第三十話 《魔力点α》ゼムリャ・ゲオルグ【遊戯難度A+】 淫靡艶麗廃墟都市ラグニアⅩⅩⅢ――既存踏破のファミリア・アモーズ
――驚愕し、困惑し、混乱する。想定外の事態の連続に狼狽える厄災の様子が目に浮かぶようだった。
光を失った世界の中、それでも見える物は確かにあった。
この眼は光を映さずとも、希望は消えてなどいなかった。
クリアスティーナは、それを感じる事が出来る。視力などなくとも、確かにその温かさを信じる事が出来るから。
少女は己の勝利へ至る道を確かに見据え、タクトのようにその腕を振るう。
仲間達を呑み込んだエディエット=ル・ジャルジーの『業』に対して彼女が何をしたのか、その答えは実に単純なものだった。
座標の書き換えによる空間転移。
ただし、それはただの空間転移の範囲に収まらない。
支配する者。
次元と空間を司る少女は、その身一つでこの世界全てを支配する。
それが彼女の力。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイには、それくらいしか能がなかったから。
だから、全てを支配しようとした。
だって、勝利さえも支配する事が出来たなら、誰も失うことなく、求めた幸福な結末に今からでもこの手が届くかもしれないと思ったから――
――把握した。
戦場を、認識した。
――掌握した。
空間を、その手に掴んだ。
――支配した。
世界を、俯瞰する感覚。
厄災遊戯の強制力にある意味守られているとは言え、ノーラを一度見殺しにしてまで手に入れた貴重な時間で次元と空間を支配する少女はラグニアとその地下に広がる地下牢獄の全貌を把握し、戦闘の繰り広げられるこの空間を掌握し、命がけの戦場を完全に支配する為の布石を敷いた。
傍観に徹した三十秒、それは勝利を支配する為に世界の観察に徹した三十秒だったのだ。
仲間達の座標と数秒先までの行動を、囚われた人々の位置座標を、そしてエディエット=ル・ジャルジーとノーラの座標と行動予測を脳ミソに叩き込んだ。
未来予知にも等しい超演算は常時稼働。
当然、エディエット=ル・ジャルジーの『業』がラグニアを呑み込んだ今この瞬間とて継続している。
少女の五体を満たした干渉力は、既に周辺の地下空間をも満たしていた。
それはクリアスティーナの目となり耳となり、五感を完全に封じた彼女の手足となって、支配する者による世界の掌握を完了させる。
戦場の支配。
勝利へと至る道筋の理解と掌握。
その前提条件は当の昔に整っていた。
そして、至るべき道を切り開く最後のピースも、ついに此処に揃った。
「来た」
逃亡者の尻尾号、そしてそれを繰るライアンス=アームズの遅参。
そう、ここまで全てが予定の範疇にして、彼女が支配する勝利への道筋の上にある光景に過ぎない。
クリアスティーナが生生へと託した伝言。
それを受けたダニエラ=フィーゲルの命令によって強制再起動を果たしたライアンス=アームズ。
システムと同化した彼の操舵により天を走り出した|逃亡者の尻尾号の墜落による天井の崩壊に伴い、快楽漬けにされ生きる屍と化した人々を収監する地下牢獄の小部屋と、戦場となる通路とを隔てる壁が複数崩壊するというトラブルも発生した。
しかしそれも、あらかじめ予期していた事態に過ぎない。
次元障壁によるフォローに抜かりはなく、地下牢獄に囚われた人々には傷一つない。予定されていた合流は、ここに無事果たされた。
逃亡者の集い旗の面々がクリアスティーナ=ベイ=ローラレイの元へ集った今この時こそ、彼女は神の子供達としての限界を超越し、かつて『救国の聖女』とさえ呼ばれたその力を最大限に発揮して完全無欠に勝利を支配するその時である。
何故ならば、彼の到着によってクリアスティーナは己の願いを――膨大な演算と、その演算結果の実行を可能とするだけの尽きぬ干渉力という圧倒的リソースを――叶える力を獲得したのだから。
