第二十二話 過去回想Ⅳ――悪夢の終焉と帰還、掴んだ答え
そこらじゅうに不気味な魔法陣が描かれた魔女の部屋みたいな場所にアリシアはいた。
不気味だ。今すぐここから逃げてしまいたい。
だが、それは許されない。
アリシアには逃げてはならない理由があるから。
どんな理由かなど、今更問うまでもないだろう。
アリシアが逃げずに恐怖に立ち向かう理由はただ一つ。
たった一人の大切な人を救う為に、だ。
嫌な汗が流れる。
きっと緊張しているのだろう。アリシアは一度大きく息を吸い込み深呼吸をした。
床に描かれた魔法陣、その中心にアリシアは座っている。
そしてアリシアの目の前に置かれた、一冊の古書。
古代の遺跡から出土したと言われれば、そのまま信じてしまいそうな程に古びてボロボロだった。
『天智の書』、そう呼ばれる書物。
アリシアが今から契約を交わす魔本。
(大丈夫、私は大丈夫。言われた通りにやればいいんだ。だから、緊張する必要なんてない)
アリシアが表紙を捲ると、何も書かれていない白紙のページが現れた。ここまでは聞かされた通りだ。アリシアはそのままシーカーに言われた通りに掌を白紙のページに翳して――
――唱えた。
「汝、天より授かりし『智』を欲するのならば、我にその代価を差し出し覚悟を示せ。さすれば我、天より授かりし『智』すべてを汝に授けん」
その刹那。
アリシアを中心に暴風が巻き起こった。
「がぁぁあああっ!? う、うう……。う—―――ぁぁぁぁァァァァァァアアアアアアッ!!?」
部屋中に描かれていた魔法陣が、アリシアの叫びに呼応するかのように突如輝き始め、アリシアを中心として発生する暴風を、アリシアごと押さえつけようとする。
壁から、床から、天井から光り輝く魔法陣が浮かび上がる。
壁面から浮かび上がり、飛び出した魔法陣は、徐々にアリシアとの距離を詰め、やがてアリシアを囲う檻のように魔法陣同士が接触、結合し、二〇もの面を持つ多面体を模る一つの結界と化した。
都合、二〇面体の結界に閉じ込められたアリシアは、行場を失くしたエネルギーの乱舞を直に喰らってしまう。
「がっぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああッ!!?」
白紙のページがパラパラパラパラと、荒れ狂う暴風によって次々にページを捲られていく。
やがて何も文字が書かれていないその古書のページとページの隙間から、黒の奔流が流れ出した。
それはまさに黒い竜巻のようだった。
数百、いや数千、いや数億もの小さな『黒』い欠片が、巨大な黒い竜巻となりアリシアを呑み込んだのだ。
アリシアを取り巻くように空間を支配するその小さな『黒』は、アリシアの見たことの無い『文字』だった。読んだことはおろか、聞いた事すらないであろうその『文字』の意味が、アリシアには手に取るように分かってしまう。
そこにはアリシアの知らない、いや、それどころか人類が知らないであろう言語でこう書かれていた。
『汝が新たなる我が主か』
問いの放たれた瞬間、身体中を襲っていた激痛が、まるで嘘だったかのように消えた。
アリシアは自分も知らない言語で書かれたその文章の意味を一度噛み締めて、目を見開いた。
その問いに対する答えはこうだ。
「天智の書よ! 我こそは知識の伝道者! 『天』に輝くあまねく星々の如き『智』を追い求める者なり。なれば、記憶の代価を我が覚悟の証とし、汝の『智』を我に授けたまえ!!」
返事のかわりにアリシアを襲ったのは、頭が内側から引き裂かれるような激痛と、身体中を叩く暴風だった。
アリシアを覆っていた『黒』の文字の竜巻は巻き起こる暴風に薙ぎ払われ、結界内を跳びまわる。
頭が溶けそうな程熱い。
頭がおかしい熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い!!?
これが記憶全てを差し出すという行為なのだろうか。
きっとこの痛みと苦しみは、アリシアの脳の抵抗の証なのだろう。
アリシアの大切で何物にも代えがたい思い出を守ろうと、必死になって戦っているのだ。
それがアリシアは嬉しくて、また少し涙が出てきた。
そしてこの脳みそを溶かすような熱こそが、天智の書による記憶の消失なのだ。
まるで頭の中で火事が起こっているかのようなこの熱さは、アリシアの記憶が焼かれている事を示しているみたいだ、とアリシアはそんな事を考える。
きっとこの燃えるような熱が無くなった瞬間が、アリシアがアリシアという存在ではなくなってしまう時なのだろう。
(……あっけない最後だったなー)
本当に馬鹿だ、そう思った。
こんな事をしてパックが喜ぶハズが無いのに。それでもアリシアは、パックを見捨てて一人のうのうと生きて行くなんて事は出来なかった。
二人が二人とも生きて行くには、こうするしか方法が無かったのだ。
だから、この方法がパックを深く傷つけると知りつつもアリシアは選択してしまった。
いや、本当はそうじゃないのか。
大好きなパックの中から『アリシア』という人物の記憶が消えてしまうのが、アリシアはきっと我慢できなかったのだ。
なんて傲慢でなんて浅ましい考えだろうか。
自分でも呆れてしまう程だ。
アリシアは脳を溶かす激痛と炎熱の中、自嘲気味に笑った。
きっとパックはアリシアを恨む。
自分自身も責めるだろう。
この選択は彼にとって苦しみを与えるだけで、何一つのメリットも無い物だったのかも知れない。
もしかしたらパックは、こんな小汚い小娘の事なんかさっさと忘れたかったのかも知れない。
けど、それでも。
アリシアが、アリシアという人間の全てを懸けて救おうとした少年が、アリシアの選択の結果生き残る事ができたのなら、それはきっとアリシアにとっての大きな救いとなってくれるハズだ。
たとえアリシアが何もかもを忘れて消えてしまうとしても、パックがアリシアという少女の事を少しでもその心に残してくれたなら、それはアリシアの大勝利とも言えよう。
痛みと炎熱と苦しみに包まれる中、不思議とアリシアは穏やかな気持ちになっていた。
感覚が麻痺したのか、もう何も気にならない。
