第※話 ザ・エンディング・■■・■■■■■■Ⅱ――■■■■、■■■■■■/■■・■■■■■。■■、■■■■■■■■■■■:count 1
流れる時間が、粘つく。
飛散する赤い水飛沫、その一粒一粒の形まではっきりと視認できる。そんなスローモーな視界の中、勇麻は呆然と目を見開いて、間抜けな声を半開きの口から垂れ流していた。
「え……?」
あまりに唐突過ぎて、理解が追い付かない。
戦いは終わった。デザインキメラを討伐し、墜落するオリンピアシスによる大災害を回避し、天風楓を救い救われた。
最後の最後で大団円の幸福な結末を、少年が掴み取りたかった笑顔を、確かにこの手にしたハズだった。
なのに。咄嗟に勇麻の身体を突き飛ばした海音寺流唯が、どうして背中を斬り付けられて真っ赤な血を飛び散らせているのか。
――そもそもコイツらはどこから湧いて出た……?
ほんの数瞬前まで誰も居なかったハズの海音寺の背後に、極寒の冷気を伴い突如として現れた二人の乱入者の存在を、視認はしても頭が認めようとしない。いや、認めんとしないのは勇麻の心か。
まるで凍り付いた時の中を歩いてきたかのように、突如として現れた事も、海音寺流唯が斬られている光景も、東条勇麻にとっては決して認めたくない現実で真実だったから。
時間を跳躍して現れたとしか思えない二人、そのうちの一人が浮かべる愉悦に歪んだ見覚えある表情を目にした途端、勇麻から冷静な思考が一瞬で剥がれ落ちた。
怒りが憎悪が沸騰し、右の拳に力が収束していくような感覚を感じ――
――瞬間、時間の流れが元に戻った。
ビチャチャッ、と飛び散った血潮が汚い音と共に石床にはねる。
突き飛ばされた勢いのまま、勇麻は海音寺と共にごろごろと石舞台上を転がった。
回る視界、誰かの悲鳴が耳を劈く。
一斉に殺気立つ仲間達の干渉力が肌を震わせる。
生暖かい粘性の液体が、頬に付着した。警告めいた悪寒がやまない。
転がる勢いを利用して立ち上がり、勇麻はすぐさま拳を構える。
背中を斬り付けられた海音寺もまた、勇麻のすぐ横で跳ね起きるように立ち上がると、どうにか臨戦態勢を取った。
しかし、負傷を庇うような明らかにバランスの狂った海音寺の立ち姿に、先の一撃によるダメージの大きさが容易に窺えてしまう。
「海音寺先輩ッ!?」
「――大丈夫、少し血を失っただけだ。それに、もう止まってるだろうから……っ」
苦渋に満ちたどこか余裕のない海音寺の声が響く。確かに、出血は止まっているのか、斬撃を浴びた直後に飛び散った以上の血が流れている様子はない。
ホッとする勇麻。
しかしそれは、傷が浅いからではないという事に、混乱する勇麻は気付けない。
状況は、こちらの動揺を待ってはくれない。
「――僕のことはいい、集中しろ来るぞッ!」
「――なっ……!?」
海音寺が叫んだ直後だった。
冷気が肌を縛り上げたと思ったその刹那、再度視界からその姿を見失ったと思ったその時には、既に男の身体が勇麻の懐深くまで侵入する事を許していて――
――あ、死んだ。
疑問を挟み込む余地すらなく、本能的に己の命の終わりをそう直感して――
「――くっ、危ない龍也ッ!?」
東条勇麻の腹を穿つハズだった、氷の刀による刺突。その切っ先は。
タックルするように肩をぶつけ、勇麻を突きとばした海音寺流唯の腹に深々と突き刺さっていた。
「え」
間抜けに尻もちをついた勇麻は、目の前の酷く現実味に欠けた光景に世界がぐにゃりと捻じ曲がり、足元から急速に遠ざかって色を失っていくのを錯覚した。
「……ごぼっ」
吐血。
海音寺の背中からきっさきが飛び出し、空気に触れる刃を伝う艶めかしくぬめる鮮血が大地へと滴り落ちる。
シュウシュウと、耳をくすぐる肉が焼け焦げるような音は、氷の刃によって斬り付けられた海音寺の傷口が急速に凍り付いていく音だった。
海音寺の背中の出血がすぐに収まったのは、氷刀の力による強引な凍結の止血があったからなのだと今更のように気付く。――それが酷い現実逃避だと心のどこかで理解しながら。
海音寺は口元から多量の血の泡を溢れさせながら、しかし笑みを浮かべて己の腹に穴を開けた男を見て、己の腹を抉る氷で造られた日本刀を右手で握りしめた。氷刀に触れた右手が、その指先から氷結の侵食を受けて氷に覆われていく。
「……アナタに、会いっ、……たかった。ひさし、ぶりですね。……氷道、先生。――いえ、義父さん……っ」
海音寺は血塗れの笑みをさらに深め、その顔にいっそ壮絶な笑みを刻み込みながら、緩慢な動きで『匣の記憶』を握った左手を動かし、今にも己を殺そうとする軍用インナーの上から羽織を羽織った時代錯誤な男に――氷道真に触れようと必死でその手を伸ばして――
――刹那、腹から引き抜かれた氷刀が再度閃き、鋭い斬撃が一瞬で海音寺流唯の左腕を刈り取った。
斬り飛ばされた物体が、スプリンクラーのように血を撒き散らし回転しながら空を舞う。
どこか他人事な風切り音を引き連れて、肩口から切断された肉塊はべちゃりと重たく湿った音を鳴らして地に落ちた。
落下の衝撃に、握りしめていた『匣の記憶』が掌だった肉塊から零れ落ち、刀を引き抜かれた海音寺は支えを失ってその場でがくりと膝を突いた。
体内では気が狂いそうな痛みが渦巻いているはずなのに、絶叫するだけの余力すら残されていないのか、海音寺は叫びの代わりに口から魂の抜けたような乾いた音を吐き出すだけだ。
体内の傷口すら凍り付いてしまったのか、血の塊一つ吐き出さない。腕の切り口も同様で、海音寺から切り離された左腕だった肉塊だけが、生きていたことを証明するかのように温かい血潮を切断面から垂れ流していた。
直後、海音寺の代役だとでも宣言するかのように、獣の如き咆哮が、その惨劇を見ていた少年の口から迸る。
「――ぁあああああぁぁぁああああああああああぁあああああああッッ!! 海音寺せんぱぁああああああああああああああいッッ!!」
無我夢中だった。頭が真っ白に白熱し、他の全てが脳から吹き飛んだ。
我を失い、状況も敵の存在もその全てを忘れて叫び、勇気の拳で強化された脚力を爆発させ片腕を失った先輩に駆け寄る。
駆け寄って何が出来るのかは分からない。そんな事は知らない。でも、それをしない選択肢は存在しない。考えるより前に身体が動いていた、まさにそう表現するにふさわしい脊髄反射のような東条勇麻の行動は――しかし状況を覆すにはあまりに短慮で意味を伴わない。