『ウロボロスの尾』。
逃亡者の尻尾号のシステム中核に組み込まれた彼の神器と一時的な臨時接続を果たすことにより、彼女の幸福な結末は明確な形を得る。
前提は語り終えた。
故に後は予定調和じみた簡単な答え合わせ。
仲間達を呑み込んだエディエット=ル・ジャルジーの『業』に対して彼女が実行した空間転移は、憎悪に支配された仲間達が放った攻撃が最大威力へと到達するその瞬間に彼らの座標をエディエットの付近へと書き換え、自身へ向かうはずだった殺意の込められた一撃を全てエディエット=ル・ジャルジーへと叩き込ませるという離れ業だった。
さらに彼女は、攻撃の直後、即座にその場からの離脱までをも実行していた――だけではない。
この時、エディエットの業の効果範囲は半径五〇キロにも及んでいた。
ラグニア全土を覆い尽くす、文字通り街一つを容易に壊滅させる『厄災』の顕現に他者への嫉妬と憎悪を刺激され、再び殺し合いを始めようとしていたラグニアの人々の座標をも次々と書き換え互いの攻撃が届かない位置へと転移させ、厄災遊戯に巻き込まれた人々の命までをも同時に守って見せたのだ。
それは、文字通りクリアスティーナ=ベイ=ローラレイ以外では達成不可能な絶技。
『ウロボロスの尾』はあくまで不足する干渉力を補助する神器に過ぎない。
半径五〇キロをカバーするその曲芸じみた同時平行精密演算処理による超大規模連続空間転移は、例え同じく空肝転移系統の神の能力者が『ウロボロスの尾』のサポートを受けたとしても、到底辿り着ける領域ではない。
そして、刻一刻と流れゆくラグニア内部の状況を完全把握することでようやく実現に至る、精密機械のような繊細さと大規模破壊兵器じみたふざけた力技を兼ね備えたその超技量の結晶は、クリアスティーナがノーラと初めて対峙した際に見せた特殊戦闘フォーマットの応用でもあった。
戦闘中に己を含めた味方の行動全てを俯瞰的に把握し、動きを最小の空間単位で捉えながら相手の〝次の瞬間〟の座標を推移する戦況に応じて予測し、己の有利になる位置へと瞬時に書き換え戦うスタイル。
瞬発的に膨大な演算が求められる為に脳への負荷が大きく――特に両者が激しく動く近接戦闘では――多用する事すら儘らないクリアスティーナ固有の戦闘術式。
『勝利支配す乙女の腕』。
その発展系にして完全完成版こそが、相手と己だけでなく戦場の全てを完全支配してみせる絶技。
『勝利支配す乙女の腕/無窮天地』。
「――言ったハズですよ、エディエット=ル・ジャルジー」
逃亡者の集い旗からの予期せぬ総攻撃に全く対応する事が出来ないエディエット=ル・ジャルジーを光映さぬ瞳で捉えながら。
もう一度、嚙み締めるようにクリアスティーナ=ベイ=ローラレイは勝利宣言を口にする。
「勝利への道筋は、既にこの手の中にあると」
そうだ。勝利への道筋などは最初から見えていた。
クリアスティーナの瞳に、ではない。
愛すべき逃亡者の集い旗の面々は、その光を確かに最初からその瞳に見据えていた。
だって、クリアスティーナへと殺到した彼らの目には、憎悪に塗り潰されて尚消えない強い信頼の光が灯っていたのだから。
彼らは確信していた。信じていた。疑いすらしなかった。
この結末を誰よりも予測していたのはクリアスティーナへと刃を向けた彼ら自身だった。
クリアスティーナ=ベイ=ローラレイならば、自分たちが殺意すら覚える程に憎み愛した圧倒的才能を有する最強の彼女ならば、絶対にこの局面を切り抜けて見せるだろうと。
まるでそれが決定事項であるかのように、彼らは愛するクリアスティーナへ刃を振り下ろすその瞬間まで不敵な確信に笑ってすらいたのだから。
それになにより。
「愛憎反転、でしたか……」
愛しているからこそ。誰よりも大好きだからこそ。誰よりも親しく、近くにいるからこそ――許せないと、憎らしく思うこともある?
