第二十五話 VS.黒騎士《ナイトメア》Ⅲ――アリシア
幻かもしれない。
勇麻の弱い心が見せている一時限りの幻想なのかも知れない。
だからそれは、触れれば儚く壊れてしまいそうで、勇麻は話しかける事すら躊躇ってしまう。
けれど、もう我慢なんて出来なかった。
「龍也……にぃ」
ぽつりと言葉が口から出てきて、
「本当に龍也にぃなの?」
「ははっ、他の誰に見えるって言うんだ? 勇麻」
その言葉を呼び水に、次々と言いたい事が涙と共に溢れ出してくる。
死んだと思っていた。
もう二度と会えないと思っていた。
なのに目の前にいる。
会いたかった人が、憧れの人が、今こうして勇麻の前に立っている。
懐かしい声、口調、整った造形の小顔には燃えるような笑顔、切れ長の眉に、輝くような凛々しい瞳、スポットライトの中央が相応しい華々しい雰囲気、その仕草。
間違いない、勇麻のよく知る南雲龍也その人だった。
☆ ☆ ☆ ☆
「馬鹿野郎! 勇麻! そいつが龍也の訳ないだろ! 騙されるな!」
「お、泉も久しぶりだな。相変わらずうるさいし生意気だし元気もいいみたいで安心したよ。でも、ちょっと黙ってて貰えるか? 今は勇麻に用があるんだ」
南雲がそう言って軽く腕を振るったその瞬間だった。
「な、なんだよコレ」
「うわ、動けな……ッ」
「さっき接触したときにちょいと細工させて貰ったぞ。……勇火も久しぶりなのに悪いな。でも、今はそこにいて貰うぜ。俺ももう結構限界なんでな、流石にお前ら全員を相手にしてやるのは無理だ」
泉と勇火そしてレインハートの影からロープ状の影が飛び出し、三人の事をきつく縛り上げたのだ。
三人とも雁字搦めにされて、その場から動けなくなってしまう。
「よっと、これで良しっと。……さて、改めて久しぶりだな勇麻」
「龍也にぃ……俺、俺は……俺はッ!!」
勇麻はこれまで堪えていた全てが決壊したかのように涙を流しながら、一歩、また一歩とゆっくりとした歩みで南雲のもとへ進んでいく。
その、まるで何かに魅入られたような勇麻の様子に、影のロープで身体を縛られ身動きの取れないレインハートが歯がゆそうに声を上げた。
「なぜ今のやり取りがあって彼は黒騎士の元へ向かうのですか!? この現状を見て、なぜ!」
その疑問に答えたのは泉だった。
泉は悔しそうに歯を食いしばりながら、
「今の勇麻に俺たちの声は届いていねぇ。それどころか、多分正しく現状を理解できていないんだと思う」
俯いた勇火が泉の言葉を繋いで、
「下手をしたら、これまでの事全部頭の中から消し飛んでてもおかしくないですよ。それくらい兄ちゃんにとっては特別な相手ですから……」
「黒騎士の素顔……あの男は何者なんですか? どうやら、アナタ達の知っている人物のようですが……」
レインハートの問いに、泉は一瞬答えに迷う様子を見せたが、それでも口を開いた。
「あの人は……南雲龍也は、俺たちの兄貴分的な男だ。でも、龍也は……九年前に死んでいる」
「では、あの男は」
「……偽物だ。ああ、そうだ。偽者じゃないとおかしい!」
泉は苦虫を噛み潰したような顔でそう言った。
まるでどこか納得いかない自分を、無理やりに抑え込んでいるようにも見えた。
そしてそれは勇火も同じのようで、
「でも泉センパイ――」
「――分かってる、俺だって分かってるんだ。だから、そっから先は言うんじゃねぇ」
泉は額に脂汗を浮かべながら歯を食いしばり、
「俺だって認めたくはねぇ、だけど……確かにあれは」
吐き捨てるように言った。
「俺の知ってる南雲龍也その人だ。ムカつくけど、偽物には……見えない」
目の前の人物の懐かしすぎるその雰囲気に、泉の心は動揺を隠し切れ無くなっていた。
