第五十一話 一月四日 記録Ⅰ――奴隷たちと賑やかな王国の日常
現実世界時刻:二〇XX年 一月四日 午前五時五十二分
座標:《魔力点δ》エルズミーア島【遊戯難度C】黄金奴隷王国エルミニア。
王国領第3区、領主邸
☆ ☆ ☆ ☆
剣闘奴隷は基本的に外出を禁止されており、試合と入浴、試合や試合によって受けた怪我の治療、鍛錬のを除く全ての時間は闘技場内に与えられた自室――という名の檻の中――で過ごす事を定められている。
だが、中には例外もある。
剣闘奴隷の所有者。つまりは自身の主人からの何か特別な命令や招集があった場合はその指示に従い、必要とあらば外出も許可されるのだ。
「いやー、実に素晴らしい。素晴らしい成果ですよコレは! 東条勇火は八連勝。鳴羽刹那が九連勝。この私が第3区の領主に任命されて以来、文句なしに最高の成績です。何度も言いますが素晴らしい! 私は実にいい買い物をしました!」
――剣闘奴隷生活、二十日目。
現在。勇火たちは、見慣れぬ空間にいる。
周囲を囲むのは大理石の壁。天井で淡く輝く少しお洒落な複数の卵が集まったような不思議なデザインの照明。床にはペルシャ絨毯が敷き詰められた豪勢な一室だった。
家具は少なく、壁際の本棚には沢山の本や資料の他、煌びやかでありながら嫌らしくない程度の調度品が飾られている。シンプルでいながら高級感のある書斎机には、書類の山が二つ三つ程出来上がっており、この一室が単なる趣味部屋などではない事を物語っている。……いるのだが、部屋を囲むように並び立つたくさんのメイドの姿がこの空間を異色で塗り潰していた。
本革の肘掛け椅子に盛大にふんぞり返ってたるんだお腹と顎を緩ませ、興奮した様子で自らの選択を自画自賛。その後も取らぬ狸の皮算用について上機嫌にまくし立てている部屋の主に気づかれないよう、勇火は目線だけを巡らせて明後日の方向を見ながら辟易した表情を浮かべていた。
「はぁ……」
口の中で呑み込むようなため息は、呆れか怒りか。それすら通り越してただただ億劫さが滲み出てしまっただけだったのかもしれない。
ともかく退屈だしつまらないし苛立ちを覚える。興味がない話だという事以上に、怒りや嫌悪感が湧き上がるような内容なのだから仕方がない。
それは隣りに立つ鳴羽も同じだろう。そう思ってちらりと横に目をやると、鳴羽は領主の話に超適当な相槌を打ちながら物珍しそうにキョロキョロと部屋を眺めまわして――否、キョロキョロと首を巡らせながらある一点で動きが止まり、しばらくその人影を凝視して、また首を巡らせて……を繰り返している。
どうも、領主を囲むように立っているメイドたちの存在が気になって仕方がないらしい。とはいえ、視線にどこぞの馬鹿どものような下心を感じないので、純粋な興味からのようだ。
……まあ、あきらかに娯楽用ではないお堅い雰囲気の仕事部屋に、猫耳やら犬耳やらウサ耳やら尻尾やら何やらの追加パーツを付けた派手派手なメイド服姿の女性が大量に並んでいる光景は誰の目にも違和感のある異質なモノとして映るだろうが。
(だからと言って、アンタ流石にガン見し過ぎでしょうが鳴羽センパイ……)
何というか、失礼度でいえば断然鳴羽の方が上だった。
領主の話に興味がないという事実を一応隠そうとしている勇火に比べ、鳴羽の方は隠そうという考えをまず思いついてもいないらしい。
貴族奴隷である領主に従わなければこの国では生きて行けない、という基本的な事は分かっているハズなのだが、根本的に自分より目上の人間に対する態度に理解がない。
