第二十三話 《魔力点α》ゼムリャ・ゲオルグ【遊戯難度A+】 淫靡艶麗廃墟都市ラグニアⅩⅥ――少女喪失/懺悔少女
エディエットによってディアベラスの命に終焉が齎されようとしている現在、様々な人々が一つの遊戯の終幕へと収束していく戦場と言う名の盤面の状況を正しく把握し語るには、もう一人の神の子供達クリアスティーナ=ベイ=ローラレイの戦いがどのような顛末を辿ったかを記さなければならないだろう。
「ねえ、アスティ」
――時間は再び巻き戻り、ディアベラスとエディエットの死闘、その火蓋が切って落とされた直後の事。
同時刻に起きていた神の子供達によるもう一つの戦いは、クリアスティーナの義理の姉であり逃亡者の集い旗の一員である生生の一言によって幕を開けた。
「――顔が傷つき目が見えなくなった自分をディア君が好きでいてくれるか、そんなに不安カ?」
「………………………………………………………………………………、」
ただその一言に、クリアスティーナの心が横殴りの一撃でも受けたようにぐらりと大きく傾いでいた。
完全に沈黙するクリアスティーナ。
そんな妹に視線をやったまま、生生は少し間を置いてからリリレットに短く声を掛ける。
「リリレット、周囲の警戒頼むヨ。ここはアタシに任せるネ」
「……分かったし。スピカ、行こう」
「う、うん……」
一端席を外してくれの合図を汲み取ったリリレットは、不承不承と言った様子で頷くとスピカの手をやや強引に引き、距離を取ってくれた。
年下の妹たちがいたのでは、クリアスティーナとてやりにくい。何よりスピカが近くにいては、今の彼女は叫びたい事も満足に叫べないに違いない。
生生なりの気遣いだった。
そうして、リリレット達がその場を離れてしばらくして。
食いしばった歯の隙間から零れる、か細く震える声が生生の耳にも届いた。
「……不安かって……そんなの、そんな事……っ」
怯え、震え、情けなく竦んでいた少女の心に、一時限りの熱が灯っていた。
灼熱のようなそれを、人はきっと怒りと呼ぶのだろう。そんな事を生生はぼんやりと頭の片隅で浮かべていると――
――ゴッ、と。生生の胸倉を掴もうとして失敗したクリアスティーナの額と生生の額が衝突した。
予期せぬ痛みだったのだろう、クリアスティーナの顔が僅かに歪む。対する生生はその結果も予想出来ていたのか少しも動じず表情一つ変えはしない。
目が見えない。そのどうにもならない自分自身へのもどかしさが、余計に彼女の怒りの火を煽った。
クリアスティーナは、探るようなゆっくりとした手つきで今度こそ生生の胸倉を掴み引き寄せると、まるで嚙みつくように、
「……怖いに、怖いに決まってるじゃないですか……ッ!」
絹を引き裂くような壮絶な悲鳴だった。
そのまま生生の胸にその額を押し付けて、神の子供達と呼ばれる少女は声を押し殺して力なく泣いていた。
不安に震え、ボロボロになって弱音を吐き出すその姿は、未知の楽園最強からは程遠い。どこにでもいる一人の少女にしか見えなかった。
「見えない……本当に何も見えないんです。今、こうして目の前にいる貴方がどんな顔をしているのかも、明るいのか暗いのかすらも分からない……っ」
本当にクリアスティーナはどうすればいいのかわからないのだろう。泣き笑うような曖昧な表情はどこか危うく、今にも壊れてしまいそうなガラス細工の人形を連想させる。
そんな弱々しい姿を見ているだけで、少女の胸にも痛痒に似た刺激が走った。彼女の……いいや、家族の苦しむ姿を目にするのは辛いに決まっている。
「……ねえ、生生。私はもう、夜明け前の暗闇も、朝焼けの眩しさも、感じる事が出来ないんですか? 私はもう、家族の顔も……不敵に笑うディアくんの横顔を眺める事も許されないんですか? ……嫌だ、嫌だッ、嫌だよ、そんなの! だって、私……私ようやく皆と一緒に生きて行けるって……なのにっ!」
――好きだったのだ。夜明け前の暗闇で瞬く星の光が。
――好きだったのだ。夜が明け訪れた朝に佇む太陽が齎す朝焼けの眩しさが。
