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神ナリシ模倣者ト神門審判  作者: 高木カズマ
最終章 承/壱 人世ノ業、詠イ奏デルハ『厄災遊戯』――『厄災少女』、愛憎劇ノ其ノ果テニ
353/415

行間ε/断章Ⅲ

 ――これより始まる殺し愛。

 それは彼女にとっての悲願であり、希望であり、願いであり、祈りでありそして長い年月を経た愛憎劇の最終幕である。


 彼女はそれを覚えている。

 彼女はそれを忘れない。

 嫉妬と愛憎に狂う獣は、目の前のノーラ(■■■■)とは異なり『厄災』になってなお、そうなる以前の記憶を喪失しなかった。そうなる以前の己の宿願をその胸に宿し続けた。

 尤もそれは、ノーラ以外のほぼ全ての『厄災』に言える事で、別段彼女が特別な訳ではない。

 彼ら『厄災』は本来強くそうなる以前の記憶を残している存在だ。むしろ特例と言えば記憶がなく己の願いすら分からなかったノーラの方なのだろう。

 

 確かにノーラはある意味特別な存在だ。

 だが、その特別性は此度の『厄災』同士の戦争において何ら意味を成さない。勝敗に一切の影響を及ぼさない。 

 願いを思い出した者と、願いを抱き続けた者。

 彼女らが抱く想いに貴賤などありはせず、願いは等しく尊いものである以上――成就する願いはただ一つ。今宵の殺し愛、その勝者が抱く願いのみなのだろう。

 



☆ ☆ ☆ ☆



 ――【警告】

 本文書は現存する複数の文章の断片を繋ぎ合わせ、一つの文書として成立するように修復・復元されたものです。本文書の内容には致命的な誤りが含まれている可能性があります。これより先に進む場合、本文書によって被るあらゆる不利益に関する責任を本書は負いかねますので予めご了承ください。



☆ ☆ ☆ ☆



 夜空色の瞳と出会った運命の夜の事を、それから今までの事を、今でも夢のように思い出す。

 


 ――『……ねえ。アナタ、お名前はなんて言うの?』

 ――『え、と。……わたしは、ドーラです。ただのドーラ』



 ――『私がちょっと頼みこんだだけで、今や奉公人のアナタがご主人からこんなふうにおもてなしを受けているなんて。まるで立場が逆になっちゃって、いつからそんなに偉くなっちゃったのかしらね? ドーラは』

 ――『も、もうっ、からかわないでください。エディエット様~っ』

 ――『いいじゃないの、ご主人も喜んでいるのだし。それとも、私と一緒にお茶を飲むのは嫌?』

 ――『そ、そんな事あるわけないじゃないですか……!?』

 ――『頑固で真面目で、優しくて融通の効かない石頭のアナタがそんな事する訳ないって事くらい、私はちゃあんと分かってるわよ。かわいいかわいいイイ子のドーラちゃんっ』

 ――『エディエット様。それって褒めてるんですか? 貶してるんですか?』

 ――『あら、どっちでもいいじゃないそんなの。私からの言葉なんだから』



 ――『決めた。私、アナタを買うわ』

 ――『へ?』

 ――『今日からアナタも私の屋敷で暮らすんですから』

 ――『エディ!? いつも以上に横暴かつ傍若無人すぎてわたしも空いた口が塞がらないと言いますか、状況を全く呑み込めてないのですけど!?』

 ――『もう、とろい子ね。だから言っているじゃない。アナタは私の家でお手伝いという名のお喋り相手として暮らすのよ。これで見事に三食昼寝付き無職の誕生よ。働かないで食べるご飯はさぞ美味しそうね?』

 ――『……こ、心が痛過ぎますっ、エディは私を喜ばせたいのか虐めたいだけなのかどっちなんですか!?』

 ――『うーん、両方かしら』




 彼女と出会って、退屈な世界が確かに色づいて、それから私の世界は少しずつ変わっていった。

 一番大きかったのは、やっぱり彼女――ドーラと一緒に暮らすようになった事だろうか。


 何の変哲もない日常が色づき、同じ事の繰り返しですらも彼女と共にいると笑顔になれた。

 彼女と過ごす何気ない時間が、私は大好きだった。


 けれど、それと同じくらいに私の中で大きな変化――あるいは事件とでも呼ぶべき、大きな出来事があったのだ。


 

 私は恋をした。



 これまで、ただ他者の心を奪い、民衆から無尽蔵に愛を受け取り続けるだけだった私が、唯一人の男性に心を奪われたのだ。

 生まれて初めての経験、初めての恋だった。


 その人の名はディケット=ジャルジー。

 私の所属する『□□□』座で舞台美術の見習いとして、日々雑用と勉強に追われる新人だ。

 新人、とは言っても彼が入ってから既に一年もの時間が経っている。彼と出会ったのはエディエットがウチに来てすぐの事だから……エディエットと出会って、丁度三年が経過した頃の出来事になるのだろう。


 一見、どこか冴えない眠そうな目と無精髭が特徴的な彼もまた、盲目的に私を愛する街の人々とは違って見えた。


 なにせ彼とは出会いが出会いだったのだ。

 

 あれは今から一年前の事。

 いつも通り、公演前にスタッフと顔合わせをした際、私が初対面の彼と握手を交わした時のやり取りは、今思い出しても笑ってしまう。


『やあ、はじめまして。舞台美術見習いのディケット=ジャルジーです。……えーと、貴女がエディエットさん? あの、僕、貴女のファンでした。なんていうか……あー、そのー……』


 握手の最中に固まって、じいっと目を細め顔を近づけてくる彼の勢いに、私はやや仰け反りながらこう返した。


『……お会い出来て光栄です? とか?』

『……いや、なんというか、新聞で見るのと違うなって。……思ったより――その、ボヤけて、霞んでる?』

『なっ――』

『……………………あぁっ! すみません、なんかおかしいと思ったら今日僕、眼鏡を忘れたんだった! あはははは! やー、我ながら凄まじいうっかりだ!』

『………………………………、』


 なんて事を、初対面時の自己紹介直後に言われたのだ。


 私に対してこれだけ直球な物言いをする人物は、彼が最初で最後だった。ドーラですら、もう少し歯に衣着せると思う。これだけインパクトのある出会いもなかなかない。

 そして、もしこれが彼の計算だったとしたら、私はとんでもない策士の罠に嵌ってしまった事になる。


 何せその対面以来私は――とびきり抜けていてどこか天然な彼から目が離せなくなってしまったのだから。




『……アナタ、そんな所でぶら下がって一体何をしてるの?』

『やあ、エディエットさん。実は、ワイヤーを使った特殊な演出を考えて実演してたんだけど、一人では降りられなくなってしまって……悪いんだけど、降りるの手伝って貰えないかな?』




