第五十八話 一月五日 記録Ⅰ――VS.『七つの厄災』〝強欲が果ての騒乱〟/震え恐怖に
現実世界時刻:二〇XX年 一月五日 午前零時二十三分。
座標:《魔力点β》プエルト・ナタレス【遊戯難度B】理想郷エピスィミ・ア・リスィア。
密林エリア。
☆ ☆ ☆ ☆
――厄災遊戯:『欲物狂争』
自身の心の裡、本当の声を聞き届け、憚ることなく心ゆくまで己を満たせ。全ての物、全ての者を欲するその強欲が、破滅と繫栄の分水嶺なり。
【ルール】
・この遊戯は、個人ごとに設定された特定のアイテムを入手する速度を参加者全員で競う遊戯です。設定された五つのアイテムを全て集め終えた時点のタイムで順位を決定します。
・『魔力点』全土を遊戯フィールドとし、フィールド内に入った時点で強制的に遊戯開始となります。
・参加者が収集する五つのアイテムは、参加者本人が最も欲している五つが自動的に登録され、生成後、フィールド上にランダムに配置されます。
・三十分に一度スキャンが行われ、半径一キロメートル圏内に存在する人物が地図上に表示されます。また、地図上に表示されている人物が探している特定アイテムを自身が所持している場合、その人物のアイコンは警戒色で表示されます。
・他プレイヤーに接触した時点で、接触したプレイヤーの持ち物がランダムで一つ分かるようになります(確認は地図上に表示されたアイコンをタップする事で可能)。
・互いの半径一メートル圏内に入った時点で接触と判定します。
・遊戯参加者は他の参加者が欲しているアイテムのうち必ず一つを初期装備として与えられます。与えられたアイテムは『大切なモノ』として自身の心臓と紐づけされます。『大切なモノ』を奪われるなどして喪失した場合ゲームオーバーとなります。尚、初期装備の『地図』を除いて『大切なモノ』以外にアイテムを所持している場合に限り、喪失からゲームオーバーまで一時間の猶予が与えられます。
・ゲームオーバーとなった時点で心臓が停止します。
・ゲームオーバーとなった時点で厄災遊戯の参加資格が剝奪されます。
・尚、遊戯参加中の神の力の使用は不可能となっております。参加者の皆様につきましては、フィールド内に落ちているアイテムの使用を推奨します。
持ち物
・『大切なモノ:騒乱穿つ女王の正義』
・『地図』
《裡なる声を聞き届け空欄を埋めよ》
ロジャー=ロイ
Ⅰ.――
Ⅱ.――
Ⅲ.――
Ⅳ.――
Ⅴ.――
制限時間:厄災遊戯開始より七十二時間/現在、厄災遊戯開始より二十五時間十八分五十七秒経過。
主催者:なし。
参加者:『魔力点』内部で存命の全知的生命体。
参加者勝利条件:制限時間内に五つのアイテムを集める。
参加者敗北条件:ゲームオーバー等による参加資格の剝奪。制限時間の超過。
特記事項:勝利報酬が与えられる参加者は上位一名のみとなっております。
※主催者と参加者の立場はあくまでルールの上に平等で公平であり、遊戯の進行に著しい影響を及ぼす『神性』の影響を遊戯中に限り無効とするものとする。
☆ ☆ ☆ ☆
格闘戦の合間、両者の間隙を穿つように高速で飛来する矢を飛びずさりながら黄金の巨槍でもって迎撃する。
――様々な環境エリアが存在する理想郷エピスィミア・リスィア。その中で木々が鬱蒼と生い茂る密林エリアの中にポツリと浮かぶ、木々が疎らに生えただけの開けた地帯があった。
用意されたようなお誂え向きの戦場でぶつかり合うは二人の男。
全てを奪うと豪語する強欲と、全てを破壊する最強の槍。弓と槍とを扱う両者は、しかし互いに得意な間合いを放棄し絡み合うような至近で衝突を繰り返す。
互いに一歩も譲らず、戦況は拮抗――していたように見えたのは最初の数分の話だ。アレクサンドロスとロジャー=ロイ、どちらが優勢であるかは既に一目瞭然だった。
「づぅ……ッ!」
撃ち落とした矢の衝撃が槍を持つ手に伝播し、痺れるような手首の痛みに槍を取り落としそうになる。
集中が乱れ、意識が眼前の敵から自身の手元へと傾く。その瞬間を狙いすまして地を蹴ったアレクサンドロスの痛烈な回し蹴りに反応しきれず、頭を揺さぶる衝撃に意識が激しく掻き乱される。
吹き飛びかける身体に曖昧な意識が警鐘を鳴らす。アレクサンドロスとの距離が離れすぎる事を嫌ったロジャーは、咄嗟に槍を地面に突き刺し強引に制動を掛けると、既に追撃を開始しているアレクサンドロスの拳撃に遅れて対応。
強引に首を傾けすれすれでの回避。皮膚を掠めた拳の一撃に、ピッと鮮血が飛ぶ。
槍を持ちながら拳の間合いで戦う強烈な違和感、不快感。そしてその上で戦況を掌握されている絶望的な感覚にロジャーの顔が険しく歪む。
「――おいおい、英雄サマよぉ。顔色が悪いぜ? どうしたどうしたァ!?」
「ぐぅ、――ォオオオ……ッ!」
圧倒される。
最初はぶつかり合う本人たちにしか分からない程の違和感だった。
だがそれは次第に、誰の目にも明らかな程の大きな実力差として露わになっている。
このまま進めば、ロジャー=ロイはまず間違いなく敗北するだろう。
そうなってしまえば、己に嘘を付いてまで救おうとしたユーリャ=シャモフはおろか、彼が仕えるべき女王エリザベス=オルブライトさえも失ってしまう。
宣言通りに何もかもを奪われる。そんな最悪の末路が着実に迫りつつある。
……それはダメだ、許されない。
ロジャー=ロイは、エリザベス=オルブライトが貫く正義そのものになると決めたのだ。
平和を支配する女王の正義を体現するこの身は、女王の正義を貫く一筋の槍そのものだ。
