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神ナリシ模倣者ト神門審判  作者: 高木カズマ
第六章 破 三大都市対抗戦・下
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第五十九話 命儚き恋せよ戦乙女Ⅳ――墜ちるは英雄、眩い愛は翼を焼きて:count 1

「さて」


 アンティークな肘掛に腰掛け頬杖を突く男が、何の前触れもなくそう呟いた。


 座っている為分かりにくいが、身長は一九〇を越えるだろう。死灰を思わせる髪は、その男の途方もなく長い道のりを思わせるかのごとくボロボロに傷つき痛んでいる。しかし不思議と薄汚さなどは感じない。歴史ある古代遺跡や太古の化石を目の前にした時のような神秘と畏敬の念を見る者に印象付ける。

 そんな月日の流れを感じる長髪とは対称的な瑞々しさを誇る生気に満ち溢れた白い肌とその美しい顔立ちは、誰がどう見ても二〇代前半にしか思えない。

 優雅でいてどこか退廃的。老いと若さを一緒くたに詰め込んだような、咲き誇る若さのエネルギーと老獪な色気。

 男はその身に内包する矛盾した魅力の妖しい輝きでもって、その場にいるだけで世界を侵食していた。


 無限に連なるようにどこまでも続く蝋燭の光りが、開いた男の瞼の奥。老艶でいて瑞々しい輝きを灯す瞳を照らし出す。

 

「――白衣の」

「お呼びでしょうか、シーカー様」


 見る者によってその輝きを変えると言われるシーカーの瞳が、いかにも凡庸そうな見た目をした柔和な笑みを浮かべた男、『白衣の男』の姿を映し出す。

 主君の声に応じてすぐさま傍に馳せた従順な部下に満足げに頷き、シーカーは手の中のクイーンを弄びながら、


「『時の牢獄』がもう間もなく開く。盤上に再び『厄災の贈り物(パンドラ)』が降り立つ前に、こちらも全てを終わらせるとしよう。差し当たって……そろそろ君にも出て貰おうか。コルライ=アクレピオス」

「……分かっておりますとも、シーカー殿。この老骨めが御身のお役に立つのならば、いくらでもお力添えいたそうではないか。それに、最近は若いモンに任せっきりで儂もすっかり座りっぱなしでのぅ。いい加減腰に来ておったのだ。丁度気分転換に外出したいと思っていた所ゆえ、実に都合が良い」


 再びシーカーの声に応え唐突に姿を現した線の細い禿髪の老人が、老獪な笑い声をあげる。

 弱い七〇後半に達するであろうその老人は、しかしその見た目に反して弱々しさなど一切感じさせない悍ましい死の気配を纏っていた。


「クライム=ロットハートに一任した例の件についてだが……ここまでは予定通り、順調に進んでいる。君達二人には用意した例の『神器』と共にこのままオリンピアシスに向かって貰いたい」

「シーカー様はいかがいたしますか」

「私はもうしばらくは事態の趨勢を見守る傍観者に徹するとしよう。あまりに早く出てしまっては終焉が確定してしまう。それでは実につまらないだろう?」 

「シーカー殿は随分と余裕がおありのようだのぅ。儂のような凡愚ではどうしても趨勢が決するなら早いに越したことはないだろう、などと考えてしまうが……いやはや、流石は『特異体』よのぅ。見ている景色が儂らとは根本的に違いますなぁ」

「ははは、手厳しいな我が同志よ。……しかし、こればかりは性分なのだよ。以前にも言ったが、人類も世界もあまりに脆弱だ。私は彼らを侮らないが――同時に個々の存在は取るに足らない塵芥でしかない事は否定できない事実であると考えている。だからこそ、勝利の決まった盤面以外に顔を出してしまうような無粋は避けたい。それでこそ、万全を期して力を振るえるというもの」

