行間β/断章Ⅱ
――【警告】
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――かつて人の強欲により幼くして全てを奪われ、故に己から全てを奪った者達の全てを奪う事を唯一の欲望と掲げた男がいた――
これは、とある神話に描かれたある英雄のもう一つの真実。
後の歴史にまで語り継がれ大勢の人々の心を掴んだ滑稽な英雄の原典にして、その伝説の起点。人々の幻想によって後に神となった神ならざる『人間』の物語である。
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アレクサンドロスの名と共にこの世に生を受けたその男の子は王族の生まれであった。
神話にて語られる彼は国に災いと滅びを齎す予言の子だとされていたが、ここで語られる彼に関してはそうではなかった事を記しておこう。――少なくともこの時点では、まだ。
彼が幸運だったのは、生まれてすぐに王位継承を懸けた争いに巻き込まれた事。幼かったが故に、本来殺されるはずの赤子は反乱を起こした第二王子の家臣によってその命を救われた。
彼が不運だったのは、あまりに早熟だった事。生まれついてすぐに物心ついていた彼は、目の前で起きたその全てを記憶していた。故に己の父が、母が、兄が、姉が、乳母が、多くの使用人たちが、惨たらしくも殺されるその瞬間を目に焼き付けてしまった。
――全てを奪われた。故、全てを奪うと誓った。
彼の人生は始まったばかりで終わっていて、復讐の業火に焼かれた幼子が歩む道の先には最初から地獄しかない。
それを理解したうえで、彼はその道を歩む事を決意していた。
何もかもを既に失った身であるのだから、何一つとして残るものなどなくていい。ただ、全てを奪う事が出来ればそれだけで満足だ。
そんな謙虚で控え目な『強欲』を幼いながらに胸に抱いた――であれば彼は、やはり王国に破滅を齎す厄災そのものだったのかもしれない。
人は何かを欲する生き物だ。
眠りを欲し、食物を欲し、水を欲し、物を欲し、酒を欲し、金を欲し、女を欲す。
欲望と言ってしまえば聞こえは悪いが、欲する心こそが人間を突き動かす原動力となり、生きる為の支えとなる。
欲を抱く事は決して悪ではない。
抱いた欲の為に悪を働く人間がいる、ただそれだけの話で。
だからこれも、その赤子が生まれてはじめて抱いた欲の形が『奪う』事だったというだけの話なのだろう。
きっとそこに善悪はない。ただそれが唯一の欲であるというのなら、それはきっと悲しい事なのだろうけれど。
「――総てだ。俺から全てを奪った者達の悉くを奪い尽す。その為には、生半な手段じゃダメだ」
羊飼いの老夫婦に拾われて、彼らの温かな腕に抱かれ両手いっぱいの愛情を注がれながらすくすくと成長している間も、彼の欲望が消える事はなかった。
目に焼き付いた大切な人達の凄惨な死が、その記憶が薄れる事はなかった。
後になって振り返ってみれば、それこそが彼にとって一番の不運であり、何よりの悲劇だったのかもしれない。
「手に入れるべきは玉座だ。少なくとも、その領域へ手が届く舞台に上がらねばなるまい。全てを奪う為、もう一度俺はあの場所に立たなければ――」
胸に抱えた想いとは裏腹に、平穏に月日は流れる。
己を拾った老夫婦から■■■と名付けられたアレクサンドロスは赤子から美しい少年に、そして、いつしかたくましくも美しい美丈夫へと成長していった――
――「それじゃあお義父さん、お義母さん、今日も行ってきます。……なに、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、俺だってもう一人前の羊飼いです。狼も熊も恐ろしいけれど、彼らは決してどうしようもない怪物ではない。大切なのは、正しく立ち向かう方法を知っているかどうかなのですから」
歳を取り、山へくり出す事が難しくなった義父の後を継いだアレクサンドロスは立派な羊飼いの青年に成長していた。
