第一話 夏休みの安寧Ⅰ――日常を取り戻した少女
その光景を幾度となく少女は夢で見た。
脳裏にこびり付いた遠き日の中で、いつだって少女は怯えていた。
怯えて、怖がって、逃げて逃げて、ただ泣いているしかなかった。
泣き虫な少女には、運命を変える力どころか、それを憎もうと思うだけの強さもなかったから。
ひたすらに降りしきる雨の中、膝を抱えて俯いている事しかできなかった。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
夢の中、少女は何度もその言葉を口にする。
謝った程度で許される事ではない事くらい分かっている。
自分がした事が、彼の心にどれほどの傷を残したのか推し量る事もできない程に。
でも、けれど、あの時の少女に一体何が出来たというのだろうか。
弱虫で泣き虫な少女にできる事など、自分の愚かさと弱さを恥じて、こうして無様な泣き顔を晒しながら謝り続けるくらいしか無いと言うのに。
雨はやまない。
泣き続ける少女の背に、雨はいつまでもいつまでも冷たく降り続ける。
晴れない空を見上げる勇気なんて、泣き虫な少女は持っていなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
天界の箱庭は日本から比較的に近い、太平洋上に浮かぶ無人島を開発して造り上げられた、『神の能力者』と呼ばれる異能者達を保護、管理、研究している実験都市である。
どこの国家にも属さず、一般人の立ち入りは原則禁止。
街の住人の約九割が『神の力』という特殊な力をその身に宿している。
太平洋上に浮かぶこの島に、市や区などの、日本国が採用しているような区切りは存在しない。
島は五つのブロックに分けられ、さらにそのブロックごとに五つのエリアが存在する。
計五ブロック二五エリアからなる五角形のような形の島と周囲に浮かぶ五つの小さな群島。それらが『天界の箱庭』を構成している全てだ。
さて、計五つのブロックに分けられているこの街だが、わざわざ分ける以上、当然各ブロックごとに特色という物が存在する。
例えば、ここ『天界の箱庭』の『東ブロック』。
ここには図書館や博物館、それに様々な実験施設が軒を連ねている。
大学や病院もその多くがこのブロック内に存在しており、学問関連の設備の充実度は『天界の箱庭』随一。
まさに学問を司るブロックと言えるだろう。
特に中学、高校の集中する『北ブロック』と『東ブロック』との境目周辺には、子ども達が様々な事を学習できるようにと、たくさんの図書館や博物館が建っていた。
「はぁ。こんな日に見回りなんてツイてない……」
そんな北と東の境界線上に位置する博物館の一つ、『第三博物館』の警備員の一人中島祐平は警備用に支給されたライトを片手に溜め息をこぼした。
時刻は深夜二時。
閉館時間など、とうの昔に通り過ぎている。
人の気配を感じない館内は、暗く静まり返っている。光源は避難経路の案内板とその手に握ったライトくらいしかない。
耳に響く自分の足音だけが、馬鹿みたいに大きく聞こえていた。
「ちくしょう。今日は家に帰って、撮り溜めてた録画を消化する予定だったのに……」
普通、この時間まで館内に警備員が残ったりすることはまずないのだが、今日は事情が少し違った。
いや、今日というより、ここ最近はと言うべきだろうか。
「まったく、どこの誰だか知らないけど迷惑な話だよ」
『天界の箱庭』は『神の力』研究の分野だけでなく、あらゆる分野でトップクラスの技術力を持っている実験都市だ。
当然、警備も全て優秀な機械任せ。
人間の警備員など、その場にいるだけで実質的な仕事などほぼゼロに近い。
時々モニタールームを覗いて、休憩部屋で同僚とダベっているだけで勤務は終わりなのだから、これ以上楽な仕事もなかなか無い。
そのはずだったのだが……。
