第六十八話 絶望共闘戦線Ⅳ――絶望再来/恐怖は悪ではないと知っているから:count 1
男は、その薄昏い部屋からその光景を見ていた。
「ついにその領域に至ったか……『起爆剤』の少女よ」
アンティークな肘掛椅子に頬杖を突きゆったりと腰かける死灰色の髪をしたその男は少女の覚醒に対し我が子を誇るように満足げに言葉を紡いでいく。
「神の子供達――そう呼ばれる存在へと羽化した我が愛し子へ、ささやかではあるが祝福を寿ごう。おめでとう、少女よ。強くなりたいと一途に希った君の望みは今ここに成就した」
思えば、天風楓という名のあの娘は実に哀れな存在だ。
彼女はいつだって悲劇と遭遇する中で、強さを手に入れてきた。悲劇を乗り越え手にする強さではなく、悲劇に直面する事でようやく花開く強さなぞ見ていて哀れで物哀しいだけだ。
ボロボロに擦り切れ、掠れ、壊れ、それでも健気に笑う儚い花。
何かを望めば望む程、望んだモノとは程遠いナニカを手にしてきた彼女にとって、願いとは呪いのようなものなのかもしれない。
明日に希望を持つからこそ、人は今日に絶望してしまうのモノなのだから。
天風楓は絶望の中でしか輝けぬ悲劇の花である。それを正しく理解して、しかしシーカーは報われぬその強さにせめてもの祝福を送った。
愛おしき我が子らに、最後のその時までせめて救いがあるようにと。これより地上にある意味での地獄を造り上げんとするその男は、しかし心の底よりそう思っていた。
「……『神門審判計画』に必要な莫大かつ良質な干渉力の確保……成功。当初の予定通り、『起爆剤』の炸裂によって得られた『神化』時の暴走エネルギーはその悉くが『万漢餐杯』の中に注ぎ込まれた。乙女の絶望が染み込んだ良質な干渉力の塊だ、これまで長い時を掛けて収集していた干渉力と併せて儀式の実行には十分な質と量があると言えるだろう。例の文書の公開によって、必須最重要数値『憎悪』の値も急激に上昇、世界を覆う神秘――超常への畏怖もまた同様。現段階で儀式に必要な環境は整いつつある。再臨段階も順調……、か」
自らの進む道のりを確認するように声に出して状況を反芻し、ふむ、と一つ頷くと。
シーカーは、永久の探求の旅路を歩むその男は。自分の思惑通りに進んで行く世界に対して心の底からつまらなそうに、
「盤面は――趨勢は決した。『起爆剤』の少女の覚醒を止められなかった時点で貴様の敗北だ、狡猾の蛇よ。私が出るまでもなく私の勝利はもう揺るがない。……ふむ。つまらないな、このまま終わるか。人の世は。それとも――」
老い故の老獪さも若さ故の溌剌とした輝きをも内包した超越者の瞳が、全ての価値を見極め見定めるかのように冷たく世界を睥睨する。
■■■■。その開幕は、近い。
☆ ☆ ☆ ☆
『設定使い』の造り上げた『世界』が崩れて行く。
『特異体』と『神の子供達』という例外中の例外どもがぶつかり合う異次元の戦闘による余波がAEGスタジアムを破壊する事がないようにと、『設定使い』によって一時的に切り取り異空間へと隔離されていたスタジアム四階北側の通路が――跡形もなく破壊された部分を修復され――元の座標へと戻っていく。
とはいえ、それは『設定使い』の『力』が破られた訳でも、繰り返される極大の破壊の余波に世界が持たなくなった訳でもない。
話は単純、例外埒外化け物何でもござれの超常決戦についに決着が付いたのだ。
勿論、『特異体』であるスネークの圧勝という形で。
「……もう一度だけ言うぞ。最大最弱、二人を解放しろ」
右手にディアベラス=ウルタード。左手にはクリアスティーナ=ベイ=ローラレイ。
『平和の支配者』の支配下にあった二人の神の子供達はまるで親猫に運ばれる子猫のように襟首を掴まれ、意識を失った状態で四肢を宙空へと力無く投げ出している。
