第二十三話 VS.黒騎士《ナイトメア》Ⅰ――実力差と綺麗事
影はその世界を閉じ、幕を引いた。
足元に踏みしめる地面を感じた瞬間、視界が現実へと帰還し、身体の感覚が返ってくる。
視界が晴れた勇麻の目の前にあったのは、先程となんら変わらない光景だ。
実験という名の拷問を受けて苦しむ少年少女達は、もうどこにもいなかった。
あるのは影に呑み込まれる前と寸分変わらない、現実の光景だけ。
「く、そ……なんだよ、アレ」
黒騎士の影の中に勇麻が呑み込まれていた時間は、実質ほんの数秒だったらしい。
だがあまりにも鮮明で凄惨な映像が脳裏に焼き付いていて、とてもただの幻覚だとは思えなかった。
身体の芯が揺れ、そのまま勇麻は地面に膝を着くようにして倒れこみ、胃袋の中身が喉元までせり上がってくる感覚を覚える。
勇麻はそのまま吐瀉物を地面にまき散らした。
「どうしたのです、大丈夫ですか!?」
レインハートは急に倒れた勇麻のもとへ、満身創痍の身体を動かし駆け寄ろうとする。
心配してくれるのはありがたいが、それは無用な心配だ。なんせ直接的に攻撃を受けた訳ではないのだから。
レインハートや少し後方で黙っている泉の様子からして、どうやらあの影の中に引きずり込まれたのは勇麻だけだったようだ。
「アナタが影に呑まれた一瞬の間に、一体何があったのですか?」
「……」
レインハートの質問に、勇麻は答える術を持たない。
なにせ色々あり過ぎた。
アレはそう簡単に他人に口外していいような内容の話ではない。
「どうだった? 地獄めぐりの旅は。お気に召してもらえたかな」
頭の後ろで腕を組みながら黒騎士はそう尋ねてきた。
この異常者は勇麻の反応を見て楽しんでいるのだ。
「……狂ってやがる」
「楽しんでもらえたようでなによりだ」
「あんなの、絶対におかしい。この街の上の連中は……狂ってやがる!」
アリシアの言動からある程度の予想はしていた。
彼女が置かれている立場について直接聞きはしなかったけれど、それでも何となく想像してしまい、激しい憤りを覚えた事があった。
だから、もし仮にアリシアの抱える事情を知る事になっても、ある程度の耐性くらいは付いているつもりでいた。
けれど、真実というヤツは、勇麻のちっぽけなハードルを軽々と飛び越えて見せた。
事実は小説より奇なり。そんな言葉をふと思い浮かべて、それすら安っぽいと勇麻は切り捨てる。
救いすら与えようとしない、真実とやらに怒りをぶつける気持ちにもならなかった。
真実は残酷だ。
ならば嘘は、優しく世界を包み込んでくれるのだろうか?
いや、きっと嘘ですら彼女を救えない。
残酷なのは真実では無く、きっとこの世界なのだから。
救われない。
こんな話、本当にどこにも救いようがない。
こんなの、たかが一高校生の手には重すぎる。
「狂っている、ね。そうだなまさにその通りだ。『創世会』……奴らは狂っている。この『天界の箱庭』は『神の能力者』の楽園なんかじゃねぇ。奴ら『創世会』にとっちゃあ、ただの実験用モルモットの飼育小屋にすぎないって訳だ」
そう語る黒騎士の声はどこか異様な熱を帯びていた。
複雑な感情の混ざり合った言葉の切れ端からでは、黒騎士が何を考え何を思っているのか読み取る事はできない。
「で、ヒーロー様よ。お前にあれだけの連中を敵に回す覚悟はあんのか?」
それは一つの回答を求める問いだ。
「あれだけの物を見せられて、それでもこの街にケンカを売る度胸はあんのかって聞いてんだよ」
今答えを出せ、応答しだいでは容赦はしないぞという警告。
「俺は……」
脳裏に焼き付いたあの光景を、地獄なんて安っぽい言葉で表現できるとは思っていない。
けれどアレは地獄だった。間違いなく、この世で最も人としての尊厳を冒涜している場所だ。
あそこの人間は自分以外の生き物全てをただの肉の塊としか思えないような、そんな異常者ばかりだ。何が目的なのかは知らないが、例えどんなご高尚な目的があったとして、子供達をあんな風に殺さなければ達成できないような目的なんて絶対に間違っている。
「……俺は、弱い」
けれども、それでも奴らは『創世会』。
この街の頭脳であり、心臓だ。
『創世会』を敵に回すという事は即ち天界の箱庭を敵に回す事。
それは死刑宣告にも等しいただの自殺行為だ。
神の能力者はこの街の外に出れば忌むべき対象でしかないのだから。
天界の箱庭に反逆して街の外に出た神の能力者など、忌み嫌われ、差別され、危険視されて、どこか地下深くにでも幽閉されるのがオチだ。
普通の神の能力者でさえ差別される外の世界で、反逆者に居場所なんて無い。
