第五十六話 一月四日 記録Ⅵ――それでも前を向かんとする人々の意志/告げるは停滞の終わり、そして――
魔力点内部の時間において遊戯開始から一日が経過した。
三日間の制限時間の内の二日目に突入し、広大なフィールドに対する参加者の減少によって他者との遭遇率が大きく低下し一種の膠着状態にあった『欲物狂争』が大きな動きを見せたのは、そんなタイミングでの事だった。
『【通達Ⅰ】状態異常:空腹について。
厄災遊戯開始から二十四時以上が経過しました。これより一時間の猶予時間の後、参加者の皆様にはこれまでの行動に応じた度合いで状態異常:空腹が付与されます。
状態異常:空腹は常に体力を消耗し続けます。体力がゼロになった時点で参加者はゲームオーバーとなります。
状態異常:空腹を解除するには『食料』を摂取する必要があります。空腹の度合いによって、空腹を解除可能となる摂取量は変動します。ただし、状態異常:空腹は『食料』の摂取から一定時間が経過すると再び発生する為、継続的な『食料』の摂取が必要です。
【通達Ⅱ】『食料』について。
通達Ⅰの内容を受けてフィールド内に『食料庫』が複数出現しました(※『食料庫』の出現座標については下記を参照)。城塞内部には『食料』が蓄えられており、一定時間が経過すると消費分の『食料』が再度発生します。
また、上記の内容を受けて『食料庫』を除くフィールド内での『食料』の発生は中断されます。』
一斉に鳴り響いたのは全員強制参加の『イベント』発生の通知音。『状態異常:空腹』を付与された参加者たちは、『食料』を摂取し状態異常を解除しない限り時間経過で体力が減少し続けやがてゲームオーバーに陥ってしまうという悪夢のような状況へ追い込まれていた。
――今まで、欲物狂争に巻き込まれた多くの参加者たちにとって最優先すべき事項はゲームオーバーにならない事だった。
幾つかあるゲームオーバーの条件を満たすと強制的に心臓を停止させられ死に至る凶悪なこの遊戯には、制限時間を超過した場合も敗北扱いとなる旨が記載されている。しかし、敗北イコール死との明確な記述はないのである。
それに気付いた人々のうち命懸けの奪い合いや争いに消極的な大多数の参加者――特に神の能力者以外の普通の人々は――〝ゲームオーバーにならなければ死ぬ事はない〟という希望的観測に縋り、積極的に行動する事を辞めてしまった。
遊戯開始直後の混乱により僅か一時間足らずで半数の参加者が消えて以降、遊戯が膠着状態に陥ったのは、参加者の減少だけが原因だった訳ではない。他者を蹴落とし『勝利』を目指すのではなく、身を隠し息を潜めて『ゲームオーバー』を回避する事に全力を注ぐ参加者が増加した事も要因の一つだったのだ。
……実際、『魔力点』内部に閉じ込めた人類は『探求者』が『儀式』を進めるうえでの重要な養分であり、魔力点の主である『厄災』側としてもあまり数を減らし過ぎる訳にはいかないという事情があった。参加者全員を殺してしまうような事は元より不可能。敗北イコール死ではないという彼らの希望的観測は、実のところ的を得ている。
だが、そんな事実を公表してはせっかくの厄災遊戯が緊張感に欠けるものになってしまう。だからこそ、主催者であるアレクサンドロスは一部ルールの明言を避け、あえてどちらとも取れるようなぼかした書き方をしていたという訳だ。
結果として、その僅かな違和感から正解に辿り着かれてしまったのだが……別段これは〝強欲が果ての騒乱〟がその身に宿す『業』の敗北を意味するものではない――
「――いいね、初っぱなから殺し合う以外の選択肢がない絶望よりも、ようやく得た安全地帯を目の前で取り上げられ、奪われる方が俺好みってもんだ。あぁ……あっちもあっちで面白くなってきたじゃねぇか」
「……いきなり――何の、話だ……!」
「安心しろ、こっちの話だ。アンタにゃ関係ねえよ。……それより、アンタは自分の心配した方がいいんじゃねぇの? ほら、槍がまたお留守になってるぜ……!」
「チィ……! この距離で槍を弓で捌いてんじゃねえっつうの変態弓野郎がッ」
――そもそも。それが事実がどうであるかなど、実際の所は関係なかった。
人類の浅ましくもおぞましき強欲。こと、生存に関する欲というものに関して言えば、人類のソレは際限を知らない汚泥の溜まった底無し沼そのものだ。アレクサンドロスもその点を甘く見るつもりは毛頭ない。