その瞬間。クリアスティーナは思わず笑ってしまっていたと思う。
ああ、そんなモノ――
「エディエット=ル・ジャルジー、これは勝利宣言でも宣戦布告でもない。単純な事実として告げましょう――貴女に勝ち目なんて最初からなかった。何故なら貴女という『厄災』は既に私達に敗北しているのですから」
――今更が過ぎるだろう?
「歪んだ愛憎の果ての家族同士での殺し愛など、既に逃亡者の集い旗は乗り越え此処にいる……!」
愛する者同士、互いを思うが故に殺し合う事をクリアスティーナたちは知っている。
エディエット=ル・ジャルジーが振りかざそうとしている刃は彼女達が既に乗り越え踏破した絶望だ。
そんなモノを今更になってドヤ顔で振るわれた所で脅威だなどとは感じない。
恐ろしいとは思わない。
逃亡者の集い旗ならば勝てるという確信があった。
この程度の『厄災』、既にこの身で踏破してきたという自負があった。
自らの手で愛する家族を傷付け、自らの臆病と弱さ、愚かさのせいで家族をバラバラに引き裂き果てに殺しあったあの泥沼の如く停滞に比べれば、このような茶番劇恐れるに足らず。
『厄災』の手で作り上げられた安っぽい偽物の愛憎劇が、クリアスティーナ達の三年間に到底及ぶハズがない――ッッ!
「――逃亡者の集い旗を、私の家族を、あまり舐めるなよ」
静かだが苛烈な熱を秘めて告げられたその言葉は、少女の怒りであり誇りそのものだった。
☆ ☆ ☆ ☆
超至近距離で放たれた超特大レールガンはエディエットを殺す事こそ叶わなかったが、ダメージの何割かは彼女の魔力壁を抜け、『厄災』の身体に確かな傷と大きな動揺を与えていた。
(な、に……がぁッ? ……一体、何が起きている!?)
発動したエディエットの業は、確かに彼らの嫉妬と憎悪を増幅し暴走させることに成功した。この世に産声を上げた彼らの殺意の矛先は明確にクリアスティーナへ一人へと向かっていた。
それは今も変わらず、彼らは依然としてエディエットの術中にあると言っていい、それは間違いないだろう。
故に今重要なのは、どうして彼らの殺意が籠った一撃がクリアスティーナへ向かわなかったのかというその一点に尽きる――
足裏が地面を離れる浮遊感、回転する視界。
砲撃の直撃を受けて吹き飛ばされる中、一秒にも満たぬ時間の間に現状に対する様々な可能性を思考しながら、しかしエディエットはそのどれもに対して瞬時に首を横に振っていた。
――否、否、否! ……違うッ。最も可能性が高いのは……というより、この現象は十中八九クリアスティーナによる空間転移なのだろうが、今最も考慮すべきはそんな事ではない。
エディエットの『業』によって感情を操作されクリアスティーナへと襲い掛かった逃亡者の集い旗の面々。
その中に唯一人だけ、エディエット=ル・ジャルジーの魔力を突破する事が可能な男が混じっていたハズだ。
エディエット=ル・ジャルジーを殺し得るあの男は今どこへ――
――ぞわり。
空中で態勢を立て直しての着地の瞬間、背後に怖気を感じたエディエットがそのまま全力で地を蹴りつけ己が身を投げ出すように身体を捻った途端、背後より聞き覚えのある特徴的な巻き舌が響いた。
「おう、本当にいいのかよぉお前。コレ、避けちまってよぉ……!」
直後。鮮血色のオーラを纏って繰り出された拳は、端からエディエットを狙ってなどいなかった。
『悪魔の拳』。
防御という臆病、弱気を殺すある意味では一つの『死の形』の具現。
友の拳より影響を受けた男の最強の拳撃は、雷霆の如き轟音を轟かせて一撃でエディエットの足裏より伸びる刃の樹木、その主流を木っ端の如く打ち砕いたのだ。
「な、ぁ――っ!?」
対象との接触を合図にひたすら愚直に直進し、全てを貫く貫通性質を持つ愚直な閃光。その正体は、超極小の悪魔の一撃の集合体を纏わせた悪魔の拳撃。
