第八十一話 リ・スターティング・フェイクヒーロー【偽】Ⅲ――Re.スタートライン/ずっと、ずっと。■■■■■■/■■■■、■■■■■■■■■■■:count 1
子供は夢を見る生き物だ。
大人達がどれほど願おうとも夜にしか抱けぬその夢を、子供達は昼夜問わずに見る事が出来る。
稚拙で無垢で世界を知らない無知が故の万能感は、空っぽの頭に夢という名の絵空事を描かせる。
何も知らないから、現実の冷たさを知らないからこそ、現実との境すらない最果ての夢を――希望を、夢見る。
子供はいつだって夢を見られる生き物だ。
夢を見るようになるきっかけは人によって様々だけれど、そこには決まって壮大で綺麗な夢を描けるようになるだけの尊い出会いが、その出会いによって喚起される感情がある。
だから、その少年と少女も、嬉しさとか喜びとか楽しさとか憧れとか。そんな子供らしくて純粋な、明るく前向きでポジティブな好意がスタートだったハズだ。
少年と少女は夢を見た。憧れて、焦がれて、希った。
それは酷く分不相応で見のほど知らずな、子供の間しか見れない期間限定の夢だったかもしれないけれど、子供ならば誰もが思い描くような、別に珍しくもないありきたりの憧れだった。
――夢は叶うものでも叶えるものでも掴むものでもなく、醒めるもの。
誰だって現実を知って、己を知って、世界を知って、他人を知って、汚れを知って罪を知って嘘を知って恥を知って諦めを知って怠惰を知って――そんな本当は大して知れてもいない事を知ったような気になって、何となく周囲に流され理由も分からぬまま生きて、大人という名のそれっぽいだけのナニカになっていく。
夢も憧れも希望もいつしか擦れて風化し、あれだけ鮮やかだった世界と空は少しずつ錆びるように色褪せる。
それが生きるという事で、このくだらない灰色空の下を生きて行く為にはぴったりな、酷くつまらない生存戦略だった。
だから。
彼と彼女に普通の子供と異なる部分があるとすれば、それは幼き頃。穢れなき無垢な青空に描いた絵空事を、誰しもが醒めるはずの夢の世界を、しかし彼らは手放せない子供だったという点につきる。
遥か彼方まで澄み渡り、雲の一つすらも輝いて見えた青空は既になく。頭上に広がるそれはどこまでも薄汚れた、醜い鈍色の空の残骸だ。
それでも、絵空事を描き続ける。
汚れきった醜悪なキャンパスに、砕けて、欠けて、擦り減って薄汚れた短い終わりかけのクレヨンを使って。
必死に。必死に。必死に。
描いた傍からペンキで塗りつぶされると分かってなお、少年も少女も綺麗な絵を描き続けようと足掻き続ける。
呼吸する為に泳ぎ続ける回遊魚のように。
酸素を求め、どこまでもどこまでも、その絵空事を終わらせないが為に描き続ける。
致命的に破綻したそれは夢か、それとも呪いか。
醒めるべき夢に縋りつき、世間一般に〝大人〟と呼ばれるナニカになる事を拒み続けた彼らは――
――結局、どこまでも似た者同士だったのだろう。
救われて、だから。どうしようもなく憧れた。
根底にあった感情はきっと同じだ。ありふれた憧憬と、その背に夢見たのは幼き絵空事。
その少年は、一人の英雄に救われた。何処かの誰かのような偽物ではない。テレビの中や漫画の中だけに出てくるような、笑顔のままに全てを救う最高にカッコいいスーパーヒーロー。
沢山の人を救い、悪をやっつけ、大勢を笑顔に出来るだけの力を現実に持ったその英雄の輝きを間近で直視して、想いを馳せた。いつか自分もと夢を見た。希望を抱いた、馬鹿みたいな絵空事を、希った。
そして憧れを自らの手で壊して幕を下ろして――。
その少女は、一人の紛い物の英雄に救われた。何処かの誰かのような本物ではない。テレビの中や漫画の中に出てくる彼らのように凄い力は持っていない。それでも大好きな少女のヒーロー。
他人を思いやり、独りぼっちで泣いている子に手を差し伸べて、泣きやむまで隣に居てくれるような、そんな男の子に淡い思いを抱いた。いつか隣にと夢を見た。希望を抱いた。馬鹿みたいな願い事を、恋願った。
そして大切なその人が自分のせいで傷ついて――。
――結局、二人はどこまでも――その魂の形すらも――似た者同士だったのだろう。