近寄った海音寺の身体から、やはり出血はない。
斬り飛ばされ腕を失った肩口は目に見えて分かる程に冷たい氷に覆われ、穴が開いたハズの腹や背中にも冷たい蓋が張り付き、海音寺の命を繋いでいる。口からの吐血も収まっているようだ。しかしそれは、傷口を中心として海音寺の肉体が急速に氷結の侵食を受けている事を表していた。
――不可避の死が、近づいている。
背筋を舐める最悪の感覚に、最早勇麻は自分を誤魔化す事すらできなかった。
「誰か、誰かっ、海音寺先輩の傷を……、このままじゃ、全身が凍りついて、海音寺先輩が……ッ」
何をどうすればこの悪夢のような現実を跳ね返す事ができるのか。
海音寺や自分を狙った敵の存在すら思考の彼方へと忘却させ、都合のいい救いに縋るように、ただ言葉を氾濫させる。
どうすればいいのか分からなず、混乱の極みにある頭は、手段を求めるのではなく一つ飛ばしに結果を求める事しかできない。
状況を正しく把握する事も出来ず、救いを求める〝誰か〟が誰なのか自分でも分からない。そんな曖昧な問いかけに答えられる人物など、いるハズもないのに――
「――なぁ、気分はどうよ」
そんな一言が、誰も答えられないハズの少年の問いかけに応じていた。
声は――救いではなく悪意を齎すその声は――ニヤリと。ニヤリと二人の獲物の無様を見て横に引き裂いた口元を吊り上げる。
「ずっとずっと探していた、助けたかった最愛のお義父様からぶっ殺される気分ってのはさぁ。一体どんなモンなんだ? いや、真面目にこれが想像つかなくってさァ。なにせお父チャンとかとっくの昔にこの手でぶっ殺しちまったもんでな! だからなあ、教えてくれよ海音寺流唯。今どんな気分……?」
半狂乱の呈で海音寺の元に駆け寄り喚き散らす勇麻と、その身から干渉力と殺気と敵意とを迸らせながら凍り付いたように何も出来ないでいる周囲の人間の怒りの視線を気持ち良さげに一身に浴びるその男こそが、皆の笑顔を最後の最後で打ち壊した全ての元凶であった。
「……キひゃッ! キヒヒャッ、ハッハハハハハハハハハハハッハハハハハ!! アビャッ、ヒャハハハッハハハッハハ!!!! ――グッッッモーニンエブリワァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッッ!!!!? ハロー皆々様方ァ、夢のようなひと時は楽しかったかなァ!??? でもでも、ここで残念なお知らせチャンの時間でぇえええええええええすッ! はい毎度おなじみ、そろそろ都合のいいハッピーエンドちゃんから胸糞愉快な現実チャンへのお目覚めの時間っつー訳よ! 朝だよ起きてー、皆大好き俺チャンことクライム=ロットハートが、だらしなぁああああいお寝坊チャン共の為に耳元でフライパン鳴らしに来てやったぜェ!? ……つーかさ、このまま大団円で終わるとか思っちゃた、思っちゃった? バッカじゃねえのぉおおおお!!? んな訳ないじゃんよォ、この俺チャンのお楽しみ予定を狂わせておいて、生きて帰れる訳がねえっしょ……ッ! ……ぶひゃ、ヒははっはははっはははっはははははははははっははははははははははっっ!!」
運動不足な華奢な背中を猫背に丸めた、不健康そうな男だった。
背中に掛かるほど長く伸ばした色のくすんだ金髪に、隈の浮かぶ目つきの悪い一重まぶた。
首から多量の垂れ下げたチェーンやネックレスが今もじゃらじゃらと不快な音を打ち鳴らし、それが男専用のバックミュージックを奏でている。
しかし男を表すうえで最も特徴的なのはその軽薄な態度とふざけた口調だろう。
人の神経を逆なでし、悪意をもって邪悪の限りを尽くして人の心を弄び破壊し快楽を貪る唾棄すべきその刹那的快楽主義者の名は、忘れたくても忘れられない呪いのように勇麻の脳裏にこびり付いている。
怨嗟と憎悪と殺意と嚇怒を伴って再生される、その悪逆の名は――
「――ァあああああああああぁあああああああッッッ!!! クライム、ロットハートォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」
「ひぃいい!! ごめんなさい嘘です許してもうしません!!! そんなおっかない顔で迫られたら俺チャン怖くて手が滑っちうから――だから、落ち着いてくれよ勇麻チャン。〝コレ〟、見えない?」
嚇怒の絶叫を上げ、瞋恚の炎で燃え上がらせた勇気の拳を握り締め、一気呵成に突撃しようとする勇麻をその一言が――否。クライム=ロットハートがその右手で掴んだものの正体が、勇麻の足を縫い止めさせた。
「……っ!?」
……そこでようやく、東条勇麻は自分達の置かれた致命的な状況に気が付いた。
クライム=ロットハートを取り囲んだ女王艦隊の精鋭。
神門審判の力をもつアリシアや、彼女と同じ神の子供達へと覚醒した天風楓に、その兄である天風駆。
北御門や勇火やシャルトル達。そして中空にて下手人を睥睨する神の子供達。
彼ら各都市最強クラスの実力者たちが、どうしてこの最低最悪の悪逆の徒を前にして、固まってしまったかのように身動き一つ取れないでいるのかを。
これ以上の怒りがあるのかと自分でも驚くくらいに、さらなる怒りが胸の奥から膿のように滲みだし、やりきれない悔しさに奥歯を磨り潰す。
しかし何も出来ない。目の前で今まさに起ころうとしている悲劇を前に、クライム=ロットハートという悪意を前に、東条勇麻はどこまでも無力だった。
勇麻たちの視線を釘付けにするのは、クライム=ロットハートではない。その右手、その先。
クライム=ロットハートの右手が掴んでいるのは、明るい茶色のショートヘアーだった。
「……キへへ、俺チャン一度でいいから言ってみたかったのよねぇ~、ベタっちゃベタだけど、だからこそやっぱり憧れるっしょ? ほらいくぜ勇麻チャン――」
快活で涼しげな肩だしTシャツに、下はスパッツ一枚という天真爛漫でスポーティーな女の子。
年上のくせにフレンドリーでやけに子供っぽくて、その癖ここぞという大一番では頼りになる肝っ玉の据わった彼女に、まだまだ短い時間の付き合いながら勇麻は強い親しみを覚えていた。
対抗戦が終わったら海音寺先輩抜きで後輩くん後輩ちゃんと遊びに行くんだと、人を構ってちゃん扱いした海音寺に拗ねたように言っていた事を覚えている。
