第三十九話 一月一日 記録Ⅱ――凍てつく大地、轟くは傲慢なる嘲笑
――正しい事をした人が馬鹿を見る世界は間違っている。
一番始めにそんな思いを抱いたのは、彼がまだ日本の地方都市で小学生をしていた頃だっただろうか。
それは、教室という小さな牢獄に数多の子供を押し込める学校という閉鎖的な空間ではよく起こる日常の一幕だった。
どこにでも転がっているありふれたつまらない現実。なんて事はない、彼の隣のクラスでは当番制のように回ってくるいじめがあったのだというだけの話である。
教室という名称で呼ばれるその牢獄には二種類の子供がいた。
いじめる子といじめられる子。
いじめる子は大抵メンバーが固定されていて、いじめられる子は数週間から数か月単位で当番制のように入れ替わっていく。
世界の法すら通用しない閉じた子供の国では、子供達の価値観こそが法律で好悪こそが善悪の基準だった。
身も蓋もないカースト制度。
トップに君臨する者には誰も逆らえず、国王の決定によっていじめられる標的が決定される。
とくに特別な号令や知らせがある訳じゃない。それでもクラスの誰もが空気を読んで当番制のいじめられ役をいじめ、もしくは素知らぬ顔で傍観する。
自分がいじめの標的に選ばれることがないように願いながら、誰かを犠牲に平穏を享受する世界の縮図がそこにあった。
それが子供達のルールで、平穏無事な学校生活を送る為には守らなければならない理不尽な不文律だったから。
だから、誰もが疑問を抱かない。
皆がそうしているのだから。
皆と違う事は、外れる事は罪だから。
しかし、そんな理不尽が許せないと立ち上がった勇気ある男の子がいた。
運動が得意で、明るく、頭も良くて、誰にでも優しいクラスでも人気の男の子で、クラスは違えども彼の大切な友達の一人だった。
いじめっ子の前に立ち塞がり、いじめられる女の子を守ったそのヒーローは――
――次の日から、皆にいじめられた。
物を隠され、ノートには落書き、人に触ると病原菌扱いを受け、喋りかけても無視される。
空気が読めない事はそれだけで罪で、道徳だとか正義だとか、人間が正しいと勝手に信じているだけの曖昧な基準、価値観などに意味はない。
テレビの中のヒーローたちの活躍に誰もが心を躍らせているくせに、強者は当然のように弱者を喰らい、誰かが定めた杓子定規の正義も悪も意味を成さない。
子供故の無邪気さからくる残酷ないじめ。
男の子が勇気を振り絞って助けた女の子すらも、男の子を無視する側へと回っていた。
だって、そうしないとまた自分がいじめられてしまうと誰もが知っている。
それが賢い生き方で、子供の国で平穏無事に過ごす為の不文律だったから。
友達だったその男の子は、いつしか学校に来なくなっていた。
彼が隣のクラスで起きた事の顛末を知った時には全ては終わり、いじめっ子たちは消えてしまった男の子の事なんて忘れたように次の標的を笑っていじめていた。
……なんで? どうして? 彼には分からなかった。
何故、何も悪いことをしていない友達が、正しい事をしようとした男の子が学校を去らねばならなかったのだろう。
その事に疑問を覚えている子は彼以外にはどこにもいないようだった。
蔓延する空気はそれが当たり前であるかのように、一人の子供の消失を日常のぬるい空気に溶かしていく。
子供の王国のルールは絶対なのだと蔓延る空気が告げている。
それはある種の治外法権。
その王国では好悪によって善悪が決定され、無邪気な子供の価値観こそがルールを形成する。だからこの結末は間違いではないのだと小さな世界が嘲笑う。
それが、彼は許せなかった。
――別段、正義のヒーローになりたかった訳じゃない。
ただ、誰もが大きな流れに流されて、違和感すら覚えられずに消えてしまった誰かの事を忘れていくこんな結末が正しいはずがないと思った。
皆がそう言っているからそれが正しいだなんて、そんな暴論がまかり通ってしまったら、人としての『正しさ』に従い立ち上がった友達があまりにも報われないと思ったのだ。