『ディケット……さん。これ、眼鏡。あなたのでしょう? 舞台に落ちていて危うく踏む所だったのだけど――』

『――おおっ、ありがとうエディエットさん! いやぁ、助かったぁ、今月ピンチで、眼鏡を買うとなったら明日から水と塩で生きていかなきゃならない所だったよ!』

『いや、あの……そんないきなり手を掴まないでください。というか私、危ないって怒ってるんだけど……アナタ、人の話を聞いて――』

『あ、お礼と言ってはなんだけど、今度食事でも奢りますよ。近くの食堂に、なかなかイケるフィッシュ&チップスの店があってですね――』





『エディエットさん、お疲れ様です。これ、どうぞ』

『……あら、いい香り。紅茶? アナタが入れてくれたの?』

『ええ、エディエットさん、お疲れみたいだったので。喉にいいハーブを使ってハーブティを淹れてみました。あ、こう見えて僕、紅茶を淹れるのは結構得意なんですよ。それと、実はこのハーブも自家製で――』




『あらディケットさん。こんな所で奇遇ね』

『エディエットさん? いや、それはこっちの台詞ですよ。……驚いたなぁ、貴女もハーブを見に来たんですか?』

『ええ。ちょっと、その……私も育ててみようかと思って』

『あ、だったら! オススメがあるんです。初心者向けの、育てやすい子がいて――』




『……ディケット? ちょっと、ディケット! 大丈夫!? アナタ、こんな所でどうしたの!? ねえ、起きて、起きなさい! 起きなさいってば……!』

『……ん、ああ、エディエットさん。あはは、作業中に寝落ちしちゃったか……カッコ悪い所、見られちゃったな……』

『もう、心配させて……アナタのカッコ悪い所なんて見飽きたわよ。……ねえ、アナタ。これは?』

『ああ、これは今日使うのとは別のだよ。僕が僕個人で仕上げてたものさ。師匠に言われた事をやってるだけじゃ、いつまでも一人前にはなれないからね』

『……ねえ、この絵の女の人のモデルってひょっとして――』

『ほんとは完成してから見せたかったんだけど、……あはは、中途半端な所でバレてしまったかー』

『……もう、どうして男って、そうやって隠れて無茶や馬鹿ばっかりするのかしら……』




『……ット、ねえディケット!』

『うわ!? ぴっくりしたぁ、いきなり耳元で怒鳴らないでよ、エディエットさん』

『さっきから何度も呼びかけてるわよ。…………アナタ、お昼休憩とか取ったの?』

『いえ、まだですけど……?』

『……そう、じゃあこの前行ってたオススメの食堂、連れていかれてあげないこともないわ、ないわよ、ないんだから連れていきなさい今すぐにさあ早く支度して』

『……? 食堂? 奢り? え、僕、そんな事言いましたっけ? それ、いつの事です?』

『言ったの! 言ったわ! 間違いなく言いましたとも! 私がアナタの落とした眼鏡を拾ってあげた時、アナタは厚かましくも私に食事を奢るだの何だの言ってました。ちゃんと覚えてるんだからっ!』

『……あー? そういえばだいぶ前にそんな事もあったような……あれ? でも確か、あの後エディエットさんを食事に誘ったら百年早いとか言って断られたような……?』

『じゃあ百年経ったのね、おめでとうディケット。私に食事を奢ることを許可するわよ。それから――』



『――いつまでもさん付けしてないで、呼び捨てにする事も許可、してあげなくもない』














『ねえ、ディック。アナタ、いつになったら私の立つ舞台を綺麗に飾り立ててくれるの?』


 星空の下。居残りレッスンを終えた私は作業終わりのディケットと二人で劇場の裏口の段差に隣り合って腰掛け、温かい紅茶を飲みながら少しばかり責めるような口調でそう言った。

 ここは二人の特等席。表通りに面した劇場正面は夜間の間も人通りが多く、何と言うかその……逢引には適さない。その点裏口(ここ)は壁で囲われていて部外者の目はないし、表の喧騒からも少し距離がある。なにより、四角に切り取られた夜空は二人だけのオモチャ箱みたいで嫌いじゃ無かった。


『? 何を言ってるんだい、エディ。毎回君の立つ舞台は君に相応しく綺麗にセッティングされているじゃないか』

『……はぁ、アナタって本っっっ当にとぼけた人ね。こんなのを……になった自分が腹立たしいわ』


 きょとんとした顔でこちらを見返してくるディケットに腹が立って、ますます唇が尖っていくのが自分でも分かる。

 きっと自分は今、拗ねた子供のような顔をしているのだろう。

 何と言うか、本当に人畜無害を絵に描いたような善人でどこか間の抜けている人だ。混じりけのない天然記念物さんは言葉の裏に秘めた真意を察する力に欠けている。


 要するにこの男、びっくりするくらいに鈍感なのだ。

 まあ、そんな事は随分前からとっくにわかっていたし、死ぬほど屈辱的な思いだって既にした。なんで男の告白のお膳立てを女がしなければならないのかについては、私も色々と言いたい事があるけれど。