「……それではまるで、自らの計画が打ち砕かれる事を望むような言い草に聞こえますぞ。シーカー殿」

「そうだな。実際、私は望んでいるのだろう。私は知りたいのだ。全ての答えを。私が私である意味を。訪れるはずのない敗北という未知を、どこまでも探している――」

「……?」

「シーカー様、そろそろ……」


 耳元で囁くような忠言にシーカーは話を中断して頷いた。


「……そうだったな。済まない、つい話し込んでしまった。……あまり時間もない事だ。早速君達にはクライム=ロットハートのサポートへ向かって貰うとしよう。折角の乱奇知騒ぎ(パーティー)だ。私はともかく、君達まで遅参ではつまらない。傍観者故の勝手な主張で心苦しいが、この手の宴は役者が揃っているに越したことはないだろう。私の代わりに存分に場を盛り上げてくれたまえ」


 ――長かった此度の宴ももう間もなく終焉。

 最愛の子供達よ。各々大いに騒ぎ、歌い、踊ったか? 日々の成果を如何なく発揮し、涙と汗を流して戦い、友情を育み、好敵手と火花を散らし、絆を掲げて勝利に吠えたか? 敗北に拳を握り、再起に心の裡を燃え上がらせたか?

 楽しんで貰えたのならば大いに結構。こちらとしても、君達の喜びは大いに喜ばしい。


 しかしてそれはまだ序曲。

 せいぜいが神へと捧げる宴の席を彩る飾り付けに過ぎない。


 故に、ここからが終曲にして大本命。演目はついに最後の仕上げ(ラストスパート)としゃれ込み、世界に一つの終焉を齎すこの宴に幕を引こう。

 贄は演者の諸君ら自身。

 神へ捧げる最上の供物として、諸君らのあげる喜怒哀楽と阿鼻叫喚。傍観の席より楽しませて貰おうではないか。


「――『神門審判』はもうすぐそこだ。あぁ、私は私の〝答え〟にもうすぐ辿り着く。長かった探求の旅路もついに――」


 ――裁定下りし終焉の日。男が問い続けたその問いに答えが齎される日は、近い。



☆ ☆ ☆ ☆



 自身に周囲の空気を『貼り付け(ペースト)』した九ノ瀬和葉は、AEGスタジアムの通路を死ぬ気で走りながらもほっと安堵の吐息を漏らしていた。


「なんなのよあの怪物は……! もう嫌よ。ほんとうに無理……し、心臓が止まるかと思ったわ……ッ!」


 氷道真の視界から逃れるだけではあの化け物の操る悍ましい冷気からは逃れられない気がした和葉の咄嗟の思いつき。それが功を奏した。

 和葉は氷道が冷やした周囲の空気を己に『貼り付け(ペースト)』して温度を合せ、空気に溶け込むように擬態。

 結果、常に心臓を鷲掴みにされているようなあの独特の緊張感から解放されたのを見るに、どうやら正しい判断だったらしい。とはいえ、確信や勝算があったワケではない。

 それっぽい理屈なんてなかった。指先一つ動かすだけで人間を凍てつかせる怪物から逃げるため、無我夢中に出来る事をしただけだ。

 つまる所、九ノ瀬和葉は運が良かったのだろう。それも、不幸中の幸いという枠の中での話にはなるが。


 手で触れることもせずに遠方をピンポイントで凍てつかせていたあの神の子供達(ゴッドチルドレン)は、おそらくは温度で大まかな狙いをつけていたのだ。

 和葉は一時的に体温を周囲の気温と同化させたため、彼の照準からうまく外れる事が出来た。


 一先ずは、氷道真という極大の脅威から逃れる事が出来たと考えて良さそうだ。


 だが、氷道真から逃げ切ってそれでめでたしめでたしハッピーエンド、という訳にはいかない。

 むしろ九ノ瀬和葉の本当の戦いは此処から始まると言えるだろう。いつゼロを指し示すかも分からない時間との戦いは、既に残り何秒かも分からない秒読みを開始しているのだから。