――好きだったのだ。ようやく取り戻した家族との時間が。大好きだったのだ。どんな時だって不敵に笑うディアベラスの横顔が。ディアベラスの表情が、彼の何気ない仕草が、サングラスで隠そうとしても分かる、コロコロと変わる表情が。
彼との思い出一つ一つが彼女にとっては大切な宝物なのだ。
それなのにこの瞳は、クリアスティーナの大切なものを二度と映さない。
クリアスティーナの大好きな人達の姿を二度と映してくれない。
「……ディアくんは優しいです。だからきっと、私の顔に傷があろうと、視力が失われていようと、私を嫌いになんてなったりしません。全部受け止めて、抱きしめてくれる。それどころか、私がそんな事を言ったら、きっとあの人は私の為に私を怒ってくれます。……そんな事は分かってます。分かっているんです……だけど、だからこそ……」
これから先、ディアベラスがどれだけ成長してもクリアスティーナの中のディアベラスはその外見が未来永劫変わる事がない。
現実のディアベラスとクリアスティーナの中に記憶として残るディアベラスは、きっと乖離していってしまう。
それを想像するだけで、自分だけが過去に――暗い闇の中に取り残されてしまうような酷い孤独感と恐怖、そして埋まらない喪失感を感じてしまうのだ。
……いいや、それすら正しくない。変わらないだけならまだいいのだ。まだ我慢が出来る。だが、記憶だって完璧ではない。
クリアスティーナの中のディアベラスの姿は、今後更新される事がない。そして、記憶とは次第に色褪せていくものだ。
何十年も経った後、自分が大好きなディアベラスの顔を正確に覚え続けているという保証がどこにある?
……もしかしたら明日にでも、クリアスティーナが思い浮かべるディアベラスは現実の彼とはかけ離れていってしまうかも知れない。
それ以上に、ディアベラスの顔を想いうかべる事すら出来なくなるかもしれないのに――
「――怖い」
クリアスティーナは震えていた。
血の繋がっていない姉の胸に顔を埋めて。まるで、生と死の概念に生まれて初めて気付いて死ぬかもしれない明日が来ることに布団の中で怯えてしまう子供のように。
けれど、そんな風に怯える彼女を一体誰が責められる?
「怖いんですよ、私は。ディアくんを見失ってしまった世界が、どうしようもなく怖い……また私が、世界で独りぼっちになってしまうような、そんな気がして……」
この瞳は、ディアベラス=ウルタードの姿を二度と映す事はない。
もう二度と手に入らない自分の大切なものが少しずつ崩れて消えていくのを、何も出来ず眺めているしかないような、そんな絶望的感覚。
現実との乖離。喪失感と恐怖と孤独。
全てを見失った世界の果て、確かに目の前にいる筈の大切な人が見えない。それはきっと、完全に目の前から消えてしまう死別の喪失感とは異なっている。
それは決して消えることなき癒えない傷。むしろ大切な彼らが傍にある限り、加速し膿み続ける。瘡蓋で塞がる事もない生傷を、この喪失は永遠に少女の心に刻み続ける。
……もう、彼の姿を見る事が出来ない。
その現実に触れる度にクリアスティーナは傷つき、彼女の中にある喪失感と孤独の果実はすくすくと成長していくのだ。
世界に置き去りにされた乖離感が、その心を狂わせいく。
そして、クリアスティーナの心を深く抉った現実は、厄災により奪われたものは、それだけではなかった。
「それに……私、もう……あの人の、ディアくんの――」
自ら出来たばかりの傷に触れた瞬間、少女の声が上ずる。
縋るように生生の肩におかれた左手が、その肉を抉るように服の上から爪を立てていた。
鋭い痛みが走っているはずなのに、生生は何も言わない、ピクリとも動じない。ただ黙って、クリアスティーナが全てを吐き出すのを待っていた。
その全く優しくない気遣いが、今のクリアスティーナにとっては何よりもありがたく、そして何よりも腹立たしい。
その全てを見透かしたような生生の視線にぞっと怖気を掻き立てられて、それはいつしか言葉に形容しがたい怒りの炎へくべられる薪となっているのだ。
もう、堪えきれなかった。
