夢行燈(表)
――意識が沈んでいく。
それは、摩訶不思議な感覚だった。
(これは、なにが……)
身体が動かない。……否、己の意志で動かせる肉体というモノを、今の少年は所持していない。
ただ、確かに己の『容れ物』だったはずの肉体の中へ、裏返るように沈む己の意識と。そんな自分と入れ替わるように表に浮上する存在があったこと。
それが現実である事を少年はその身で実感し理解していた。
(……あぁ、そうか。やっぱり、龍也にぃ、か……)
細かい事情は分からない。理屈も。方法も。けれど、確信がある。説明などされずとも、この身に何が起きたのか、大まかな事情を察している。
ずっと自分の中にナニカがいるような感覚はあった。
声が響くことは、確かにあったのだ。夢か幻聴の類だと思っていたそれは、そう……やはり彼の声だったのだろう。ぼんやりと、回らない頭でそんな事を考える。
自分の肉体が、自分ではない他者の意志に従って動く様を、自分の中から眺めている――まるで三人称視点のアクションゲームのキャラにでもなったかのような、不思議な感覚。
……だが、それにしても自分は今どこにいるのだろうと。現実逃避気味にそんな事を思った。
自分の身体の中にいる事は間違いないが――かと言って己の〝意識〟やら〝魂〟やら〝心〟なんて曖昧なものが今どこにあるのか、少年には分からない。……いや、本来であれば頭や脳という回答が正しいのかも知れないが、肉体の主導権を奪われた今、自分のそれらが本来の正しい位置にあるとは到底思えなかったのだ。
――少年の知る由もない事だが、この時、〝彼〟は右腕に根付いた『■■■■』内部の『空き領域』に『削除データ』として一時的に収納され、半覚醒状態にあり夢と現を彷徨っているような状態にあった。
完全削除するには時間が足らず、一時的に抹消を保留されて体内に留まった少年の魂。それが南雲龍也の人格……魂と、一つの肉体を共有している今の状態。
少年にとって、それは異常なことでも何でも無かった。だって、彼は自分自身でも気が付かぬうちにずっとそういう在り方を、生き方をしてきたのだから。
だが、それを明確に意識したのは初めてだった。
……だからだろうか。少年は現実での己――南雲龍也の行動を眺める一方で、その意識の半分を『夢』の世界へと取り込まれつつあって――
――ザ、ジザッ! ガ、がザザザッ、ジザザザザザザザザザザザッザザザザッザザザザザザザザざざ……ざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざざっざざざざざざっっっっっ……!!!!!
意識が何かに接続された。
――九年前の八月三十一日。
その数字は、東条勇麻にとって特別な意味合いを持つ。
それは、忘れてはならない日。忘れることなどできない日。
東条勇麻の胸の奥深くに呪いのように刻み込まれた、憧憬の終わりにして終わることない贖罪の始まりの日だ。
人生の転換点にして、帰還不能点。……そう、この日を境にして、東条勇麻という少年の歩む道は決定づけられた。もう、以前の自分には戻れなくなる程に、その運命が変わったと言える瞬間。
主人公でも何でもない平凡で凡庸な端役の少年が、何かの手違いで、いなくなってしまった主人公の代役を担う事になってしまった日。
紛い物としてのスタートライン。
今ある東条勇麻という人間を形作った一つの原風景。
だから忘れる事などあり得ない。あってはならないハズなのに――その記憶は、靄が掛かったかのように欠落していて――
(――ここは……)
気が付けば東条勇麻は、天界の箱庭北ブロック、第五エリアの住宅街にぽつりと立っていた。
鮮やかな茜色の夕焼けが寂寥感を加速させる。買い物帰りの主婦が子供の手を引いていく、そんな学生区ではかなり珍しいこの光景は、今が学校のない長期休暇中である事を示している。
夏休みや冬休みなどを利用して天界の箱庭に預けている子供の様子を泊りがけで見に来る親の姿は、数こそ多くはないものの、この街のある種の風物詩でもあるのだ。
……だがそんな微笑ましい親子の団欒も、おそらくそう長くは続かないのだろう。何処からともなく響き渡るツクツクボウシの大合唱が、夏休みという非日常の終わりを歌い、明日からまたいつも通りの平凡な日常が始まる事を予感させていた。
夏休み最終日。
今日が九年前の八月三十一日である事を、立ち尽くす東条勇麻は直感的に理解していた。
そして――己という存在がこの世界にとっての異分子である事にも気づいていた。
勇麻はまるで幽霊かなにかのように色彩を失いモノクロ調に。そしてその身体は薄ぼんやりと透けていて、向こう側の景色が見えてしまっているのだ。
思わず翳した半透明の灰色じみた掌越しに、沈みかけの太陽の茜色が眩しい。するとそこに、どこか見覚えのある後ろ姿を見つけた。
(……あれは、俺か……?)
