第六十九話 絶望共闘戦線Ⅴ――敗走者達、その命運は:count 1
女王艦隊第四艦隊旗艦『リヴェンジ』ことトレファー=レギュオンは敗走していた。
「あり……えない。この、ぅわぁたし、がァッ……!!」
胡散臭い長身痩躯の男は、すらりとしたモデルのような長い足を引き摺りながら、血の斑点を道標に歩んだ道に刻みながら現実を拒むような言葉を呪いのように零し続ける。
道化じみた燕尾服風に改造した軍服は血の赤に汚れ、艶やかな赤い長髪はボロ布のように擦り切れてその輝きを失っていた。手にしたステッキは半ばから折れ、チャームポイントであった頭のうえのシルクハットは激しい逃走劇の果てに紛失してしまっていた。
クライム=ロットハートの姦計に便乗し挑んだ黒騎士との戦闘、そしてその敗北。
貫かれた肩と、腹に空いた忌々しい風穴、そしてデザインキメラの咢によって肩から食い破られた左腕。そこから零れ出て行く赤い血潮が、奇術師トレファー=レギュオンの身体から命と体温とを奪っていく。
美形の顔は苦痛と屈辱に歪み、吐く息には血が混じる。
つい先ほどまでトレファー=レギュオンと一緒だった者達は既に此処にはいない。
元より女王の支配によって繋がれているだけの仲間意識の希薄な関係だ。
特にトレファー=レギュオンは他者と積極的に関わろうとはせず、淡々と一人任務をこなすタイプだった。仕事以外で彼等と行動を共にした事など殆どない。トレファー=レギュオンの手品を見て行く者は相当数いたが、それは手品師を名乗るトレファーにとっては仕事の一環でもあった。
故に、負傷したトレファーを置いて各々勝手に逃げ出した能無し共を非難するつもりはない。
そんなつもりはなかったが――そういう彼はデザインキメラから逃げる際に近くの仲間に幻を見せて自分に襲いかかったデザインキメラを押し付けた事を何とも思っていない――沸々と燃え滾る怒りはあった。
(――何故。そもそも何故こんな事になった……! こんな筈ではなかった。トレファー=レギュオンという男はもっと賢く目ざとく狡猾で、それでいて一流のエンターテイナーだったハズ。それが、どうしてこんな路地裏の塵溜めのような薄ら寒い暗闇の中、息絶えようとしているのだ……!)
自分が、この稀代の天才神の能力者であるトレファー=レギュオンが、何故こんな目に合わねばならないのか。
そんな理不尽に対する激憤が、多量の血を失った男の頭からさらに冷静さを奪っていく。
あまりの怒りに、常の芝居がかった底の見えない口調すら崩れている。
「……くそっ! 元はと言えばあの十徳十代とかいう私の芸術を欠片も理解できない小生意気なガキに敗北した所から全てがおかしくなったのだ……! 手品の途中で私の芸術を前に目を瞑るなどあり得ないッ、センスの欠片もないヤツは、私の凄まじさを何も分かっていないッッ!……私を……エンターテイメントを、侮辱しやがってェえええええええええッ!!!」
彼が自らを手品師としては三流などと宣うのは、自らの神の力の技量に絶対の自信を持つからに他ならない。
自虐をするのも、自分と比肩する者がないが故。自分こそが女王艦隊の実質的な頂点であり最高のエンターテイナーであると本気で思っているからこその余裕の表れである。
十徳十代は見事にそんなトレファー=レギュオンの驕りまでもを見抜き言い当てていたが、頭に残り少ない血を昇らせているトレファーとしては、彼は芸術センスの欠片もない能無しであるという事にしておかなければ我慢がならないらしい。
素の自分を表に出したトレファー=レギュオンの憤る様はあまりに見苦しく、そこに女王艦隊の一艦隊を纏め上げる旗艦としての圧倒的なカリスマやミステリアスな存在感はどこにもなかった。
手品師としては三流だが、神の力という超常の神秘を扱い軌跡を現実へと昇華する。
そんな自身の『右手に杖を帽子からは鳩を』に絶対の信頼を置く自信家は、しかし故に致命的な敗北を喫する羽目となる。
