続・終話参 再臨の贋作英雄Ⅲ――VS.特異体/お前は俺が憎むべき悪だ:count 0
神の王の証たる銀腕が、反転し光輝く。
「――其が銀腕は神の王の証にして聖なる右の象徴」
謳うような詠唱が世界に響き渡る。
「――しかして反転せし我が銀腕は古き神王を退け、新なる時代を導かんとする破王の左也」
神王を王座より引き摺り下ろさんとする革命の英雄の求めに応じるように、反転せし銀の腕が錆銀色の極光を放ち、そして――世界の色彩が反転する。
「……今宵、神は地に堕ちる。我が頭上で輝く遍く星々、この一閃で以てその悉くを拒絶し否定せよッ! ――『反転せし銀の腕』ッッ!!」
――ブバッ!! 汚い水音が、耳朶を打った。
鮮やかさを取り戻した世界が、今度は目が痛くなる程に鮮やかな朱色に塗り潰される。
――銀腕一閃。南雲龍也の放った一撃は、見事に『特異体』の首を胴体より断ち切っていた。
切断面から噴水の如く噴き出す生暖かく鉄錆び臭い液体を全身に浴びながら、頬を赤いペンキで濡らした英雄は『銀の腕』に視線を落とすと、その感触を確かめるようにぐーぱーと掌を何度か開閉させてから、改めて金属製の拳を握り直す。
手応えを確かめ、反芻するような南雲のその動作には、確かな確信が宿っていた。
……目の前の怨敵を今度こそ殺す事が出来るという、凍える程に冷たく鋭利な確信が。
「――シーカー様ッ!?」
その誰もが予期しなかった光景に、『白衣の男』が顔色を変えて己の主の元へと駆け寄ろうとして、
「……おっと。悪いが、ウチのボウズの晴れ舞台なんだ。部外者の邪魔だなんて野暮な真似を、この俺が許す訳ねえだろ?」
その瞬間、『三本腕』白衣の男の眼前には世界最強の男が立ち塞がっていた。
その半ば失われた『神性』――それでも神の能力者如きでは到底抗えない神威を込めた全身全霊の一睨みは、『白衣の男』を本能的に震え上がらせた。
『特異体』の一柱である『狡猾の蛇』が不死の男を完全に硬直させその自殺さえも封じると、
「……フン。枯れた老兵相手にそういきり立たずとも、無駄な抵抗をする気はさらさらないわい。どうも勝算のない無駄な戦というものは昔から嫌いでのう……」
「その設定が真実であるならば、大いに助かるのだがね。……私としても、貴方のような実力者を日にそう何度も相手取りたくはない」
「世辞はよせやい。思わず殺る気になったらどうしてくれる」
『探求者』の危機にどこか愉快げですらあるコルライ=アクレピオスの前には『設定使い』が、その動きを牽制するように静かに立ち塞がっていた。
『探求者』と南雲龍也の一騎打ち、まさに終局を迎えようとしているその戦いの決着に介入する事を、『狡猾の蛇』は絶対に許さない。
『三本腕』の両名をその場に釘付けにし、英雄の為の舞台はここに整った。
南雲はそんな外野のやり取りなど歯牙にもかけず、ただただ己の倒すべき仇敵を見据えている。
その鋭い視線の先では頭の取れた『探求者』が両手を大仰に広げたまま壊れた玩具のように痙攣し、首の切断面から多量の血を噴き出している。しかし弱ってはいるものの、依然としてその命の灯は消えていない。『特異体』の命を完全に刈り取るには首を落とす程度ではまだ足りないのだ。
傍から見れば死体も同然の『特異体』の元へ、南雲は拳を握りしめたままゆっくりと歩み寄っていく。
終わりの見えないその命に、今度こそ終わりを齎すべく。
少年の足音一つ一つが、まるで処刑の時間を刻む時計の秒針のように響いた。
「知っているかよ、『探求者』。死からの復活……『再臨』ってのは英雄にとって重要な記号なんだ。俺も勇麻も一度は死んだ。そして、その死の果てに復活を経てここに立っている。それが何を意味するか、お前に分かるか?」
南雲龍也は九年前に黒騎士との戦闘で致命傷を負い、それが原因で死亡している。
東条勇麻は未知の楽園で『救国の聖女』に直接心臓を握り潰されている。
