第三話 繰り返す醜悪愚行Ⅰ――崩れ、崩れ、崩れ。崩れて落ちて堕ちて
――末路は未だ定まらず、だがここに、航路は確定した。
人類は地上から消滅した。しかし、滅んだ訳ではない。
その全てが『儀式』を起動する為の餌として『魔力点』内部に取り込まれただけなのだとダニエラ=フィーゲルは言った。
スネークと『設定使い』によって齎された人類滅亡までの猶予期間はごく僅か。
だが、彼らはその身を賭して人類に託したのだ。希望ある結末を。
その願いを、その想いを、裏切り踏みにじる事だけはしたくないと彼らは吠えた。
何の奇跡か偶然か、地上に残された人類最後の逃亡者たち。
『逃亡者の尻尾号』に搭乗する二〇〇余名は、北極海ロシア連邦領ゼムリャ・ゲオルグに展開されている『魔力点』へと向かう。
『裁定』を齎す『儀式』を阻止し、囚われた人類を解放するべく『魔力点』へ介入し、これを破壊する為に。
これは紛れもなく世界を救う戦いだ。
けれど、世界を救うとか、人類の滅亡を阻止するとか、そんな大仰で重大な話は彼らにとってはきっと二の次で。
彼らは彼らの誇りに準ずるべく。自分達の大切なモノを失わない為に、最後まで迫りくる破滅と絶望から全速力で逃げ続けるのだろう。諦めなど知らない徹底抗戦で。
……ああ、自分も彼らの力になる事ができたならどれだけ良かっただろうか。世界の為に、大切な誰かの為に、拳を握って自らの力で戦う事が出来たら、どれだけ――
「――気持ち悪い……」
言葉は無意識に。けれど、確固たる確信を持って紡がれる。
あれから一端自室――意識のないままに寝かされていたベッドのある一人部屋に戻った勇麻は、己の右腕を見つめて、その表情を嫌悪に歪めていた。
――現在、『逃亡者の尻尾号』では多くの人間が二日後に決まった『魔力点』への突入に備え、様々な準備に奔走している。
急な決定ではあったものの、元より戦いの想定やある程度の準備はしていたのだろう。
慌ただしいというよりも、ダニエラの演説で高まった士気のまま、着々と目的に向けて行動する統一感とでも呼ぶべき高揚した空気が船内にはある。
本来であれば勇麻も彼らを手伝うべきなのだが、ディアベラス達に無理を言って一時的に手伝いの仕事を抜けさせて貰っていた。勇麻には一つ、どうしてもやらねばならない事があったからだ。
「……、行こうか」
臆病な己に言い聞かすように言って、ダニエラから教えて貰った部屋へとぼとぼと歩いて行く途中、廊下の壁に背中を預けて佇んでいる九ノ瀬和葉に気が付いた。
まるで、勇麻が此処を通ることを分かっていたみたいに――否、実際、彼女には分かっていたのだろう。深めに被った猫耳キャップ越しに覗く猫みたいにツンとした凛々しい青い瞳と目が合って、心配の色を浮かべるその目が全てを物語っていた。
和葉は、あくまでいつもの澄まし顔のままぽつりと。
「……勇気、貸したげるわ。一週間無料レンタル、延滞料は……そうね、百億円くらいでいいわ」
「太っ腹なんだか強欲なんだかよく分かんねえな……」
「だめじゃない東条くん、女の子に向かって太っ腹なんて言わないの。セクハラで訴えるわよ?」
「俺の方がお前にセクハラされた回数多いと思うけどな」
その物言いには流石に苦笑が零れた。
いつもの調子で軽口を叩き合いながら、隣を歩いてくれる和葉に、「……ありがとう」と。そう、勇麻は口の中で小さく呟く。
実際、一人であの部屋に入れるかと言われると、恥ずかしい話ながらあまり自信がなかったから。
「ふぅ……」
目的の部屋へ辿り着いた勇麻は、扉の前で一つ深呼吸。ドアノブにかけた震える手に、和葉が小さな手を無言で重ねてくる。
掌越しにじんわりと伝わる少女の体温を勇気に変えて、「ありがとう、もう。大丈夫」と今度はちゃんと言葉にして和葉に伝え、彼女の手が離れたのを確認してから自分一人の意志と力でその扉を開け放って――
「――お、ユウマじゃん! なんだよ、目ェ覚めたんなら教えてくれって母ちゃんに言ったのに!」
予期せぬ少女の歓声に、勇麻が目を見開く。
バタバタと慌ただしい足音と共に腰のあたりに衝撃――少女が抱き着いてきたのだと知る。眼下で輝くオレンジ髪と、乱暴な物言いとは裏腹なソプラノボイスには妙に覚えがあった。
「お前、ミランダか……!?」
「よっ、久しぶり!」
ニカッと、ミランダ=フィーゲルが太陽のような屈託ない笑みを弾けさせた。