限りなく世界の頂点に近い場所に立つ二人の神の子供達をその肉体のみでねじ伏せ、圧倒し、無力化してみせたスネーク。彼の視線の先には銀髪赤眼の少女、平和の狂信者にして戦争を軽蔑する者の艦名を冠する女王エリザベス=オルブライトの呆然とした顔があった。
エリザベスはスネークの鋭い眼光に射抜かれ力が抜けてしまったのか、ぺたんと尻もちをつき燃えるような灼熱の瞳を驚嘆に見開いていた。
「…………」
しかしそれも無理もない話だろう。
絶対であった自身の神の力はスネークを支配するには至らず、神の子供達という最強の駒を二人も手中に収めておきながらまるで歯が立たない。
エリザベスからしてみれば、苦労してようやくゲーム内で手に入れた最高レアリティのキャラ達がルール適用外のチートの塊には全く通用せず挙げ句に破壊されたようなモノなのだ。まさに悪夢のような展開と言っていい。
突きつけた敗北は、言葉以上の隔絶となってエリザベスの心を襲っただろう。
だから、続く言葉で震えるエリザベスの口から降参の二文字が飛び出しディアベラスとクリアスティーナが解放される未来を『設定使い』は予感した。
だが、違った。
エリザベス=オルブライトは、そもそも眼前に立つスネークを見てすらいなかった。
「なん……なのです、アレは」
震える声で指し示した指の先には、元の世界へ戻り修復されたスタジアム通路、そこに点在する対抗戦の様子を映し出すモニターが一つあった。
平和を愛し戦争を軽蔑する女王、平和の狂信者。
『平和の支配者』エリザベス=オルブライト。
語る理想へ至る為の方法や考え方は狂気に満ちていようとも真性人の世の平和を愛する彼女がこの世で最も唾棄する悍ましき光景が、モニターの向こう側に広がっていた。
それは、戦争ですらなかった。
そこに広がるただただ一方的な蹂躙が――それ以上に彼らにとって信じ難い光景が――エリザベス=オルブライトの視線に釣られモニターを仰ぎ見たスネーク達からも言葉を奪っていく。
☆ ☆ ☆ ☆
世界の終わりのような阿鼻叫喚の地獄絵図が辺り一面に広がっていた。
――叫喚、叫喚、叫喚。
無辜の民の恐怖と嘆きと絶望が悲鳴となって世界に木霊し、響き渡る哀しき叫びを心なき虫どもの金属を擦り合わせるが如き不快な金切声が真っ黒に塗り潰す。
突如として|天空都市オリンピアシスを覆い尽くした黒い死の影。まるで竜巻か黒雲のような蠢く黒の正体は寄操令示の細胞より生み出された奇々怪々な姿形をしたグロテスクな巨大昆虫。デザインキメラの大群であった。
――その数およそ三億匹。
一匹が人間の頭二つ分ほどあるソレの顎は容易に人の血肉を噛み千切り、凶悪な溶解液を吐き出し人体を瞬時に溶かし尽くす。
蛾のような毒々しい翅を羽ばたかせた飛翔は最高時速一〇〇キロをマークし、人の身体に当たればそれだけで骨は砕け、打ち所が悪ければ致命打だ。
さらに翅から降り注ぐ鱗粉は獲物の逃げ足を封じる強力な麻痺毒を有しており、百足の脚のように生え揃った巨大な毒針は一刺しでゾウは愚かクジラすらをも即死させる激毒を獲物に注ぎ込む事が可能な切り札となっていた。
勿論、如何に人間より頑丈な肉体を持っている神の子供達と言えども刺されればひとたまりもない。
しかしこの虫が本当に恐ろしいのはその致死性の毒でも人体を溶かす溶解液でもない。その増殖方法だった。
寄操の体細胞より生じたデザインキメラは体内に有する毒袋内部で毒を精製、自在に調合し調整する事が可能となっており、毒性の強度を状況に応じて変更する事が出来るのだ。
そして、あえて精製した弱い毒で弱らせた獲物の脳内に毒針で卵を直接植え付け、幼虫を脳髄に寄生させる事によって宿主の身体の自由を奪い、宿主の肉の壁で自身を守らせながら宿主の肉を内部から喰らい尽くし成長していく。
まさに寄操令示という災厄を継ぐ生命体として相応しいおぞましく悪趣味で実に合理的な生態を持っていた。