楓の為に絶対に勝ちたいと言った勇麻の気持ちに応え、その身を削って勝利に貢献してくれたことも。背中を押してくれた事も。
覚えている。覚えて、いるのに……。
「――〝動くな、こいつがどうなってもいいのか〟? ひ……ヒヒ、ヒヒャハッハハハハハ!!!! ほ、ほんとにどいつもこいつも動けないでいんのォお!! ンんんんんんんんんぎんもぢぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいッッ!!??!」
鈍い勇麻でも分かる。海音寺流唯に対して、淡い感情を抱いていたであろう少女――
「――す、ず……」
戌亥紗が、クライム=ロットハートに髪の毛を乱雑に掴まれたまま、明らかに正気ではない茫洋とした瞳で虚無を眺めていた。
☆ ☆ ☆ ☆
空に浮遊する大都市オリンピアシス落下。衝撃により観客席の一部が倒壊し、瓦礫に生き埋めになる人が発生したり、恐慌状態に陥った集団では将棋倒しが起こり、家族友人と離れ離れになった者や行方不明者が出たりした。
その突然の緊急事態により生じた出来事の中に、こんな一幕があったのを覚えておいでだろうか。
「大丈夫、君のことはお姉さんがちゃーんと守ってあげるから! だから、ね? もう泣いちゃだめだ」
「うああぁ……えぐっ、ひっく……おどっ、さん。おがあ、ざん……ひぐっ、へんなっ、こわい人、いやあぁああぁ……っ」
戌亥紗。
落下の恐怖によって発生したパニックに巻き込まれチームメイトとはぐれてしまった彼女は、同じように騒動の中で両親とはぐれた五歳の男の子を積み重なる瓦礫の間に生じた小洞窟のようなスペースで保護していた事を。
瓦礫と瓦礫の間にいるものの、二人は生き埋めになっている訳ではない。
集団からはぐれた際に孤立している子供の匂いを偶然感じ取った戌亥が、この小さな空洞に隠れている男の子を発見したのだ。
いつ崩れるか分からないという危険は勿論あるが、眼前にはきちんと出入り口が口を開いていて外との繋がりを保っていた。
「ほらほら、元気だして! お父さんもお母さんもきっと無事だよ。けど、君が泣いてたら二人はきっと心配しちゃうからさ。ほーら、男の子だろ~ほんとはとーっても強いってお姉さんちゃんと知ってるんだぞ~」
「ぐずっ、うぅ……ひっ、すん……うん、分かった」
「よーし! ほーらやっぱり強かった。うんうん、お姉さんの見込みどーりだ! 偉いぞ~少年くんっ!」
戌亥は持ち前の天真爛漫な明るさで男の子の不安を吹き飛ばすと、涙をひっこめた男の子の頭をわしゃわしゃと撫で回しながら周囲の匂いを嗅ぎ分けようとスンスンと鼻を鳴らす。
(……さっきのごたごたで皆とはぐれちゃったかー。この子を見つけられたのは良かったけど、早く戻らないとヤバそう。ここは何だかあからさまに危険な匂いがするし……)
戌亥紗の『嗅覚超過』は万物に対して鼻が利くという干渉レベルCプラスの身体強化系に分類される神の力だ。
万物とは文字通りの万物を指し、彼女は全ての事象に置いて鼻が利く。それは不運や不吉の匂いを察知したり、敵意や好意などの感情、干渉力の強度、さらには相手の攻撃を繰り出すタイミングまでをも嗅ぎ分けたりと、五感の拡張というよりは第六感じみたものにまで発展している力だった。
勿論、単純な嗅覚という点においても軍用犬と同等のレベルで匂いを嗅ぎ分ける事が可能だ。
そんな優れた嗅覚を持つ彼女ならば、例え数キロ離れた場所にいようとも匂いの痕跡を辿り仲間との合流を果たす事は可能だったハズだ。
しかし今回に限っては、彼女の嗅覚を阻害する障害があまりに多かった。
まず、スタジアム中に立ち込める濃密な血と糞尿が入り混じった鼻孔を鋭く突く死臭。
そしてデザインキメラがあたりかまわず吐き散らかす溶解液から漂う酸性の刺激臭。
腐乱臭も死臭も刺激臭も、本来なら鼻を潰すことなく嗅ぎ分ける事が可能な戌亥だったが、問題はその量だ。
ここには死臭と刺激臭を発する物体が多すぎる。
雨で匂いを洗い流す行為とはまったくの真逆、上からどんどんとペンキを塗りたくり原型を分からなくしていように、空気にぎっとりとこびり付いたそれらの悪臭が、戌亥の純粋な嗅覚を半ば麻痺させていたのだ。
だから現在の彼女の行動の指針は、感覚的に危険を嗅ぎ分ける第六感じみた嗅覚だけ。
現在、安全な場所などないのではないかと思うくらいに全方位から危険な匂いが漂ってくる中、戌亥と男の子がいるこの場所からは抜群に嫌な匂いがしていた。
だから一刻も早くここから移動すべく、泣きじゃくって動こうとしない男の子を流れるような手際で泣き止ませた彼女の判断と行動の速さは、この極限状態において褒められるべきものだっただろう。
ただ――
――それでも彼女は判断を誤った。
嫌な匂いを感じ取ったその時点で、彼女は泣きわめく男の子を抱えて強引にでもその場から離れるべきだったのだ――いいや、それですら最悪の結末から抜け出すにはまだ足りない。
極論、彼女は男の子を見捨てなければならなかった。
それはつまり。戌亥紗という当たり前に善良でお人好しな少女がその匂いに気付いてしまった時点で、その破滅は避けられなかったという事なのだろう。
戌亥紗という少女の存在に安堵した男の子。
男の子が泣き止んだことに安堵した戌亥紗。
戦場という極限状態下においては珍しいとすら言える〝安堵〟という同じ感情を共に抱いた結果。
「――あっ、」
あらかじめ設定されていたルールに従い潜伏していた種が萌芽し、共通の感情を抱いてしまった少女へとソレは感染した。
「はぁーい、洗脳完了。これにて海音寺流唯チャンへのプレゼント一丁あがりぃ~」
☆ ☆ ☆ ☆
クライム=ロットハートという男の小物めいて卑劣で卑怯で醜悪で害悪な邪悪の悪意は、とどまるところを知らないのか。
人間とは何がどうすればここまで人の心を弄び、壊し、悪意の限りを尽くす事に喜びを覚える事ができるようになるのか。
勇麻には、目の前のソレが人の形をしているだけの悪意にしか見えなかった。
「……おっと、ウチの氷道真チャンは僅かな温度の揺らぎを見逃さねえじゃんよぉ。干渉力ってのはようはエネルギーだ。エネルギーってのは、熱を発しちまうらしいじゃん? つまり、干渉力一つ微動だにさせたら……後は分かるっしょ?」