かつてはボサボサだったオレンジ髪も、今はきちんと手入れをしているらしい。毛先はきちんと切り揃えられ、少女らしく健康的で艶もある。
一瞬ミランダだと分からなかったのは、以前の男だか女だか分からない野暮ったいフード姿ではなく、活発さと可愛らしさを兼ね備えたキャミソールとショートパンツの組み合わせだからだろうか。
「……姿が見えないからおかしいとは思ったけど、ここに居たんだな」
「ああ、母ちゃんに頼まれてさ。付きっきりで看病してたんだ。だいぶ元気になったんだぜ!?」
褒めてくれーとばかりに全力アピールしてくるミランダの頭をわしゃっと撫でてやってから、一度元気な少女から視線を切るように顔をあげる。
すると、ベッドに横たわる女性と目があった。
活発そうなショートヘアが特徴の少女だった。華奢で小柄かつ童顔であの言動なのでつい忘れそうになるが、勇麻よりも年上の女性だ。人懐っこい犬のように「後輩くんっ、後輩くんっ」と何度も声を掛けて貰った事を覚えている。
そして――彼女が「先輩」と。無邪気な子犬が尻尾を振るようにしてそう呼んでいたあの人を、どう思っていたのかも――
「やっほー、後輩くんっ。元気、してた?」
いつものように。
まるでいつもの日常を意図してなぞるかのように。
痛々しいまでの満面の笑みを浮かべ、ベッドの上からひらひらと手を振る戌亥紗が、かつてと何一つ変わらぬ調子で東条勇麻をそう呼んだのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
――これから少しこのお姉さんと大事な話があるから。
そんな勇麻の説明に少しだけ不服そうにしながらも、ミランダは和葉に連れられて大人しく部屋から出て行ってくれた。
正直ホッとする。ここで彼女にごねられて後日仕切り直し、なんて事になった日には、それこそもう一度彼女と顔を合わせようとする勇気をどこから持ってくればいいのか分からない。
今、この部屋にいるのは東条勇麻と戌亥紗の二人だけ。扉は閉まっている。ダニエラ達に事情は伝えてあるので、しばらくの間、この部屋に入ってくる者はいないだろう。
あとはタイミングを見計らって、勇麻が話を切り出すだけだ。
部屋を訪れる覚悟と勇気は借りた。だから、あともう一押しは自分で何とかするしかない。
そんな勇麻の内心などいざ知らず、ベッドのうえの戌亥は寝ている事に飽きたのか上体を起き上がらせて楽しそうに窓の外を指さしはしゃいでいる。
「ねえねえ知っているかい、後輩くん。ほら、窓の外、まだおやつ時だっていうのにすごいでしょー。こういうのね、極夜って言うんだよ。ねえ知ってた?」
ベッドのそば、カーテンの開け放たれた窓から入ってくる光は酷く頼りが無い。室内の明度を保っているのは、天井からぶらさがるガス灯めいた照明の放つ明かりだ。
「ほら、地球って傾いてるでしょ? 経度六六.六度が太陽の光が届く限界でー、それを越えちゃうような地域だと、日中でも太陽が沈み続ける現象が起きてしまうのだよ~。……ま、全部先輩の受け売りなんだけどね」
たははと頭を搔いて笑う戌亥。
窓の外に広がっている大空は、まるで世界の終わりのようにおどろおどろしい薄暗さに呑み込まれていた。……いや、実際に冗談でも何でもなくこの世界は終わりに瀕しているのだったか。
極夜と白夜くらい勇麻とて聞いたことはある。要するに地球の自転軸が公転軌道面に対して傾いている為に、季節によって一日中太陽の昇らない極夜と逆に一日中太陽の沈まない白夜が、北極圏や南極圏付近に作り上げられる訳だ。
ご覧のように、冬の北極圏は一日中太陽の昇らない極夜となる。感覚的に言えば夏の夜はじめの薄らとした暗さが昼間もずっと続く感じだろうか。
逃亡者の尻尾号の目的地はゼムリャ・ゲオルグの『魔力点』。勇麻の寝ていた部屋や機関室には窓がなかった為に気が付かなかったが、この船は既に北極海上空を飛んでいるのだ。
こうして窓から外を見やると、その事を改めて実感させられる。
太陽の昇らない空。
永久に続く夜。
昼間なのに外が暗いという、お祭り騒ぎ大好き野郎あたりがいれば隣で大騒ぎを始めそうな異様な景色。
普段なら勇麻でもテンションの一つや二つ上がりそうな空の異容が、今ばかりはどうしようもなく耐えがたい。
「……」
戌亥が黙ってしまうと、それだけで部屋に沈黙が戻ってくる。
心地のいい、とはお世辞にも言えない、重苦しさを感じる。