「気合を入れなさい、九ノ瀬和葉ッ、ここが正念場よ……!」


 自身の頬を挟み込むように平手で打ち気合を注入。ひりひりとするその感触に急かされるように、和葉は必死で足を前に前にと進めながら、己の置かれた状況を再確認する。


 ――クライム=ロットハートの目論みを阻止する為、東条勇麻と天風楓の試合を止めべく単独で動いていた九ノ瀬和葉は神の子供達(ゴッドチルドレン)の一人である氷道真の襲撃を受けた。

 元より戦闘向きではない和葉に、『絶氷』などと呼ばれ畏れられる最強の一角を相手にする事など出来る訳もない。――終わった、と。現実に追いつきもしない認識を超越した本能的な部分で、和葉は確かにそう確信した。

 しかし、そんな和葉の絶体絶命のピンチを救ったのは、妹の天風楓の為に和葉達と行動を共にしている野良の神の能力者(ゴッドスキラー)天風駆と、その鋭い野生の勘で重要な局面を嗅ぎ取った泉修斗の二人だった。

 氷道の襲撃を受けている間に勇麻と楓の試合も始まってしまい、作戦の失敗を突き付けられた和葉。

 だが、まだクライム=ロットハートの目論見が達成された訳ではない。敗北が付きつけられていないのならば……否、例え決定的な敗北が訪れようとも自身の負けを認め心が折れない限り人はどこまでも戦える事を和葉はその身をもって知っていた。

 駆の激励に背中を押され、和葉は諦める事無く逆転の一手を打つべく運動音痴な身体に鞭打ちスタジアムを駆け回る。


 目的は、ただ一つ。

 

「まず、東条くんと天風楓を止める算段をつける。……私が試合に乱入しても構わないけれど、相手はあのクライム=ロットハートだもの。多分、入場口付近には氷道真同様何らかの障害を用意している筈。となると、私一人じゃ到底無理……!」


 東条勇麻を救うため。

 いつか救われた借りを返すとか、そういう話ではない。ただ九ノ瀬和葉がそうしたいと思うからこその行動であった。

 その為には、モニターに映る二人の戦いをどうにかして止めて未だ全貌の見えないクライム=ロットハートの企みを阻止しなければならない。


 自分達だけでは氷道真を突破できない、故に増援を呼べと駆は言った。額面通りに受け取れば、駆と泉が氷道真と戦っている北側のゲートへ援軍を送るべきなのだろう。

 しかし駆はあの時こうも言った。


『――あとは言わずとも分かるだろう、九ノ瀬和葉。この状況を打開する為の一手を、君が打て……!』


 ……と。

 そして、天風駆は『突破する事は出来ない』とは言ったが『敗北する』とは一言も言わなかった。

 ならば、状況を打開すべく和葉が取るべき行動は……。


「氷道真のいる北側のゲートは捨てる。天風くんと泉修斗がアレを足止めをしている間に、ある程度戦力を揃えて南ゲートを突破、試合を力づくで止める。今の私に打てる手は、これしかないわ……!」

 

 AEGスタジアムには東西南北それぞれに入場ゲートが存在する。対抗戦期間中は各都市ごとがそれぞれ使用していたため、南側を除く三か所が使用されていた。しかし、武闘大会で使用されるゲートは南北二か所のみ、残りのゲートには警備の関係上、分厚い隔壁が下ろされているハズだ。

 和葉の神の力(ゴッドスキル)でちまちま壊す事も可能だが、どれだけ分厚さがあるか分からず、時間がどれだけ掛かるかも分からない。迅速に試合を止めなければならない状況下で、悠長に選んでいいルートではなかった。

 そうなると、南北どちらかから突破を図るよりほかない。神の子供達(ゴッドチルドレン)の氷道真がいる北側は真っ先に捨てるべき。となると消去法で南側から攻めるべきだという結論になる。

 生生と竹下悟には既に通信で状況を伝えてある。二人は和葉からの報告を受け、残りの逃亡者の集い旗(エスケイプ・フラッグ)の面々に招集を掛けてくれている。

 未知の楽園(アンノウンエデン)の再建に追われている今のクリアスティーナには無駄な心配を掛けたくないと(報酬を二人で独占したい欲もあって)自分達だけで動いていたインドア派二人ではあったが状況が状況だ。