感情のダムはとっくに決壊寸前で、いつ壊れてもおかしくなかったのに、神の子供達であるクリアスティーナは、リリレットやスピカの手前それを必死に堰き止めていたから。
淡々とすべてを受け止める生生へ、溜め込んだ全てをぶつけるべく、クリアスティーナは残った右手で自らの下腹部にぎゅっと憎しみを込めて爪を立てる。
すると、今の今まで堪え続けてきた感情が、取り繕っていた自分が、ガラガラと音を立てて崩壊していくのが分かった。
だから。
「――愛する人の子供も産めないのにッ!」
下腹部に刻み付けられた忌まわしき乱雑な切開痕に爪を立て、最愛の人と築けるはずだった温かな家庭を、未来を、何もかもを奪われ壊された少女は、呪うように吠えた。
クリアスティーナは、エディエット=ル・ジャルジーによって子宮を抉り取られていた。
少女から溢れ出す、悲哀に満ちた聞く者の心をキリキリと締め上げるような慟哭。
美しい顔に刻まれた三本の壮絶な切創――両の目と額を走るその刀傷に、刃で抉られた事による視力の完全喪失。そして、追い打ちのようにクリアスティーナを襲ったのは、子宮の喪失。
それも、わざと肌に傷痕を残すような形で強引に切除された事による心身へのダメージは測り知れないものがあった。
事実、クリアスティーナの精神状態は乱れに乱れていて、地上での活動には誰かの介護がいるような状態だった。一人で歩くことはもとより、酷い場合にはその場で身体の震えが止まらなくなってしまうような状態にある彼女の心と身体は、不可逆の喪失にズタズタに引き裂かれている。
彼女が現実を忘れていられるのは神の力で周囲の空間を把握する事に集中できる地下空間だけ。普段通りに神の力を使う事の出来るあの人類の牢獄だけが、クリアスティーナが不安と恐怖から目を逸らす事が出来る唯一の逃避場となっていた。
……もう、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイの再起は不可能だ。
誰だってそう判断するだろう。それくらいに、クリアスティーナが受けたダメージは心身共に大きく、未知の楽園最強の神の子供達は追い込まれていた。
それでも、妹の涙の理由も、その喪失も、その全てを見透かしたように正しく知る姉は表情一つ変える事無く、涙を流す少女の頭を優しく撫でてやる事もしなかった。
ただ――
「――変化に怯えて部屋の隅で一人膝を抱えて縮こまっているのはもう辞めた。怖くても、戦わなければ望む結末には手が届かない」
――言葉があった。
常のカタコトエセ中華弁ではない。滑らかに生生が紡いだ言葉に、クリアスティーナは酷く聞き覚えがあった。というか、それは……
「……その、言葉は……」
「アタシ知ってるヨ。アスティ、いつか言ってたネ。諦めたくないって」
例えばそれは、崩壊する未知の楽園から。一人の犠牲者も出すことなく全員で脱出しようと足掻いた時。
例えばそれは、世界の終わりにそれでも友達を助けようと抗い難き怪物どもに挑んだ時。
変えてしまう事を恐れ泥の停滞に沈み続けていた少女は、現実から目を逸らす事を辞め、己の齎す変化を認め向き合って、変わった未来を歩く為に前を向いたあの時からずっと、前だけを見て歩き続けてきた。
その隣にはいつもディアベラスや他の家族の姿があって、彼らはいつだってクリアスティーナの「助けて」に応えてくれた。
だから、戦えた。戦えると思う事が出来た。
けれど、今の彼女は独りだ。
クリアスティーナが直面している問題は、根本的な所でクリアスティーナ自身にしか解決する事が出来ない。
彼女の心の問題に、生生たち家族が力を貸す事は出来るだろう。手を差し伸べる事だって可能だ。
けれども、クリアスティーナは自らの心に刻まれた傷跡に、自分一人で対峙する他道がない。
いかに家族と言えども、逃亡者の尻尾の面々がクリアスティーナの心の中に入ってその傷を癒す事が出来る訳ではないのだ。
結局、どれだけ力を借りようとも、最後の最後でクリアスティーナを立ち上がらせる事が出来るのは、クリアスティーナ自身だけなのだから。