そう感じてしまうのは勇麻だけなのだろうか、それともいつも無邪気で天真爛漫な彼女も同じような重苦しさを感じているのだろうか……。
「やー、それにしても後輩くんが一緒で良かったよー。なんだか私たちが寝ている間に世界が大変な事になっちゃったらしいけど……とりあえずっ、こうして無事再会できて紗さんも嬉しいのだぜ……!」
「……そう、ですね」
「それにしても後輩くん、少し瘦せたかぁー? 全く、ちゃんとご飯は食べなきゃダメなんだぞ?」
「……はい、すみません……」
戌亥は、ベッドの上から勇麻の身体にペタペタと触れては先輩風を吹かせそんな事を言ってくる。
意味もなく近い距離感。無警戒でやたらと馴れ馴れしい態度も、その人懐っこい天真爛漫な明るさも、いつもと同じ。まるっきり、どこまでいってもいつも通りの戌亥紗その人で。
そのいつも通りが、どうしようもなく気持ち悪い。
「……そうだ! よしっ、ならこの紗さんが後輩くんに卵焼きを作ってあげよう! 食べ盛りはやっぱりモリモリ食べないとねー!」
「戌亥先輩」
「……ん、どしたの?」
起き上がれるまでに回復していたらしい、元気よくベッドから飛び降りる戌亥を咄嗟に引き留める。
ルンルンとした楽し気な足取りで厨房へと向かおうとするその背中に何を言えばいいのか。引き留めておいて、咄嗟に言うべき言葉が思いつかない。
何を言うべきか、何を言わなければいけないのか。本当は分かっている。だから、あとは覚悟と勇気の問題だ。
勇麻は数秒の葛藤の末、俯いたままどうにか絞り出すようにして、まるで血反吐を吐くように苦しげに、
「……俺、戌亥先輩に、話さなきゃ、言わなきゃならない事があって……それで、その――」
「――知ってる」
え、と。思わずそんな間抜けな声を漏らしていたかも知れない。
聞き間違えだと思った言葉は、しかし都合のいい幻聴である事を否定するように続く。
「知ってる、知ってるよ。後輩くんは先輩の……海音寺先輩のことを、話しに来てくれたんだよね?」
まるで人が変わったかのような落ち着いた穏やかな表情と声だった。けれど同時にとても悲しそうでもあって。
恐怖も悲しみも怒りも、そんなやるせない思い全てを包み込んで癒してしまう聖母が存在するのだとしたら、彼女のような人なのかも知れない。本気でそう思ってしまうくらいに、それはいっそ凄絶な抱擁だった。
「……でもね、大丈夫。辛い事、言わなくてもいいんだよ。……実は紗さんはですねー、あの時、全部見てたのですよ。確かに身体は動かなくて、声も出せなかったけど――ちゃんと、海音寺先輩のカッコイイ所、見てた」
あの時、戌亥はクライム=ロットハートの洗脳を受けて、虚ろな目をした操り人形のようになっていた。だが、意識と肉体の繋がりが遮断されているあの状態で、クライム=ロットハートはあえて彼女に正気を残していたのだろう。
全ては、彼女に目の前で最愛の人が死ぬ瞬間を見せつける為に。東条勇麻が海音寺流唯を殺すという最低の結末を叩き付ける為に。その反応を、心が壊れる様を、クライム=ロットハートは欲していたのだ。
ただそれだけの為に、悪辣なる男の最低の悪趣味によって、戌亥紗はその光景を見せつけられた。
それでも彼女の心は壊れなかった。
折れず、挫けず、曲がりもしなかった。
彼女の怒りは、憎悪は、東条勇麻に向けられることはない。だって、当たり前だ。そんな事、誰も望んでいない。海音寺は勿論、戌亥だって、悪意ある邪悪が誰であるかをはき違えるつもりはない。
――かっこよかった。
己が身を賭して後輩を庇い、人質となった戌亥の事も最後まで助けようと足掻いた海音寺流唯という男の最後の瞬間を、戌亥紗は胸を張ってそう評する。
クライム=ロットハートの思惑なぞに振り回されることなく、戌亥紗は戌亥紗であり続けた。彼女の美しい心は、その愛されるべき在り方は、彼の悪魔に犯されはしなかった。
それは、本来であれば喜ぶべき事であるハズなのに――その時、東条勇麻の胸に浮かんだ想いは、彼女の抱いたそれとは全く真逆のドス黒さを湛えていた。
――声が、震える。
「それなら……」
――全てを見ていたと、そう言うのなら。
「……見ていたのなら、どうして……」
海音寺流唯という男が――常に人としての正しさを忘れず、人を助け、勇麻を助け、楓を助け、オリンピアシスの全てを助けようとした、あの場で誰よりも正しくヒーローだったあの男が、一体誰のせいで死んでしまったのか。
それを、その目で確かに見ていたと言うのなら……ッ!