顕微鏡レベルの微細な死の閃光は、ほんの僅かな凹凸や隙間など、防御の僅かな綻びを突き、傷口を押し広げるようにして直進し、連鎖的に対象を崩壊させていく。
その性質上、繊細なコントロールを必要とする為に始点を己の拳に固定する必要こそあり近接の間合いでしか活きない技ではあるが、命中すれば最後、『厄災』の肉体にすら容易に穴を穿つ運命の悪魔最強の矛である。
当然、その一撃を受けたエディエットの刃などひとたまりもないに決まっている。
散華する致死の刃。
崩壊は重なり、連鎖する破砕音はまるで鎮魂歌のごとく荘厳にして重厚に地下空間に反響し木霊する。
頭上に降り注ぐ刃の破片の雨を鮮血色の閃光の一掃で吹き飛ばしてみせたその男は、忘れたくとも忘れられないエディエットに黒星を刻んだ唯一の男だ。
「……ディアベラスぅうう……ウルタァあああドォォオオオオオオおおおおおおおおおおおおおおおおおおー―っ!!」
地面に倒れ込みながらもキッと振り返ったエディエットの怒りと憎悪の視線の先。場末のラッパーのようなドレッドヘアーが特徴的な強面サングラスは、いつも通りの不敵な笑みを張り付けていた。
「よぉ、さっきぶりだなぁ『厄災』。お互いアレだな、つくづく勝ったと思ったトコから勝ちきれねぇ性質らしいなぁ?」
――あり得ないあり得ないあり得ないッッ。
クリアスティーナだけではなかった。
忌々しきこの男もまた嫉妬と憎悪に縛られていない。クリアスティーナ同様に理性を、己を保っている。自分が誰よりも愛されていると信じて疑っていない――ッ!?
あまりの恥辱に噛みしめた奥歯が砕け、口の内側から血が滲む。羞恥は怒りに怒りは憎悪に憎悪は殺意へ成り代わり、感情が燃え上がる。
……殺そう、今度こそ絶対に。お前が愛しお前を愛するクリアスティーナ=ベイ=ローラレイが見ている前で血祭りにあげてやろう。
咥内に広がる鉄さびにも似た屈辱的な味わいに、厄災の女は目の前の男の必殺を静かに誓う。
嫉妬と憎悪に駆られ、内圧をさらに上げるエディエット。
しかし、頭に血が登るあまり彼女はここで再びミスを犯した。否、犯したミスに気付く事が出来なかった。
そもそもの話、彼女が真にその動向に気を配るべき相手はクリアスティーナでもなければディアベラスでもなかったのだ。
それは、彼女が絶対に目を逸らしてはならない大前提ではなかったか?
では根本的な問いを一つ。
エディエット=ル・ジャルジーは、一体誰を殺す為に厄災遊戯などというふざけた遊戯に興じていたのだったか――
「――『業』、解崩――」
つまりは、それこそが彼女の敗因。
最後の最後で、己の願いを一時限りの浅慮な怒りで塗り潰してしまった事。
絶対に負けられないのはエディエットだけではない。
それは、彼女とて同じ事なのだと、そんな当たり前の事をどうして失念してしまったのだろうか。
彼女から目を離せばそれがどんな結末に繋がるか、ここまでの戦闘でエディエットはそれを散々味わってきたというのに。
必殺の武器を失った挙句大きく態勢を崩した今のエディエットの状態は、幼子でも分かるような紛う事なき〝隙〟に他ならない。
これ以上とない最大の好機を、当然彼女――ノーラが見過ごす訳がなかった。
「――悦に狂え快に溺れよ天上楽土唯我独愛――」
退廃的な妖艶さを帯びる声によって紡がれる詠唱、それは少女の『業』発動の起句である。
離れた場所で響き始めた艶やかな幼声は、次の瞬間にはエディエットのごく至近から響いていた。
「しまっ――」
その瞠目は、あまりに周回遅れだった。
『曖昧模糊』。
ノーラが有する瞬間移動を可能とするスキル。
そう、この時点で既に懐深くまでエディエットは『厄災』の侵入を許してしまっている。それがどれだけ致命的か、分からないエディエットではない。
そして気付いた時にはもう全てが襲かった。
今から動き出したのでは、何をどうした所で後手に回る。