このまま眠るようにアリシアの記憶は天智の書の食事になるのだろう。
もう目蓋も重たくなってきた。
視界がボンヤリと歪む。
鬱陶しい液体が、アリシアがアリシアとして最後に見る景色に透明な膜をかける。
それを両手で拭い、アリシアは一つだけどうしようも無い願いを頭の中に浮かべた。
最後に、全てを忘れる前にもう一度だけ……
「……パックの顔を、見たかった、なー」
「そうですか、そうですか、ならばお望みどおり、ご覧にいれましょうアリシア様」
ある種の救いのようなものを得かけていたアリシア。その全てを絶望に突き落とす声を上げたのは、またしてもこの男だった。
「パック!? ……なんで、なんでお前がっ!!」
部屋の扉をけ破るようにして現れた白衣の男は、その右手でパックの癖っ毛気味な金髪を乱雑に掴み、愉悦に歪んだ裂けるような笑みを張り付けていた。
呻くパックを白衣の男は蹴飛ばして黙らせると、改めてアリシアの前に向き直る。
「やあ、ご機嫌ようアリシア様。お加減はいかがですか? 記憶を消去されるとのお話でしたので、こうして今生の別れになるであろうパック様をお連れしたのですが、お気に召して頂けましたかな?」
「ふ……ざけないで! パックに何をする気!? その左手に持ったものを離して!!」
その理知的な顔に、生理的嫌悪感を催す卑劣な笑みを浮かべる白衣の男。
彼の左手に握られたその刃物は、アリシアにとって非常に見覚えのあるものだった。
大きな包丁。それはアリシアの両親の命を刈り取った、白衣の男の暗器だった。
「おや、この包丁が気になりますか? まあコレでご両親を殺されたのだから、その反応も仕方がないでしょうが」
「く……ふざけないで……!」
完全に頭に血の昇ったアリシアは、我を忘れて白衣の男に跳びかかろうとした。
だが、魔法陣が形作る二〇面体の結界が、それを許さない。
アリシアの身体は結界に触れると同時、紅い輝きを散らしながら後ろに弾かれてしまう。
「まあ落ち着いてください。なに、私は単にアリシア様にとっておきの土産話を持ってきただけですよ。どうせアナタは全て忘れられてしまわれるんだ。ならアナタだって、どうせなら最後に真実を知りたいのでは?」
「真実……?」
「ええ、そうです。真実です。なぜ、日本各地から子ども達が天界の箱庭内の実験施設に連れてこられ、非人道的な実験の結果、命を落とさなければならなかったのか。なぜ選ばれたのがアナタ方一二五名だったのか。アリシア様、アナタには知る権利が……いや、義務があります」
頭が熱い。
天智の書との契約とか、そういう物による熱さではない。
これは怒りだ。
身勝手で、意味の分からない事を自信満々な顔で言い出した白衣の男への怒りの感情だ。
ふざけるな。
白衣の男の言葉を聞いて出てきた第一声がそれだった。
何が真実だ、何が選ばれた理由だ。
そんなの全部、ここの汚い大人の都合ではないか。
大人の都合で関係の無い子どもを拉致して、使い捨てのマッチ棒みたいに消費しておいて、どの口が権利だの義務だのをほざいているのか。
「ふざけるなぁ! そんなの全部お前たちのせいに決まってるじゃない! 純も夏美も亮も光子も高チンも照もっ!! みんなみんな……。皆死んだ! 全部お前たちのせいよ! この人殺し!!」
涙をポロポロと零し、絶対に届かない怒りを感情のままぶちまけた。
悔しさに引き結んだ唇に赤い珠が浮かぶ。
今すぐにこの白衣の男を殺してやりたかった。
アリシア達が味わった苦痛と絶望を、この白衣の男に味あわせてやりたかった。
血反吐を吐きながら苦しむところを見て、声高らかに嘲笑ってやりたい。
殺意が、敵意が、憎悪が、アリシアの中で湧き上がる。
「なんでこんな事をするの……? 私達が何かした? なんで、なんでこんな目に合わなきゃいけないの? みんな苦しくて辛くて、それでも一生懸命に生きていたの……それなのに! なんであんな風に無惨に……死ななきゃいけないの……っ」
絞り出された声は掠れ哀れな程に震えていた。
だってあまりにも理不尽で、不条理だ。
アリシア含め、ここに集められた子ども達は皆どこにでもいる普通の子どもだったハズだ。
それなのに両親を目の前で殺され、知らない所に監禁されて、実験動物として扱われ、人としての尊厳を何もかも失ったまま死んでいく。
こんなの絶対に間違っている。
「なぜ彼らが死ななければならなかったのか、アリシア様のその疑問、私がお答えしましょう。それは—―」
白衣の男は涼しい顔でアリシアの罵倒をさらりと受け流す。
場違いに優しい声が響く。
でもその不気味なまでの柔らかい声色に、アリシアの背筋に悪寒が走った。
顔に笑顔を貼り付かせたまま白衣の男はこう言った。
「—―アリシア様、全部アナタのせいなんですよ」
言っている意味が、分からなかった。
「私達の壮大な計画。総勢一二五名もの子ども達を日本各地から集めて行われた今回の人体実験。アリシア様はこの実験……否、この計画の目的を覚えていらっしゃいますか?」
「そ、そんなの忘れる訳ないじゃない。『巫女』とかいう訳の分からないものを私達の中から『選別』する。そして選ばれた『巫女』の記憶を食いつぶして、天智の書と契約をさせる。それがアナタ達の目的なんでしょ」
そんな分かり切った事を今更聞いてくる事に不信感を覚える。
あえてそれをアリシアの口から言わせる事で、精神的ダメージでも与えようとしているのだろうか?
もっともそんな嫌がらせで傷つくようなら、アリシアは今ここにいないだろうが。
白衣の男の安い挑発を鼻で笑おうとするアリシア。
けれどアリシアの予想は外れた。
「そう、その通りです。『巫女』の資格を持つ可能性のある者を日本中から探しだして拉致監禁し、その身体に様々な負担をかけ資格の有無を確認、『選別』する。そして最後まで生き残った『巫女』を『天智の書』と契約させる。……確かに私達はアナタ方にそう言ってきました。ですが、そもそも今回の人体実験の目的は“『巫女』を『選抜』する”なんてモノでは無かったのです」
ちょっと待ってほしい。
さっきからこの男は何を言っている?