それに、状況を考えれば彼女たちが領主の趣味であの服装を強制され周囲に侍らされているだろう事は予想できる為、そういう意味でも不躾な視線は失礼だ。
つまりは鳴羽刹那の奇行は常識の欠如の結果という訳で、「どうして自分の周りの年上はこうなのか」と勇火の頭痛はまずます悪化の一途を辿る。
『魔力点』内に囚われてからというものの、このとぼけた先輩のシリアスな顔や真面目な一面を見る事も多かったのだが、やはり鳴羽刹那は鳴羽刹那という事なのだろうか。
領主が興奮のあまり鳴羽の挙動に気付いていないのが不幸中の幸いだろう。
ともかく、東条勇火と鳴羽刹那はこの場とこの場にいる男に好ましい感情を抱いていない。にも関わらず、我慢して黙って話を聞いている理由は簡単だ。
剣闘奴隷は自身の主人からの特別な招集や命令があった場合、その指示に従っての外出が許可される。というのは前述した通りだ。
すなわち。今、勇火たちが闘技場を離れているのは主人からの招集があったからであり、目の前にいるこのでっぷりとした無駄に偉そうな男こそがエルミニア王国第3区領主――つまりは勇火と鳴羽を所有する二人の主人にあたる人物なのだ。
「残念ながら、我らが第3区は先週先々週と黒星が続いています。前回は十五万、前々回は二〇万。貴重な奴隷を奪われています。献上奴隷の通常出荷ノルマをあわせれば消費は倍。このまま負けが続けば今度は上級奴隷を献上せねばならなくなるでしょう」
……献上奴隷。耳が腐り落ちそうな内容ばかりの話の中でも特別に嫌な言葉だと勇火は思った。
貴族奴隷と呼ばれる彼ら領主たちには、毎週末に定められた数の奴隷を『プラント』の労働力としてマクシミリアン王に献上しなければならないという制約がある。
例のプラントについては触り程度しか聞いた事はないが、それでもその場所がいかに非人道的な場所かは伝え聞いている。
マクシミリアン王直属のプラント、通称〝マクシミリアン王のプランター〟。
なんでもそこは献上された多くの奴隷たちを利用して、農作物や畜産物、海産物などが大量生産されている強制労働施設のような場所だとか。
勇火たちが食べている食事も、そこで作られた食材を調理したものだと思うと食欲よりも罪悪感が湧き上がってくるのだが、この厄災遊戯を生き残る為にも食事を取らないという訳にもいかず、せめて命を削る彼らに報いる為に配膳される食事を残さないようにと毎日完食していた。
「しかし、それもここまでです」
領主はニヤリとした笑みを浮かべながらそう断言すると、勇火と鳴羽の顔を交互に舐るように見つめて、
「今回の代理戦争にはお前たちのどちらかに出てもらいます」
代理戦争。
献上奴隷にも関係する単語に、勇火は眉を潜める。
「……俺か鳴羽刹那のどちらかが代理戦争に、ですか?」
剣闘奴隷が殺し合う剣闘試合には種類が二つある。
一つは通常の剣闘試合。テンカウントによるKOか降参宣言、もしくは相手の死亡による試合続行不可により勝敗が決する円形闘技場で毎日行われている剣闘奴隷同士による殺し合いだ。
王国最大の娯楽である剣闘試合には大勢の観客が押し寄せ、決して多くない収入の一部を落としていく。つまりは純粋な興行収入を目的とした試合だと言えるだろう。
そしてもう一つが、剣闘奴隷を用いた『代理戦争』と呼ばれる殺し合い。
こちらも基本ルール変わらない。通常の剣闘試合と異なる点は、この殺し合いは剣闘奴隷を用いた貴族奴隷同士による戦争だという点だ。