「博物館を狙った何者かによる襲撃事件。……超高性能のコンピュータ様の防犯システムを出し抜くような化け物相手に、俺みたいな一介の警備員が何をできるって言うんだか」
完全にサボり癖の付いている中島に、端からまじめに見回る気はないらしい。
暗闇の中、その手に握った携帯端末の光が中島の顔を照らしていた。
端末の画面には『天界の箱庭』専門のニュースサイトが表示されていて、『襲われる博物館! 新たなテロ活動か、犯人の狙いは一体……』という見出しの記事が載っていた。
ここ最近、この『東ブロック』で頻発している博物館を狙った破壊工作に関する記事だった。
強盗では無く破壊工作……というのも、犯人は博物館の扉などを破壊し中に侵入すると、中の物を壊すだけ壊して何も取らずに立ち去る為、そのような呼び方が広がっているらしい。
その上、壊す物は展示品以外の施設内の設備だけで、展示品には指一本触れた形跡すらないというのだから驚きだ。
『神狩り』も全く犯人の狙いが掴めずに、首を傾げているらしい。
「分かっている事は犯人が最新コンピューターのプログラム如きじゃビクともしないくらいの、かなり強力な『神の能力者』って事ぐらい……ね。はーあ、『神狩り』の連中も案外使えないねー。普通どの系統の力使ってるかくらいは分かるんじゃないの?」
愚痴やら文句やらをこぼしながら中島が向かう先は博物館の出入り口。
なにやら入り口付近に取り付けてある監視カメラの調子が悪いようなので、見回りのついでに調子を確かめようとしているのだ。
一応、研修の際に簡単な故障くらいなら直せるように指導を受けてはいる。
見るだけ見てみて、駄目なようなら業者にまかせるしかない。
中島は関係者以外立ち入り禁止のドアから外に出る。
外に出ると、うだるような熱気が中島の身体に纏わりついてくる。
夜とはいえ七月も終わりなのだから仕方がないと言えばそれまでなのだが、こうも暑いと作業をする気力まで汗と一緒に流れ出ていきそうだ。
中島は文句を言いつつも、立てかけておいた工具箱と脚立を持って、外の入り口辺りを監視する為に設置されている監視カメラのところへ向かった。
「……ん?」
件の監視カメラの足元まで来ると、なにやら焦げ臭い異臭が中島の鼻をついた。
嫌な臭いだ。
中島はまさかと思いながらも、立てかけた脚立をのぼってボルトを外して、監視カメラの内部を覗き込んだ。
「なんだこりゃ!?」
監視カメラの内部は焼け溶けており、焦げ臭い嫌な臭いを周囲に発していた。
基盤は焼けて溶け、配線は焼き切れてショートを起こしている。まるで強烈な光源――それこそ直接太陽光を受けて焼け溶けたみたいな有り様に、中島は頭を抱えた。
「あっちゃー。……ヒドいなこりゃ。もう完全にイカレちまってるよ。業者呼ぶしかないじゃん」
ブツブツと文句を言いながら、中島は面倒くさげに脚立と工具箱を抱え、再び関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアから館内に戻ろうとする。
中島がライトを口に咥えながら空いている方の手でドアノブを回し、ドアを開いた瞬間――何かが中島の顔の横を通り過ぎたような気がした。
「?」
その感覚に従い気配のした方を振り向くも、当然そこには誰もいない。
気のせいだったのか、と首を捻り、どこか納得のいかないまま、中島はドアを閉めカギをかけた。
「はぁ。まあいいや、さっさと見回りすませて寝たい……」
大きな欠伸をしながら伸びをする中島。
全体的に緊張感に欠けるが、この仕事に就いてからずっとこんな調子でやってきたので、この態度は直りそうも無い。
暗い廊下をしばらく進み、突き当りを曲がったりを繰り返していると、休憩室の扉が見えてくる。
部屋の中では、中島と交代で見回りをしている同僚が仮眠を取っているハズだ。
これでようやく一休みできる。そう思った中島の意識は、眠気とは違う理由で寸断されることになった。
「ッ!?」
強烈な光が、ある種の催眠効果のような物を伴って中島の頭に直接叩き込まれた。