「殺す。十徳十代ィ……お前は、この私が殺す。殺してやるぅぞぉおおおおオオオオオ!! 十徳十代を殺すというこの幻影を私の奇跡で現実にしてやるぅ……イヒッ! ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒっハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」
トレファー=レギュオンの『右手に杖を帽子からは鳩を』は、産み出した幻影を見た相手が「それが本物である」と信じた瞬間に幻だったものを現実へと置換する事が出来る神の力だ。
炎の幻影を生みだし、それが本物であると相手が信じた瞬間にその炎は現実に相手の身を焼くだけの力を得る。
初見ではまず対処のできない極めて強力な神の力である。
しかし、飛び抜けた性能を持つ分弱点がないとは言い難い。
例えば、十徳十代のように瞳を閉じ耳を塞げば、信じる信じないを論じるまでもなく、相手が幻影そのものを認識する事が出来なくなる。そうなれば当然トレファー=レギュオンの産み出した幻影が現実へと成り替わる事もない。
もしくは黒騎士のように、虚像を虚像であると正しく看破する。もしくは術者本人を倒す事も正攻法としてあげられるだろう。
しかし、この神の力には一つ、例にあげた三つの攻略法よりなお致命的な欠陥がある――
「――ハハハヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒッアハハハハハハハハハ――……は?」
心がない生物――目の前の幻に対し、信じる信じないと言った精神的活動が存在しない生物に対しては、『右手に杖を帽子からは鳩を』は何の意味もなさないガラクタであるという事だ。
「ひ……ひぃいいいいい!? 嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだぁああああああああああああこっ、こっちに来るなァ! それ以上私に寄るな醜い化け物共ォ! こ、この炎が目に入らないか!? そ、それ以上私に近づいてみろ……お、お前らなど、この炎で燃やし尽してくれるっ! わ、私は……私は女王艦隊第四艦隊旗艦! 『リヴェンジ』の艦名を女王より授かりし誇り高き……がァあああああああッッ!!! やめっ、わ、私は美味しくなんかなっ……ンがぁあああっ!? ああ食べないでやめてぁああううぉえっぷおぼぼぼばばばばなんなコレがおぼぼぼぼぼっっやめやめ辞め辞めて頭にやめ何か入って辞め気持ち悪い壊れる私の頭が壊れてなにか入ってくるぅううがああああああああああああああああああああのうみそォォオオ! のうみそにささってあぁたまごがたまごながれてくりゅのぉおおおおおおおおのうみそにヤダヤダヤダヤダヤダよォ! ああわたしがわたしじゃなくなっちゃうからァあああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああううううううううううううおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおほっおほほほほっおぽおぽおぽおぽポポポポポポポポポオおぽぽぽぽぽぽっっ!!!???!?」
一流のエンターテイナーは、スポットライトが掠めもしない、誰一人として観客のいない錆びれた通路の隅で人間としての人生に幕を下ろした。
トレファー=レギュオンの脳みそは数多のデザインキメラの苗床となり、新たな生命を育む居心地のいい動く肉の温室が一つ出来上がったのだった。
……彼の敗因は、誰を助けるでも助けられるでもなく独り生き延びようとしてしまった事。
人の感情に働きかける力を有しておきながら、他者を見下し他者と関わる事を拒んだ事だったのかもしれない。
☆ ☆ ☆ ☆
千載一遇のチャンスだったのだ。
コルライ=アクレピオスを、白衣の男を、あと一歩の所で取り逃がした。
そして、寄操令示の体細胞より生み出された害悪虫デザインキメラの放出をも阻止できなかった。
「……、」
普段感情を表に出さない十徳十代が、コルライ=アクレピオスの飛び去った方角を見つめ、ミシミシと骨が軋む程に拳を握りしめている。