白衣の男の虚言に、アリシアの思考に空白が生じる。
白衣の男はここの期に及んで一体何を――
「『巫女』の『選別』などただの囮。この計画の真の目的はアリシア様、アナタの中で眠っている神の力、『神門審判』の力を覚醒させる事にこそあったのです」
――言っているのだろうか?
アリシアの口が、頭が真っ白になる中で勝手に動いた。
「え、意味がわかんない……よ。だって、それって私だけが目的だったって事、なの?」
「はい。その通りです。我々の計画に必要だったのはアリシア様ただ一人」
「え、ちょっと、待って。待ってよ。『巫女』は?『選別』は?だって日本中から集めたって—―」
「ですから、『巫女』の『選別』など何か月も前に終わっていたのですよ。『巫女』の資格を持つ者は最初からアリシア様一人だと分かっていたのです。……いや、この言い方では紛らわしいな。“『巫女』の資格”では無く、“『神門審判』を持つ者”はアリシア様一人だった、と言うべきでしたね」
頭の中の情報が整理できない。
これまで涙を呑んで受け入れていた地獄が、その景色を変えていく。
それもおそらく、アリシアにとって最悪な物に。
「待ってよ。意味わかんないよ。最初から必要なのが私だけだってわかっていた……? 目的は私? そんな、そんな訳がないよ。だって現に今、私に天智の書との契約をさせようとしているじゃない! パックだって途中まで契約を結びかけていたし、ゴッドゲートなんて私は知らない。こんなのデタラメだ。アナタ達の目的が私だなんて、そんなの違う!」
「アリシア様、アナタの神門審判は非常に扱いの難しい神の力だ。普通の状態ではまずまともに扱う事もできない。人間の身で神門審判の効力を最大限発揮させるには、意図的に暴走状態を作り上げるしかないのです。ですが神門審判を意図的に暴走させ続ければ、アリシア様は三日と持たずに廃人になってしまう。だからこその『天智の書』なのです」
止めなくちゃ。
狂気に狂ったこの男の言葉を止めなくちゃ。
アリシアが懸命に伸ばそうとした手は、結界に弾かれる。
「天智の書の持つ圧倒的な情報と知識。それをアリシア様の身に与えれば、アナタは意図的に暴走させた神門審判を完全に制御する事ができる! 廃人になる事も無く、その上で自身の神の力の力を一〇〇パーセント引き出す事ができる!」
つまり、と白衣の男は言葉を一度区切って。
「『天智の書』との契約は“手段”であって“目的”では無い。私達の目的はあくまで神門審判を完全に制御する事。天智の書はその為に必要なデバイスに過ぎないのです」
それはつまり、どういう事だ?
「それって、……それじゃあ、私以外の子は……なんでこんなところに連れてこられたの? へんな薬を飲んだり、手術みたいに身体中を切り裂かれたり、身体中に電極を刺されたりしたアレは、一体何だったの?」
視界がブレる。
瞳の焦点がおかしい。
呼吸が苦しい。酸素を吸って吐き出すまでの感覚が極端に短くなっていく。
大きく見開かれた瞳には、既に白衣の男の姿など映っていなかった。
アリシアの視界に浮かぶのは、この辛く苦しい地獄の三か月を共に過ごしてきた家族達の顔だった。
笑っている顔、泣いている顔、苦しそうな顔、眠っている顔、楽しそうな顔、怒っている顔、けれども最後は死んで行ってしまう、アリシアの大切な人達の顔。
それを思い浮かべ、まだ思い浮かべられる事に少しだけ安堵しつつ、アリシアが聞いた言葉は破滅だった。
「だから、アリシア様、アナタのせいだと言ったではないですか。彼らは全くもって完全に無関係。特別な能力も資格も何も無い正真正銘ただの人間の子どもです。彼らに課せられた役割はただ一つ、アリシア様と親しくなり、実験の過程で無惨に死ぬこと。『大切な仲間の死』がアリシア様のメンタルに与える刺激と、それによる神門審判の数値変動を測定する為だけに連れてこられた、死ぬことを前提としたタダの捨て駒です」
アリシアの視界に浮かんでいた彼らの笑顔が、真っ黒くて汚い物に凌辱されていく。
パックと彼らの気高い戦いを、根本から否定された。
そしてなにより、全ての元凶は――
「……そんなの嘘だ」
「記憶を失うアナタに、わざわざこんな手の込んだ嘘を教える意味がないでしょう?」
「……嘘だ。嫌、やめてよ。嘘よ。そんなの嘘よ!」
「それになにより、こう見えて私は人の苦しむ姿を見るのが好きなのですよ。今、アリシア様に話した事が嘘の場合と真実の場合、どちらがよりアナタを苦しめるかを考えていただければ、自然と答えは見えてくると思いますが?」
「そんな……の、そんなのヒド過ぎるよ。だって、それじゃあ、みんながあれだけ必死になって、苦しんで、それでも生き残れるかもしれないって、ここから出られるかもって希望を持って、戦ってきたのが……馬鹿みたいじゃない……っ」
「ええ、実に見ていて面白い哀れな子共達でしたよ。この施設で行われた人体実験は全てアリシア様の為に調整、チューニングを重ねた物。普通の人間がそれと全く同じ物を受けて生きていられる訳が無いのですから。とは言え、彼らの予想外の頑張りはこちらにとっては嬉しい誤算でした。長い期間を過ごしたおかげで、アリシア様との親密度はかなり高くなっておりましたから、その死によって得られる刺激もまた、非常に大きな物になっていました」
「ふざけるなぁああああああああああああああああああああッ!!!」
純も夏美も亮も光子ちゃんも高チンも照もみんなみんな!!!