「ええ。先週はまだまだデビューしたてという事もあって他を起用しましたが、あれだけ圧倒的な強さを見せられては躊躇う理由がありません。どれだけ高性能の道具も、使わなければ宝の持ち腐れ。今度の『代理戦争』はお前たちを第3区の代表として指名します。代表に選ばれた誇りを胸に、死力を尽くして勝利を掴むように! いいですか、これは命令です」
貴族奴隷は毎週末に定められた数の奴隷を『プラント』の労働力としてマクシミリアン王に献上しなければならない。
自らの領地に住まう奴隷たち――つまり領民は領主である貴族奴隷の所有物である為、彼らを出荷するのは簡単だ。
なにせ下級奴隷も上級奴隷も貴族奴隷に逆らう事は出来ない。命令一つで彼らは献上奴隷としてマクシミリアン王のプランターの労働力になるだろう。
しかし、馬鹿正直に自らの領民を献上し続けていれば、領地はやせ細りやがて滅亡してしまう。所有する奴隷の数はそのまま領主の力。それを自ら差し出すというのは自らの首に縄を掛けじわじわと締めていく迂遠な自殺行為に等しい。
そこで、領民を犠牲にすることなく献上する奴隷を確保するために各領主たちはよその領地を襲撃し、他の貴族奴隷が所有している奴隷を強奪するようになったのだ。奴隷を奪い合う貴族間の戦争の始まりである。
……とはいえ、戦争を行えば当然死傷者が出る。所有する奴隷を失いたくないから戦争を仕掛けたのに、奴隷の命が失われるのでは本末転倒であると、争う貴族たちはすぐその馬鹿げた矛盾に気付いた。
そこで貴族たちの間で話し合いが行われ、無駄な争いと奴隷の消費を避ける為に、戦争の代わりに互いの所有する剣闘奴隷を戦わせその勝敗で奴隷の取引を行う『代理戦争』と呼ばれる〝膨大な数の奴隷の命〟を賭け金にした、特殊な剣闘試合が誕生したのである。
敗者側が勝者側の献上奴隷も負担する。
狂ったレートの賭け試合は、通常の剣闘試合以上に民衆の注目を集め、普段以上の客が闘技場に押し掛け異様な盛り上がりを見せる。
なにせ、事と次第によっては自分達の命運すらもそこで決まってしまうのだから。
……勝利を重ねる覚悟も、本気で戦う決意も、何も定まっていない。
だが、状況はそんな勇火の迷いを許さないとでも言うかのように嘲笑いながらその牙を剥いてくる。
代表として『代理戦争』を戦う事が何を意味しているのか。勇火は自分達が背負わされようとしているモノの重さを考えないように意識しながら、表情を殺してこくりと頷き答えるしかなかった。
外聞だけは取り繕うのが得意な、優等生然とした回答を。
「……分かりました。その代わり、上級奴隷にあがった時の約束、忘れないでくださいよ」
「ええ、勿論ですとも。下級奴隷の女三匹の購入……でしたか? 此度の代理戦争に勝ち抜き上級奴隷に上がる事が出来たなら、最大限の配慮と融通は利かせますとも。ですがもしも……もしも万が一にも私の命令を果たせぬような事があれば……どうなるかは、分かっていますよね?」
……分かっている。
上位の奴隷からの命令違反は命をもって償われる。
それが、分かりたくもないこの王国のルールなのだから。
☆ ☆ ☆ ☆
王城や円形闘技場のある城下街は中央エリア――つまり、名前の通り王国の中心に位置している。
王国中央を領地とする第5区のさらにど真ん中。そこに存在する巨大な黄金城を中心として広がる円形の城下町は、どこの領地にも属さない中立地帯であり――逆に言えば第5区はドーナッツのように真ん中に穴が開いている特殊な形をした領地になっている――多くの人々が行き来するこの国の首都だ。
現在、王国には一〇の領地と領主が存在しているが、この中央エリアはどの領地にも属さない中立地としてエルミニア王国における全ての中心となっている。