例え上の連中がどれだけ腐った外道野郎でも、天界の箱庭という安全な箱庭がなければ、神の能力者は生きて行けないのだ。
だから答えなんて最初から一つしかない。
そもそも選択肢が一つしかない回答から何を選べばいいのだろうか。
黒騎士の値踏みするような視線が勇麻に突き刺さる。
勇麻は俯いたまま、それでも言葉の続きを探し出す。
「だから、強大な敵を前にした時。こんな一人の高校生にできる事なんて、きっと何も無い……」
だって、刃向ったら消されるのは勇麻達で。
敵はこの街そのもので。
勝ち目なんて万に一つもなくて。
こんなの、ただの一高校生にどうしろと言うのだろうか。
勇麻は自分の胸の中の感情を、どうにか言葉として紡ぐ。
形として、世界に示す。
「仮に俺一人が立ち上がったとして、まず間違いなく殺される。それはきっと犬死ってやつだ」
そう、敗北は必至。
高校生一人二人にどうこうできる問題じゃないのも分かっている。
だいたいこの街を敵に回してまで、ほんの数日前に出会っただけの赤の他人を助けようとするなんて頭のネジが緩んでるとしか思えない。
「……でも。例え、負ける事が目に見えていても。俺一人ががむしゃらに何をやっても無駄だって分かっていても――」
けど、違う。
大事なのはそんなくだらない事じゃない。
敗北も死も失敗も必敗も完敗も、そんな事を語る段階ではない。
勇麻は顔を上げ、前を見据える。
「――あんな地獄見せられて、何の抵抗も無く引き下がれる訳ないだろうがァッ!」
目を覆いたくなるような理不尽と暴力と血の海の中。
人としての尊厳すら奪われた最悪の環境の中で、それでも最後まで希望を捨てずに戦い続ける子ども達がいた。
彼らはどんな時も友と助け合い、励まし合い、そしてあんな地獄の中で必死に生きて、とても小さな喜びを見つけては笑い合っていたのだ。
彼らは気高く、そして勇敢に戦った。
世界なんていう、途方も無く巨大な敵を目の前にして、それでも臆する事なく最後まで戦い抜いた。
「俺は見たんだよ。あんな意味わかんねぇ地獄の中でさえも、決して笑顔を忘れなかったあいつらの強さを」
勇麻は知っている。
理不尽な世界と戦った小さな戦士達の勇姿を。
「あんな小さな子どもが、歯ぁ食いしばって、絶対に勝ち目のない戦いに挑んだんだ! それを目の前で見せられて、先輩の俺が! 勝ち目が薄いからって理由で逃げ出すと本気で思ってるのか!?」
その言葉に黒騎士は、誰にも聞こえないくらい小さく鼻を鳴らした。
でもそれは、人を小馬鹿にしたような物では無く、どこか子どもの成長を見て喜ぶような……。
「へー、じゃあなに。それがお前の答えって事でいいんだな。この街に、『創世会』にケンカを売ってこの街と敵対する。それがお前の出した結論って事でいいんだな? 後悔は無いって事でいいんだな?」
どこか脅すような黒騎士の声に勇麻は不敵に笑い、
「……ああ、良くないね、本当は何も良くない。あとめっちゃ怖い、絶対こんなの正気じゃない」
「ならなんで戦おうとする? そんなに『神門審判』のガキが大事か? アレを助けた所で死ぬまでそこらじゅうの組織から狙われるだけだぜ? 助けられもしないのに、変に希望を与える方がよっぽど残酷だ。それならいっその事現実を見させてやった方が良いような気がするんだけどなー。……てか、あんな空っぽの抜け殻みたいな小娘一人助けて、何がそんなに楽しいのかそもそも俺には理解しかねるんだがな」
「確かに、アリシアはもうこれ以上ないってくらいにボロボロだ。もう、あの子が心の底から笑えるような日は、もしかしたら来ないのかもしれない。俺がたとえここで彼女を助けられたとしても、長い目で見れば彼女の苦しみを増やしているだけなのかもな」
勇麻はどこか自嘲気味にそう言ってから、
「けど、それでもここは退けない。あれだけアリシアは苦しんだんだ。なら、少しは彼女のわがままに付き合ってやってもいいじゃねえか。あいつが助けてくれって、そう自分から頼んだんだ。誰の意志でも無い、自分の意志でそう選択したんだ。だったら、俺はそれを手伝う。そうしないと、あの実験で死んでいった子ども達が報われない!」
勇麻の瞳に宿る意志の炎。
燃え盛る感情を己が力に変え、勇麻は拳を握りしめる。
勇気の拳が唸る。
回転数が、上がる。
「『創世会』は止める! アリシアも助ける! それに一人の人間として、あんな悲劇をこれ以上起こさせる訳にはいかない!」
正解までたどり着ける選択肢が一つしかないのなら、そもそも正解を選んでやる道理など無い。
間違いだろうがなんだろうが、そんな物知った事じゃない。
選択肢の外へ、定石の向こう側へ、踏み出すことを何故恐れる?