いつまで経っても山へ向かうアレクサンドロスを心配してくれる義理の両親たちと、これまたいつもの朝のやり取りを繰り広げ、相棒の牧羊犬リリーに声を掛けて家を出る。
それが、腑抜けてしまいそうな程に平穏な、羊飼い■■■の日常だった。
とはいえ、アレクサンドロスは大人しく与えられる日常に沈んでいた訳ではない、日がな一日羊と共に野山を駆け回る中で、己の欲望を叶えるために必要な事は一通り学んできたつもりだ。
武術、剣術、弓術。政治に戦争、戦術に詐術に帝王学。独学で学んだものもあれば、両親に内緒で師に付いていたこともある。
無駄な時間は一秒足りともなかった。あくまで仮の姿である羊飼いの仕事でさえも、基礎体力の向上に大いに役立っている。
全ては、己から全てを奪った者達から全てを奪う為。アレクサンドロスの人生は、そんな唯一の欲望の為だけに存在する。
彼は、それを悲しいとは思わない。
何故ならアレクサンドロスは他の生き方を知らない。
他の生き方を知ることもなく、それが幸か不幸かも分からぬままこのように生きる他なかった以上、比較する対象が彼自身の中に存在しないのだ。
そうして、あくまで表面上は羊飼いとして生き、己の牙を研ぎながら虎視眈々と機会を伺っていたアレクサンドロスは、育ちの故郷であるイーデー山である運命の出会いを果たす事となる。
「なんだ? 人……?」
それは、冷たい雨の降り募る冬の朝のことだった。
「……あの、すみません」
随分と遠くからの声だった。
降り注ぐ霧雨のヴェール、その向こう側にポツリと人影が浮かんでいる。
線の細い女性のシルエット。こんな悪天候の日に、こんな山中で遭遇するにはあまりに不自然な相手に、アレクサンドロスは最初ソレを妖魔や怪物の類ではないかと疑った。
少しでも戦の心得がある者ならば気付くであろうひりつくような闘気を全身から発しながら、少しずつ近づいてくる声の主の正体を見定めようとする。
そんなアレクサンドロスの警戒をよそに、ソレは呆れるほど無警戒に、透き通るような声で話しかけてきた。
「……実は私、この辺りで探し物をしているですが……アナタは、この辺りにお住まいの方ですか?」
「ああ、そうだ。俺の名は■■■、羊飼いだ。君は?」
「……申し遅れました。私はエリス。占星術師をしています」
雨の向こうから一歩ずつ大地を踏みしめやったきたのは女――と呼ぶにはまだ歳若い、長く伸ばした紫紺の髪を同じ色の瞳を持った齢十五、六の褐色の生娘だった。
美しい。そう形容すべき造り物のように整った容姿は、その細部に至るまで、この神代の地において人間が神々の被造物である事を実感させるような圧倒的な精緻さを誇っている。
雨粒を吸い込むのではなく弾くのでもなく、まるで纏うようにキラキラと雨に輝く紫の髪は、それ自体が一つの芸術作品のよう。
大いなる大地を彷彿とさせる神秘的な輝きを帯びた褐色の肌が、少女に謎めいた雰囲気を与えていた。
そんな恵まれた容姿を持つ一方、少女の身を包む衣装が非常に簡易な麻の服だったのが、逆に少女の存在感を一層際立たせていた。
「エリスか、いい響きの名前だ」
「……ありがとうございます」
ペコリと、恭しくお辞儀をするエリス。
見た目はともかく、変な女だと思った。
まず、女であるにも関わらず占星術師を名乗っている時点でまともじゃない。職に見合わぬ乞食のような格好も、やはりちぐはぐな印象を受ける。
なにか亡霊めいた、俗世離れした雰囲気。受け答えもどこかテンポがズレているというか、目の前の女からは同じ時間を生きている感覚がしないのだ。
まるで迷子の子供を見ているような気分になって、それがどうしてか腹立たしい。
アレクサンドロスは無意識に苛立ちを覚えながら、この謎の女をさっさと山から追い払うべく言葉を並べ立てた。
「それで、エリスよ。占星術師の君がこのイーデー山に一体何の用が? 今日は生憎の雨だ。おそらく明日の昼頃までは降り続くだろうから、星を見るなら日を改めた方がいい」