勿論、中立地だろうが独立した領主による自治が行われている地域であろうが、国王であるマクシミリアン=ウォルステンホルムの支配下にあるという大前提ばかりはどうあっても揺らがない訳だが、それでも様々な勢力が入り乱れ、領主の権限が十全に届かない中立地を好む人間は驚くほどに多い。
国の首都というものは大抵そうかも知れないが、中央エリアの城下街はいつも人で溢れ返っている印象がある。
そして、そんな首都の賑わいにも負けない賑わいが、馬車の車窓から外を眺める勇火達の視界の先にも広がっていた。
『――安いよ安いよぉー。上質なオオテナガブタの中落ちが今ならたったの1500Mだ! そこの綺麗な奥さん、ちょっと見ていかないかい? 今ならサービスしちゃうよ~』『すみません、ホットポークビッツ一つください』『腕肉600g、もも肉300g。胸150にタンが100、最後にのう味噌500gで……はい、こちらお会計が――』『どうぞどうぞ、うちは試し斬りは無料だからね。最新鋭の包丁の切れ味、是非試していってくださいねー』『試飲いかがですかー? 本日より発売の健康食品、緑黄色人種野菜ジュース。「マクシミリアン王のプランター」印の野菜ジュースはいかがですかー?』『今日は久しぶりに「レストラン山猫軒」にでも行こうか』『いいね、ぼくはもう何か食べたくて倒れそうなんだ』『へい、らっしゃい! 本日のオススメは活きの良い人面魚だよっ。これがなんと三尾で800M。勿論、「マクシミリアン王のプランター」産だよー」『射程ゲーム、一回300Mだって! 的に当たったら豪華賞品が貰えるんだってさ』
そこにあったのは、盆から溢れ返ったような人混みと、鼻孔と本能を刺激しくすぐるような美味しい匂いの群れだった。
嗅覚や聴覚どころか視覚さえも満たしてしまいそうな程の喧騒は、富と繁栄の象徴でもあるのだろう。
大勢の人が行き交う通りの両脇には、所狭しと店が立ち並んで軒を連ねており、そこら中から様々な料理の匂いを乗せた湯気が漂っている。商魂たくましい商売人たちが道行く通行人を相手に自分の店の商品を必死になって売り込んでいる姿も見える。
人混みが出来るほど繫盛している店もあれば、雑談混じりに常連客たちを捌くお店。店番の男が暇そうに船を漕いでいる店もあった。
闘技場の狂気じみた熱気からはかけ離れた、昼下がりの賑やかな人間の営みの空気がここにはある。
――エルミニア王国領第3区、南北通り市場。
第3区を南北に縦断する大きく長い街道には、数キロおきに商店が密集して立ち並んでいる。ここも、そうした市場の一つだった。
現在、勇火たちが訪れているこの第3区は、第5区の北西に隣接するそこそこの規模をもった領地だ。
第5区のお隣さんとは言え、勇火たちが招集を受けた領地邸は第3区の中央北寄りにある為、とてもじゃないが闘技場のある中央エリアから徒歩での移動は難しい。
普通に歩けば二日三日とかかる強行軍になるが、そうタラタラ歩いていては剣闘奴隷として次の試合に間に合わない。そうなっては勇火たちを招集した領主とて困ってしまう。
そんな事情もあって、勇火と鳴羽は剣闘奴隷でありながら闘技場と第3区との往復に馬車の使用を命じられていた。
領主が用意した貴族奴隷用の馬車なので、荷物と一緒に荷台に座り込むようなタイプではなく、御者台とは別に屋根と壁に四方を覆われた個室があるタイプだ。
豪勢な装飾やふわふわした座り心地の座席は乗客の旅を快適にする配慮であるはずなのに、何となく心に圧迫感があるのは、馬車を引いているのが馬ではないからなのかもしれない。