泉は、目の前の人物が、勇麻や泉すらも騙せる程精巧な偽物であることを願いながら、成り行きを見守る事しかできなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
足が一歩、また一歩と前に出る。
あれだけ鉛のようだった身体が嘘のように軽い。身体中の痛みも、魔法のように全て吹き飛んでいた。
進む足が速くなる。
ゆっくりとした歩みは早歩きへと変わり、早歩きはいつの間にか全力疾走に変わっていた。
「龍也にぃ!」
死んだと思っていた。
もう二度と会えないのだと、そう思っていた。
でもこうして、勇麻の目の前に南雲龍也は存在している。
その足で大地を踏みしめ、呼吸をし、勇麻と言葉を交わしている。
その紛れもない奇跡のような現実が嬉しくて、勇麻は泣きながら笑っていた。
「生きてたんだね、龍也にぃ!」
言いたい事が山ほどあったし、聞きたい事も山ほどあった。
文句だって山のように積もっているし、言えなかったありがとうも沢山ある。
今すぐにとは言わない、けれどもこうしてまた巡り会えたなら、言うべきなのだろう。
それに何より今は、帰って来てくれた大好きな人の存在をただ確かめたかった。
喜びを噛み締めていたかった。
全速力で大地を蹴り、その勢いのまま勇麻は龍也に飛びついた。
南雲はそれを、やれやれといった調子で腕を広げて向かい入れる。
勇麻の身体が懐かしい温もりの中へ飛び込んだ。
龍也は勇麻の背中を撫でるように抱擁して――
「ごばっ……ッ!?」
――南雲の影から伸びた影の剣が、勇麻の脇腹を貫いた。
「な……ん、で?」
トテトテと、フラフラした足取りで南雲から数歩離れた勇麻は、自分の腹に空いた穴と南雲とを何度か見比べてからようやくそう呟いた。
「なんで? おいおい勇麻。なんではこっちの台詞だ」
勇麻の返り血を浴びた南雲は笑いながら、
「今のこの状況で、なんでお前は俺の元へ飛び込んでくるんだ?」
「なんでって、そんなの」
「勇麻、冷静になれよ。今の状況、よーく思い出してみろ。お前はついさっきまで何をやっていたんだ?」
「俺は……」
南雲の問いの意味が分からず、考え込む。
自分はついさっきまで一体何をしていたのだろうか。
傷だらけの自分の身体を見て、左腕の尋常じゃない痛みに気が付き、そしてこの痛みを作った原因は――
「………………ッ!!」
「思い出したみたいだな」
そう。そうだ。
今の今まで忘れていた。
東条勇麻はアリシアという少女を助ける為に、彼女を狙う組織と戦っていたのだ。
でも真実は違っていた。
彼女の事を狙っていると思っていた組織は実はアリシアの味方で、彼女のような神の能力者の味方でなければならないはずの『創世会』が――この街こそが彼女の敵だったのだ。
そして勇麻は『創世会』の送り込んできた刺客である『汚れた禿鷲』の戦闘員、黒騎士と死闘を演じていて――
「黒騎士の正体が……龍也にぃ……? そんな、馬鹿な」
首を振る勇麻の言葉を、しかし南雲は否定しようとはしなかった。
肯定とも否定とも分からない、謎めいた仮面のような笑みを浮かべるだけだ。
「さてと、勇麻。お前もようやく今の状況が見えてきたみたいだけど、別に黒騎士の正体が俺だったとか、そんな事はさして重要な話じゃないんだ」
「龍也にぃ……いや、お前は一体、誰だ」
勇麻の詰問に南雲は笑うばかりだ。
瞳に涙すら浮かべて哄笑して、
「あははははははっ、勇麻、現実から目を逸らすのはあんまりオススメしないな。お前だって分かってるハズだぜ。ていうか、疑いの欠片もないさっきの行動が、全てを証明してる気もするけどな」
「……」
南雲は黙り込んだ勇麻の態度を肯定とみなし、
「まあいいか。分かってるみたいだし、これ以上は言わないよ」
「龍也にぃ……いや、南雲龍也。これは一体どういう事なんだ!? アンタは死んだんじゃなかったのか? なんでアンタみたいな人がその姿で俺の前に立っている!?」
