第七十四話 反撃開始Ⅲ――墜下せし空の孤島、その終焉/それはセカイノオワリのように:count 1
北側入場ゲート付近の通路。墓標のように突き立った氷塊の一つが砕け散ったのは、二つの人影が液体と化しダクトへ消えてすぐの事だった。
「……あっぶねー、つーか普通にアウトか? 海音寺の野郎。生意気にも俺に気付いていやがった……って、いっつ……」
氷塊に見えたそれは、漆黒の球体に映し出された幻に過ぎない。遠目からでは周りの氷塊と判別がつかないものの、近づけばその質感の違いは一目瞭然だろう。
砕け散ったように思えたそれは、単に漆黒の球体の主が擬態を辞めたためにそう見えただけ。
『影幻』という技の応用で咄嗟の擬態を施していた漆黒の球体が内側から弾け飛び、その中から現れた漆黒の衣装に身を包んだ男――黒騎士が、不気味に笑う不吉な仮面の奥で苦痛に呻きをあげた。
壁に背中を預け座り込んだままの彼は……いや、壁に背中を預けている、という表現には少し語弊があるかもしれない。
なにせ氷道真との戦闘に敗北した黒騎士の身体は、壁に背をつけ座り込んだままの状態で腰から胸の下までを壁ごと氷漬けにされてしまっているのだから。
海音寺はともかくここで東条勇麻と顔を合わせると話が拗れそうだと咄嗟に『影幻』で隠れたはいいが、他者に助けを求める貴重な機会を失ってしまった。
しかし、例え生還の可能性を失う事になろうとも、黒騎士はこの選択を譲りはしなかっただろう。
氷漬けの黒騎士を見れば、東条勇麻はきっと黒騎士を放ってはおかない。顔を合わせれば殺し合うような仲であろうと、このままデザインキメラに貪り食われるのを待つだけの人間を見つければ、それが誰であれ助けようとするのがアレの性質だ。
だからそれだけは避けねばならなかった。
東条勇麻に命を救われるような事があれば、黒騎士が積み重ねてきたナニカが瓦解し崩れ落ちてしまう確信があったから。
「……さて、と。どーすっかなー、コレ」
現実逃避気味にボヤいて見るも妙案が浮かぶ筈もない。
なにせ氷道真の産み出す氷は炎で炙ろうが爆炎を受けようが竈に放り込もうが決して融けない氷だ。『絶氷』の名は伊達ではない。
半端に凍らされた為両手両足と胸から上は自由だが、氷漬けにされた部分から急激に熱が奪われて体温が低下しているのが分かる。吐く息は既に白く、単なる氷ではまずあり得ない極寒の低温に、氷漬けになっている部分の身体の感覚は既に消えて久しい。
このままあと十数分もすれば低体温症からの凍死が黒騎士を待ち受けているのはまず間違いない。いや、その前にデザインキメラの群れに襲われて憐れな肉の苗床になるのが先か。
どちらにせよ、現時点の黒騎士が死の運命を待つしかない死に体である事だけは間違いなかった。
「……あー、しかしなんだ。我ながら笑っちまうくらいに情けねー有様だな。こちとらようやく三本腕のクソ共をぶちのめす為の前座の前哨戦が一つ終わったってのに、その前哨戦で死にかけるとか勘弁しろってんだよくそ面倒くせー……」
――黒騎士にとっても想定外の遭遇となった氷道真との一騎打ち。
黒騎士が開始早々に仕掛け『潜影』で氷道真の背後を取った事により速攻でケリが着くかに思われた戦いは、しかしその後十分以上の長きに渡って繰り広げられる事となった。
『――『影幻』……っ!』
『「円斬氷弧」ッ!』
速攻から影へと沈み込んで背後を取った黒騎士の伸ばす手と、反射的に返した振り返り様の弧を描くような一閃。
先に相手へと達したのは黒騎士の一撃だった。
目一杯に広げたそれぞれの指を第一関節の所で折り曲げ、ぐわっと獣の鉤爪のようにした右の五指が氷道真の額を突く。
しかし先手を取った筈の黒騎士は、氷道真に何のダメージを与える事も出来なかった。
直後に胴を真っ二つに割る軌道を奔った『円斬氷弧』に対応すべく体表面に影の薄膜を張っていなければそこで勝負は決していただろう。
斬閃による切断よりも傷口から冷気を侵入させる事による凍結に重きを置いた一撃だった事が幸いした。
体表面に張った影の膜と氷の刀身とが触れた瞬間、黒騎士は触れたそばから影の薄膜の張替えを連続させ、氷道真の冷気によって薄膜ごと氷漬けにされる事を回避。
そのまま振り抜かれる斬撃の力に身を任せ、吹き飛ばされる事で氷道真から距離を取って仕切り直しとした。
そしてそこからおよそ十分。
唯一の勝機を逃した黒騎士は碌な反撃も儘ならず、影の中に潜る事で半無敵状態と化す『潜影』や体表面上に張り巡らせる影の膜を駆使して最強の自然系氷道真の操る氷からありとあらゆる手管を駆使して逃げ続けて――最後の最後。『絶氷』と呼ばれる神の子供達の持つ規格外の射程を読み切れず、死の氷結に捉えられた。
最終的な結果はご覧の通り。
黒騎士の刃は『絶氷』と恐れられる神の子供達に届かず、最強の放った一撃を受けその身は凍てつき無様な敗北を晒している。
……敗北。
脳裏に浮かんだその二文字に、黒騎士はくつくつと仮面の奥で歪な笑い声をたてる。
「敗北……? くっくくく……はははははははははははははははははは!! まさか! 馬鹿言ってんじゃねーよ。棚ぼたとしか言えねーが氷道真との戦闘は紛れもなく俺の勝ちだぜ、クライム=ロットハート」
それは、負け惜しみでも何でも無い、黒騎士にとっては純然たる事実だった。
黒騎士との戦闘を終え、入場ゲートから石舞台のあるフィールドへと向かおうとしていたハズの氷道真がフラフラと頭を抑えながら氷壁で塞がれていない方の通路の奥へ消えていったのを確かにこの目で見届けている。