故に、想定できる可能性としては二通り。これだけの極限状況、半端な結果は考えにくい。どちらか一方に極端な傾き方をする事が容易に予想出来た。
すなわち。
終わりの見えない血みどろの殺し合いか。
諦観と沈黙に沈む未來なき停滞か。
そして、あらかじめ予測出来ている状況であるならば、当然のように状況を打開する対応策も準備されていて然るべきだろう。
是は、事の真偽、理由の内容に関わらず参加者の多くが行動を拒否し、遊戯が停滞した時点で発動するようあらかじめ用意されていた仕掛けに過ぎず、主催者による苦肉の策のテコ入れなどでも無い。状況の推移によって厄災遊戯:『欲物狂争』が次の段階へと進んだ、ただそれだけの話。
つまり全ては予定調和。未だ尚、人類の命運は『厄災』の掌の上。
求めるまま、欲するままに全てを奪う狂気の争奪戦は最も原始的にして最も重要な『生存権』の奪い合いへと移行する。
人類が――否、人類に限らず生命体である限り生きるのに必要な『食料』を巡る殺し合い。それは、採取や狩猟で生活していた大昔の人類が農耕文化を獲得して以降、現代に至るまで永遠と繰り返されてきた原初の業。
農耕の獲得は人々に貧富と身分の概念を与え、個々の集まりでしかなかった人々は一定の場所に集まり定住するようになり小さな群れから大きな集団へと成長した。人は集まり村は街へ街は国へ。作物の実る肥沃な大地や川沿いの土地、果ては収穫された作物そのものを求めて行われる国家による他国家への侵略行為、それこそが『戦争』と言う名の〝騒乱〟のはじまりであり、人類の罪深き〝強欲〟の証明だ。
此度の厄災遊戯は……『裁定戦争』は終わらない。
人類の真価を問う戦争、その一端は、生存争奪戦の様相を呈していく。
☆ ☆ ☆ ☆
現実世界時刻:二〇XX年 一月四日 午後九時二十二分
座標:《魔力点β》プエルト・ナタレス【遊戯難度B】理想郷エピスィミ・ア・リスィア。
草原エリア『食料庫』。
☆ ☆ ☆ ☆
吹き抜ける風に気持ち良く頭を揺らす草原の中、少し小高くなっている丘の上に突如として出現したのは、四方を高い壁に囲まれた建造物だった。
『食料庫』と呼ばれる石造りのソレには物見台のように壁から張り出した小塔が四隅に、中央には一際高い尖塔がその存在を主張しており、一見廃れた古城のように思えるシルエットをしてる。
しかし、よくよく目を凝らしてみるとまるで装飾のない実用性重視な無骨な造りは、その建造物が防衛拠点として造られた砦である事を如実に示していた。
通常の建物の三、四階建てに相当する高さがあるものの砦としては小規模な方なのだろう。
索敵や監視、側射などを行う五つの塔を除いて内部は二階建ての構造になっており、一階部分には武器庫や物資の保管庫、治療室や避難所。司令室などの軍事上の重要な部屋は二階に用意されていたようだが、それらの部屋は今となってはその役割を忘れ、がらんどうの空間へと変わり果てて久しい。
地上からの射撃から身を守るための胸壁が取り付けられた小塔の上にはバリスタや巨大な投石器が設置されてはいるが、どれも経年劣化が酷くて使い物になりそうもない。
砦内部への出入り口は当然一つだが、硬い門と鉄扉で閉ざされているはずのそれは老朽化の影響なのか扉そのものがなくなっており、天然の洞窟のように大口を開けて来訪者を歓迎していた。
籠城戦や防衛戦を行う砦の要とでも言うべき扉がこの有り様なので、当然のように他の部分もかなりガタがきている。
西側の石壁など一部が大きく崩れており、人が侵入できるだけの穴が空いているほどだった。
パッと外から見回しただけで他にも複数の侵入経路が見受けられ、その時点で防衛拠点としては落第点を付けざるを得ない状態にある。
……攻め込む側としてはありがたい限りだが、奪い取った後は自分たちが守る側に回るのだと思うと頭が痛くなってくる。
だがそんな贅沢な悩みに頭を悩ませる為にも、まずは目の前の戦いに勝利しなければならないだろう。
『――行くぞ』
それぞれ異なった形状、建築様式をした『食料庫』のうち、草原エリアに現れた『食料庫』西側の防壁に背を付けた状態で息を潜めていたロシア系の眉無し男――エバン=クシノフは、偵察から戻って来た若い女の報告に頷くと突入を意味するハンドサインと共に行動を開始した。