そして、此処まで温存を続けていたノーラがこのタイミングで『業』を解放する以上、それはエディエットの反撃を待たずに致命的な結果を齎すだろう。
がっちりと『厄災』の膂力で両肩を掴まれたエディエットは、不完全な態勢故にその小さな腕を強引に振りほどく事さえ叶わない。
いつの間にか、周囲に逃亡者の集い旗の面々の姿はなく、ノーラとの完全な一対一が形成されている。
そして、次の瞬間。
かつてディアベラスの前で唱えた際はそのまま『厄災遊戯』へと派生させていった己の業を、ノーラはそのままの形で世界へと顕現させた。
「――【沈湎暴色】」
そして、触れた者に尽きぬ事ない貧しき快楽を与える貧困と色欲を司りし『厄災』は、その小さな唇に獰猛な微笑を浮かべ、いっそ喰らいつくように強引にエディエットの唇を塞いでいた。
「――ッ!」
ビクンっ、と自分より二回りも三回りも小さな幼女に唇を奪われ、小さな舌に咥内を蹂躙される女の肩が快楽に跳ね上がる。
『厄災』であるエディエットにはノーラの業による魅了がほぼ効かず、五感を快楽へ変換する事も出来ない。故に、直接接触によって子宮に腫瘍を植え付けた所で意味はない。
しかし、他に方法がない訳ではない。
エディエットがノーラの接近を警戒し、常に自身の周囲をノーラを殺す致死の刃で埋めていた今までは実行できなかった方法でもって、腫瘍を炸裂させる事は出来るのだ。
つまり、これならば話は別。
接吻を含む粘膜同士による直接接触。
ノーラの魔力を直接相手の体内へ流し込む事が出来るこの方法であれば、例え『厄災』が相手であろうと、その体内に植え付けた腫瘍を起爆させることなどあまりに容易。
そうして、たっぷりと快楽と魔力を注ぎ込んだノーラは、『曖昧模糊』で空気に溶け入るようにその場を離脱して、
「――イっちゃえ」
エディエットの肢体が内側から粉微塵に吹き飛んだ。
《191ターン経過》
【エディエット=ル・ジャルジー】
落殺 圧殺〇 炎殺
刺殺〇 殺害〇 轢殺
殴殺〇 水殺 斬殺〇
《191ターン経過》
【ノーラ】
謀殺 爆殺〇 絞殺
斬殺 殺害○ 殴殺○
銃殺 刺殺 毒殺
☆ ☆ ☆ ☆
べちゃべちゃと。
そこら中に散らばったぶよぶよしたピンクの臓物や、赤い肉片が、厄災遊戯の強制力によってスライムのように独りでに動いて一点に集まり、粘土をこねるように再び人としての姿を象っていくその光景はあらゆる意味で衝撃的だった。
驚嘆すべきは、原型すら無くなっても死ねない厄災遊戯の強制力か、それともこんなグロテスクを生み出すに至った『厄災』の持つ力か。
目の前で展開される気色の悪い逆巻き現象。
死を無かったことにするのではなく、死により尊厳を踏みにじり尽した上でなお死ぬ事を許さない悪意に満ちた舞台装置。
あまりに狂的で冒涜的。
神を嘲笑う悪魔の如き所業は、彼らが人智を超えた超常存在である事をこれ以上なく突きつける。
そして、そんな苦悶の再生劇に、厄災遊戯の主催者であるエディエット自身も苦しげな呻きを上げていた。
「――ば、あ。ぜひゅ……が、はぁっ、はぁ……っ」
一度死亡した事でエディエットの業の効果は途絶え、逃亡者の集い旗の面々は理性を取り戻している。
おそらく地上の人々も同様だろう。
対するクリアスティーナの方も『ウロボロスの尾』の臨時接続が途切れ、『勝利支配す乙女の腕/無窮天地』はもう機能していない。
それどころか、ラグニア全土をカバーするというかなりの無理をした結果、絶大な負荷が身体と脳に掛かっており、しばらくは満足に神の力を使う事も出来ないであろう状態となっている。
ディアベラスとて本来なら絶対安静のところを無理を押して戦っている身だ。
回復した干渉力も、先の一撃で半分以上を消費しており、『厄災』への切り札足りうる『悪魔の拳』は撃ててあと一発が限度と言った所か。