「まあその質問については、『天界の箱庭』の技術力があれば、人間一人の死くらいならいくらでも偽装できる。と答えるべきなんだろうけど、あえてこう言っておこう」
南雲はその顔から笑みを消して、
「南雲龍也は……お前が慕い憧れていたあの英雄気取りの男は、あの日死んだんだ、と」
意味深な南雲の言葉に勇麻は眉を潜める。
その言い方ではまるで、
「どういう意味だ」
「別にそこまで深い意味は無い。ただ単に俺はあの日、ヒーローを気取っていた自分自身を殺して、生まれ変わっただけだ。黒騎士としてね」
「なんで……何でだよ! 龍也にぃ、アンタはいつだって弱い者の味方だった! 困っている人を見かければ問答無用で助けたし、悪党を見かければ絶対に見逃さなかった! そんな人が、なんで!!」
まるで、皆のヒーローだった頃の自分を否定し、殺したような言い分は聞きたくない。
「なんでアリシアみたいな、何も悪く無い子を傷つける側に回っているんだよ! そんなのおかしいだろ!」
だから否定して欲しかった。
きっと何か、避けられないような、『創世会』の味方をしなくちゃならないような特別な事情があったんだと、そう言って欲しかった。
なのに、聞きたかった返事は返ってこない。
「……勇麻、いつかお前には言ったハズだ。ほら、世界のみんなが仲良くするにはどうすればいいのかって話」
覚えている。
あれはまだ勇麻が南雲と出会ったばかりの頃。小学二年生だった時の事だ。
忘れるハズがない。
そして勇麻の願いだって、あの日から変わっていない。
「……俺たちは皆、バラバラで違っているからこそ、理解しあう事は難しい。たとえ理解しあえたとしても、それに賛同するとは限らない。だから人はどこかで妥協点を探さなければならないし、どうあっても自分の主義主張考えを通したいのなら、少々手荒な手段を使うしかない。……確かこんな事を言ったんだっけな」
南雲はどこか昔を懐かしむように目を細めてそう言った。
当事者でなければ分からないはずの内容を知っているこの男が、南雲龍也の偽物である可能性はもはや絶望的だ。
その事実に勇麻は奥歯を噛み締めながら、
「……俺の思い描いていた絵空事が正しかったと証明して貰いたい、とも言っていたハズだ」
「おお、よく覚えてるな。感心感心」
「ふざけないでくれよ! なんでこんな風になっちまったんだ! 龍也にぃ、アンタはこんなんじゃなかったハズだ。真面目に答えてくれ!」
「だからこうも言っただろ。きっと俺のこの考えだって、きっとどこかが間違っているだろうって」
感情の消えた、嫌に冷めた声色でそう言った南雲の表情は、暗く悲しい物だった。
その瞳に見据えられて、勇麻の体温も低下するような錯覚を覚える。
「気が付いただけだよ。俺は俺の方法で誰かを救う事の無意味さに、己の間違いに。無かったんだ、『妥協点』なんて」
違う。
嫌だ。
こんな南雲龍也は見たくない。
「『妥協点』は見つからなかった。理解しあえるなんて幻想だった。ならどうすればいい? 世界の平和なんていう、究極に子どもじみた矛盾すら内包する、絶対的不可能に思える行いを、どう成し遂げればいい?」
こんな事を言う人間が南雲龍也のハズがない。
きっとこれは精巧につくられた偽物だ。
南雲龍也の皮を被った化け物だ。
そう思いたい。
そう思おうとするのに、目の前の男の喋り方が、仕草が、雰囲気が、そして勇麻と南雲しか知らない過去を詳細に語っているというその事実が、勇麻に信じたくもない現実を突き付けていた。
「それぞれの考え方が一度積み上げられたこの世界では不可能なんだよ、分かりあうなんて。だから俺は一度全ての積み木を崩す事にした。めちゃくちゃに無秩序に積み上げられた思想を倫理を価値観を、一旦無に帰す。そして平らになった世界で、一つの思想のみを積み上げていけばいい。それのみを肯定し、他は全て否定する。絶対的な指標となる、ただ唯一の価値観を作り上げればいい」