そんな、一匹でさえ手の付けられないような凶悪な虫たちが、視界一面を埋め尽くす弾幕となって観衆のただ中へと殺到すればどのような悲劇が起こるかは想像に難くない。
「おかあさんっ! おかあさんっ、いやだ、怖い、痛い、痛いよォ……!!?」
「いやぁ! やめて! あっちへ行けッこのっこのッ! この子は……この子だけはぶぐぽぅおごっっんばぁひゃっ!??」
「ひ、ひぃい!! 祥子がッ、祥子が化け物になっちまったァ!? こ……こっちに来るなァ! ば、化け物ォぎゃああああああああああああああああああああ!?!」
「ぐゃああああああああああああ溶け……あ、あひゃ……っ、あひゃまが溶けへりゅ……っっ!?!?」
「どけよバカ! 死にたいのかお前!!!」
「この状況で動けるように見えるのか!? だ、だいいち、こんなのどこに逃げろって言うんだよォおおお! どこもかしこも気持ちの悪い虫だらけじゃねえか!!」
「ざっけんなよテメェ! なに押してんだッ! 虫に食われる前にぶっ殺されてえのかッ!!?」
「っっっ、息、でき……なっ! ど、て。た……け、て!」
大勢の人が集まっているだけあり観客席は特に被害が甚大、完全なパニック状態へと陥っていた。
石舞台中央の天風楓の覚醒、『神化』直後の暴走状態が齎す干渉力を帯びた暴風によって行動を阻害され、ただの人間には立ち上がる事すら難しい状況下で不意に発生したデザインキメラの大群は、まさに最悪のタイミングで最悪の厄災が降り注いできたと形容するに相応しく、オリンピアシスを地獄と変えた。
突如として吹き荒れる突風に身動きを封じられ逃げ道を失った人々へと凶悪な複眼と鋭い顎が次々と襲いかかっていくその様は、神話世界の一つの終焉を目にしているかのように現実味がない。
そして、よしんばこの強風の中を動けたとして、状況が良くなるという訳でもなかった。
自身の生命の危機を前に、我先にと自分勝手に無秩序に逃げ惑う統率の取れぬ烏合の集と化した人々は、あちこちで将棋倒しを発生させ二次的な被害を拡大させていく。
逃げる人の波に押し潰されて窒息死する人。
襲い来る虫を避けようとしてフェンスから身を乗り出し、強い風に攫われ数十メートルの高さから落下してしまう人。
悲劇も悪意も介在しない不運で次々に命の灯が消えて行く。
結局、自分だけは助かろうと必死に逃げ惑い生き足掻こうとするその行動が自分たちの首を絞めていき、動きの止まった人の塊へと虫の塊が止めを差すべく殺到する。一瞬のうちに多くの命を単なる肉塊へと変貌させてしまう。
キチキチと、愉悦に嗤うような虫たちの奏でる不協和音が、人々の惨めで哀れで醜悪な――けれどもその美しい生の終わりに歓声を上げているかのようだった。
☆ ☆ ☆ ☆
『――覚えていないかい? 『匣の記憶』だ!』
未だにクライム=ロットハートの『心傷与奪』の干渉下にある天風楓。
一種の洗脳状態にある彼女を正気に戻し救う方法が、このAEGスタジアムの地下深くに眠っている。
そう海音寺は言った。
『あれは記憶に干渉する『神器』だ。仮に、クライム=ロットハートが東条君に洗脳の〝タネ〟のような物を植え付けたのが対抗戦が始まるよりも前だとしたら、『匣の記憶』による影響で洗脳の深度が弱まる可能性は大いにある。だから東条君は外部からの衝撃だけで簡単に洗脳が解けたんだ……!』
天空浮遊都市オリンピアシスの最下層に存在する動力室に設置されたマトリョーシカじみた骨組みだけの立方体の神器。『匣の記憶』。
『じゃあ、楓と『匣の記憶』を接触させられれば――』
『ああ! 楓ちゃんの洗脳は解けるハズだッ!』
記憶に関連する神器であると言われているソレと楓を接触させる事さえできれば、クライム=ロットハートの見せる地獄から彼女を解放する事が出来る。
不条理に苦しみ理不尽に泣く幼馴染の少女を助ける事が出来るのだ。