いじめた連中がのうのうと笑顔で学校に通っている事が気持ち悪かった。
彼らが次の標的の子に荷物を持たせヘラヘラ笑っている光景が、平和な一幕として処理されている事実が許せない。
正しい事をした人が苦しんで傷ついて、悪いことをしたヤツが楽しそうに生きている現状にどうしようもない違和感と憤りを覚え――気づけば主犯格全員を叩きのめしていた。
身体から冷気を発し、身に覚えのない力でいじめっ子たちを凍傷に追い込んだ彼はテレビ局のクルーと機動隊に周囲を取り囲まれて、事が子供の喧嘩では収まらない事態に発展してしまった事を知った。
その時にはもう全てが遅かった。
向けられた銃口に悲鳴が零れた。彼が発した声ではない。彼に向けた銃口が独りでに凍てつき、それを見た隊員が発した悲鳴だった。
子供の国の不文律に逆らった彼は、気づけば世界の敵になっていたのだ。
後日。
護衛のように両隣を歩く監視の警官に付き添われ訪れた病院のベッドの中のいじめっ子と、その両親へ何度も頭を下げる父と母の姿を見て、テレビ画面の中の特撮ヒーローのようにただの暴力を正義として振りかざしてもダメなのだと子供ながらに悟ったことを覚えている。
子供の夢が砕かれた事にも、特別なショックはなかった。
別に彼は正義のヒーローを目指している訳ではない。だから、事実を事実として捉え、今度からはもっとうまくやろうと思った。
感情的に『正しさ』を振るうのではない、『正しい』方法で『正しい』事を成そう。
そうすればきっと、今度こそ何も悪くない人達が不幸な目に遭うような事はなくなるのだと、幼い彼は本気でそう信じていたのだ。
……この騒動で眠っていた神の力が覚醒した彼は天界の箱庭へと移送させられる事になるのだが――この時、日本に両親を残した事を彼は一生後悔する事になる。
――月日が流れる。
父母と別れ、天界の箱庭で一人暮らしをするようになって数年後の事だ。天界の箱庭で神の能力者として順調に成長し、中学校に無事進学した彼の元に両親の訃報が届いた。
自殺だった。
その報せを聞いた時、彼は自分を酷く責めた。
神の能力者に対する差別が今より根強かった時代だ。彼が神の能力者としての力を自覚したあの一件以降、両親が周囲から酷い差別を受けるようになった事も、少し考えれば分かる事だった。
――『悪魔の子の生みの親』。『人殺し一家は国を去れ』。『バケモノは出て行け』。『バケモノを産んだ罪を償え』。『消えろ』。『キモい』。『死ね』。
機動隊が動くような大騒動に発展した為、実名こそ報道されなかったものの騒動と少年の噂は世間に広まっている。
緘口令が敷かれようとも人の口に戸は立てられず、両親が特定されるまで時間はそう掛からなかっただろう。
面白がるマスコミ、群がる週刊誌の記者たち。電子の海では無責任な言葉が乱舞し、何も知らない訳知り顔の誰かが『正しそう』なだけの適当な正論を吐き連ねる。
世論という無責任な大きな流れに押し流された人々の手により家の壁には赤いペンキで誹謗中傷が書き連ねられ、一歩外へ出れば生卵や生ゴミを投げつけられる。何度引っ越しを繰り返しても、ありがたい正義を声高々に振りかざす善意の人々は決して居なくならなかった。
父と母の死を聞いて、両親を死に追いやった善意の人々は何を思うだろうか。
悪を退治したと勝鬨を上げるのか?
行き過ぎた自分たちの正義を悔やみ、今更になって自分の行いに青ざめ懺悔するのか?
……おそらく否だ。
連中はきっと憤る。
彼の両親を自殺に追いやった何者かに正義の瞋恚を露わにする。
マスコミや新聞社に週刊誌、一部の過激な手段を取った者。罪を被せる対象は何だっていい。自分たちの行いを棚に上げて、自分たち以外の何者かを糾弾するに違いない。それこそ、大変ありがたい正義を振りかざし善意の名の元にまた新たな悪を裁くのだろう。
だけど。
ああ、待ってくれ。どうか問題をすり替えないで欲しい。
そうじゃないだろう。
何が正義で悪かなんて見当違いも甚だしい。
そもそもの話、そこに間違いを犯した人間など本当に居たのだろうか?