だから壊す。
弱い者だろうが子どもだろうが関係ない。
目的の為ならば、誰かを傷つける事も厭わない。
悲しみの連鎖を広げ、あまつさえ、それで世界を満たそうとしていると言うのか。
一度全てを壊すとは、おそらくそういう事だ。
「なにを言ってるのか分からねえ……何も! 俺は分からない!」
「分からなくていい。言っただろ、分かりあえるなんて幻想だ。それに俺がお前に言いたいのは、こんな事じゃない」
南雲はゆっくりとした足取りで勇麻に近づいていく。
やはりダメージは残っているのか、その足取りからかなり辛い事が伺える。
「勇麻。お前、今まで一体何をやっていたんだ?」
唐突なその質問の意味が、勇麻には本当に理解できなかった。
それはむしろこちらの台詞だったし、今までの会話からそうとうズレているように思えたからだ。
答えるべき言葉が見つからずに黙り込む勇麻に、南雲はさらに言葉を投げかける。
「あの日起きた事に対する罪滅ぼしのつもりなのかも知れないけどよ、お前は一体なにをやってたんだ?」
「なにをって、俺はただ――」
そこまで言って、そしてそこで勇麻はある重大な事に気が付いた。
気が付いてはいけない事に、気が付いてしまった。
口を開いたまま固まる勇麻を見て、南雲は笑っていたのだろうか。
「お前が俺の代わりを演じようとしてたのは良く分かったけどよ。俺、死んで無いじゃん」
禁忌に触れる。
背筋に今まで感じたことのないくらい強烈な寒気が走り、勇麻の全身から嫌な汗が、まるでサウナに入ったみたいに溢れ出してくる。
「お前は一体何を演じていたんだ? 俺は死んでなかったのに、お前が自分自身を捨ててまで南雲龍也を演じる事に、意味なんてあったのか? 自分自身を諦めた、お前のこの空白みたいな九年間は一体なんだったんだ? ただひたすらに罪悪感から逃げて、自分の心から逃げて、現実から逃げて、そうやって逃げ続けるだけの時間に何の意味があった?」
それはきっと、決して触れてはいけないパンドラの箱だった。
「罪悪感から逃れたかった。俺の為に何かをしているという証が欲しかった。免罪符を求めて、自分を偽って、南雲龍也から逃げ続ける為に、お前は俺を演じてきた。……でも、南雲龍也は死んでいなかった。大前提は根っこから崩れ落ちた。……ってことはだ、お前が背負うハズだった罪はどこにも存在しない事になる。南雲龍也が生きているなら、お前が南雲龍也の代わりを務める必要なんて一つも無いじゃないか。なら、お前の人生はなんだったんだ? ありもしない義務と罪に苦しみ、助けたくもないのにその身を削って、見知らぬ誰かを助け続ける。こんな人生に本当に意味なんてあったのか?」
耳を塞ぎ目を瞑りたい。なのに身体は金縛りにあったように動かない。
嫌だ。何も聞きたくないし何も知りたくない。
やめてくれ、そこから先に踏み込んではいけない。
やめてくれ。やめろやめろ。やめろ。
「やめろ……」
東条勇麻を構成する全てが崩れる。
ボロボロに、取り返しのつかない程、致命的に。
「勇麻、お前は馬鹿な奴だよ。俺の代わりなんかに成ろうとせずに、自分の夢を貫いていれば、自分だけの理由を見つけていれば、自分の意志すら持たない、こんな空っぽでつまらない人間にならずに済んだのに」
崩れてしまう。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!?!!?」
頭を抱え叫ぶ勇麻に南雲は取り合わなかった。
「終わりだ。紛い物の英雄」
震えながら頭を抱え、まるで子どもみたいに蹲る勇麻に、南雲は突き放すように冷たく言い捨てる。