そんな、分厚い絶望という名の雲の隙間からようやく一筋の希望が顔を覗かせたその瞬間それは訪れた。
「……何だ、アレは。化け物……いや、虫、か? けど、何かがおかしい! この異様な干渉力、こいつら全部ただの昆虫なんて括りに収まる代物じゃない……ッ!」
「嘘、だろ……あれはまさか……寄操、令示……か?」
呆然と呟く勇麻の言葉が全てを言い表していた。
『AEGスタジアム』を……否、『天空浮遊都市オリンピアシス』を絶望が――寄操令示という災厄を引き継ぐデザインキメラの大群が席巻する。
世界を覆い尽くす黒い竜巻、それらを構成するのは一匹一匹が人間の顔二つ分程はあろうかというグロテスクな造形をした禍々しい昆虫であった。
悲鳴が、慟哭が、叫喚が、耳にするだけでゴリゴリと精神を削り取る呪いの鎮魂歌が空間
をびっしりと覆い尽くしている。
ああ、手の届くはずの距離で。東条勇麻の視線の先で、沢山の人の命がまるでゲームの雑魚キャラのように大量に消費されていく。
一人一人、その人の人生があり大切な物があり大切な者がありその人だけの想いがある掛け替えのない
ただ一つの命が、あまりにも簡単に、悲劇と絶望という名の怪物の咢の前に消費されていく。
……助けなきゃ、助けなきゃ、助けなきゃ。今度こそは、次こそはその伸ばされる手を掴み取らなきゃ。でも、誰が? そんなの決まっている。
正義の味方が、英雄が、南雲龍也が此処にいないのならば――その役目は、東条勇麻が背負うべきであって――
「――っ、東条君! 顔色が最悪だぞ、君。しっかりしないか! 楓ちゃんを助けるんだろ!?」
視界がブレル。あぁ、肩を掴んで揺さぶられているのか。そんな事にすら中々気づかない時点で、勇麻の状態が普通じゃない事は明らかだ。
勇麻の身を案じる海音寺の声も意味のない雑音と化して右から左へと通り抜けていく。ただ、どれだけ目を逸らし耳を塞ごうとも耳朶を打つ悪趣味な合唱は止まない。悪寒に肌が粟立つ。気持ちが悪い。気分が悪い。
寄操令示。美しいか醜いか、好きか嫌いか、そんな二択で物事の全てを判断し、人が死ぬ瞬間の魂の輝きが美しいから人を殺すのだと笑う無邪気に狂った純粋悪。
デザインキメラの常識を逸脱した醜悪で生理的な嫌悪を抱かせるその造形は、あの災厄の神の子供達の巻き起こした悪夢を思い起こすには充分過ぎた。
いつかの地獄が、救えなかった炭化した天へと延びる掌が、勇気の拳を通して頭に流れ込んで来た助けを求める誰かの断末魔が、勇麻の脳裏に一挙にリフレインし、喉元に胃液が一気にせり上がってきた。
「――うぅッッ! ……おご、うぼッおえぇ……っっ!」
「くそッ、立て東条君! こっちにも来るぞ! 人間は全て標的って訳か……!」
風景と表現するしかない馬鹿馬鹿しい規模の大群の一部が石舞台上の勇麻と海音寺目掛けて殺到してくる。
迫るデザインキメラより確かに感じる寄操令示の干渉力、残滓のようなその残り香ですら圧倒される。
存在している、ただそれだけで心が折れそうになる絶対的な存在感と干渉力に勇麻の心もまた大きく揺らぐ。
しかしそれも当たり前だ。生命を自由自在に想像し創造する最凶最悪の冒涜者に関するいっそ鮮烈なまでの記憶は未だ癒えずに勇麻の胸に深く刻まれているのだから。
……ああ、そうだ。忘れられるはずも、忘れていいはずもない。だってあれは、紛れもなく東条勇麻の敗北の記憶。東条勇麻は寄操令示を打倒したかもしれない。でも、それだけだ。
誰もが笑顔で幸福な結末には程遠く、憎悪に縋り、邪悪な敵を分かり合えないと斬り捨て殺すことでしか結末を掴めず、大切な仲間の心を傷つけた。
救うべき命を、守るべき人達の多くを、東条勇麻は救う事ができなかった。守りきれなかった。
高見秀人を失った。
「ぐッ、数が多すぎるッ! 僕の海域だけじゃ、対応できない……!」
だけど。いいや、だからこそ……!