少年も少女も、憧れと同時に罪の意識を抱えてずっと生きてきた。
少年は自らの手で終わらせてしまった憧れに、世界が英雄を失いその分救われなくなってしまった全てに。
少女は自分可愛さに兄を助けようとしなかった過去に、その優しいだけで強くない自分自身の在り方に。
罪悪感を感じ続け、義務感に縛られて、贖罪を求めて足掻き続けた。
誰かの為に自分を犠牲にして、それがさも当然のように振舞って。傷ついて、それでも誰かを救って笑って、そのせいで大切に思ってくれる誰かを気付かぬままに傷つけて。
それでいて自分だけは誰かに助けて貰える価値がないと思っていて、だから最悪の事態に直面しようとも「助けて」の一言すら言えずに一人で全てを背負い込む卑屈すぎる自信の無さも、自己評価の低さも、事あるごとに自分を責め続けてしまう所や、自分だけは自身が振りかざす温かなルールの外側に置こうとするそんな馬鹿な所まで。
今にして思えば、笑ってしまうくらいにそっくりな二人は、だから――
――だからきっと、互いを救い合う事が出来るはずだ。
☆ ☆ ☆ ☆
――懐かしい、温もりを感じました。
声も出せず、何も見えず、何も考えられない。ただただ在る事だけを義務付けられた、無を有する闇。ありふれた絶望の果てに辿り着く虚無という名の地獄。
そんな真っ黒な場所からわたしを連れ出したのは、まるで、独りぼっちで膝を抱え込み泣いていたわたしを見つけ出した誰かさんに手を引かれおうちに帰ったあの日の夕焼け空のような、そんな懐かしい温もりでした。
繋いだ小さな手と手をぶらんこみたいに揺らしながら、わたしのすすり泣きだけが響く帰り道。
やがてすすり泣きがとまると、その誰かさんはわたしの頭を撫でて言うのです。
「うん。やっぱかえでは泣いてる時より笑った顔のがかわいいな!」
そんな言葉がまた嬉しくて、胸がきゅっと縮んで小さくなるような、不思議な気持ちに襲われて。頬がどんどん熱を帯びて、逆らえなくなってしまうから。
だからきっと、わたしはその誰かさんの前ではできるだけ笑っていようって、そう思ったのです。
――かえろ、かえろ、おうちにかえろ。
誰もいないわたしのおうち。独りぼっちのわたしのおうち。でもいまは違う。■■くんと、■■くんの弟と、そのお父さんとお母さんが、わたしを家族だと言ってくれたから。
かえるおうちは、独りじゃない。もう、独りぼっちで泣いていなくていいんだよ、って。
■■くんは、いつだってわたしの隣で涙を拭ってくれようとする。まるで――離れ離れになってしまったお兄ちゃんみたいな、人でした。
だからそれは、そんな一人の少女が独りぼっちの寂しさから救われた時の安堵や安心を、胸を満たす喜びや嬉しさを、そんな感情を思い出してしまう温もりなのです。
――かえろ、かえろ、おうちにかえろ。
わたしの手を優しく引いて、温かいおうちへと帰ろうとする■■くん。しかしわたしは、そこで立ち止まりました。
勢い余って離れる手と手。急に立ち止まり俯く私を、どこか怪訝そうに、そして心配げに見つめる幼い少年の瞳と目があいます。
――かえろ、かえろ、おうちにかえろ。
笑顔で差し伸べられる手に、身を委ねたくなるそんな温もりに、しかしわたしは意志の力を振り絞って抗います。
……あぁ、それはダメなんだ。わたしは、臆病で弱虫で泣き虫なわたしは、その安心感に甘えてしまう。守られるだけの、優しいだけで強くないわたしに、戻ってしまうから。
兄を失い、急に独りぼっちになってしまった寂しさと恐怖から、幼いわたしは、自分の罪深さにも気付かぬままに、自分がどういう人間かもまだ分からぬままに、心にぽっかり空いてしまった穴を埋めてくれる■■くんに寄り掛かり続け、依存した。
自分の弱さが、自分可愛さに立ち上がらなかった自分こそが、あの日兄を地獄に突き落としたのだと理解もせずに、自分だけが温かな愛情を享受し続けた。
わたしという守らなければならない弱い存在が、■■くんの贖罪を、その自己犠牲を歪に肯定してしまった。
わたしの弱さが、その歪な救いを彼に強要させてしまった。
だから決めたんだ。弱いだけのわたしは終わりにするって。変わりたいって、そう叫んだんだ。
強く、なりたいって……! ううん、強くなるんだって……ッ!!