 ……それでも、自意識過剰よりはよほど好みではあったから。


『? 今、何になったって?』 

『うるさい、なんでもないわよ。……そんな事より、アナタの師匠じゃなくて、いつになったらアナタが私の為の舞台を造り上げてくれるのかって聞いてるの』

『なるほど、そういう意味か。それなら、ふふふ……楽しみにしててくれていいよ、エディ。近日中にきっと師匠を認めさせてみせるから……!』


 ようやく得心いったと手を叩くディケットの肩に体重を預けて寄り掛かり、私は気の抜けたような呆れたような溜め息を一つ。


『はいはい、いつも聞くやつね、ソレ。……この分だと、今回も期待できないかしらね』

『そ、そんなことはない。……それに、今回はどうしても認めさせてやらなきなならないんだ』

『あら? それはどうして?』


 どこかいつもと異なり強い意思の籠められた言葉に、私が首を傾げるとディケットは殊更困ったように視線を逸らす。


『それは……その、僕が認めさせてからのお楽しみって事で……』

『ふぅん、そこまで引っ張ってしょうもない事だったら、私。アナタを許さないわよ?』

『こ、怖いな。エディの冗談は……』

『ふふ、冗談、だったらいいわね?』

『疑問形なんだね……』


 笑みを浮かべる私を見て、どうしてか冷や汗を流すディケット。

 根が真正直すぎる人だから、私のこんな冗談にも怯えてしまう可愛い人だ。なかなかどうして、ここまでからかいがいのある子はドーラ以来ではないだろうか。

 そんな事を思って、くすりと笑みを零しながら、二人の時間は過ぎていく――




 ――積み重ねた時間が愛おしかった。

 私の表面だけを見て全てを知った気になって、何もせずとも与えられる形ばかりキラキラした愛ではない。

 私という人間を、その内面をちゃんと見て、対等に付き合ってくれる人たちと過ごす時間が心地よかった。


 親友と恋人。

 二人の大切な人に囲まれて、この時の私はきっと、世界で一番の幸せ者だっただろう。



 私は人々に愛されていた。……いいえ、私はきっと世界にさえも愛されていたのだと思う。



 けれど、私が本当に欲しかったのは、そんなポケットに入りきらないような沢山の愛じゃなかったのだ。

 私が本当に欲しかったもの。それは――










☆ ☆ ☆ ☆


 

 ある朝、朝食の準備をしていたドーラに言われた事がある。


「エディ、最近お仕事に行くのがとても楽しそうです」

「えっ、そ、そうかしら……?」

「はい。とっても活き活きしてます。以前よりわたしに構ってくれる時間が減ってしまったのは寂しいですが……でも、ドーラはそれはとてもいい兆候だと思いますよ……!」


 今日のドーラは何だか元気だ、いいえ、私に対して強気と言い換えてもいい。


 ……しかし面と向かってそう断言されては、心当たりがある分いつものように強く出る事が出来ない。

 自分でもしっかり自覚している辺り、恥ずかし過ぎて顔から火が出そうだった。

 

 私は、どうにか話を逸らそうと、


「そ、そういえば、この前見たわよ。ドーラ、アナタってば、また私の演技と台詞に振り付け、丸暗記して一人で練習してるでしよ?」

「な、何故それを!?」


 ぶっ!? と、危うく口に含んだ牛乳を吹き出しかけるドーラ。私はわざとらしく大きな溜め息を吐いて、


「呆れた。試しにかまを掛けてみただけなのに、本当にやっていたなんて」

「……うぅ、騙すなんて、酷いですエディ……」


 御行儀悪くテーブルに突っ伏してシクシクしている親友の紫色の頭を、私はポンと軽く叩くように撫でて、


「ドーラ、前にも言ったでしょう? 舞台に興味があるなら、隠れてやってないでアナタも一緒にやればいいのよ。オーディションくらいいくらでも受けられるんだから」

「で、でも……ドーラは、ドーラみたいな髪の色をした子が舞台に立ったら、お客様はきっと驚いてしまいます……」

「何を言ってるのか私にはさっぱり分からないわね。馬鹿馬鹿しい。そんな綺麗な髪を、一体この世界の誰が馬鹿に出来ると言うのかしら? 世界一可愛い私だって、アナタのその奇麗な髪と美しい瞳には敵わないと思っているのよ?」

「……」


 ドーラは喜びや嬉しさ、悲しみや恐怖、様々な感情を目まぐるしくその可愛い顔に浮かばせて、けれども最終的には祈るように胸元で握りしめた手を見つめ俯いてしまう。

 ドーラの葛藤を知る事は出来ずとも理解する私は、そこで一つ息を吐き出来るだけ優しい声音で、


「……ま、無理にとは言わないわよ。ただ、アナタが自分の本心に嘘をついているのなら、吐き出しちゃった方が身のためよ。それに、その本心がなんであれ、私はアナタを応援してあげるんだから。感謝してよね」

「エディ……ありがとう。わたし、少しずつ、頑張ってみます……」


 ……こうして親友が笑ってくれる。それだけで私は、彼女のどんな努力でも応援してあげたいと心の底から思う事が出来るのだ。

 それが何だかとても嬉しかった。


 

☆ ☆ ☆ ☆


 

 そうして、そんな彼女の言葉の通り、ドーラに変化が訪れる事になる。

 冬の寒い日。きっかけは私が流行りの風邪に掛かってしまい、公演前だと言うのに高熱を出して寝込んでしまった事だった。


 ひんやりとした額の感触が離れていくと、沈んだ顔をしたドーラの表情が視界に入ってくる。


「……凄い熱です。……エディ、これではやはり明日の公演は無理ですね……」


 ドーラは水で冷やしたタオルで私の汗を拭きながらかぶりを振ってそう言った。

 けど、そんな言葉で納得なんて出来る訳がない。


 ……どうして無理だなんて決めつけるの? そんなはずはない。私は、これまで一度だって休まずに仕事をこなしてきた。

 誰からも愛されている事を自覚していたから夢見て、そうしてそうなる事が当然であったかのように夢を掴んだ。

 運命に急かされるように手に入れた職業と立場だったけれど、確かにこれは私の夢の形なのだ。誰の力も借りず、ただ一人で掴んだ居場所。私には私の誇りがある。プロとしての意地がある。 


「そんな事……げほっ、ゴホッ……ない、わ。私は、コホッ、平気、よ……明日の公演には、出られる……」

「馬鹿な事言わないでください。お医者さんから、一週間は絶対安静だって言われましたよね? 今年の冬は特に寒いんです、これで無理をしてさらにお身体を壊されてしまっては、女優どころではなくなってしまうんですよ? そんな事になったらドーラは嫌です。ドーラはまた、エディが舞台に立っている所を何度だって見たいのですよ。それに、ディケットさんだって悲しみます」

「……ずるい」

 

 ……そんな笑顔で、ディックの事まで持ち出してそんな風に言われたら何も言い返せなくなる……ドーラのずるよ、反則だわ。

 ドーラはまるで母親のような手つきで、私の羽毛を掛け直して、


「……それになにより、一週間後にはちゃんとエディに治っていて貰わないと困るのです」

「? 一週間後?」


 ボソッとドーラの零した呟きに、私は不思議そうに首を傾げる。

 

 ……一週間後に何か大事な予定なんて、あったかしら?