アリシアがいたから、アリシアが生まれてしまったから、アリシアに訳の分からない力があったから殺された。
これじゃあまるで本当に――
「――私のせいじゃない!」
「ええ、ですからさっきからその通りだと申し上げています。彼らがこんな所に連れてこられたのも、彼らが実験で苦しんだのも、彼らの両親が殺されたのも、彼らの死も、全てアリシア様、アナタのせいなのですよ。……ああ、でも良かったですね、“そんな罪も罪悪感も全部忘れる事ができる”んですから」
「ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!?!?!」
アリシアの感情が爆発した。
痛い苦しい死にたい全て壊したい何もかもが嫌だもうこんな世界全て消え去ってしまえばいい。
間違っている。
この世界は間違っている。
どうしてこんな理不尽が許されるのか、どうしてこんな残虐非道が許されるのか、どうしてこんな男が人間なのか、どうしてアリシアという罪人は生まれてきてしまったのか。こんな、存在しているだけで、無条件に他人を不幸にするような悪魔は、生まれてはいけなかったのだ。
それを六年間も何も知らずに笑って、あまつさえ幸せに生きていた事が恥ずかしい。
今すぐ死にたい。死んで全てを償えるとも思わないけれど、今こうして空気を吸って吐いている事自体が、アリシアがここで出会った大切な仲間に対する侮辱でしかない。
このまま記憶を失い、アリシアが自分の罪を忘れてしまう事が何よりも怖い。
忘れる前に、死なないといけないのだ。忘れる前に罰を受けなければいけないのだ。
逃れる事は決して許されない事なのだから。
熱い。苦しい。痛い痛い。胸が、頭が、張り裂けそうだ。
喉がちぎれそうになるほど泣き叫んでも、頭をどれだけ掻き毟っても、苦痛は終わらない。
これもアリシアという悪魔に与えられた罰なのかも知れない。
人間の皮をかぶった悪魔を焼く聖なる炎。
けれども、同時に救済を与えてしまう炎がアリシアの頭を焼き尽くす。
こんな悪魔に救済を与えてはいけないのに。
そんなアリシアの思いすら拒むかのように。罪を清算する機会すら、根こそぎ燃やし尽くす。
「アリ……シア。こんな……ヤツの言葉に、馬鹿正直に……耳を、貸すんじゃ、ねえ……よ」
そんな思考に陥っていたアリシアの耳に、大切な誰かの声が聞こえた。
「……パッ、ク…?」
「おや、パック様。目を覚まされましたか」
「……人のドテっ腹蹴っ飛ばしておいて、変わらず様呼び、かよ。……ブレないダンナのそういうとこ、嫌いじゃないぜ」
「……もったいないお褒めの言葉です。パック様」
苦しげにそうぼやくパックの顔には、それでも笑みが浮かんでいる。
パックはアリシアが自分を見つめている事に気が付くと、
「そんな顔、すんなって、俺のお姫様。かわいい顔がだいなし……だぞ」
「パック……私、わたし……はっ」
「おい、今の泣くとこじゃ……ねえだろ。ツッコミがいないと……ボケは、死んじまうんだぞ」
「……もうっ、パックのバカ! 人がマジメな話しようとしてるのに……」
「ああ、ごめん、悪かった。でも大丈夫だ、アリシア。あんな、ふざけた話。もし仮に本当だった所で、誰もお前を恨む訳……ない、だろ。そいつらの身勝手な責任転換、に。乗せられんな、よ。どう考えたって……アリシアは被害者で……悪党は……コイツら、じゃねえ、か。こんなの、頭のボケてきた俺ん家のジイさんでも……分かるわ」
そうやって、どんなに苦しい時でも笑うパックに、アリシアはどれだけ助けられてきただろう。
数えるのもバカバカしくなってくるくらい見てきたその笑顔に、このままだとアリシアはまた救われてしまう。
本当にいいのだろうか。
救われてしまっても。
こんな、存在そのものが不幸を呼び寄せてしまうような化け物が。
「アリシア、馬鹿なこと……考えんじゃ、ねえぞ。……確かにこの施設で行われてきた実験は、間違ってた。けど、お前は間違いなんかじゃない。お前が生まれてきた事は……お前が今日まで生きてきた事は、決して間違いなんかじゃない。クラスで六番目くらいに成績のいいこの俺が、……保障してやる」
「六番目って……なんか、あんまり説得力ないよー」
泣きながら笑うような顔のアリシアに、パックもつられたように笑った。
笑うだけで身体中に響くのか、パックの額を流れる冷や汗の量が尋常ではなかった。
「ははっ、俺らしい、だろ」
本当にいつものパックすぎて、あんなにも真剣に苦しんでいた自分が馬鹿みたいに思えてきた。
「うん。いつもの……パックだ。私が知っている、覚えている、パック。……私、わたっ、私は……」
「アリシア、自分を誇れよ。他人の為に記憶を捨てられるような人間なんて、お前くらいだ」
「……そんなに強くないよ。誇るなんてできない。だって……私、わたしっ、やっぱり忘れたくないッ! お父さんもお母さんも皆も、……パックの事を、忘れたくないよ!」
アリシアには自分とパックを隔てる薄壁一つを壊す事もできない。
少し前に進めば、そこにいるのに。
もう触れあう事も許されない。
もっと傍にいたい。もっと頭を撫でていてほしい。外の世界に出て、一緒にいろんなところに遊びに行きたい。遊園地に行って、一緒にジェットコースターに乗ったり、海にいって泳ぎを教えて貰ったり、暖かい原っぱにお弁当を持ってピクニックに出かけたい。そんな贅沢な事出来なくてもいい、ただ、もっとずっと隣にいたかった。
パックと共に歩んでいきたかった。
なのに、
アリシアはこの感情すらもすぐに忘れてしまうのだ。
それがどうしようもなく怖い。
「安心しろアリシア。俺の名前って……めずらしいからさ、一回会っただけのヤツにも、名前忘れられた事ないんだよ。俺とお前なんかこの三か月、毎日一緒にいたんだぜ? 嫌でも忘れられねえよ。……だから、大丈夫だ」
パックの言葉はいつだって皆の、そしてアリシアの支えだった。
どんなに苦しくてもどんなに辛くても、パックと一緒なら乗り越えられる。周りにそんな希望を抱かせる何かを、この少年は持っている。
今度もパックは救ってくれるのだろうか。