故にロジャー=ロイは最強の矛であらねばならず、折れることも砕ける事もあってはならない――
「――ッ!」
正面、顔面を狙ったストレート。ジャブ気味のそれを、左腕を掲げるようにして防御。しかし、それによって自ら視界の一部が塞がった瞬間、左下半身に強烈な衝撃が走る。
ロジャーが防御に掲げた左腕との衝突の反動すら利用し素早く拳を引き戻し、それとほぼ同じタイミングで死角を縫うようにして放たれたアレクサンドロスの中段蹴りが見事にヒットしたのだ。
「ぐ、お……っ!」
蹴りを受けた左脚が骨から軋むような悲鳴をあげ、ロジャーのバランスが大きく崩れる。
一方のアレクサンドロスは自身の蹴りの反動を利用してくるりと反時計回りに回転。畳み掛けるように足元を刈り取るような脚払いをかけると、ロジャーはその場で何とか跳躍し難を逃れた――かに思えた瞬間、下に釘付けにされていた意識と視線が空気を切り裂く風切り音に上へと揺り戻された。
「なっ――」
弓矢を繰る弓兵でありながらまとわりつくようなクロスレンジでの乱打戦を槍使いに臨むアレクサンドロス。
その、まるで呼吸をするように戦闘の間隙に放たれ時間を置いて襲いかかる時間差射撃が、意識の外からロジャーへと降り注いでいた。
「――がァ、ぐぁあああああ……!」
舞い上がる血飛沫に、怨念めいたロジャーの叫喚が響き渡る。
ついに、というべきか。やっとというべきか――否、今まで回避し続けていたことをむしろ称賛すべきだろう――矢の雨に気付き慌てて身体を捻り槍を横薙ぎに振るうも、捌ききれなかった複数の矢が無情にもロジャーの肉体を貫いていた。
「……くっ、マジ、かよ。ふざけろ……クソ、ったれ……ッ」
ロジャーとて、アレクサンドロスの放つ矢を警戒していなかった訳ではない。常に、思考のどこかしらに矢の存在は留めていた。
だが、アレクサンドロスの放つ矢は物理法則を超越した軌跡を描く。天高く打ち上げられた彼の一撃は、その攻撃の軌道やタイミングを読む事が困難だ。
そして、アレクサンドロスがクロスレンジでの殴り合いを挑んでくる以上、そちらばかりに意識のリソースを割く訳にもいかない。なにせアレクサンドロスは、ロジャーが本気で挑んで尚届かない程に白兵戦にも優れている。
その上で、自然な誘導で意識を下へと集中させた瞬間を上から狙われたのでは、どうしても対応は遅れてしまう。
何より恐ろしい事に、アレクサンドロスはこの状況を矢を放ったその瞬間から計算して創り上げている。ロジャーは完全に相手の術中に嵌ってしまっていると言っていいだろう。
〝強欲が果ての騒乱〟アレクサンドロスはただ強いだけではない。
ロジャー=ロイが己の神の力に満足せず鍛錬を怠らなかったように、彼の『厄災』もまた己の力に慢心することなく策を巡らせ戦場を掌握する。
――相手の全てを奪う。そんな『欲望』の形を満たす、ただそれだけの為に。男は強さに対してどこまでも貪欲で強欲であった。
「……ッ、」
たまらず無事な左足で地面を蹴り飛びずさるロジャー。
舌打ちする体力すら惜しい。それほどまでに追い込まれている何よりの証拠が、この戦いが始まって初めて自らの意志で敵から逃げる為に距離を取ったロジャーの行動そのものに現れている。
対して優勢を誇るアレクサンドロスは、追撃を掛けるでもなくニヤニヤとした笑みを湛えたまま一旦退いて仕切り直しを図ろうとするロジャーを眺めている。
予期していた展開の一つ――ロジャーが距離を取ると同時にアレクサンドロスがクロスレンジでの殴り合いを放棄して弓の間合いで戦い始める――という最悪の想定こそ外れたが、己の有利よりロジャーへの嫌がらせを優先するアレクサンドロスのスタイルが揺るぎもしないという事こそが『厄災』との実力差を目に見える以上に端的に表しているようだった。
(……左肩がイカれやがったな、両腕で槍を扱うのは無理か。足を削がれた以上、近接でやり合うのもうまくねぇ……。ハハ、参ったな。有り体に言って絶体絶命ってヤツじゃねえかよ、こりゃあ)
血の味がする口元を無理やりに苦笑いの形に歪め、痛みに沸騰する頭を強引に鎮め努めて冷静に自身の現状を分析する。
急所を狙った矢こそ回避あるいは迎撃し致命傷こそ逃れたが、左肩と右太腿を射ぬかれた。肉をごっそり抉られており、出血も酷い。
右太腿の筋肉を絞めて出血を多少抑えたとしても、まともに地面を蹴れるのはもってあと数回といった所か。
……分析などするまでもない。このまま突き進めば、辿り着く結末など目に見えている。本当はきっと、最初から。
(……ガラにもねぇ事なんざするもんじゃねぇってのは端から分かってたつもりだったんだがな、一応)
感情的になっても碌な事がない。
そんな事は、この大した中身のない人生の中で散々経験して理解していたつもりだったというのに……。
女王の騎士として常にその身に湛えていた大人の余裕めいた独特の色香も、胡散臭い軽薄さも、ロジャー=ロイが意識して纏っていた最強の槍としての鍍金はその悉くが剝がれ落ち、残ったのはボロボロに打ち据えられたくたびれた中年男の無様な姿だけだ。
他にはなにも残りはしない。
だって、そうだろう。
語るべき理想など己の裡には既になく、かつてそこにあったはずの正義は死に絶えて久しい。
何かを壊すことばかりが得意だったから、綺麗ごとの無意味さを、その無価値を正しく知っている。
そんな腐り果てたつまらない男が、何故今更になってたかが部下一人の為に命を張ろうとした?