「東条君! 逃げ――」
――振り抜いた勇気の拳が、デザインキメラの肉を突き破った。
「寄操令示は……アイツと対峙した時の絶望と恐怖は、こんなチンケなモノじゃなかった……ッ!」
強がった。
こんな敗北を認めやしないと、高見秀人の喪失は許しはしないと、抗い続けると確かにそう決めたのだ。
だから、戦える。
強がって握った拳は、けれども確かに恐怖を打ち払うだけの勇気を宿していた。
恐怖は決して悪ではない。
その身が怯え震え竦もうとも、それでも一歩を踏み出し恐怖を乗り越えんとするその瞬間にこそ人の心に勇気は宿るものなのだから。
――そして今だけは迷いを振り切り東条勇麻の負債の全てを棚上げに幼馴染の少女を救うと決意したのならば。
「掛かってこいよ、絶望。俺は楓の涙を止める為ならどんな恐怖だって乗り越えてやる」
これは東条勇麻の正義だ。
ならば例えどんな艱難辛苦絶望絶壁がその道程に立ち塞がろうとも、あの子を救いたいと吠える右の拳で打ち砕くのみな。
恐れはしよう震えはしよう。けれどその歩みを止めるつもりは一ミリだってありはしない。
「――海音寺先輩、教えてくれ。楓をどうやって『匣の記憶』に接触させる?」
勇麻の問いも当然のものであった。
『匣の記憶』が安置された部屋はこの街の中心『AEGスタジアム』の最下層に存在する。様々なケーブルやコードが血管のように乱雑に交わり合い足の踏み場もないあの空間は、海音寺の読みが正しければこの街を浮遊させている『動力室』であり台座に置かれた彼の神器はその『動力源』である可能性が高い。
だから当然、楓の方をどうにかして動力室まで連れて行くものだと思い込んでいた勇麻に、海音寺は平然としたまま。
「楓ちゃんを無力化して『匣の記憶』が存在する最下層まで連れて行くのは現実的じゃない。そこまでは分かるね? なら答えは一つしかない」
海音寺は勇麻の死角から襲いかかろうとしていたデザインキメラを口径を絞りレイピアの刺突のようにした高圧水流で粉砕しながら、告げた。
「天空浮遊都市オリンピアシスの最下層にある動力室、この大地を浮遊させている動力原である『匣の記憶』を台座より抜き取って天風楓に直接ぶつける」
「ッ!? でも、それじゃあこの街は……」
「ああ、浮力を失い間違いなく沈むだろうね。けど、この有り様を見てくれ、東条君。既にこの空の孤島は阿鼻叫喚の地獄と化してしまった。逃げ場のない空に取り残されている限り、この街にいる人々に未来はない。それに、君が協力してくれるのならば僕は安全にこの街を降下させる自信がある。頼む、東条君。僕に力を貸してくれ……!」
迷いと葛藤は刹那。肩に置いた手の震えと、そんな自身の恐怖を覆さんとばかりにこちらを真っ直ぐに見据える瞳の強い輝きに、勇麻もまた決意を固めた。
「言ったハズだぜ、海音寺先輩。楓を助ける為にアンタの力が必要だって。……あぁ、そうだよ。楓だけじゃない。どうせならこの街にいる人達だって助けたいに決まってるんだ……! このまま全部終わりになんかさせるもんかよ。やろう、俺達でッ!」
「……っ! ああ、やろう、東条君! まずは……お姫様を助ける前に、無粋なお邪魔虫にはご退場いただくとしようか!」
天空浮遊都市オリンピアシスの最下層『動力室』へと向かい天風楓を救う『匣の記憶』を手に入れる。
『神化』直後の余剰干渉力の放出現象……半暴走状態にある楓は、現在能動的な動きを停止している。
幸いと言うべきか、楓に襲いかかるデザインキメラそれ自体は楓の背より生じた三対計六枚の竜巻の翼が猛威を振るい寄せ付けない為、神の子供達へと成った彼女の脅威にはなっていない。
些か皮肉ではあるが、今だけは楓の身を守ることを考えずに『匣の記憶』を取りにいける状況が整っていた。
とくれば、唯一の障害は寄操令示を彷彿とさせる奇怪な虫、デザインキメラの大群のみ。
海音寺流唯と東条勇麻という獲物を三百六十度ぐるりと取り囲むデザインキメラの大群討伐戦を前哨戦とし、天空浮遊都市オリンピアシスに滞在する全ての人々の明日をも掛けた救出劇が今まさに幕を開ける。
☆ ☆ ☆ ☆
バン! と、人の背を壁に叩き付ける鈍い音が辺り一面に響く。
「これはどういう事だ……説明しろ、スネーク」
どこかの国の王子様か貴族のような端正な顔立ちを怒りと焦燥に歪めた『設定使い』が、スネークの胸倉を掴みあげ手近な壁に叩き付けていた。
低く唸るような問いかけに対し、スネークの表情はモニターに映る光景を目にしその瞳を見開いたきり微動だにしない。