「……どうしてッ、俺を責めないんですかッ、戌亥先輩……ッ!!」
軋む程に拳を握って、口を突いて出たのは酷い八つ当たりだった。
――ああ、何という馬鹿げた話だ。ふざけた話だ。自分はどこまで人間のクズなのか、いい加減飽きの回ってきた自己嫌悪も、まだまだ足りなかったのだと思い知らされる。
責められるべき加害者であり咎人である東条勇麻が、東条勇麻を責める権利を有する被害者である戌亥紗に向かって真っ黒い怒りのままに声を荒げる。
酷い矛盾。酷い傲慢。酷い自己満足。
罵声を浴びせられない事に怒りを覚え怒声を上げるなどと、どこまで醜悪に狂えば気が済むのか。
それは、意味不明の義憤だった。許されざる怒りだった。抱くべきではない悲しみと後悔だった。
グツグツと心の中で煮えたぎるやるせない感情の全てを、東条勇麻は言葉の弾丸に込めて戌亥にぶつけている。
罪に罪を重ねる愚か者。己の感情を碌に制御できやしない子供の駄々に、しかし――それでも戌亥は声を荒げたりしなかった。
彼女は優しく、それでいて勇麻を真正面からその瞳で射抜いて断言する。
「責めないよ。私は、後輩くんを責めない。だって――」
愛おしい人を失ったのに。
東条勇麻が殺した瞬間を見ていたハズなのに。
憎き仇であるハズの少年を前にして、どうして彼女はこんなにも安らかで優しい微笑みを浮かべる事が出来るのか――
「――だって、後輩くんは私と海音寺先輩を助けてくれたんだもん。先輩、君に頼んでた。『僕と紗を助けてくれ』って。……へへん、どうだ! 紗さんはちゃんと、先輩の言葉を最後まで聞いていたんだから……!」
――東条勇麻には理解できない。
どこか得意げですらある戌亥紗のへにゃりとした微笑みが、今だけはどうしようもなく許せなくて、直視できなくて、心の柔らかい部分に爪を突き立て、血が噴き出すのも構わずに掻き毟りたくなる衝動に駆られる。
怒りが、怒りが、怒りが。もはや誰に向けた感情なのかも分からない沸々と煮えたぎるドス黒い激情が、身体の内側で満月の夜の狼のように暴れ狂う。右の拳が、東条勇麻の感情の揺れに呼応して狂い哭くようにどこまでもどこまでも白熱していく。
だから。
「……違うだろ」
――ああ、やめろ。
「……海音寺先輩を、戌亥先輩を助けた? 俺が……? ははっ、面白い冗談だな……本当に」
――違うだろ。そうじゃない。今すぐその口を閉じろ。本当は……東条勇麻は本当は戌亥紗にそんな事が言いたかった訳じゃ――
「――綺麗ごと言うなよ。俺がッ、俺がこの手で海音寺流唯を殺したんだよッ!!」
殺意さえ滲むその絶叫に、戌亥の華奢な肩が怯えるように震えた。
――越えた。越えてしまった。致命的なラインを、破壊した。
それは、東条勇麻が自らの意志で、自らの選択で、もう後戻りなど出来ないくらいに戌亥紗という大好きな先輩の心を踏みにじってしまった瞬間だった。
ずきんっ。心臓を鷲掴みにされて、五寸釘を突き入れるような痛みが走った。無視する。手遅れだ。もうこの絶叫は止まれない。
ブレーキを失った暴走列車は、どこまでもどこまでも、己の破滅が訪れるまで永遠に進み続ける。確かに己の身を慮ってくれた人の心を蔑ろにして、全てを台無しにしながら。
……両目から滂沱と溢れてくる涙が、言葉とは裏腹に己の身の潔白を証明しようとする被害者気取りの言い訳みたいで気持ち悪かった。
「殺したんだ。俺が、先輩を、この手でッ! あの人の胸に氷の刃を突き立てたのは俺だ。残ってるんだよ、感触が……! 肉を突き破る刃の鋭さがッ、腕の中で徐々に凍り付いてく先輩の吐く息の冷たさもッ! 全てが砕け散った瞬間、俺は……美しいって、そう思っちまったんだッッ!」
滲む殺意の行く末は当然自分自身。大切な人が目の前で死に行こうとしているのに馬鹿みたいに眺めている事しか出来なかった、無力で無能で愚かな自分が、東条勇麻は許せない。
救えなければ救われない憐れな咎人は、己の為に他者を救う傲慢な正義を振るい続けた英雄の紛い物は、その拳の意味を失った。救えず、守れず、届かず。大切な人の血で染まったこの右手は、最早東条勇麻の醜悪の権化だ。
……ああ、それにしても。東条勇麻が積み重ねてきたと思っていた全て、此処に至るまでの道のりの何もかもが他者からの借り物を我が物顔で誇るような、吐き気のする虚栄に満ちた紛い物でしかなかったのだという事実が他の何よりも一番笑えてしまって――
「――気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……! 全部、全部覚えている! この手は、……俺のこの右手は人殺しの手なんだよッッ!!」
……オカシイんだ。オカシくてオカシクて、ワラッテしまう。
自然、歪な壊れた笑みが浮かぶ。口元をヘラヘラと気味悪く歪めながらも、涙を流すその目は殺意と憎悪に狂い哭いている。
――結局、その否定は誰の為の否定だったのだろうか。
全てを否定し拒絶し想いを踏みにじって滅茶苦茶にする昏い悦びが、一生懸命組み立てた積み木の城をひと思いに破壊するような歪んだ悦楽が、沈んだ心を愛撫するように這いまわる。
「……俺は、アンタらを助けたんじゃない。断じて違う。だって俺は、目の前にいたあの人を助けられなかったんだから……っ!」
少なくとも、それは戌亥紗や海音寺流唯の為にあげた咆哮ではなかった。
歪む戌亥の表情に己の心を何度も斬り刻まれ真っ赤な血を流しながら、それだけは確信する。
「……間違っていた。俺も、海音寺先輩も。あの人の代わりに、俺が死ぬべきだったッ。あの人は、俺を助けるべきじゃなかったんだ。この右腕に踊らされるだけで、どこまでも空っぽな俺が、海音寺先輩の代わりに死んでいれば――」
――パンッ!