 クライム=ロットハート達にこちらの存在と動きを完璧に捕捉された事もあり、最早コソコソと少数精鋭で動く意味もなくなった今、出し惜しみをする理由もない。 


 客席で試合を観戦しているメンバーも何人かいるようで、最悪の場合は彼等が内側より客席を守る結界を破って石舞台リングへ突入する事になるだろう。

 ようやく日の目を見れた逃亡者の集い旗(エスケイプ・フラッグ)に再び汚名を被せる羽目になるのは心苦しく、また無関係な一般人をも巻き込む暴動へと発展しかねない為、出来るだけ和葉たちでケリを付けたいところだった。

 ……甘い、と言われるかも知れない。かつての和葉ならば、成功率の高い方を迷わず選ぶ事が出来たかも知れない。

 だが、結果の為だけに他の全てを不要と切り捨て犠牲にできるだけの合理性は、今の九ノ瀬和葉にはもう残されていなかった。失った冷たい理屈と引き換えに、この胸は温かな感情で満たされている。その事が、和葉は何だか誇らしい。


 痛みという名の救難信号をあげる脇腹を無視しながら、指定した合流場所へと急ぐ和葉。

 その和葉の足を、鎖の擦れる不快な音が止めた。


「――ッ!?」


 命の危機を前に研ぎ澄まされ敏感になっていた感覚器官がその音を捉えるや否や、和葉は己の右手に『保存コピー』した冷気を破棄。すぐさま手近な壁に右手を当てて早業で壁の情報を『保存コピー』する。

 入れ替わるように、冷気を貼り付ける前の自身の情報を保存してある左手を壁に当て『九ノ瀬和葉』の情報を『貼り付け(ペースト)』、強引な上書きを決行。

 上書き前と上書き後の世界の差異による違和感を消す作業を行わず、意図的に矛盾を引き起こす。

 すると、和葉がその手で触れる壁は崩壊。生じた子供一人がやっと通れそうな穴に身体を丸めて潜り込み、右手に『保存コピー』しておいた壁の情報をもう一度『貼り付け(ペースト)』。穴を塞いで一瞬で壁の中に身を隠す。

 人差し指の爪先で覗き穴を作り、恐る恐る外の様子を窺っていると、ジャラジャラと引き摺られぶつかりあう鎖の奏でる不協和音と共に一人の男が視界に飛び込んできて和葉は自分の不運を呪った。


 くすんだ色をした背中に掛かる長さの金髪。華奢な身体を猫背に丸め、不健康そうな顔色をしている。

 若くはあるのだが、どうにも不健康に見えるのは、陽の光を好まない陰湿な色白さと、耳や鼻を含めた顔をピアスだらけにしているのも大きいだろう。

 首からは多量のチェーンやネックレスをぶら下げ、けばけばとした警戒色のようなチャラチャラしたTシャツに身を包む、悪意の塊のような男がそこにはいた。


 男――クライム=ロットハートは右手でボロ雑巾のような何かを引き摺りながら歩いていた。隈の浮かぶ不健康そうな瞳を心の底から愉しそうに細めて愉悦に浸っている。


「んだよー、つっまんねえの。こっちの方から確かに人間チャンの声が聞えた気がしたんだけどなー。誰もいないじゃん、外れチャンかよ~」


 舐めまわすように周囲を眺めるクライムと一瞬目が合った気がして、和葉の心臓が一際大きく跳ねる。

 心臓の音がうるさい。息を止め、気配を殺し、壁の中にいるというのに響き渡る鼓動が全て相手に筒抜けであるかのような錯覚に襲われて、脂汗が止まらない。

 最悪だ。よりにもよって最悪のタイミングで今回の事件の首謀者に出会ってしまった。

 氷道真といいクライム=ロットハートといい、ひょっとして呪われているのではないかと思う程に今日の和葉はツイていない。

 せめて最初に遭遇したのが氷道真でなくこの男であれば、遅れて駆けつけた天風駆と泉修斗の二人掛かりでクライム=ロットハートを撃破する事だってもしかすると可能だったかも知れないのに……!


