……まともな状態ではないだろう。二度と使わない事を推奨する」
「……そう、か。死んだのか、あの男。俺が、殺したか」
勝利の実感も、あの男を殺したのだという事実も、まるで真実味がない。
ブラッドフォードの報告を聞きながら、どこか他人事のようにユーリャの寝顔を眺める。彼女を守り通す事が出来た。その結果が事実であれば、それだけでいい。
「部下たちが貴様へ必要以上に敵意を剥き出しにしているのは、その光景を見ていたからであろうな。何分、まだまだ若輩者揃いでな。部下の未熟、我に免じて許してやって貰いたい」
強者の流儀がここへ来たのは、端からエアル確保の為ではない。
ロジャーが協力の条件として提示した、リーク情報――つまりは、未だブラッドフォードの勢力圏外で暗躍する人殺しであるロジャー=ロイの身柄を確保する為だった。
「別に、構わねえよ。人殺し相手に敵意一つ向けられない方が問題だろ」
そう吐き捨て、ロジャーは腕の中で眠るユーリャの顔を最後にもう一度眺めた。
優しく穏やかな寝顔は幸せそうで、見ているこちらまで自然に笑顔になってしまう。
そんな自分の平和ボケした思考回路に笑ってしまって、視界が歪む理不尽にさらに笑いがこみ上げそうになる。
だから、それ以上は何も言わずに、彼女から視線を切った。
「……この子を頼む」
そのままロジャーは、ブラッドフォードの傍らに立つ女性隊員にユーリャを手渡した。
優しく、丁寧な手つきで。夢の中にいるだろう彼女を、決して起こさないように。
「ブラッドフォード=アルバーンの名に懸けて。強者の流儀が責任を持って保護することを約束する」
「目が覚めたら……あー、そうだな。俺の事は適当に、死んだとでも言っておいてくれ。俺を追いかける事がないように、うまい感じでな。この子はもう、俺みたいなクソ野郎に関わるべきじゃねえ、ちゃんと日の当たる所で生きるべきだ」
「随分な自信であるな。まるで、放っておけばこの子自ら貴様を探しに行ってしまうとでも言いたげだ」
僅かに口元を釣り上げたそれが、ブラッドフォード流の軽口であると遅れて気づいたて、ロジャーは困惑を浮かべていた顔をフッと破顔させると。
「まあ、俺はモテるからな。ついさっきも愛の告白をされた所なんだが、女遊びをするにはちと重くてな」
まあ、そういう訳だからよろしく頼むわ。などと軽い調子で宣いながら、ロジャーはユーリャへ背を向ける。
待機している隊員の元へ、振り返らずに歩き出して、差し出した手に手錠を掛けられ、車両の中へ。
殺人の現行犯と、後は自首したいくつかの殺人や強盗殺人。
犯した罪は重く、いくら上層部からの命令があったとはいえ死刑になっても不思議ではないだろう。
仮に死刑が下らなかったとして、少なくとも十年以上は日の光を見ることもないだろう。
それでも、これで良かったのだと、自らを乗せた車が出るのを待ちながらロジャーの思考はどこか心地の良い諦念に沈んでいく。
目を閉じて、退廃的なその快楽に身を任せようとした。まさにその時だった。
――ドンッ、ドンッ!
車の窓を叩く音に、ぎょっとして目を開ける。
そこで見たものに、諦念を塗り潰すような後悔の念が一瞬でロジャーの胸中を埋め尽くしていた。
『ロジャー! ロジャー! どうして、嫌だ、こんなの……!』
ユーリャは、泣いていた。
懸命に、必死にロジャーの無実を周囲の大人に訴えながら、ボロボロと涙を流していた。
『どうしてロジャーが捕まらなきゃいけないの! なにも、してないよ。悪いことなんて、なんにも……!』
出来れば、眠ったままでいて欲しかった。
別れの言葉なんて辛いだけだ。安らかな顔で眠る彼女と、何も言わずに別れてしまいたかった。
そんな別れを彼女が望まないとしても、これが自らのエゴだと分かって尚。それでも、泣いているユーリャを見たくなかったのだ。
「お願いです、ロジャーを連れて行かないで! ロジャーはわたしを助けてくれたんです! ひとりぼっちで寂しかったわたしの隣にいてくれたです。温かかった。寂しくなくなった。嬉しくなった。楽しかった! 全部、ロジャーがいたから、ロジャーは、わたしのヒーローなんです。だから、お願いします! わたしからロジャーを……家族を、奪わないで……っ!」
ロジャー=ロイを閉じ込める窓を叩き割って、今度は自分がロジャーを助けるのだと。そう言うかのようにユーリャは窓を叩き続ける。
けれど、……ああ、ダメだ。ダメなのだ。ロジャー=ロイに彼女の想いに応える資格などない。
ロジャー=ロイは人殺しの罪人だ。
英雄を騙る噓つきだ。