言葉として表されることのない悔しさ、無念、自責の念が、場の空気をさらに重苦しいものへと変えている。
「東条くん……」
モニターに映る東条勇麻と海音寺流唯。そして変貌してしまった天風楓の姿に、和葉は自分の手がついに彼等へ届かなかった事を知る。
どうやら東条勇麻はクライム=ロットハートの干渉下から脱する事に成功したらしいが、あの様子では天風楓は依然としてあの男の洗脳に囚われたままだろう。
ある程度離れていてもすぐ傍にいるかのように感じるこの異様な干渉力。その馬鹿馬鹿しい程の重圧に、あの少女が神の子供達と化したのだという事を知る。
結局、クライム=ロットハートの目的が何だったのか、モニターに映るこの光景が、天風楓の覚醒が何を意味するのか、所詮は一情報屋でしかない九ノ瀬和葉には最後の最後まで分からなかった。
ただ、それでも。
クライム=ロットハートの企みを止められなかった。
その致命的な敗北だけは、嫌と言う程に理解できてしまって、
「……っ」
悔しい。
握った拳が痛い。胸が苦しい。鼻の奥がツンとして、頬が変な熱を持っている。
こんなに頑張ったのに。あれだけ努力したのに。彼の力に、彼の助けになりたかったのに。
沢山情報も集めた。色んな人の力を借りて、知恵を借りて、沢山の人の想いを背負って、非力な自分に出来る限りの事を精一杯やったつもりだった。
そうした小さな積み重ねの果て、あともう一歩の所まで迫っていたのに……。
それなのに届かなかった事が、負けてしまった事が、ちゃんと東条勇麻と天風楓を助けられなかった事がどうしようもなく悔しくて、少女の凛とした青い瞳から堪え切れなくなった涙が一粒零れ落ちる。
――まだ、諦めた訳ではない。
――まだ、終わってしまった訳ではない。
それは分かっている、頭ではちゃんと分かっているのだ。だが……。
眼前に広がる光景に、石舞台のあるスタジアムのフィールドや観客席をグロテスクな悪魔じみた害虫の群れが覆い尽くすという地獄絵図に、誰もが思わず押し黙ってしまう。
そこにあるのはまさに世界の終わり。
抗う事そのものを嘲笑うような、数えるのも馬鹿馬鹿しくなってしまうような害悪の大軍勢。
希望が掌の中にあっただけに、それが失われた瞬間を目にした絶望はあまりに強大で、和葉たちの心を有無を言わせず蝕んで行く。
キシキシとそこら中から鳴り響き始める不快な音色が、虚無感を加速させていく。
泥のように漂う敗北の空気。重苦しい、息苦しい。酸素が毒のようだ。沈黙が煩い。沈黙を掻き消す羽音が、やけに遠くに聞こえる。
誰もが解けた拳を再び握りしめられず、しばらく沈黙が場を支配した後、その声は痛い程に空間を震わせた。
「……行くぞ」
誰に向けた訳でもない、自分自身に言い聞かせる独りごとのような、小さな呟きだった。
誰一人として声をあげようとしない重苦しい空気を打破するように、泉修斗が口を開いていた。
主語も目的語もないおざなりな言葉に、天風駆がどこか呆れたように尋ね返す。
「行くって、何処へ? ……何か〝あて〟でもあるのかい?」
「あ? んなモン知らねえよ」
行くあて? そんなものは泉が知りたかった。
白衣の男とコルライ=アクレピオス。彼らを追いかけこの気持ちの悪い虫共を操る神器『奇虫操髄』を奪い返す事が出来れば一気に状況を覆す事ができるだろう。
だが、あれだけこちらに有利な状況を整えての不意打ちが届かなかったのだ。万全の態勢で待ち構えているであろう『三本腕』の二人と今更正面切って激突した所で勝機は薄い。
そもそも二人がどこへ行ったのか何の情報もありはしないのだ。二人を探している間に、デザインキメラの群れに嬲り殺される未来が見える。
今から『三本腕』の連中を探し出して神器を奪うというのは現実味に欠ける。
死んでも認めたくないふざけた事実ではあるが、事実は事実。勇麻と楓の危機に灼熱のマグマの如く怒りを燃え上がらせる泉修斗は、しかしこの絶望的状況下において極めて冷静だった。
冴えた頭が告げるのだ。あの状況で『三本腕』を取り逃がした時点で自分達の負けだ、と。
泉修斗に、勝ち目はないのだ、と。