分からない。
本当に分からないんだ。
父と母が何をした?
彼等は愛し合い子供を産み育んで、善良に幸福に暮らしていただけだ。
父はサラリーマンとして働き家族を支え、母は専業主婦として父を支え息子を育てた。
彼らは良い父だった。良い母だった。優しく正しい親だった。
労働の義務を全うし、愛情をもって子供を育てた彼等の在り方に、誤りなんて一つもない。幸せな家族がそこにはあったのだ。
ただ一つ、間違いがあったとすれば愛する息子が真っ当な人間ではなかったというだけ。
それでも彼らは父として。母として。化け物と呼ばれた息子を愛し続けた。その在り方は、親としてどこまでも正しいものではなかったのか?
正しい事をした人が馬鹿を見る世界は間違っている。
天界の箱庭に移って以来、電話口で声を聞く度に「ごめんね……」と謝り続けていた母の声を覚えている。
務めていた会社をクビになった事を息子には明かさず、日雇いの労働で懸命に母を支え守ろうとした父の奮闘の事実を今更になって聞かされた。
父と母は正しき善き人だった。
なのに、何も間違った事をしていない父と母ばかりが傷つき苦しみ犠牲となってしまった。
仮に、断罪すべき人間が何処かにいたとするならば。それは、何の罪もない男の子をいじめたいじめっ子達と、そんないじめっ子達に特大の暴力を振るった自分だったのに。
――子供ながらにして、なんとなく悟った現実があった。
明確なルールで裁けない曖昧な範囲において、もしくは。己に責任の及ばない対岸の火事の範疇において、人は『正しさ』よりも『正しそう』を好むのだという事。
そして、より苛烈で派手な『正しそう』ほど、人々に好まれるという事だ。
多数決という世界の大きな流れは『正しさ』を簡単に歪め真実さえも捻じ曲げる。
『正しそう』を前に『正しさ』は酷く無力で貧弱だった。
両親は自ら命を断ったのではない。彼等無辜の市民が信じたがった『正しそう』なナニカに殺されたのだ。
……こんな悲しい想いをする人間が、自分以外にいてはいけない。
強く、強く、そう思った。
彼は両親を死へ追いやった人々を憎まなかった。
彼が憎んだものはあまりにも無責任な世界の流れ。正しい事をした人が馬鹿を見るこの世界の在り方をこそ憎悪した。是正しなければならないと決意した。
だから、彼の始まりの感情はそこにある。
『正しそう』に流される事無く『正しさ』を貫ける強さが欲しかった。
『正しい』だけでは成り立たない世界を、それでも『正しそう』なモノを真正面から否定し『正しさ』を証明できるような強い男になりたかった――
――そんな信念を胸に『正しさ』を追い求めては空回って、それでもがむしゃらに駆け抜けてきた半生だったと思う。
いつしか最強の一角と呼ばれるような強さを手に入れて、それでも己の半人前を自覚する彼は決して奢らず、慢心もせず、己が成すべき『正しさ』とは何であるかを追い求め続けた。
正しくあろうとしても人は必ず何かを間違える。
『正しさ』を貫き続けた彼は、しかし『正しさ』が生む悲劇を知っている。『正しそう』なモノの厄介さを知っている。
だから彼は『正しさの奴隷』にはならなかった。
彼は正しいだけでは救えないナニカを掌から零してしまわないように必死だったのだ。
その過程で、慣れない事だって沢山した。
子育てというものに励んだこともあったけれど、上手くいった自信はない。口下手で不器用なりに努力はしたが、どうも父や母のように子供に接する事は難しくて、怖がられたり、嫌われたり、拒絶される事ばかりだった。
そもそも、最悪の出会いから始まった『家族』だったのだ。子供達が自分を嫌うのも当然だと思っていたし、関係が改善する事は難しいだろうとも思っていた。