エバンの指示に、足音を殺して無言で続く影が五つ。
男が三人に女が二人、エバンに従う彼らは女王艦隊のメンバーではないものの、いずれも若く鍛えられているのが服の上からでも分かるような締まった身体つきをしている。一つ一つの動きのキレや指示に対するレスポンスといい、彼らがただの一般人ではないのは明らかだ。
それもそのはず、彼らは多くの一般参加者が他者との無駄な遭遇や争いを避けようと身を潜めて引き籠る中、神の能力者でもないにも関わらず積極的に行動し遊戯クリアを狙っていた勇気ある猛者たちなのだから。
(可能ならば連携の容易な艦隊メンバーで組みたかった所だが……)
『イベント』発生の一斉通知が行われた直後、エバン=クシノフは直接『食料庫』に向かうのではなくその周辺に網を張り、人を集める事を選択した。
欲物狂争は完全な個人戦。他の参加者と協力するような余地は一切ない……ように思えるかも知れないが、エバンの意見は違う。
そもそも、女王艦隊が内側から崩壊するような事態にさえならなければ、少なくとも序盤の間は協力して厄災遊戯攻略を進めるようエリザベスに働きかけるつもりだったのだ。
誰もがこの厄災遊戯を個人戦だと考えている以上、集団で戦える事は大きなアドバンテージになるだろう。ならば互いが不利益を被らない範囲で協力するのが最も効率が良いに決まっている。だからこそ、ゲオルギー=ジトニコフに初手でその可能性を潰されたのは痛手だった。
(ジトニコフの造反により艦隊は内部から崩壊、女王の力とカリスマ性が失われた今となっては所属している意義も薄く、再接触事態が芳しくない有様だ)
……勿論、艦隊内の誰かが自らが欲する五つのアイテムの内どれか一つでも持っていた場合は協力などと言っている場合ではなくなるが、その時は己が生き延びる為に必要なことをするまでの事。
例え、様々な任務を共にした気心知れる僚艦であろうとも、目的達成の為の障害となり得るならば――もしくは目的の為に必要とあらば排除する。その行為に感傷を抱く事こそあれ、エバン=クシノフが殺しを躊躇う事はなかっただろう。
仲間や絆、愛情や友情や仁義といった概念を殊更否定するつもりはないが、その程度の言葉にエバンの中の優先順位が揺らぐ事はない。それらの大切さを理解したままそれらを踏みにじる事だって出来るのが人間という残酷な生き物だ。
当人にとって最も大切なモノが各々の中で異なっている以上、そこには必ず摩擦や軋轢が生まれるもの。そして、生じた火花は必ず争いへと発展する。
相手とぶつかりあったからと譲れる程度のモノであれば、最初から後生大事に抱えてなどいない。故に、自らの為に他者を犠牲にしようとするのは当然の権利であり行いであるというのがエバン=クシノフの価値観だった。
そういった意味では、利己的な理由で女王に刃を向けたゲオルギー=ジトニコフの事をとやかく言う筋合いはエバンにはないに違いない。当然、本人にもその自覚はある。
結局、自分以外の他者などどこまでいっても赤の他人でしかなく、そこに生じる関係性など利用するかされるかしかない。
エバン=クシノフは故郷に残した親兄弟の為に戦っているが、それだって『家族』や『親』や『兄弟』という名の関係性の中にエバン自身が何か価値あるものを見出しているからに過ぎないのだろう。
例えそれが今だに自分の中で言語化すらできていないようなモノだとしても、エバンが故郷の家族から何かを受け取っている事に違いはない。
程度の差こそあれ、人は誰しも他者を利用して、利用されて生きている。家族だって、自分ではなく他人の一人に過ぎない。
だから、自分の理論に破綻はない。眉無しの強面を顰めたまま、エバン=クシノフはいつものようにそう結論付ける。
そして今回発生した『イベント』に関しても、絶対的に協力者の存在が必要だとエバンは考えていた。
『……西側、回廊には敵影なし』
『小部屋にも敵影ありません』
崩壊した西の石壁から砦内部に侵入したエバンたち。崩れた壁や天井から差し込む僅かな陽光のみが光源となっている為、内部は薄暗く埃っぽい。廃墟と呼ぶには一切余計な物がなく、どちらかと言えば時代に忘れ去られた古代遺跡を彷彿とさせた。