氷道真の様子がおかしいのは誰の目にも明らか。そもそもトドメの一撃もなくこんな中途半端な形で戦闘が終わる事じたいがおかしいのだ。
そして、それを引き起こした原因が間違いなく自分の一撃にある事を黒騎士は理解していた。
今の氷道真は不安定な不発弾とそう大差ない存在だ。何かもう一押し、きっかけ一つあればあの神の子供達はある意味では完全崩壊する。
クライム=ロットハートの切り札である氷道真を無力化し、舞台裏から嫌らしく演者を操るあの外道を表舞台に引き摺り出す為の一手は、確かに黒騎士の手によって達成されたのだ。
「……あぁ、そうだ。あの一撃目が決まった時点で俺は勝負に勝っている。だってのによ……」
ダン! と。己の口から漏れる笑い声を砕くような音が響き渡った。
黒騎士の拳が、通路の床を全力で殴りつけた音だった。
黒騎士はふるふると凍り付きかけた身体を怒りに震わせながら、仮面ごしに額に手をやって仮面の内側に覆った感情を剥き出しにした。
「ふざけんじゃねえ……ふざけるんじゃねえぞクソ! まだ俺は何も……何も成してねーんだよ。『三本腕』一人殺せてねーんだぞ? こんな所で、こんな道半ばで終われる訳ねえだろうが……ッ!」
それは、己の情けなさに対する怒りだった。
ようやく反撃の一手を打ったというのに、離脱しきれずにこのザマだ。詰めが甘いにも程がある。これでこのまま死んでみろ、ここまでの全てが水の泡だ。
魂を売った。金も家も顔も名前も残りの人生も自分という存在も何かもを捨てた。
……ああ、そうだ。売ったのだ。悪魔に己が魂を。そうしてまで成さねばならぬ復讐だった。絶対に殺さなければならない相手がいる。
それなのに。黒騎士は誰一人として標的を殺す事もできぬままに死への道半ばにいる。
彼が今立っているのは自力での脱出は決して叶わない、残酷な下り坂だ。
このまま進めば確実に己の命に終わりが来ると分かっているのに、自らの力ではどうしようもできないもどかしさ。諦観と無力感を加速させるような、残酷で緩やかな死。
それは理不尽であり不条理でありまさに誰もが運命と呼んで戦う事を諦める、世界に巣くう巨大な何かに他ならなかった。
『絶氷』とまで呼ばれる氷道真の氷は決して融けぬ久遠の氷。
停止の概念を持つ時すらをも止めうる神の氷は、黒騎士個人の技量ではどうすることもできない領域にある。
どれだけ憎悪と怒りを燃え上がらそうとも、その事実だけは揺らいではくれなかった。
「……終われる、訳……ねーんだよ……」
さきの叫びが最後の抵抗であったかのように、絞り出す声も途切れ途切れで生気に欠けていた。
……どうしようもない事は分かっている。理性は全てを理解し、自己の生命に終わりが来ることを悟っている。
だけど心が、あの日から連綿と絶えることなく燃え続ける憎悪と怒りが、諦観を許さない。立ち止まる事を許さない。終わる事を許さない。
それなのに、現実だけが心を見限り遠く離れて行く。
……デザインキメラの羽音が聞こえる。東条勇麻と海音寺流唯という標的をロストした集団が、黒騎士という新たな得物を見つけたのだろう。
……身体のおよそ半分を氷の中に閉じ込められた黒騎士の身体から凄まじい速度で熱が奪われていき、その意識がどんどんと希薄に。呼吸が浅く、徐々に小さくなっていく。
怒りと憎悪だけが変わらず燃え滾る中、まるで微睡み、心地の良い眠りに落ちる子供のように、黒騎士の意識は坂道の先で待ち受ける死へとゆっくりと沈んで行き――
「――……あぁ、間一髪と言った所かな。海音寺流唯からの連絡がなければ危なかった。しかし――君の慧眼には恐れ入るよ、海音寺流唯。決して溶ける事のない『絶氷』、凶悪な停止の概念を持つ不壊と呼んでも過言ではないこの氷を、君は僕に破壊しろ、と。僕にならそれが出来ると、そう言っているんだね……」
☆ ☆ ☆ ☆
自身の肉体がぐにゃりと溶け入る瞬間の恐怖は、筆舌に尽くしがたいものがある。
水塊に溶け入る『液化海牢』特有の不思議な感覚は、二度目とはいえどそうそう慣れるようなものでもない。
ゆらゆらと光が揺れ動く視界から、水中にいるという事は確かに分かるのに息苦しくもなく、どこを見渡しても己の手足すら見当たらない。
よくよく意識してみると、視点の位置を切り替えることまで可能な事に気が付いて、まるで自分そのものがこの水中空間と一体化してしまったような、そんな感覚を覚える。
以前聞いた説明によれば、実際そのような状態になっているらしいのだが、この水塊の支配者である海音寺がいるからこそ水の中に溶けた自我が混ざり合わずに済んでいるとの話を聞いて以来、その事については積極的に考えないようにしていた。
勇麻と海音寺が溶け入るこの水塊の支配権が海音寺にある為、勇麻が何をせずとも水塊は独りでに目的地へと進んでいく。
タイルの割れ目や隙間、ダクトや水道管などに侵入しては凄まじいショートカットで最下層へと降りていく。途中、デザインキメラが溢れかえっている場所も多々見受けられたが、液体と化している今の勇麻たちはその全てを素通りする事が出来た。
さすがのデザインキメラも、動く水溶液を標的とする機能は持ち合わせていないらしい。
『……なあ、海音寺先輩』
『ん、なんだい。東条君。……もしかして、何か身体に異常を感じたりしたのかい?』