……ああ、そうだ。泉修斗ではコルライ=アクレピオスにも白衣の男にも勝てないだろう。彼我の実力差は実際に化け物どもをこの目で見た自分が一番良く分かっている。
だが、冷静に状況を判断できる事と、胸の奥で燃え盛る感情の炎とは一切関係がなかった。
「……それでも、こんな所でうじうじと蹲ってるよりマシだろうがよ」
自分の弱さが憎い。勝ち目がない事を理解してしまう冷静な自分が憎い。何故こうも泉修斗は弱いのか。自分の貧弱さが悔しくて悔しくて堪らない。
決して誰にも気づかれぬようにと、平静を装った裏側で泉は奥歯を砕けんばかりに噛み締める。
コルライ=アクレピオスも白衣の男も、自分より強い奴らを全てをこの手でぶちのめす。
そうでなければ、この胸を蝕む悔しさを晴らせない。
泉修斗は、逆襲を決意する。
再び彼らと戦う舞台にあがる為にも、とにかくがむしゃらにでもこの状況を打開しなければならない。
立ち止まっている時間などありはしないのだから。
「大将の意見には俺も賛成だ。なんにせよ、このすっげえきもい虫の群れをどうにかしなきゃなんねえのは変わんねえんだろ? だったら早い方がいいぜ。善は急げ、善でなくとも事は急げ。とにかく人生生き急げだ……!」
「なんというか猪突猛進って感じで泉修斗らしいですねぇー。でもま、こういう時ほど単純なヤツの単純な意見ってのがありがたかったりするんですけどぉー。そんな訳で、私としても移動する事に異論はないです。一応この辺りならば十全に力は使えますが、セルリア姉ちゃん達とも合流しときたいですしねぇー」
「基本的な方針は俺も賛成です。もっとも――時既に遅しって感じな気がしないでもないですけど……」
鳴羽が泉の意見に賛成し、シャルトルも同意する。続く勇火は遠慮がちに声を上げて、通路のある一点を指差していた。
その指の指し示す先へ視線をやった一同の心境を代表するかのように九ノ瀬拳勝が呆れたような溜め息を吐く。それから、軽口でも叩かなければやっていられないと言った調子で、
「……なあ妹よ、オリンピアシスってのは一体どうなってんだ? さっきから喧嘩のお誘いがひっきりなしじゃねえか」
石舞台の設置されたフィールドへと通じる入場ゲート。
四角く切り取られたその入口から目詰まりを起こす程の多量のデザインキメラが顔を覗かせていた。
☆ ☆ ☆ ☆
『ギィ! キィッ、キシっキシシシシシ!!』
『ギギィ……キシキシキシシシシッッ!』
生理的な嫌悪感を誘発させる気持ちの悪い音が響く。
不快な音を撒き散らしながら、絶望は誰の元にも平等に降り注ぐ。命ある限り、その獰猛な咢と極悪な毒針はそれを奪い取らんと生ある者を襲い続ける。
――もし仮にこの中で幸運な者がいるとすれば、それはどんな人間なのだろうか。
それは、自身の身を守る神の力をその身に宿している神の能力者か。それとも、偶然彼らの近くにいた一般人の事かもしれない。
尤も――これだけの数の多寡を前にしては多少の超常の力を持ち得ようと運命を打開する事は儘ならない。
戦う力、守る力があるという事は、死の迫る勢いが僅かながら緩まるというだけであり、時計の針が進む先に待ち構えているのが己の死である事は変えようのない事実だ。
淡い希望を抱く分、その末路、万策尽きた瞬間の絶望への転換は劇的だろう。
そう考えると、むしろ何の力も持たないが故に抵抗する術なくまっさきにその毒牙の餌食に掛かった被害者達や、デザインキメラなどという大仰な脅威に関係なく烏合の集と化した人間の暴走に巻き込まれてぷつりと呆気なくその命に幕を下ろした者達の方が、相対的に見て幸せだったのかもしれない。
……そんな風にしか幸せを図れなくなった時点で、この世界はもう終わりだなどという本音を呑み込む必要はありそうだが。
しかし、それはあくまで超越的な視線で客観的に見た場合の話。
絶望と惨劇の地獄、その只中にいる当人達からしてみれば、例え突き進むその先が袋小路の絶望であろうとも抗う他に道はない。
目の前に死が迫り、それを一時でも回避する術がある限り、人は藁にも縋る生き物だ。
それが、その生き汚さこそが、彼らが人間である証でもあった。