アリシアという少女を。
今にも消えゆく少女の事を。
「俺の事を絶対に思い出させてやるから」
たったそれだけの言葉が、アリシアの柔らかいところに触れた。
春風のように吹き抜けた暖かさが、アリシアの絶望を解きほぐしていく。
優しく、ふわりと撫でるように、アリシアの心の結び目を解いたのを感じた。
みっともないくらいに顔をぐしゃぐしゃにしてアリシアは泣き叫んだ。
悲しい。
忘れてしまうことがどうしようもなく悲しかった。
けれどパックが言ったのだ。
思い出させてやる、と。
その言葉があるだけで、もうアリシアは怖くはない。
記憶を喪失する恐怖と、戦う事ができる。
「盛り上がっているところ申し訳ありませんが、そろそろ『時間切れ』のようです」
不意に水を差すような声。
アリシアとパックの会話に割り込むようにして白衣の男はそう言った。
彼の視線はアリシアでもパックでも無く、スマホのような形をした電子機器の画面に落ちていた。
「さて、アリシア様。残念なお知らせですが――」
白衣の男はその目を悪意に鋭く輝かせながら、パックの髪の毛を掴む手に力を籠めると。
「パック様とはここでお別れです」
その左手に持った包丁の刃を、パックの首に軽く押し当てた。
薄っすらと皮膚の表面が切れて、赤い液体が首元をつつーっと伝う。
その光景に、アリシアの心臓は爆発するかと思った。
「やめて! パックには手を出さないで!!」
アリシアは迷わずパックに駆け寄ろうとする。
けれども結界がそれを阻む。
少しでも魔法陣の表面に触れた途端に結界表面に赤い輝きが走って、アリシアの身体に痺れが走り、後方に吹き飛ばされる。
尻餅を着き、それでもアリシアは諦めずに自分とパックを隔てる壁に突っ込んでいく。
何度も、何度でも。
「ふふ、ふはははっ! あはははははははは! そもそも集められた子ども達の中で、どうしてパック様だけが天界の箱庭出身だか分かりますか? パック様を連れてきた理由はただ一つ。それはね、私の為なんですよ」
白衣の男は声を上げて笑い、口の端から涎を垂らしながらアリシアの悪あがきを見て楽しんでいる。
「お恥ずかしながら私はパック様のお父上と顔見知りでしてね」
「……父さん、と?」
「ええ、何事にも熱心というか熱血というか、非常に立派な方でしてね。事ある毎に綺麗ごとを並べて、まるで正義感を着こんだような男でしたよ」
白衣の男は遠き日を思い出すかのように目を細め、口の端を緩めた。
そして次の瞬間、眼球が飛び出すのではないかという程、血走った目を見開いた。
「気に入らなかった! あの男の何もかもが。正義の面を被って私の全てを否定したあの男が! 憎かった、殺してやりたかった、その顔を絶望に歪めてやりたかった。……だから私はアナタを連れ出したのですよ、パック様。アナタを殺してあの男を絶望の底に叩き落としてやる為に」
残された少ない体力で何とか抜け出そうともがくパックの腹に、再び蹴りが飛ぶ。
アリシアを閉じ込める結界にパッっと血飛沫が飛んだ。
「都合の良い事に、パック様はお父上と違い神の能力者ではなかったのでね。捨て駒としての条件は満たしていたのですよ。まさか、最後まで残るとは思っていませんでした。そして何の力も宿していない人間が、最終日まで残れる訳もない。おそらくですがパック様にもアリシア様同様、何らかの神の力が眠っていたのでしょうね。何が眠っているかは開けて見ないと分からない、ビックリ箱状態ですが」
どちらにせよ、我々の計画には不要なのでここで殺しますがね、と白衣の男は笑った。
「アナタが何者かによって攫われ行方不明になったと聞いた時のあの男の顔、くくく……っ。アレはたまりませんでした。あんな風に絶望に歪んだあの男の顔を見られるとは……。アナタを殺してその死に様を写真にしてばら撒けば、さぞイイ顔を見せてくれるんでっしょうね。ふふ、ははっあははははははははははははは!!」
「狂ってる……狂ってるよ! そんな事が理由で、それだけの為に喜んで人を殺そうとするなんて、お前は狂ってる!」
「狂っている? 今に始まった事ですか。私はアナタのご両親を殺した男ですよ? 私が狂った殺人鬼だということはアナタが一番分かっているものだと思っていたのですが」
呻くパックの髪の毛を掴んだまま、白衣の男はアリシアの前まで歩み寄る。
目の前に殺したい程憎い相手がいるのに、アリシアの拳は届かない。
その口が視界いっぱいに真横に裂けて、アリシアを嘲笑う。
「何せアナタのお父上とお母上を、アナタの目の前で殺して差し上げたのですから」
アリシアの反応を見て楽しむようなその言葉に、場の空気が凍りついた。
いや、凍りついたようにアリシアが固まっていた。
表情を困惑に固めて、動揺しているのか瞳の焦点がふらふらと頼りなく揺れている。
そんなどこか驚きながらも困ったような顔で、アリシアは自分の頭に手をやった。
「あ、れ……。私のお母さんって、死んだんだっけ? あれ、おとうさんって――」
――誰だっけ?
「ははっ、あはははははははははははははははははははははははッ!! やはり来ましたか! 言ったでしょう、『時間切れ』だって」
アリシアの視界の外でパックがその目を見開いている。その顔に、いつも浮かべていた笑みはない。
アリシアは、何故目の前の男が笑っているのか分からない。
『時間切れ』? ……一体何の事だろう。
だってそんな人たちは知らない。『おかあさん』という人物も、『おとうさん』という人物も分からない。アリシアの知っている人物ではない事は確かだ。
では、
分からないのに、知らないのに、なぜこんなに苦しいんだろう?
まるで胸に風穴でも空いてしまったかのようで、そこから大切な何かが零れ落ちてしまったかのような喪失感だけがアリシアの中に棘として残った。
そしてアリシアは、そこまで思考を進めてようやく一つの違和感に気が付いた。
アリシアの頭を襲っていた燃えるような熱と痛みが綺麗さっぱり消えていた。
「……」
不意に、自分の頬を一筋の涙が伝っている事にアリシアは気が付いた。
悲しい? でも一体何が?