『いや、そういう訳じゃないんだけど……』
ただ、海音寺流唯という男に聞きたい事があった。そんな言葉をこの状況で何の躊躇いもなく言えるだけの図太さは勇麻にはなかった。
本当に天風楓を助ける事が出来るのかという不安も恐怖も、さらには世界を巻き込むような騒動に発展しつつある目の前の状況そのものに対するもっと漠然とした怯えや心細さも、それらは変わらず胸にある。
ただ、それらの感情と『自分の知らない事を知りたい』という感情を抱くことは矛盾しないらしい。
我ながら緊張感に欠けているのは分かっているつもりだ。
勇麻が海音寺の力で安全に最下層まで進んでいる今も、デザインキメラと戦って血を流している人々が沢山いる。
勇麻の幼馴染である天風楓は未だにクライム=ロットハートの洗脳下にあるし、そんな暴走状態にある彼女の足止めを買って出てくれたロジャー=ロイ達は今も神の子供達の少女を前にした命がけの戦場に立っている。
いくら手持ち無沙汰とはいえ、彼らが必死に命を燃やしている中で戦いに関係のない私的な問いを投げかけようとしている自分がいる事それ自体が、勇麻の胸中に後ろ暗い自己嫌悪を湧き上がらせるのだ。
やはり自分という男は自分勝手で自分本位な、正義の味方などと代理であっても名乗るのがおこがましい卑しい男なのだと、棚上げして抑え込んでいた鬱屈と感情の全てが今にも押さえ蓋を突き破って噴出しそうになる。
そんな勇麻の心情を汲み取ったのか、海音寺はフッと脱力して、
『全力で飛ばしているけど、流石に最下層到達まで少し時間はある。なにせ二キロ下だからね。……決戦前だ。憂いがあるなら解消しておくに越した事はないと僕は思うよ? それに、事が始まる前から自分を追い込んで、塞ぎ込むのもオススメしないかな。自責も後悔も、全力を尽くした後に行うべき物だ。まだ結末が定まる前にそれを行ってしまうのは可能性を狭める行為でしかないからね』
さりげなく先を促してくる先輩の気遣いに深く感謝し、勇麻は一つの決意と共にやや遠慮がちに話を切り出した。
『……先輩、アンタは龍也にぃ……南雲龍也の親友、だったんだよな……?』
それは、武闘大会の予選で試合前に海音寺に話した事柄についての続きでもあった。いや……もっと言うのならばこれは、海音寺流唯と出会ってから見続けた夢の続きでもあるのだろう。
『……ああ、そうだね。前にも話したように僕と彼はクラスメイトでね、一緒にいた時間こそ短かったけれど、とても濃密な時間を過ごしたよ。僕は……うん、少なくとも僕は、彼を親友だと思ってる』
確認するような問いに、海音寺は自分の中でその確信を探しながらゆっくりと言葉を選んでそう答えた。
水の中に溶けている勇麻からは勿論海音寺の表情は見えない。ただ、南雲龍也という男の事を語る彼の声に籠った親愛の情が、音に乗って垣間見えるような思い出の数々が、海音寺流唯がどれだけ南雲龍也という友人を大切に思っていたかを言外に告げてくる。
だからこそ、続く言葉を口にするのが躊躇われた。
勇麻は、モヤモヤと居心地の悪い胸の辺りを見えない右手で潰れる程にぎゅっと握り締めて、覚悟と勇気をもって重たい口を再度開く。
決定的な言葉を、口にするために。いや……それは決定的な言葉を口にしない為の束の間の逃避だったのかもしれない。
『…………。あのさ、龍也にぃが……死んだ時の事、なにか誰かに聞いた事って……あったりするのか?』
『……ああ、一応。そこまで詳しくはないけど、少しはね』
海音寺のそれは、〝どちらとも取れる〟言い方だった。
なんにせよ、勇麻の弱い心がこの期に及んであわよくばと縋った逃げ道は、完膚なきまでに此処に閉ざされたのだと無意識に理解する。
水の中に溶けているはずの心臓の鼓動が、うるさい。
頭が、心が、東条勇麻の精神が、ここから先の言葉を綴る事を拒んでいる。東条勇麻の中に潜む臆病が顔を覗かせている。
だが、決めたのだ。勇気をもって尋ねると、他ならぬ海音寺からの助け舟を受けたその瞬間にそう決意したのだ。
きっとこれは単なる〝知りたい〟ではない。
夢の中で海音寺流唯を知るにつれて膨れ上がって来たこの強い思いは、〝知らなければならない〟という東条勇麻が背負うべき義務や責任じみた感情の辿る、回避不能の収束点でもあったのだろう。
恐れも不安もその全てを絞り出した勇気で抑え込み、今度こそ意を決した東条勇麻は吐き出した息に言葉を乗せた。
『……じゃあ、さ』
『龍也にぃが死んだのが、……俺のせいっていうのも、……知ってた、のか?』
言葉を発する為に開いた口で一度息を吸い込んで吐き出して、それをもう二度程繰り返して。そうしてやっと捻り出した一言目から永遠にも感じられる時間を経て、東条勇麻はやっとそれだけを口に出した。
それは、事実を知っているかどうかを尋ねると同時に『南雲龍也の親友として、彼を死へと追いやった東条勇麻を恨んではいないのか?』という問いかけでもある。
『……』
言葉に、沈黙が降りる。
海音寺は勇麻の言葉の真意を正しく受け取った、そんな確信があった。
だからこそ、その沈黙が重く痛く苦しい。
……ああ、そうだ。間接的とはいえ、海音寺流唯の目の前にいる男は南雲龍也の……彼の親友の仇なのだ。
少なくとも、東条勇麻がいなければ南雲龍也があの場で死ぬことがなかったのは疑いようのない事実であり、覆りようのない現実だ。
鳴らす喉もなく水の中にいるというのに、嫌に渇きを感じる。