それでも、辞めようとは思わなかった。
彼らの居場所を奪った者として、それは通すべき筋であり貫かなければならない『正しさ』だったから。
――彼は子供たちに愛を与え、愛される喜びを教えた。
――彼は子供たちに勉強を教え、正しさを成すことを説いた。
――彼は子供たちに自由を与え、決まり事と約束と責任について学ばせた。
――嫌われ者だったはずの彼の背中を、いつの間にか沢山の子供たちが追うようになっていた。
だけど本当は――正しい愛情に正しく応えてくれる子供たちの姿に救われたのは彼自身だったのだ。
『正しく』あらねばと強く思う。
この背中を追いかけてくれた彼らに恥じぬように。
この背を師と呼び義父と呼び慕ってくれる子供たちにとって、憧れる価値ある大人であり続けられるように。
結局、それが彼の『正義』だったのだろう。
『正しさ』と、それを貫くだけでは取りこぼしてしまう哀しみすらをもこの掌に掬い取ってみせる。かつて届かなかった結末に、そう、誓った。その思いの果てに彼は――
『――キヒャッ! ヒャハハハハハハハハハハッ!! 俺チャンってばラッキーラッキー超ラッキーチャンじゃんよぉ! こんな所で神の子供達チャンに会えるなんて、超掘り出し物チャンじゃんか……!』
生涯空回りを続けたその『正しさ』は、悪意をこそ至高の悦楽とする邪悪に魅入られ最悪の結末の引き金を自ら引く事になる。
☆ ☆ ☆ ☆
世界に冷気が満ちていく。
迸る殺気と上昇する干渉力に比例して周囲の温度が一気に絶対零度にまで低下したように感じる。
それはあくまで錯覚のはずだ。
しかし、氷道真が全身から発する鬼気迫る冷気と、彼の愛刀『無辜白雪』の透き通った氷の刀身の放つ氷点下の殺気は、より強烈なイメージとして世界に極寒の冷気を刻み付け、錯覚だけでは説明しようのない氷結空間を作り上げていた。
それは一つの必勝の型。
『絶氷』と対峙する誰もがその幻想の絶対零度に囚われ、足が竦み、息を凍てつかせ、命の時すら凍えさせていく。
けれど、当然。
「けどまあ、そんな〝寒い〟すら売り物にしてしまうんやから人間様ってのはホンマに笑わせよるわなぁ。なんやっけ、ほら。アイスワールドやらアイスヴィレッジやったか? もっとシンプルに行くと雪祭りなんかも上手いこと邪魔臭い雪を観光資源に活用してる例やな。あ、ウィンタースポーツなんかもそうなるんか。まあ何にせよ、極寒を売り物にする方もアホやけど買う方も買う方やと思うで?」
あの泉修斗すら屈服させた極悪極まりない絶対零度の殺意圧も、眼前の敵にはまるで通じない。
「道端の石ころを伝説の宝石やー言うて売るんとは違う。本来一銭にもならん石ころが飛ぶように売れる状況そのものを作り上げよる。やー、ホンマに人っちゅうんは価値を作って与えるのが上手い生き物や思うで。雪やら冬やら氷やら、本来なら抗う術ない自然の脅威っちゅうヤツも、ラベル貼って店頭に並べて消費する時代言うんやから恐ろしいわ」
あっけらかんと。
常人であれば立ちあがる事すら困難な殺気を纏った冷気を当てられてなお、上機嫌にくだらない雑談を垂れ流し続けるその男は、莫大な質量を誇る氷の塊を指先一つでつついて砕き、白い噴霧を引き裂いて氷道真の眼前に現れた。
それは、パーマがかったベージュ色の髪の一部を刈り上げてツーブロックにした男だった。
外国人特有の堀の深さと、ギラギラ煌めく飢えた狼のような緑の瞳は全体的に整ってこそいるが、強烈な我の強さを印象付ける。
大きな身体は筋肉質な為か高さは勿論ずっしりと重量感があり、日本人として平均的な身長の氷道と比べてもかなり大きく視覚的な迫力がある
粗暴で傲慢な印象のあるその男は、他者を見下ろすのが当然であるかのような傲岸不遜とした嘲笑を滲ませながら氷道を見やるとやけに馴れ馴れしい調子で一言。