『設定使い』の怒りの理由は寄操令示の残した負の遺産デザインキメラに関するものではない。ならば東条勇麻と天風楓の激突についてか? 否、そこまではいい。問題は天風楓が神化し神の子供達と化している今の状況だった。
『設定使い』とスネークにとって、それだけはあってはならない事態だったのだ。
鼻頭がぶつかり合いそうな近距離で怒りの視線と震える言葉をぶつけてくる『設定使い』にスネークは反論も抵抗もしようともしない。
その成されるがままの態度が、『設定使い』の癇に障りその怒りを加速させた。
「どういう事だと聞いているッ! 何故、何故天風楓が『神化』を果たし神の子供達と化している!? スネーク、貴様は言っていたハズだ。|天風楓が覚醒するような設定はないと、彼女の無事とその身を保障すると泉修斗の設定を奪う際にそう誓ったハズだ! 天風楓の手から神の力を奪ったのはこうなる事を避ける為ではなかったのかッ!?」
――ネバーワールドで起きたテロ事件『死の饗宴』以降、天風楓は暴風御手の制御を喪失。事実上、神の力を使えない状態に陥っていた。
病院での精密検査を受けるも肉体面での異常は特に見当たらず、精神性によるもの――つまりは心的外傷が原因の症状であると思われていた。
天風楓の不調の原因は確かに『死の饗宴』の最中に発生したとある出来事に起因するモノだ。
しかしそれは、寄操令示の操る虫に寄生され身体の自由を奪われ、自らの意志とは無関係に大切な人を傷つけてしまったからではない。
勇麻が憎悪に身を任せて解き放った正体不明の一撃によって寄操令示の操る虫達が全滅した後、楓を介抱する際にスネークはとある『神器』を使用していた。
――『乙女の微睡』
スネークが普段よりその首に下げている一見何の変哲もない女物のネックレス。そこには、とある特異体の愛したとある少女の『神性』の欠片が宿る正真正銘の『神器』である。
――対称に夢を見せる。ただ、それだけの『神器』。
スネークの魔力のみに反応して起動する、スネークにしか使えない、彼以外の人間にとっては単なるガラクタでしかない薄汚れた三流の出来そこないの『神器』は、けれどスネークにとってはどんな神々しい超常の力を宿した一流の『神器』よりも大切で尊い宝物であった。
そんな自身にとって特別な『神器』を用いてスネークは深層心理を縛る夢を天風楓に見せた。
『創世会』にその身を狙われている彼女が、『創世会』の目論み通りに神の子供達として覚醒してしまう事がないように。
彼女を『創世会』の魔の手から守る為、決して褒められたモノではない強引な手段で天風楓が『神化』してしまう可能性を潰そうとしたのだ。
勿論、その結果として天風楓が力の喪失に深く悩み、傷つくであろう事は理解していた。
理解して、それでもなお実行したのはその行為が天風楓を救う事に繋がると信じて………………いや、彼女を救うだけならば他にいくらでも方法はあった。
ああ、そうだ。綺麗事をいくら吐いた所で、意味などない。これは結局、スネークのエゴだ。
スネークはスネーク自身の目的の為に世界を守る為、天風楓を利用したのだ。
それでも、だからこそ。スネークの言葉と信念に嘘はなかった。『設定使い』もそんなスネークの言葉を信じたからこそ手を貸した。決して相容れぬ嫌悪感すら抱く『特異体』の協力要請に応じた。
事実、途中まで彼らの企みは上手く行っていた。『特異体』でありながら『知恵の実』を喪失し魔術を扱う事ができないスネークが『神器』を用いて楓に掛けた暗示はプロテクトとして完璧に機能していた。
刷り込み――要するに一種の洗脳状態とでも呼ぶべき特殊な精神状態を常にキープさせる事により外部からの特定感情の注入によって活性化する〝神の力の制御に関与する神の能力者にのみ見られる異常発達した脳の脳幹に存在する特徴的な器官〟と、『神性因子』、この双方の活性化を抑え干渉力の循環そのものを乱し神の力の使用を封じこんでいた、そのハズだったのに。
破綻の兆候は見られなかった。
健康診断と偽って行われた天風楓の精神状態の検査の際にも異常値はおろか、何者かに干渉された形跡一つなかった。
『設定使い』がその力を用いて楓の状態を確認した時も何も異常は見当たらなかったのだ。
クライム=ロットハートに干渉されたような痕跡は何も、何一つとして見つからなかった。それは対抗戦期間中も同様だ。
だからこそ、この憤激は異常に気付けなかった不甲斐ない自身への怒りでもあった。
楓とブラッドフォード=アルバーンの接触も、楓がセナ=アーカルファルに成り替わって『対抗戦』に出場した事もスネークと『設定使い』は知っている。そして敵の狙いが天風楓だけにとどまらず東条勇麻にもあるという事も。