ありもしない呼吸が早くなっていく幻覚を見る。
心臓の鼓動は、もはや身体の内側をつねるようなおかしな痛みを伴って鳴り響いていた。
精神的外傷を自ら掘り返したも同然の行為に、実体のないはずの頭がきりきりと痛む。まるで頭に輪でも嵌められてその半径が縮まり頭を締め付けられているような、強烈な頭痛。
そして、脳裏に浮かび上がるのは、古びたスナップ写真を乱雑に張り付けたような抽象的な自身の記憶の欠片だった。
……前回、『匣の記憶』に触れた際に明らかになった記憶の欠落の存在は、忘れてはいけなかった何かを忘れているという新たな事実を掘り返した。
詳細を思い出せない記憶の切れ端たち。思い出せないにも関わらず、魂がそれを覚えているとでも言うように、欠片を目にする度に勇麻の胸に重苦しい痛みの感情を飛来させる。
だからきっと、この苦痛も沈黙も、罪を犯した東条勇麻が受けるべき報いなのだろう。
そして、当然の如く海音寺流唯には親友を奪った元凶を口汚く罵り、罵倒する権利がある。
――そこまで考えてふと思った。
……自分はこんなことを海音寺流唯に尋ねて、一体彼に何と答えて欲しいのだろうか、と。
知らねばならない、という思いばかりが先行してその果てに自分の心が何を求めているのかを考えてもいなかった少年は、在りもしない顔に苦笑を浮かべた。
罵ってもらいたかったのか、憎んで欲しかったのか、許して貰いたかったのか、恨んでなどいないと否定して欲しかったのか。
自分でも分からないということは、きっとそのどれでも無くてどれでもいいのだろう。
ただ、東条勇麻は自らの口で海音寺流唯にそう尋ねる事そのものを望んだのだ。
そうする事が贖罪の一つであると、勇麻の中にこびり付いた罪悪感の一つが、未練がましくそんな事を言っているのが透けて見えて、我ながら呆れるものだと思った。
ややあって、海音寺が口を開こうとする気配に、永遠にも感じられる責苦の数秒間が終りを告げた。
それに乗じて感じられたのは、少しの躊躇いと、僅かな哀愁。そして勇麻の心を慮る八つ歳上の先輩の温かさだった。
自我は区別され混ざり合わずにあるとは言え、同じ水塊の中に存在している為か、よりダイレクトに感情の機微が伝わるものなのかもしれない。そんな事を一瞬現実逃避気味に考えて、
『……ああ、最初から知っていたよ』
そう答えた海音寺の声は、勇麻が予想していたよりも柔らかく、どこか疲れていた。
『昔は……そうだね、君に対して複雑な感情がなかったと言えば嘘になる。なにせ君は、親友の残した忘れ形見のようなものだからね。気にならない訳がないだろ? もっとも、僕にそんな資格がないってことも分かっていた。だから、対抗戦に君達が出てくると知った時は驚いたと同時に嬉しかったんだ。それに……』
海音寺の並べる言葉の中には、勇麻にはその真意を読み取れないものも多々あった。資格とは一体何のことなのか。明確に語る事を避けた彼が抱いていたという複雑な感情の正体。
しかし、語る海音寺の言葉に、未練や怒り、憎悪や恨みのような黒々とした感情は感じられない。
ただそこには、色褪せ端の擦り切れた写真を眺めるような、少しばかりの懐かしさと寂しさ、そして骨の髄まで刻み込まれた苦々しい悔恨の念が浮かんでいる。
自分がこの青年に恨まれてはいない事に安堵を覚えると同時、勇麻は行場を失ったような、おかしな息苦しさを感じていた。
結局、自分が何をしたかったのか。どんな答えを得られればこの心は納得していたのか、自分でも分からない。
そして、
『……僕にとって君は、鏡合わせのような存在でもあったから……』
ぼそりと、口の中で自分自身に囁くように告げられたその言葉に、胸に渦巻く靄も忘れて意識が引き寄せられた。
『鏡、合わせ……?』
鏡合わせ、そう言った時の海音寺の声色には、まるで勇麻を羨むような羨望と少しの嫉妬じみた子供のような感傷が入り混じっていた。
例えるならそれは、親に褒められた弟をやっかむ兄のような――そんな、幼くも微笑ましい嫉妬未満のナニカ。
本人的には発音したつもりはなかったのだろう。肉声ならば決して届かなかったであろうその呟きは、しかし二人で一つの水塊内にある今の状態では鮮明に相手に伝わってしまう。
その事に、遅れて海音寺も気が付いたらしい。
己の失言を恥ずかしく思ったのか、勇麻からオウム返しにされた単語に苦笑を零す。
『……ああ、済まない、それはこっちの話でもう終わった話さ。東条君が気にすることじゃない。……まあ、なにはともあれ、君の心配は杞憂だよ。僕は君を恨んでいないさ。恨めるはずもない。どっちかって言うと、むしろその逆かな? だってそうだろ? 僕はね、こうして君と肩を並べて戦える事が嬉しいんだ。なんだか懐かしくてね、高校時代を思い出す。君がどことなく昔の龍也に似てるせいだろうね。それに僕は――』
爽やかな人好きのする笑みを弾けさせた海音寺の言葉がふいに途切れる。
その不自然な終わりに疑問を覚え思わず周囲を確認すると、見覚えのあるうす暗い空間が視界に飛び込んで来る。
そして今更になって、独りでに移動していた水塊がその動きを停止していることに勇麻は気づいた。
『――っと、話し込んでいるうちに到着したみたいだ。時間も惜しい、話の続きは全部が終わってから、ゆっくりするとしようか。今度はお茶でも飲みながらね』
勇麻の緊張を解きほぐすようにあえて軽い口調でそう言って海音寺が『液化海牢』を解く。
