第二話 夏休みの安寧Ⅱ――日常を謳歌する少女
「さて、アリシア」
「む。なんだ、勇麻」
アリシアと勇麻は戦場に立っていた。
「人間、失敗はだれにでもある。それに失敗から学べることだってあると俺は思うんだよ」
「うむ。確かにそれもそうなのだ。勇麻の言うとおりだと私も思うぞ」
人間は失敗をする。
間違いを犯す。
過ちを犯す。
それは人が人である限り当然の事で、そればかりはしょうがない事でもある。
だが、人生においてこの場面でだけは絶対に失敗してはならないという場面が出てくるのも、また事実。
今の勇麻とアリシアは、まさにそんな失敗の許されない戦場に立っているのだった。
「という訳でだアリシア。洗濯の失敗を踏まえて、今度は俺が付きっきりで指導するから、ちゃんと説明通りにやってくれよな」
「うむ。分かったのだ」
刃渡り十センチ以上もある刃物を右手で握りしめながら、アリシアは真剣な(無表情とも言う)面持ちで勇麻の声に頷いた。
そう。今から繰り広げられるのは命のやり取り。
一瞬でも気を抜くことは許されない。
一個のミスが即刻命取りになる、そんな緊張感がアリシアと勇麻を襲っていた。
「準備はいいか、アリシア」
「……う、うむ」
こくりと頷くアリシアの顎を、一筋の汗がしずくとなって流れ落ちていった。
否応なしに高まる緊張感。
そしてついに勇麻が口を開いて――
「おいしいカレーを作るぞー!」
「おー!」
――東条家の晩御飯作りが開始されたのだった。
食べ盛りの男どもにとって夕食の有無は文字通り死活問題なのだった!
飢え死にを避けるためにも、ここは何としても切り抜けるべき局面なのである。
アリシアが包丁を持つと何か起きそうで怖いと勇火は心配していたが、ちゃんと傍に付いていればきっと大丈夫なハズだ。そう信じてる。いいや、そう信じたい。知り合いの女の子に包丁で誤って殺されるとか、あまりにも救いが無さすぎる。
「さてアリシア、お前はカレーライスなる物を知っているかな?」
「カレーは飲み物? だという情報をしっかりと入手済みだぞ!」
「……どっから仕入れた情報だか知らないけど、間違ってるからな、ソレ」
「む。飲み物じゃないのか? なら……デザート?」
「わざとボケを入れてると解釈するけどいい?」
『天智の書』なんていう、これ一冊で世界中全ての本が不要になる便利アイテムを持っていながら、どうしてこうも間違った情報ばかりを仕入れてくるのだろうか。
ネット社会における情報の選択の難しさをこんなところで感じる勇麻なのだった。
「まあ、とにもかくにも、だ。カレーは比較的初心者向けの作りやすいメニューだ。もっぱら自炊派の東条家に居候するつもりなら、アリシアにもこれくらいは作れるようになって貰いたい……という訳なんだが、アリシアさん。意気込みの程は?」
「うむ。ばっちり、パーフェクトなのだ」
グッと、親指を立ててサムズアップするアリシア。
態度とは裏腹に相変わらず変化の見れない表情が、なんとも彼女らしい。
そんな変わらぬアリシアを微笑ましく思いつつ、失われてしまった彼女の表情がまた元通りになる事を心から勇麻は願うのだった。
「よし! その意気だ。まずは比較的簡単な人参の皮剥きからいってみよう」
「……?」
元気のいい声と共に勇麻が取り出したのは、皮むきのピーラーだ。
ジッと見つめてる様子からして、どうやら興味を示したらしいアリシアにピーラーを渡してみる。
アリシアは手に取ったそれを物珍しげに眺めて、首を傾げた。
どうやら使い方が分からないらしい。
「いいかアリシア、こうやって使うんだ」
はてなマークを浮かべるアリシアに、勇麻は実際にピーラーを使って見せる事にした。
勇麻はもう一つピーラーを用意すると、人参にピーラーの歯の部分を当てて、手前側に引くようにして、人参の皮を手際よく剥いていく。
アリシアは、ポカンとしたように可愛らしく口を開けながら、勇麻の皮剥きを眺めている。
やがておっかなびっくりという感じで、見よう見真似に人参の皮を剥き始めた。
「手ぇ切らないように気を付けろよ」
「……」
そうとう集中しているのか、勇麻の声はアリシアに届いていないらしい。