「――なあ、ジブンもそう思わんか?」
「……生憎、小生、商いは門外漢故に分からないが――少なくとも人類に対する脅威そのものがほざく台詞ではないな。『厄災』」
「わはははは!! ワイが人類の脅威? あー、ちゃうちゃう。ちゃうねん。ジブン、根本的に間違っとるで」
見当違いな同意を求める傲岸不遜な男に真顔で指摘を返す氷道真。
その反応に男――『厄災』は愉快そうに腹を抱えて哄笑を上げながら親指で己を指指すと、傲慢な驕りに満ちた笑みを引き裂いて、
「――ワイが、ワイこそがッ! このマクシミリアン=ウォルステンホルム様こそが『人類』や!!」
一ミリの疑いもなく、一点の曇りなく、一つの迷いもなく高らかに『厄災』――マクシミリアン=ウォルステンホルムが堂々そう宣言した刹那だった。
「そうか。貴殿が人を語るのであれば――」
氷刃が吹雪いた。
「――人の如く儚く散ってみるが良い――『氷刻絶刀』」
それは、まさに神業のような目にも止まらぬ早業だった。
視線一つ動かさず余分な動作ゼロで大地とマクシミリアンのくるぶしまでを瞬時に凍てつかせる即席のスケートリンクの生成と、氷道真の肉体が吹雪の如き疾駆を見せるのは同時。
流れるような所作で放たれる、時が止まったかのように流麗かつ静謐な斬閃。
否、その一閃が放たれる刹那、確かに周囲の時は止まっていたのだ。
――神の力には大まかに分けて身体強化、自然系、概念系の三つに分類されるが、極めれば極める程、より概念系へと寄っていく未確認の法則性が確認されている。
干渉レベルSオーバー、『凍てつく時の零』。
凍結とはすなわち熱量の強奪、運動する水分子の停止。
凍結の持つ〝停止〟の概念を極限まで高め、時間にまで干渉する事が出来る領域に達した結果、己が冷気に満ちた空間内の時を止めるに至った最強の自然系による回避不能の必殺の斬閃は、男の首を一刀の元に鮮やかに断ち切って――
「――だぁーかぁーらあ。ジブン、ワイの話ホンマに聞いてたんか?」
鮮血の代わりに噴出したのは、呆れるような、声。
斬撃は間違いなく直撃した。
流れるような斬首の一閃はマクシミリアンの急所を見事捉え、抵抗すら感じさせずにその命を刈り取るかに思えた。
なのに。なのに。それなのに。
冷気を発する氷の刀身は、マクシミリアンの首に触れた途端、まるで大地を斬り付けたかのような手応えに停滞し、その先へどうあっても進まない。
『神性』の差により生じる高位存在を傷つける事への忌避感などではない。
マクシミリアンの『神性』は『七つの厄災』の中でエディエット=ル・ジャルジーとそう変わらない、下から数えた方が早い位置にある。
通常の神の能力者ならともかく、『絶氷』と謳われる神の子供達氷道真ならば、忌避感を跳ね除けて首を落とす事も十分可能なハズだった。
それなのに、ダイヤモンドすら両断する神の子供達の刃は、マクシミリアンの薄皮に傷跡一つ残す事すら叶わない。
「馬鹿な――」
驚嘆――否、違う。この結末を予想こそすれど、この現象を引き起こしている理への戦慄を露わにその糸目を見開く氷道真をマクシミリアンは心底退屈そうに睥睨して、
「氷だの雪だの、んなチンケなモンが人間サマ相手に通用する訳ないやろボケェ。価値与えてやったんは誰や? 人類や。人間サマに価値与えられてやっと意味あるモンになる氷風情が、人間サマを傷つけられる訳がないやんか」
そうして次の瞬間、絶対零度すら凍てつく殺意が迸った。
「……ちゅうか、なあ。寒いんは苦手言うたよな?」
「――ッ!?」
底冷えするような低い声が氷道の心臓を舐めた瞬間、対峙する男の『神性』が爆発的に膨れ上がった。