すぐさま液体から元の姿に戻った勇麻は気持ちを切り替えるように湧き上がってくる痺れにも似た緊張を呑み込み喉を鳴らし、もう一度周囲を見渡した。
勇麻たちが降り立ったそこは、武骨な階段から直接続く秘密の屋根裏部屋じみた小部屋だった。
全長二〇〇〇メートルを誇る天空浮遊都市オリンピアシスの最下層にして『動力室』。
未だデザインキメラの侵入を逃れているその聖域は、足の踏み場もない程に散乱した様々なケーブルやコードが絡み合い、得体の知れない数値の並ぶモニターや計器類で埋め尽くされ、まるで一つの生命体のように脈動している。
『動力室』とは言ってもエンジンの駆動音もモーターの回転音もない、いっそ静謐な小空間の中央には、配線まみれの空間には致命的に似合わない神秘的な雰囲気の小さな台座が座している。
その台座から僅か三センチ程上を浮遊し自転するその物体こそが、天風楓をクライム=ロットハートの幻影から解放する為に必要な最後の切り札だった。
――『匣の記憶』。
マトリョーシカのように骨組みだけの立方体の中に複数の同じような立方体を内包する不思議な匣。
それぞれの立方体がバラバラの自転軸によっててんで自由に自転し、一時として同じ形状を保つことのない不思議なオブジェめいた立方体。
記憶を司るこの『神器』こそが、天空浮遊都市オリンピアシスを大空に浮かばせている『動力源』でもあった。
――そして、この匣が決してそれだけの『神器』ではない事も、勇麻は知っていた。
(――っ、まただ。また、声が聞こえる……)
――タ……ケテ、サ……シイ、……シタイ、……コワシ、タ……。……ダ。ヒトリ……ダ、イヤ――
「――っ」
最初は頭痛じみた脳髄の疼きが、徐々にその形を変えて行く。
まるで周波数を合わせラジオのチャンネルを変えるように、勇麻が意識の矛先をその立方体に向けた瞬間にその声は少しずつ明確な形を成しつつ鳴り響くのだ。
――――誰か我輩を……助けてっ!
対峙した相手の感情をある程度まで読み取る勇気の拳の力が、助けを求める正体不明の誰かの声を拾い上げる。
誰だか分からない誰かの声、勇麻の胸を締め付ける、分からないのに聞き覚えのある誰かの声。
だが今はその声の主に意識を巡らしているだけの余裕はない。
勇麻と海音寺の肩に乗っているのは今や天風楓だけではない、この天空に取り残された浮遊都市とそこにある全ての人々の命運すらその肩に掛かっているのだ。
意思の力を振り絞り、胸中で謝罪の言葉を繰り返して、助けを求める声を意図的にシャットアウトする。
……いつか必ず、助ける。だから今は、ゴメン……。
そんなできるかどうかも分からない独りよがりな自己満足の約束を胸の内で呟くことしかできない無力な自分がますます嫌になる。
希望を与えるだけ与えて最後に見捨てるような結末は、何よりも残酷で誰も救わず全てを傷つけるだけだというのに。姿も実在さえ定かでない相手にすら、東条勇麻は大人になる事が出来なかった。
そんな自己嫌悪に溺れそうな勇麻の隣では、海音寺がその身に纏わせた『大海神の水流棘鎧』の手甲部分を触覚のように薄く延ばし、台座に納まる立方体を丁寧に包み込んでいた。
直接の接触を避けるのは、『神器』の持つ特性を警戒してだろう。
前回、直接右手でこの『匣』に触れた勇麻は心傷の一部を激しく刺激され欠落の記憶の存在を思い出すと共に意識を失った。
一分一秒が惜しい今の状況で、意識を失うような時間のロスが認められるはずもない。
その光景に勇麻もようやく意識を切り替え、心の準備をするように向き合うべき現実をあえて口にする。
「……今から本当に落とすんだな、俺達で……」
「怖いかい?」
これから自分達が起こす事態の重大さに生唾を呑み込む勇麻を不敵に笑って挑発する隣の優男に、引き攣った笑みで強がり問いに問いを返す。
「……そう言うアンタは怖くないのかよ」
なにせ勇麻たちは今からこの浮遊都市の動力源を奪い、空に浮かぶこの逆さ円錐の大地を地へと堕とそうしているのだ。
仮に海音寺の言う〝安全に降下させる策〟が失敗すれば自分たちだけでなくオリンピアシスにいる全ての人々を巻き込んでの投身自殺となる。
それだけじゃない、これだけの巨大な物体がこの高度から落下するのだ。直下にあるオリンポス山はもとより、地上もただではすまないだろう。
自分たちの肩に沢山の命を背負っているという事実を考えてしまえば、身体の震えが止まらなくなる。最悪の事態をどうしても想像してしまうのを辞められない。
楓を救う事もできないまま自分が死ぬかもしれないというだけで恐ろしいのに、無関係な沢山の命を巻き込むかもしれない。そんなの、恐ろしくない訳がなかった。
そしてそれは、海音寺とて同じ――否、彼が行う事を思えば勇麻以上の重圧を感じていて当然だ。
「……勿論怖いさ。でも、神の子供達がデザインキメラの大半を蹴散らしてくれたおかげで地上にこの惨劇を持ち込まずに済みそうだし、とりあえずそこにはホッとしてるよ。スネークも僕らの動きを察して動いてくれてるハズだしね。僕らは心置きなく空飛ぶ大地を堕とす事ができる」
視線の先、不敵な笑みを浮かべる海音寺の頬を一筋の冷や汗が流れていくのが見える。
やや引き攣った口元が、不敵な笑みがその男の強がりである事を端的に示していた。
それでも崩れないその爽やかさが腹立たしい以上に頼もしいと、場違いにもそんな感想を抱いて、
(……なんだ? 今の言い回し、何か違和感が――?)