当然、それら全てを知った上で何の狙いもなく彼女の行動を黙認していた訳ではない。
――そもそもの話だ。スネーク達は東条勇麻の試金石として天風楓を用いる為に『創世会』が楓と勇麻を狙っているこの状況を利用しようとしていた。
二人が対抗戦にて激突すれば、クライム=ロットハートは確実に仕掛けてくるだろう、その確信があった。
だからこそ天風楓は『神器』を用いた暗示で護り、東条勇麻にはその悪意を強い心で乗り越える事を求めた。
……スネークが最も忌み嫌う互いを想うが故の激突を『希望』を見極める分水嶺としたのは、一体どんな想いからだろうか。
『創世会』を利用し東条勇麻と天風楓を対抗戦にて激突させる。
それがスネーク達の目的の一つであった事は事実。非道で卑怯で、人の心を弄ぶ最低最悪の行いである事も紛れもない事実だ。
しかしそれも、天風楓の身の安全と彼女が『神化』し『創世会』に利用されるという事態を未然に防ぐ事が出来るという絶対的な自負があったからこそだ。
――そう。スネークと『設定使い』。世界の頂点に限りなく近い位置に立つ絶対的な二人に唯一の計算違いがあったとすれば、悪辣なる『三本腕』が一つ、クライム=ロットハートの『心傷与奪』のスペックを僅かに――ほんの僅かに見誤った事だろう。
心傷与奪はクライム=ロットハートの右目を相手が直視するという発動条件を満たしさえすれば時間や距離に関係なく任意のタイミングで対象の精神を操り、洗脳を開始する事が可能となっている。
レインハート=カルヴァートや東条勇火など、複数の被害者サンプルから得たデータから、ここまではスネーク達も周知の情報だった。
しかし、クライムが神の力を発動するまでの潜伏期の間は、どんな方法を用いようとも干渉の有無を察知する事は不可能なステルス性を有している事までは知りえなかった。
故に、元よりクライム=ロットハートの干渉下にあった天風楓の『神化』を食い止める事ができなかった。
スネークが行ったのは所詮は暗示だ。種を弾く事は出来ても、既に植え付けられていた種を排除する事は出来やしない。
その僅かな間隙を完璧な形で突かれた結果がこの様だった。
「……このような設定、あまりに救いがないではないか……ッ!!」
『設定使い』は己が善人だと思った事はないし、自らの行いが正しいと思った事もない。
それでも『世界』の為、『設定』を守る為にその力を行使してきた自負があった。
だからこそ、凄惨たるこの設定に憤怒した。
何度も言うが『設定使い』がスネークに協力したのは、スネークの行いやその正義に共感したからではない。この男の方法が『世界』を守るうえで最も有効だと思ったからに過ぎない。
しかし蓋を開けてみればこの有り様だ。
――場違いな怒りだ、分かっている。自分も共犯者であり咎人だ。己にも責がある。そんな事も分かっている。それでも『設定使い』は己の感情を抑える事が出来ずに吠える。
「奪われた泉修斗の想いはッ、その決意と蛮勇はッ、天風楓の苦しみはッ、私達の行いに一体何の設定があったのか、最早これでは何も分からない……ッ!」
狡猾の蛇は失敗した。敗北した。
天風楓は創世会の思惑通りに『神化』を経て覚醒し神の子供達へと至った。
寄操令示の体細胞より作成されたデザインキメラが空を覆い、『設定使い』が守りたかったこの世界に終焉を齎そうとしている。
『創世会』の思惑通りに事は進み、全ては『探求者』の掌の上だ。
「……どう責任を取るつもりだ、諸悪の根源。人類史に名を刻む咎人よ。答えろ狡猾の蛇よ、貴様の返答如何によっては共闘もここまでとさせて貰おう。……元より、貴様の協力など不要だったのだ。私は私の設定で、今度こそこの世界を遵守しよう。この命を賭そうとも、『探求者』の好きにはさないと誓って――」
唾棄するような視線と共に嫌悪感を隠しもせずに己をねめつける『設定使い』に、
「――少し、黙ってろ」
ボソリ、そう小さく零したスネークの一言に『設定使い』――彼のみならずこの場にいる全員の――肌が悪寒に粟立った。
胸倉を掴んでいたハズの手を思わず離し全力で後ろに飛び退いていた。
全身の筋肉に凄まじい勢いで血が巡り、怯えるかのように身体が震えている。いつの間にか全身を冷や汗が滴っていた。
今まで何処かその所作の端々に余裕を感じられたスネークが初めて見せた〝素〟。
この危機的状況を招いた自分自身への明確な怒りと絶望的な敗北への焦燥は、スネークが元より持っていた百獣の獣王の如き莫大な人外の存在感をオブラートに覆い包んでいた膜を掻き消していた。