追加された脅しは、地上の猛者達だけではなく中空の神の子供達に向けられた物だろう。
本来ならば、クライム=ロットハートが人質一人を盾にした所で、その悪辣が一人の少女の命を奪う前にクライム=ロットハートの命を断つ事も可能だったハズだ。
神々の軌跡にすら並ぶほどの埒外の干渉力を宿する彼らと、『三本腕』の一本を務めるとはいえ元より戦闘を得意としないクライム=ロットハートとの間にはそれだけの戦力差が横たわっている。
しかし、今のクライム=ロットハートの傍らには、彼らと同じ領域に立つ神の子供達の氷道真がいる。
同じ神の子供達と言えど、相性や実力差、格の違いというモノは勿論存在する。だが、それでも氷道真は間違いなく神の子供達。
この場に集った神の子供達の中で最も強力な干渉力を誇る『設定使い』であろうとも、そう簡単に勝てるような相手ではない。事実、虚を突かれたとはいえ先の一幕ではものの見事に先手を取られている。
故に、クライム=ロットハートを狙った一撃は、まず間違いなく何らかの方法で阻まれるだろう。
そうなれば最後、クライムは人質に対して容赦をしない。自分の命綱でもある戌亥紗を、海音寺流唯の目の前で最も惨い方法で殺害するだろう。
人質を盾に取りながら、快楽に酔いしれる今の彼の頭の中からは自身の保身についてなど抜け落ちているに違いない。
このクライム=ロットハートという刹那的快楽主義者は、自らは決して表舞台には立たず裏側から全てを意のままに操り弄ぶ用意周到な計算高い狡猾さと同時に、刹那の快感の為に後先を考えず破滅に手を伸ばす性質を兼ね備えているのだから。
――けらけらと、クライム=ロットハートは心の底から楽しげに愉しげにその笑みを引き裂いていく。
楽しそうに、愉しそうに、心の底から愉快げに。
自分の予定を狂わされ、楽しみを奪われた事に対する報復は、決まっていつだって当初の予定以上の愉悦でクライム=ロットハートの心を満たせるものでなければならない。
だからクライムはこの瞬間が好きだった。
自分に辛酸を舐めさせた生意気な身の程知らずの大馬鹿野郎が、分相応に地面に這いつくばり怒りと悔恨に表情を曇らせ歪ませているこの瞬間が。
あまりに軽薄。あまりに浅い。何の信念も正義もなく、男はただ自らが楽しむ為だけに人の心を弄んで壊して潰して飽くまで蹂躙の限りを尽くし最後は投げ捨てる。
見方を変えれば、それこそがクライム=ロットハートにとっての貫くべき正義であり信念であった。
その愉悦に満ちた心と表情とは裏腹に、人間という名の悪魔は極めて落ち着いた淡白な口調で言葉を重ねる。
「さて、と。どうしよっか。なあ、お前はどうして欲しいじゃんよ、海音寺流唯?」
言葉に感情の温度を感じさせない事が逆にクライムの不気味さを加速させていく。廃墟の遊園地にかかる楽しげな音楽が背筋を凍らせるように、場違いな穏やかさはこの先の破滅を感じさせ当事者たちの恐怖を煽る毒として作用していた。
髪の毛を掴まれ、振り回されるようにして歩かされているのに、戌亥は悲鳴一つあげようとしない。
そもそもまともな意識があるかどうかも分からないような有り様で、虚空を見つめる瞳には眼前の勇麻はおろか海音寺すらも映し出されていない事は明らかだ。クライム=ロットハートの洗脳下にある影響だろう。
戌亥の首には、従属の証を示すかのように氷の首輪が嵌められている。
肌に触れないギリギリの位置で固定された浮遊する氷の首輪は、その内側に鋭利な刃物の輝きを宿していた。まるで内側に刃のついた、性質の悪いチャクラムのようなソレが何の為のものか、説明は必要ないだろう。
下手な真似をすればこの女の首は落ちるぞと言うあからさまな脅しは、しかしこれ以上ない効果を発揮していた。
戌亥紗を人質に、重傷を負った海音寺に堂々とクライムが歩み寄る。
膝を突いて動けない海音寺にズケズケと近づき、その胸倉を掴みあげると、下から顔を覗き込むようにして、
「なあおい、答えろって。その口はなんの為についてるんでちゅかぁ~? 息吸って吐くだけなら、ミジンコちゃんでもできるっしょ。なあなあなんとか言ってくれないとさ、可愛い可愛い戌亥紗チャン殺しちゃうぞ☆」
「……す、ずを。……離、せ……」
「ん? なんだってぇ!? 聞こえないなぁ~!! てかさ、それが人に物を頼む態度なワケ? 違うぜ違うっしょ違うじゃんよぉ……ッ!!?」
クライムは唾を飛ばしながら海音寺の顔面を蹴り飛ばし、土下座でもさせるかのようにその後頭部を踏みつけ足の裏でぐりぐりと踏みにじる。勇麻はその光景を呆然と見ている事しかできない。
「ぐっ……がぁ、あああ!! ……お願い、します。……すず、を。離して、くだ……ぎぁ、……さい……ッ!」
頭を踏みにじりながら耳に手を当て、海音寺の言葉を聞きとったクライムは満足げにうんうんと頷くと。
「よし、分かったっしょ。俺チャン優しいからサ、そう真摯に頼まれちゃあ断れないってワケよ。いいぜ、紗チャンは助けてやるよ。ただし、海音寺チャンが俺の命令を一つ聞けたらな」
あまりにあっさりとそう言って、クライムは海音寺の頭から足をどけると、氷道真の隣まで移動して指を一つ鳴らした。
すると、主の合図を受けて戌亥の首に嵌った氷の首輪が砕け散る。
そのままクライムは氷道に戌亥の身体を乱暴に投げつけて、
「いいか氷道チャン。海音寺チャンが俺チャンの命令をちゃあんと聞けたら、戌亥紗を解放してやれ。殺しも、氷結もなしだ。いいな? これは絶対遵守の命令だ」
「……了解、した。小生は……命令に、従う……まで……」
聞き分けが良すぎるクライムの態度に周囲が呆然となる。しかしクライムは、そんな注目すら気持ちいいとばかりに芝居がかった大仰な仕草で両腕を広げて、
「――聞いての通りっしょ。海音寺流唯、お前が俺チャンの言う事をちゃぁあんと聞ければ、くぁわいい紗チャンは解放してやるじゃんよ。ブラフやハッタリじゃあないっしょ? なにせ氷道真に俺チャンが正式に命令したんだ。あいつが与えられた命令に逆らえないのは、海音寺チャンが一番よく知ってるだろ? なにせ、俺チャンがそういう風に洗脳して造り替えた氷道真チャンをずっとずっと救い出そうとしていたんだからなぁ?」