『厄災』と、その『厄災』に立ち向かった両者共に満身創痍。
それでも、優位にあるのがどちらの陣営であるかは誰の目にも一目瞭然だった。
「づ……ぁ、げほ、がはっ! ……はぁ、はぁっ」
まるで陸にあがった水棲生物のように酸素を求めて喘ぐエディエット。
だらだらと全身から滝のような脂汗を流してどうにか片膝を突いた女の眼前に、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイとディアベラス=ウルタードが勝ち誇るように並び立ち厄災を見下ろしている。
「…………どう、して」
その光景が純粋に不思議だった。
だから、二人を見上げるエディエットからはそんな疑問が零れた。
「どうしてこうなったか、分かりませんか?」
「……分からない、分からないわ、分からないわよ。ええ、だって、こんなのおかしいじゃない……!」
尋ね返されて、震える声で頷いたエディエットの顔には、何かを恐れるような引き攣った笑みが走っている。
戦闘を再開するでもなく、彼女は片膝を突きクリアスティーナ達を見据えたままふるふると駄々を捏ねる子供のようにその場で何度もかぶりを振って、
「どうしてよ、よりにもよって貴方達二人が揃いも揃ってワタシの業の干渉を受けないなんて、おかしいわ。こんな偶然、あり得ない……っ」
エディエットの業は確かにラグニア全土を覆った。
それは、強ければ逃れられるといった種類の力ではない。干渉力がどれだけ高かろうと、どれだけ頑強な肉体、強靭な精神を有していようが関係ない。
他者と己を比較し抱え込んだ劣等感、自分より優れ愛される者への羨望、嫉妬の感情を増幅し暴走させて、人類誰もが裡に内包する『厄災』を強制顕現させる術法。
そこから逃れるには、嫉妬やそこから滲む憎悪に呑み込まれない精神――己が誰よりも愛されているという強い確信を持つ必要がある。
そんな稀有と呼ぶのも憚られる、壊れているとしか思えない強烈かつ自意識過剰な自我を、偶然神の子供達であるこの二人が有していた?
なんだそれは。
そんな都合のいいふざけた偶然、認めない、認められない、認められる訳がない。
……いや、そもそもそんな強固な確信をクリアスティーナ=ベイ=ローラレイが抱ける事自体がおかしいのだ。
だって、彼女の心はこの手で壊した。
自身の行いが彼女の心にどれだけのダメージを与えたか。
同性であるからこそ、エディエットは己が壊したモノがどれほどクリアスティーナにとって大切なモノであったのか、その価値をしっかりと理解している。
ある意味では命を失うよりも辛く、命を奪うよりも残酷なものを奪ったのだ。人によってはそれこそ自殺を決意したっておかしくないだろう。
エディエットがクリアスティーナ=ベイ=ローラレイにした事は、そのレベルの行いだ。
本来であれば二度と立ち上がれなくなっていたっておかしくないハズなのだ。
再起不能になって、もう戦えないとその場に蹲り悲劇のヒロインよろしく泣き喚いていたって誰も彼女を責めない。それくらいの傷を与えたハズなのだ。
少なくとも、彼女に与えた傷は女の子が一朝一夕で立ち直っていいような傷ではなかったのに……。
だというのに、この戦場にクリアスティーナ=ベイ=ローラレイは駆け付けた。
愛する男の危機に、家族の危機に、彼女は再び立ち上がった。
その上、エディエットの業まで跳ね除けるなど、一体どんな奇跡を起こせばそんなふざけた事が可能になるのか。
「おかしい、おかしいわ、おかしいのよこんなの……貴女なんか、『魔力点』の〝核〟だから生かしてあげただけなのに……っ、綺麗な顔も身体もぐちゃぐちゃに壊して穢して貴女の愛を奪ってあげたのにッッ! どうして……貴女は自分が誰よりも愛されているだなんて、どうしてその醜い身体で思えるのッッ!?」
何故折れない。何故立ち上がれる。何故信じられるッ。