と、鼓膜を直接打ち据えるような、甲高い音が左側で炸裂した。
キーンと、響く耳鳴りに、地面が歪む錯覚を得る。驚愕と共にあげた視線の先、平手の形にした掌を全力で振り抜いた態勢で固まる戌亥紗と、視線が合った。
いつだって天真爛漫で笑顔を絶やす事のなかった先輩の瞳には、海音寺の最後を話していた時にだって浮かんでいなかった雫が溢れんばかりに溜まっていた。
ズキンッ、と。再び胸部に激痛、今更のように後悔としか呼べない苦痛の感情が強く湧き上がってきて、
「……じゃない」
ぼそり、と。小さく唇を震わせる戌亥の声は、酷く震えていた。そうして直後、少女の感情は臨界を突破し爆発する。
「……先輩は、海音寺流唯はッ、そんな事を後輩くんに言わせたくて、君を守った訳じゃないよ……ッ! どうして……? どうして分からないの!? 分かってくれないのッ! 先輩は君を『愛してる』って、そう言ったんだよ? なんで届いていないんだッ。あの人の最後の言葉を、よりにもよって後輩くんが、どうして……!」
滂沱と涙をこぼしながら、きっと彼女は怒っていたのだろう。悲しんでいたのだろう。悔しがっていたのだろう。嘆いていたのだろう。
海音寺流唯という大好きな人が死んでしまった事。
そして、それと同じくらいに、彼の想いが目の前の愚かな少年に届いていない事に。それがひたすらに無念で、やるせなくて、彼女は子供のように涙を流すのだ。
東条勇麻のように自分の為に流す涙ではない、人の為に流す涙の温かさが、あまりにも眩しすぎて。
「俺は……」
もう、見ていられなかったから。
戌亥紗の、海音寺流唯という男を愛していた女の叫びを、その感情を真正面からぶつけられて。それでも東条勇麻は。
変わらず、変われず。その光りを拒むように目を伏せて、自らを気持ち悪い偽物だと否定し続けた。
「……俺は、あの人からそんな言葉を掛けて貰えるような……、そんな、価値ある存在じゃ、なかったんです。……ごめんなさいッ」
「後輩くんっ、待っ――」
伸ばされた手も、零れる涙も、悲痛な叫びも、全てが心を切り裂いた。
だから、その部屋から一心不乱に飛び出した。
もう、あの空間にはいられない。彼女にこの顔を見せてはいけない。そう思ったから。
☆ ☆ ☆ ☆
誰もいなくなった病室は、窓から差し込む薄暗闇に呑み込まれてしまいそうだった。
静寂を汚すような、嗚咽だけが反響する。
「……後輩くんの馬鹿っ、分からず屋。独りで勝手に、思い上がらないでよッ……たし、だって……私、だってッ!」
ドン! その部屋の主の普段からは想像もできないような壁を殴りつける鈍い音。
「……私だってッ、私が許せないよぉおお……っ! でも、それでも私は……!」
――あの人が悲しむような顔は、もう見たくなかったんだ……!
気丈に振る舞っていた矮躯が崩れ落ちる。ベッドに顔を埋めた少女の慟哭は、柔らかい毛布に掻き消され、誰にも届くことはなかった。
本当に届いて欲しかった誰かは、あまりにも遠く……。
☆ ☆ ☆ ☆
結局、東条勇麻は逃げ出したのだ。
目の前の少女と、死んでしまった海音寺。二人と向き合おうともせずに己の殻に閉じこもり、目を閉じ、耳を塞いで。
ただ自分という最低最悪の紛い物の存在を呪い続けながら、東条勇麻は独り、自ら深淵へと堕ちていく。
☆ ☆ ☆ ☆
扉を閉じて、カーテンを閉め切り、電気を消した。完全に明かりを消去した暗い部屋の隅に頭を抱えて座り込み、湧き上がる吐き気と格闘し続ける時間がいくらか続き、意識が闇と混ざりはじめ自分という存在すらも渾然となり始めた頃。
勇麻を現実に引き戻すように、部屋の扉をノックする音がした。
次に響くのは、彼女にしては珍しい遠慮がちな声。
「……東条くん。入っても、いい……?」
「……」
無言を拒絶ではなく肯定と捉えたのだろう。ゆっくり、恐る恐ると言った調子で九ノ瀬和葉が部屋に入ってくる。
扉が開いて光が差しこみ、暗闇が照らされる。
少女は部屋の暗さに一瞬驚いたようだったが、すぐさま平静を取りつくろうと、東条勇麻の姿を部屋の隅にみとめて、
「……もう、なんてとこ座っているのよ。あなた、一応は病み上がりなんだから、休むならちゃんとベッドで休まなきゃだめじゃない」
すぐに近寄ってまるで母か姉のような言葉を掛け「ほら」と、勇麻を引っ張り起こそうと手を差し述べてくる。
そんな和葉に、勇麻は座り込んだまま苦笑を零した。
「……そういや、和葉が俺を助けてくれたんだってな」
「え、」
勇麻と紗の会話の結果を何となく察していたのだろう。
予想していなかった勇麻の反応に戸惑い、和葉はうまく言葉を返す事ができなかった。
なおも勇麻は、過去の出来事を懐かしむような、いっそ楽しげでさえある声色で。
「ほんと、お前にはいつも助けられてるよな。未知の楽園で和葉に出会ってなかったら、俺は今ここにいないんだろうな……」
「……ええ、そうよ。まったく、東条くんったら私がいないとダメだなんて情けない人ね。そんなに感謝したいって言うなら、別にいいわよ。存分に感謝されてあげる。具体的には……そうね、ハグか頭ナデナデをされてあげてもいいわ」
勇麻のそれはおそらく空元気なのだろうと、和葉は思った。