心臓を握り潰されたはずの東条勇麻は、心臓の再生と共に復活を果たし『救国の聖女』にも勝利を収めている。
九年前に死亡したはずの南雲龍也はご覧の通り、長い時を経て新たな肉の器の元へと見事『再臨』を果たした。
絶望からの再起。
死からの復活。
それは終焉を跳ねのける希望そのものであり、ある種の象徴として機能するようになる。
……例えば、生きて帰れぬと言われた世界一周の航海より生還した者が伝説となり、伝説に焦がれ希望を抱いた者達がその後を追い海に出るように。
……例えば、絶対に治らないと思われていた不治の病から奇跡の復活を果たした者が、同じ病を患う人々にとっての希望の光りとなるように。
……例えば、多くの死者を出す戦場で数多の敵を屠り鉛玉の降り注ぐ雨の中から必ず帰還する者が、不死身の英雄として仲間の希望となり敵側からは畏怖の存在として怖れられるように。
……例えば、とある神話における救世主の再臨の予言が今も多くの人々の心を掴んで離さないように。
どんな形であれ『再臨』の記号を得た存在は、より多くの人間から『希望』を託される存在へとその魂の格が昇華される。
それは、実際にその人物が死から蘇ったという事実を知っているかどうかは関係ない。
かなり噛み砕いて簡潔に言えば、人をより惹きつけやすい体質になる、強烈なカリスマ性を得る事が出来る、とでも言えばいいだろうか。
(……まあ、勇麻の場合は脳死前に無理やり心臓を再生させて生き返らせたから完全な『再臨』とはいかなかったけどな)
握り潰された勇麻の心臓を土壇場で再生したのは南雲の力だった。
――『独善なる慈愛』。
『正義叫ぶ断罪の拳』と対になる、南雲龍也の『希望の拳』が持つ力の一つ。
それは、南雲龍也が〝自身が愛すべき善なる存在〟と認めた者を癒しその負傷を回復するというもの。〝独善の慈愛〟という名に相応しい、南雲龍也の対象に対する感情にその効力を依存する異色の力だった。
善なる者に対する慈愛を癒しの力として具現化するこの力は、この九年間で勇麻の事を幾度となく救っている。
致命傷だった心臓の再生は勿論、常日頃から勇麻の回復力が異常の領域にあったのは、南雲がこの力で勇麻が傷つく度に体力や負傷の回復を行っていたからだ。
……勿論、『独善なる慈愛』も万能とはいかず完全に失われた心臓の再生に関しては腎臓の一つと肝臓の二割を新たな心臓の材料に使う他なかったのだが。
そもそも単なる人間でしかない東条勇麻は、勇気の拳の身体能力の上昇に耐えられるだけの強靱な肉体を持っていない。
肉体を壊しながらでも徐々に慣れさせていけば、筋肉は超破壊と超再生の繰り返しによって次第に強度はあがっていくだろうが、人としての骨格の方ばかりはどうしようもない。
勇気の拳の超強化によって肉体が壊れる傍から『独善なる慈愛』での超回復を行う事で、東条勇麻ははじめて普通の神の能力者と同じように戦う事が出来るのだ。
南雲龍也の『独善なる慈愛』がなければ、勇麻は自身に発現した『勇気の拳』でまともに戦うことすら出来なかっただろう。
本当に、あの少年はいつまで経っても世話の焼ける――
――と、そこまで思考を巡らせて、己の意識が大きく脱線している事に南雲は気付いた。瞳を閉じて、瞼の裏に浮かんでいる殺意と憎悪以外の余計なモノを振り払うように一度だけ首を振る。
(……馬鹿馬鹿しい。今更そんな感慨に耽って何の意味があるってんだか。此処に立っているのは勇麻じゃねえ、この腐った世界を救うべく『再臨』を果たしたのは俺だ。南雲龍也だ――)
――確かめるように心の中でそう繰り返し、もう一度目蓋を開けた時、英雄の心から余分な感慨や感傷は消え失せていた。
今はただ、再びこの地に蘇ったその役目を果たす時。
憎悪と殺意の果てに悪を滅ぼし世界を救う、それが南雲龍也に与えられた使命だ。
余分で余計な感情などに流されていいような状況ではないのだから。
☆ ☆ ☆ ☆
ディアベラス=ウルタードとクリアスティーナ=ベイ=ローラレイは南雲龍也『再臨』の瞬間を目にしていなかった。