 するとドーラは何故か慌てたようにワタワタと両手を振って、


「あ、いえ。何でもないんです! 何でも! ……とにかく、エディはゆっくり休んでいてください。わたしは買い物と……ついでに『□□□』座の皆さんにエディの病欠の件を伝えてきます。なるべく遅くならないよう、お夕飯までには帰りますからね」






 ……思えばこの時、私は意地でも翌日の公演に出るべきだった。

 例えその後、風邪が悪化して長い期間を床に伏せる事になろうとも、命を燃やして女優として舞台にあがるべきだったのだ。

 

 崩壊はいつだって予期せぬタイミングで、想像だにしない結末を引き連れて、私達の前に現れるのだから。



☆ ☆ ☆ ☆



「……どういう、事、なの……?」


 新聞を持つ手が震えた。


「……帰りが遅いとは思ったのよ、でも、こんな……」


 女優になって初めて公演を休んだ次の日、新聞の一面を飾ったのはよく見知った少女の顔と、『大型新人登場、エディエットついに降板!? 大スターの失墜と新時代の幕開け』なんて、煽るような見出しがデカデカと並んだ記事だった。


 ベッドの中で新聞を手に震える私の横で、ドーラが今にも泣きそうな顔で佇んでいる。

 

「その……ごめんなさい、エディエット。わたし、まさか、こんな大事になるなんて思わなくて……」

「いえ、……怒っている訳じゃない、ないの、ないのよ、ええ。ただ、驚いてしまって。……どうして、アナタが私の代わりに舞台に立つ事になったの?」


 務めて冷静に振舞おうとする私の努力もむなしく、絞り出した声は判別不能の感情で震えていた。それでもドーラは、私が決して彼女に怒っている訳ではない事を理解してくれたのか、涙を湛えたまま一つ頷くと、ぽつりぽつりと昨日の事を語り始めた。


「……それが、エディの病欠を伝えに行ったら、座長さんが『それは困る』って言いだして。何が何でもエディを出そうとするから、わたし、エディの役を丸暗記していたから、だからわたしが代わりにやりますって……あの。ドーラは、エディに無理させたくなくて……だから……こんな事になるなんて、思ってなくて……」

 

 彼女自身混乱があるのか、紡がれる言葉は酷く拙くあっちへいったりこっちへ行ったりでまとまりがない。その動揺が演技などではない事はエディエットには一目で分かった。彼女の言葉が真実である事も。

 ぐじっ、すんっと鼻をすする音が聞こえた辺りで、私の心はどうにか平静を取り戻し、大きなため息を吐く事が出来た。

 傍らに立つドーラを、ベッドに引きずり込むように強引に抱き寄せて、赤子にするようにその背中をさすってやる。


「はいはい、分かった、分かったわ、分かってるわよ。アナタがそんな酷い子じゃないって事くらい。私の事を心配して、頑張ってくれたのよね」


 私の胸に顔を埋めながら、ドーラが涙声で頷く。

 ……こうしていると本当に手のかかる赤ん坊みたいだなと思う。普段あまり意識していないのだけど、こういう時にこの子が自分より年下の少女なのだと実感する。

 まったく、これではどっちが看病を受ける病人か分からない。


「……それに、アナタの背中を押したのは私だものね。……ねえ、どうだったのよ初舞台は? 楽しかった? 緊張した? 興奮した? 輝いていたかしら? そういえば東洋の方にこんな時に相応しい諺があったような……鬼の居ぬ間に洗濯? だったかしらね?」

「うぅう……エディぃいの意地悪ぅ。そんなの、そんなのぉ……全部ですよぉおおおおお……っ!」


 ――なにはともあれ。ある事ない事を記事にされて遊ばれるのは、トップ女優の仕事のようなものだ。

 この程度の記事を一々気にしていたら身も心も持たない。それに、大衆からの評価なんて今の私にとっては二の次だ。

 私に心を奪われた名も知らぬ人達から送られるポケットに入りきらない無尽蔵の愛よりも大切なものを、私は手に入れたのだもの。


 ……大丈夫。

 この腕にある温もりの大切さを、その価値を、私はちゃんと知っている。

 彼女と彼から貰った愛を、幸せを、こうしている今だって噛みしめているのだから。


 

 胸の奥に僅かなしこりと痛みを感じながら、私はその傷を貰った愛で塗りつぶすように、胸の中で泣きじゃくる愛おしい親友をぎゅっと抱きしめ続けた。

 


☆ ☆ ☆ ☆



 ――ドーラの騒動があってから四日後。久しぶりにすっきりと目を覚ました私は、身体が軽く熱もないのをいい事に、一人出かける支度を整えていた。

 ドーラの姿が見えない事が少し気になるが……私が起きる前に買い物にでも出掛けていたのだろう。

 何せ私は風邪に甘えてすっかり今日も朝寝坊、いつもより二時間もたっぷり眠ってしまったのだから。


 一週間という医者の予告より一日早く風邪を完治させた私は、朝の空気をその身で切って劇場へと向かう。

 流石に今日から復帰は無理だろうから、とりあえず快気報告と迷惑を掛けた分の謝罪や挨拶をしに行こうと考えたのだけれど……


「……、」


 街を往く私に視線が突き刺さる。

 囁かれる言葉にいつもの称賛や歓声はなく、私への愛の言葉は混じらない。

 

 街の空気までいつもと違うようだった。

 そこに愛はなく憧れも羨望も何もない。私を湛える輝かしい言葉は全て地に落ちた。


 ――「あの人も終わり」「時代は変わった」「時代は終わった」「いつまで女王気取りのつもりなんだ?」「滑稽だな」「まるで裸の王様だ」――傷口をくすぐるように、漏れ聞こえる言葉の毒が耳朶を犯す。