「価値のない人生にケリを着けてやる。勇麻、せめて安らかに眠れ」
影の剣の鋭利なその先端が、丸まった背中に突き付けられた。
☆ ☆ ☆ ☆
声が遠い。
全てがふわふわし、どうでもいい。意味を失った。生きる意味も、戦う意味も。なにもかもを。
だから、どうでもいい。
もう東条勇麻が誰かの為に戦う理由は喪失してしまったのだから。
だから、アリシアという少女も、もうどうでもいい。
だってアリシアの為に戦う必要も理由も、今の勇麻には存在しないのだ。
これ以上頑張って、何になるというのだ。
南雲龍也は生きていた。
それならば、東条勇麻が彼の代わりに戦わなければならないという理由も消滅してしまうのだから。
だからもうやめよう。
こんな無意味な命は、終わってしまったほうがいい。
南雲龍也が言ったように、勇麻の人生にきっと意味なんてなかったのだろう。
ただひたすらに過去に縛られ続け、ありもしない罪と義務感に苦しみ、英雄の偽物として英雄を演じ続けてきた。
そして、紛い物の主人公にすらなれないまま、自分の意志も価値観も生きる意味も拳を握る理由さえも失った勇麻は、憧れの人の手のよって殺される。
我ながらなんて無意味で、虚しい人生なんだろう。
馬鹿みたいだ。
いや、実際ただの馬鹿だったのだろう。
自分の愚かしさに、呆れて笑いすら込み上げてきそうだった。
だが今の勇麻には、笑う為に顔の筋肉を動かす力さえ残されていなかった。
勇気の拳。
勇麻の精神状況に応じて身体能力を変動させる特殊な神の力が、ここへきて主である勇麻に牙を剥いていた。
(はは、身体が動きもしねえ)
生きる意欲すら失った勇麻の身体能力は、勇気の拳によって限界まで低下していた。
身体がピクリとも動かない。
まるで死んでしまったかのように身体中の力が抜けていくのを感じる。
今の勇麻は、心臓をどうにか動かすのがやっとの状態にまで弱っていた。
少しでもショックを加えれば、きっとそのまま心臓は停止し、勇麻が再び目を覚ます事もなくなるだろう。
でも、もうどうでもいい事だ。
意味のない人生にケリを着けてくれるのが憧れの人というのは、ある意味では幸運なことなのかも知れない。
南雲の声が酷く遠くから聞こえてくる。
背中に刃物を突き付けられているのを感じる。
後はこの刃が勇麻の身体を貫いてくれれば、それで勇麻は終われる。
死ぬために邪魔な、無駄に頑丈な神の能力者としての身体も、これだけ弱体化している今の勇麻には何の障害にもならないだろう。
一突きで楽になれるハズだ。
きっと痛みを感じる間もなく、勇麻の弱い心が何かに揺れ動かされ、死に恐怖を感じる前に終わりが訪れる。
そう信じていた。
なのに、そうであって欲しかったのに。
(どうして……)
そこにいたのは勇麻も知っている人物だった。
キョロキョロと辺りを見渡し、必死に誰かを探しているその姿も愛らしい。
それは少女だった。
腰のあたりまである色素の抜けた白い髪は、月明かりを受けて美しく輝いている。
清楚な白のワンピースの隙間から除く柔肌は、粉雪のようにきめ細やかでその髪の毛と同じように白く美しい透明感を持っている。
ここまで必死で走ってきたのだろう、白い頬を桜色に蒸気させ、息遣いも荒くなっている。
宝石のような碧い碧眼は今にも溢れそうな涙で潤んでいた。
そしてその手の中には彼女にとってとても大切な『神器』、『天智の書』が収まっている。
その少女は必死に辺りを見渡して、その視界に勇麻の姿を捉えると、今にも泣きだしそうだった顔をわずかに輝かせて、こう叫んだのだった。
「勇麻!」
東条勇麻が助けると約束した少女、相変わらず上手に笑う事ができない、悲しい過去を持つ女の子。
(どうしてお前がここに来ちまうんだよ! なあ、アリシア!!)