だが、それは決して必ずしも悪い事ではないハズだ。勇麻は勇麻なりに、気持ちを切り替えようとしているのだろう。そう考えた和葉は一転、わざといつもの調子でふふんっと得意げに平らな胸を張り、そんな要求をする。
……実は、暴走する楓との決戦直前、和葉は勇麻に後でご褒美を要求すると宣言をしていたりするのだ。勇麻に思い当たる節があれば拒否されないだろうし、拒否されたとしてもご褒美の件を前面に押し出せば、このお人好しは和葉の要求を回避できないだろう。
そんな打算の裏にあるのは、東条勇麻をどうにかして元気づけられないかという慈愛や情愛。かつての彼女ならば決して持ち得なかった個人の損得勘定を越えた他者への思いやりだ。
「……なあ、和葉」
しかし、そんな彼女の勇麻への温かな想いは――
「――で、……たんだ?」
――目を閉じ、耳を塞いで、全てを拒んでしまった少年の心には届かない。
「……え?」
聞き間違いだと、そう信じたかった少女の鼓膜を、
「なんで、助けたんだ?」
再度少年の言葉が無慈悲に射抜いた。
「なんでって……なに? え? ……ごめんなさい。ちょっと、言ってる意味が、よく分からないのだけど……」
会話の流れを無視したような言葉の意味が分からず、困ったように眉根を下げる和葉。差し伸べた手が迷子のように行き場を失い、少女の心の動揺を表すように宙ぶらりんに揺れている。
しかしそんな和葉の困惑と混乱をよそに、依然として勇麻は座り込み俯いたまま、その表情に薄ら笑いを貼り付け続けている。
「……俺の右腕さ、『勇気の拳』って力が宿ってるの、知ってるよな」
勇麻の問いかけに頷く声はない。先ほど同様、あまりに唐突な話題転換、そして、どこか破滅的な響きを伴う勇麻の不自然に明るい口調に、和葉はどう対応すべきか分からない。ただ訝しむように眉を潜めているだけだ。
情報屋である九ノ瀬和葉の直感は、悪寒めいた嫌な予兆を感じ取っていた。
東条勇麻の事を調べていた和葉は知っているのだ。東条勇麻が普通の〝人間〟である事を。
そして勇気の拳などという力が人間の少年の右腕に宿っている事の異常性にも気づいている。
何故ただの人間であったはずの東条勇麻がその右腕に力を得たのか。誰もが語ろうとしない八月三十一日にこそ、真実が隠されているハズだ。そこまでたどり着いた情報屋の勘が、少年の様子から敏感に凶兆を感じ取る。
……東条勇麻は自身が人間である事を知らない。少なくとも、和葉が調査をしていた時点ではそのハズだった。
だが。もし、もし仮に。
九ノ瀬和葉でも届かなかった真実に、何かしらの弾みで東条勇麻が辿り着いてしまったのだとしたら?
もしそれが、最悪の形で東条勇麻の心を破壊するようなモノだったとしたら?
……『再臨』を経た事で、何が起こるのかは和葉にも全く分からない。表に龍也が出ている間、勇麻がどのような状態でどこにいるのかも。それはこの世界で当人たちにしか分からない事だろう。
そこで少年の心が砕けるような真実に触れてしまっている可能性を、情報屋の九ノ瀬和葉は絶対に否定する事が出来ない。
そんな少女の怖れを、怯えを、肯定するかのように眼前の勇麻の口元は歪に歪んでいる。
だから、この先の言葉を彼に言わせてはいけない。そう思い、何か少年を繋ぎとめられる言葉を必死に模索して――
「――やっとさ、信じられるかも知れないって思ったんだ」
それは希望に満ちた、穏やかで軽やかな声だった。
東条勇麻は右手を顔の位置まで持ち上げて、懐かしい思い出の品を眺めるように目を細めながら、
「愚かで傲慢で利己的で、自分を救う為に誰かを救い続けるようなこんな歪な我儘でも。それでも確かに救えた命があったんだ。誰かを助ける事が出来たんだ。間違いだらけの歩みの中で、それでもこの拳を握って戦ってきたことは無駄じゃ無かった。歩いてきたこの道のりには、そんな確かな積み重ねがあったんだよ」
紛い物なのだと、単なる代役でしかないと、理解していた。
醜いエゴの塊である事など自覚していた。
己を己で認め、護る為に、守られるべきだと決めつけた少女達に執着して依存している事も。
彼女達を、自分本位なエゴの押し付けで傷つけ続けた事も。
誰よりも自分で自分を信じられない弱虫で臆病な自分自身も。
己の醜悪さと弱さの悉くを認めていた。
でも、そんなどうしようもない自分でも、確かに胸を張れるものがあったのだ。
例え醜いエゴの押し付けであろうと、醜悪な我儘の具現であろうと、勇麻の拳は確かに悪と呼ばれる存在を打ち破り、虐げられる弱者を救ってきた。
動機はともあれ、この手が掴んだ命という結果は確かにそこにあった。
己の力で確かに紡いだ奇跡のような糸があって、このオリンピアシスで東条勇麻を助けようとする全てが、勇麻の歩んだ道のりそのものだったから。
だから、自分の歩みを肯定して貰ったような気がしていたのだ。
「……そうだ。だから俺は、俺を信じられるかもしれないって、確かにそう思ったんだ」
紛い物の英雄として歩んだ間違いだらけの道にも、確かに意味はあったのだと、そんな確かな証明がなされたのだと。
愚かにも。そう、思い込んでしまった。
「……でも、違った。俺は積み重ねた気になってただけだ。俺が歩んできたと思った道のりは、俺自身の道ですらなかった」