視界の先、そこには倒すべき男がいる。
「へぇ。ようやくイイ目をするようになった。少し、面白くなってきた」
黒騎士は己の影から、黒いのっぺりとした質感の剣を取り出すと、愉しそうにそう言った。
黒剣を一振り、ヒュオッと風を切る音が勇麻の耳まで届いた。
ピリピリとした、首の後ろが焼けるような緊張感が場を支配する。
「お前なんて『創世会』とぶち当たる前の前哨戦だ。悪いけどさっさとご退場願うぜ、黒騎士!」
一人の少女の命運と小さな戦士たち。
彼らの誇りと名誉の為にも、アリシアは救わなければならない。
まだ彼らの戦いに決着は着いていないのだから。
☆ ☆ ☆ ☆
意志は固まった。
決意と呼べるかどうかは正直微妙な所だが、あれだけの物を見せられて黙ってられる訳がない。
見過ごせないし、そもそも勇麻に選択肢など残されていない。
東条勇麻はヒーローでは無い。
それでも、あの人の代わりを務めると決めた。
誰かが傷つくのを黙って見ているくらいなら、自分が代わりに傷ついてみせると、そう誓ったから。
あの人のように全てを完璧に解決するなんて芸当は、きっと勇麻にはできはしない。
それでも、偽物だろうが紛い物だろうが勇麻は演じると決めたのだ。
ヒーローを。
代役の主人公を。
だから勇麻に、そもそも決定権なんて残されていないのだ。
まるで切り替えレバーのないトロッコのように、勇麻の意思など関係なく、アリシアの笑顔の為に『創世会』に刃向う、というルートしか選ぶことは許されないハズだった。
けれど、なぜだろう。
無数にある可能性の中から、『創世会』と対峙するというルートを自らの意思で選び取ったような心境を勇麻は得ていた。
不思議な感覚だった。
今の勇麻は、一体誰の意志で戦う事を決めたのだろうか。
今までは過去の罪悪に囚われるように、ひたすらあの人の代役を演じ続けるだけだったのに。
(俺の中にまだ残っている? 自分の意志で誰かの為に誰かに立ち向かう力が……? まさか、な。……ああ、これも違う。分かってる、そんな事は分かっているさ。きっとこんな気持ちも、俺の勘違いでしかないんだろうな、けど)
勘違いだろうが筋違いだろうが何でもいい。
今、この瞬間を戦い抜くだけの気持ちが湧き上がってきたというのなら、その源がなんであれ大いに喜ぶべきだ。
「さあ、格好良く宣戦布告したところでここからどうするよ。……なあアンタ、正直言って俺でアレに勝てると思うか?」
首の向きは変えずに視線だけでレインハートを捉える。
急に話を振られたレインハートは、一瞬不意を突かれたのか戸惑ったような顔をした後、
「……勝ち目、ですか。……嘘を言っても仕方がありませんし、ハッキリ言わせて貰います。アナタでは黒騎士に勝つことはできない」
想定通りと言えば、想定通りの回答だった。
……悪い方の想定だという事が問題ではあるのだが。
「……黒騎士と何度か刃を交えた私だから分かるんです。アレは、あの男は、私やアナタのようなレベルの神の能力者が正面から立ち向かうような相手ではないんです。万に一つも勝利の可能性が無いとは言いません。相手だって完璧な存在という訳ではない。弱点もあれば、失敗だってするでしょう。ですが……それでもアナタの勝ち目はほぼゼロに近い」
レインハートは淡々と事実だけを告げる。
辛辣な評価ではあるが、信用はできる評価なのに違いはない。
「東条勇麻、何も一般人であるアナタがこんな危険を冒す必要はありません。ですからここから先は私達、背神の騎士団に任せ……っつ!」
「……痛いんじゃねえかよ。なにが後は任せろだ。そんなボロボロの身体で戦える訳無いだろ。それに、勝ち目が薄いってのは初めから分かってた事だ。ゼロじゃないって言葉がアンタの口から聞けただけで、とりあえずは満足しとくよ」
それは強がりではない心からの本心だ。
ゼロじゃないなら、希望があるのなら、人間はそれを信じて戦う事ができる生き物なのだ。
あの少年少女達がそうだったように。
「……黒騎士の『神の力』は『影』を操る物です。ヤツ自身の影、自分の影、建物などの遮蔽物の影、それら全てに注意を払う必要があります」
自ら死地へ向かおうとする勇麻へ、あくまで淡々とレインハートはそう告げる。
それが彼女なりの、東条勇麻へ送る精一杯のエール。
「『影』、か。……分かった、助かったよ。ありがとう」
そういえばレインハートとレアードの二人を攻撃した時も、黒騎士は二人の影を利用した攻撃を放っていたような気がする。
それにさっき勇麻が見た光景だって、黒騎士の影に呑み込まれた結果見えた物だった。
影全てを操るとか、かなりチートだ。
勇麻は思いっきり文句を言いたい心境になった。
そうして考え込むように黙ってしまった勇麻に、若干うんざりしたような声がかけられた。
「あー、退屈な前置きはもう終わったか?」
「……ああ、わざわざ待たせたみたいで悪かったな」
「いや、これから俺の暇つぶしに付き合ってもらおうってんだから文句は言わないよ。俺も大人なんでね」
「そうかよ。ならお前の暇つぶしに付き合ってやるぜ、黒騎士」
戦闘が始まる。
「暇つぶしついでにうっかり俺にぶっ倒されやがれ、このクソ野郎!」
本当の意味でアリシアという少女の命運を懸けた戦いが。
☆ ☆ ☆ ☆
泉修斗は黙ってそれらの話を聞いていた。