夕暮れ空の下を歩く子供の姿に、酷い既視感を感じて眉を潜める。
大股でその背中を追いかけ、隣に並ぶ。子供がこちらの存在に気付く様子はなかった。おそらく、この世界の人間から勇麻の姿は見えていないのだろう。
恐る恐るその横顔を覗き込むと、今にも泣き出しそうな爆発寸前の表情をした少年が、口を一文字に引き結んでズンズンと感情を地面にぶつけるような激しい足取りで歩いていた。
……思い出した。この日、勇麻は一人でとある公園へと向かう道のりを歩いていたのだ。
いつもの一緒に遊んでいる仲良しメンツは一緒ではない。
泉も、楓も、勇火もここにはいなかった。そして、勇麻が独りぼっちで歩いている理由それ自体は実に単純だったハズだ。
……そう、確かこの日は、泉とくだらない事で喧嘩になって口論が殴り合いにまで発展して、結局行き場のなくなった感情に任せるように、勇麻はその場を飛び出したのだったか。目的地は、確か――
(――公園、か……?)
学生寮から少し歩いた位置にある人気の少ない児童公園は、嫌な事があった時の幼い勇麻の避難所だった。
それは、ふつふつと怒りに燃え上がり暴れ狂う心を鎮める、当時の勇麻なりの儀式だった。
幼い子供にとって、一度暴れ出した感情を落ち付けさせるというのは難しい。すぐに切り替えろ、なんてまず無理な話。頭では分かっていたとしても、どうしても感情的になってしまう。
だから幼い勇麻は、そういう我慢できない事があるとこの公園で一人になりたがった。胸の中で爆発する感情を無理に抑えるのではなく、一人になってそれら全てを無人の公園にぶちまける事によって、心の平穏を取り戻そうとする。
それが、天界の箱庭に弟と二人で暮らす、親に頼れない幼い子供なりの自己防衛だったのだ。
勇麻は泉に対する怒りや胸のモヤモヤと折り合いを付けるべく、いつもの場所へと向かう。それは、特別でもなんでもない、東条勇麻にとっていつも通りの行動だ。
だが――偶然という悪魔は、いつだって予期せぬタイミングで牙を剥くものだ。
ずきんっ。右腕が、疼くように痛む。
頭が痛い。
気持ちが悪い。
吐き気がする。
東条勇麻は知っている。
ダメだ、ダメなのだ。東条勇麻はこの先に行ってはいけない。
いつもだったら何でもない少年のこの行動が、この日に限り最悪の結末を招く呼び水になろうなどと、一体誰に想像できるだろうか。
(……ダメだ。その先に行っちゃいけないッ。……よく、思い出せない……けど、とにかくダメだ……ッ!)
……そう、これから先に起こる出来事を、勇麻はよく覚えていない。何故だか、勇麻の記憶にはあってはならない欠落がある。
だが、その結末だけは嫌と言う程に知っている。
この先の公園で、幼い東条勇麻は偶然にも敵と戦闘中の南雲龍也と遭遇してしまう。
そして、■■■■を庇った勇麻の愚行が原因となって、南雲龍也は致命傷を負い、その数日後に命を落とす事になる。
――自分のせいで、憧れた英雄が、大好きな龍也が、死ぬ。死んでしまう。
その結末を知って、なお静観するなど出来る訳がなかった。
(――待てッ!)
勇麻は幼い自分の歩みを止めようと、あの最悪の結末を回避させようと、必死でその半透明の掌を自分に伸ばす。
だが、届かない。
幽霊のように透き通ったモノクロの手は、幼い少年の腕をするりとすり抜けてしまって、掴むことはおろか触れる事すら叶わない。
(……ああ、ダメだ。その先に行っちゃ、ダメなのに……!)