ロジャー=ロイは女王の正義である。
ならば、エリザベス=オルブライトを救う事だけを最優先すべきだ。
その為であればユーリャ=シャモフを切って捨てる。
それこそが平和を得るための最短距離。最も合理的で効率的な判断というものだ。
――そんな答えの分かり切った問答は既に、幾度となく頭の中で繰り返されている。
(悪ぃな、姫さん。アンタの正義になるっつー誓いと自分に嘘付いてまでやってこのザマだ。情けなくて涙も出てきやしねぇよ)
ロジャー=ロイにとって何が正解で何が間違っているのか、その解答には当の昔に辿り着いている。
だからロジャー=ロイは女王の正義を名乗り、女王の正義を貫く槍そのものとしての在り方を確立したのだから。
だが、それでも。決して裏切れない――否、例え間違っていると分かっていても裏切ってはならない想いがある。
――『わたしを、助けてくれてありがとう! わたしはロジャーのことが大好きです!』
――『あのね。わたしっ、いつかロジャーみたいになります! だれかを助けられる、そんなヒーローに!』
――『だからきっと、それまで待っていてください。約束ですからっ!』
こんな自分を、正義の味方などとは程遠い事を自覚し、英雄ではない事を自ら公言するつまらない男を、それでも憧憬の眼差しで見ていた瞳を知っている。
かつて青臭い理想を掲げた愚者の一人として、中途半端な間抜け者と罵られようとも。女王の騎士として失格の烙印を押されようとも――負うべき責任がある。果たすべき義務がある。
それは、ロジャー=ロイが女王の正義である以前に、一人のくだらない大人として向き合わなければならない呪いのようなものだった。
……いや、そうではないか。呪いをかけてしまったのはきっとロジャーの方で――
(――だから、俺は………………)
この身、この槍こそが女王の正義。
故に敗北は認められず、しかし女王の正義を貫くその槍は、今にも半ばから折れて砕けてしまいそうな程に追い詰められている。
見かけ倒しの均衡は既に崩れた。
足を竦ませ現状維持に甘んじれば、辿る結末は揺るがない。
絶対無敵。矛盾さえ貫き打ち砕く最強の矛など、今、この世界のどこにもありはしなかった。
……ならば、もういいだろう。
(だから、ここまで来たら最後までやらせてくれや。俺は、俺という人間の果たすべき責務として。そして何より、アンタの正義を体現する槍として――こんな所でこんな野郎相手に退く訳にはいかねえんだよ……!)
――きっとここが分水嶺。
敗北を恐れ、失う事を恐れ、奪われる事を恐れた。
ロジャーの敗北がエリザベス=オルブライトの死へと直結している。その事実が何よりも恐ろしく思えて、勝利の為に危険を冒すだけの勇気がロジャー=ロイにはなかった。
それは、人としてはごく当たり前の感情で、ロジャー=ロイという一本の槍の人間性の証明で、だからこそ人類の天敵たる『厄災』を前にしてロジャー=ロイは苦しんでいるのだとも言えたのだ。
……敵は『七つの厄災』。
人類から生じ人類を呑み込み滅ぼさんとする人の罪業そのもの。
『神性』がどうとか、『特異体』だとか、ロジャー=ロイはエリザベス=オルブライトほどそれらについて詳しく知っている訳ではない。
それでも、彼らという存在が本来であれば自分と同じスケールで語る事すらおこがましい遥か格上の超常なのだという事は嫌という程に理解出来ている。
そんな怪物を相手に、リスクも負わずに安全に勝とうなどと片腹痛いにも程がある。
そんな簡単な事、本当はずっと分かっていた。分かっていながら目を逸らし続けたのは、ロジャー=ロイの歪な在り方にも原因がある。
「どうしたよ、もう終わりか?」
右手に持った槍の穂先をダラリと地面へと向けたまま、脱力するように大きく長く息を吐き出す。そんなロジャーを見たアレクサンドロスが、遊びの途中で玩具を取り上げられた子供のような驚きと落胆の混じる声をあげる。
ロジャーを見る『厄災』の瞳には、人間の貧弱さを蔑むような嘲笑と食べごろの馳走を前にした興奮。そして僅かな失望が見え隠れしていた。
「……頼む、なあおい頼むぜ。もうちょい頑張ってくれよ、なあ。まだやれんだろ、英雄騙っておいてそんなモンってこたぁねェよなぁ? 俺にアンタの全てを奪わせてくれよ……俺がアンタから全てを奪えるように、出し惜しみ無しで、全力で全開で全身全霊で! 持てる全てでもって俺にぶつかって来てくれよ……!! それが無欲で謙虚で控え目な俺の、慎ましい唯一の『強欲』なんだから!!」
それは、求愛行動にも似た絶叫だった。
相手の全てを奪う為、出し惜しみなしの全力を相手にまで求める飽くなき強奪への欲望。
『強欲』というワードから連想される『欲』の形として、それは奇形なのかもしれない。
だが、例えその『欲』がどれほどまでに一般的な形からかけ離れていようとも、己の全てを懸けてまで際限なくそれを求める姿はまさに『強欲』の獣そのものだ。
〝奪う事〟への異様なまでの執着。強奪への飽くなき欲望を真っ直ぐにぶつけられたロジャーは、疲れたようにクツクツと笑って、
「ごちゃごちゃごちゃごちゃ喧しい野郎だな……知らねぇのか? だいたいよぉ、戦闘中に気取って長話するヤツはみっともなく負けるんだぜ? これ、オジサンの経験談な」
「へぇ、そいつは知らなかったな。ならせっかくだ、ご教授願おうか。教えてくれるんだろ? 俺がアンタにみっともなく負けるってコトを」
「言われるまでもねえ。男相手の授業料は高くつくって事もついでに教えてやるよ」
「……いいねェ、いいよアンタ。まだ何も奪われてねえって訳だ。……じゃあ、さくっと始めようぜ。こっからは〝第二遊戯〟だ……ッ!」
悦を隠そうともせずに吠えるアレクサンドロスに軽口で応じるロジャーは、しかし表面上よりよほど冷静だった。