故に、眼前の光景に対する驚愕と衝撃は、周囲のソレよりも断然高い。
「冗談、だろぉ。あのシーカーがぁ、一撃だとぉ……」
「……凄い。けど、アレは……東条勇麻では、ない」
『設定使い』がその設定で造りだした異空間に閉じ込められていた彼等が、その干渉力でもって強引に異空間を突破して外に出た時に目にしたのは、シーカーによって東条勇麻の肉体が吹き飛ばされるその瞬間だった。
その時点で既に『再臨』は成され、東条勇麻の肉体は南雲龍也の物となっていたのだが、『再臨』の瞬間を見ていなかった二人にはそれが既に東条勇麻の人格を喪失した他人であるという判別がつかなかったのだ。
「……そんな。止められなかった……? 『再臨』が既に、成されてしまっていたなんて……」
最早視線をやるまでもなかった。
自分の隣で呆然と言葉を零す少女の赤い瞳が動揺に揺れ、その戦意の炎が大きく揺らいでいる事がディアベラスには手に取るように分かってしまう。
何せ、未知の楽園で東条勇麻たちと絆を結んで以来、『特異体』の真実とスネークの狙いを知っていたクリアスティーナは、地上に脱出した自分達の生活を必死に安定させる傍ら、東条勇麻の肉体を使った『英雄の再臨』を防ぐために寝る間も惜しんで情報収集や打開策の立案に奔走していたのだ。
諦観と停滞に沈んでいた自分に手を差し伸べ、街の危機には肩を並べて戦ってくれた東条勇麻は、クリアスティーナにとって逃亡者の集い旗の家族たちと同じくらい大切な友であり、その手で守り抜きたいと思う存在の一人になっていた。
それを、その現場に立ち会いながらその瞬間に間に合う事も出来ず失ったのだ。そのショックは、喪失感は計り知れない。
そしてそれは、ディアベラスにも全く同じ事が言えた。
東条勇麻は逃亡者の集い旗との絆を失ってから初めて出来た対等な友であり仲間であり、共に未知の楽園の戦いを潜り抜けた戦友だ。
世界を救うだとか、ご大層なお題目を掲げる上から目線の『特異体』連中に利用されようとしている友を守りたいと、助けたいと必死に行動していたのはディアベラスとて同じ事。
故に不意打ちで突きつけられたその喪失は、側頭部をハンマーで殴られたような衝撃をディアベラスに与えていた。
「……くそったれがぁ! 結局、俺達ぁ『特異体』の掌のうえって事なのかよぉ……っ」
……海音寺流唯が死亡したあのタイミングで『設定使い』が態度を百八十度豹変させ足止めに回った時点で最悪を予想したのも確かだ。だが、脱出直後に目にした東条勇麻の姿は、二人の目には東条勇麻その人であるように見えた。
だから、見たくない現実から目を背けるように『再臨』は果たされなかったのだと、そう都合よく自分を納得させていたのかもしれない。
……ああ、きっとそうだろう。最悪の事態を、絶望の結末を判断できる要因はそこらじゅうに転がっていた。
弾け飛んだ血肉の欠片が、クライム=ロットハートの成れの果てであること。壁に叩き付けられたのか、意識を失っている九ノ瀬和葉とその傍に膝立ちで座り込むダメージの残る天風駆。周囲の神の能力者達の絶望に凍てついたような表情。
それらの要因からいくらでも状況を読み取ることは出来たハズなのに、ディアベラスは最悪の事態を恐れ、現実から逃げだし、判断を先送りにしてしまったのだ。
だが。
「――……いや」
それにしてはやはり何かが引っ掛かる。
あの時見た少年が東条勇麻でなく既に南雲龍也であるというのなら。
……単純な見た目だけではない。
見た目は変わらないのだから東条勇麻に見えて当然だとか、そういう話ではなく。もっと根本的な、魂の色とでもいうべき不可視の――けれど確かに感じるその人の魂の色彩とでも呼ぶべき曖昧な何かが。
その佇まいの中に確かに感じた東条勇麻の雰囲気が、残滓が。
『再臨』が果たされたハズの英雄の中に、それでも東条勇麻という存在が色濃く残っているという事実は――
「……なあ、アスティ」