 面白おかしく嬉々として呟かれる悪意なき悪意。霧のように掴み難い大衆という巨大な意思の流れが生み出す空気という名の怪物、流行という名の正義、酷い棚上げの手のひら返し。

 私を呑み込まんとする昏い愉悦と嘲笑は、確かに以前までは私に無尽蔵の愛を捧げていたモノそのものだった。


 世界に愛されていた私は一転、世界全てから嘲笑われる道化へと失墜していたのだ。

 

 それは、常人では決して手の届かない人気者が、自分たちとは隔絶された世界に住んでいた雲の上の住人が、世界に愛される者が何らかの理由で落ちぶれ堕落していく予感とその姿に期待する人々の昏い法悦そのもので。

 巨人殺しの娯楽(ジャイアントキリング)を待ち望む有象無象の興味関心は、時に相手が一人の生きた人間である事さえ忘却し、ただの娯楽として他人の人生を消費しようとする。

 私が感じ取ったのは、そんな悍ましい無邪気と無関心。

 私を呑み込もうとするのは、安い嫉妬と軽い愉悦。


 嗚呼、ならばこれはなんて事はない悲劇喜劇エンターテインメント。彼等にとっては、私が舞台上でその身を削り命を削り私を愛するお客様たちへ提供しているモノと同一のモノなのだ。

 無辜の民衆は、美しいモノや輝くモノ煌びやかなモノだけでなく、他者の不幸や絶望や敗北も等しく大好物であるというだけの話。


 結局、当事者でもない人々にとってはどこまでいっても他人事で、関係ないからこそ気軽に軽薄に愉悦する。

 雲の上の住人を同じ人間とは思わない。だって、そんな高みへ手が届くわけないのだから。だからこそ勝手に堕ちてきた者の足は引っ張るし、同じ人間でないから心痛まずに罵倒できる。

 新聞が批判していたから、有名人が言っていたから、周りが馬鹿にしていたから、噂で聞いたから。

 見たこともない幻想上の偶像を生み出して、勝手に崇め勝手に湛え勝手に嫉妬し勝手に裏切る。

 責任転嫁も甚だしい、そんな他人任せの暴論で人は誰かを食い物に出来る生き物なのだから。


 けれど私は気にしない。

 そんなどうでもいいモノに心を揺さぶられたりしない。


 確かに私はこの地上の誰よりも大勢の人々に愛されていて、幼い頃からずっと彼らの愛を一身に受け育ってきたけれど。 

 でも私は、そんな一方通行の愛より大切なものを見つけたのだと断じる事が出来るから。


 自分にとって一番大切なものだけは見落とさない。絶対に間違える事なんてないのだと、胸の痛みを上書きするように大切な親友と恋人の事を思い続けた。


 そうしていれば周囲の雑音なんて気にならない。

 どんな罵倒も批判も悪意ある噂話も、全てをくだらないと一蹴する事が出来た。

 

 そう。だって私にはドーラとディックが――












「――――え……?」

 

 

 意気揚々と仕事場を訪れた私が目にしたのは、衝撃的な光景だった。

 劇場の一角、人気のない用具倉庫。僅かに開いた扉の隙間から見えてしまったモノ。

 そこにあったのは、嬉しそうにへにゃりと微笑むディケット=ジャルジーと、そんな彼の笑顔を一身に受け止めるドーラの後ろ姿。


「――っ」


 咄嗟に、扉の陰に身を隠す。

 何故、私が隠れているのか私には分からない。心臓の鼓動がうるさくて、奥の二人に聞こえてしまうのではないか。そんな不安が首を擡げる。

 ……いや、違う。私が不安に思っているのはそれじゃない。違う。不安だなんて、そんなちっぽけなものじゃあない。この胸を埋めていく痛みは、傷口の開いていく感覚は――恐怖だ。


 なんで? ドーラがここに。

 なんで? ディックがここに。

 なんで? ドーラとディックが二人きりで。

 なんで? ディックはあんなに嬉しそうな笑顔をしていて。

 なんで? なんで? なんで? なんで――


 ――不倫、浮気、逢瀬、密会、逢引き。様々な不穏な言葉が、脳裏に浮かんでは消えていく。その度に私の身体から、力が抜けていくのが分かる。


 ――怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……ッッ!!

 何もかもが、壊れていく感覚がある。

 大切なものが、私がこの世界で何よりも大切だと信じてやまなかった二つの宝物が、今、同時に壊れようとしている。


 ――嘘だ嫌だ――現実を直視したくない、認めたくない私がいる。

 ――嘘だ嫌だ――それでも目前の光景を見なかった事にはできない私がいる。

 ――嘘だ嫌だ――悲しみに泣きだしたい私がいる。

 ――嘘だ嫌だ――激しい怒りを感じている私がいる。

 ――嘘だ嫌だ――奪われたくない私がいる。

 ――嘘だ嫌だ――失いたくない私がいる。

 ――嘘だ……嫌だ――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だッッ!!


 最悪の想像が、私の心を砕いていく。 

 今ならまだ間に合う。何も見なかったふりをして、いつも通りの日常に帰還する事が出来る。それでも私は止まらない。それ以上が致命的だと知っていながら、止まれない。

 

 扉の陰から、僅かに身を乗り出す。


 もう一度、人気のない部屋で二人が何をしているのか、それをこの目で見てしまう――




 ――ツンと顎をあげ、何かを期待し待つような姿勢で固まったドーラと。そんな彼女へ、ゆっくりとしゃがんで近づいていくディケットの姿がそこには――

  






 ――その光景を最後まで見る事無く、私は劇場を飛び出していた。




        



         私の世界はズタズタに引き裂かれ、灼熱にひび割れた。










「――エディ、ただいま帰りました」


 家に戻って布団にくるまっていると、明るい声が彼女の帰宅を知らせた。――うるさい。

 ……幸せそうな声。何も知らないと思って、嘲り笑っているように聞こえる。――喋らないで。


「……おかえりなさい」


 嗚呼、そういえば、劇場からの帰り道は地獄のようだったな。

 ……どうしてだろう、行きはあんなに気にならなかったのに、囁きの一つ一つ、視線の一つ一つが、全部この子が私の全てを奪ったせいなのだと思えてしまって、悔して悔しくて、憎くて憎くて堪らなかった。――……シタイ。