その言葉に、海音寺の眉間に深い皺が刻まれる。憎悪と怒りに眉を怒らせ、霜の降りたボロボロの右手で床に爪を立てる海音寺の反応から、クライムの言葉が嘘ではない事が伝わる。
だが、嫌な予感しかしない。
その取引を受けたら最後、何もかもが破滅してしまうような――
「駄目だ……! 先輩ッ! こんなの罠に決まってるッ、頷いちゃ――」
「――おっと、勇麻チャン。お喋りも禁止だ。喚くな、次はないっしょ」
クライムが懐から取り出した黒光りする拳銃が戌亥のこめかみに突きつけられる。ただそれだけの動作で、それ以上の叫びを封じ込められてしまう。
海音寺は、大切な後輩に銃口が付きつけられる光景に押し黙ったまま歯が砕ける程に奥歯を噛み締めて、それから喉を震わせ絞り出すようにその言葉を口にしてしまう。
「…………………………………………………………分かった。命令を、聞こう」
クライムはその答えに心底満足そうに頷き、銃口を下げた。
「よしよし、それでいい。良い子チャンだ」
そのまま天使のように穏やかな笑みを浮かべると、隣の氷道真から何かを受け取りながら、子どもにお使いを頼むような気楽さで続けてこう言った。
「んじゃあさ、海音寺ちゃん。ちょっと勇麻チャンにぶっ殺されてよ。ぶすっとそれの一刺しで」
氷道真がその神の力で造り上げた氷の短刀を投げてよこしながら、クライム=ロットハートは呆然とその瞳を見開く海音寺と勇麻の二人を見て愉しそうに笑っていた。
「………………、」
誰も、何も、言葉を発しなかった。発せなかった。あまりに意味不明で理不尽な命令に、思考が完全に停止する。
衝撃からいち早く立ち直り思考能力を取り戻した海音寺は、怒りと悔しさに身体を震わせて、
「……話が、違うぞ。命令を、聞くのは……僕だ。東条、君は。関係ない……っ!」
「ああそうだよ。だから俺チャン、勇麻チャンにはなーんも命令してないっしょ?」
「ふざけるな! 僕が言っているのは、そういう事じゃない……ッッ!!」
屁理屈ここに極まれり。クライムの人の心を弄ぶふざけ倒した物言いに、海音寺の激情が爆発した。
怒号と共に凍りかけの右の拳を地面に打ち付ける海音寺に、しかし今度は穏やかだったクライム=ロットハートの顔色が一変する。
「あのさ……こっちは海音寺チャンのお願いをわざわざ聞きいれてやってる立場なんだけど。なにソレ、舐めてんの? そういう態度取るってんなら、俺チャンも約束破ってこの娘ぶち殺しちまってもいいんだぜ? なあ、どうすんだよ海音寺流唯ぃ……ッ!?」
「……っ、」
……なんだこれは。
東条勇麻は、箪笥の影で強盗に怯える子供のように、茫然とそれを眺めているしかなかった。
身体の震えが止まらない。怖い。恐ろしい。海音寺流唯が処刑台にあがっていくのを見送るような、致命的なこの状況が、勇麻は他の何よりも恐ろしい。
さっきまで、さっきまで皆……皆幸せそうに笑ってたじゃないか!! なんだってこんな……折角、折角なにもかもうまく行ったって、そう思ったのに。
多くの人が犠牲になった。
失ってしまったものは確かに沢山あった。
けれど、それでもそこで敗北を認め挫けてしまうのではなく膝を屈することなく戦って、最後の最後にやっと掴めたハズなんだ。
逆転勝利を。
いっそご都合主義と呼ばれてしまうくらいに笑顔に満ちた、幸福な結末ってヤツを……!!
……なのに、何がどうなったらこうなっちまう!?
沢山の人が力を合わせ想いを合わせ、ようやく手に入れた結末を。どうしてたった一人の乱入でここまでぶち壊されなきゃならないんだ……ッ!!
勇麻の思考は、既に碌に回っていない。
自分が何もできない間に、何一つどうする事も出来ずに傍観している間に、状況がどんどん勇麻を置き去りに進んで行ってしまう。
海音寺が今にも致命的な一線を越えようとしているのが分かる。
……止めなきゃ、助けなきゃ、救わなきゃ。
誰が? そんなのは決まっている。ここには自分がいる。東条勇麻がいるのだ。なら、助けない理由なんて探す方が馬鹿げている。
だから、今すぐこのふざけた茶番を――
――どうやって、止めればいい……?
分かっていてなお、勇麻は何をどうすればいいのか分からない。今自分がどう動けば心の底から慕い尊敬する先輩たちを助けられるのか、救う事が出来るのか。考えても考えても思考は暗闇の行き止まりにぶちあたる。
絶望の袋小路が大口あけて勇麻たちを待ち構えている光景しか、想像できない。
「おい、なんとか言えよ。……だんまりかぁ。俺チャン悲しいなァ……じゃあさ、殺していいんだよな? アぁッ!?」
海音寺の表情が苦渋に歪む。
……やめろ、やめろ、やめろっ! お願いだからもうやめてくれ……っ!
握りしめた拳に爪が食い込み血が流れる。
喰いしばる力に耐えきれず、奥歯が砕け口の中を切った。
どうしてこんな事をするのか、どうしてこんな惨い事ができるのか。叫びたかった。でも叫べなかった。鈍く黒い輝きを放つあの道具が、笑ってしまう程簡単に、人の命を奪える事を知っているから。
……怖い、怖い、怖い、怖い。
何が怖いかそんなのは分かり切っている。自分の行動で戌亥紗を死なせてしまうこと。その責を背負うこと。海音寺から恨まれる事。その全てが恐ろしい。
自分の行動がイコールでその人の命に直結している事を明確に突きつけられてしまうと、東条勇麻は途端に動けなくなる。
選択できない。だって、そんな選択は不可能だ。
ネバーワールドの時と同じ。東条勇麻は命を天秤に乗せられない。その命を背負えない。誰かを犠牲に誰かを救う事を良しとしないのではなく、それが出来ない東条勇麻は、戌亥紗という人質を盾に取られた時点で声一つあげる事もできない木偶と化した。
だからただ、心の中で泣き叫ぶ。
目の前で狂ったように愉しげな笑みを浮かべる邪悪の心が理解できない。
こんな地獄を容易に思いつき実行できてしまう思考回路が気持ち悪い。
その趣味趣向が憎くて憎くてしょうがない。
自分達の心を散々弄ばれた過去が、さらに海音寺流唯と戌亥紗までをもその毒牙に掛けようとしている現在が、二つの事実がクライム=ロットハートに対する勇麻の殺意を加速させていく。
そして。
「……分かった、言う通りにしよう」
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………は?