「……第3区。剣闘奴隷になる前に来て以来ですけど――」
「ああ、ちっとも変わらねえ。すっげー胸糞悪い場所だぜ、相変わらずよ」
眼下に広がる賑やかな市場の光景を前にして強い不快感と憤りを露わに眉を顰める東条勇火に、その隣の鳴羽も怒りを露に吐き捨てるように頷いた。
……両者の反応は場の雰囲気にそぐわない不釣り合いなものだ。
笑顔と歓談に溢れ、人の営みそのものであるかのような賑やかで活気に満ちた市場を見て、そのような感想を浮かべる人間は感性の狂った異常者かよほど人間嫌いを拗らせた厭世家くらいのものだろう。
だが、一見して二人の反応が異常に思えるその光景も、見る側の立ち位置や視点、情報の切り取り方を変えてみればその印象などいとも容易く揺らぎ動くものだ。
賑やかな市場を見て激しい嫌悪を浮かべる二人から、市場という背景へ焦点を合わせてみよう。
――例えば、射的ゲームで的代わりに立たされている全裸の女や男。
――例えば、食事処に配置された荷物掛けとして手足の他に複数の突起を縫合された男たち。
――例えば、首輪から伸びるリードを引かれ、四足歩行を強制されているペット代わりの女。
――例えば、馬の代わりに馬車を引く屈強な男たち。
――例えば、ストレス解消に理由もない暴力を振るわれる男や女。
人間の喜びに、同じ人間の悲嘆が寄り添っている。
人間の快楽に、同じ人間の苦痛が混じっている
人間の享楽に、同じ人間の辛苦が生じている。
人間の繁栄に、同じ人間の搾取が伴っている。
人間の生活に、同じ人間の犠牲が強いられている。
この市場には、『奴隷』と呼ばれるモノが溢れていた。
同じ人間的であるはずの彼らは人とはみなされず、売り物から、労働力から、娯楽から、サービスから、何から何まで。この王国の全てを奴隷で賄っていると豪語出来てしまう程に、この世界の営みには奴隷と呼ばれる人々が浸透してしまっている。
「……っ」
――ああ、まただ。また、吐き気がする。気持ちが悪い。頭が痛い。
価値観が歪んでいる。歪められている事に誰もが気が付かないまま、世界の歯車は狂い、壊れたまま世界は回り続けている。この気持ち悪い壊れた世界に自分が加担している事実が最も耐え難くて許せない。
今だってそうだ。一体誰が気づいている? 大勢の人々で賑わう平穏そのものに思える日常の風景に紛れ込んだその異物たちに。
幸福な世界に混入した明らかに不釣り合いな異常に。
これならば血生臭い闘技場の狂気の方がまだマシというものだ。
この二十一世紀の現代において、人間が人間を当たり前のように奴隷とし、奴隷として扱っている。
笑顔や繁栄や喜びや平穏と同列に奴隷を語るこの異常な状況に、なぜ誰も疑問を抱かない。
こんなにもおぞましく忌避すべき現実がそこには広がっているのに――
「カミっち、あんま見んなよ。見ててもキツいだけだぜ」
「……分かってますって、そんなの」
鳴羽の言葉に不承不承と言った調子で頷き、勇火は窓から目を離した。
「彼らは敗者復活戦の参加資格を持ってない――つまり、一度『厄災遊戯』に敗北して奴隷になって、その時点で心が折れてしまった人達だって事くらい」
この国での暮らしには、奴隷が息づいている。
それは、第3区に広がるこの光景を見て貰えれば一発で理解出来る事だろう。
ただ、そこにあるのが『奴隷』の根付いた社会というだけであれば、過去の欧州やアメリカ大陸では特に珍しくない光景だったハズだ。
人類史において、『奴隷』という身分、制度はごくごく当たり前のように登場する。
『奴隷』という制度に対する批判が高まり、様々な法が定められていったのも、実はそう遠くない最近の話なのである。