エバンたちは建物外周の壁際をぐるりと一周する回廊を時計回りに進みながら、素早くクリアリングを済ませていく。
偵察に行った女の報告によると、内部では早くも十数名の参加者たちによる小競り合いが起きているとの話だったのだが……異様な程に人の争っている気配がない。
妙な不気味さを感じつつも、エバンは先へ進むよう周囲を促し自分もそれに続く。
『このまま時計回りに進む。虱潰しに行くぞ』
物欲狂争ではフィールドのどこかにある五つのアイテムを自分以外の参加者から奪い取らなければならない、完全に個人戦に特化した厄災遊戯だ。
誰が自分が欲するアイテムを所持しているのかは実際に奪ってみるまで分からないようになっており、その代わりに相手が欲するアイテムを自分が持っている場合、警告色で危険な相手を地図上に表示してくれる便利な機能があったりもする。
しかし、この機能によって接触を拒否して逃げる者は追われやすく、近くにいる参加者にはとりあえず戦闘を仕掛ける、というような流れが生み出されている節がある。
一メートル以内の接近により相手の所持アイテムを開示するシステムもあるが、ランダムで一つのみしか知る事が出来ない以上、他の参加者と遭遇した場合とりあえず戦闘になるケースが殆どだ。
仮に、相手が持っていたのが自分が必要としないアイテムでも他の参加者との交渉に役立ったりなど、使い道はいくらでもあるのだ。
その為、基本的に『戦闘を避けたい』という理由以外に遭遇した相手と争わない理由がない。
この厄災遊戯ではそんな大前提が他者との協力を難しくしているが、今回に関しては少しばかり状況が違う。
あくまで今の目的はゲームオーバーを回避する為に状態異常:空腹を解除する事にある。
『食料』を得られなければそれは敗北と死を意味するが、『食料』を得る事が勝利に直結する訳でもなければ、『食料庫』に貯蔵され、時間経過で再湧きする『食料』というのが他の参加者数名とすら分け合うのが困難な程に微量だとも思えないからだ。
そして『食料』を確保するにしても一度得ただけであまり意味はない。時間経過と共に『空腹』は再発生してしまうのだから、それでは根本から問題を解決した事にはならない。
重要なのは継続的に『食料』を得られる環境を整える事。つまり、一定時間の経過で『食料』が再ポップする『食料庫』を制圧し占拠してしまうのが理想的だろう。
しかし、ある程度の広さのある『食料庫』を長期に渡ってたった一人で守るというのは現実的ではない。結果として『食料庫』に籠城する事になる以上、不眠不休で警戒を続けることになってしまう。
索敵に湧き出るする『食料』の見張り・運搬・分配、襲撃に対応する遊撃手etc……、どう考えても役割分担は必要不可欠。休息を取るべきだということも考えると、やはり複数人で協力体制を取るのが最も都合がいい。
それに、『食料庫』という拠点を確保する事は欲物狂争を攻略する上で『食料』を得られる以上の戦略的価値がある。
なにせ状態異常:空腹を解除出来なければ、皆ゲームオーバーになってしまう状況にある以上、今まで戦闘を避けて息を潜めていた参加者達も『食料庫』に向かわざるを得ず、それはつまり自分が探しているアイテムを持った参加者と遭遇する確率が自然と上昇する事を意味しているのだから。
チームを組み協力して戦う事のメリットの大きさは、他の参加者たちにとっても決して無視できないもののはず。
……勿論、素性の知れない赤の他人と組む以上、いつ背中を刺されるかわからないというリスクはある。対策として、互いに所持しているアイテムを開示しあい、お互いの欲するアイテムを持っていない事を確認してはいるものの、人間とは合理だけでは測れない感情的な生き物であり、損得勘定だけで相手を動かせるとは限らない。
万全の準備と対策、そして警戒を厳にして挑むべき『イベント』である事だけは確かだった。
(最善でこそないがこれが現状取れる次善である事に疑いはない。後は即興のこの布陣でどこまでやれるかと……彼らがどこまで大人しく俺の指示に従うか、だな)
エバンが集めたのは『イベント』の発生にいち早く動く行動力とある程度の実力を持ちながらも直接『食料庫』へ向かう蛮勇さではなく、付近での情報収集から始める冷静さや慎重さを兼ね備えた者たち。それも、超常めいた身体能力を持つ神の能力者ではなく、自分よりも明らかに弱い者を狙って即席のチームを形成していた。