わたしは……天風楓は……!
――パキィンッ! と、ガラスが割れるような甲高い破砕音が、頭の中で幾重にも響き渡ります。わたしはそんな音が響いた事に気付きもしないいまま、心をぶちまけるように願いを叫び続けます。
■■くんに……、ううん。東条勇麻に守られているだけのか弱い存在であり続けるなんて我慢できない!
だって、だって……! どうしようもなく憧れた! わたしの心を救ってくれたこの人は、こんなにもカッコよくて、凄いんだって! そう、思って。いつかわたしも、その隣で今度は彼を助けてあげたい。支えてあげたいって、そう思ったんだ……ッ!
いつかわたしがして貰ったみたいに、この人の絶望も悲しみも寂しさも恐怖も涙だってわたしが全部吹き飛ばしてあげるんだって。
だって、もう。誰かを救って勇麻くんばかりがボロボロに傷ついていく所なんて、見たくなかったから。
それがわたしの抱いた、わたしだけの最低のワガママ。
自分が救われたのをいい事に、これ以上勇麻くんが誰かを救って傷つくところは見たくないなどと宣う自分勝手な善意の押し付け。
勇麻くんの想いやその生き方を踏みにじってまで押し通そうとした、くだらないエゴだ。
――かえろ、かえろ、おうちにかえろ。
幼い少年の瞳が、わたしより一回りも二回りも小さな手を差し出しながら、俯くわたしを心配そうに見上げていました。
わたしは、そんな彼の目線の高さに合わせるようにその場にしゃがみ込むと、彼を安心させるように微笑んで。
「ありがとね。わたし……もう、大丈夫だよ。アナタに手を引かれなくても、ちゃんと、歩いていけるから」
わたしの言葉に、少年はきょとんとしたような表情をして、それからニッと歯を見せて元気よく笑いました。
その場でくるんと勢いよく回って前を向くと、小さな背中は元気よく駆け出して行きます。
途中、一度だけ立ち止まりこちらを振り向いて手を振ってくる彼に、私も郷愁を噛み締めながら微笑んで手を振りかえしました。
今度こそ、その小さな背中が視界から消えていくのを、静かに眺めながら。
「……」
微睡みから醒める時がきたと、誰かに言われたような気がします。
郷愁を覚える夕焼け空に後ろ髪を引かれながらも、わたしの意識はゆっくりと、過去の記憶に別れを告げて浮上していきました。
そして――
――空白が埋まっていく感覚に、肌が粟立ちます。
別れを告げると同時、舞い戻って来たその記憶に、大切な人の無事への安堵と喜びと、それ以上に胸を激しく貫く罪悪感や自分のしてしまった事への恐怖に、わたしは苦悶の血反吐を吐きました。
今まで自分が何をしていたのか。
何をしてしまったのか。
その殺意を憎悪を怒りを敵意を……自分の中で確かに燃え上がっていたドス黒い感情の全てが自分の物であるという事を突きつけられて。
視線を落として見つめる自分の掌が、酷く真っ赤に汚れているように錯覚します。
……あぁ、またか。わたしはまた、この力で大切な人を傷つけたのか。
無意識のうちに、自嘲するような笑みを浮かべていました。
守りたかったはずのものを傷つけて、悪人達の掌のうえでその思惑通りに道化のように踊らされ利用されて、ほんとうにノロマでドジで、どうしようもない自分にいい加減に呆れて愛想も尽きそうです。
……今度はわたしが助けたいだなんて、隣で支えたいだなんて、烏滸がましかったのかな……。
でも、いつもそうだよね。大切なことを全部自分一人で背負いこんで、その重さに耐えきれ無くて空回りして、わたしは周りを傷つけてばかりだ。
――痛みが、走ります。
わたしは勇麻くんを傷つけてばかりだ。この力は勇麻くんを傷つけてばかりだ。
――痛みが走ります。