否、途中からは聞いてすらいなかった。
眠ったように目を閉じ、自分の世界に入り込んでいた。
けれど、何となく状況は掴んでいる。
さっきの二人が実は敵じゃなかったとか、黒騎士の策略にまんまとハマっていたとか、そんな事はどうでもいい。
泉修斗にとって重要なのはそこではない。
要するに、だ。
あの長ったるい話を超簡単にまとめると、ぶっ飛ばすべき相手はあの黒騎士一人になったという事だ。
それだけ分かっていれば何の問題も無い。
勇麻と黒騎士にまつわる因縁を泉は詳しくは知らない。知らないし、話に入れないのなら、無理に参加する意味も無い。敵の言葉を聞いてグダグダ悩んだり葛藤したり考えたりするのは全て勇麻に任せてしまう事にする。
ならば、泉修斗は自分にふさわしい仕事をすればいい。
だから泉はあの長い話の間、ひたすら目をつぶり精神を極限まで集中させていた。
精神を研ぎ澄まし戦闘力を底上げする。合図一つあれば、いつでも敵を殲滅できるように。
何も考えずに、ひたすら自己と向き合う。
己の限界値を越える。
そんな時だった。
世界から乖離していた泉の耳に、どこか遠くから友の声が聞こえてきた。
何を喋っているのか内容は分からないが、雰囲気から察するにどうやら話は終わったらしい。
ならばここからは泉の領分。
燃え盛る炎で全てを灰にし、肺が焼けつくような勝利を捧げようではないか。
心躍るような強敵を前に、それでも泉の意思は変わらない。
全部ぶっ潰す。
アリシアという少女の為でも世界の為でもない、泉修斗は彼だけが知る、拳を握るに足りる理由を胸に一つの悪夢へと立ち向かう。
☆ ☆ ☆ ☆
黒騎士と勇麻の視線が両者の中間で激しく交錯する。
じりじりと高まる緊迫感。
黒騎士は影の黒剣の切っ先を地面に向けて、だらりと構える。
勇麻はケンカ慣れした我流の構えを取り、拳に力を込める。
地面を蹴り前に進む力を得る為に、両足に力を込めて――
――そして激突の間際、突如勇麻の後方から声が聞こえた。
「――話は終わったか、勇麻」
タイミングを崩され、突撃を中途半端な体勢でキャンセルさせられた勇麻は、前のめりに転びかけながらも爪先に力を込めてなんとか転ばずに留まると、後ろを振り向いた。
出鼻を挫かれた勇麻はジットリとした目を泉へと向けると、皮肉っぽく口の端を歪めた。
「あ、ああ。一応な。……てか泉、お前さっきから全く喋らねェから、てっきりビビッて気絶でもしてるのかと思ってたぜ」
「……ああ、ワリィ。ちょっと寝てたわ」
いつもなら勇麻の軽口に毒の効いた軽口で応じる泉が、たったそれだけの反応。
目を丸くして驚く勇麻を尻目に、泉はその全身を包む炎を、より強力に燃え上がらせる。
「ほー、なかなか強力な神の力を持っているみたいだな」
「世辞はいらねえよ、仮面野郎。どうせならテメェの負け惜しみの方が聞きたいからな」
泉は黒騎士を見据える目を一度閉じる。
「だから」
そして、勢いよく燃え広がる自分の炎に同調するかのように、その目を大きく見開いて、
「ぶっ潰す!」
叫び声と共に足の裏を爆発させると、凄まじい速度で、黒騎士目掛けて一直線に大地を駆け抜ける。
「ば……馬鹿っ、泉! 勝手に先走んな! ……ああ、もう!!」
勇麻の静止も届かない。
泉はその顔に笑みすら浮かべていた。
マグマのように粘性を持つ、変幻自在の炎の身体。
泉はその両腕を直剣へと変貌させ、速度を殺すことなく、黒騎士へと斬りかかる。
爆発させながら振り下ろされた二振りの炎剣は、黒騎士の身体を真っ二つに叩き斬る軌道を描いた。
そして、
「まー、あれだ。悪くない、実戦向きのいい力だ。身体も鍛えてるのか、筋力もなかなかだ。流石は特待生クラスの神の能力者、と言ったところか」
速度を上乗せした強烈な斬撃を、
「けどそれはあくまで学校レベルでの話。悪いけど俺には通用しない」
黒騎士は片手で握った影の黒剣で軽々と受け止めていた。
「身の程を知れよ、井の中の蛙クン」
「ハッ、別にここまで想定通りだっつの!」
突き合わせた剣を一度大きく弾いて離し、すぐさま斬り結ぶ。
全てを溶かし焼き斬る炎剣と、全てを拒絶する影の剣が、空中で幾度となくぶつかり合う。
肘の部位を爆発させブーストし、斬撃に速度を得る。
両の炎剣から繰り出される加速された攻撃を、黒騎士は流れるような体捌きと一本の黒剣で確実に捌いていく。
「なるほど。自慢のスピードを活かして手数の多さで圧倒しようと言う腹、か。……まー、あれだな。悪くはない。格上相手に攻撃する暇も与えず攻め続けるってのは、考え方としてはそこまで間違っちゃいない。間違っちゃいない、が……発想が乏しいな。攻撃が単調で読みやすい。俺くらいになれば、この程度の速度の攻撃に対応する事はさほど難しくはないぞ」
「……なら、テメェが付いてこれなくなるまで、速度を上げるまでだ!」
さらに速度を加速させ、黒騎士を手数でもって圧倒していく。
徐々に、黒剣での対応が間に合わなくなっていく。
そしてついに、泉の左の炎剣が黒騎士の影の黒剣を大きく上に弾いた。
腕ごと弾かれ、上体を反らしたようになる黒騎士の身体はがら空きだ。
泉の瞳が飢えた狼のようにギラつき、黒騎士の胴体を真っ二つにするべく炎剣が上から下へと振り下ろされる。
が、