「……東条くん? あなた、さっきから何を――」
「――この勇気の拳はさ、俺の力じゃなかった。龍也にぃ……南雲龍也の力だったんだ」
勇麻は掲げた右手の感触を確かめるように開閉しながら、壊れたような笑みを漏らし始める。
「ふっ、はは、……あははは! あはははは!! ……あー、笑えるよなぁ、ホントにさ。おかしいよなぁ、なんでこんなに笑えるんだろうなぁ……はは、あははははッ!?」
あまりにも軽い。吹けば空の彼方まで飛んでいってしまいそうな、そんな中身のない空虚の笑みだ。
「……俺だってさ、思うことはあったんだよ。例え紛い物でも、ただの代役に過ぎなくても、龍也にぃみたいに完璧には出来なくても、それでも少しはヒーローみたいになれたのかなって」
そんな事はないと、そう否定するべきだ。
全てが嘘だったなんて、そんな訳がないと。
なのに、まるで金縛りにでもあったように、和葉は何も言えない。口を開くが出来ない。
それほどまでに、今対峙する少年から零れる圧は、暗く淀み精神をやすり掛けするような異様な重量があった。
「守りたいと思えるモノがあったから、だから偽物なりに頑張った。辛いことも苦しいことも沢山あったし、いつだって誰かの力を借りながらだったけど……でも、それでもこの右手で誰かを守れた、救えた、そう思える事だって確かにあったんだ」
東条勇麻は紛い物だ。誰かの代役、英雄の代替品に過ぎない。
そんな事は全て理解したうえで、それでも、嬉しかったのだ。
感謝の言葉が。
涙の止む瞬間と、はじけた笑顔の輝きが。
絶望が希望へと変わる瞬間が。
人々の温かさに、その輝きに触れる刹那が。
守りたかった世界を、救いたかった人たちを、確かにこの手で守り、救うことが出来たのだと。
例えこの拳に宿るものが傲慢で利己的で醜いエゴに塗れた我儘だったとしても。
例え自分が決して主人公足りえない誰かの代替品で、決して本物には成りえない紛い物の英雄なのだとしても。
確かにそう思える事はあったのだ。
なのに。
「全部……全部全部全部ッ、龍也にぃの力だったッ! 俺じゃない、皆を守ったのは、誰かを救ったのは、龍也にぃと、龍也にぃの勇気の拳だ。東条勇麻は何の結果も掴んじゃいなかった……! 皆を救ったのは、俺じゃなかった! ……勘違いも甚だしい、俺は何もかもを自分の手で成し遂げた気になってただけだッ!」
世界を救った勇者を差し置いて、パーティーの後ろにくっついてただけの役職もないモブキャラが、我が物顔で勇者の武勇を自らのモノと騙るようなものだ。
滑稽で醜悪な虎の威を借りる狐。
紛い物の英雄ですらない、存在そのものが偽りの虚像。
東条勇麻の人生に意味などない。だってそれすら紛い物。この身が歩いたこの道は、南雲龍也の延長線。そこに東条勇麻が介在する価値はない。
この身は器で、この魂には意味はない。
「……結局、何だったんだよ、東条勇麻って。ただの人間のくせに神の能力者のフリをして、成れもしない英雄の紛い物を演じ続けて、他人の力で手にした結果で調子に乗って、挙句その偽の皮を被った中身には本物の英雄が入っていて、このガワは『再臨』の為の器でしかなかった? ……はは、あははは!! なあ、馬鹿みたいだろォ!? 今までうじうじ悩んでたのが全部!!」
「……違う。――違うわッ! 東条くん、あなたは間違っているッ、何もかもが嘘だったなんて、そんなことない! ――その右手に宿った力は、確かに借り物の力だったのかもしれない。でも、だからって全てが偽物だってなんて、そんな訳ないじゃない!」
勇麻の叫びにようやく少女の凍てついた身体が動いた。
ふざけた言い分だ、和葉は迷うことなくそう思いそう断じようとした。
確かに東条勇麻は単なる人間で、その右の拳に『勇気の拳』が宿るのは本来であればあり得ない事だった。
それが南雲龍也から貸し与えられた力だというのは、きっと事実なのだろう。
だが、だからと言って、ただそれだけの事で東条勇麻のこれまでの歩み全てを否定してしまうなんて馬鹿げているにも程がある。
例えその力が自分のものでなかろうと、それでも自分を救ってくれたのは、九ノ瀬和葉を変えたのは東条勇麻その人だ。
だから、否定させる訳にはいかない。例え勇麻本人であろうとも、この胸に温かさを刻んだ東条勇麻を否定する事は、あの出会いを無価値と罵られる事は絶対に絶対に死んでも許せない――
だが、そんな和葉の主張は、
「……力は偽物でも想いは本物だとでも言うかよ。じゃあ、俺の想いが龍也にぃに操られていなかったって、証明できるのか? 作り物の贋作じゃないって、言い切れるのかよ」
――底冷えする視線に射すくめられ、喉が凍り付いた。
勇麻の右手に宿っていたのは勇気の拳だけではない。
それはあくまで副産物。そこには南雲龍也自身の魂や人格を籠めた『知恵の実』が収められていた。
『再臨』によって勇麻は『知恵の実』に残された南雲の人格に主格を乗っ取られ、肉体の制御を完全に奪われた。
不要な旧人格として、完璧ではないものの一度は削除もされた。
そんな状態にあった東条勇麻が、右腕にずっと潜んでいた南雲龍也にその意識や想いや行動を操作されていなかったなどと、南雲龍也に都合がいいように誘導される傀儡ではなかったと、一体誰が証明できる?