理由は単純、協力の要請も裏切りや反発に対する対処も、全てエバン=クシノフ個人の〝力〟で対応する事が出来るからだ。
それらの条件を満たす存在として、軍属の彼らは実に都合が良かった。
一般人よりは強く使える反面、神の能力者の身体能力にはどうあっても対抗出来ない。
神の力が使えない今、彼らの手元にある程度の武器があればまた話は変わってくるかも知れないが、前述した通り彼らの所持しているアイテムは既に確認済みだ。
まともな武器がサバイバルナイフ一本とライトボウガン程度では体術の心得もあるエバンに対して有利に立つ事は難しいだろう。五人全員で協力し一斉に掛かれば神の力を使えないエバンを倒す事は実現可能だろうが、彼らにはそれを実行に移すだけの互いへの信頼がない。
実際、三人の男のうちは二人は交渉を持ち掛けたエバンに奇襲を仕掛けて返り討ちにされており、それ以降は素直に彼の指示に従っていた。
「……なんだ?」
回廊の途中で右へ曲がって一本内側の廊下へ入り、個室の扉を開けた途端だ。先陣を切っていた気の強そうな男が戸惑いの声を上げた。
「俺達と同じく『食料』を求めていた参加者か。どうやら、気を失っているようだな」
部屋の中には人が倒れていた。数は三、全員が男だ。おそらく、先ほど報告にあった小競り合いを起こしている十数人のうちの三人なのだろうが……何か、妙な気がする。
「外傷がどこにもない……?」
違和感はそれだけではない。部屋に立ち込めている濃密な血臭、吐瀉物を撒き散らしたような床の血だまり。そこから伸びるように点々と続く血痕。それらの痕跡に対して、倒れている男たちの身体には傷らしい傷が見当たらないのだ。
血の量、乾き方からいって、致死量に近い血を流している人間が最低一人はまだ近くにいる。その一人が、彼ら三人を紙一重のの所で下し、『食料』があるであろう先の部屋へ進んでいったのだろうか。
だが、倒れている三人の状態からは、そのような激しい戦闘があったとは思えないが……。
嫌な予感がする。
扉を開けた瞬間から鳥肌が止まらない。殺意とも敵意とも悪意とも異なる、それでいて切れ味鋭い純然たるナニカがエバンに対して不可視の圧を掛けているようだった。
引き返すべきか、進むべきか。正直、判断に迷った。だが、ここで『食料庫』制圧から背を向けるような弱気を見せれば、エバンの力に従っている彼らはその力に疑念を抱くようになるだろう。そうなれば、裏切られるリスクは一気に高くなる。
『食料庫』を制圧し『食料』を得る事は生存するうえでの必須条件。『食料庫』はここ以外にもあるとはいえ、今から他の場所へ向かうとなるとかなりの出遅れを覚悟しなければならなくなる。
……ならば。
この出血の量なのだ。相手は確実に手負い。それも、もうまともに戦えないレベルの重傷を負っていると見ていいだろう。
まず間違いなく勝てる。
例え相手がどこぞの神の子供達であろうと、神の力が封じられているこの状況ならば関係ない。
背筋に寒気を覚えながら、エバンは自らに言い聞かせるようにして血だまりから点々と伸びる血痕を追いかける事を選択した。
道すがら、またも大した外傷もないままに意識を失って倒れている参加者たちが目に入るが、そんなものに拘泥している精神的な余裕は既に失われている。
己の勝利を確信しながらも振り払えない嫌な予感と戦いながら、エバンは先頭を切って黙々と砦内部を進み、南東側の小塔の階段をあがって二階へ。またしばらく回廊を進んでから、入り組んだ廊下へ入るとすぐに現れた何の変哲もない石の扉の前で一度立ち止まった。
エバンが追いかけてきた足元の血痕は、エバンを誘うように眼前の扉の奥へと続いている。
……ここだ。
五感を突き刺すような独特の圧、嫌な予感の出所、血痕の主はこの扉の奥にいるのだと直感的に理解したエバンの額から一筋の脂汗が流れていた。
一度覚悟を決めたはずなのに、あと一歩踏み込む事に強烈な拒否感を感じている自分がいる。
エバンの後に黙って付いて来ていた協力者の皆も、どこか青白い顔でエバンの背中を見つめていた。