背神の騎士団の四姉妹も、また逆境において決して生きる事を諦めない生き汚さを、人間としての強さを持っていた。
スカーレ、セルリア、セピアの三人とスピカにリリレット=パペッター、そして若干後遺症を残しつつも神の子供達としての圧倒的な干渉力を振りかざすアリシアを加えた六名が、蠢く黒い竜巻の中で必死に周囲の一般人を守りながら奮戦している。
シャルトルが未だ戻らない中――それでも近くには戻っている事を感じさせる――自分達の『始祖四元素』を振るいながら、しかし干渉レベルAマイナスを誇る彼女達ですら圧倒的な数の差に苦戦を強いられていた。
「……くっ、天風楓の様子がおかしくなって海音寺流唯が乱入したかと思えば今度は虫だァ!? 唐突すぎんだろ、一体なんだってんだよコイツら! こんなの……こんなのまるでネバーワールドん時の……!」
「――なっ! ンな!」
炎弾と泣き言を撒き散らすスカーレ目掛け切れ味鋭い砂礫の散弾が飛ぶ。スカーレの左右の頬、頭上などを掠めて背後の死角より迫っていたデザインキメラを撃ち落としたのは地の属性を操るセピアだ。
目の前の光景への動揺からか集中力に欠ける四女へ、既にいくらか直撃を受けたのか額から血を流すセピアが四姉妹以外には解読不能な叱責を飛ばすと、天然気味でゆるふわなセルリアが普段のゆるふわさからは想像できない鬼気迫った表情で叫ぶ。
「スカーレちゃん集中ッ! セピアちゃんの言う通り、考えるのは後よ。口動かす暇があるなら今は一匹でも多く倒すの! あの子達を見てみなさい、今の私達よりよっぽど息が合ってるわよ!」
間一髪で妹をフォローし体勢を崩したセピアのフォローへ入り、全体の立て直しを図る四姉妹の長女。四姉妹の中で断トツでオンとオフの切り替えが遅いセルリアが、既に意識をトップギアまであげている。それほどまで、彼女達が立つAEGスタジアムはシビアな戦場と化していた。
セルリアは今この場における要だ。シャルトルの次点で射程が長く、複雑で正確な水流の操作が可能な彼女の働きが全体の破綻を紙一重で避けていた。
姉妹たちに限らずアリシアやスピカにリリレットのサポートにも回るセルリアだったが、現時点で最も手の掛からないのがスピカとリリレットのコンビだった。
『音響領域』で音を見るように聞くスピカ。彼女の反響定位の精度は自然界を生きるイルカやコウモリなどを優に上回る。
「――十秒後、右からもう七〇! リリちゃんしゃがんでッ、スピカが……!」
「大丈夫っ、リリ、スピカに合せるし……!」
自身の左横に立ち並ぶ感知の要であるスピカの声に、リリレットは咄嗟に反応。
スピカの射線に入らないようスッと身体をその場に投げ出し天を仰ぐように仰向けになって両手を空へと伸ばす。スピカはすうっと一瞬強く息を吸い込んで。
「「せーっの――」」
「――『わぁああああああああああーッッ!!!』」
「――『爪糸拡散弾』」
リリレットの指より天空目掛けて射出された鋼糸を圧縮し丸めた糸の弾丸を、音の衝撃波が横から攫う。
スピカの音波振動波によって動きの鈍ったデザインキメラ、軌道を変えた鋼鉄の糸弾が次々と貫いていく。音波を受け振動を加えた事によって貫通力を増した散弾は、一匹を貫いた程度では止まらずさらに一匹、もう二匹と、直線状にいるデザインキメラをまとめて貫いていく。
それを確認したリリレットは、身体のバネを使って跳ね起きる勢いを利用して両腕を力いっぱいに振り回す。
彼女の両腕、計十本の指先には糸弾の尻から伸びた糸が繋がっており、糸弾で貫かれたデザインキメラたちは数珠に繋ぎになってリリレットの操るモーニングスターと化した。
竜巻のように振り回されるデザインキメラ。スピカはその軌道を〝音〟で完全に読み、その場で軽く跳び上がりひょいと首を傾けるだけでグロテスクな竜巻から逃れる。
リリレットは数珠繋ぎのモーニングスターと糸の接続を断ち切ると、竜巻に巻き込まれたデザインキメラたち諸共吹き飛ぶ。纏まった所へスピカが音波振動派でトドメを刺してハイタッチ。
そのままスピカに爪糸を接続。