槍を弄ぶようにクルクルと回しながら間合いを調整するように斜め右前へ三歩程移動したロジャーは、軽口を叩きながら右腕一本で槍を構える。
その際、鏡面のように輝く黄金の槍の切っ先に確かめるような視線をロジャーは送っていた。まるで、己の信頼を全てをこの槍の一撃に託すとでも言うかのように。
一見隙だらけに見えて、力みも隙もないロジャーの構えに、対峙するアレクサンドロスが満足そうに獰猛な笑みを湛える。
だが、ロジャーにはアレクサンドロスの望み通りに戦闘を続行してやるつもりなどさらさらなかった。
……全てはこの戦いを終わらせる為。
次の交錯で勝負を決めるべく、ロジャー=ロイは槍を握る右手に意識を集中させ、脈打つような傷口の痛みを意識の外側へと追いやっていく。
「……」
「……」
不意に訪れた静寂。
息継ぎのような、僅かな時間の沈黙の中。互いの視線が両者の中央で衝突し、その後を追うように両者一斉に足元の地面が爆ぜた。
右足の太腿から肉が潰れるような嫌な音が身体の内側に響いて、血が噴き出す。
槍を持つ右手を引き、右足を犠牲に超速で踏み込みそのまま一直線にアレクサンドロスを貫く軌道で槍を振るうロジャー=ロイに対して、アレクサンドロスは回避でも防御でもなく口元を引き裂いて迎撃を選択。
槍の一撃を全身全霊で味わうような強欲さで、けれどタイミングを見誤ることなく力強い拳を真っすぐに繰り出す。
両者、渾身の一撃が真っ正面から衝突――次の瞬間、僅かな拮抗もなくロジャー=ロイの身体がいともあっさりと砲弾の如く吹き飛ばされていた。
「いや、これは……」
……否、なにかが違う。
まるで拳の威力を利用して自ら後ろに飛びずさったような違和感に、拳を振り抜いたアレクサンドロスが眉を顰めた次の瞬間、有り得ない事が起きていた。
アレクサンドロスの視界全体を黄金の巨槍の先端が埋め尽くしていたのだ。
「な――――」
槍の投擲。
それは、弓兵であるアレクサンドロスに対しロジャー=ロイに残されていた唯一の対抗手段。
しかし、神業的な弓矢の技術を持つアレクサンドロスに対し、槍を手放し徒手空拳で戦う事を躊躇い、大胆な決断をする事ができなかったロジャー=ロイには決して選択できないはずの一撃だった。
「――回避でも防御でもねえ、真っ向からの迎撃。お前ならそう来ると信じていたぜ、〝強欲が果ての騒乱〟……!」
アレクサンドロスが感じた違和感は正しかった。右の太腿を犠牲にした全身全霊の一撃はアレクサンドロスに迎撃を選択させる為の〝釣り〟だったのだ。
相手の全てを奪う事を唯一にして至上の欲望とするこの男の場合、ロジャーの全てを賭した一撃に対して回避や防御を選ぶはずがない。真っ正面から叩き伏せ、その希望をも奪おうとするだろう。
ロジャーはアレクサンドロスのこれまでの言動からそう推測した。
だからこそ、右足を犠牲にしてでも、初手に放つその一撃が演技ではなく本気の一撃であると思わせる必要があった。
そして、ロジャーの誘いにアレクサンドロスが乗ってくれれば後は簡単だ。アレクサンドロスの一撃の威力を利用して自ら距離を取りながら、大きく後ろへ引き絞った槍を全壊で投擲する。
己と大切な部下。そして忠誠を誓った女王の命の掛かった此処一番に対し、ロジャーは自らの意志で槍を手放すことを選択したのだ。
――ロジャー=ロイは槍を手放せない。
クロスレンジで戦う弓兵を前に、その手から槍を捨てられなかったロジャー=ロイ。
これまでの戦闘で意図せずしてそんな先入観が刷り込まれていたからこそ、思考の埒外を突くその一撃が、アレクサンドロスの目には突如として槍の穂先が視界を覆ったように思えてしまう。
そして。だからこそ、ロジャーはそれだけでは終わらなかった。
後ろへ吹き飛ばされるロジャーの肉体。正確にはその足裏が、木の幹に着地する。衝撃を吸収するように撓めた膝をそのまま全力解放。
槍で埋まったアレクサンドロスの視界、その死角を突くように、ロジャー=ロイもまた一陣の槍となって黄金の巨槍へ追い縋る形で勢い良く射出されたのだ。
二段構えの奇襲反攻。
仮に、放たれた槍を何らかの手段で防いだとしても、その槍で身を隠すようにして迫るロジャーにまで完璧に対応する事は困難であろう連撃。
その布石は、槍を放つ前には既に打ち終えていた。
……ロジャー=ロイが右の太腿を犠牲にした〝釣り〟の一撃を放つ直前の事だ。槍の切っ先を鏡のように利用して背後の樹木の位置を確認しながら、ロジャーは間合いを調整すると見せかけてアレクサンドロスに吹き飛ばされる先に発射台替わりの樹木が来るように己の立ち位置を調整していたのだ。
着想は三大都市対抗戦において『神化』直後の暴走状態にあった天風楓を止める為に実行した『双頭の三叉槍』から。
何重にも策を巡らせ相乗効果で天風楓を一手ずつ追い込んでいった頼れる秘書官様の手腕に比べれば月とスッポンかもしれないが、彼女のアイデアを借りてのロジャーの即興にしては上出来だろう。
(――俺は、壊す事しか能がねぇ男だ)
かつて、己の理想を自らの手で裏切り、貶め、正義感が故に人を殺した男がいた。
己の心を裏切り自傷を続けた日々に、壊れ続けるだけだった男がいた。
触れるモノ全てを壊す破壊の共振。
そんな忌々しき力をその身に宿してしまったが故に、救いたかったはずのモノすら壊してしまうと途方に暮れる迷子のようだった男はある日、自分という破壊の槍の担い手に相応しき女王と出会った。
――エリザベス=オルブライトの掲げる正義を貫く槍であり、彼女の正義そのものである。
ロジャー=ロイは自らをそう定義する事で、そのような定義を外部から与えられる事で救われた。
その精神は彼女との出逢いの時点で致命的なまでに破壊されており、そんな風に他者に寄りかかり依存しなければ己の存在を肯定も確立も出来ない、自らの足で大地に立つ事も儘ならない程に衰弱していた。
……ならば、今ここにいる男はなんだ?