アリシアがそこに立っていた。
「お、これはラッキーだ。獲物が自分からトテトテこっちに歩いてきたぜ」
わずか十数メートル先に佇む華奢な少女を見て、南雲はなんの感慨も無くそんな事を言った。
勇麻はその光景を前に心臓が止まるかと思った。
いくらなんでもあんまりだ、こんな結末じゃ、本当に誰も救われなさすぎる。
(アリシア! お前がここにいちゃダメだ! 今すぐ逃げろ! お願いだから逃げてくれ!)
そう叫びたかった。
なのに、生きる意志すら失ってしまった今の勇麻は声を出す事すらできない。
勇気の拳がそれを決して許さない。
(なんでだよ……なんで! 声もでない! このままじゃあの子は、一生『創世会』に飼われ続ける事になるんだぞ! 誰か、頼むよ……誰でもいい、ここは『神の能力者』の街だぜ? ヒーローの一人や二人、駆けつけてくれよ! アリシアを……あの子を助けてくれよ!)
拳を地面に叩き付けるような勢いで、勇麻はそう叫ぶ。
なのに声は出ない。
拳を握りしめる事もできない。
――どうするんだよ勇麻、これがお前が目の前の全てから逃げ続けてきた結果だぜ?
勇麻の頭の中、誰かの声が響いた。
(……誰だ)
心の中で答えた勇麻に、当たり前のように誰かの声は返事を返す。
――俺の正体なんて誰だっていいだろ、別に。今はそんな事に構っている余裕はないハズだぜ。
(……俺はヒーローなんかじゃないんだ。仮にここで立ち上がったところで、何ができるって言うんだよ)
――ははっ、確かにそうかもな。
自嘲気味にそう言った勇麻に頭の中に響く声は薄く笑った。
――自分はヒーローなんかじゃない、ただ、居なくなってしまったヒーローの代わりを演じるだけの偽物の英雄。紛い物の主人公。全てを偽り、拳を握る理由を全て他人任せにしてここまで来てしまった。それが東条勇麻って男の生き様だった。……カッコよく紹介するならこんな所だけど、それって結局免罪符を貰って、辛い事から、自分の罪から逃げてただけだよな?
(……わざわざそんな分かり切った事を言いに来たのか? 嫌がらせにしても、これから死ぬ人間に対して悪趣味なんじゃねえの?)
先ほど南雲に指摘された事をまた掘り返された勇麻は、語気を荒げてそう答えた。
頭の中に響く声の言う通りだからこそ、頭にくるのだ。
それを指摘する声に対しても、そして自分自身に対しても。
――勇麻、お前本当にこのまま終わっていいのか?
(……何を言ってるんだ。このままも何も、ここはもう終点だぜ。ここが俺の――紛い物の英雄の、限界だった。ただそれだけの話だろ?)
――それがお前の本心なのか? お前が誰かを助けていた理由は、南雲龍也の代わりを務めなければならないっていう義務感と彼に対する罪悪感だけだったのか?