「?」
アリシアは小さく首を傾げて、
そしてアリシアは、自分が陥っている状況を再び思いだして、この痛みの消失が物語っている物が何なのか、なぜこんなにも喪失感がアリシアの胸の中に渦巻いているのかを正しく認識した。
自分の知らない単語。
その『おかあさん』と『おとうさん』は、
おそらく。
アリシアの大切な人達だったのだ、と。
記憶の喪失は、既に始まっていた。
「あ。ああ……うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!?!」
苦しい。もどかしい。分からない。思い出せない。だけど、この胸に空いてしまった大きな穴が、耐えきれないこの喪失感が、大切な人を記憶から失ったのだという一つの事実をアリシアに突き付けていた。
「あ、ああ……いやだ、いやだぁぁぁぁぁぁぁぁああああああっ!!」
喉を掻き毟る。髪の毛を引き千切り、喉を傷める勢いで叫ぶ。
額を床に打ち付け、自分の指を噛み千切ろうとする。
行場の無い喪失感への悲しみと、記憶を失う感覚への恐怖を、何かにぶつけなければ壊れてしまいそうだった。
いや、もうすでにアリシアは壊れてしまったのかもしれない。
そう思える程に血まみれになりながら、アリシアは自分を傷つけ続ける。
「『天智の書』による記憶の捕食が始まりました。アリシア様、アナタの記憶はおそらくあと五分程度で食い尽くされるでしょう。最後のひと時をお楽しみください」
「落ち着け、アリシア。……呑まれるな。自分を強く持て! 俺が付いてるから!」
パックの声も、もう届かない。
だって、だって、こんなのやっぱり耐えられる訳がない。きっとアリシアはこのまま誰を忘れてしまったのかも分からないまま、身を切るような喪失感だけを蓄積させていくのだ。
そんなの無理だ。
きっとどこかで壊れてしまう。
アリシアはその綺麗な顔を涙と涎と鼻水で汚しながら叫ぶ。
「無理だよ! 純も夏美も亮も光子ちゃんも高チンも照もみんな、みんな! 忘れちゃう! そんなの……そんなの――」
☆ ☆ ☆ ☆
その時パックは、何かを言いかけていたアリシアの口が半ば開いたまま固まってしまったのを見ていた。
何か言葉を発しようとし、発音するための口の形を脳みその指令によって作り出し、言葉を口に出そうとしたその瞬間、何を言おうとしていたのか忘れてしまったかのような、そんな光景。
「――あ……れ、私。なんで……何をこんなに叫んでいるんだっけ?」
あれだけ泣き叫び、顔中を涙と涎と鼻水でぐちゃぐちゃにしていたアリシアが、口を半開きにしたままポカンとした表情を浮かべている。
事情を知らない人間が一秒前と一秒後のアリシアの違いを目にしたら、不審に思うに違いない。
そのくらいに場違いで、かなりの衝撃を伴う光景だった。
アリシアの戸惑うような言葉に、パックは自分の表情がこわばっているのを理解した。
予想外の展開に驚きを隠せないわけではない。
むしろ逆だ。
これは分かっていた事だ。想定の範囲内だ。
アリシアがこうなった時にこそ、自分が力になるとも決めた。
でも、それでも。
「アリシア……、お前。純と夏美って誰だか分かるか?」
これだけは聞いておかなければならなかった。
「え?」
対するアリシアは場違いにもポカンとしたままだ。
そして、パックが一番聞きたくなかった予想通りの言葉が、アリシアの口から飛び出してきた。
「それって、私の知ってる人?」
キョトンとした顔をしながら首を傾げてそう言ったアリシアの頬を、また理由の分からぬ涙が流れていた。
アリシアの心を、想いを、そして記憶を、天智の書はことごとく冒涜していく。
人間としての尊厳など何もない、無慈悲に、ただ作業か何かのように記憶を感情ごとゴッソリと抜き取っていく。
アリシアという少女が、空っぽの抜け殻のようになっていく。
目の前の少女から少ずつ命の輝きが失われていくような、そんな錯覚をパックは覚えた。
決して小さくない絶望が広がる中、パックの耳に耳障りな音が届いた。
「これはこれは、実に哀れ! 自分が何に悲しんでいたのかさえ忘れてしまうとは、……その様子ではあれだけ苦しんでいた自分の罪についても忘れてしまったようですね。よかったではありませんか。罪悪感から解放されて」
「テメェッ! ……あんまり調子に、乗んなよ!」
頭が爆発するかと思った。
パックの中で押さえつけられていた殺意が、怒りが、白衣の男の言葉を起爆剤にして爆発する。
己の無力さへの怒り、家族と仲間を次々と殺していった白衣の男への怒り、こんな理不尽な横暴がまかり通ってしまう、残酷さと血みどろな非道を許容してしまう世界への怒り。
さまざまな理由の怒りがパックの奥底から湧き上がり、たった一つの殺意へ燃え広がっていく。
そもそも、全ての原因を造り出した男の一人に。
「……だぁッ!」
「な……!」
身体を強引に捻り白衣の男の腹へ蹴りを加える、不意打ちによって緩んだ拘束からパックは抜け出す事に成功する。
怒りに我を忘れたパックの拳が、白衣の男の顔面目掛けて飛ぶ。
いつもその顔に浮かべている笑顔は見る影も無く、パックの顔は般若のように怒り狂っている。
相手が刃物を持っているとか、自分より大きな大人だとか、そんなものは関係なかった。
ここでただ黙っているだけなら、自分に彼女の英雄を名乗る資格など無い。
それに何より、目の前のこの男だけは、許すことが出来なかった。
生まれて初めて放つ殺意の拳。
それは白衣の男の顔面に吸い込まれるように風を切り――
「――無駄ですよ。パック様」
その一言と共に、パックの右腕が関節のところから切り落とされた。
切り口から壊れたシャワーのように噴き出す鮮血が、白衣の男を真っ赤に染めあげた。
☆ ☆ ☆ ☆
アリシアの目の前、白衣の男は自分の白衣に赤の斑模様を浮かべて、薄く笑っていた。
それは奇しくも、アリシアが初めて白衣の男に会った時と同じような格好だった。とは言え、今のアリシアにはそんな事は分からない。
ただ目の前、空中で回転するパックの腕と、
「がぁああっ!? うがァ……ッァァあああああああああああああああああああああ!!!」
パックの絶叫がアリシアの脳裏にこびりついていた。
「パック!? パックぅぅぅぅぅぅ!!」
「すぐには殺しませんよ。アナタはバラバラに捌いて、パーツごとの写真をあの男に送ってやるのですから」
「やめて! お願い! お願いだからもうやめてよ! パックが死んじゃう!」