『人業劇』の力でスピカを操縦し、殺到するデザインキメラの咢や毒針を紙一重で掻い潜り、返す刀で音波振動派を叩きこんで行く。
ぐるりと目を覆うように包帯を巻きつける盲目のスピカと、一人よりも誰かと共にある事でその真価を発揮するリリレット。
幼き少女達は都市の垣根を越えて心の手を繋ぎ、阿吽の呼吸で三百六十度から迫る敵と互角以上の戦いを繰り広げていた。
「……ぁってるよ! 集中すりゃいいんだろ集中すれば! ああ、くそ! ブンブンと喧しい雑魚共が、このスカーレ様の炎で全部燃やし尽して冬らしく灰の雪を降らせてやらァ……!」
絶望的な状況下でも喧しい……もとい姦しい四姉妹たちの三人を尻目に、アリシアもまた十全ではないとは言えその身に宿す『神門審判』の力をもって襲い来るデザインキメラの群れを次々と撃破していく。
首から下げた『天智の書』が嗤うように独りでにページを捲っていく。『神器』による補助が行われている証拠だ。
『ウロボロスの尾』を接続した後遺症で力の全力解放はできず、同時召喚できる『扉』の数も一つのみ。しかも『扉』の持続時間は長くて三分が限度、『扉』の再召喚までしばらく時間がかかるという有り様だ。
それでも背信の騎士団という仲間がいる今のアリシアならば、足りない部分をカバーして貰いながら戦える。
デザインキメラという脅威を前に、皆の力になれているという実感があった。
「はぁ、はぁ……すまない、セルリア。時間切れなのだ。しばしフォローを頼む……」
「了解よ~。アリシアちゃん、よく踏ん張ったわ。私達に任せて少し休んでいて……!」
それでも全力を出せない事へのもどかしさはやはりある。
そもそも力の制御権を完全に預けてしまうとまた例のヤツの人格が表に出てしまう為、全力解放などめったにやらないのだが、いざと言う時に神の子供達としての全力を振るう事ができないのは心苦しいと、アリシアはこの時初めてそう思った。
修練の果てにようやく掴んだ己の力が必要な時に使えないというもどかしさ、苦しさ、胸を苛む無力感。楓の気持ちがまた少しだけ理解できたような気がして、小さな胸に湧き上がってきた悲しみと怒りを糧に、力の回復と同時さらに気迫を込め眼前の敵を撃破していく。
彼女が神門審判によって開き繋ぐは此処とは異なる世界。本来交わらざる二つを結び、繋げ、開く。それこそが神門審判の真髄だ。
その異世界の法則をこの世界には存在しえない特異なエネルギーごと扉という変換アダプタを通じてこちらの世界に召喚し自らの力として一時的に使役する。
例えばそれは神々しき光の光弾。世界を凍てつかせる白い冷気の放射。全てを燃やす灼熱の炎撃。影の怪物のような存在を召喚し、デザインキメラを捕食させる。複数のタロットカードを召喚し、発生する色とりどりの魔方陣とそこから迸る魔法のような輝きが、デザインキメラを一撃のもとに焼却していく。
アリシアの『神門審判』は非常に扱いが難しい。本来ならばまともに扱えないばかりか、脳が負荷に耐えられずに僅か数日で廃人と化してしまうような滅茶苦茶な代物である。
アリシアは意図的に暴走させた自身の神の力を、その首より下げた叡智の魔本の補助があって始めて制御する事が出来る、半人工的な神の子供達だ。
いかにアリシア専用に調整された『神器』だとはいえ、暴走状態のまま無理やり神の力を使っている彼女の干渉力の消耗は、普通の神の子供達の比ではない。
それでもアリシアは弱音一つ吐くことなく淡々と、人々を安心させるように気丈な笑みを――相変わらず下手くそながらに――浮かべて繰り返すように呟き続けている。
「大丈夫なのだ、佳奈美。勇助。お主たち二人は絶対に私が守る。これまで勇麻に散々守られてきたのだ、今度は私が……!」
理由は単純、彼女の背後には戦う力を持たない一般人である東条佳奈美と東条勇助がいる。
不安そうな眼差しでアリシアの背中を見つめる彼女たち。勇麻と楓の事が心配で心配で堪らないであろう彼女達は、しかし泣き言一つ言わずに気丈にアリシアの背に声援を投げかけ続けている。
彼女達が戦っているのに、アリシアが投げ出していいハズがないのだ。