「人は変わるネ。生きている限り、きっと不変ではいられない。でもソレ、前に進める事でもあるとアタシ思うヨ」
だから、これは彼女の戦いだ。
クリアスティーナのクリアスティーナによるクリアスティーナの為の戦い。
彼女の中で決着が付かない限り、他の誰にも、勿論ディアベラスでさえもどうする事も出来ない孤独な戦いなのだ。
それでも、生生は生生なりに彼女を応援する事は出来る。
この言葉こそが、今一番きつい戦場で戦っている妹へ送る、姉としての彼女なりのエールだった。
「変わってしまったら、どうしようもない事もあるネ。それが悪い方転がってしまう事、悲しいと思うヨ。でもサ、それなら次、良い方変えればいいんじゃないカ? アスティはきっと、今回だって諦めたくないんダロ?」
「……私、は――」
常とあまり変わらない軽い調子で生生は確認するように言った。その問いかけに、クリアスティーナが迷うように言い淀む。
その時だった。
「――ッ!? マジかヨ……ッ」
夜空に輝く赤い花が一輪咲いたのは。
☆ ☆ ☆ ☆
一旦生生と分かれて行動する竹下悟は、ディアベラス達との合流を一旦諦め、その動向を監視していた。
当初の予定では、生生がクリアスティーナ達と合流し彼女が抱える問題の解決を図る間、竹下悟はディアベラス達と合流もしくは合流が危険な場合はその動向を監視するという方向で話が纏まっていた。
そして、クリアスティーナの問題が解決した時点で、彼女の神の力でラグニア内で行動中の逃亡者の集い旗を全員合流させる。
竹下悟をディアベラス側に配置したのは、合流が可能かどうか。もしくは合流を急ぐかどうかを彼に判断させようという意図である。それだけ生生は両者の合流のタイミングに気を遣っていた。勿論、それにも理由がある。
未だ勝利条件がはっきりしない厄災遊戯『■宝探し』ではあったが、生生は抱き守るべき唯一無二の『宝』に一つアタリを付けていた。
ラグニアと呼称されるこの街、この『魔力点』において罪人でもあり宝でもあるモノ。その矛盾が矛盾しないとするならば、宝を見る視点は二つ。
そうして、二つの視点から見た際に真逆の印象を抱くモノである以上、存在する二つの視点はその立場や特性が大きく異なることはまず間違いない。
視点の違いは価値観の違いだ。異常な法則で支配されたこのラグニアをこそ視点の一つとして仮定した場合。竹下と生生はこの『魔力点』におけるクリアスティーナ=ベイ=ローラレイの特異性に目を付けた。
彼女が特異である点は一つ。それは――彼女が子宮を失っているという事。
すなわち、この『■宝探し』において、おそらく彼女のみが腫瘍をその身に植え付けられていない、参加者側の敗北により死亡する事のない特別性であると言えるのだ。
二つある視点のうちの一つはラグニアとする。
そしてラグニアは娼婦の町だ。
娼婦が子を身籠るのは罪であり、禁止されるのが常。妊娠すればおろされるのは当然であり、妊婦は決して認められない。
であれば。子宮を持たず、いくら男の相手をしようとも子を孕みようがない彼女はラグニアにおいては宝のように重宝されるだろう。
一方、自然界においては子孫を残せぬ雌に価値などありはしない。
そういった意味では、生殖機能を失ったクリアスティーナ=ベイ=ローラレイは子を成す事も出来ない罪人であると言い換える事も出来る。
すなわち、クリアスティーナこそがこの厄災遊戯の勝利条件ではないのかと二人は睨んだ訳だ。
勝利条件であるクリアスティーナと、彼女を守る騎士の役目に相応しき悪魔ディアベラス=ウルタード。二人の合流を急がせ、厄災遊戯攻略を本格的に開始する。場合によっては、この一手がそのまま逆転勝利に直結する。生生が慎重になるのも当然だ。
そして、竹下悟はあくまで保険として生生の判断のサポートをするだけの簡単な仕事のはずだったのだが……。
(……ようやく追いついてみれば、ハチャメチャにマズイ展開……! 何故にサマルド氏が殺されて……ていうかディアベラス氏も死にそうじゃんナニコレ我氏も死ぬの、これもう本当に死んじゃうのでは? てか我氏の予見にはこんなのなかったハズなのですが!?)