 どうしてだろう。そんなこと、もう気にしないと思ったはずだったのに。――……シタイ。

 どうしてだろう。……そうか、見つけた筈の宝物が、本当に大切だと思ってたものが、全て壊れてしまったからだ。――……シタイ。

 

 だから私の世界は、こんなにも醜く汚く変わってしまったんだ。


 私はヤツラの望み通りに地の底に堕ちて、その嫉妬と愉悦に呑み込まれたのか。


「エディ、どうです? 熱は下がりましたか? 今朝出ていく前にチラッと寝顔を見たですが、なんだかとても良さそうだったので……それで、あの。もし、気分がよかったら、この後一緒に出掛け――」

「――ねえ、ドーラ。アナタ、今までどこに出掛けていたの?」

「ふえ? ……どこって、えっと、ドーラはいつも通りお買い物をしていましたよ? お夕飯の材料が、丁度切れてしまっていたので……」

「ふぅん、そう……」


 ……隠すんだ。やっぱり、後ろ暗い事があるから。

 絶対に口には出せない秘密があるから。

 ……当たり前か、当然ね、当然よね、当然なのだわ。


 だってアナタ、私を内心嘲笑っているんでしょう?

 スターの座を奪い、恋人を奪って、私を陰で裏切り続けて、それでもアナタを大切だと信じ愛そうとする私を、アナタはその可愛らしい笑顔を貼り付けた内側で、心底馬鹿にしているのでしょう?

 

「……エディ? 何か、気分でも悪いですか? 何だか、とっても具合の悪そうな声ですけど……エディ? 寝てる、訳ではないですよね……?」


 わたしは何も答えない。

 布団の中で赤ん坊みたいに丸くなって、顔も出さない。

 そんな私の様子を心配したドーラは、私が中で丸まっている布団をめくりあげて、


「え、………………?」


 ――グザリ。少女の愛らしい小さな胸に、私が握り締めていた包丁が深々と突き立った。


「が……ぶっ!?」


 びしゃ、ぼだ、びじゃだばば……、

 水っぽい汚音が響き渡る。白いベッドが赤に染まる。驚愕に目を見開き、それから痛みと悲しみに涙を溢れさせる少女に、私は滂沱と涙を流して壊れたような笑みを向けていた。


 ケタケタ……ケラケラと。自分のモノだとは信じられない不気味な嗤いが私の中から零れ落ちている。

 それを他人事みたいに聞きながら、私は。全ての責任を押し付けるかのように血塗れの親友を責め立てていた。


「アナタが……アナタが、悪いのよ。ドーラ。アナタが、アナタが私を裏切って、私から全てを奪ったんだからッ!! だって、こんなのは間違いよ、間違いなのよ、間違いじゃないと嘘でしょう!? どうしてアナタが、大好きな親友のアナタがあの人を……私からディケットを奪うのよォッ!」

「エディ……、たし、……ちが……げほっ、ぉえッ……がァ、ぃぎギァ……あああっ!?」

「あの人が私を見ていなかった。私以外を見て笑っていたのそんなのはダメ、ダメよ、ダメなの。ドーラが私以外を見ていた。私以外を愛していた、そんなの嫌、嫌よ、嫌なのよッ! だって、私を愛してくれるのは、私が愛せるのはアナタたちしかいなかったのに! アナタたちが私を見てくれなくなったら、私にはもう他の何も残っていなかったのに他に何もいらないと思っていたのにどうして何もかもを奪ってアナタだけが皆からあの人からこの世界全てから愛されているのよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!」 


 突き刺し、引き抜き、振り下ろし、突き刺す。


 繰り返す都度、声は遠くなる。


 繰り返す都度、血が溢れ出る。


 繰り返す都度、命は小さくなる。


 繰り返す都度、吐息は弱くなる。


「嫌だぁあああぁあぁぁ……やだよぉおおおおおおォオオオオ!! どうして……どうして、私は……私がアナタを殺して……こんなの、間違ってるのに……絶対に、嫌なのにッ、あぁ、……あああああアアアアアアアアッッ!!!」


 壊れたように叫び続けながら、私は親友の血に染まった包丁をひたすらに振り下ろし続けた。


 何度も何度も何度も何度も。

 

 気が付けば、私の親友はぐちゃぐちゃになっていて、もう元の姿も分からないような肉塊へ変わり果てていた。

 これを全て、自分がやったのだと自覚した瞬間。


「――あは……、あははは!! あはははははははは!!!! は……、やぁ、いや……、いやだぁあッ! いやだぁアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――っ!!」



 壊れた私は哄笑をあげながら、愛おしい少女の前髪を一房切り取り、少女の美しい星の瞬く夜空の瞳を包丁で抉り取った。


 私は私の握った包丁で私の目玉をくり抜いて、空白になった眼窩に二つの夜空を埋め込んだ。

 親友から奪った美しい瞳で、親友の視界で世界を眺めたかったから。そうすれば、この醜く堕した世界も、その色合いを変えてくれるのではないか、そんな事を思って。


 私は血の涙を滂沱と両目から溢れ出させて、彼女の美しい紫の髪をお守りのように大切に握り締めながら。


 今度こそ、自分の中で致命的な何かが破損した。そんな気がした。






 ……その後、どうやって劇場まで辿り着いたのか、私は覚えていない。

 ただ、手に握った血肉に塗れた包丁は、往年の相棒のように私に馴染んで、放そうにも離れなかった事。

 あの子の瞳で眺めた世界は光がなくて、真っ暗だった事。

 私の歩みを邪魔しようとするヤツラは、全員血を噴き出して倒れていった事。それだけは覚えていた。


 そうして、私は辿り着いてしまう。

 

 彼の元に。


 愛していた最愛の恋人の元に。

 今となっては私を裏切り切り捨てた、憎き裏切り者の元に。


 私の足音に真っ先に気付いた彼は、何かの作業中だったのか、額の汗を拭いながら慌てて振り向き、驚いた子供のような声をあげた。


「……エディ!? もう来ちゃったのかい……!? 参ったな……ドーラさんに時間稼ぎはお願いした筈なのに、こっちはまだ準備が……というか、君風邪は!? 風邪はもう平気なのかい?」