そんなアリシアの覚悟も、しかし見透かされているのだろう。
佳奈美は、アリシアの事を慮りつつ諭すような、優しくも厳しい表情を浮かべて、
「……アリシアちゃん、守られている私達がこんな事を言う資格はないかもしれないけど……無茶しちゃ嫌だからね」
「む……それは、大丈夫なのだ、多分。……大切な人に無茶をされる怖さは……私もよく知っている」
……アリシアは、出会ってから始めて佳奈美に嘘を吐いたかもしれない。そんなことを思った。
だって、アリシアが倒れればきっとこの人達は死んでしまう。
そう思うだけで、小さな身体の裡に全てを押しつぶさんとする恐怖とそれと同じくらいの熱い力が漲ってくるのだ。
無茶をしてでも通したい無理があった。
……きっと、恐怖と共に湧き上がってくる不思議な力こそが、『勇気』と呼ばれる物なのだろう。
アリシアは右の拳を握りしめながらそう思った。
絶対に負けられない。
だって、この人達を失ってしまうのは、とてもとても悲しくて、想像するのも恐ろしい事だから。
勇麻はいつもこんな恐怖と戦って、そして勇気を振り絞って来たんだろう。
そう考えると、さらに力が湧き上がってくるような気がした。
神門審判によって招来した極大のエネルギーが、希望の如く光り輝き醜悪な害虫を蹴散らしてく。
彼女達に守られる一般人の歓声が響く中、アリシアは自身の中の干渉力をさらに迸らせる。
この戦いが、アリシアにとって初めて誰かを背に守る戦いとなった。
☆ ☆ ☆ ☆
フィールドに出るのは不可能だという結論にすぐさま至った。
あれだけ重苦しい沈黙が支配していたのが嘘のように、デザインキメラを目前とした作戦会議はスムーズに進んだ。
入場ゲートの入り口をデザインキメラの群れに埋め尽くされた和葉たちは、南北ゲートのどちらかから直接石舞台上の勇麻たちの加勢に加わるのを断念。
騒ぎが此処まで表面化し対抗戦どころでは無くなった時点で躊躇う意味もないと別ルート――すなわち一度観客席に出てから石舞台に飛び降りるという方針に変更した。
ただ、勇火の申し出により観客席に向かう前にスタジアム内の医務室にいるホロロ達を拾う事になった。
確かに、このままでは彼女達がスタジアム内で孤立してしまう可能性は高い。
彼女達と決して小さくない接点を持った勇火としては、そのような状況は想像するだけで吐き気を催すものだったのだ。
幸い、医務室は同じ一階。ここからそう遠くはない。
それに、医務室には干渉レベルAマイナスの腕利きの治癒系神の能力者がいるハズだ。もし彼女がパーティーに加わってくれるなら、この状況でこれほど心強い加勢もそうそうないだろう。
しかしここで、一つ問題が発生する。
和葉たちのいる入場ゲート付近まで侵入してきた多量のデザインキメラ。これと交戦を避け、観客席から回り込むという案それ自体はそれほど間違ってはいない。そう思う。
ただ、ここにいるのは和葉たちだけではなかった。泉や駆が辿り着く前にコルライ=アクレピオスと白衣の男に戦いを挑むも蹂躙された逃亡者の集い旗の面々が少し通路を戻った場所で今も動けず倒れているのだ。
ここで和葉は今いるメンバーを三つのチームに分ける事を決意する。
突破力と速度に自信のある天風駆、鳴羽刹那、東条勇火の三名をホロロ達の救出と石舞台上の勇麻たちへの加勢へ向う増援担当のチームAに。
高火力で広範囲の敵を殲滅することが可能な十徳十代、泉修斗、シャルトルの三名をゲート付近に留まって逃亡者の集い旗の撤退を支援する殿担当のチームBに。
痛覚があるかも定かではない虫相手かつチーム戦では味方の邪魔にしかならない拳勝と非力かつ運動音痴とまるで戦力にカウントできない和葉の九ノ瀬兄妹が逃亡者の集い旗の撤退を進める救助担当のチームCとなった。
……ちなみに拳勝は妹からの邪魔者呼ばわりにちょっとしょげていた。
休む間を与えず畳み掛けてくる絶望は、呆けている事すら許さない。
目の前の現実に対処し生き延びる為、再び大切な誰かと笑い合う為に、どうにか心と態勢を立て直した和葉たち。
それぞれの目的を達成する為、彼等は一旦別れ、再び石舞台上での再会を誓う。