妬ましいほど美しいその顔に刃を突き立て醜い傷を刻んだ。
瞳を奪い、光を奪った。
愛する人の子を産む権利すら、エディエット=ル・ジャルジーは蹂躙し略奪し、その心身を滅茶苦茶に壊し尽したというのに、どうして――
「――誰よりも愛されている確信、ですか……?」
そんな判然としないエディエットの言葉にクリアスティーナは眉をひそめる。
クリアスティーナはエディエットの業の細かな条件を知らない。故に、彼女の発言の意味を正しく理解する事が出来ず困惑の表情を浮かべて、
「……なるほど。先の技の効果を受けるかどうかは、そういう条件が関連していたんですね。流石は嫉妬と愛憎を司る『厄災』。強さや弱さ関係なく、人の心を踏みにじる力に長けている」
言葉の切れ端とニュアンスから全体像をすぐさま掴み、得心がいったとばかりに淡々と言葉を紡ぎその悪辣さを評する少女は、
「ですが、生憎私にそんな確信はありませんよ?」
フッと、いっそ自嘲するように弱弱しく破顔して、そんなふざけた事を言い始めた。
「な……っ!」
その返答にエディエットは今度こそ絶句する。
誰よりも愛されている確信もなしに、僅かな嫉妬さえ抱かずにエディエットの業を突破したと、彼女はそんな戯言を宣うつもりなのか。
あり得ない。そんな馬鹿な話があるか。
クリアスティーナの言は矛盾が過ぎる。
だってそれは、呼吸しなければ生きていけない人間が、酸素もなしに呼吸を行い生存しているようなものだ。
酸素という大前提があって初めて生存のための呼吸が行えるのであって、酸素がなければそもそも呼吸は成立しない。
それを、誰よりも愛されているという大前提もなしに他者への嫉妬を抱かないなんて結果を引き寄せるなんてあり得ない。
少なくともエディエットには出来ない。どんな可能性を精査した所で、確実に自分には不可能だと断言できるのに。
「貴女の言う通りです、エディエット=ル・ジャルジー。正直な所、私は今の私を受け止め切れていません。この変化を認める事は、とても時間が掛かる事なんだと思います。こんな私が誰よりも愛されているだなんて、とても思えない」
クリアスティーナは、三本の傷が走る己の顔に手を当てながらそう言った。この傷を、傷ついた己の顔を、受け入れ愛する事なんて、まだ到底出来はしないのだと。
だが、少女はそれだけでは終わらなかった。
「……ですが、貴女の業を前にして心を繋ぎ止めるだけの確信が私にあったとすれば、それは――世界の誰よりも私がディアくんを愛しているという事実、……でしょうか」
「――――――――――――――、」
少しばかり気恥ずかしげに頬を赤らめながら、けれど迷いなく断言した少女の言葉。
それが、そんな綺麗ごとじみたふざけた言葉こそが、どんな一撃よりも痛烈に鮮烈にエディエットを撃ち抜いていた。
クリアスティーナが、本心からそのふざけた戯言を宣っているのだと、エディエットは理解してしまったから。
世界が、現実が、過去が――全てが自分から酷く遠ざかっていく、寂寥感にも似た喪失感が、壊れた女の胸を満たしていく。
「おいおい、そいつぁ嬉しいがぁ素直に頷く訳にもいかねぇなぁアスティ。なにせ、お前が俺を愛するよりも俺はお前を愛してるからなぁ。世界の誰よりもアスティを愛してるのは俺の方だぁ」
「~~~っ!! ……こ、こんな時に一々張り合わないでいいからッ! ディアくんの馬鹿! 相手は『厄災』、世界の危機なんですよ!? もっと真面目にやってください!」
「? 俺は至って真面目だぜぇ。事実、俺ぁお前を世界の誰よりも愛してるし、よく分からねぇがぁ、その愛とやらが今も俺の正気を保ってるみたいじゃねぇかぁ。だったらアピールしといて損はねぇだろぉ。くだらねえ真似しやがる心底気に食わねぇ『厄災』サマへの牽制ついでに、一足早い勝利宣言みたいなモンだろぉがぁ」
……それは、つまり。何だ?