海音寺の物言いに何か引っかかりを覚えた勇麻だったが、その違和感の正体の影を掴む間もなく海音寺が動く。
「……それじゃあ、時間もあまりない事だし一息に行くよ。せーの……っ!」
そんなシンプル極まりない掛け声と共に、海音寺は台座から『匣の記憶』を引き抜いた。
何の抵抗もなく、拍子抜けする程にあっさりと、大地一つを浮かばせるだけのエネルギーを秘めたその『神器』は台座を離れ海音寺流唯の操る水塊の中に収まった。
「……」
「……」
「…………」
「………………」
「…………何も、起きない……?」
「…………そう、だね」
二秒、三秒、七秒、十四秒……。
落下に備え身構えていた勇麻たちを襲うはずの内臓のひっくり返るような独特の浮遊感は、いつまで経ってもやってこない。
シーン、と。耳の痛い静寂が『動力室』を満たす。
思わず顔を見合わせる二人。
台座からこの浮遊都市の動力源である『匣の記憶』を抜き取ったのだが、これと言って何かが起こる様子はない。
空に浮かぶ巨大な大地が落下を始める気配もなければ、動力室のモニターなどが一斉に電源を落すような事もなかった。
エンジン音もモーター音もない『動力室』は『匣の記憶』を取る前と変わらず上の喧騒が嘘のような静寂で包まれていて――
――ドッ!! と、脳天を殴られるようなそれは唐突に勇麻たちを襲った。
こちらのタイミングを外すようなタイミング。悪意があるとしか思えない絶妙な間の直後に勇麻たちを襲ったのは、特大質量の自由落下による無重力だった。
「なっ……!?」
「く……ッ!」
抵抗などする間もなく、足裏が地面を離れた。
壁か天井と接触した身体が回転を始め、視界が混沌とする。早々に上下左右の感覚が喪失し、壁やら天井やら床やらにさらに身体中をぶつけまくった。
頭に響く鈍痛と共に不安と恐怖が膨れ上がっていく。天空浮遊都市オリンピアシスが、標高二千メートルの山脈一つ分の質量が凄まじい速度で自由落下しているという想像だにできない事象が巻き起こすであろう破壊とその結末が、勇麻の恐怖と不安を際限なく加速させていくのだ。
しかし、そんな状況下でも海音寺流唯は冷静だった。
無重力状態で身体をあちこちにぶつけながらも干渉力を練り上げ、極限まで集中力を高めると、
「――『大海神の海腕』……ッ!」
☆ ☆ ☆ ☆
『なんだ、地震――うわあああああああああああああああっ!?』
デザインキメラの脅威から逃れつつある人々を襲ったさらなる衝撃に、街中から喉を裂くような悲鳴があがった。
動力を喪失した事により浮力を失った天空浮遊オリンピアシスが、その逆さ円錐型の大地ごと重力に引かれて垂直に落下している。
そんな最悪の事実に行きつく事のできた人間が、どれだけいただろう。
ベルトも締めずに垂直落下する絶叫マシンに乗せられた人間の末路を想像して貰えれば、人々を襲った事態がどれだけの悲劇を齎すかは分かるハズだ。周囲に掴まるものがあればまだいい。屋内や、スタジアムにいた人間などはまだマシだっただろう。
スタジアム外にいた人々は吹き飛ばされる身体を支える術がなく、落下の被害を直で受けている。
否――このまま行けば屋内外の些細な違いなど全て呑みほし、この街にある全ての命と、そして遥か下の地上にていつも通りの平穏を享受している無辜の人々の悉くが死滅する。
そんな絶望と悲しみに満ちた結末を、他の誰が認めようとも人間とその世界を愛するこの男が黙って見過ごすわけが無かった。
「すまん黒米ッ、しばらくの間ここ任せる!」
『うぉッ、……す、スネーク!? これは、一体……!?』
巻き上がる爆風に人々が抵抗する間もなく空へと投げ出される中、その男だけが正しく事態を理解しそれを解決する為の行動を開始する。
「見かけによらず大胆な事をしやがる。龍也が見込んだだけはあるって事か……っ! ――ふざけろ阿呆が!」
堕ちる大地を蹴りつけ、神速へと達した『特異体』は一切の躊躇なくその身を空へと投げ出した。
☆ ☆ ☆ ☆
ギリシアの神々が住まうと言われているオリンポス山山麓の街、リトホロ。
標高二九三メートル、オリンポス山の最も高いピークである〝鼻〟を意味する『ミティカス』へと登るルート上にある『神の街』と呼ばれる小さな街だ。
オリンポス山は山麓が海面から近いことでも有名であり、山の上からエーゲ海を一望する事もでき、リトホロから五キロも行かずに海へ出ることが可能だ。
山と海の織りなす絶景。神々の存在を証明するような大自然の奇跡に満ちた『神の街』の住人は、この日、それを見た。
山の麓の大地から噴き出し天へと登る巨大な水柱。
直径三キロはくだらない巨大な水の円柱が、天空目掛けて突如として屹立したのだ。
まるで天を支える巨大な支柱のような、
うねりながら空へと昇る龍のような、
海神の巨大な腕が大地より現れたかのような、
そんな神話のワンシーンを思わせる光景に、神の街に住まう人々も唖然と空を見上げ、街を訪れていた沢山の観光客や若者たちはここぞとばかりにスマホでSNS用の写真を撮りまくっている。
現実として眼前にある神秘。
今や神の能力者の出現によって鼻で笑い一蹴することすら難しく、世界中の誰もがその存在を認めざるを得ない超常そのものを象徴するような異常現象。