では、この国は何が異質で異常で異界なのか。
『黄金奴隷王国エルミニア』。
この国はその名が示す通り、王であるマクシミリアン=ウォルステンホルムを除いた全ての国民が奴隷によって構成されているという異色の国家なのだ。
勇火たちのような円形闘技場で戦う剣闘奴隷は勿論のこと、店を並べて商売をしている彼らも奴隷。一〇に分けられた王国領地をそれぞれ治める領主とて皆奴隷だ。
そして、民が全員奴隷である以上、奴隷の中にもいくつかの身分が存在する。
例えば、国王であるマクシミリアンを除いて最も位が高い奴隷は王国にたった一〇人しかいない白い首輪の『貴族奴隷』だ。勇火たちを呼び出した第3区領主なども当然この『貴族奴隷』にあたる。
彼らは王から与えられた十の領地をそれぞれ治め管理する領主の役割を担っていおり、奴隷でありながら上級奴隷と下級奴隷、そして剣闘奴隷の保有を許可されていたりなど、名前の通り奴隷でありながら貴族のように優雅で豪奢な暮らしが許されている特権階級だ。
……とはいえ、貴族は毎週一定数の献上奴隷を王に献上しなければならないなど、その権利に見合うだけの特別な義務も負っている。他の奴隷同様に首輪の着用義務もあり、王であるマクシミリアンの命令に逆らう権限もない。彼らも人権を侵害された『奴隷』である事に変わりはないという事だ。
そんな貴族奴隷の次に位が高いのが上級奴隷だ。首輪の色は黒。市場で店を出しているような人間は全てこれにあたる。
こちらは一般市民にあたる階級で、担う役割としては主に労働者か。古代ローマの奴隷のようにある程度の権利が保障された奴隷と言うべきだろう。
貴族奴隷は保有する上級奴隷に適切な衣食住や休暇、最低限の賃金を提供する義務があり、その生命を不当に奪う事も禁じられている。
その上彼らは個人の家や下級奴隷などの財産の保有も許されている。
奴隷というより使用人に近い立場のようにも思えるが、上記の禁止事項が破られない限りは貴族奴隷の命令に対する拒否権はなく、奴隷の証である首輪の着用も義務付けられており、その人権は著しく侵害されていると言っていいだろう。
そして、最も位が低く最悪の扱いを受けているのが下級奴隷と呼ばれる人々だ。
彼らは赤い首輪に加え手枷足枷の着用が義務付けられており、貴族奴隷や上級奴隷の命令に対する拒否権も当然の如く存在しない。
何より彼らには上級奴隷に与えられていたような最低限の保証と呼べるものが一切ない。命の保証すらも、だ。
下級奴隷の命を奪った場合罪には問われるが、それは他者の所有物を不当に傷つけたとして器物破損の罪に問われるだけ。
貴族奴隷も上級奴隷も、下級奴隷をまるで家畜か何かのように扱い、そこには人権など欠片すら存在していないのである。
ちなみに、青い首輪をしている勇火と鳴羽の現在の身分も大きな括りの中では下級奴隷に該当するのだが、剣闘奴隷だけは他の三つとは少し異なる特殊な立ち位置にある。
勇火は、頭の中でそこまで情報を整理してから、
「厄災遊戯敗北後、エルミニア王国で目を覚ましてから敗者復活戦の存在を探そうともしなかった人達はマクシミリアンの価値観に強制的に迎合させられてしまう。それこそ一種の洗脳状態みたいに。……だから、目の前の光景にいちいちキレてたらキリがない、でしょ? アンタよりよっぽど理解してますって」
そのまま分かったような顔で分かったような事を言うと、何故かため息をつかれる。
心なしか、隣から注がれるこちらを慮るような視線が痛い。自分は今、そんなに酷い顔をしていたのだろうか……?