連中が二人揃ってエディエット=ル・ジャルジーの『業』から逃れる事が出来たのは。
嫉妬や昏い羨望の感情に付け込まれる事無く、愛憎にも呑まれずに理性を保っているのは。
互いが互いを世界の誰よりも愛しているという確信が――自己へ贈られる愛よりも他者を愛する事の幸福感が、他者を愛する気持ちとそれに応えて貰えると信じて疑わない強い信頼が、劣等感や羨望や嫉妬を掻き消して、エディエット=ル・ジャルジーという『厄災』の持つ業を跳ね除けたとでも言うのか?
「だいたい、貴方は……どうしてこんな私に平然と……っ」
「アスティ。例えお前だろうと、俺の愛する女を悪く言うのは許さねぇぜ」
「……本当に、勘弁してくださいよ、ディアくん……これじゃあ、私……うじうじ悩んでたのが馬鹿みたいじゃないですかぁ……っ」
「あぁ、その通りだぁ。そんな事で悩んでたんだとしたらお前は馬鹿だよ、けどな――」
茫然自失のエディエットの目の前で自虐へ走ろうとしたアスティを力強く腕に抱く運命の悪魔。
彼はサングラス越しでも分かる程の灼熱をその目に宿して、真っ正面からエディエットを射抜く。
「――世界で一番の大馬鹿野郎は俺達を敵に回したテメェだぁ、厄災ぃ」
ようやく我に返る事が出来たのは、空気が震えるような壮絶な怒気と憎悪が、呪いを絞り出すような男の静かなその言葉にたっぷりと籠められていたからか。
「よくも俺の女ぁ泣かせてくれやがったなアバズレ女ァ。テメェだけは許さねぇ、俺達で絶対に叩き潰す。厄災遊戯? 裁定戦争? 知るかぁボケェ。テメェなんざに憎悪がどうとか言われるまでもねぇ、こっちはこっちでもう十分ブチキレてんだよぉッ。……なぁ、分かるか? 俺達の大切なモン悉く傷つけやがった落とし前、此処でつけろっつってんだぁ……ッ!」
叫ぶと同時、クリアスティーナを抱いたまま後方へ大きく跳躍したディアベラスが腕を横に一閃。すると、複数の始点がエディエットの周辺へと設置される。
そのままディアベラスは、戦争再開の挨拶代わりに鮮血色の輝きを動揺する『厄災』へと叩きつけた。
「……ぐうっ!?」
迸るは――『運命の悪魔は偶然の死を張り巡らす』。
扱う死の形は〝蜘蛛の糸〟。
発射と同時に始点座標を固定し、極細の糸となって対象の皮膚を突き抜ける鮮血色の閃光は、そのまま地面を穿ち地中に錨を下ろして対象を拘束、固定する。
捉えた獲物の動きや神の力を一時的に封じる捕縛技は、まさに運命を絡めとる死の糸であった。
しかし解せない。
エディエットの動きを封じるまでは分かる。だがディアベラスがトドメを刺すのであれば、距離を取るのではなくエディエットに肉薄し、その拳を直接ぶつけなければならないはずだ。
いかに彼が人類側最強の神の子供達の一人であろうとも、『悪魔の拳』以外ではエディエットに致命傷を与える事は難しいと、そんな事はとっくに理解しているはずなのに――
「――言ったろぉがぁ、テメェは俺達で絶対に叩き潰すってよぉ」
対してディアベラスはエディエットの疑問を読み取ったかのような言葉と共に、不機嫌を装って鼻を鳴らしながらサングラスの奥の瞳をどこか優しく細めて、小さく何かを呟く。
「……家族を守ってくれてありがとなぁ、トドメは譲るぜぇ。俺達の大切なモン傷つけやがったクソ野郎に、お前からも一発かましてやれやぁ、ノーラ……!」
そうして。
「――これで、〝おわり〟、だぁあああああ……ッ!!」
『曖昧模糊』によってディアベラス達と入れ替わるようにその姿を現した〝貧困に生ずる色欲〟ノーラが、動きを封じられた〝嫉妬より出ずる愛憎〟エディエット=ル・ジャルジーへと終幕の一撃を放つ。
そして――
――厄災遊戯は、ついに終幕を迎える。