……引き返そう。誰かがそう言ってくれるのを皆が待っているかのような沈黙の後――
『――総員、突入準備。……行くぞッ』
合図と共にエバン=クシノフは神の能力者の膂力で扉を蹴り破り、そして――
――血に塗れた、手負いの獣 と。 目が……、 あ――
☆ ☆ ☆ ☆
一歩踏み込んだ瞬間、獣の顎の中を覗き込んだような悪寒に激しい昂ぶり感じた。
「ブラッドフォード殿、今の気配……」
「……」
ブラッドフォード=アルバーンと北御門時宗。
『白獅子』の名で畏怖される新人類の砦元最強の男も、強者との戦いに悦びを見出す世捨て人も、皆等しく『空腹』には抗えない。
『厄災』を叩き潰す為に一時的に共闘状態にある両者は、状態異常を解除する為に草原エリアに出現した『食料庫』を訪れていたのだが……。
「北御門時宗、先を急ぐのである」
「ふむ、先の獣めいた気配に何か思うところでも?」
崩れた壁の隙間から差し込む光に薄らと照らされた暗闇の中、回廊を進む足を速めるブラッドフォードに北御門が腰の木刀――自ら木を加工して造った即席の武器――に手をやりながら尋ねると、ブラッドフォードは苦笑交じりに、
「……いやなに。『空腹』などと、随分くだらぬ真似をしてくれたものだと思ったが……なかなかに面白いモノを見られるやも知れぬ」
「拙者としては胸躍る強者との戦が待っているのであれば文句はないのだが……その様子ではそういう訳でもないのだろう?」
「さあ、どうであろうな。それを含めて全ては可能性でしかないのである。故、貴殿にも我にも分からぬとも。だが――そうであるからこそ面白いのだとは思わぬか?」
「拙者、難しい事はあまり考えぬ主義でな。なんであれ、この刃を振るう機会があれば儲けもの程度に思っておくとしよう」
「生憎であるが、その機会が訪れることはないぞ、北御門時宗。何故なら、是の相手は我がすると今決めた」
「……ふむ、お主がそう言うならば仕方あるまい。拙者はあくまで頼んだ立場の人間、これ以上の我儘は言うまいよ。しかし、約束は必ず守って頂こうか」
意識を失い倒れ伏せる参加者たちには目もくれず、駆けるような速度で砦を進む二人の神の能力者。
道標のように残された血痕を追いかけ辿り着いた先には、部屋が一つ。元々あったであろう扉は破壊されており、その部屋の最奥から発せられているビリビリと肌を震わせる圧を、ブラッドフォードと北御門の両者はどこ吹く風と言った調子で受け流し躊躇いなくその空間へと踏み込んでいく。
まず目に付いたのは、部屋に入ってすぐの所で倒れている数名の若者たちだ。その中に見知った顔を見つけたブラッドフォードの表情が、ほんの僅かに歪む。
「……この小僧、第一艦隊の……エバン=クシノフ、か」
その部屋は『食料』が湧き出るポイントだった。
おそらく、この『食料庫』の攻略を目指した者達は、皆この場所を目指したのだろう。そして、そこに辿り着いてしまった者はソレを目にして――そこで触れてしまったのだろう。
ブラッドフォード達の眼前に佇む今にも死にかけの手負いの獣、その全身から発する狂おしい程に剥き出しの生存本能に。
「……ほう、これはまた珍妙な獣がいたものだ。二本の足で大地を踏みしめ、一本の腕で必死に肉に喰らい付いている。思ったよりも小柄で貧相、だからこその懸命さ。だからこその強さなのだろうが――」
「フン、人間など誰しも薄皮一枚剥げば欲に塗れた獣である。だが、こやつは獣が服を着て歩いているような男なのだろうよ。ここまでまっすぐな欲を滾らせる者もそうはいまい」
常人であれば――否、常人などという域には既にいなかったエバン=クシノフのような実力者を以てしても直視すら耐え難い威圧に晒されながら、北御門は興味深そうにその瞳を薄く見開き、ブラッドフォードは関心したような声をあげる。
神の力など完全に封じられているであろうはずのその男が発するプレッシャーは、ただそれだけで有象無象を圧倒するだけの力がある。
干渉力というワードが、必ずしも神の力の強弱だけを指すものではないという最高の例だった。
「して、どうされるつもりだ」
「荒療治と行こう。正気に戻すところから始めるのである」
拳を握り固めた『白獅子』の臨戦態勢に獣が過敏なまでの反応を見せた。人の物とは思えぬ雄叫びと共に、その痩身が老兵へと飛び掛っていく。