悟が混乱するのも無理はない。
己の『予見』に従いディアベラスとの遭遇地点に先回りした結果、悟の視界に映ったのは『厄災』の前にあまりに呆気なくその命を散らしたサマルド=ドレサーと。胸に刃を突き立てられ、今にもトドメを刺されようとしているディアベラス=ウルタードの姿だったのだから。
(ディアベラス氏、割とガチで絶体絶命だしこれもう使うべきなのでは……!?)
バラバラに分断された際に無線が壊れてしまった為に直接的な連絡手段こそなかったが、悟の手には緊急用の信号弾を発射するミニランチャーが握られている。黄色が中止。赤が緊急強行。
何かあった場合にのみ許されている緊急手段。何事もなければ信号弾は打ち上げる必要はなく、多少時間が掛かろうともクリアスティーナによる空間転移はいずれ必ず実行される。
故にこれを夜空に打ち上げるのは有事の際。竹下が目を落とす赤い信号弾は強引にでも全員の合流を急ぐというものだった。
とはいえ、信号弾はあくまで緊急手段。使えば敵に自分の位置を教える事にもなる。直接的な戦闘力皆無の竹下悟が使えば、最悪の場合は本当に最悪の場合もあり得てしまう。
本当に切羽詰まった時以外は絶対に使うなと、生生からきつく念押しされてはいるが……
「……ええいっ、目の前に殺されかけている兄がいるこの状況、今使わなきゃいつ使うんだってヤツでしょうがッ、コレは……!」
葛藤は数瞬。直後、己の危険を顧みず夜空に緊急事態を告げる赤い花火が打ちあがった。
☆ ☆ ☆ ☆
ディアベラス=ウルタードとエディエット=ル=ジャルジー。
神の子供達と七つの厄災との死闘は、運命の悪魔に軍配があがった。
されど厄災遊戯は嫉妬に狂い愛憎に溺れる女に微笑んだ。
(……いやだ)
ディアベラス=ウルタードは殺される。
覆せぬ結末に、逃亡者の集い旗の面々はその場から逃げる事しか出来なかった。
ディアベラスがそれを望んでいたし、『厄災』を前にして彼等に出来る事なんて何一つもなかったのだ。
(……おじ様が殺されるなんて、だめだよ。そんなの、間違ってるっ)
それでも、意味なんて一つもないのだとしても。
出来る事なんて何一つないのだとしても。
その場に残って必死にディアベラスの元へ駆け寄る一人の少女がいた。
「はぁ、はぁっ、はぁ……ッ!」
息を荒げ懸命に走る少女のほんの数メートル前方に、『七つの厄災』と呼ばれる悍ましい程に美しい女の人が立っている。
彼女は腕からきらりと光る刃を生やしていて、それを無造作に振り下ろすだけでディアベラスの命は散ってしまうだろう。
――そんなの、嫌だった。
強くて心優しいディアベラスが、自分達との約束を守ろうとした果てに死んでしまうなんて、そんな結末は望んでいなかった。
そんな事を、許せるはずがなかった。
ミロは自分が弱いからこそ、ディアベラスの死という結末が『自分も死ぬかもしれない』という可能性を忘れさせてしまう程に恐ろしかったのだ。
だから、だって、あの時。ミロは――
(わたし、だってあの時。わたしは――ッ!)