 何も知らないディック。天然でどこか抜けている可愛くて優しいディック。狂おしく憎らしい裏切り者のディック。もう、愛おしい彼の顔も見れない。

 でも、それでいいと思った。彼の顔を見たら、きっとこの決心が鈍ってしまうから。


「ディック……、」

「……エディ? え、ちょ、うわっ、凄い汚れ……というか、血? ――た、たたた大変だ!? 君、怪我しているのかい!? どどど、どうしようっ、とりあえず医者を呼ばなきゃ……そ、それから馬車の手配もして――だ、誰かッ! 誰か居ますか!? 医者と、馬車を――エディエットが酷い怪我を――」

「――さようなら、ディケット。愛していたわ」


 人を探して駆けだそうとする彼の後ろから、一刺し。


 とぼけたお人好しの青年は、最後まで状況を理解することなく、心臓を串刺しにされて膝から崩れ落ちた。

 善良な彼は、最後まで自分の大切な恋人が酷い怪我を負っていると思い疑わなかった。


 ある意味では、それが救い。

 

 ――彼は誰に殺されたかも、自分がどうやって殺されたのかも分からず。唐突にその生命活動を停止したのだから。



「は、はは……あはは……」


 憎き二人を、愛の裏切り者どもを、殺した。この手で殺してやった。復讐を成し遂げた。

 なのに、力が抜けて身体はへにゃりとその場に崩れ、胸を苛む痛みは一向に収まらない。


 ……どうしてこんなに苦しいの。

 ……どうしてこんなに悲しいの。

 ……私の世界を壊した原因を、確かに取り除いたはずなのに。

 ……私から愛を奪った要因を、確かに取り除いたはずなのに。

 

 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてこんなにも――









 ――本当は、気付いておるのじゃろう? お主は、裏切られてなどいなかったのだと。








「誰――っ、………………………………………………………………………………………………え?」



 謎の声に慌てて振り返り。そうして目の前に現れた存在に、私の思考が停止した。



「……ドー、ラ……?」


 私の視界は相変わらず漆黒に包まれている。それでも、理解した。理解出来てしまう。何故だか彼女の姿だけは、私の視界に鮮明に浮かび上がっていた。

 美しく流れる紫色の長髪と、抉り取ったはずの夜空色の瞳。私が切り取った前髪の位置まで、全くの同一。


 肌の色こそドーラと異なる褐色だったけれど、そこにはつい先刻私が殺したドーラと全くもって瓜二つの異なる少女が、地上から数センチの所を浮遊し佇んでいた。


「我輩はお主と共に過ごしたドーラではない。この肉体は確かにお主の友人と同一のモノではあるが、人格なかみが違う。……ドーラはもうこの世におらぬよ。当たり前じゃろう? 何故ならお主がその手で殺したのじゃからな」

「……!」

 

 褐色の少女の言葉に包丁で刺されたように胸が痛む。 

 そうだ。彼女は死んだ。私が殺した。


 ……でも、悪いのは私じゃない、あの子だ、ドーラなのだ。

 だって、ドーラは私からトップ女優の……スターの座を奪い、沢山の愛を奪い、そのうえ絶対に奪ってはならない恋人までをも奪ったのだから――



「――今日が何の日か、お主覚えておるか?」

「えっ?」


 その問いかけは、あまりに唐突で想定外だった。まさに意識の外からの不意打ちに、私は咄嗟に答える事ができない。

 そもそも答えが分からない。

 ……今日は何か、特別な日だったのだろうか? 

 そういえばドーラも、丁度一週間前に今日の事を何か言っていたような……


「――誕生日、じゃ。我輩ドーラの親友、エディエット=ルナールの生まれた日。――今日は、お主の二十三歳の誕生日じゃろうに」


 憐むような視線と共に告げられたその答えに、私の呼吸は、思考は、緊急停止した。


「去年も一昨年も、公演とぶつかってまともに祝えなかったらしいからな。我輩ドーラは今年こそはと随分前から座長に掛け合ってスケジュールを調整して貰い、さらにお主の恋人とサプライズを画策しておったのじゃ。――誕生日に最高のプレゼントとして、お主一人を観客とした特別な演劇の上映と。お主の恋人ディケット=ジャルジーからのプレゼントの贈呈。舞台上にてお主の首に掛けるネックレスに、婚約指輪を仕込んだ二重のサプライズをな」


 言って、ドーラと瓜二つの少女は死体となったディケットの懐からジュエリーケースを取り出し、その中身を私に放り投げてくる。

 目は見えずとも感触で分かった。それは、シンプルな銀のネックレス。チェーンの先には、綺麗に輝くダイヤモンドが一つ嵌った指輪がついていた。

 リングの裏側には、私と彼のイニシャルと、『いつまでもアナタを愛している』と彫られていた。

 

 ――嘘、だ。

 時間が停止し、肉体がバラバラに分かれていくような、不思議な虚無感に包まれた。


 ……だったら。

 だったら私が見たあの光景は……ドーラはキスを待っていた訳ではなく、首にネックレスを掛けて貰うのを待っていた?

 ディケットは、本番に緊張しないようにと、私の首にネックレスを掛ける段取りを、練習していて――



 ――なんなの、これ。嘘、嘘よ。こんなの、私は、私は知らない……何も、何も。何もッ!!