女王の加護を失い、その甘美な支配から外れ、ただ一人孤独に世界に立つその男は本当の所は何者なのか。
それは――大きな存在の正義を隠れ蓑にする虎の威を借りる狐。
それは――誰かの理想を借りなければ理想を語る事も出来ない惰弱で芯の抜けた空虚な抜け殻。
それは――既に壊れてしまった憧れを壊れてしまわないように後生大事に抱え続ける標を失いし迷い子。
それは――心などいらないと意思無き破壊の槍である事を望んだ弱き『人間』。
ロジャー=ロイの正体など、つまるところはそんなもの。
震え恐怖になどという大層な名の力を有しておきながら、誰よりも恐怖に震えていた臆病者は自分自身だった。
だから。
(だから、俺は俺を破壊する。これまでの俺を、完膚なきまでにぶっ壊す――)
――そんな自分はもう終わりにしよう。
犠牲無き未来などあり得ない。
綺麗ごとばかりが並べ立てられるくだらない個人の理想も正義も無意味で無価値な代物だ。
子供の絵空事では平和は描けない。暴力を統べる平和の支配者が、この醜い世界には必要だとロジャー=ロイは知っている。
東条勇麻への敗北を経て尚、ロジャーの中に根付いたその価値感が揺らぐ事はない。
きっとこの先もそうなのだろう。
ロジャー=ロイの壊れ方はきっと不可逆で、もう元には戻らない。あの頃の何も知らなかった青臭くて純粋な、正義の味方に憧れる夢見る青年にはもう戻れない。
けれど、エリザベス=オルブライトの掲げる正義そのものになるの事も、彼女の理想に抱かれて溺死したように生きる事もきっとどこか歪で間違っているのだと思えるだけの自分は残っている。
彼女を、平和を支配せんと野望を抱く女王を支えたいと願うこの想いは本物で。
それでも、涙を流したユーリャ=シャモフの為に立ち上がりたいと感じた衝動も真実であると確信しているから。
分かっている。
……二つの想いは明確な矛盾を孕んでいるという事くらい。
でも、だからこそ。
自ら槍を手放したこの手で立ちはだかる矛盾を突き破り、ロジャー自身にすら姿の見えない真の信念にこの手が届くのならば。
女王の正義に、彼女の理想に全てを委ねてしまうのではなく、壊れたままのロジャー=ロイがその手で勝利を掴む事が出来たのならば――壊れたまま止まってしまったロジャー=ロイという人間の何かを変える事ができるかもしれない。
自分を救ってくれたエリザベスに依存し、彼女の正義そのものとして全ての責任の所在を押し付けるのではない。
ロジャー=ロイという一人の人間として、彼女を支えられるようになれれば、それでいい。
女王に使われるだけの兵器でなく、二本の足で大地をしっかりと踏みしめる『人間』になる。まずはそこから始めよう。
投げ放った黄金の巨槍、その一投が、ロジャー=ロイの新たな一歩となる――
――ハズだった。
変化は唐突に……否、遅れて追いついた。
「な――――――――――――――――――――――――んちゃって」
ロジャー=ロイが投げ放った黄金の巨槍。
その柄から全体へと亀裂が走ったかと思うと、アレクサンドロスを貫く前に甲高い破砕音を響かせて木端微塵に崩壊したのだ。
「………………………………………………………………は?」
――槍。
砕けた?
象徴。
何故? 崩壊。
意図的?
まさか全てを読まれて……
どうして?
でも。
マズい。
どうする?
覚悟も共に
敗北。
失敗。
全てを懸けた
乾坤一擲
理由。
分からない。
それよりも次の手を――
思考が白濁し、空転する。
視界がぐにゃりと歪み、世界から現実味が消失した。まるで落書きの中に迷い込んでしまったよう。
困惑と疑念、そして驚愕に完全に心を飲み込まれる。
想定外のそのまた外側から襲い掛かったあり得ない異常事態にロジャーは茫然自失となって咄嗟の判断力を完全に喪失してしまっていた。
だから気付けない。
『厄災遊戯』のルールによってついさっきまで失っていたはずの神の力、『震え恐怖に』の力がその身に戻っている事に。
神の力が突然復活したが故に、本来であれば無意識下で行っていた力の制御に失敗し、半ば暴走に近い状態となって自らが握る黄金の巨槍に破壊の振動が干渉してしまった事に。
……そして、さらにもう一つ。ロジャー=ロイは最も致命的な見落としをしていた。
木の幹を蹴りつけたロジャーの左足、その足首に縄のように絡みついた植物の蔦――尤も、それに気づいた所でロジャーにはどうする事も出来なかったかもしれないが。
「――っ!?」
グンっ、と。凄まじい力で後ろへ引かれる感覚があった。
そう思った直後には、ロジャーは前方向への推進力を失い、己の軌道をなぞるようにして数瞬前に蹴りつけた木の幹に背中から叩きつけられていた。
肺から空気が吐き出される。血の味がした。
叩き付けたロジャーを磔にするように、樹木から伸びた蔦が一瞬でロジャーの手足に絡みつき、その自由を瞬時に奪う。
凄まじい勢いで変転する状況に思考が追いつくより先に、ロジャーの右脇腹を灼熱が襲っていた。
「が、ぶぐゥ……っ!?」
口端から溢れ出すように滴る泡混じりの鮮血。
燃えるように熱くなっている右の脇腹にゆっくりと視線を落とす。
そこにあったものに、ロジャーは思わず力なく天を仰いだ。
「……あぁ、勘弁してくれや秘書官様。もう、金輪際セクハラはしねえって……だから…………」
鋭利な切っ先を持つ木の枝が、背中側から肉を食い破り、ロジャーの脇腹からその頭を生やしていた。
それが、誰の力によるものかなど、一々論じるまでもなかった。