いつもなら誰もいないその公園に大好きな南雲の背中を見つけた幼い勇麻は、胸で燻るケンカのモヤモヤも忘れて喜びはしゃぎ、憧れの男の元へと駆けていく。
無駄なイタズラ心なんかを働かせて、後ろからこっそり驚かしてやろうと忍び足で南雲の背後まで忍び寄って――そこで異様なモノを目撃するのだ。
――黒い影……ヤツだ。
そう、勇麻はソレが何なのかを知っている。その仮面だ。そいつは、仮面で素顔を覆い隠しているソイツこそが、龍也を――
不気味に笑う不吉な仮面が、南雲の背中越しにじぃっと幼い勇麻を見つめていて――
『――龍也、にぃ……?』
『勇麻か……!? ――チッ、来るな! こっちに来るんじゃねえッ!』
いつもと違う、南雲の声。
振り向きざまに放たれた、鋭く、苛烈に、こちらを突き放すような憧憬の赫怒の怒声に、幼い勇麻はびくっと肩を震わせ、思わずその場に尻もちを付いてしまう。
大好きな憧れから向けられた感情が、ただ怖い。怖くて。怖くて。怖かった。足が棒のようになって、力が完全に抜けてしまう程に。
その身に血を滲ませる南雲は身体中に傷を負っていた。馬鹿な勇麻はその瞬間まで南雲が命懸けの戦闘中であるとも気が付かずに、いつもみたいに遊んで貰おうと呑気に南雲の元へと駆け寄って行ったのだ。
その行為が、どれだけ憧れを追い込み不利にするのかも考えずに。
そんなボロボロの背中と対峙するソレも南雲以上にボロボロに傷ついていた。足を引きずるように蠢く不気味に笑う不吉な仮面は、既にかなりの重傷を負っているようだった。
おそらく、勇麻がこの場に辿り着いた時点で戦闘は佳境。決着は目前のタイミングだったのだろう。
南雲はあと一歩という所まで、この仮面の怪人を追い詰めていたのだ。
目尻に涙を浮かべ、不気味な仮面に怯えて、憧れを恐れて、尻もちをついて動けない勇麻のほんの三メートル先。
視線を交錯させる二人は、あの時、確かに互いを殺そうとしていた。
その濃密な殺意を、幼い勇麻も肌で感じ取っていたのだと思う。
だからこそ、見慣れているハズの南雲龍也の横顔があんなにも恐ろしくて、怖くて怖くて堪らなかったのだ。
そして、南雲は決着を付けるべく、その右の拳を振りかぶって――
その時だった。
腰が抜けてしまったかのように動けなかったハズの勇麻が、ハッとして突如として立ち上がり、駆け出したのは。
『――ダメだ! 龍也にぃ! ■■■、■■■だ……!』
……視界が、濁っている。記憶に掛かった靄が濃い。耳鳴りもする。頭が痛い。吐き気が加速する。自分が何を言ったのか、脳内に反響するその言葉すらもノイズがかっていて聞き取れない。
ただ、何かが路面に落ちる音だけは鮮明に耳朶を打った。
重いものではない、プラスチック製のものを落としたような軽い音が響く。
(――あ、れ……? そういえばこの時、俺は――、一体何に気が付いたんだっけ……?)
……疑問を抱く、だがダメだ。なにも思い出せない。映像を正しく再生、認識できない。音声を正確に聞き取れない。記憶の欠落を埋める記憶は未だ戻らない。
だが、覚えている。
この時、確かに自分は何かを目撃した。何かを目撃して、それを守る為に両者の丁度中間に――場違いにも殺し合いの場に飛び出してしまったのだ。
それはどうして? ……だって、幼い子供ながらに守らなければと思ったのだ。
東条勇麻は南雲龍也に憧れた。
弱きを助け強気を挫き、誰も彼もを笑顔のままに救うその姿に憧れた。
だって、彼に救われた皆が笑っていた。感謝していた。嬉しそうだった。幸せそうだった。それこそが、自分が求めていた景色なのだと理屈も理由も抜きにそう思った、だから――その姿に、どうしようもなく憧れた。
まるでアニメや漫画の中のヒーローそのものであるかのようなその背中をこそ追いかけた。
自分も南雲龍也のようなヒーローになりたいと、いつか彼のような人間になるんだと、何の疑いもなくそう思った。
だから? だから自分は■■■■を助けたのだろうか……? 南雲龍也みたいになりたいと、その一心で?