それに、今回は勇麻くんだけじゃない。沢山の人に迷惑をかけた。大勢を傷つけた。償えるかなんてわからない。でも、だからって逃げる事は許されない。
だって、間違いを犯してしまったのは、またわたしなんだから。
――痛みが、痛みが、痛みが、痛みが痛みが痛みが痛い痛い痛い…………………………………………………………胸が、……いたいよ。
それでも今度ばかりは絶対に泣いたりしないと、そう硬く決意して――
――懐かしい、温もりを感じました。
「……ゆう、ま……くん…………?」
瞼のカーテンを持ち上げた矢先、目の下に雨滴が落ちます。
薄ぼやけた視界のピントが徐々にあって、わたしの顔を覗き込むように、勇麻くんの顔が至近にありました。
……ああ、良かった。本当に、生きてくれてる。温かい、嘘じゃ、ないんだ。
今すぐ抱きつきたくなるような喜びが爆発すると同時に、胸に鋭い痛みが走りました。自分が彼の無事を無邪気に喜ぶ権利はないのだと、そんな事は誰よりも分かっています。
やはり雨が降っているのでしょう。こちらを覗き込む勇麻くんは頬や目元を水滴で濡らしていました。
……え? お姫様、抱っこ?
まだ夢を見ているのでしょうか。
自分の置かれた立場を無視して頬が急速に熱を帯びていくのが分かります。思考が追い付きません。酷く安心する温もりに支えられ、身体が浮かんでいる感覚に、自分の現状をそう認識するも信じる事が出来ないのです。
なにせ戻ってきた最悪の記憶と現状とのギャップが大きすぎて、その落差に思考が付いて行けずに頭がぐるぐると混乱しているのが分かります。
切ない幸福感と罪の意識の痛みがないまぜになって、頭が真っ白に染まっていきます。
続く言葉を探して、けれど何も捻り出せず。その濡れた瞳を次第に見開いていく勇麻くんと見つめ合ったまま固まっていると、
懐かしく安心するその温もりが、唐突に力強くわたしの身体を包み込みました。
☆ ☆ ☆ ☆
「……ゆう、ま……くん…………?」
……ああ、夢じゃない。
一度は死んでしまったとまで思った少女が、
ずっと味方であり続けると誓った大切な幼馴染の女の子が、
今、その温かな命の炎を燃やしてこの腕の中にいる。生きてくれている。
そう思った瞬間には、既に身体が動いていた。腕に抱えていた少女を優しく地面におろし、そのまま縋るように強く強く、抱き締めて抱き留めた。
勝手に溢れてくる涙を止める術も分からぬままに。
もう、離してしまう事がないようにと。
強く。強く。強く。
そうして少女の温もりを噛み締めていると、もうダメだった。
今まで楓を救うまではと棚上げしてきた自身の許されざる行いが、今にも心が壊れてしまいそうな激しい虚無と罪悪感とが、噛み締めた唇から血と共に溢れ出す。
少女の前で張り続けてきた見栄も虚勢も、少女が憧れた紛い物の英雄の鍍金ごと、ボロボロと剥がれ落ちて行く。
抑えきれない弱音が、負の感情が、勇麻の心の堤防を修復不能なまでに決壊させていた。
「ごめん……楓、ごめんなぁ……」
「……なんで。勇麻くんが、謝るの……? だって、違うよ。また、わたしが……わたしがまた勇麻くんを……この力で傷つけたんだよ?」
違う、違うんだ。
謝らなくちゃならないのは、懺悔をすべきなのは、その自己本位な救いで楓を、周囲を傷つけ続けていた東条勇麻の方なのだ。
何も知らない楓に、勇麻は首を横に振り続ける。
そんな勇麻の行動に楓が戸惑っているのが分かる。
クライムの洗脳によって勇麻を殺そうとしていた記憶が戻っている楓は、当たり前のようにまた自分を責めているのだろう。
自分も被害者であるというのに、ネバーワールドでの一件を忘れられず引き摺り続けてしまう心優しい彼女の事だ。きっと、一度自責の思考を始めてしまえば勇麻がどれだけ言葉で慰め許しても、楓は己を許せないに違いない。