真剣な眼差しで人参と対峙する光景はどこか微笑ましくて、それでいて彼女の過去を思うと少し悲しくなる物があった。
過去。
その単語は、誰の身にも降りかかりうる呪縛なのだ。
きっと誰もが、大小の差こそあれ、何かを背中に背負って生きている。
黒騎士との一件の際、アリシアは東条勇麻の心の中の記憶を断片的に覗き見たらしい。
彼女自身にも原因は分からず、何故そんな事が起きたのか頭の悪い勇麻には当然分からない。
それでも、アリシアが勇麻の過去を覗き込んだのが事実だということは、黒騎士と戦での彼女の言動から分かる事だ。
彼女が具体的に何を見たのか、勇麻は聞いていないし、彼女もその事について勇麻に話す気は無いようで、あれ以来一度も話題にすら上がっていない。
勇麻としてはそれは非常に助かる話だった。
正直言って、未だにあの日の出来事を乗り越えられたとは思っていないし、南雲龍也の亡霊は未だに勇麻の心に憑りついている。
正義の味方であり続けろ、南雲龍也のように他者を救い続けろ、と、勇麻の心を急かすのだ。
赦しを、免罪符を、勇麻のせいで死んでしまった彼の為に何かをしているという証を、手に入れろ、と。
あの戦いを経て変わった事も確かにある。だがそれでも、そう簡単に割り切れる話では無いのだ。
我ながらうじうじと、情けなくて女々しい奴である。
(でも、俺が見たアリシアの過去は、アリシアに伝えるべき事なんだろうか)
黒騎士の怪しげな技で、勇麻はアリシアの過去をその目で見てしまっている。
彼女自身すら覚えていない、悲しい過去を。
(俺は……俺にはアリシアにあの光景を話す勇気はない。なにより、アリシアはもう忘れてるんだ。無理に辛い想いをさせる事なんて……)
――それでも、それでももしアリシアが過去を知る事を望んでいたら? お前は、本当の事を話せるのか?
不意に、そんな問いが勇麻の頭の中で響いた気がした。
――パックという少年の存在をアリシアが知った時、あの少女の心はどこを向くんだろうな?
(……ッ!?)
勇麻は意識の外側から突如発せられたその問いに即答することが出来ず──
「む。勇麻、血! 血が出ているぞ!」
──思考の迷宮に陥りかけていた勇麻を現実に引き戻したのは、アリシアの慌てたような声だった。
「え? ……いてっ」
気が付くと、勇麻の左の人差し指の皮が切れて赤い血が流れ出ていた。
どうやら不注意にも、ピーラーの刃で自分の皮を剥いてしまったらしい。
「あ、あぁ。でもこれくらいなら……」
……大丈夫、と言おうとして、
はむっ、と血の流れる人差し指を咥えたアリシアの行動によって、完全に勇麻の行動機能は停止させられてしまう。
「な……あ、あの。アリシア……さん?」
柔らかい唇が勇麻の指を挟み込み、人差し指を包む、暖かくてぬめりとした未知の感覚に、背筋に痺れるような感覚が走る、なんだか嫌な汗が流れまくっている勇麻にアリシアは何食わぬ顔でこう言った。
「ふむ。ほれで応急手当は完了なのら」
恥ずかしいやらなにやらで、顔が爆発四散するかと思う勇麻だった。
☆ ☆ ☆ ☆
結論から言ってカレー作りは何とか成功といえる結果に終わった。
始めて自分で作った夕飯を食べ終わって、ご機嫌なアリシアはお風呂に。食器を洗い終えた勇麻は食休みにソファの上でくつろいでいた時の事だった。
「お前、まだそれ言ってんの……?」
勇麻は呆れたように息を吐いて、あまりにも心配性すぎる弟をソファから見上げていた。
「いや、いくらなんでも大袈裟すぎだろ? ただ単に忙しいだけだろ? 楓だって色々事情があるんだろうし、SNSでもしばらく忙しくなるので連絡つかないかもしれません的な事書いてあったんだろ?」
勇火が何やら真剣な顔で相談を持ちかけてくるので何事かと思ってみれば、以前│黒騎士との戦いの時に天風楓に送ったメールに返信が返ってこないという物だった。
「ていうか、お前結局メール送ってたのかよ」
「だって、兄ちゃんが反対する理由が分かんないよ。楓センパイが黒騎士に負ける訳ないじゃん。むしろ何で最初から呼ばなかったのか不思議に思ってるんだけど」