意識が強制的に乖離させられるような感覚。
上下左右の感覚が無くなり、目の前の景色が粘土でできているみたいにぐにゃりと歪む。
中島だって一応は『神の能力者』の端くれだ。この異常事態が何者かによる『神の力』が原因で引き起こされているという事は理解できた。
助けを呼ばなくては、と曖昧になる意識の中でそう結論を出す。
廊下に倒れる直前、中島は緊急時に直接『神狩り』へと通報を入れる事のできる緊急連絡用ブザーの紐を引こうとして、しかし身体に全く力が入らない事に気がついた。
「な……ん」
紐を掴むこともできずに、若干埃っぽい床に中島は倒れた。
訳の分からないまま、中島の意識は闇の中に落ちていった。
彼の背後、ニヤリと笑う人影があった事に気が付く者などいなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
東条兄弟は住民たちから学生寮と皆から呼ばれているマンションに二人で暮らしていた。
家族で暮らす事を想定している為か比較的大きめな物件で、勇麻と勇火の二人が生活する分には十分なスペースがある。
もちろん自室は一つしかないが、ベッドとクローゼットに本棚まで完備されており一人でくつろぐには十分なスペースが確保されている、何の不自由もない快適な空間だった。
そう、以前まではそれで何の問題もなかったのだ。
……この家に彼女が住み着く以前までは。
本来であれば勇麻が眠るためのベッドが置かれているその部屋では、今現在一人の少女が安らかな寝息を立てて眠りについている。
腰まである透き通るように美しい白髪に、サファイアのような碧眼。
人形のような整った顔立ちに、雪のように綺麗な素肌を持つ、見た目小学生の天然記念物のようなその少女の名はアリシア。
とある戦いの末に、勇麻が得た一つの答えだ。
ちなみに少女に寝床を占領された勇麻は、流石に女の子と同じ部屋で寝る訳にはもいかず、おとなしくソファの上での睡眠を余儀なくされている。
ちなみに、兄の東条勇麻は大人げなく〝勇火のベッド〟の使用権をじゃんけんで決めるべきだと主張。粘りに粘った末に弟が折れ、じゃんけん大会が勃発した挙句、一〇回戦までもつれ込んだ末、サドンデスで東条勇火が勝利を収めている。
勇火は冷房の効いた部屋でふかふかベッドに毛布。
勇麻は狭いソファーの上で、夏用の薄いタオルケットにくるまり、ミノムシみたいになっていた。
夏場なのになぜ毛布やタオルケット? と思う方もいるかも知れないが、東条家は基本夏場はクーラーをつける派なので、毛布やタオルケットがないと肌寒かったりする。
「……んぐぁ、首。痛い」
ミノムシ状態の勇麻は、二人がけソファーの微妙な寝心地を前に、敷き布団の購入を少々真剣に考え始めていた。
変な態勢で寝る羽目になる為、首といい腰といい身体中が軋んで、とてもじゃないがまともに眠った気がしない。
寝ぼけ眼を擦りながら、勇麻は何故自分がこんな所で寝ているのか、という素朴な疑問に向き合う事になる。
どうしてこうなったのか。何故彼女が東条勇麻の自室ですーすーと気持ちよさげな寝息を立てて眠っている光景が当たり前になっているのか。
全ての始まりは、正式に『背神の騎士団』の一員になったアリシアに与えられた初任務が、『背神の騎士団の事を知り過ぎた東条勇麻達の監視』とかいう、明らかに私的な事情入り込みまくりの物だったのが原因だ。
任務とか言いながら、アリシアは全く勇麻達を監視している素振りはないし、そもそも任務事態を忘れているのではないだろうか。
とは言え、彼女のこれまでの人生を考えると、アリシアに楽しい時間を過ごさせてやる事こそが一番大切な事なのかもしれない。
そういう意味では、アリシアにこんなふざけた任務を言い渡した『背神の騎士団』の上の連中は色々と話の分かる良いヤツだ。
東条勇麻はアリシアが研究所の外に出て初めて仲良くなった人間の一人なのだから。