まさに神の御業と呼んでも過言ではない超越的な光景に圧倒されながら、そんな未知と異常に興奮し熱狂する彼らの視線と巨大な水の柱の向かう先、そこにはオリンポス山と鏡合わせのような逆さ円錐の大地が浮かんでいる。
そして――
――そんな天空に浮かぶもう一つの山が地上目掛けて迫っている事に人々が気付くまで、そう時間は掛からなかった。
悲鳴と怒号と絶望とパニックが、地上を席巻した。
☆ ☆ ☆ ☆
海音寺がその起句を唱えた直後だった。今度は下から突き上げるような衝撃がオリンピアシスを襲い、勇麻は再び脳天を床か壁か天井かにぶつけていた。
その現象が何を指すのか、勇麻は最初は気づかなかった。
そしてやや遅れて、それが海音寺の言っていたオリンピアシスを無事に降ろす秘策なのだと思い至る。
――エーゲ海の『海域化』による直接的な海水の徴収。
つい数日前に行われた『クライミングフラッガー』でも海音寺は似たような手を使って海面より直接的に海水を巻き上げていたが、その時と今回とでは規模が違った。
前回、出来るだけ目立たないように海面から水柱を細く長く伸ばし、直線距離で十五キロ以上は距離のあるオリンピアシスまで海水を巻き上げた際に、彼は自身の干渉力を浸透させた海水を少量海中に残していた。
少量の『海域』を起点に少しずつ自身の干渉力を周囲に浸透させていった海音寺は、この四日間でエーゲ海における『海域』を拡大していたのだ。
そして、彼が秘密裏に行っていたことはそれだけではない。
『海域』の拡大と平行して支配化においた海水で地下深くに『オリンピアシス』の直下にまで続く地下道を造り上げようとしていたのだ。
地下道を通り『オリンピアシス』の直下に支配化に置いた多量の海水を待機させ、いざと言う時の隠し玉兼切り札として運用する事を海音寺は当初から計画していたのである。
言うなればこれは、海音寺が自身の弱点を補う為に『海域』のストックを自身の足元の地面に常に待機させている事のスケールアップ版。
予定していた戦闘の規模とレベルに合わせた、自身のアップデートとでも呼べる作業だった。
勿論、地盤沈下や液状化などの被害が街にでないよう、最新の注意を払って作業は行われた。
そして、海音寺は四日間の時間を掛け、つい今しがたオリンポス山の麓まで海と直通の通路を地下に形成する事に成功していた。
元よりとある神の子供達との対決を見越して用意されていたこの切り札は、この土壇場にギリギリで間に合い思わぬ形で使用される事となる――
「――、うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」
浮遊する為の動力を失い自由落下する天空浮遊都市オリンピアシス。
海音寺が用意した切り札である特大の『海域』を利用した『大海神の海腕』が、地へ堕ちる大地をその掌に受け止め懸命にその重量を支えていた。
いつもどこか佇まいに余裕を湛え、武闘大会ですらその実力を完全に発揮することのなかった天界の箱庭最強の一角が、血の涙を流して吠え猛る。
三大都市対抗戦が始まってから始めて見せる海音寺の全身全霊。
まるで『神化』時のような、半暴走状態と見紛う程の極限にまで高められた干渉力が、海音寺の肉体を内部からズタズタに引き裂いていく。
瞳からだけではない。身体中の穴という穴から赤い血が流れ落ち、海音寺の命の時計の秒針を加速させていく。
文字通りにその身と命を削る決死行。
この街全ての命を背負った人生最大の賭けに、海音寺は己の全てを捻り出して臨んでいた。
「海音寺……先輩……ッ!」
「ぐぁ、……がぁ………………ァああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!」
血を吐きながら己の限界を踏破せんとする『海域』を操る青年の姿に、しかし勇麻が出来る事など何もない。
壁を這うケーブルを手すり代わりに握りしめ、ただただ望む結末が訪れる事を神にでも祈るしかない。
落下速度は格段に下がり、既に無重力状態からは脱している。
だが、止まらない。
不時着するにしても、まだ軟着陸が可能な速度域にまで達していない。
この速度のままオリンポス山に突き刺されば、地震や山崩れによる甚大な被害が周辺地域を襲うだろう。
地上への落下までどれだけの猶予が残されているかも分からないが、既に落下を始めて五秒以上が経過している。
いつ終わりが来てもおかしくない状況で、致命的なまでに時間が足りなかった。
堕ちる大地を受け止めるは止めどなく大地より噴き出す大海神の腕。
空より墜ちる街にぶつかり飛び散る極大の水飛沫は巨大な雨の砲弾となって『神の街』へ降り注ぎ、数秒前まで野次馬気取りの傍観者だった街の人々は天から墜ちてくる大地に悲鳴をあげて我先にと逃げ惑う。
スタジアムではデザインキメラに対抗していた人々が、突如として齎された予期せぬ終焉のシナリオに嘆く間もなく巻き込まれていく。
『神の街』へと災厄が――一つの都市が降り注ぐ。
そこに広がる光景はまさしく神話の再現。
誰もが破滅を予感したその数瞬。ただ二人の男だけが、その行きつく結末を疑うことなく予感していた――
『――も、もうダメだぁ、逃げろっ!! ぶつかるぞ――ッ!!』
――ゴッッッ!!