(……なんだって言うんだよ)
――勇麻。お前は偽物なんかじゃない、本物のヒーローになりたかったハズだ。皆が分かりあえる世界を望んだハズだ。もう一度言葉に耳を傾けろ、彼女の声をもう一度だけ聞いてやれ。そして自分の心から逃げずに向き合うんだ。
頭の中に響く声は、なぜだかとても懐かしい声色でそう言うと、尾を引くようにボリュームを小さくしてフィードアウトしていった。
――お前のその力は、閉ざす為じゃない。世界と繋がる為にあるんだから。
最後にこんな言葉が、余韻のように勇麻の耳に残っていた。
――それこそが、お前の望み……希望なんだろ?
最後に発せられた問いに、勇麻は答えられなかった。
ただ喉の奥に小魚の骨が刺さったような、そんな異物感と不快感が勇麻の胸にしこりを残していた。
(一体なんだって言うんだよ。……そんな事言ったって、俺にはもうどうしようもないじゃないか! だってもう、俺には戦う為に拳を握るだけの理由が見つけられないんだ!)
叫びすら届かない、立ち上がる事はおろか呼吸をつづけるのが精一杯もこの状況で、勇麻に何が出来る。
結局、頭に響いた謎の声も、意味深な事を言うだけ言って消えてしまった。
(終わりだ、もう。何もかも)
全てを諦め、目を瞑る。
そうすれば悲惨で残酷なだけの現実を直視しないで済む。
そう思って全てから逃げ出そうとしたその時だった。
「勇麻!」
アリシアの声が夜の闇を切り裂いて、勇麻に届いた。
「勇麻、……お主の過去に何があったのか、お主が何に苦しみ、何を思って私を助けてくれたのか。私は知っている」
アリシアはその瞳に真剣な光を点し、背中を丸めて蹲る勇麻を見つめる。
「……私にも何が起こったのかよく分からないのだ。けど、逃げている間に勇麻の事を考えていたら、色々な事が見えたし、聞こえた。昔の事。決意をした日の事。私を助けた時の事。……勇麻の心が、聞こえた」
その言葉に、勇麻の心が震えた。
(アリシア、俺は、俺は……ッ! 俺だってお前の過去を見たんだ、見たんだよ!)
勇麻も知っている。アリシアという少女が歩んできた過去の道のりを。
もうアリシアの中には欠片も残っていないのかもしれない。
けれども確かにそこにあった存在を、知っている。
それなのに、東条勇麻はアリシアという少女を助ける事を諦めようとしている。
(俺は、お前の事なんて何も考えない、こんなに自己中な馬鹿野郎なのに。お前の事を知ろうともせず自分の都合しか考えなかったような最低の人間だってのに! なんで……ッ!!)
「……だから勇麻、お主に一つだけ私からのお願いがあるのだ」
アリシアはただでさえ表情の硬いその顔を、緊張で真っ赤にして、
「今だけでいい! 今だけ、南雲龍也の代理品などでは無く、東条勇麻として、私の為だけに拳を握って欲しいのだ!」
その美しい碧い瞳から落ちる水滴が、月明かりを反射して光輝いた。
「私を……助けて!!」
少女の涙の落ちる音が、聞こえた気がした。
☆ ☆ ☆ ☆
(なんでお前は、こんな俺を信じてくれるんだろうな。アリシア)
少年は自分の身体に力が戻ってくるのを感じていた。
全てを諦め、逃げ続けてきた男に、少女は真正面からぶつかって来てくれた。
だからこそ、勇麻の中で何かが動き出したのだろう。
でも、
本当にいいのだろうか。もう一度立ち上がっても。
と、まだそんな事を考えてしまう弱い自分に、勇麻は呆れたように苦笑してしまう。
(そんなの立ち上がってもいいに決まっている。罪も義務も何もかもを失って戦わなきゃならない理由はもうどこにも無い、だけど――)
――拳を握って再び立ち上がりたいと思えるだけの理由を、東条勇麻は手にしていた。
(今だけでいい。次がなくたって構わない。俺に戦う力を、アリシアを助ける為に必要な力を……俺にッ!!)