泉の一撃は空を斬るのみ、目の前にいたはずの黒騎士の姿が、まるで沈み込むようにして一瞬で消えたのだ。
が、攻撃を空ぶった瞬間の泉に動揺は無い。
まるでそこまでが想定内の出来事であるが如く、自分の背後を確認もせずに、ノータイムで真後ろに回し蹴りを打ち込む。
どしゃっっ!! という激突音が泉の攻撃がヒットしたことを伝えていた。
だが泉の表情は優れない。
「……影の膜の鎧、か。チッ、その様子だとダメージはゼロかよ」
「言っただろ、対応するのはさほど難しくないって」
泉の右足は黒騎士の顔面に――というか仮面に――綺麗に突き刺さっていた。
だが、身体全体を薄い黒い膜に覆われた黒騎士にダメージを受けたような雰囲気は微塵も無い。
「俺が背後に移動したことに気づいた事は褒めてやる。良い反応だった」
「良い反応? 馬鹿じゃねえの? 俺がある程度接近すれば、いずれ回避と攻撃の為に俺の影に“潜ってくる”事くらい想像できんだよ。テメェの行動はどれも想定の範囲内だ」
レインハート=カルヴァートとレアード=カルヴァートの二人を倒した時も、黒騎士は二人の影の中から攻撃をしていた。
そして黒騎士が急に現れる時はいつも誰かの背後――つまり影のある場所から出現している。
影を操る黒騎士が、影の中を移動できても何らおかしくはない。
あまり当たって欲しくはない予想だった事は間違いないが。
「へー、俺の神の力がどういう物なのか理解してたのは素直に感心するが……想定の範囲内の割に、お前の渾身の一撃は防がれてるみたいだぞ?」
黒騎士の問いに泉は答える。
攻撃は防がれているはずなのに、場違いにもその顔に不敵な笑みを伴って。
「だからよ、それも“想定内”だ」
「なに?」
泉の言葉に眉を潜める黒騎士。
だがその直後に、その意味を知る事になる。
「おいしいところは譲ってやる。……だから、ブッ飛ばせ!」
「言われなくても、分かってる!!」
黒騎士が声のした方を振り向いた時には、既に視界いっぱいに拳が迫っていた。
「……なッ!!?」
黒騎士が何かを行動に移す前に、勇麻の右拳が影の膜に触れて――瞬間、僅かに赤黒く明滅――不気味に笑う不吉な仮面と影の膜とを粉々に打ち砕き、黒騎士の身体が紙切れのように吹っ飛んだ。
轟音と共に凄まじい勢いで黒騎士の身体が空中を飛んで、ヤシの木に衝突。
ヤシの木では勇麻の一撃の衝撃を殺しきる事が出来ず、その幹をへし折って黒騎士はしばらく地面を転がり続ける。
「ようやくお前の素顔を拝めそうだな、黒騎士」
仮面の残骸をその足で踏み砕き、勇麻はそうこぼした。
☆ ☆ ☆ ☆
油断。慢心。気の緩み。
どんなに鉄壁の心を持つ人間だって、生まれてこの方一瞬たりとも気を抜いた事の無い人間など存在しないだろう。
だからそれは誰にでも起こりうる事だ。
ピンチとチャンスは紙一重。
なるほど、確かにその通りだ。非常に共感のできる言葉だろう。
だが、いい意味で使われる事の多い印象のあるこの言葉だが、案外、チャンスの時こそ身を引き締めろという思いがこの言葉に込められていたのかもしれない。
勝利の瞬間、否。
勝利を確信したその瞬間。
果てしなく勝利に近い場所に立っているその一瞬こそが、真っ暗な奈落の底に一番近づいているのかも知れないのだから。
敗北の蔓延る奈落の底に。
だから。
軽く数十メートルの距離を転がり、倒れたままピクリとも動かない黒騎士の影から、突如として伸び広がった六本の影に泉修斗と東条勇麻は対応する事ができなかった。
「な」
それは暴力なんて次元ではない。
黒い暴風。
全長三〇メートルを軽く越す、巨大で禍々しい六本の黒い腕が、まるで薙刀のように振るわれ、その円を描くような軌道上にある、物体全てを薙ぎ倒し破壊する。
ヤシの木が、道の端に置かれていた木製のベンチが、街灯が、先の戦いでコンクリの舗装が剥がれかけていた道が、黒い暴風の圧倒的暴力を受け破壊されていく。
その場で傷を押さえ蹲っていたレインハートとレアードも、直撃こそ免れたものの、影の腕が振り回された事で発生した衝撃の余波を受けて地面を数メートル転がった。
泉と勇麻に関しては直撃だった。
圧倒的な馬力をもってして襲い掛かってくる一撃を前に、二人は成す術も無くおもちゃのように吹き飛ばされて宙を舞う。
「がぁっ……ひゅ!?」
滞空時間が永遠のように感じられる。
スローモーションで流れる世界の中、勇麻は受け身も取れずに胸から地面に落ちた。
時間の遅行が戻る。
空気の塊が強制的に吐き出され、勇麻はまともな叫び声も上げられない。
影の腕の直撃を受けた左腕がおかしい。
変に熱を持っているし、感覚がほとんど消えてしまっている。
見てみれば勇麻の左腕は、思わず目を逸らしたくなるような色合いに変色していた。
どうやら折れているようだ。
一方の泉は『火炎纏う衣』のおかげか、そこまで大きなダメージを受けている様子はない。
それでも目の前で起きている現象に驚きは隠せないのか、目を白黒させていた。
「……な、なんだ。アレ」
「俺が聞きたいよ。くそ! 防御した状態で、勇気の拳の一撃をまともに受けたんだぞ!? 普通は立てない! それなのに、なんであんなヤバそうな物まで出てくるんだ!?」
勇気の拳の前に防御は無意味どころか逆効果。
その一撃を防御で受け切ろうなどと考える臆病者を、勇気の拳は許さない。