むしろ、なんの力もなかった東条勇麻を内側から彼の最強の英雄が操っていたと考えた方が自然なのだ。
そんなでもなければ、神の能力者ですらないただの人間が神の子供達と対峙してそう何度も生き残れるとは思えない。
「それ、は……」
「……何なんだよ、東条勇麻なんてどこにいるってんだよ。東条勇麻って、誰なんだよ。全部全部全部ッ、何もかもが偽物だったのにッ!」
東条勇麻は壊れてしまった。自分という存在の根底が揺らぎ、信じ縋るべき拠り所を失った。ここまでの全てを失った。これまでの人生を失った。東条勇麻を支えている全てが、今の少年の瞳には嘘にしか見えない。
だから、九ノ瀬和葉の声は届かない。
「……東条くん、あなたは――ッ」
「――なんで俺なんかを助けたんだよッ!」
和葉の反論を聞こうともせず、被せるように叫んで封じ込める。それは最悪の悪手。東条勇麻はまたも、自ら致命的なラインを踏み越えた。学習もなにもない。これならまだ猿の方が利口だ。自分でもそう思う。
本当に意味が分からない意味が分からなくて生きている意味が分からないから笑えてくる。
自分でも自分が何をしたいのか、何を言いたかったのか、もう分からないのだ。自分自身を理解することすら拒んだ少年が、他者と向き合うことなど出来る訳がなかった。
だから、その先にあるのは悲劇だけだ。理解を拒み全てを拒絶し閉じこもる、絶望と離別の地獄だけだ。
最低最悪の醜悪な言葉が、自分ごと周囲を傷つけ悦に浸るだけの自己満足な暴言が、少年の口から呪いのように世界へ流れ出す。
「……意味、ねえだろ。お前らが期待してるこの力だって、龍也にぃの力なんだ。だったらもう全部あの英雄に任せとけばいいだろ。俺なんかが居たところで、なにも――」
目を閉じ、耳を塞ぎ、己の殻に閉じこもった少年は、故に気づくのが遅れた。
この息が詰まる空間に無遠慮に踏み込んできた侵入者の存在に。
――ゴッッ!!
顔面が弾け飛んだのかと錯覚する痛みが炸裂すると同時、背中を預けていた部屋の壁をぶち破り東条勇麻の身体は吹き飛ばされるように隣の部屋に転がり込んでいた。
そのままぶちぬいたのと反対側の壁に衝突してようやく勢いが止まったかと思うと、追撃を掛けてきた侵入者に胸倉を強引に掴みあげられる。
「――ぐあっ……ァ、がああああっ!? ――ッ、はァっ、げほごほ……っ!?」
気を失わなかったのが異常。もはや五体満足で生きているのが不思議なくらいの五体を引き裂く壮絶な痛みに喘ぎながら、未だに感覚そのものがない顔をあげ瞼を開けた。
痛みのショックで光りが弾け、何も見えない視界が回復する前に聴覚が回復。
聞き覚えのある声が、勇麻の耳に飛び込んで来る。
「――ああ、確かに旦那の言う通りだな。今のアンタ、邪魔だ。折角これから楽しいって時に空気が腐る。この船にいらねえよ」
吐き捨てると同時、ゴミでも投げ捨てるように胸倉から手を放されて――地面へ落下する前、宙に浮かぶ東条勇麻の顔面を、力強い踏み込みと共にモーニングスターの一撃にも思える威力の剛拳が打ち抜いていた。
「がぁッ、ぐあああああああああああああああ――ッ!!?」
頬骨が砕け、顔に風穴が空いたと思う程の痛み。自然と涙が弾けるような激痛に、頭が白濁し、意識が激しく明滅する。
だが――東条勇麻はこの感覚を知っている。不意打ち気味の一撃目は想定外の衝撃に意識を消し飛ばされかけたが、来ると分かっていれば心構えが出来る。正気のままに耐える事は可能だ。
燃えるように顔中に広がる痛みを、歯を食いしばる事で発生する激痛で上書きして意識を無理やり鮮明に保ちながら、どうにか起き上がった東条勇麻は回復した視界に捉えた襲撃者の名を怨嗟に叫ぶ。
「っ――ばッ! はぁ、ぜぇ……はぁっ、……お、前…………九ノ瀬、拳勝……ッ!!」
九ノ瀬和葉の義理の兄にして、自分を含めた周囲の人間の痛覚を引き上げる『痛みの王』をその身に宿した戦闘狂が、くだらない路傍の有象無象を見るような冷たい瞳をこちらに向けていた。