……分からない。記憶の混濁は今なお酷い。ただ、一つ確かなのは、このときの自分に「これをしたら死ぬかもしれない」とか、そういう当たり前の思考の一切が抜け落ちてしまっていたという事くらいか。
でなければ、こんな幼い少年が己の身を犠牲に誰かを助ける、などと。そんな異常に走れる訳もない。
つまるところコレは、無茶で無謀で後先なんて何も考えていない、ただ「守らなきゃ」――そう思った何の力も持たない子供の愚かなる勇気。
小さな手足を懸命に動かして、ただがむしゃらに飛び込んだその選択は――結果、誰一人として救う事のできない、どうしようもない無価値な愚行でしかなかった。
だから。東条勇麻という子供の短い人生は、何を成す事もなくここで無意味に終わる。本当はそのハズだったのだ。
(あぁ……龍也にぃ。ダメだ、やめろ。止まってくれ。ダメだ、アンタがその馬鹿を助けちゃ――)
そのハズだったのに。
『――勇麻ッ……!』
幼い勇麻の身体が、憧憬の大きな掌で押しのけられる。
入れ替わる身体と身体。
現実すらまともに見えていない、愚かで無価値な子供一人を助ける為に、全てを救うハズだった英雄はその身を狂人の前に無防備に差し出して――
『え』
――眼前、華々しく血華が舞った。
『嘘、だ……』
(龍也、にぃ……)
何も、出来なかった。
幼い勇麻同様、成長した東条勇麻は、憧れを自らの手で殺すその瞬間を、ただ茫然と立ち尽くして眺めている事しか出来なかった。
ただ、大好きだったその英雄が血塗れの少年の腕の中、浅い呼吸を繰り返しながら、鮮血を流すその口元に不敵な笑みを刻み付けてこっちを見ているその光景が瞼に焼きついて離れない。
離れてくれない。
……記憶が混濁する。視界に靄がかかっている。酷いノイズが反響する。気持ちが悪い。頭が痛い。頭が痛い。頭が痛い――。
堪え切れない吐き気に思わず身体を折って、割れそうな額に手を当てると、ぬるりとした感触を掌に覚えてぎょっとする。――モノクロ調だった勇麻の掌は、いつの間にか真っ赤な血に塗れていた。
拭っても拭っても決して落ちることはない、消えない血。あの日からずっと、ずっと、その朱色はこびり付いて離れない。
(やめろ……)
――お前のしでかした事は、その罪過は一生消えてなくなったりはしないのだと、頭の中で誰かの声がうるさく主張し続ける。
罪は、過去は、この先何があろうとも帳消しになったりはしない。できない。もし仮に、この世の誰もがお前の過去と罪を忘れようとも、何らかの絶大な奇跡が起きて全てが無かった事になろうとも、お前だけはそれを忘れる事が出来ない。お前自身がそれをお前に許さない。
背負った十字架の重みは、仮に十字架が見えなくなったからと言って無視する事はできないのだから――未来永劫、東条勇麻は犯した罪の咢から逃れる事は出来やしないのだと――
(――うるさい……黙れ……ッ! 俺は、ただ■■■■を……俺だってこんな事、望んでなんか……ッ!)