「……だから、頼むからそんな泣き腫らした顔で、一丁前に傷ついてんじゃねえよ、馬鹿野郎が。泣きたい程に痛いのは、こっちだっつーのに……」
ユーリャ=シャモフ。
女王艦隊が誇る第五艦隊旗艦『提督』の艦名を冠する、ロジャーがどうしても救わねばならなかったはずのヒトが、ロジャーを磔にした樹木の後ろに寄り添うように立っていた。
「ろ、じゃー。……ご、めん……なさい。わ、たし。わたし……は………………」
「……うるせえ、喋るんじゃ、……ねえ。女の謝罪なんざ、オジサン聞きたくねえんだよ……まだ、何も終わってねえだろうがよい」
彼女の手により腹を刺されるのは二度目。
そしてそのどれもが彼女の意志を踏み躙る『厄災』どもの卑劣な干渉によるものだった。
ロジャーを傷つける事でユーリャが受ける精神的な苦痛を考えれば、二度目は絶対に避けねばならなかった。
だからこそ、もっと慎重に。最悪の可能性を考えて動くべきだったのだ。
ロジャーの胸中を強い後悔の感情が襲うが、もう遅い。
「でも……わたし、わたしがお願いなんて、したから……」
樹の幹を挟んで届く彼女の声はボロボロに震えていた。それだけで、彼女がどんな顔をしているのかロジャーには手に取るように分かる。分かってしまう。
魂が抜け落ちたような茫洋とした表情の中、揺れる瞳だけが後悔と絶望の涙に歪んでいる。
そんな顔をさせてしまった事が許せない。
「……馬鹿。あんなモン、気にするこたぁ、ねえ。そもそも、俺が言わせたようなモンだろうが。我らが秘書官様の情けなく弱った姿なんざ……なかなか拝めねえからな。つい、悪ノリしちまっただけだ。……それを今更、深刻になってんじゃねえよ……」
そしてそれ以上に――「助けて」なんて、言うんじゃなかった――なんて、そんな言葉を彼女に言わせてしまった自分が許せない。
(く、そ……馬鹿か俺は。馬鹿だ俺は! よく考えれば気付けた事だろうが、願望と現実とを履き違えるなんざ、あの正義マンを笑えねえぞ……ッ)
……考えてみれば最初から不自然な点はあったのだ。
何故、樹木が生い茂る密林エリアにおいて、この一体だけ木々が疎らな開けた土地になっているのか。
力技で木々を薙ぎ倒した痕跡がある訳でもない、自然すぎる不自然なこの環境を整える事が出来る彼女が、最初からこの場にはいた事をロジャーは理解していたのに……。
『母なる緑』。
植物の成長を自在に操る彼女の神の力であれば、森の一部を枯らす事だって容易だっただろう。
方法は分からない。
だがおそらく、ロジャーがユーリャを最初に見つけたあの時点で、彼女は既にアレクサンドロスの手中にあったのだろう。
それに、アレクサンドロスがロジャー=ロイの策を読む事が可能だった事も、仮にユーリャからロジャーに関する何らかの情報を引き出していたと考えれば辻褄が合う。
ロジャーの即興はユーリャの策からイメージを得たものであるし、何より女王を除いてロジャーの事を最も理解している人物が彼女なのだ。
そもそも、アレクサンドロスは最初に答えを言っていた。
――『あー、悪い悪ぃ。なんつーかたった今俺のモンになった所でよ、マジで申し訳ねえんだがそれはソレ。大事な女だって言うならそのピンチに間に合わねぇヤツが悪いよな? だったらその局面に居合わせた俺が貰おうが問題はねぇはずだろ?』
その事実をこのタイミングまで伏せ続けていたのは、ロジャーにとって最も効果的な局面でユーリャを奪った事実を叩きつける事で、より多くの大切なものを奪おうとするその異質な『強欲』の為だろう。
しかし、その可能性に少しも思い至らない程本来のロジャー=ロイは間抜けではない。ならば彼の瞳を曇らせたものは、彼自身の中にあるものに他ならない。
「……なあ、だから言ったろ? 骨すら残さず悉くを奪うってなァ」
――『願望』。
考えるべき可能性から目を切ってしまっていたのは、そうあっては欲しくないという『願い』があったからだ。
『願い』とは『欲望』であり、己が身の丈を過ぎた『欲望』とは『強欲』だ。
綺麗な言葉で飾り立てて誤魔化した所で、その概念の根底にある自己にない不足を求める歪みを正当化する事は出来ない。
『強欲』は人の身を滅ぼす。
そうあってくれと欲したから。その現実を見ようとしない歪んだ『欲望』の形が、ロジャーの脇腹を抉る刃となって帰って来た。
そしてその刃は、巡り巡ってロジャーが助けるべきユーリャをも傷つけたのだ。
地力では及ばない。故に、策を講じ相手を出し抜くべく工夫を凝らした。
だが肝心要の駆け引きですらも上を行かれ、全ての企みを打ち砕けれて膝を屈している。守りたかったモノは既に奪われ、武器をも喪失した。
事実上の完全敗北。
今、趨勢は決した。ロジャー=ロイはアレクサンドロスに勝てない。最初から分かり切っていたその事実が、はっきりと結果として現れ確定してしまった。
「……ひょっとして、これで勝ったとか思ったか?」
なのにアレクサンドロスは終わらない。
「ほんの一瞬でもテメェの勝利を確信したか?」
ロジャー=ロイから奪う事を辞めはしない。
「してくれてたらこれ以上嬉しい事はねえぜ。努力家で生真面目な俺としても懸命に全力に死力を尽くして命懸けで頑張ったかいがあるってモンだよ。なにせ、全てを奪う為には全てを与えなきゃなんねえからなぁ……!」
こんな中途半端では終われないと、宣言通りその悉くを奪う事に『厄災』は執着する。それこそが己の『強欲』の形であると、どこまでも貪欲に強欲に喰らい付く。
「……なあ、どんな気分だよ。目前にして勝利をも奪われる気分ってのはさ。教えてくれねえか、英雄サマ。アンタ、確か俺を負かしてくれるんだったよな? そのついででいいからよ」