けれど東条勇麻はエゴの塊だから、自分本位の傲慢野郎だから、そんな楓の自責や自己嫌悪や罪悪感を押し潰す勢いで、楓が自分を責める間も与えずに否定の言葉を重ねはじめる。
正義も何もかもを見失った今の自分に、まともな方法で楓の心を繋ぎとめることなど出来やしない。
だからこその苦肉の策。そしてそれ以上にそんなものは建前や言い訳で、真実は単純に勇麻の弱い心が限界を迎えて決壊しただけという笑ってしまう程に情けない傲慢なる少年の罪の告白。
眼前に佇む天使のような少女へ向けた懺悔だった。
「……違う。違うんだ、楓。ずっとお前を傷つけてたのは、俺だ。俺なんだよ……っ」
だって、東条勇麻は自分の心を救う為に、罪悪感や義務感から逃れる為に自分を傷つけ誰かを救い続けてきたのだから。
その結果として、救いたかった相手を泣かせてしまった事だってある。
そんな自分本位な救いは救いではないと、そう諭されておきながら、愚かな東条勇麻は同じ過ちを繰り返してきた。
「俺は馬鹿だからさぁ。こんな右手を持ってたって大切な人達の気持ち一つ碌に考えられないような自己中野郎だからさぁ……楓の気持ち、ちゃんと。考えた事も、なかったんだ……っ」
考えて、分かったつもりになっていた。
自分が傷つく事に心を痛める人間がいるという事を、知識として知ったつもりになっていて、その意味を理解できていなかった。その事実と、ちゃんと向き合ってこなかった。
結局、東条勇麻は誰よりも弱かったのだろう。
自分を信じる事が出来なかった。自分を認める事が出来なかった。自分を許してやれなかった。
それらを行う為に必要な勇気が、致命的に足りなかった。
その身を賭してでも東条勇麻を救いたいと思ってくれる人間がこの世界にいるという事を、それだけの事を積み重ねてきたという純然な事実を、心の底から信じる事が出来なかったのだ。
誰かに〝助け〟一つ求められなかった臆病な少年の、それが限界。
誰からも認められないと思い込んで、自分を無価値で罪あるものだと断じて、だからいつまでも満たされなくて満たされたくて。
かつての憧れだったものに、英雄の代役を務める事で贖罪を。自分を傷つけ誰かを救う事で得た笑顔に、自らの価値を。
そうやって酷く不器用で遠回りな自虐でなければ東条勇麻は己を認められず、そのボロボロの心は満たされなかったから。
歪に楓やアリシアに依存して執着して、彼女達が東条勇麻にとっての救う対象である事を願い続けた。
役割を彼女達に押し付け続けた。
正義の為の悪のような、英雄の為の庇護対象。そんな矛盾した本末転倒を、自分勝手に望み続けた。
誰もが理解しあって手を繋ぎ笑い合えるような、そんな世界。
そんな絵空事を思い描いていた少年は。
しかし誰よりも自分の事を信じられず、他者から理解されることを、認められる事を、好かれる事を、端から諦めていた大馬鹿者だったのだ。
そんな致命的な欠落に、歪で愚かな自分に今更ながら気付いた少年は、頭を掻き毟り早口に唾を飛ばして狂乱する。
少女が自分を責める事を忘れてしまう程に、壊れ、壊れ、壊れ果てる。
最初から壊れていた紛い物にも劣る不良品こそが自分で、だから謝らなければならないのは自分なのだと、泣き笑いのような歪な表情を張り付けて情けなく慟哭する。