――本当は助ける気なんてなかった。
ゴミ置き場に倒れるディアベラスを見つけたミロはその人物にまだ息がある事に気付いていた。
けれどそれだけだ。
妹たちに特に何を言うでもなく、倒れるその男から剥ぎ取れるだけ剥ぎ取ってその場を逃げよう。ただそれだけを考えていた。
この街は他人に優しくない。
飢える子供に食事を恵んでくれる者はいないし、助けを求める声を聞いてくれる人も、誰かを助けようとする人間だってどこにもいなかった。
唯一の例外はミロを治してくれたあの人だけだが、その人だってもうどこかへ行ってしまった。
皆が皆、自分の事しか考えていないのだ。自分が気持ち良くなることと、生き延びる事。生存本能のままに他者を喰らう事しか考えていなくて、そんな世界で生きていくためにはどれだけ弱くても喰らう側の人間になるしかないのだと、少女は本能で理解していたのだと思う。
無感情にディアベラスが身に着けているものを漁っている時も、ミロの胸にあったのは「この人、あまり使えそうなもの持ってないな」という苛立ちにも似た冷たい感情だけだった。
目の前で倒れている人がどんな人物で、どんな事情があるのかなんて、欠片だって考えようともしなかった。
目の前のソレを人間だと認識する事は、ミロにとって毒でしかなかったのだ。
――彼の譫言を耳にするまでは。
『……ごめんなアスティ、俺がぁ……俺が絶対、お前を助けるからぁ……だから……』
『あ……』
……何故だろう。悔しさと悲壮が滲むその言葉に、苦しそうに辛そうにそれでも愛おしげに呟くその名前に、ミロは思わず涙が零れそうになった。
今、自分が荷物を漁っているこの人物が、倒されると同時にアイテムを落としていくゲームキャラのようなどうでもいい存在ではなくて、温かな血の通った心ある一人の人間なのだという事実を遅れて思い知らされて、どうしようもなく縋りたくなってしまったのだ。
(だって、わたし……思ってしまったんです。この人ならきっと、わたしたちの事も助けてくれるかも知れないって……)
最初は全てを奪って見捨てようとした相手を、自分の益になりそうな相手だったから助けた。
なんて都合のいい話だろう。
それは最低の掌返しだ。
人の優しさに付け入りそれを利用する卑怯な行いだ。
最初から見返りを求めて行使される、打算のうえに成り立った欺瞞に満ちた嘘の善意。
それが醜い行いであると善良な少女は知っていた。それが酷い裏切りであると善良な少女は思っていた。
だからこそ、ディアベラスが少女の期待通りに優しく、自分達に親身になってくれる程にミロの心は罪悪感と自己嫌悪に苛まれ続けたのだ。
優しい言葉が辛かった。頭を撫でられると胸が痛んだ。感謝されるのが辛かった。
まだほんの少ししか話していないのに、もう耐えられない程に。
怖くて怖くてたまらなかった。
自分のついた一つの嘘が、目の前の優しい人の命を奪ってしまうなんて耐えられなかった。
自分のせいで、ディアベラスが本当に助けたいと思っている人を助ける事が出来なくなってしまう事が怖かった。
こんな事で自分のついた嘘が、その行いが帳消しになるとは思っていない。それでも、動かずにはいられなかった。少女の弱い心が、どうしようもなく許しを求めていた。
だから。
結局、ミロには一度ついた自分達の為の嘘を貫き通す覚悟すらなかったのだ。
「――わたしたちのおじ様をッ、虐めるなぁああああああああああああああああああああああッ!!」
胸を刺すその痛みに堪え切れずに、善良すぎた少女は自分のズルを吐き出すように正々堂々と真っ向から人類に厄災を齎すその女へと吠え猛っていた。
「ミロ!? なっ、お前ッ、何して――」
夜空に赤い花火があがり、両者の注意が上へとほんの僅かに引き寄せられたその瞬間。二人の間へ割り込むように飛び込み、神の力を解除。全力全開で叫ぶ。
急に目の前に現れ大声で叫んだ少女に、ディアベラスが驚嘆の声を上げエディエット=ル=ジャルジーの動きが僅かに停止。
でもそこまでだ。ディアベラスが殺されてしまうのを止めたい。自分のせいで彼が死んでしまうなんてそんなの嫌だ、怖い、認められない絶対に。
胸の内で弾けたそんな衝動に従って動いていた彼女に、そこから先どうすればいいかなんて何一つ頭にありはしない。