「それはそうなんだが……何っつーか、やたらめったら人を巻き込むのもどうかと俺は思ってたんだよ。勝手にしゃしゃり出てきたお前らと違って、楓は無理やり巻き込まれる羽目になるんだし」
存外に勇麻が真面目な理由を語った事にそんなに驚いたのか、勇火はぽかーんと口を開けて意外そうに、
「へえ……。兄ちゃんにしては案外ちゃんと考えてたんだ」
「おい弟よ。素の会話で兄貴を素のままに馬鹿にするのそろそろ止めようぜ。俺のヒットポイントがゼロになる前に!」
二週間も返信がないといわゆる音信不通というやつなのかも知れないが、正直勇麻はあまり心配していなかった。
天風楓は勇麻より二歳年下の女の子だ。
勇麻とどんな関係なのかと問われたら、一言で言い表すなら腐れ縁の幼なじみというヤツだ。
勇麻がこの街に移って、初めてできた友達であり、同じ学生寮内に住んでいた事もあって小さい頃は毎日のように遊んだものだ。
去年彼女が高校生になる際にこの学生寮からは引っ越したのだが、交流は今でも続いている。
というか引っ越したと言っても勇麻の学生寮から一五分もあれば行けてしまう所なので、割といつも顔を鉢合わせたりしている。
真剣に取り合うつもりがあまりない勇麻に対して、勇火は真剣そのものという表情で、
「いや、ないね。兄ちゃんは分かってない。絶対になんかあるよ、これは」
「いや、あいつの場合なんかあっても自分だけで大抵解決できるだろ……」
そもそも天風楓は強いのだ。
性格こそ優しく気弱で泣き虫で、人を傷つけるのを嫌うような人間ではあるが、何分その戦い向きではない性格を補って余りある実力を有している。
干渉レベルは確か最高位の『Aプラス』。
周囲からは『最強の優等生』とか何とか言われているらしいし、正直どんなトラブルに巻き込まれていても、彼女ならその全てをかいくぐれるだろう。
まあ昔の彼女は、何をするにも勇麻が助けてばかりだったのだが、時の流れとは残酷である。
今じゃ東条勇麻など、何の役にも立ちはしないだろう。
だが、ボソっと呟いた言葉は見事にスルーされた。
聞いていないふりで勇火は話を先に進める。
「こんなの絶対におかしい。『兄ちゃんを助けてください! 謎の仮面の男に襲われていて、このままじゃ殺されてしまいます! 兄ちゃんも、「もう、楓しか頼れない! 愛してる! 助けに来てくれ!」って言ってます!』って感じの内容のメールを送ったのに、それで楓センパイが来ないなんて絶対におかしいよ!」
「いや、ちょっと待て勇火。多分おかしいのはお前の頭だ」
こめかみに手を当てながら比較的冷静に勇麻はツッコむ。
「俺の記憶が正しければアリシアを助ける為に楓に協力を求めるって話をお前が提案してきたような気がするんだが、なんでメールの内容俺の事ばっかなんだよ。……てかあれだろ、お前があんまりにもふざけ過ぎたメール送るから、冗談だと思ってまともに取り合ってないだけなんじゃねえの?」
何だよ愛してるって……、とボヤく勇麻に勇火は噛み付くように反論する。
「本ッ当に兄ちゃんは何も分かってない! そんなんだからいつまで経っても彼女が出来ないんだよ!」
「なっ、それとこれとは今は関係ないだろ! っていうかそんなの分かんないだろ! いるかもしんないだろ彼女くらい!」
「いーやあるね。関係大ありだね。それと兄ちゃんは彼女いない歴イコール年齢だから。俺知ってるから」
「あーもう! 分かった分かった分かりましたよ。後で楓には連絡取ってみるよ。それでいいんだろ?」
「最初から素直に頷いてればいいんだよ、まったく。手間のかかる兄貴だよ」
「……」
やれやれ、と呆れたように首を振りながらそんな風に言われると、なんだか釈然としないものがある勇麻だった。
「まあいいか、ここで問い詰めても薮蛇な気がするし。……あー、そうだ、勇火。俺ちょっと出かけてくるから、後色々頼んだわ」
切り替えるように頭を振ってそう言った勇麻に、勇火は少し驚いたように声をかける。
「今から? こんな時間にどこ行くの?」
すでにリビングに掛けてある時計の針は八時を指している。
「いや、ちょっとな。泉と高見に呼ばれて。すぐに帰れる……とは思うんだけど……」
あははっと弱々しく笑って頬を搔く勇麻の言葉に、説得力は欠片も存在しなかった。