――微かな『希望』に、繋がるのではないだろうか。
「『再臨』ってなぁ、成されたらそこで本当に手遅れになっちまうモンなのかぁ?」
「え?」
その時だった。ディアベラスの元へ、後方支援に徹していた生生と竹下悟からの通信が入ったのは。
☆ ☆ ☆ ☆
死からの復活。
絶望からの再起。
南雲龍也が九年前に仕込んだ種は、発芽の時を迎え、ここに英雄の『再臨』は果たされた。
――終焉を跳ねのける『希望』、象徴としての記号『再臨』。
しかし、元より『再臨』は東条勇麻にとってはそこまで重要ではない『記号』だった。
……アレは『再臨』など関係なく、その希った想いの力でより多くの人と心を結ぶ事ができるはずなのだから。
しかし――そんなついでで取得した『記号』も、こちらに転んだのならば十二分に意味はあった。
より多くの人間からの『希望』を託される存在であるという事は、より多くの人間からより多くの感情を受け取る事が可能になるという事。
なにもその感情は『希望』に満ちた明るいものだけではないだろう。
その人物にとっての『希望』が――『願い』が何たるか。それは、その人物の背負うモノ、生きる背景、経てきた過去によって大きく変わるのだから。
で、あれば。『再臨』の記号は南雲龍也の『希望の拳』――『正義叫ぶ断頭の拳』の強化にも大きく繋がる。
今はまだ心身が完全に一致していない為威力にムラが見られるが、器と人格が完全に一致した時、依然よりもその力は強力なものへと昇華されるだろう。
「……今の俺は人間だ。しかもただの人間じゃねえ。死してなお復活を果たした『再臨の英雄』ってヤツだ。どうだ、探求者。お前のように不死身を謳う人外を殺すに相応しいとは思わないか?」
当然ながら南雲の問いかけに頭部を失ったシーカーからの返事はない。
しかし、頭部を失った『特異体』は今なお生きている。
魔力を制御する司令塔である『知恵の実』のある頭を胴体から切り離されて、それでもなお魔術的な繋がりによって魔力を熾して魔術を発動し、何らかの手段で肉体を再生しようとしているのが龍也にも感じられる。
こんな有り様になってなお致命ですらないというのだから、恐ろしさを通り越していっそ呆れる不死身さだ。『特異体』という存在が、姿形は人と似通っていても根本的に別の生命体なのだという事を改めて思い知らされる。
こいつらはズボンに空いた穴を糸と針で縫い塞ぐような手軽さで首と胴体をくっつけ、もしくは千切れた頭部を再生させるなり事象を回帰させるなりの裏技を駆使し、何事もなかったかのようにその生命活動を再開・継続させていくのだろう。
しかし。
「――どうした? 不死身の怪物らしくもない。まだ復活できねえのか?」
そんな『特異体』の魔術の発動を、致命の再生を、南雲龍也の『反転せし銀の腕』が妨害していた。
神の能力者の『神性』の高さは干渉レベルに大きく影響を及ぼすように、『特異体』の強さにも『神性』は大きな関わりがある。
『神性』を大きく失った『狡猾の蛇』が半端者や半神などと蔑まれている事からも分かるように、『特異体』にとって『神性』とは存在としての強さそのものに直結する要素なのだ。
神器『反転せし銀の腕』により著しく『神性』を低下させられ、かつ魔術を扱う為の器官である『知恵の実』が存在する頭部を肉体から切り離されてしまっている今の『探求者』に、肉体を再生させるだけの魔術を瞬時に構築するだけの力はない。
時間を掛ければこの状態からでも復活は充分に可能だろうが、逆に今ならば復活前に殺しきる事が出来るという事だ。
『知恵の実』のある頭部さえついていれば低下した『神性』でもその程度の力の行使は容易だっただろう。
仮に頭が取れたとしても常の『神性』の高さであれば取れた首を抱えたままでも笑いながら戦闘を継続しただろう。
しかしそれらが同時に『探求者』を襲った事によって、彼の『特異体』にとっても想定外であろうまさに絶体絶命と呼ぶべき状況が生じている。
……殺せる。