「……何が英雄だ何が正義の味方だ何がヒーローだッ! 紛い物? そんなの紛い物に失礼だ。粗悪品にも劣る気味の悪い劣悪だ! ……俺は、ずっと楓に俺に救われる事を押し付けて来たっ、俺に守られていればそれでお前はずっと幸せなんだって! その涙を許さないとか綺麗な建前ばかりを並べて、結局頭の中で考えていたのはいつも自分の事ばかりじゃねえかッ! 自分の犯した罪を恐れた。怒られたくなかった、嫌われたくなかった、許して欲しかった、助けて欲しかった、報われたかった認められたかった! だから助けた!! 自分の欲望を叶える為に、満たされる為に認める為に楓にもアリシアにも依存していた!! 皆の笑顔を守りたかったハズなのに、気付けば俺の自分勝手な行いが皆から笑顔を奪っていたッ! しかも言われるまでそんな馬鹿な事に気付きもしない視野狭窄ぶりだ!! 本末転倒だ。気持ち悪いエゴの塊だ。俺は歪で、捻じ曲がってる! ……少しも、ああ少しもだッ! 俺は、あのネバーワールドの時から少しも成長していなかった……ッ!」
東条勇麻は自儘で傲慢で利己的で薄汚く最低な男で、そんな醜悪な自分を知られて幻滅される事すらも恐れ、逃げずに本心をぶつけてくれた楓と向き合う事からすらも逃げようとしていた、最悪な人間なのだと。
東条勇麻は胸に巣くう黒い感情を、己の弱さと醜さを、自分を慕ってくれる少女の前でその全てを曝け出す。
それなのに。
胸の中で渦巻く負の感情が暴走し自らを罵倒し続け荒い息を吐く勇麻を、腕の中の楓がいつしか何も言わずに優しく抱きしめ返していた。
さすり、さすり、と。少女の温かく柔らかな掌が、少年の背中を優しく往復して何度も撫で続ける。
何度も、何度でも。荒波だった心が落ち着くまで、いつまでも。
やがて、静かになった世界の中で、勇麻は楓を強く抱きしめたまま。
「……楓」
「うん」
「……俺は俺が嫌いだ」
「うん、知ってるよ」
「……楓。俺は俺が許せない。龍也にぃを死なせた自分が、憎くすらある」
「うん、知っているよ」
「……楓、俺はお前が思っているようなカッコいい人間じゃない」
「……うん、そうなのかも、しれないね」
自分を否定する言葉と。
その否定を肯定も否定もせずに優しく受け入れる言葉が続いて――
「……楓。俺は、……俺は偽物だ。英雄になんかなれはしない、どうしようもない紛い物だ」
――それでも天風楓は、
「ううん。それでも勇麻くんは、わたしのヒーローだよ」
自分を抱きしめ続ける勇麻の両腕を優しく引き剥がして、泣いている少年の顔を正面から見据えて、天風楓はそう断言した。
東条勇麻は自分のヒーローなのだと、どれだけ汚く醜く弱い部分を見せつけても。そこだけは頑として譲らなかった。
それからしばらくの間、見つめ合う二人を沈黙が包み込む。
長くも感じるし短くも感じるその優しい時間は、少年が言葉を発するべき息を吸い込む音によって途切れた。
――もう、逃げない。
大切な幼馴染と真っ正面から向き合うと決めた少年は、一度覚悟を決めるともう躊躇いはしなかった。
「……、楓。やっぱり俺は俺が嫌いだ。龍也にぃの事で自分が許せないし、憎くすらある。お前みたいに凄いヤツが憧れるような男じゃないし、所詮は英雄になんてなれない紛い物の偽物だ」
――でも、それでも。
「そんな間違いだらけの人生でも、確かに救えたものがあったよ。今までの歩みは、俺がこの拳を握って戦ってきた事は、正しい事ばかりじゃなかったかもしれないけど。決して無駄じゃ無かったんだって、今は……ちゃんと思える」
ここに至るまで〝誰か〟に助けられた事は。
沢山の人に助けられた事実は。
忘れてはならない、忘れようにも忘れられない、東条勇麻の歩みの証明なのだから。
東条勇麻の背中を押した全ては、確かに東条勇麻が右の拳で勝ち取ってきた大切なモノそのものだった。
だから。
――想いを綴ると自然、ぎゅっと拳に力が籠る。
「……楓。今まで自分のことばかりでお前の事を散々傷つけ続けたこんな馬鹿な俺を、お前が、もし許してくれるのなら――」
――誰かを助ける為にボロボロになり続けた勇麻くんの事は、一体誰が助けてくれるの?