「……星は、もう見たのです」
「ほう、では何をしに?」
「……先程も申したのですが、実はこの辺りで探しものをしていて。……それで、アナタは何かご存知ではないかと思って」
「探し物、か。まさかとは思うけれど、占星術師様お得意の占いでそれが此処にあると?」
「……はい」
即答だった。
冗談半分で尋ねただけに、これには流石のアレクサンドロスも面食らった。
先の答えと言い、彼女が嘘を吐いている様子はない。
エリスは心の底から自らの探し物が此処にあると思っている。それだけは疑いようがない。
だから、考えられる可能性は二つだけ。
占いという名の自らの妄想を現実であると信じ込んでしまう頭のおかしな狂人という可能性と。
彼女が、本物の占星術師であるという可能性。
アレクサンドロスは本物の占星術師に会った事はない。だが、もし彼女が本物ならば……。
「君の質問に答えてあげてもいい。ただし、条件が一つある」
「?」
「俺の未来、何が見える?」
「破滅」
またも即答だった。
「破滅。破滅、か。羊飼いの俺が……はは……ははは! あはははははははははは!!」
顔色一つ変えず自身の破滅の運命を予言してみせた少女に、アレクサンドロスは腹を抱えて笑った。
笑うしかない。
得る物も残る物さえも何もなくていい、そう言ってただ全てを奪う事のみを己が欲望と掲げるアレクサンドロスの末路として、破滅以上に相応しいものなどありはしない。
平凡に平穏を享受する善良な羊飼いの未来に破滅を見たというのなら――
「気に入った」
――彼女はきっと本物だろう。
「エリス、君が此処にあると言うのなら、君の探し物は此処にあるんだろう。占いのお礼だ、俺も探し物を手伝おう。それで、君は何を探している?」
「愛」
今度も即答だった。けれど少女は、今までとは違いその人形めいた顔立ちを不安の色に翳らせて、
「……愛を、探しています。私は、もう一度それを手に入れなければいけない。――アナタは、愛に心当たりがありますか?」
この世界には神がいる。
少なくとも、人々は神の存在を信じ、それに答えるように神の痕跡がこの世界には散らばっていた。
アレクサンドロスはそのような存在を見た事こそないが、仮にそのような存在が本当にいるとするのなら、彼女のような者をこそ神の使いと言うのかもしれない。そんな事を思った。
ニヤリと――心の中で、アレクサンドロスは口端を吊り上げる。
「エリス」
「……はい、なんですか?」
「君が、愛を探していると言うのなら、俺はそれを君に与える事ができる」
「……私が探していた愛は、アナタが持っていたのですか?」
「此処に愛があると出たのだろう? ならば、此処で俺と出会ったの事が全ての答えだ。違うか?」
「……アナタが……私の、愛……?」
実感の湧かない様子で首を傾げるエリス。
この際、彼女が探している『愛』とやらが何なのかはどうだって良かった。
ただ、彼女の存在はアレクサンドロスにとって都合が良かったのだ。
彼女が探しているという『愛 』とやらも含めて。
「ああ、そうだ。だから、俺が君に愛を与え続ける限り、俺に協力して欲しいんだ」
美しい少女の元へ騎士のように跪き、アレクサンドロスはその華奢な手を取る。街の生娘であれば十人が十人、見つめられただけで沸騰してしまうだろう甘いマスクでエリスを真っ直ぐに見つめて、
「君が必要だ、エリス。俺の妻になってくれ」
「……はい。よろしく、お願いします」
アレクサンドロスの求婚に、エリスはぺこりと頭を下げたのだった。
愛を欲する女と、唯一の欲望を除いて何も欲さない男。
互いが互いにとって都合が良い、ただそれだけの理由によって愛など欠片もないままに、ここに破滅へ向かう一組の夫婦が誕生した。
これはいずれ神話となる一幕。
人々の信ずる幻想からは大きくかけ離れた、真実の強奪譚。
騒乱という名の破滅で終わる、愚かなる『人間』の"強欲"の物語。