「……そうそう、分かればいいじゃん、分かれば」
なんだそれ。
分からない。
何が、何を、分かったと言うのだろうか。
何も、意味が、わからない……。
――なあ、海音寺先輩。俺は、何も分からねえよ……!!
「すまない。東条、君……」
気付けば、東条勇麻は震えるその手に氷で造られた一振りの短刀を握らされていた。
かちかちと。震える手の中で刃が音を鳴らす。いや、音源は氷の刃からではない、かちかちと成る音は勇麻の歯の根が恐怖に震え鳴らす音だった。
大切な者を失う、恐怖に。もしかしたらそれを自分がしなければいけないのかもしれないという恐怖に。命の喪失を背負う、恐怖に。
人として至極当然の恐怖だった。
「嫌だ……」
首を振る。
海音寺の吐く息は白い。体内の氷結が進み、吐く息に冷気が混入しているのだろう。――見えないふりをして自分を誤魔化した。
「……東条君、君に……こんな重荷を背負わせてしまうこと、申し訳なく。思うよ……」
「嫌だ、やめろ、お願いだからもうやめてくれ……」
首を振る、首を振る、首を振る。
海音寺は呼吸をすることすら苦しそうで、戌亥紗を心配し彼女を助けて欲しいと勇麻に懇願する声は切に迫っていた。――聞きたくないと心の耳を塞ぐ。
「でも……君にしか、もう。頼めないんだ。紗を、……僕が愚かだったせいで、傷つこうとしている紗を……頼む、どうか君が……助けてやって……くれないか……? 僕と、紗を、助けて……くれないか?」
「……嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ! そんなの嫌に決まってるだろ!! ふざけんな! 頭いいくせに馬鹿なのかよ、アンタ! 戌亥先輩はアンタが助けるべきだろ!! あの人が誰の事を待ってるかなんて、俺でも分かるぞこの大馬鹿野郎ッ!」
叫んだ。――解決策なんて一つも浮かんでいない。否定する、ただそれだけの為に。
「……頼む。聞いてくれ、東条君。僕は……もう、どの道、長くはない。……さきの一撃で、内臓をやられた。氷漬けにされて出血は止まっているけど、溶けない氷に……侵食、されてしまっては。もう、どうしようも……」
「諦めるなよッ! なんで、もう自分は死ぬ前提で話進めてんだ!! 仮にそれで救われたって戌亥先輩が嬉しいハズないだろッ、戌亥先輩が笑ってくれるワケないだろッ! アンタが言ったんだぞ、大切な女泣かせる気かよ。アンタを信じて待っている子を裏切るのかよ! 最低だ、全部アンタが自分で言った事だろうがっ。なんで、なんだってこんな……俺は、俺がなんでアンタを殺さなきゃならねえんだよ! 死んだって殺したくない人を、なんで……ッ! 無理だ、そんなの無理に決まってるッ!!」
駄々をこねる子供のように無様に、喧しく、みっともなく、全力で海音寺の願いを拒絶し踏みにじった。
嫌だ。嫌なのだ。海音寺流唯が死んでしまうなど、しかもその命をこの手で奪うなど、想像しただけで死んでしまいそうな程に恐ろしいのだ。
今の勇麻に出来ることなど何もなかった。だから、もう。力無く縋るしかなかった。
頼れる兄に助けを求める子供みたいに。
「……諦めないでくれよ。俺、アンタが諦める所なんて見たくないんだ。お願いだよ、助けるから。他の方法でならいくらだってアンタを助けるから。だから、お願いだから死ぬなんて言わないでくれよ……殺してくれなんて、そんなの救いでもなんでもない。ただ逃げてるだけじゃねえかよ……」
何か、何かあるはずなのだ。
戌亥紗を犠牲にするでも、海音寺流唯を犠牲にするでもない。
第三、第四の選択肢が。
そんな都合のいい選択肢が、どこかに転がっている。そう信じ込む事しかできない。したくない。
「……東条、君……」
「……なあ、先輩。約束したじゃんか。対抗戦が終わったら、龍也にぃの事もっといっぱい話してくれるって。……なあ、アンタ言ったじゃねえかよ、最後まで俺の背中を任されるって。……なあ、先輩。俺は、まだアンタと話したい事、やりたい事一杯あるんだよ。……なあ、海音寺流唯。アンタと友達になった気でいたのは、俺だけだって言うのか?」
必死に相手の情に縋る。見捨てないでと懇願するように。卑しく、卑しく、具体的な方法も出せない癖に、諦めるなと精神論をほざき続ける。
それで本当に強くなれるのは自分だけなのに。目の前の男は、勇麻と楓を救う為に干渉力を使い果たしてクライム=ロットハートに抗う力一つ残されていないというのに。
それを一番悔しく思っているのは、間違いなく海音寺流唯その人なのに。
そんな思いを全て無視して、東条勇麻は独りよがりを押し付け続ける。
「……なあ、海音寺――」
――次の我儘を言う寸前。覆いかぶさるようにして、東条勇麻は海音寺に抱きしめられていた。
懐かしい憧れを思わせる力強い抱擁に勇麻は不意をつかれ、抵抗する事を一時的に忘却する。
しっかりと背中を抱きしめる片方しかない腕の逞しさに、場違いにも安堵を覚え勇麻の心は束の間の安らぎを得てしまう。
そして。勇麻の肩に頭を乗せた海音寺が、こてりとその頬を力無く倒して勇麻の頬に寄せた。
……最後に、まだ氷に侵されていない感覚の残った首から上で、自分が守り抜いたものの温もりを確かめるかのように。
「――背負わせてしまって、ごめんよ。それと、僕の為に怒ってくれて、ありがとう。最後に君と戦えた事を、心の底から嬉しく思うよ、相棒。……龍也も、そして僕も。君を……東条勇麻を、心の底から……」
東条勇麻が震える手で握り締めたままの氷の短刀の切っ先は、
「……愛しているよ」
勇麻を力強く抱きしめた海音寺流唯の胸に深々と墓標のように突き刺さっていた。
――キィイン。
海音寺が穏やかな笑みを浮かべて勇麻の耳元で囁くと同時。甲高い音を立てて、胸に突き立った氷の短刀が砕け散った。
その命の灯が尽きた事を、表すかのように。
「……先輩?」
返事は、ない。
「……なあ、おいってば」
返事は。
ない。
「……笑えないんだって、こういうの。最後とか……そんなわけ、ないだろ。なあ、本当に笑えないんだよ、こんなふざけた冗談は……何とか、言ってくれよッ、海音寺……先輩……っ!!」