轟音、などという言葉では表現しきれない衝突音が響き、誰かが叫んだ最後の言葉は、当たり前のように掻き消され、衝撃が世界に伝播する。
世界が揺れ、終わりの予感に死を予感した心と肉体が恐怖から意識の手綱を手放しかける。
それは、落下する天空浮遊都市の先端、円錐型の大地の最下層の動力室にいた東条勇麻も同じだった。
しかし――永続するハズの暗闇が、晴れる。両目を瞑った少年にそのまま訪れるはずだった無間の闇はそこにはない。
閉じた両目が存在する以上、再び目蓋を開く事でこの瞳は光を取り入れることができる訳で……。
「……止まった……?」
気付けば、振動は止まっていた。
呆然と独りごちる勇麻の視界に飛び込んでくるのは、やや埃が舞い上がっている事を除けば数瞬前と何も変わらないケーブルやコードの類で床や壁を覆い尽くされた小部屋だった。
死後の世界がここまで無骨で無粋だという話は聞いたことがないので、勘違いでなければここは天空浮遊都市オリンピアシスの最下層。『匣の記憶』が安置された『動力室』に間違いないだろう。
それは、目前に迫っていたはずの死を、勇麻たちが回避したのだという事実を物語っていた。
「生きてる、のか? 俺は。………………そうだ、先輩。海音寺先輩は……ッ!」
「――こっちだ、東条君。大丈夫、僕も何とか生きてるよ」
慌ててその場で跳び上がった勇麻の言葉に、聞く者を安心させる柔らかな声が響く。
視線を台座の近くにやると、全身を内側から赤く染めあげた海音寺流唯が脱力した様子で座り込んでいた。
閉じた両目から血の涙を流し、台座に背中を預けている青年の顔には、しかし安堵に満ちた笑みが浮かんでいた。
自身の血に塗れたその見た目は酷い有り様だが、どうやら無事のようだ。
自身の神の力を限界まで使った為だろう、海音寺の全身を覆っていた『大海神の水流棘鎧』は見る影もなく今や掌を覆う程度に留まっている。
水でコーティングされた海音寺の手の中で『匣の記憶』がさっきまでと何ら変わらず呑気に回り続けていた。
「……良かった。これで先輩が倒れてたら、こっから地上までアンタを抱えて走らなきゃならない所だったよ」
「ははは、そこで冗談でも僕を見捨てて楓ちゃんの元へ向かうとは言えないのが、君の美点であり弱点でもあるよね……っと」
座り込んだまま安堵の息を吐く海音寺に手を貸し起き上がらせながら、冗談を交わす。
勇麻の手を掴み立ち上がった海音寺の足取りは思ったよりも軽く、見た目ほど負傷は酷くはないようだ。
これなら勇麻の手を借りずとも、上まで戻る事が出来るだろう。
「ありがとう、助かるよ」
「いや、俺は何にも……。それより、ホントに山一つを受け止めきるなんてな。先輩、アンタやっぱりスゲエよ。俺、正直途中で何度ももう無理だと思った」
「ああ。実際、僕だけの力じゃ無理だったろうね」
「? それって、どういう……」
正直に弱気な本音を漏らした勇麻に何故か頷き賛同する海音寺。その言葉の意味を掴みかね、怪訝に眉根を寄せる勇麻に海音寺はさらりとこう言ってのけた。
「予想通り、僕らの動きを察して彼が動いてくれたみたいだ。十中八九やってくれるだろうとは思っていたけど……予行演習も予告も無しは我ながら心臓に悪い」
都市の最下層、円錐型の大地の地下深くに作られた『動力室』の壁には当然窓などついていない。
だというのにその壁の向こう側まで見透かし見据えるような海音寺の透徹な視線に、勇麻は少しだけ肌を震わせる。
「ともかく先を急ごう。まずはこれで天風楓ちゃんを助けよう」
「――あ、ああ……! そうさ。俺達はその為に、わざわざここまで来たんだ」
それが武者震いなのか別のナニカなのかは分からないが、これでやっと楓を助けられるハズだ。そう思うと、東条勇麻は右の拳の赤熱を止めようとは思わなかった。
☆ ☆ ☆ ☆
もし――これを目撃した人間がいたならば、それは後世まで伝説として語り継がれ、その色を変え形を変え新たな物語性を獲得してやがては神話として人の世に語られたかもしれない。
そんな、見る者の距離感と既存の常識をその根底から狂わせるような光景が、そこにはあった。
「……ったくよぉ、本番はこれからだってのに、勘弁してくれ……」
オリンポス山に新たに刻まれたクレーター、落下の衝撃によって生じた訳ではないその大穴の中心で、巨大な逆さ円錐の大地を身体全体で受け止めているのは筋骨隆々の屈強な男だ。
衝撃に上着は襤褸切れと化し、男の両足が踏みしめ踏ん張った場所には轍が刻まれ、荒い息を吐く男はしかしその鋼の如き肉体には傷一つない。
隕石を素手で止める、なんて子供の思い描く英雄じみた無謀をやってのけた海賊船の船長めいた雰囲気をもつ隻眼の男――スネークは、ゆっくりと息を吐き出しながらその腕に抱えている大地をゆっくりとクレーターに降ろしていく。
軽い地響きめいた衝撃を響かせ先端をぐりぐりと埋め込むように着地させると、逆さ円錐の大地が安定して大地に突き刺さっている事を確認して、それからようやくスネークは大きなため息を吐いた。
「……これで貸し借りはなしだぞ、海音寺流唯」
ぼきぼきと、全開で魔力を通して凝った肩を鳴らしながら『特異体』は忌々しげにそう零すと、休憩もそこそこに傾斜一二〇度を優に超える斜面を目視不可能な速さで駆けあがっていく。
彼にはまだやるべき仕事が、希望の結末を見届けるという使命が残っていた。