黒騎士は、その身体中に防御用の影の膜を張っていた。
その状態で勇気の拳の一撃を、顔面にまともに喰らったのだ。
仮面を粉々に粉砕する程の凄まじい威力で脳味噌を揺さぶられた黒騎士が、そう簡単に立ち上がれる訳が無い。
なのに、彼らの視界の中、悪夢は動きを止めない。
「見ろよ、明らか普通じゃないだろアレ。……てかクモみたいで糞キモいんだけど」
未だに意識が戻っているのか怪しい黒騎士の身体を、彼の影から造りだされた六本の影の腕が支えているのだ。
影から彼の背中に接続され、黒騎士の身体を支える六本の長大な影の腕。その姿はまるで巨大な黒い蜘蛛のようにも見える。
「クモ……ってより、マリオネットか何かみたいだけどな。クモの足八本だし」
「どうでもいいだろ、そんな事はァ! 糞くっだならい事言ってないで、なんとかする方法考えろよこのアホ!」
「いや、それ言い出したの泉だし! てか、あんな怪獣は人間の担当分野じゃないだろ。光の巨人でも呼ばないと勝ち目ないぜこんなもん!」
長大な足代わりの影の腕の出現で、地上数十メートルのところに存在する黒騎士の両腕は力なくダラリと垂れ下がり、両足は宙に漂ってフラフラと力なく揺れている。
その姿は、糸を括り付けられた哀れな操り人形に見えないこともない。
やはり気を失っているのか、ガクンと落ちた首とその高さとが相まって、仮面の剥がれた素顔を見る事はできない。
「おい勇麻、マジでどうすんだよ。アレ! あんな高いとこに居られたんじゃ、俺の攻撃は届かねぇぞ!」
「泉で無理なら俺にはお手上げ状態だよ」
「チッ、……まあそうだろうな。……そうだ、あの女の飛ぶ斬撃なら――」
「ダメだ。あの傷じゃレインハートはもう戦えない。彼女に頼る事は不可能だ」
「クソ! ……で、だったらどうするって言うんだ?」
「……………………あの巨大な足を叩き折って、本体を地上に引きずり下ろすしかない」
「チッ、一狩り行くような気分じゃないっつーのに!」
そんな話合いをしている間に、黒騎士の本体に変化があった。
「うがっ、はァ……ばァがギャぁあああ…………コロスぅ。コロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロコロしぃいいいダいィィィィぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃッ!!?」
突如、電気ショックでも走ったかのように黒騎士の身体がビクンビクンと跳ね始め、両手で頭を抱えながら意味不明な事を叫び始めたのだ。
「おい勇麻、急にどうしたんだよアレ!」
「俺が知るかよ! なに! あと何段階変身が残されてるって言うんだよ! もう十分絶望的だってのに!」
黒騎士は頭を掻き毟り、身を捩りながら意味を成さない絶叫を続ける。
それはまるで悪夢に苦しんでいるかのようだった。
「だぁぁァめだぁぁ、コロ、コロコロコロ死ぃぃィィだぁいィイ! ……や、めろ。やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
黒騎士の絶叫と共に、彼の身体を支えていた影の腕が暴れまわる。
手当たり次第にそこらじゅうに影の腕が叩き付けられ、綺麗に舗装されていたはずの道が、ただの瓦礫まみれの荒れ地に変わる。
もがくように暴れまわる影の腕は、まるで毒でも盛られて苦しんでいるかのように見える。
「はな、せぇ。お……レ。は! 俺だぁぁぁああああああああああああああああああああああああ!」
ようやく意味を取り戻した黒騎士の叫びと共に、影の腕が瞬時に収縮。
黒騎士の身体をまるまる包み込む黒い球体となる。
「……元に」
「……戻った?」
時が止まったかのような沈黙と静寂。
そしてしばらくしてその黒い影の球体が弾けて――
――その顔に自らの影で造り出した黒い仮面を付けた黒騎士が現れた。
「ふー危ない危ない。危うく自我を持ってかれるところだった」
まるで通勤電車に乗り遅れるところだったとでも言うような気軽さで、黒騎士はそうボヤいたのだった。
「……今のは。なん、だったんだ……?」
「ん? なんだったと言われても、んーそうだな。説明するのも面倒臭いし、そんな義理もないんで、『暴走』とでも考えてもらえればそれでいいんじゃない?」
「暴走……? あれがか?」
「いやー、お前らにはなかなかお見苦しいところを見せちまった訳だが……まあ、アレだな。ここまで俺を痛めつけてくれたってのに、暇つぶしで潰すのはおしいな、お前ら二人は」
泉と勇麻は巨大怪獣と戦わずに済んだ事にホッとする暇もなかった。
「この戦い。全力で楽しませてもらう事にしよう。さぁ、楽しく遊ぼうぜ! くそガキども!」
それくらいに濃密な殺意が、仮面の奥底から泉と勇麻の二人を見据えていた。
その凶悪な殺意に、二人が一瞬怯んだ。
その隙を突かれた。ほんの一瞬の刹那の内に、黒騎士の姿が勇麻達の目の前からかき消えた。
「野郎、また影の中に!?」
思わず自分の背後を振り返る勇麻と泉。
しかしどこを見渡しても黒騎士の姿は見当たらない
「俺らの影じゃない。……クソが、どこにいきやがった」
「落ち着け泉、アイツが移動できるのは影の中だけなんだろ。だったらこの暗闇に紛れるようにして、必ずどこかの影に移動して、その場所に潜んでいるハズだ」