空回りする思考を落ち着ける為にも目を閉じて深呼吸。窓を閉めきった馬車の中は空気が淀んでいて、とてもじゃないがリフレッシュなど出来たものではないが、それでも少しは気分が良くなったような気がする。
心をフラットに保とう。鳴羽に言われるまでもなく、感情を乱し過ぎている自覚はあった。
もう一度息を吐き出して、勇火は人々ではなく風景を眺めるように改めて窓の遠くへ視線を置く。
窓越しに見る青空は、フィルターでも掛かっているかのように灰色がかっていて胸に鉄球が落ちてきたように心が重い。
(……分かってる。分かってるんだよ、ここで俺が感情的になった所で何もできないって事くらい――)
今の自分には、この国の現状を変えられるような力はない。
それどころか、首輪を嵌められている今の勇火は闘技場の外では満足に神の力を使う事も許されない無力な存在だ。
感情に身を任せた所で何が出来る訳でもない。誰も助けられないばかりか、王であるマクシミリアンに背くような行動を取れば勇火がどうなるかも分からない。
手段も立場も権利も理由も、何もかもが欠けている。必要な基準に達していない。この手に残っているのはどうにも出来ないという諦念だけだ。
そして、どうにも出来ない以上、何かをするべきではないだろう。
東条勇火は犬死も無駄死にもすべきではない。
だって、自分にはやるべき事がある。
死ねない訳がある。
失敗できない事情がある。
助け出さなければならない仲間がいる。
絶対に負けられない理由がある。
――分かっている。分かっているのだ。だからきっと東条勇火は――鳴羽刹那に止められるまでもなく、不当に扱われる彼らを助けに動く事など出来なかっただろう。
そんな簡単な事実に、遅れて自覚が追い付いた。
(……だからそれっぽいポーズだけ取って、鳴羽センパイに止められて安心して……はは、なんなんだよ俺。『厄災』を前に氷道真を一人残した時と、全く同じじゃないか……っ)
『魔力点』を攻略するという大きな目的を達成する為にも、こんな所で寄り道をして無駄に消耗する必要はない。
そのはずだ。その考えは間違ってなんかいない。正しいハズ、だから大丈夫。きっとこれで正解だ、そう思える。
自己暗示を掛けるように、自らに言い聞かせるように、何度も何度も胸の内に言葉を並べている自分がいる。
この場における逃避の正当性を証明する理屈を積み重ねようとする度に、自身の臆病と挫折を証明してしまっている滑稽な道化ぶりに勇火自身も気付いている。
それでも無意味な証明を続けるのは、そうでもしなければ見たくないものから目を逸らす事さえ出来そうになかったからだ。
続ける。吐き続ける。自分の選択を正当化する言葉を。自分の臆病を慰める言い訳を。自分の情けなさをひた隠す理論を。自分の無力を誤魔化す戯言を。
目を閉じ耳を塞ぎ、目の前の地獄から顔を背ける。
立ち上がるべきは今ではない。然るべき時、然るべき場所でこそ、この命を懸けるべきだ。
だから、今だけは見て見ぬふりをする。それが賢い選択だから。
だから。だって。だから。だって。だから。だって。だから。だって。だから。だって。だから。だって。だから――東条勇火は今も目の前で苦しむ人々をみなかった事にして――
――ほんとうに?
本当にそれでいいのかと。胸のうちに響く問い掛けがあった。
耳にするだけで、胸のさきっぽがソワソワしてじくじくと痛む。幼さ故に純粋な疑問をぶつけるその甲高い声音が勇火の勘に障る。どこか聞き覚えのある声。
(……だって、仕方がないだろ。俺にはどうする事も出来ない。出来ないことをやる事なんて、誰にも出来ないんだから)
――そういうのが嫌だったから、あの日。立ち上がることを決めたんじゃなかったの?
(うるさい……)
――信じるんでしょ? 自分を。自分の一歩を。その価値を。
(そういう問題じゃないだろッ! 神の力が使えないんじゃ、どうしようもない。今の俺は何の力もないただの人間と同じなんだッ。そんな状態で何が出来る? 何を救える? 決まっている。出来ないんだよ何も! だからお前はもう出てくるな――
――力がないと。例外じゃないと、いけないの?
その一言に、勇火の内側が水を打ったように静まり返った。
(…………………………、)
反論も反駁も否定も拒絶も肯定すら出来ずにいる少年を、不思議そうに見ている幼い顔がふと脳裏に受かぶ。
その顔には、嫌という程に見覚えがあった。
ずっと昔。――遥か、なんて枕をつけるにはたいして時間を積み重ねていない青臭い少年が、かつて鏡越しに眺めていた顔が、キョトンとこちらを見ている気がして――
「……っ、」
――窓の外。一秒前と何ら変わらない世界と、何も変えられない自分に、東条勇火はしばらくの間唇を噛み続けた。
胸に響くその声が無性に勇火を苛立たせる理由が、分かった気がしたのだ。