咄嗟に刃から手を離し後方へ飛びずさるようにして緊急回避する氷道真。数瞬前に彼の首が存在したその位置に、正体不明の斬撃が跳ね上がるように飛ぶ。
あと一歩遅ければ首が飛んでいたという事実に背筋に思わず悪寒が走る。堪らず氷の杭を数十創造し、全弾叩き込みながら氷の大地を滑るようにしてさらに距離を取った。
(今の悪寒は冷気……? 先の斬撃、まるで小生のソレと酷似しているように思えたが……)
時間の停止があった訳ではない。
だが、太刀筋そのものはまるで瓜二つであったように思えたのだ。
先の怪現象に対してパッと思いつくのは反射、もしくは模倣か。
模倣に関しては前例がない訳ではない。実際に氷道真の神の力を模倣した使い手に氷道真は――洗脳時ではあったが――会っている。
もっとも、その使い手は劣化版とはいえ模倣した凍える時の零の反動を抑え込む事が出来ず、自らを凍てつかせてしまう重症を負っていた。
自分のものではない力を使用する以上、十全に扱う事はまず不可能。それに加えリスクまで付きまとうのが他者の技能の模倣の基本である。
その点からいえば、先の斬撃は氷道真の一撃にあまりにも近い。模倣による劣化が起きた気配も、何かリスクを背負っている様子もない。
しかし反射というには氷道が斬撃を放ってから返ってくるまで時間差がありすぎる。
歴戦の猛者である氷道真でさえも仕掛けがまるで分からない理不尽な現象、得体が知れず未だ底も見えない『厄災』の脅威に、氷道真はこれまでとは一線を画する明確な恐怖を感じた。
「……いつまでアホみたいに冷たい氷押し当ててくれとんねん。舐めとるんか? なあ。嫌や言うたやん? 人がわざわざ話したくもない嫌いなモンについてあれだけ語ってやったっちゅうんに、それをシカトして嫌がらせみたいな真似するっちゅうんは流石にどうかと思うで?」
溢れ出す殺気を隠そうともせずに、マクシミリアンはギョロリとした目玉をキッと細めて、
「ワイの善意の忠告を踏みにじるその『傲慢』には相応しい罰が必要やって、なぁ……そうは思わんか?」
マクシミリアンの予備動作を感じ取った氷道真が再度距離を取りなおそうとした瞬間放たれたその言葉に、
(……なっ、身体が動か――)
――不意に全身を襲った硬直。
身じろぎ一つ出来なくなった氷道真の元へ悠々と距離を詰めて放ったマクシミリアンの痛烈な拳撃が、咄嗟に張り巡らせた六角形の氷の白壁を粉砕し、そのまま氷道真の鼻頭を強かに打擲する。
痛烈な一撃に鮮血が散り、激しくのけ反り勢いそのまま地面を跳ね飛ぶように吹き飛ばされる氷道真。
最早障子の如く破られる『絶氷』の惨めな有様に、マクシミリアンの表情は意地悪く歪んで、
「……楽しい楽しい遊戯の前の前哨戦っちゅうことで一つ、惨めにボコられてくれや」
そうして弾ける傲慢な笑みに、
「――断る」
そんな。意図せぬ返答があった。
フン、と立ち上がりざまに勢いよく鼻血を飛ばしながら、痛打を受けたはずの氷道真が強気にそう言い放つ。
すぐに起き上がる事はないだろう。そう高を括っていたマクシミリアンが素直な驚嘆に目を見開く中、成す術なく己の絶技を次々と破られた最強の氷使いは、しかし一切揺るがぬ立ち姿で『厄災』の前に立ち塞がる。
「悪いが、小生に児戯に付き合う趣味はない。……遊びなどとつれない事を言ってくれるな、『厄災』。思う存分、此処で死ぬまで死合って往くが良い」
「わはは! 氷屑の分際で大口叩きよるわ。ええわ、そのクソ度胸気に入ったで」
……面白い、と。
マクシミリアンは嗜虐と愉悦にさらなる歪みをその顔面に刻み付けて――
「ほんならお言葉に甘えて、ちょっとばかし本気で半殺し逝っとこかッ!?」
――人類を自称し人に仇なす傲慢なる『厄災』が、自然系最強の『神の子供達』に牙を向く。