――そして、入場ゲート付近。
現在、戦闘不能となって動けない逃亡者の集い旗のメンバーの撤退と避難をチームCの拳勝と和葉とが進めている。
とは言っても、人数が人数だ。三十人近い人間が倒れている為、意識があり動ける人には自力で動いて貰い、意識の戻らない人を近くの個室に押し込むくらいの簡単な措置しか取れそうにない。
うまく事が進めば医務室に向かったチームAの誰かが治癒能力者を連れて一端こちらに戻ってくる手筈となっている。未だ意識の戻らない逃亡者の集い旗の面々に関してはそちらに期待するしかない。
とはいえ、適切な役割を定め分担で事にあたる和葉のチーム分けは現状うまく行っていると言っていいだろう。
逃亡者の集い旗の撤退を支援する殿担当の泉達の戦況もまた、比較的優勢を維持していた。
殿、と言われると過酷で厳しい犠牲ありきの任務を想定するかもしれないが、少なくとも今回に関しては違っていた。
十徳十代の強力な念動力で身動きを封じた所へ高火力の一撃を叩きこむだけの簡単な作業となっている為、殿と言う割には悲壮感もろもろが足りない状況になっている。
このまま干渉力が尽きさえしなければ、デザインキメラ相手に後れを取る事はなさそうだ。
……尤も、先ほどから潰しても潰しても襲い来るデザインキメラの数がまるで減らない、という現実について考え始めると絶望的な答えにしか行きつかない訳だが、あくまで今回は逃亡者の集い旗のメンバーを安全な場所まで退避させる為の時間稼ぎ。
泉たちがどれだけこの場で奮戦した所で、根本的な解決には至らない。
このまま終わらない籠城戦に入るようなジリ貧展開に突入するのを避けるべく、彼等は貴重な戦力を分けて別行動をしてまで抗っている。
だがそれでも泉達の中にこの状況の明確な打開策や勝算じみたものは欠片もない。
――複雑怪奇に絡み合ったこの戦場、その中心にいるのは紛れもなく東条勇麻と天風楓だ。
彼らに絡みつく糸を少しずつ解きほぐしていけば、きっと事態は収束へ向かう筈。そう信じて戦う事しか、今の彼らに道は残されていなかった。
まさに泥沼の戦いだ。
自分達の進むこの道に先はあるのか、袋小路なのか否かも分からぬまま、背後より忍び寄る死の足音から必死に逃げ続ける他ない。
そんな中、泉修斗は先の見えぬ泥沼の戦いの行く末とは関係なく薄ら寒いものを感じていた。
「……疼きやがる」
火炎纏う衣によって全身をドロドロの溶岩じみた粘性のある変幻自在の炎へ変換している泉修斗は、ドロドロに燃え溶ける右腕でデザインキメラの群れを薙ぎ払いながら無意識にそう呟いた。
寄操令示の体細胞から生み出されたというデザインキメラ。
奇怪なその害虫が蠢き出してからというもの、〝疼き〟が止まらない。
泉が無意識に左手で押さえているのは、左脇腹に刻み込まれた巨大な切創。かつてネバーワールドでの戦いで寄操令示の触手に貫かれ風穴が空いた部分だった。
アリシアと高見の応急手当で一命を取り留め、今は手術跡の巨大な切創が残るだけとなったその傷跡が――否、泉修斗の肉体そのものがデザインキメラという存在が放つ寄操令示の残滓のようなものにあてられてどうしようもなく痛む。
まるでそこに新たな心臓が出来たかのように古傷の部位はドクドクと脈動し、泉修斗の中で存在感を膨らませて行く。
脈動はやがて全身に行き渡り、燃え盛る泉の内側から塗り潰していくようにその疼きを拡大させていく。
「……大人しくしやがれ、クソ虫野郎が……!」
隣で風の圧縮弾を連射していたシャルトルが、泉の呟きに一瞬怪訝な表情を向けるもデザインキメラに対する罵倒と思ったようだ。
そのまま特に深く追求することもなく風の圧縮弾や風の刃で無限に増殖し続けるかに思えるグロテスクな虫たちの大群をゴリゴリ押し潰す作業へと戻っていく。
身体の疼きが黒く重たい靄となって胸に降りる中、泉修斗は疼きを振り払うように炎拳を炸裂させ歪な命を一心不乱に燃やし続けた。
――時は近い。
逃げる事を許さない身体を苛む疼きが、そんな虫の知らせを泉に告げているかのようだった。