本来であれば同じ『特異体』を除き、この世の誰にも殺す事ができないその超高位存在に、今なら手が届く。
『神性』を持つ者による殺害を禁ずる最上位の『神性』たる『神性原典』による権能を、東条勇麻の人間の部分が回避する。
……そして、『特異体』はもう一つ、人類に対して強く作用する『逆説的人類設計図』と呼ばれる特殊な権能を有しているのだが、それによって発動する効力は高い『神性』を持つ南雲龍也の部分で回避する事が出来る。
今の龍也は人間である東条勇麻の肉体を器としている存在だ。
『南雲龍也』という人格に『神性』は付随しているが、実際に行動をする動く肉体は『神性』を有さない人間『東条勇麻』。
肉体は『神性』を持たない人間『東条勇麻』のモノであるが、それを操る主体たる人格は『神性』を有する『南雲龍也』。
東条勇麻という器に『再臨』する事で得た、そんな反則じみた二律背反の迂回路を用いる事で、英雄の少年は『特異体』を殺す手段を有する文字通り唯一無二の存在となっていた。
南雲は、少し離れた位置に転がる男の頭部を憎悪を込めて睥睨する。死灰色の長髪は、流れ出る血潮に朱色に染まり始めていた。
物言わぬその頭部目掛け、南雲は目障りな羽虫を払うような軽い動作でその場で右拳を振るう。
べちゃり、と。
ただそれだけで『特異体』の頭が内側からトマトのように弾け飛ぶ。
『神性』と『魔力』による加護を失い、その身を守る特異性、権能のほぼ全てを回避された超常の支配者は、英雄の少年にとって最早動かぬ的でしかなかった。
頭部を破壊した南雲は、次に魔術を扱う司令部たる『知恵の実』を潰してなお魔力を熾し続け復活を試みている首から下の肉体へと冷たい視線をやって――
「……探求者、お前の行いに正義はない。……かつても、そして今も、その行いの根底にあるものは探求心とは名ばかりの醜く悍ましい底なしの欲望だ。情緒酌量の余地も、生きる価値もありはしねえ」
――吐き捨て、拳を振るう。『特異体』の右腕が捩じ切れ中空に飛んで、花火みたいに爆発する。血の雨が降り注ぎ、それを一身に浴びる英雄の喰いしばった歯が砕け、握った拳は彼自身の握力に零れだす血と『特異体』の血との判別すら碌につかない程に真っ赤だった。
「俺はお前を許さない。お前が世界の支配者で、その悪行全てをこの世界が許すというのなら、俺は唯一つの絶対正義として、世界さえも裁いてみせよう。俺の全てで、お前を細胞の一片まで残らず殺し尽す」
痛みが、痛い。痛くて痛くて、どうしようもなく痛くてたまらないのだ。心臓が、そこにあるとされる心が、この身が、この魂が……! 憎悪と殺意に止まらぬ血を流し続けきた己という存在が、全身を苛む歪んだ痛痒が、終わらない苦悶を少年に齎し続けてきたから。
もう一度、振るった拳に今度はその左腕が内側より爆ぜ飛ぶ。さらにもう一度、もう一度、もう一度……。
英雄の少年が繰り返し拳を振るうたびに、部位単位で『特異体』の肉体が中から弾け壊れていく。
少しずつ体を破損させ、甚振るようなその行為は、しかし南雲龍也が私怨に溺れて死の苦痛を長引かせようとしている訳ではない。
魔力を制御し魔術を扱う司令部たる『知恵の実』を失い、神器『反転せし銀の腕』の効力によってかなり『神性』が低下した今となっても南雲龍也の一撃で『特異体』を殺しきる事は出来ず、『特異体』を完全に殺す為にはその部位ごとに完全に破壊しきる他に方法がないからだ。
僅かでも原形のある肉塊を残せば、この不死の超常存在はそこから再生して蘇ってしまう。
だから念入りに、丁寧に、確実に、徹底的に、肉片一つ残さず滅殺しなければならない。
「求む答えに辿り着く為に数多の命をイタズラに消費し欲望のままに人を貪り喰らうお前は――」
拳を振るう。血肉が跳ねる。拳を振るう。血肉が飛ぶ。拳を振るう。血肉が弾ける。拳を振るう。血肉が舞い散る。拳を振るう……
……この身を蝕む消えない憎悪に、心と体を引き裂かれ続けてきた。