「あら、意外なお客様ね」
そして、そんな少女が決死の愚行で生み出したその間隙も一瞬で――不機嫌に鼻白んだエディエットの瞳に、変わらぬ殺意が瞬いた。
「……でも、愛よりも罪の意識。つまらないわ、邪魔な羽虫ね」
自分が殺される、そんな可能性を今更思い出して今まで以上の恐怖に顔を青くする少女は、どこまでも周回遅れだった。
感情的で無価値で無意味な蛮行。犬死に相応しい、あまりに愚かで浅慮な行いの終着点。
身の丈に合わない願望を抱いた愚者へ齎されるのはありきたりな末路。
「――じゃあ、一緒に殺してアゲルわ」
そうして、命を刈り取る斬閃が迅速に解き放たれた。
☆ ☆ ☆ ☆
一人の少女に齎される死という名の終幕を、ノーラはお腹の痛みを抱えながらぼうっと眺めていた。
(あ。……あのこ、しんじゃうね……)
幾度となく繰り返される生と死。
新たなる命を生み出す行いと、命を奪う行い。
この街で行われる一見相反するような一連の行いこそが人の営みそのもので、故に彼女はこの街で起こるその全てを掌握している。
それはこのラグニアという世界を構築したのが〝貧困に生ずる色欲〟ノーラだったからであり、『曖昧模糊』という彼女が常時発動しているスキルの齎す恩恵でもあった。
少なくとも、この魔力点に強引に介入してきた〝嫉妬に出ずる愛憎〟エディエット=ル=ジャルジーには出来ない芸当だろう。アレはアレでまた全く別の感知能力を有しているようだったが、どの道このラグニアにおける感知能力の高さならばノーラには遠く及ぶまい。
ラグニアは彼女の世界。
彼女の瞳に映った世界。
それが彼女に与えられた全て。
だから、瞳に映るその光景は、細胞に刻み込まれるようなレベルで見慣れてしまったいつもの退屈な日常の延長線上でしかなくて。
それなのに、どうしてだろう。
(……いたい)
ノーラの瞳に映る光景は、このラグニアにおいて当たり前に行われている行いだ。
人の命を奪う事は、それ自体が人の持つ機能である。
貧困に生ずる色欲が世界に齎すのは生の快楽。ならばその果てに待つのは死の終末に決まっているのに。
貧しきモノ、持たざる者が奪われるのは、失うのは当たり前なのだ。
だから貧しき身でも何かを得ようと、持たざる者でも何かを持とうと、唯一残った己の身一つを売りとばす。それに群がる欲望が、色欲がある限り、貧困に生ずる負の連鎖は終わらない。
弱いものを強いものが食い物にする世界は終わらない。
それが人。それが世界。それが弱者と強者の関係性。喰う者がいるのであれば、喰われるものは必ず存在する。ただそれだけの話。
ノーラはずっとそれを享受してきた。世界とは当たり前にそういうものなのだと知っていたから。その身で思い知っていたから。
なのに、そのノーラ自身が、どうして……
(……〝しんぞう〟が、いたい……)
痛い。痛い。痛い。
お腹でも頭でもない。脈打つ心臓が――いや違う。
心臓のもっと奥の奥、奥深く。
姿形のない、実体無きナニカがノーラの中で痛い痛いと泣いている。
(わからない……わたしには。ノーラには……ノーラがわからない)
ノーラにはこうなる前の記憶がない。
ずっとどこか、暗い地下のような場所にいた事だけを覚えている。そこから外に出ると既に自分はこうなっていて、やるべき事とやらねばならぬ事が決められていた。
でもノーラには分からないのだ。どうしてそれをやらなければならないのか、分からない。
ただ、頭の中には厄災の贈り物からの命令があって。
厄災の贈り物が何なのかも分からないのに、彼女の事を考えようとすると頭がモヤモヤしてお腹が気持ち悪くなる。それが嫌だったから、出来るだけこうなる前の事やパンドラの事は考えないようにしていた。
言われるがままに魔力点を支配し、厄災遊戯を実行して、自分が何者なのかもよく分からないままに厄災の贈り物に従っていた。
自我も自己も感情も希薄で、曖昧模糊とした厄災の少女。
愛を知らずに人に愛を問いかける色欲の徒。人の貧困と色欲が産み落とした悲劇と災厄。それが彼女を表す全てで、それだけで十分なハズだった。
けれど。
それでもどうしても一つだけ。
少女には気になって知りたくてどうしようもないモノがあったのだ。