氷道真の干渉力を詰め込んだ短剣が砕け散り海音寺の体内に入り込んだ微細な破片から放出される絶対零度の冷気が、海音寺流唯の身体を急速に凍りつかせていく。
氷結が、
否定できない死が、
絶望が、
海音寺流唯の身体を侵食していく。
「おい、なんだよ、これ」
侵食する『絶氷』に抗うように、凍りついていく箇所を擦る。
「とまれ、止まれよ……」
擦って擦って擦って擦って、掌を真っ赤なしもやけにして。それでもなお。
「やめろよ……なあ。とまれ、とまれ、とまれ! 止まれ! 止まれえッ! 止まれって……言ってるのにッ!」
最後に頬から零れ落ちた、涙の雫までもが――無慈悲に凍てついた。
勇麻が咄嗟に手を伸ばし受け止めたその一雫は、まるで宝石のように美しく勇麻の掌の中で冷気を放って輝いていた。――決して溶けることのない、『絶氷』として。
「嘘、だ……こんな、の。こんなの――っ」
そんな、勇麻の腕の中で物言わぬ氷像と化した海音寺流唯を、
パンと。一発の銃弾が、木端微塵に打ち砕いた。
「――ヒャハ!! キヒッ、フヒャハッハハハッはハハハハハ!! じゅ、銃弾一発で、げ……原形がぁ、あは、アヒャハハハハハ! 原形跡形もなく砕けちまったじゃんよぉ!! ふは、ヒヒャハハハハはははは! お……おもしれェええええ、人って、ぶはっ、こんな風に砕けるのかよぉおおおお!!」
キラキラと。凶弾に砕かれ微細な破片となった海音寺のだった氷の欠片は、沈みかけの陽光を反射して幻想的に輝き、そして散華する。
――その美しさを、東条勇麻は生涯忘れる事ができないだろう。
それは、呪いのように勇麻を冒す、背徳的な死の芸術。花火のように儚く、絵画のように美しい。刹那にして永遠の美が、頭蓋の奥深くに刻み込まれたのを知覚する。
きっと、勇麻は夢に見るのだ。
海音寺流唯が粉々に砕け散るその美しい最後を。永遠に。その刹那を永遠に、何度も何度も繰り返す。何度も何度も海音寺流唯を殺し続ける。繰り返し、繰り返し、繰り返して――
――そんな場違いな感動を追いかけるのは――乾いた音と、硝煙の匂い。掌に残る刃物が肉を抉る〝死〟の感触。
そして。
「ひぃー、ひー、ひひっ、はぁ。はぁー、く、くるし。……あー、でもこれでスカッとしたっしょ。いやー、最後にいいモン見れたし、俺チャンの予定を狂わせた罪はこれで許してやる事にしよう! ほら、氷道チャン。戌亥チャンを解放してやるじゃんよぉ。ふー、約束守る俺チャンてばマジ紳士で超やっさしーィ! なあ、お前もそう思わね? 勇麻チャン☆」
悪意に満ちた男の哄笑が、最後に東条勇麻の脳内を凌辱した。
「あぁ……あああ、――ぁぁあああああああああああああああぁぁああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁあぁアアアアアァアアアアアアアアアアアアッッ!!!」
――絶望の結末に、殺意と憎悪が花開く。
☆ ☆ ☆ ☆
第※話 ザ・エンディング・■■・■■■■■■Ⅱ――■■■■、■■■■■■/■■・■■■■■。■■、■■■■■■■■■■■:count 1
第※話 ザ・エンディング・オブ・マイヒーローⅡ――絶望侵食、届かない救い
/蛇足・さようなら。僕の、背中合わせの最後の相棒:count 1
☆ ☆ ☆ ☆
――意識が、水底に沈んで行く。
それは、水分に己の干渉力を通して『海域』を創造し、その中に自らも溶け入る海音寺にとって、慣れ親しんだ感覚でもあった。
――海と自らとの境界が曖昧になっていくのを感じる。
常日頃ならば二つの境を常に意識し、絶対的に混じ入る事のないように自意識を強く保ち続ける海音寺も、抵抗することなく曖昧になっていく感覚に身を任せている。
理由は単純だ。
海音寺流唯の命の灯は、今まさに尽きようとしていた。
(……本当に、馬鹿だな、僕は。大切な事に気付くのがいつも遅い……結局今回も、既に手遅れだった訳だ)
仲間を自分の都合に巻き込ませないようにと、あえて壁を築き適切な距離を保ち続けてきたというのに。そのせいで戌亥紗を守れなかった。
もっと仲間を信頼し、頼ることが出来ていれば。肩を並べて一緒に戦う事が出来ていれば。戌亥は、今も隣で笑っていたかもしれなかったのに。
……どこで間違えたのだろう。何がダメだったのだろう。抱いた理想は、宿した信念は、信じた正しさは。その全ては、無意味だったのだろうか。
一つだけ確かなのは、自分の正しさの残り火を自分で掻き消した愚行。自分で引いたハズの一線を越えた自覚とその罪悪感が、過去の自分自身への後ろめたさが、己に牙を剥いたという事だけだ。
(……悪巧みなんて、するものじゃないな。やっぱり。でも、それでも僕は……諦められなかった。諦めたく、なかった)
海音寺流唯は、クライム=ロットハートに洗脳されてしまった育ての父、氷道真を正気に戻す方法をずっと探っていた。
正しさの奴隷とまで言われた男が、正しさを捨ててまで取り戻したかった正しさ。
世界の為に、平和の為に、街の為に、人々の為に。
善なるモノとして正しさを貫き続けたその男が、正しく救われる事を求め、海音寺は正しさを捨て去り己だけの『正義』を手に戦ってきた。
その果てに辿り着いたのが、『匣の記憶』。
失い、忘れてしまった記憶さえも喚起させる、とある『特異体』に由来する『神器』だ。
海音寺流唯が三大都市対抗戦に参加したのは、その『神器』を求めての事だった。
吉報はそれだけに終わらない。
天風楓を巡り、『創世会』と『背神の騎士団』が不穏な動きを見せている事を掴んだ彼は、またとないチャンスだと内心ほくそ笑んだ。彼女も対抗戦に出場する。ならば『創世会』からはクライム=ロットハートが動く。切り札である氷道真もそれに付いてくるだろう。
『匣の記憶』と氷道真。救う方法と、救いたい人。それが一堂に会するこの機会を、逃すつもりは毛頭なかった。
――しかし、東条勇麻を伴い『匣の記憶』に辿り着いた彼に突き付けられたのは、信じたくもない非情な現実だった。
氷道真を救えるかもしれない『匣の記憶』は、『天空浮遊都市オリンピアシス』の動力源として機能していたのだ。
『(……ダメ、みたいだな。原理は分からないが理解はできる。これをこの台座から動かせばこの浮遊都市も落ちる、か。くそっ、この『神器』があれば、あの人を助け出す事も出来ると思ったんだが……)』