断ち切れぬ憎悪と殺意の連鎖に呑み込まれ、その宿業に囚われ続けてきた。
殺意に眠れぬ夜があった。
憎悪に凍えた朝があった。
正義が正しくなされない世界への絶望があった。
正義そのものである自身への憤りがあった。
温かな希望への憧憬と、羨望と妬みがあった。
だがそんな無限の苦痛も、終わらぬ憎悪も、もうじき終わりを迎える。
幾億もの夜と朝を越えた果て、不倶戴天の仇敵へとようやく手が届いたのだから。
「――……あぁ、俺が憎み殺すべき悪だ」
殺意と憎悪が滲み、透けて見えるような言霊だった。
万感の憎しみが籠められた死刑宣告の言葉がぶつられた時には、既にシーカーの肉体はその四肢を全て損壊させられ喪失し、腰から上の寸胴と化した胴体部分が残るのみとなっていた。
――あと一撃。あと一撃で全てに片が付く。
この場にいる誰もがそんな確信にも似た思いを、誰に言われずとも本能として共通の認識としていた。
既に、『神性原典』による『神性』持ちに対する神威の威圧は消えている。
だというのに、誰一人として、勝利の歓声を叫び英雄の少年の元へと辿り着ける者はいない。
それほどまでに、この場で行われた行為は良識ある正義の範疇を遥かに超越した残虐非道な惨殺行為としか見えなかったのだ。
――『特異体』という存在を倒す為には、そうするしかないのだと分かっていても。それでも思わず目を逸らしてしまう程に、それは苛烈で凄惨な処刑だった。
「……血塗れ、英雄……」
――思わずそう零した誰かの言葉が、完全に日の沈んだAEGスタジアムに寒々しく響く。
……ぽつり。ぽつりと。血で濡れたボロボロの石舞台に、雨音が走りはじめる。あれだけ晴れ渡っていた空から陽は完全に落ち、舞い落ちる雨粒の奏でる独唱は、徐々にその間隔を狭め次第に切れ間ない音色の弾幕となって世界を覆っていく。
(……。泣いているのか、海音寺)
――その寂しげな音色に、思わず天を仰ぐ。
血塗れ英雄の血を必死に洗い流そうとするかのような雨に、しかしその手にこびり付いた血の赤が薄れようとも、汚らわしい鉄錆びの匂いと幻影の赤は消えはしない事を南雲は知っている。
誰よりも純白で穢れなき悪なき世界を求める処刑人。その手が世界の誰よりも最も穢れ血塗られた手であるという事を、果たして南雲龍也はいつから理解していたのだろうか。
(……お前はやっぱ変なヤツだな、委員長。でも、もういいんだ。もう、全部終わる。俺がこの手で終わらせるから)
南雲龍也は人類の危機に現れた再臨の英雄で、正義の味方だ。笑顔のままに全てを救う、完全無欠のヒーローだ。
だというのに、そのハズなのに。
平和の為に悪を倒すという一見綺麗で正しく思える字面の行為でさえも、ここまでくると恐怖と嫌悪感に後味の悪さしか残さない。
あまりに血生臭く、あまりに残酷で残虐な殺戮。
とてもではないが、これを成した存在が正義だとは思えない。そんな悍ましく凄惨な血肉の地獄に、しかし悲劇を終わらせるべく世界に求められた処刑人は雨に打たれ独り立っていた。
だがこれこそが英雄だ。これこそが正義なのだ。
――一人殺せば人殺しで、十人殺せば殺人鬼、しかして百人殺せば英雄で、千人殺せば神となる。それが世界の、人の世の理だと言うのならば。
その拳で幾百幾千の悪とその野望の悉くを砕いてきた南雲龍也という男は、紛れもなく正真正銘の英雄だった。
……新たな希望を拒んだのは東条勇麻だ。人類だ。
絶望に沈み、憎悪に逃げ、殺意を肯定したのは英雄でも正義の味方でもない。他でもない人類こそが、その選択を良しとした。
絶望と憎悪の果てに、誰もが望み求めた処刑人こそが世界を救済する唯一無二の英雄。愚かな人類がいつの世も繰り返し求める、最後の希望なのだから。
血で血を洗い、悪を純白すぎる正義で塗りつぶして漂白する。
そこには何一つ残らない。癌細胞を一つ残らず体内から切除し取り除くように、悪の命など欠片さえも許容せずに残さず滅ぼし終わらせる。