「アリシア様の記憶が消滅するのとパック様の命が尽き果てるのとどちらが先か、一つ賭け事といきましょう!」
狂気に満ちた声と少女の慟哭が部屋中を支配する。
何度も何度も凶刃が振るわれ、その度に赤が迸る。
小部屋の中にむせかえるような血臭が充満し、アリシアの視界いっぱいに真っ赤な血霧が広がる。
アリシアがどれだけ叫んでも白衣の男の暴虐は止まらない。
耳を、指を、手首を、顔の皮膚を、くるぶしを、足の親指を、まるで順番でもつけているかのように小さな部位から次々に破壊していく。
包丁が振るわれるたびに聞こえるパックの悲痛な叫びが、アリシアの精神をがりがりと、目の粗いやすりをかけるように削っていく。
「やめてよ……本当に死んじゃうよ。なんで、なんでこんな酷い事ができるの? おかしいよ。こんなの絶対に間違ってる」
さまざまな理不尽があった。
親を目の前で殺され、拉致されて、実験動物として人以下のゴミのような生活を送ってきた。
拷問のような実験に耐えて耐えて、それでも最後は家族同然の友達を失う事が最初から仕組まれてた事を聞かされ自分自身の存在に絶望もした。
そんな辛い経験を乗り越え、仲間を失った痛みにも耐えて、心も身体もボロボロになりながら、それでもなんとか、ここで大切な仲間に出会えた事に意味を見出す事ができた。
それなのに、この辛く苦しい生活の中でようやく手にすることが出来た暖かい記憶すらも、奪われる。パックを助ける為に自分が天智の書と契約を結ぶ、そう決意したアリシアの末路は記憶の喪失。
そうまでしてでもアリシアはパックという存在を助けたかったのだ。
それなのに、
アリシアという存在の証明をかなぐり捨ててまで助けたそのパックが、半ば記憶を失いつつあるアリシアの目の前で殺されようとしている。
そんな事が許されていいのだろうか。
アリシアの全てを捨ててまで助けたパックが、このクソッタレな人生の中で最後に掴んだと思っていた希望が、今目の前で壊されている。
このまま白衣の男の思惑通りに事が進めばパックは死ぬ。
白衣の男の手によって見るも無惨な、ネットニュースのトップでも飾れるような温度の無い死体に変わってしまう。
アリシアの行動も、パックの行動も、全てが。全部が全部ひっくるめて全て黒幕の掌の上。
今からどんなに足掻いたところで、予定調和の必要すらない程度のささやかな抵抗なのかもしれない。
結果は既に覆せないところまで来ていて、抗う事に意味なんてないのかもしれない。
でも、それでも。
一矢報いずにはいられない。
たとえ全てがどこかのだれかの想定内だったとしても、目の前で苦しみ今にも死のうとしている大切な人を、見捨てたくない。
「まだ、よ」
まだ、こんなところで負けられない。
一センチでもいい、傍から見たら何も意味なんて無いように見えるのかもしれない。
それでも、少しでも前に進んで、一ミリでも前に這いずって、全ての黒幕に欠片のような泥を付けて終わりたい。
そうでもしないとアリシアという少女の歩んできた六年間が、何の意味も無いものになってしまうから。
「まだ、終われない!」
☆ ☆ ☆ ☆
「なに?」
何か悪寒のような物でも感じたのか白衣の男は背中をぶるりと震わせると、包丁を振り下ろす手を止めた。
白衣の男の足元に転がっているパックは既に虫の息で、まだ生きているのが不思議なくらいな惨状だった。
それでも生きている。
生きていてくれてる。
そう思うとアリシアの身体に力が漲ってくるのを感じた。
「アリシア様、アナタ一体……何をしているのですっ!?」
白衣の男の目が驚愕に見開かれる。
白衣の男にとって予定外の事態が、進行していた。
精神を統一するように目を閉じ、額に大量の汗を溜めているアリシア、ではない。
結界を構成する魔法陣が、一枚、また一枚と、少しずつ引きはがされていく。
いや、そうじゃない。
結界内と外とを繋ぐ『扉』の出現にあたり、進路上の邪魔な魔法陣が外側に押しのけられるようにして、少しずつ乖離していく。
「ば、馬鹿な! その結界はシーカー様自ら造り上げられた特別製だぞ!?」
白衣の男が目を剥いて何かを叫んでいる。
だけれど極度の集中状態にあるアリシアには届かない。
『扉』の出現は当然ただの自然現象なんかではない、アリシアが人為的に起こしている現象だ。
アリシアは天智の書に記憶を食われる間、一つの感覚を得ていた。
(眠っていた力が外に出たがっている。正しい知識を得れる今、この力を恐れる道理も、後生大事に封印しておく理由も何もない! パックを助ける為に、私はこの力を扱いきってみせる!)
すなわち神の力の覚醒。
天智の書との契約によって、アリシアは自分の記憶を天智の書に提供している。自分の記憶が一つ失われるたびに、自分に宿っている力の意味が、使い方が、情報として代価のように天智の書から与えられるのだ。
今この時も、アリシアの記憶は確実に天智の書に食われ続けている。
パックを忘れてしまうのも時間の問題かもしれない、けれども、最後に少しだけ。
ほんの少しでいい。パックと話がしたい。
パックに伝えなければいけない言葉があるのだ。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
記憶を失う代価として得たこの力。
それで最後にパックと話ができるのなら、それだけでアリシアは救われる。
生きていてよかったのだと、胸を張ってそう語る事ができる。
「まさか、そんな訳が……これを壊せる訳がない!」
ミシリとどこか不吉な、建物が軋むような音が結界から聞こえた。
一度起こったそれは徐々に頻度と音の大きさを拡大させ、やがて後戻りのできない大きな破砕音となる。
パリン――ッ、というガラスが砕けるような音が響いた。
結界を貫通するように『扉』が、不可視の円筒状の通路が形成され、結界が崩壊する。
粉々に砕け散る魔法陣の集合体が、アリシアとパックの間を挟んでいた薄壁が取り壊された瞬間だった。
「パック!」
鳥籠から解放されたアリシアは狼狽する白衣の男を無視してパックのもとへ駆け寄ろうとして――
――その場で膝から崩れ落ちてしまう。
「あ、れ……」
おかしいな、という声も出なかった。
身体がおかしい。
アリシアの身体中の関節や骨、筋肉、細胞が、全身が軋みをあげる。
身体中の力が完全に抜けてしまっていて、立ち上がる事もままならない。
疲労感なんて生易しい物じゃない。
生命力そのものを根こそぎ持って行かれたような感覚を覚えた。
アリシアの身体が神の力の使用に耐えきれていないのだ。