とはいえだ。そんな事情があるとはいえ、女の子の居候を養う事になってしまったのだが、果たしてこの状況はどうなのだろうか。
アリシアの居候が嫌な訳では無い。
アリシアと過ごす毎日は楽しいし、彼女の笑顔を見れる事が純粋に嬉しい。
だが一人の常識ある男の子として、女の子と一つ屋根の下は色々とアウトな気がする勇麻なのだった。
こう見えて一応思春期ボーイの東条勇麻は、女の子と同じ屋根の下というこの状況でまともな眠りにつける訳も無く。
「う、うう……身体バッキバキだ」
寝不足な眼を擦りながら東条勇麻の一日が始まるのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
夏休み、蝉の鳴き声が響き渡る『天界の箱庭』のとある学生寮……という名のマンションの一角から、蝉の鳴き声にも負けないくらいやかましい少年の叫び声が聞こえてくる。
「ば、ばかお前! アリシア! 洗濯機の中に洗剤丸々一箱突っ込む奴がいるかぁーっ!?」
ぶくぶくと口からあぶくを吹くカニのようになってしまった洗濯機を前にして、相変わらず表情一つ変えずに立ちつくすアリシアに、勇麻はそう叫んだ。
「む……勇麻。非常に残念なお知らせなのだが……どうやら手遅れのようなのだ」
「お知らせもクソもねぇよ! 見れば分かるわ! あと、その台詞を言ってもいい奴は、少なくともこの事態を引き起こした張本人のお前ではないっ! ていうか『天智の書』とかいう万能アイテムがありながら何故こんなことに!?」
「うむ。いつも『神器』の力に頼っていてはダメだと思ってな。ちょっと自力で頑張ってみたのだ」
「説明書も読まずにぶち込んだ、だと!? 確かに自分の力だけでやる事も大切だけど、なにもこんなところでそんなチャレンジ精神を発揮しなくてもよくないっ!?」
「何を言うのだ勇麻。チャンスの神様には前髪が無いのだぞ。必死で掴もうとしなければ、挑戦するチャンスすら得られないではないか」
「お前のチャンスの神様には前髪すら生えてないのかよ……。何、スキンヘッドが最近の流行?」
「ふむ。流れる髪すら無い癖に流行とはな……片腹痛いわ」
「痛いのはお前の頭だアリシア。上手い事言ったつもりなのか知らないが、そんなドヤ顔っぽくない顔でドヤるんじゃねえ。リアクションが取りずらいんだよ!」
ぎゃあぎゃあ騒ぎながら泡まみれになって、洗濯物とどっちが洗われているのか分からない状況になっている二人をよそに、ソファに寄り掛かった東条勇火は携帯端末の画面を睨みながら首を傾げていた。
「絶対におかしい……」
送信済みメールを表示する画面には、送ったメールに対する返事が返ってきたような痕跡はない。
それは、あの黒騎士との戦いから二週間が経った今でも返信がないという事実を端的に表していた。
返信がなければおかしいハズなのに、これだけの時間が経っても何の連絡もない。
勇火はどこか胸騒ぎのような、どこか落ち着かない感覚を覚えながらもそのままソファに沈み込んだ。
「絶対に何かある。じゃないと、メールが返ってこないなんて事にはまずならないハズだし」
勇火は黒騎士との戦いで、気を失う直前に最終手段としてある人物へメールを送信している。
それは、勇麻や勇火の知り合いの中でまず間違いなく最強の『とある人物』への助けを求めるメールだ。
その人物の特性上、勇麻がピンチになっていると知れば、すぐにでも駆けつけてくると思っていたのだが……。
メールで助けを求めた『とある人物』からの返信は、未だ返って来ていない。
その事実を勇麻は軽く考えているようだが、勇火にはとてもそうとは思えなかった。
「天風楓……」
勇火は不安の色をその瞳に灯しながら、呟いた。
「俺の杞憂ならそれでいいんだけど……」
黒騎士との戦いから二週間。
当たり前の日常を謳歌するアリシアの笑顔が、以前より柔らかくなったような気がする今日この頃だった。