その潔白すぎる純水の如く不純物の一切混じることなき正義こそが、南雲龍也という男の目指す正義なのだから。
だから、悪を殺し滅ぼし尽すというこの行いは、何一つ間違ってなどいない。そう、少年は断言する事が出来る。
……ここで全てを終わらせよう。
その為に、その為だけに。
憎悪と殺意に突き動かされる南雲龍也という英雄は、『特異体』という絶対悪を滅ぼす為だけに絶対正義としてこの世に存在しているのだから。
「――此処で死に絶えろ、癌細胞……ッ!」
最後となる終わりの一撃を、握り締め引き絞った右拳で放とうとした、まさにその瞬間だった。
ポン! と、どこか気の抜けるいっそコミカルな爆発音と共に、南雲の背後に球形をした黒い靄の塊が生じたのだ。
空間、あるいは時空を跳躍して現れたとしか思えない突飛な出現に、誰もが目を奪われ、南雲龍也でさえ振り上げた拳をその場で止めて、突如として起こった怪現象に思わず背後を振り向いていた。
そして、その判断こそが、『特異体』と英雄の少年の戦いの明暗を分ける事となる。
――世界に、空隙が生じる。
……どういう訳か、南雲はその黒い靄の塊から目を離す事ができなかった。抗えない強制力じみたナニカに吸い寄せられるように、南雲の視線はそれに釘付けにされている。
その靄の異常性に真っ先に気が付いたのは、自身も『特異体』である『狡猾の蛇』――『神性』を込めた睨みによって『三本腕』の一本である『白衣の男』を抑えていたスネークその人だった。
「――あれは、『時の牢獄』? ……まさか『星の管理者権限』を使って……ッ! ……不味い、中身はまさか彼女か!?」
血相を変え、白衣の男の存在など頭の中から吹き飛んでしまったかのように焦燥を露わに、今度はスネークが死にかけの『探求者』の元へトドメを刺すべく駆けよろうとして――
「――おっと。息子様の晴れ舞台、無粋な邪魔者は許さないのでは……?」
視線が外れた事で硬直から立ち直った白衣の男が、自死を利用した空間転移によってスネークの前に立ち塞がる。
……スネークにとってこの程度の存在は足止めにもならない雑魚同然。しかし、死の度に任意の座標へと転移しながら復活を繰り返すこの男のしつこさはこの状況では厄介そのものだった。
蘇生の都度に即死させようと、シーカーの元へたどり着くまでに最大0.5秒は時間を稼がれてしまう。
そして、その僅かな時間が今は致命的だった。
「龍也ァ! それにかまうな! 今すぐに探求者を――」
――捕えた者に強制的な時間旅行を与える『時の牢獄』その扉が、『探求者』があらかじめ設定した時へと辿り着き、およそ七日間の時を経てこの瞬間に解き放たれた。
口を開けるように上下左右に開いた黒い靄の中から転がり落ちたのは、アメジストのような輝きを秘めた紫の髪と、同色の美しき瞳を持つ露出度の高い黒衣を纏った十歳にも満たない褐色の幼女だった。
「――へぎゃ!?」
お尻から落下した幼女は、そのまま鞠のように弾んで、最終的にぺたりと地面にうつぶせの状態での着地を決めて、
「……いたた。うぅ、お尻を、お尻を打ったのじゃ。……『探求者』め、いきなり『権限』を濫用するとはふざけた真似を――」
お尻をさすりながら顔をあげた先、幼女と東条勇麻――の姿をした南雲龍也との視線とが、真正面から至近距離にてぶつかりあった。
「お、まえ。は……まさか……」
「……ゆう、ま……? なぜ、ここに……」
困惑と喜び、不安と高揚、絶望と希望、恐怖と安堵。複雑でしかしそれでいて温かな感情に激しく波打ち動揺する幼女の声に、東条勇麻ではない英雄の少年は驚愕に目を見開いて――
「――……『厄災の贈り物』。お前は……お前はァッッ!! 俺が、俺が憎むべきッ、悪だァああああああッ!!」
☆ ☆ ☆ ☆
――続・終話参 再臨の贋作英雄Ⅲ――VS.特異体/お前は俺が憎むべき悪だ:count 0
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