「――今度は、楓に助けを求めても、いいかな?」
心優しい幼馴染の少女から発せられた、全く想定外の問いかけ。
一時は逃げようとしたその問いに対する、それが東条勇麻の答えだった。
少年は弱かった。
勇気も、自信も、強さも、その何もかもが足りなかった。
自分の価値を信じられなくて、だから誰かに助けを求める事すら怖かった。
だって、誰かに助けを求める事は、とても勇気が必要な行いだ。
それを断られたらと思うと、それだけで脚が竦む。助けを拒まれると、自分の全てを否定されたような悲しい気持ちになる。絶望から手を伸ばそうとする行為そのものが、自らをさらなる絶望へと突き落とす事もある。
自分の価値を信じる事が出来ず、自分を認められず、自分を許せなかった少年には、その勇気がなかった。
人を信じ、人の想いを、その可能性を信じた少年は、しかし自分だけはどうしても信じる事が出来なかったのだから。
人を信じる以上に、自分を信じる事は恐ろしい。
だって、他の誰が知らなくとも勇麻だけは知っている。自分の弱さをダメさを愚かさを無能さをどうしようもない罪深さも東条勇麻を東条勇麻足らしめるその全てを、知っている。
自分だけは自分の真実から逃れる事ができない。どれだけ上から綺麗に鍍金を塗りたくろうとも、自分だけはその偽りの輝きで騙す事ができないから。
でも、怖いと。恐ろしいとそう思えたのなら。
それは、〝勇気〟の始まりだ。
恐怖を知らない人間に、勇気は決して生まれやしない。
だから今度は、今度こそは。もっと、ちゃんと、恐ろしいことから逃げずに勇気を出して、自分の事を信じてみたいと思えた。
自分を信じて、誰かに『助けて』と言えるだけの勇気を、ちゃんと持てるようになりたいと思う事が出来た。
そう思えるだけの確かな積み重ねが、東条勇麻という少年が握った拳と共に歩んできたこの道のりには確かに存在していたから。
彼等の想いが、今もこの胸に残っている。彼らの言葉を、覚えている。
その小さな結果の積み重ねが、間違い続けた果てに、それでもこの手の中に残った細く拙くも強固な絆が、臆病な東条勇麻の胸に勇気の炎を灯してくれる。
だから、もう一度立ち上がって、始めよう。
神の子供達に真っ正面から立ち向かう以上の勇気を持って、少年は問いかけに対する答えでもって問いを返した。
何とか言い切った今だって怖い。恐ろしくて、握りしめた拳に縋るように視線を落としてしまいたくなる。でも、逃げずに向かい合うと決めた少年の瞳は、少女の優しい若葉色の瞳をじっと射抜いたままだ。
「――ねえ、勇麻くん」
そんな懸命な少年に、少女は見つめあったまま柔らかな微笑を浮かべて、そっと。硬く握り締められた少年の拳に手を置いた。
「……わたしもね、勇麻くん。一緒だったよ。優しいだけで強くない、弱いわたしがずっと嫌いだった。自分を信じる事が出来なくて、大切な人達から嫌われるのが怖くて、優しさで自分を覆い隠して逃げたりもした。優しいだけで誰も助けられない、力のない自分に価値はないと思ってたから」
内容に反して穏やかな声が心地よく勇麻の耳をくすぐっていく。
勇麻の拳に置かれた少女の小さく柔らかな指が、握り固めた震える拳を優しく解きほぐしていく。
見つめ合う少女の持つ、温かな柔らかさに心と拳を溶かされほぐされながら、勇麻は少女の独白を黙って聞いていた。
「でもね、アリシアちゃんが言ってくれたの。『私が大好きな楓を馬鹿にするな』って。だから、自分を嫌いでいるのは、もうやめる事にした」