「……口の減らねえ、野郎だな。だから……男と喋る趣味なんざ……こっちにはねえって言ってるだろうが。なんでんなに嬉しそうなんだよ、ホモかよ。半裸マン。頼むから、その見苦しい乳首を隠してくれ」
「おいおい、相変わらずひでぇヤツだな。謙虚で控え目な俺から喋る自由まで奪おうとするなんざとんでもねぇ英雄サマもいたもんだぜ。けどそれでいい。憎まれ口を叩けよ、負け惜しみも強がりも大いに結構。いくらでも言い訳をほざいて、見栄を張って、虚勢を貫けばいい。それすらできなくなったとき――なあ、アンタの中には何が一体どれだけ残ってるんだろうなぁ?」
何故ならば、最後の火蓋が切って落とされるその寸前、アレクサンドロスはこうも言っていたハズだ。
「惨めだよなぁ、英雄サマよぉ。苦しくて悔しくて悲しくて辛くて怒りと絶望とテメェの無力感に押し潰されそうなんだよな? 嗚呼、分かるぜ、分かるともその気持ち。助けたかった女は既に奪われ、勝利を確信した瞬間にどん底の敗北に叩き落とされる。欲しがれば欲しがる程に奪われ失い、希望は絶望に容易く変わる。何かを成さねばならない時、大抵その何かを成す術なんざに持ち合わせはねえんだ。足りない、届かない。だから失う。人生ってのは得てしてそんなモンだ、そんなモンなんだよ。……だがまだ甘えよ。こんなモンじゃ到底足りねえ、俺はもっと奪われた。喪った。落として失くして亡くなってこの手には何も残りはしなかった」
曰く――第二遊戯を始めよう、と。
「だからこそ、俺はもう何も欲しはしねえのさ。無欲に慎ましく、謙虚に控え目に、薄っぺらでも必要最低限で生きていくって決めたんだよ。そう在ると決めてそのように在りそんな在り方の果てに大きな騒乱を起こして、そして何もかもを滅ぼしたんだよ……俺自身を含めて、ずっとずっと昔にな」
磔にされたままのロジャーはそこである異変に気づく。
対峙するアレクサンドロスの斜め右後ろ。そこに、まるで太陽のような輝きを放つ美しい白金の如き輝きを放つ長髪を携えた一人の美少女がいつの間にか浮かび上がっている事に。
眠り姫のように瞳を閉じたまま、美しい少女が作り物のような小さな口をゆっくりと開き、祈るように言葉が音となって流れ出す。
『――己が欲箱/解崩』
そうして、人間離れした神々しくもおどろおどろしい雰囲気を湛えた絶世の美少女は、処女雪のような純白の薄布で包んだだけの外見年齢に似合わぬ程に熟しきった豊満な裸体を惜しげもなく外気に晒しながら、神秘と妖艶さとを兼ね備えた美声で、歌を紡ぎ始めた。
『――勝って強奪はないちもんめ♪』
『――負けて喪失はないちもんめ♪』
『神の子供達』に至っておらず、実用的な魔力感知能力を持たないロジャーでもその不穏さを感じ取れる程に濃密な『魔力』が籠められた歌声に、犯された耳が蕩け、裏側からくすぐられた脳ミソが溶解し、締め付けられた心臓が時を刻む事を瞬間的に放棄しそうになる。
耳にしてはいけないと頭では理解できるのに、感情が、本能が、それを許さない。魅了されたように心を手放し、耳を塞ぐ事も出来ず少女の声に聞き入ってしまう。
動けない。
何もかもをグズグズに腐らせてしまいそうな程に甘ったるく清廉な神の唄が、アレクサンドロスを中心に広がり世界を呑み込んでいく。
『――隣の王女様こっち来ておくれ♪』
『――夫がいるから行かれない♪』
それは、無邪気に野原を駆け回る無垢な子供のような。
それは、退廃的で破滅的な世界に沈む大人のような。
『――財宝盗んでこっち来ておくれ♪』
『――裏切りバレれば即死刑♪』
無邪気な邪気に満ちた不思議な音色で奏でられる、不気味で奇跡的で美しくも凄惨な歌声だった。
『――諍い騒乱こっち来ておくれ♪』
『――人の強欲死の香り♪』
紡がれる詩に意味などない。
『――あの子が欲しい♪』
『――あの子は美人♪』
ただ、そこに籠められた『神性』を帯びた魔力が。呪が。神威が。あまりに強烈に聞く者の魂に干渉してくる。
『――総てが欲しい♪』
『――全てを奪え♪』
彼女が囁くのは究極の美。
求めたモノもまた然り、与える報酬もそのように。
ただ、結末ばかりは神さえ知らぬと無責任に匙を投げ、結果訪れる騒乱は大地を砕き空を割り、世界を一掃する。そういった類の、これもまた一つの『厄災』の形。
己が欲のまま、求めるがままに戦争を。
女神の神託じみた宣誓に、『魔力点』のごく一部。彼女と『厄災』とを中心とした空間が大きく揺らぎその形を変質させていく。
『――戦争しよう♪』
『――そうしよう♪』
そうして。女神のような神聖な容姿にまるでそぐわない、美しくも不協和音めいた童謡を彼女が唄い終える。
それが合図で、それで終わりだった。
「――づうっ、これは……!」
突如として頭痛を伴ってロジャーの脳裏に文章が浮かびあがると同時、いつの間にかその手足を縛る蔦も蔓も、ロジャーを磔にしていた樹木さえもが消失。脇腹の傷さえも嘘のように消えていた。
その現象は、しかしロジャーの命が助かった事を意味しない。
『厄災遊戯』は公平性を、約束事を重んじる。故に、この一連の現象は遊戯にあたって不要な要素を取り除いたに過ぎない。
その事実を証明するように、すぐ近くで絶望に暮れていたユーリャの姿さえも見当たらなくなっている。
……つまり、これは終わりの始まり。
もう間もなく幕が開く。
誰も求めてなどいない、凄惨な騒乱のその幕が。
「――大サービスだ、改めて名乗ってやる。俺は――アレクサンドロス。〝強欲が果ての騒乱〟アレクサンドロス」