剥き出しの『特異体』から発せられる感情、その僅かな切れ端に触れただけだと言うにも関わらず、ひんやりとした抜身の刃を首筋に当てられているような致命的な感触が『設定使い』とエリザベス=オルブライトの心臓を舐める。
改めて眼前の男が自分達とは異なる存在なのだという事を実感する『設定使い』の視線の先、スネークは相変わらず茫洋と見開いた瞳で虚空を撫で、どこか遠い世界に入り込んだように思考を重ね、
「……状況が変わった。エリザベス=オルブライト、協力してくれ」
エリザベスの方も見もせずに告げられる有無を言わせぬ強制力を伴った言霊が廊下に響く。
「〝アレ〟は寄操令示から作られたモノだ。だったらお前さんの力なら対応できるはず。それから、ディアベラスとクリアスティーナを解放しろ。お前さんら神の子供達には万全な状態で戦って貰う」
「……承知いたしましたわ」
言われ、拘泥する事なくこくりと頷くエリザベス。
魔力を帯びたようなビリビリと空気を震わすスネークの言葉による強制力――ではなかった。
エリザベスは自身の意思で手に入れた駒をも無条件で解放しスネークと万全な協力体制を敷く事を瞬時に選択していた。
――そう。エリザベス=オルブライトはあくまで平和を愛する人間だ。
確かに彼女の語る理想の平和とそれを成し遂げる為の道筋はどれも狂気に溺れている。
世界の武力全てを支配する事で得られる絶対的な平和という一見突飛なようで合理的な思想が彼女の印象を危険な物へと変えているかもしれないが、それでも彼女は真に平和を愛し争いを憎む者であり、それを脅かす外敵に対しては一切の容赦も油断も驕りもしない。その場その場で最善を尽す事を厭わない。
モニターの映像を見た時点で先ほどまでとは既に状況が異なっている事を理解したエリザベス=オルブライトは、この絶望的状況下においてスネークと敵対するのは自身にとっても世界の平和にとっても限りなく致命的な悪手であると判断した。これはそれだけの話。
スネーク達との戦いの結果などどうだっていい。人の上に立つべき人間があっさり引き下がるようでいいのか? 支配者としての誇り? 女王としての矜持?
そんなものどうだっていい。重要なのは争いのない世界を作る事。エリザベス=オルブライトが女王として君臨するのは自身にその力があり、それが平和を得る為に有用だったからで、彼女は女王に成りたくて世界平和を目指している訳ではないのだ。
狂気の中にありながらも、その明晰な頭脳と冷静な状況判断能力は、全てを統べる女王に確かに相応しいものであった。
そして、ディアベラス=ウルタードとクリアスティーナ=ベイ=ローラレイはエリザベス=オルブライトの支配下にない方が戦力的に優秀であるという事も彼女は当然理解している。故に、スネークの指示に素直に従い二人の『支配』をすぐさまに解除。
設定使いがすぐさま二人の治癒に入る。
スネークは二人が解放される瞬間を見届ける事無く言葉を続ける。
「『設定使い』は二人を万全の状態へ治癒してから二人と共に女王に加勢しスタジアム内の虫共を迎撃。これ以上、民間人から死者を出す事は俺が許さん」
「……いいだろう。私はそれで構わない。だが、貴様はどうする設定だ? 天風楓を止めるか?」
「……いや、おそらくここが人類にとっての分水嶺だ。予定通り、天風楓は『希望』の試金石として利用させて貰う。――人類を救うのは『希望』か『英雄』か。南雲龍也が信じるに値すると『希望』を託した少年の選択を、その末路を見届ける義務が俺にはある」
「南雲龍也……彼の英雄が残し少年に託した淡い『希望』、か。しかし……なあ、蛇よ。あの少年に賭ける者として、もう一度だけ私は貴様に問おう。――例えその末路が『英雄』による救済であろうとも、貴様はこの世界を変わらず愛せるか?」
「愛せるとも。例え『希望』が否定されようと、アイツが愛したこの世界を俺は永遠に愛している。……ああ、分かってるさ。どうしようもなく間違っちまってるって事くらいな。だがな、俺がやらねばならねえんだ。こんなどうしようもねえ俺が龍也の為にしてやれるのは、龍也が信じた『希望』ってヤツを信じてやる事くらいだからな」
スネークは感傷的に言ってから、頭の中を切り替えるように拳を強く握り固めて、
「……ま、『希望』にせよ『英雄』にせよまずは目障りな羽虫の駆除が先決だ。『設定使い』、スタジアム内の事はお前さんらに任せる。俺はそれ以外を片づけるとしよう」