血生臭い人殺しの兵器でしかない男に、彼女に家族と呼んでもらえるだけの価値はない。
だから。
「ユーリャ」
窓越しの会話さえも、本来ならば許されることではないだろう。
それでも。これはロジャー=ロイがつけなければならないケジメだった。
ユーリャ=シャモフという女の子を縛る呪いを、解いてやる事が出来るとしたらそれは自分しかいないのだから。
「俺は、ずっとお前を騙してた。俺はただの薄汚れた人殺しだ。お前の英雄なんかじゃねえ、だから俺は、お前の家族でもなんでもない」
『――違う! だって、ロジャーはわたしと一緒にいてくれた。ロジャーは、わたしを置いていったりしないんです。いつも、わたしの所に帰ってきてくれた。だから――』
「それはお前の存在が俺にとって都合が良かっただけだ」
『そんなの、噓です……っ!』
「噓なもんか。うまい料理にあったかい風呂。仕事終わりにそういうモンが出迎えてくれるってのは悪くねえ。ま、たまの失敗もそれはそれで面白い。それに俺、枕が変わると眠れねえんだよ。だから、お前は都合が良かったんだよ」
『……っ、。なんですか、それ。ズルい。……ロジャーは、約束破りの、噓つきです……っ』
「そうだな。俺は嘘つきだ。だから、心にも思って無い言葉も、いくらだって吐ける。――ユーリャ」
『――嫌だ。聞きたくない。離れたくないです。ロジャー、お願いだから、もうワガママも言わないから、わたしを置いていかないで……っ』
「さよならだ。もう、二度と会う事もないだろうが――元気でやれよ。お前の人生が、幸福であることを祈ってるよ」
運転席を蹴りつけ、困った顔でユーリャとロジャーのやり取りを見ていた隊員に「出してくれ」と告げる。
察した女性隊員が、車から離れようとしないユーリャを優しく抱きしめ引き離す。
「待って、ロジャー……!」
発進した車を見て、ユーリャが悲鳴をあげる。
女性隊員を振り払って、走る車のあとを懸命に追いかける少女の姿が、バックミラーに映っている。
けれど、もう振り返りはしなかった。
ロジャー=ロイはユーリャ=シャモフの人生に関わるべきではない。
この忌々しき呪いは、歪な絆は、ここで断ち切らなければならないのだ。
『わたしを、助けてくれてありがとう! わたしはロジャーのことが大好きです!』
涙を零して走りながら、少女は叫ぶ。
『あのね。わたしっ、いつかロジャーみたいになります! だれかを助けられる、そんなヒーローに!』
振り返らない。振り返ってはならない。意志力を振り絞り、拳を握りしめ、唇を嚙み締めて、心を殺す。
『そしたらいつか、ロジャーを迎えに来るから! だから――』
今すぐには無理かもしれない。
それでも、少しずつでいい。
楽しかった事も、嬉しかった言葉も、にぎやかで馬鹿馬鹿しいやり取りも、大切な日々も、宝物のような日常も。少しずつ風化していって、思い出のポケットの中で眠りにつく時がきっと来る。
その時に彼女が、今とは異なる想いを抱いて前に進んでくれていれば、それでいいのだ。
『だからきっと、それまで待っていてください。約束ですからっ!』
最後まで振り返らず、間違った出会いから始まった英雄譚はそうして幕を閉じる。
告げられなかった言葉を、己の罪を胸に抱いて。
両者の胸に、呪いの残滓を残したまま。
☆ ☆ ☆ ☆
強者の流儀に引き取られたユーリャ=シャモフは、ロジャーとの約束を果たすべく育成学校へと進み。
牢獄へ繋がれたロジャー=ロイは己の罪を清算すべく、裁きの時を待つ。
けれど、二人の物語は終わらない。
「――囚人番号二七五番。出ろ」
「……」
「迎えだ。貴様、一度この世界に肩まで浸かっておいて、いつまでも逃げていられると本気で思っていたのか?」
「……結局、こうなったか。なあ、ブラッドフォードさんよぉ、アンタみたいな人がいようとも、この世は順当に、どうしようもなく腐ってっちまうモンなんだな」
「黙れ、無駄口を叩くな。立場を弁えろ。自分が何をしたか、分からないとは言わせない」
「まあ、裏切り者をそのままってのは向こうさんの面子に関わってくるだろうし、俺に対する制裁がコレって訳だ」
投獄されてから数か月と経たず、男は再び都市の闇へと身を投じる事となる。
二年後の運命の出会いと、その後に自らの呪いとの再会が控えている事などこの時のロジャー=ロイは知る由もない。
「……それで、今度はどんなクソ仕事をご所望で?」
「安心しろ。いつも通りお前の十八番だ。クソの掃除だよ、破壊の槍。逆らえば……分かるだろ?」
「……へいへい、『争世会』の仰せのままに」