勇麻と泉は周囲を警戒しつつ、背中合わせになるようにして互いの死角を潰そうとする。
ゆっくりとした動作で背中を合わせようとする二人、だが彼らが背中に感じた感触は、友の背中の物ではなかった。
誰かの掌が、それぞれの背中に触れていて──
「──残念、ここだ」
──不意に二人の背後に現れた黒騎士の声によって、二人の思考が一時停止する。
「なっ、潜んでいた!? 時間差で……!?」
「この……糞野郎ッ!?」
驚きの声を挙げるので精一杯だった。
黒騎士の身体が翻り、肉と骨を叩く鈍い音が鳴り響いて、勇麻と泉の身体が無様に地面を転がる。
「ぐっ……!」
「がほっ!」
「まずはお前にさっきのお返しをしないとなァ!」
黒騎士は楽しそうにそう言って、泉に追撃をかける。
その手にはどこから取り出したのか、いつの間にか影の黒剣が握られていた。
対する泉は転がった反動を利用してすぐさま起き上がると、己の両腕を炎剣へと変化させ黒騎士を迎え撃つ。
「ぐっ……っつ!?」
今までとは比べ物にならないくらい重い一撃に泉の身体が軋む。
「泉!!」
運悪く、折れた左腕から落下した勇麻は痛みで動けない。それでも絞りだすようにそう叫んだ。
勇麻の叫びを耳に、泉は黒騎士の一撃を両の炎剣で受け止め、全力で力を込める。それでも押し切られそうになり、
「ぐっ、……ざっけんな!」
肘の部分を爆発させ威力をブースト。
一瞬だけなんとか押し返し、そのまま拮抗させるので精一杯だ。
「さっきも言ったんだが、中々いい神の力だ」
「……テメェに言われても……皮肉にしか、聞こえねえ、っよ!」
「皮肉、ね。まあ確かにこういう事はできんか」
「っ!!?」
突如、炎剣に掛かっていた抵抗力が消滅した。
その瞬間、泉は何が起きたのか全くもって理解できなかった。
ただ一つ。泉の視界の中で、泉の炎剣と鍔迫り合いを繰り広げていた黒騎士の影の黒剣が、切っ先からボロボロと細かい粒子になりながら消滅するのを泉の目は確かに捉えていた。
急に一切の抵抗力が消え、つりあっていたハズの力の天秤の均衡が崩れる。
黒騎士の攻撃を押し返す為に前方に体重を掛けていた泉は、堤防が決壊したダムの水のように、勢いよくバランスを前方に崩してしまう。
前のめりになった泉の頭が、丁度、黒騎士の膝に吸い込まれるように。
「お、ベストな位置に頭がっと」
泉の倒れる勢いを上乗せした強烈な膝蹴りが、鼻の頭に突き刺さり泉の脳みそを激しく揺さぶった。
「がぁっ!?」
火炎纏う衣によって自身の身体の性質をマグマのような粘性を持つ炎に変化させる泉に、並大抵の攻撃は意味を成さない。
炎熱は勿論の事、切り傷も打撃もある程度の威力なら無力化させてしまう。
だがあくまでベースは人間の身体だ。
心臓が無くなったり、脳みそまで炎に変わったりはしない。
よって、急所をねらった致命的な攻撃に対しての耐性はそこまで高くはないのだ。
脳みそ中を強烈な衝撃が駆け巡り、泉の意識が強制シャットダウンさせられ――
「おい、誰が寝ていいって?」
――なかった。
地面に沈みかけた泉の燃える髪の毛をがっしり掴み、黒騎士は愉快そうにそう嘲った。
意識を失う寸前で現実に縫いとめられ、頭のダメージに起因する猛烈な吐き気が泉を襲った。
そんな泉の顔面に、何処から取り出したのか、影の黒剣の切っ先が容赦なく向けられ――
「――泉を放せ! 黒騎士!」
「あー、別にいいけど?」
――叫びつつ後ろから黒騎士に跳びかかった勇麻目掛けて、泉の身体が放り投げられる。
「ぐえっ!?」
顔面に直撃。
そのまま泉を受け止められずに地面に倒れる。
受け身は取れなかった。
後頭部を打ち付け、地味に強烈な衝撃に頭が揺れる。痛みに地面をのた打ち回る。
「あーあ、かわいそうに。友達なんだろ? ちゃんと受け止めろよ」
ふざけた軽口を叩く黒騎士。
完全に手玉に取られている。
「く……」
起き上がれない泉を一旦放置し、膝に右手を当て何とか立ち上がる勇麻。
ぶらりとぶら下がるだけで、何の役にも立たない左腕を一瞥してから、
「……にしてもお前、よっぽど素顔を見られたくないんだな」
わざわざ自らの神の力を使ってまで造り上げた、影でできている黒い仮面を見て勇麻はそう言った。
黒騎士はその言葉に肩をすくめながら答える。
「それは勘違いだな。俺が見せたくないんじゃない。お前らが見たくないんだよ」
「?」
「……分からなくていい。俺の素顔を見たら、お前はきっと後悔するぞ?」
「そんな風に言われたら、意地でも剥がしたくなるのが人間ってモンだ」
どこかやけくそ気味に笑いながら、勇麻は宣言する。
「その化けの皮、絶対に剥がしてやる!」
勇麻は勇気の拳の効力で強化された脚力で、黒騎士との距離を一瞬で詰めようとする。
力強く踏込み、身体を少し回すようにして肘を突き出す。
黒騎士の首、気道を狙った鋭い肘打ち。
「悪い狙いじゃない。だが、甘いな」
勇麻の攻撃が黒騎士に届く前に、黒騎士の影から伸びる都合六本の黒い腕――先ほどより全然小さく、約二、三メートルくらい――が勇麻を迎撃しようとする。
勇麻は瞬時の判断で攻撃を諦め、一本一本が別々の軌道で襲い掛かってくるその攻撃を神憑り的な反応と、華麗なステップを駆使して潜り抜ける。