人は一人では生きていけない。海音寺流唯の言葉は……ああ、なるほど、今更説くまでもない真理なのだ。
人は二つの腕の先に手を持って生まれ出てくる。
爪でも蹄でも翼でも触手でも棘でも触覚でもない、脆く壊れやすくて複雑な、五つの指でもってなにかを掴む為の、自分以外と繋がる為の器官。
決して独りでは完結しない、自分以外の他者を求める両腕を持って生まれてきてしまう自分達は、その指先に温もりを、誰かを求めずにはいられない。
人と人は出会わずにはいられず、そして出会えば、触れ合わずにはいられない。
肉体的、物理的な意味だけではなく、心と心もそれは同じことで。
だから、この世界に生まれ落ちた弱虫な自分達にはそれが必要なのだ。
自分を支えてくれる、自分以外の誰かが。
「――だからさ、ここから始めようよ。一緒に、少しずつでいいから。嫌いな自分をちゃんと好きになる努力を。二人で、一緒に……!」
繋がれた手と手が温かい。
少女の言葉が温かい。
少女の心が温かい。
少年の心も温かい。
見つめあったまま、手を繋いだ二人は泣き笑う。
馬鹿なものだ。どうして気付かなかったのか。こんなにも近くに、ずっと傍にいたのに。ただ勇気を出してこの手を伸ばせば、それだけで互いを救い合う事が出来たのに。
大切な人を、その力で傷つけてしまった少女がいた。
彼女がどうしても自分を許せなくて、全てを一人で抱え込み、自分の弱さを蔑み自責を続けてしまうというのなら、そんな暇がないくらいに少年は彼女を必要とし求めよう。少年は少女を許そう。
憧れにその手で幕を引き、罪に苦しむ少年がいた。
彼がどうしようもなく自分を信じられなくて、自分を憎んでしまうなら、それ以上の想いでもって少年の存在を認め肯定しよう。苦しむ少年を支えよう。
独りじゃ苦しくて、生きてくことからも逃げてしまいたくなるようなそんな世界でも。
きっと、その手を互いに伸ばす事が出来たのなら――
「楓」
「勇麻くん」
「俺を――」
「わたしを――」
「「――助けてくれて、ありがとう」」
☆ ☆ ☆ ☆
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第八十一話 リ・スターティング・フェイクヒーロー【偽】Ⅲ――Re.スタートライン/ずっと、ずっと。大嫌いな俺を/わたしを、助けてくれてありがとう:count 1
☆ ☆ ☆ ☆
これは結局、自分の事が嫌いな少女と少年が、それでもそんな自分を受け入れて前に進むと決意するそんなお話。
立ち止まってこれまでの道のりを、過去を、己を振り返り、再起のスタートラインに立つ、ただそれだけの物語だ。
どんな形であれ自分を受け入れ認めなければ、人は前へと進めない。
前へと進むときに自分だけは、置き去りにすることはできないから。
だから勇気を出して逃げずに向きあわなければならないのだ、弱くて情けない大嫌いな自分に。
……自分から逃げることは出来る。それは決して間違いという訳でもないだろう。
けれど、それでも逃げないと勇気を振り絞ったその選択こそが。自分にとって何よりも得難く尊い救いとなるハズだから。
転んで、挫けて、敗北に膝を突き、一度はその全てを諦めかけたとしても。さあそれでも、もう一度。否、何度でも。
その心が折れて萎れてしまわない限り、遅すぎたなんて事はきっとない。
誰だって、心の中に再起の白線を持っている。