きっと少年は、戦う理由が、拳を握るに足るナニカが欲しかった。
戦ってもいい、罪でも義務でも責務でもない。ただ、自分の心の奥底から生じる『ナニカ』の為に、拳を握りたかった。
もう無理だと思っていた。
自らの手で英雄を殺め、罪悪感から逃れるためにその代役を演じ続けてきたような人間には、もうそんな高尚な物は残っていないと思っていた。
けれど一人の少女が、そんな勇麻に教えてくれた。
誰かの為に立ち上がりたいと、望む心を。
一人の少女が与えてくれた。
心の奥底から戦いたいと思えるだけの理由を。
ならもう大丈夫だ。
東条勇麻は戦える。
かつてヒーローに憧れていたころのように、何のしがらみも無い、一人の男として拳を握る事ができる。
勇気の拳が勇麻の思いに呼応する。
右手が熱い。
(こんな所で終われない。アリシアを泣かせるヤツは俺が全部ぶっ飛ばすって約束したって言うのに、俺が泣かしてたんじゃ話にならねえだろうがッ! だから……)
満身創痍で、心臓を動かすのがやっとだった身体が、その足で大地を踏みしめて立ち上がる。
背中を刺し貫こうとしていた影の剣を、左手が強引に掴みとる。
折れているハズの左腕が、痛みを無視して動いて影の剣を真ん中からへし折った。
その異常とも言える事態に、驚いたのは南雲だ。
南雲は予想外の事態に慌てて後ずさり、勇麻から距離を取る。
「馬鹿、な。そんな、完全に……勇麻、お前ッ!?」
壊れんばかりの力で右拳を握る。
凄い力で爪が食い込み、握った拳から血が流れ落ちる。
握りしめる事が出来る。
戦える。
アリシアの為に、戦える。
「南雲龍也……いや、黒騎士!」
東条勇麻は決して正義のヒーローなんかじゃ無い。
人の為に戦って死ぬなんてまっぴらごめんだし、できることなら面倒事には関わりたくすら無い。
アリシアという少女一人を助ける為に『創世会』を敵に回すなんて、正直言ってナンセンスだ。
だけど、
一人の少女を助ける為に巨大な組織を敵に回すなんてストーリーは、
男として最高に燃えるとは思わないか?
「決着を付けよう。アンタとの過去に、俺の今までの人生に!」
過去の亡霊にもう用は無い。
今の勇麻は、南雲龍也を前にしてそう言いきれるだけの物を手に入れていた。
過去と対峙する。距離はわずか五メートル。
二人は共に身体中傷だらけで、すでに満身創痍。身体を動かす体力だってもうほとんど残されてはいない。
それでもその瞳に灯る闘志だけは枯れない。燃えるような瞳で、倒すべき相手を、過去のしがらみを見据える。
限界ギリギリの両者は、余力全てを絞りつくしてこの場に立っていた。
故に決着は一撃だ。
次の衝突で、全てに決着が着く。
「面白い! 勇麻、俺を殺せるものならやってみろよ。二度も兄貴を殺せる奴はそうそういないぜ!」
「殺すんじゃない、アンタを今ここで止めるんだ!」
「ははっ、やってみろよ。ヒヨッ子が!」
ようやく手に入れた大切な物のため、勇麻は今持てる全ての力を振るう。
「「お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!?」」
二つの絶叫が木霊し、二つの拳が交錯した。
肉と骨を打つ音、轟音。人間の倒れる音とが闇夜に響いた。
砂煙が晴れ、視界が開ける。
立っていたのは一人だけ。
そして、その人物は決して倒れなかった。
絶対に。
拳を振り抜いた姿勢で、東条勇麻は立ったまま気を失った。