最後の一本を、黒騎士の横をすれ違うようにしてどうにか躱しきる。
が、回避するのが精一杯で、それ以外に頭が回っていなかった。
全てを躱した結果、勇麻は黒騎士に背中を向ける事になってしまったのだ。
「おいおい、あんまりにも隙だらけだぜ?」
当然、黒騎士がその隙を逃すはずもない。
声の方向を振り返ると同時、飛んできた鋭い蹴りが勇麻の顔面を打った。
痛烈な一撃に、勇麻の身体が地面をバウンドする。
頭が揺れている。視野がブレる。
首の辺りから嫌な音が聞こえたのは気のせいであってほしい。
痛みに悶える勇麻への追撃の手を、黒騎士は緩めない。
六本ある黒い影の腕が、地面を転がる勇麻を串刺しにしようと襲い掛かる。
「くッ!」
痛がる暇も立ち上がる暇も無かった勇麻は、地面を転がって黒騎士の魔の手を回避し続ける。
が、それも永遠には続かない。
転がり続けた末、道路の端の縁石にまで追い詰められた。
逃げ場を失った勇麻のドッテ腹に、影の腕が一撃をぶち込んだ。
空気が抜けるような音と共に、喉元にせり上がってきた物を全て吐き出した。
てっきり吐瀉物だと思っていたそれは、真っ赤な鮮血だった。
「はい捕まえたっと。えー、東条勇麻クン一丁あがり~」
「く……、がぁッ! は、なせ」
影の腕が勇麻の胸倉を掴み、宙につるし上げる。
勇麻の足が頼りなく揺れ、捻るように衣服ごと締め上げられた首が苦しい。
まともに息ができない。
酸欠で顔が真っ赤になっていく。
じたばたと、それこそ勇気の拳で強化されている身体能力をフルで活用してこの状況からの脱出を試みるが、影の腕は尋常じゃない力で勇麻の事を掴んでいて、ビクともしない。
「なんか茹ダコみたいになってるとこ申し訳ないんだけどさー」
黒騎士は首を傾げて、
「俺一人にこんなありさまで、どうやて『創世会』を止めるって言うんだ?」
黒騎士一人に翻弄されている現状。
理想と現実の差。
実力不足。
勇麻如きでは計り知れない干渉レベル。
それらを嫌と言うほど痛感させられた。
「……」
黒騎士は強い。
この男はまだ、本気なんて微塵も出していない。
宣言通り、楽しく全力で遊んでいただけなのだから。
きっと本来の実力の四割も出していないだろう。
だがそれでも、勇麻如きでは遠く及ばない。
届かない。
実力に差がありすぎる。
「いやさ、そこそこいい線はいってると思うんだぜ? イルミとナルミを撃退し、背神の騎士団の戦闘員を相手に一歩も退かずに善戦する……とまぁ、普通の学生の範疇を越えているのは誰の目にも明らかだ」
けれど、と黒騎士は一度言葉を区切って。
「それだけだ。お前はせいぜいその程度のレベルの戦いにしか通用しない。世界そのものに立ち向かうには、お前は矮小すぎる」
黒騎士の死角から不意打ちを掛けようとしていた泉を、影の腕が吹き飛ばした。
黒騎士は泉のことをチラリとも見なかった。
まるで影の腕に意思があって、自動的に迎撃したかのようだった。
「はっきり言って不可能なんだよ。俺たち神の能力者にとって、この天界の箱庭と『創世会』は絶対に必要な物だ。それをぶっ潰すって事の意味を、東条勇麻。お前は本当に分かっているのか?」
「……別に、潰そうなんて気はねえ……よ」
絞り出すような声、黒騎士はただ黙って聞いている。
「ただ、俺は……間違っている事を、なんとかして、止めなきゃ……ならないんだ」
「綺麗ごとだな。子どもの絵空事と同等かそれ以下だ」
「それでも、俺は……『創世会』を止める。アリシアも助ける」
「……分からないな。何がお前をそこまで駆り立てる? ……神門審判の時もそうだ。到底達成不可能な事は十分わかっているハズだ。いや……そもそも普通にやったら自分が死ぬって事をお前は理解している。理解してなお、お前はなぜ拳を握る?」
黒騎士の問いに、勇麻の声は揺るがない。
真っ直ぐにその仮面を睨み付けて、言い放つ。
「俺が……、俺がやらなきゃならないからだ」
その答えに黒騎士は押し黙った。
何かを考えるような、少しの沈黙の後、彼は溜め息と共に口を開いた。
「……義務感、か。なるほどね、ここまで筋金入りだとは思っていなかったが、それなら納得だ。……そりゃ簡単に揺るがない訳だ。だってそこにお前の意志が介入する隙なんてないもんな」
「……何が言いたい」
「だってそうだろ? 悲劇の主人公様よぉ」
黒騎士はあらん限りの侮蔑を込めたような声で、
「お前が誰かを救うのは、お前が悪を許せないのは、自分の中の正義感とかに従った訳でも何でも無く――全部、誰かからの貰いモンだ。借り物の正義感に、こじつけの闘志と、紛い物の拳。そして過去に囚われて義務感に縛られ、人を助ける事を自分に強制している」
軽蔑の視線を向ける黒騎士の指摘が、勇麻の勇麻の大切な何かをごっそりと抉っていく。
(コイツ……一体どこまで知ってッ!?)
まるで自分の心の中を読まれているような気色の悪い感覚が、勇麻の背中を走り抜けた。
そして何も反論できない勇麻を尻目に、黒騎士はこう結論付けた。
「東条勇麻。自分の戦う理由すら他人任せにするような腐った男に、誰かを救うなんて事はできねえんだよ」
くだらない茶番はここまでだとでも言うように。
「諦めろ」
そう吐き捨てたのだった。
東条勇麻にその言葉を否定する事はできなかった。