「……お主が何を見たかは知らん。何を見て何に絶望し、何をそこまで憎悪したのか、我輩には分からん。じゃが、我輩ドーラの名誉のためにこれだけは言わせてもらう。ドーラは確かにお主に秘密でディケットと何度も会っておった。じゃがそれは、今日の為に、お主の為に予行演習を積み重ねていたからじゃ」

「……いや。もう、やめて……」

「……我輩ドーラがお主に見せたかった今日の演劇はな、あの子がずっと練習していたものだったのじゃ。お主に背中を押されるずっと前から、そんな日をずっと夢見て。そしてお主に背中を押されたから、自分の力でお主を笑顔にしようと勇気を出して座長に話を持ちかけ、主役も自ら志願した。お主の言葉が嬉しかったからこそ――」

「――いや、いやよ……」


 開いた瞳孔で褐色の少女の言葉を遮ると、壊れた私は耳を塞ぎ、その場で絶叫していた。


「――やめてッ、やめてよ、もうやめてちょうだい! もう何も聞きたくない! そんな、そんな話、私は……私は知らない知りたくない知りたくないのよ! 何で今更っ、そんな事を知ったってもうあの子は……ッ あの人は……ッ」

「いや、やめんよ」


 滂沱と溢れ、止まらない血の涙。頭を抱えいやいやと幼子のように駄々を捏ねる私に、しかし褐色の少女は頑なに首を横に振り、冷たく告げる。


「我輩はやめない、絶対に。これはお主が、お主自身が招いた悲劇じゃ、望んだ絶望じゃ、その結末じゃ。自らの罪にて自身を滅ぼし地獄へ堕ちた愚かな人の子よ。その罪深きを咎める義務が、我輩にはある」

「違う。違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!! あの子が、あの人が私を裏切った! そうに、そうに決まってるのよッ!! だって、そうじゃなきゃ私は――」


 褐色の少女の口元に広がった嗜虐的な笑みに、私は思わず言葉を失った。


 神秘そのものであるかのような悪魔的な美しさによって、私は反論する権利すら奪われたのだ。その口から飛び出す、斬撃めいた言の葉が、私の心をズタズタに引き裂いていく――


「――笑止。お主、いつまで被害者ヅラをしておるのじゃ? 己の通った道を、辺りをよく見てみろ。何の罪もなく、ただお主の前に居たからという理由で切り付けられ、訳も分からぬままにその命を断たれた憐れな人の子らを。お主の眼前に転がる、お主を真に愛した子の無残な骸を。――この惨劇を生み出したのは誰じゃ? 我輩ドーラか? ディケット=ジャルジーか? 無辜で愚昧な民衆か? ――否、断じて否じゃ。お主自身じゃよ、嫉妬に狂いし愛憎の獣。エディエット=ルナールよ」

「……そんなの、いや。いやよ。いやなのよ。だって、全て認めてしまったら私は……私は私を心の底から愛してくれていた二人を、ただの勘違いと暴走で殺してしまった事になる!! そんなのは間違ってる、間違っているの、いないとダメなのよッッ。だから彼女は……あの女は、私から全てを奪った私の敵じゃなければならない、ならないのよ、そうじゃないと私が救われないじゃないッ!!」


 何が真実で、何が嘘か。

 そんな事はもうどうだってよかった。

 私は私を守る為に。私の心を壊さない為に。

 私が私である為に、この憎悪は正しくなければならなかった。


「アナタは……貴女はドーラよ。そうよ、そうでしょ、そうなのよね? うふ、……あはははははッ!!! ドーラ! いけない子! 貴女はまた、私を……ワタシの全てを奪おうとしているのね……!?」

「違うと言っている。我輩ドーラは記憶を封じゼロから築き上げた我輩の別人格じゃ。肉体を共有はしていても、その精神や魂は全くの別モノ。お主が我輩ドーラを殺害した事で、この世界から我輩ドーラは消失した。我輩ですら、最早彼女を取り戻す事は叶わぬ」


 ……違う。そんな訳がない。そんな事実はあってはならない。嘘でなくてはならない。

 ……そうだ、私はドーラを仕留めそこなったのだ。だからこれは、ドーラの反撃。私を陥れようとする彼女の姑息な悪だくみに違いない。


 そうでなければ、私はもう終わりだ。それを認めた瞬間に全てが終わってしまう。

 彼と彼女から受け取った愛の価値が、私を殺してしまう。私は今度こそ致命的に壊れてしまう。


 だから。


「――貴女はドーラよ。ワタシに。ワタシにィ、嘘を付いて、私を苦しめようとする悪い子。ねえ、ドーラ、貴女は……ワタシの全てを奪おうとする貴女は一体何者なの!? 答えて、答えなさいよォオオオオオオオオオオオッ!!」


 頑なに対話と理解を拒む私に、少女は……ドーラは悲しそうに瞳を閉じてかぶりを振って、


「――我輩の名はパンドラ。『厄災の贈り物』の名を冠する、この惑星の管理者じゃ。……エディエット=ルナール。これ以上、罪を重ねるな。全てを認め、己が罪を受け入れる事を、お主の友を知る者として推奨する」

「あは、ははははは……! パンドラァああああああああああああああああ! 死ねぇええええええええええええええええあああああああああああああああああああああああああああああッ!!」


 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!! ドーラ……いいやパンドラ! 貴女を……お前を殺してやる!!! 


 歓喜と憎悪を爆発させ、けたたましい哄笑をあげながら、包丁を握ったワタシは華奢な少女の身体へ突っこんでいく。

 刃を突き立てる。肉を破り、血が溢れ、命が壊れる。ただその瞬間を想像して夢想して空想して妄想して――その死を今度こそ現実にすべく、私は全力で包丁をその柔らかそうな肉体に突き立てて――

 


「――我輩ドーラだった肉体で、お主を殺したくはなかったのじゃがな」



 パンドラの柔肌を突き破るハズだった包丁は、その切っ先が肌に触れた瞬間に砕けて折れて。返す刀で閃いた少女の掌が私の心臓を一撃で抉り射抜いていた。


愛刃アハ……っ!」

 

 何故か笑いが込み上げて、私は最後に血の塊を吐き出して、命が終わる音を地獄で聞いた。



☆ ☆ ☆ ☆




 パンドラは少女の遺体を胸に抱え、周囲の惨状を見渡していた。

 どこもかしこも、目に付く場所全てに死があった。

 

 舞台女優という職業を除けば、ごくごく平凡な何の力も持たない人間の女だったエディエット=ルナールが巻き起こした死と破滅。


 死者、二十五名。負傷者二十二名。


 己が身の内より沸き出す深い愛情が、強い嫉妬により凶悪な憎悪へと転化し、己を含む周囲全てを引き裂いて斬殺する死の『厄災』へと化した結果がこの死体の山だった。

 

 パンドラは、嘲るような笑みを浮かべると霧の都の曇り空を見上げて、

 

 

「……くか、これが人、か。何と憐れで、何と醜く、何と儚く、そして――愚かな生き物なのじゃろうなぁ。あぁ、我輩は……また……――」













 ――独りぼっちか。

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