血塗れの手で頭を抱え、首を振る。
耳にこびり付いたその声は、脳髄をズタズタに冒して嘲笑う。
耳障りな幼い慟哭と混じり合って、少年の精神を引っ掻き回していく。
『いやだぁ……いやだよぉ、龍也にぃ! 龍也にぃッ! 血が……血、止めなきゃ……!』
『ははっ……。なに、泣いてるんだ、よ。泣き虫……だな。つーか、来るなって、そう……言っただろうが、お前って奴はホントに……』
『だって、だって……! 龍也にぃがぁ……こんな、こんなの……! ごめんなさい、俺、もう馬鹿な事しないから。ちゃんと、龍也にぃの言う事聞くから……だから……!』
『だい、じょうぶ……だ。俺は、こんなんじゃ……死なない、から』
その強がるような笑みも、言葉も、全部嘘だ。だって、この後龍也は死んでしまう。
この世からいなくなってしまう。勇麻を置いて、消えてしまうのだ。最後の最後で、勇麻に「■■■■」を託して――
欠落の記憶が、なければならない欠けたピースが、びしりと脳髄を震わせる。
(――……待て。託すって、なんだ? 俺は……龍也にぃはこの時、一体何を――)
龍也は苦しげに呻いて、それでも浮かべた笑みの形だけは決して崩そうとはしなかった。
そして、自分が一番苦しい筈なのに、まるで少年を安心させるように彼の手が勇麻の頭へと伸び、くしゃくしゃとその髪の毛を撫でまわす。
それから、真剣な眼差しを宿して少年の小さな手を握ると、それを優しく包み込んで、穏やかな微笑を向けて。
『これは……』
龍也がその手で包み込んでいた勇麻の掌。気付けばそこに、金色に光り輝く球体のようなものが握らされていた。
まるで太陽のようなのに、熱くない。温かい。心が安らぐような、そんな輝き。
『……それは「知恵の実」。俺の……そうだな。魂、みたいなモノだと思ってくれ。とにかく、……とても、大切なモノだ……』
『龍也にぃの、タマシイ……大切な、モノ?』
『ああ、そうだ。……なあ、勇麻。前に、言ってたよな? 世界の皆が……仲良く笑い合って、分かり合えるような……そんな世界になって欲しいって。これは、お前のそんな絵空事を叶える為の……希望なんだ……』
『希望……』
途切れ途切れにそう言った英雄は、あまり見たことのないような、とても……とても寂しそうで哀しそうで、けれど優しい表情をしていた。
それから、気合を入れるように無理やりに息を吸い込むと、全幅の信頼を寄せた声色で、一言一句はっきりと一度だって途切れることなく英雄は言った。
『――いいかよく聞け勇麻。今からお前に託すのは「力」じゃねえ、「希望」だ。この「拳」は、お前の綺麗ごとだってきっと形にしてくれる。だから、絶対に捨てるんじゃんねえ、お前の希った希望を……』
『龍也にぃ……?』
……いつの間にかノイズが消えていた。視界はどこまでもクリアに、掛かっていたハズの靄は既に晴れている。
――知らない。こんな会話は、やり取りは、記憶にない。確かに知っていたハズの知らない欠落の記憶が、確かに交わされたハズの失われた最後の会話が、一〇年ぶりにタイムカプセルを開けるかのように、勇麻の眼前で再び色付き蘇っていく。
欠落の記憶。
忘れてはいけないはずの忘れてしまっていた記憶の一部が、欠けていたピースの一つが、今、勇麻の元へと帰ってくる。
最後に南雲龍也は、歌うように――
『――我が身、我が希い、例え此処で潰えようとも、我が「希望」は継がれゆく。――起動「希望の拳」、「指切りの誓い」……ッ!』
直後、「知恵の実」を手にした右手を起点とした柔らかい光りが東条勇麻を包み込んで――
――温かな輝きが勇麻の中に消え去った後。南雲龍也は、どこか満足げな笑みを浮かべたまま、幼き東条勇麻の腕の中で静かにその瞳を閉じていた。
『龍也にぃ……? ねえ、起きてよ。龍也にぃってば……。…………………………やだ、よ。嘘だ、こんな、いやだぁ……あぁ、あぁあッ、あァァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……ッ!』
――絶叫と慟哭が木霊する。
――甘すぎる絵空事を馬鹿みたいに垂れ流す、無知蒙昧な一人の子供の愚行の果てに、『英雄』は命を落とす。
もっと大勢を救えたはずのその命を、たった一人の無価値な子供に捧げて消えていく。
この日、東条勇麻は憧れを――南雲龍也を殺した。
(……ああ、)
そして、「希望の拳」を託されたこの瞬間を境に、ただの人間だった東条勇麻は「勇気の拳」をその身に宿す「神の能力者」に、その紛い物になったのだ――
(そう、か)
――それは、つまり。
(そう、だったのか……)
東条勇麻が、その拳を握り締め成し遂げてきた事は全て―――――――――――