完全ではないとは言え、天智の書から知識を借りていてこのザマだ。
「パッ……ク」
それでも、アリシアは這うようにしてパックの元へと向かう。
苦しい。
心臓がマラソンを走り切った後みたいに脈打っている。
味噌っかすみたいな体力をさらに絞りつくし、アリシアは進む。
ゆっくりと、少しずつ、でも確かに前へと。
「パッ……ク。わた、し。……私ね、パックに言いたい事が……あるの」
アリシアの想い。
結局一度もきちんと言葉にしたことの無かったこの気持ちを、これまでなあなあで済ませていた物を、最後だからこそ伝えなければならない。
自分の気持ちにケリを着ける。
結末も見れないままアリシアという存在が終焉を迎えるのだけは嫌だった。
きっとパックも気が付いているだろうこの気持ちをわざわざ言葉にするのは気恥ずかしい。
でも、気恥ずかしくても、言葉という一つの形として出力しなければ、アリシアの想いは永遠に暗く深い海の底だ。
だから伝える。
言葉で、この胸を締め付ける思いを。
「結局……最後まで、なかなか言い出せなくて、……さ。こんな事に、なっちゃったけど……それでも、私は、言わなきゃ、ならないの」
自分の身体を引きずり、血に塗れた床を這いまわる。
身体に染み込むドロリとした気持ちの悪い血の感触も、神の力使用の反動でまともに触覚すら働かない今のアリシアには気もならない物だった。
アリシアは懸命に、それこそ命の残機を振り絞ってボロボロの掌で床を掴む。
パックまであと三メートルもない。
「パック、私……私、ね」
アリシアの指先がパックに触れる。
微かに動いているパックの、まだ残っている指に自分の指を絡める。
それでようやく、本当ににゆっくりとした挙動でパックがアリシアの方へ振り向いた。
パックの瞳は力なく半分程閉じられ、今にも目蓋が落ちてしまいそうだった。
腕の切断面からは容赦なく血が流れ、それ以外の傷も致命的。
意識が朦朧になっているらしく、パックの反応は鈍い。
それでもアリシアの方へ必死に向き直り、死ぬほど苦しいハズなのにその顔に笑みを浮かべる少年は間違いなくパックだ。
アリシアの大切な人だ。
「ア、リ……シア。か。よかった……俺の、事が。……分かるんだ、な」
「ええ、分かる。分かるよ、パック」
そうか、と絞り出すように答えたパックの息は驚くほどに浅かった。
やはり腕からの出血が多すぎたのだろう。
パックの命も、もう。そう長くはない。
何とか最後の力を振り絞り、見つめ合うような形になった。
正面からパックの顔を見るのもこれが最後かと思うと、とても悲しい。
アリシアは瞳から零れそうになる涙を必死になって堪えようとして――失敗した。
最後くらい綺麗な笑顔でいたかったのに、人の心という奴は等の本人にも操ることはできはしない。
アリシアは大きく息を吸い込み、満面の笑顔と溢れる涙で顔をぐちゃぐちゃに濡らしながら言う。
「あのね、パック。私は、アナタの事を世界の誰よりも――」
その想いを、形にする。
もう二度と会えない、年上の男の子へ。
悔いのないように、決してアリシアという存在が無意味じゃ無かったと証明する為に。
既に出ていた答えを――
「――あい――……
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………真っ赤な血飛沫と………の胸を貫く包丁が、ががががが―――――――――――――――――――――ざざッ、……ざざ……ざ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――全てが途絶した――
☆ ☆ ☆ ☆
目を覚ました“白髪の少女”が一番最初にこの世で見た光景は、胸を包丁で貫かれた金髪の少年の死に顔だった。
この場合の一番最初に、と言うのはこの世に生まれて初めて、という意味だ。
事実上一番最初に脳みそに蓄積された記憶である。
「……」
しかもどういう訳だか分からないが、自分の指とその死体の指が絡み合っている事に気が付いた。
少し少女は考え、ゆっくりとその指を解いていく。
その後、少女は顔中に不快感を感じ、解いたばかりの指で己の顔を拭う。
何やら大量の血が付着しているらしい。
疑問を感じながらもそれら全てを指で拭っていく。
その作業は顔の不快感が取り払われるまで続いた。
「はは……、ふははははははははははははっははははははははははっはははッ! 最高だ! 最高ですよ、本当に! 結局、全部無駄だったのですから。あの男の息子にふさわしい末路でしたよ」
次に気になったのは不快な耳に付く笑い声だった。
少女は声の主の方を向き、何か喉の調子を確かめるように、生まれて初めて声をだした。
「おい、そこのお主」
声に、返り血塗れになっている白衣の男が振り向いた。
その顔には柔和な笑みが張り付いている。
敵意は感じられない笑顔だった。
「これはなんなのだ?」
そう言って少女が指差したのは目の前で死んでいる少年だ。
目を開けていきなり目の前に、胸を包丁で貫かれた死体があったら誰でも気になるだろう。
当然だ。
だから質問した。
これはなんだ、と。
その質問に白衣の男はなぜか嬉しそうに笑ってから、うやうやしく跪くと、
「は、これはアナタ様を襲った賊でございます。不肖ながら私めが先んじて駆除しておきました」
「この男が私を狙ったのか?」
「ええ、そうです。その通りでございます」
「ふむ……そうだったのか」
状況は全くもって分からないが、目の前の男が自分に対して敵意を持っていないどころか、好意に近い物を持っているようだという事も分かった。
とりあえず目の前の白衣の男に色々と尋ねてみる事にした。
「私は……誰なのだ?」
「は、アナタ様こそが神門審判を宿した我らが『巫女』、アリシア様でございます」
「お主は誰なのだ?」
「アリシア様の僕でございます」
「私は何でこんなところにいる?」
「我らの主の為です」
「主? 私には主がいるのか?」
「はい」
「主とは、一体誰なのだ?」
少女――アリシアという名前を持つらしい少女の問いに、白衣の男はゆっくりとした口調で答える。
「我らの主はシーカー様。あのお方は……神を模倣する者です」
その白衣の男の言葉に、「ふむ、そうなのか」などと欠片も興味なさげに答える空っぽの少女。
澄んだ碧い瞳は、死体になってしまった少年の姿を映し出していた。
飽きる事も無く、いつまでもいつまでも、真っ白な少女はその視線をもう動かない金髪の少年へと送り続けた。