〝人として越えてはいけない一線を越える為の言い訳に、己の抱く大切なモノを使ってはいけない〟。自身に課した最後の正しさが、つまらない矜持と意地が、海音寺の願いを阻んだのだ。
だが、『匣の記憶』を諦めていた海音寺の背中を、その後に絶望と言う名の追い風が押す事になる。
『――覚えていないかい? 『匣の記憶』だ!』
天風楓がクライム=ロットハートの洗脳下にあると判明した時、気付けばその単語が海音寺の口から飛び出していた。
……天風楓を救いたかった。その気持ちは本物だ。苦しむ女の子を助けたいという思いに嘘はないと断言できる。だが、そこに汚い打算が欠片もなかったのかと言われると、海音寺流唯は首を縦に振る事はできそうもない。
だって、思ってしまったのだ。
『じゃあ、楓と『匣の記憶』を接触させられれば――』
『ああ! 楓ちゃんの洗脳は解けるハズだッ!』
――自分の目的の為だけに、氷道真を取り戻す為に『匣の記憶』を台座から抜き取り、オリンピアシスを落とす事は出来なくとも。
クライム=ロットハートの洗脳に苦しむ天風楓という女の子を救う為、親友である南雲龍也の残した少年の助けになる為ならば。
海音寺流唯はオリンピアシスが落ちると分かってなお『匣の記憶』を掴み取る事が出来る、と。
オリンピアシスを落とす直前。東条勇麻が海音寺流唯の発言に感じた違和感は、ここにあったのだろう。海音寺流唯は犠牲を承知で、それでも『匣の記憶』をその手にすることを無理やりに正当化していたのだから。
大義名分を、免罪符を、建前を得て、海音寺流唯は己の目的であった『匣の記憶』をついにその手にした。
この瞬間、海音寺は自分で定めた最後の正しさを、その残り火を自らの手で掻き消したのだ。
その手痛いしっぺ返しがコレだというのならば。……ああ、自分は甘んじて死を受け入れよう。手遅れになってからようやく大切な事に気が付く愚か者の末路として、これだけ相応しいものもないだろう。
ただ……
(……ごめん、東条君。僕は君に、決して許されない最低な事をした。謝って、それで済む事じゃないなんて事は分かっている。それでも、本当に、ごめん。――君に、重荷を背負わせてしまう事、それだけが今の僕の、唯一の後悔と心残りだ)
海音寺流唯は東条勇麻に許されない事をした。許されなくていい、許されるべきではないと、そうも思う。
しかし、優しすぎる彼の事だ。
その怒りと憎悪の矛先を海音寺ではなく、クライム=ロットハートや氷道真。そして、自分自身に向けてしまうかもしれない。
……いいや、きっとそうしてしまうのだろう。東条勇麻は、親友が希望を託したあの少年は、南雲龍也に似て、深い愛の持ち主だから。
(……ああ、けれど。もしこれがきっかけとなってしまうとしたら――君には呆れられるだろうな龍也。すまない、どうやら僕らは、すれ違い続ける宿命にあるらしい。またしばらく、待ち合わせの時間に遅れた事を君に謝れないかもしれないな……)
憎悪は愛の裏返し。誰よりも人を愛する南雲龍也がその憎悪から逃れられなかった結末を、海音寺流唯は知っている。
だからこそ、願わずにはいられない。
(……僕にこんな事を願う資格がないという事くらい分かっている。それでも、どうか、お願いだ。――東条君、心を蝕む憎悪に呑まれないで欲しい)
〝自分の大切なものを理由に、人として越えてはならない一線を越えた時。人はあまりに容易く獣に堕ちる〟。
他者を悪と決めつけ個人の裁量で断罪する行為そのものが、最早人の手に余る業なのだ。
故に世界は司法の名の元に人を裁く。人を人が裁くのではなく、感情のないシステマチックな法を通す事によって、この世界は回っている。
例え、その絶対の基準たる法が、正しく機能していないのだとしても、本来ありもしない善悪の線引きをする以上、人間の上に立つ超常存在が必要なのだ。
個人ではなく種として、その正しさを見失わない為に。
(人を愛する気持ちを、愛する人を、人を信じる喜びを、勇気を、描いた絵空事を、希望を。どうか、どうか、忘れないで欲しい)
いがみ合うように環境を調整された三つの都市が、かつてここまで手を取り合った事はなかった。
東条勇麻一人が全てを繋いだとは思わない。だが、それでも。あの美しい三都市の共闘の中心に彼の存在があった事は間違いない。
あの少年の手は、人と人を繋ぐ事ができる掌だと、海音寺はそう信じている。
(君は希望だ。君こそが、南雲龍也が打ち止めにしたかった『英雄』の連鎖を断ち切る者だと信じている。だから、前を向いて希望に生きるんだ。……絶望に俯き、怒りと憎しみのままに怨嗟を唱えれば、人の心はすぐに腐り落ちてしまうから――)
もっと傍で支えてやりたかった。助けてやりたかった。その背中が進む道を、その手に掴む結末を、希望を、隣で見届けたかった。
でも、それはもう出来そうにない。
期待されていたのに、選択を誤り、物語に食い込む事ができなかった自分は。主人公になれなかった海音寺流唯のような存在が、いつまでもウダウダと物語にしがみ付く事はきっと許されない事だったのだろう。
だからこれは当然と言えば当然の結果。
成りそこない、蚊帳の外に弾かれ、親友一人救えなかった盤外男の〝始める事すら出来なかった物語の蛇足にようやく終わりが訪れた〟ただそれだけの事なのだから。
(……さようなら、僕にとって二人目の、背中合わせの最後の相棒。君は……間違えるなよ。東条君は――)
――独りぼっちじゃ、ないのだから。
――意識が薄れて行く。
海と己との境は既に消滅し、波間に揺蕩うような感覚が、海音寺の自我を溶かしていく。
少し、寒い。
昏い。
音も、ない。
何も、ない。
少し……いや、泣きたくなるほど、昏くて寒くて不安で恐ろしい。
〝死〟という〝無〟をようやく実感として理解した海音寺は、そこで最後の思考の火花を散らした。
……やっぱり僕は大馬鹿だ。後悔が唯一、というのは嘘だったなぁ。
いつもいつも大切な事に気付くのがあまりに遅い。本当にこんな最後の最後になってようやく気付く、致命的に手遅れな自分の愚かさに苦笑して。
紗。君の気持に、ちゃんと答えて――