いつの間にやら白一色の世界に変わり果てた空間の中心に立つアレクサンドロスは、敗北に膝を突くロジャーに追い打ちを掛けるように神威を発するその威容を見せつけ、堂々と名乗りをあげる。
まるで、此処からが本番だと宣言するかのように。
「総てを奪われし者、故に総てを奪う者。
人類に災禍を齎す厄災の贈り物より零れ落ちし『七つの厄災』が一つ」
その威圧に圧し潰されてしまわないように、ロジャー=ロイは自らを奮い立たせるべく、ゆっくりと口を開いた。
「……女王艦隊第一艦隊旗艦兼総旗艦代理――」
自らが何者であるかを見失いかけたまま、それでも己を救った彼女に縋るように。
そこから変わりたいと願うからこそ、槍を失ったロジャー=ロイは己の始点を確認するように女王騎士としての名を名乗る。
恐怖に震えるからこそ、一人の漢としてありったけの虚勢を張らんとする。
「――『恐れ知らず』、ロジャー=ロイ」
……そう、第二の遊戯はもう始まっている。
「――万物が霊長を名乗る人の子よ。
汝に問おう。我が強欲は罪であるか。汝に問おう、我が騒乱は悪であるか。
汝、我が背負いし宿業を前になお己が正義を誇ると言うのならば――強欲と騒乱が齎す俺を乗り越え証とし、此度の『裁定』の解とせよ!」
ロジャー=ロイが槍を投げた、その次の瞬間には既に――
「……俺は謙虚で控え目だ。そのうえ慎ましく無欲で顔もいい。故に、この手に何も残らなくとも構わない、何も求めない。欲さない。……俺が望むは唯一つ。
この世総ての喪失を。悉くの強奪を。俺から総てを奪った世界の総てを奪い捨てる。塵一つ残らない真っ平らな地平を、その為の騒乱を醜悪なるこの世界に齎してやる。だから――アンタも奪われたモン、命懸けで奪い返しに来い。だって、ほら。そっちの方が奪う時にそそるだろ?」
ロジャー=ロイの総てを奪う。
ただそれだけの為にもう一つの『厄災遊戯』が牙を剥き、『裁定戦争』の第四幕、その真の幕開けを物語る。
「――さあ。【私利死欲/遊戯壊死】と行こうじゃねえか……ッ!」
☆ ☆ ☆ ☆
――厄災遊戯:『覇名彙徴問愛』。
欲しくば奪い、奪いたくば欲せ。尽きぬ欲と強奪こそが人の真理であり本質である。
【基本ルール】
・この遊戯は賭け金となる『賞品』を賭けて戦争を行う一対一の個人戦です。
・既に参加中の遊戯がある場合、参加者は一時的に遊戯を中断し、ルールを本遊戯基準のものへと上書きした状態で遊戯を開始します。本遊戯終了後に既に参加中だった遊戯を再開するようにしてください。
・遊戯の先行後行を決める権利は参加者にあります。
・遊戯参加者、主催者(※以下プレイヤー)は攻撃側と守備側をそれぞれ五回ずつ交互に行い、計一〇回の勝負での白星(勝利)の数を競います。
・一〇回戦が終了して白星の数が同数だった場合、遊戯を仕掛けた主催者の敗北とし、奪った『賞品』を参加者へと返却します(扱いとしては無効試合となり、遊戯勝利の報酬は支払われません)
・この遊戯では互いに賭ける『賞品』を設定したうえで遊戯を行い、基本的に勝者に『賞品』が移動します。ですがプレイヤーは自らが賭ける『賞品』を自分で決める事はできません。
・攻撃側は一回戦ごとに対戦相手の持ち物リストの中から奪いたい『賞品』を一つ選択し、それが対戦相手が賭ける『賞品』となります。結果が出て『賞品』が奪われるまでプレイヤーは自らが賭けている『賞品』が何であるかを知る事は出来ません。
・奪われた『賞品』は次の遊戯から相手の持ち物リストに表示され、遊戯中に奪い返す事も可能です。
・遊戯の勝敗が決定されるまでプレイヤーの死亡は認められていません。遊戯中の死亡が確認された場合、強制蘇生措置が実行されます。
・奪われた『賞品』は遊戯終了後に返却される事はありません。ご了承ください。
【遊戯の手順】
《ファーストフェイズ》
・一回戦ごとに攻撃側の参加者と守備側の参加者は相手の『リスト』から奪いたい『賞品』を選択。その際、守備側の参加者は自分の『リスト』の中から守りたい『賞品』を選択する。(※『リスト』に表示される『賞品』については参加者の実力を考慮した上で公平になるように自動選出される)
《セカンドフェイズ》
・攻撃側が選択した『賞品』と守備側が守った『賞品』が異なっていた場合、防御失敗となり攻撃側の勝利となる。『賞品』は攻撃側へ移動。
・攻撃側が選択した『賞品』と守備側が守った『賞品』が同じだった場合、防御成功となり戦争へと移行する。
《バトルフェイズ》
・ファーストフェイズで守備側が守りたい『賞品』を選択し、それが攻撃側の選択した『賞品』と一致した場合、自動的に戦争へ移行。
・戦争では戦闘を行い、先に相手に致命打を与えた参加者の勝利とする。
・攻撃側が勝利した場合、選択した『賞品』が移動する。ただし守備側が勝利しても『賞品』の移動は行われない。
《エンドフェイズ》
・賭けた『賞品』の移動後、バトルフェイズにて負った負傷などが自動的に治癒される。ただし、遊戯によって奪われた『賞品』は回復しない。
・ファーストフェイズへ戻る。上記の流れを繰り返す事で本遊戯は進行する。
主催者:〝強欲が果ての騒乱〟
参加者:ロジャー=ロイ
参加者勝利条件:一〇回戦目が終了した時点で白星の数で対戦相手を上回る。
参加者敗北条件:上記勝利条件の未達成。もしくは降参を宣言した場合。
※主催者と参加者の立場はあくまでルールの上に平等で公平であり、遊戯の進行に著しい影響を及ぼす『神性』の影響を遊戯中に限り無効とするものとする。