 そんな考えるだけ無駄なもしもの可能性に悔しげに奥歯を噛み締める和葉。

 今すぐこの場を離れたいが、焦って下手を打ちクライムに見つかってしまうような展開になれば目も当てられない。和葉を逃がして足止めに徹してくれている二人の頑張りが全て無駄になってしまうような軽率な行為は死んでも出来ない。

 こういう時こそ一旦冷静になって、情報収集に努めよう。和葉はどうにか折り合いをつけてそう割り切ると、再び意識を覗き穴に向けて、


「あー、重かった」

「……っ!?」


 思わず悲鳴を上げかけた口を、必死に塞ぐ羽目になった。


 右手でボロ雑巾のように引き摺っていたモノをクライムが放り投げた途端、瞳にはっきりと映ってしまったソレの正体に、和葉は激しく動揺した。

 それは、粗大ごみでもボロ雑巾でもなく人間だった。衣服はズタボロに裂けて破れ、露出した肌も赤黒い血に塗れ遠目にはよく分からなかったが間違いない。クライム=ロットハートがボロ雑巾のように床を引き摺りながら歩いていたのは女の子だ。


 見知った顔だった。対抗戦になんて興味もない癖に、自分と同じ都市の代表で同年代の女子であったが為に、名前まで覚えてしまった対抗戦の出場選手。

 シャラクティ=オリレインが、変わり果てた姿でそこにいた。


 シャラクティは、右目を隠すような左右非対称の美しい紺色の髪を乱雑に引っ張られて床を引き摺られ、ここまで連れてこられたというのに、悲鳴一つあげようとしない。

 放心状態であるかのように見開かれた左の瞳は焦点が定まらずに曖昧で、ここではないどこか別の世界を映し出しているかのよう。中途半端に開け放たれた口元からは涎と血が流れ、額から流れる己の血でボロボロに汚れた頬に残る二条の涙の軌跡が、あまりにも痛々しく見ていられなかった。 

 浅く上下する胸を見るに息はまだあるようだが、無事であるとはとても言えない酷い状態だった。


「もうコレいらねえっしょ。右目に神の力(ゴッドスキル)とか、俺チャンと若干キャラ被ってる時点で腹立つし、ぶっちゃけ飽きたわ。コイツ」


 壊れてしまった玩具に八つ当たりするように、力無く転がるシャラクティの腹をボールのように蹴飛ばすクライム。

 蹴りの衝撃で髪の毛がふわりと浮かび上がり、前髪に隠された右目が露わになる。

 そして、またしても和葉は視界に飛び込んできた胸糞悪い光景に口元を手で押さえる羽目になった。


「う……っ!?」


 彼女の神の力(ゴッドスキル)石縛の魔眼アイ・オブ・ザ・ゴルゴーン』が宿る禍々しい赤と虹色に輝く魔性の右の瞳が、眼窩からごっそりと抉り取られていたのだ。そこにはどす黒い下水道にトマトジュースをぶちまけたような淀んだ赤と黒の空白がぽつりと置いてあるだけだった。

 喉元へ駆けあがってきた嘔吐感を堪えるため、和葉は右ひざを捩じるように握りつねらねばならなかった。


「あーあー、せっかくお出迎えの用意は完璧チャンだってのに、いくら待っても全然来ないしよ。つうか黒騎士ナイトメアチャンも騙され過ぎっしょ。いやぁ~、お客チャンが来るのを待ったげるのも疲れる疲れる」


 折角誰もが驚くドッキリを仕掛けてたのにターゲットが来てくれなかった事を悲しむような、何処までも軽薄な調子でそんな事を嘯く。

 どうしてこんな酷い事が出来る。まるで玩具で遊ぶみたいに、人の人生を何故こうも気軽に弄べるのだ、この男は……!


 幼い頃から親も無く拳勝と二人で弱肉強食の世界を生き抜いてきた和葉は、他人を欺き利用して他者から奪う事で命を繋いできた人間だ。弱ければ滅び、淘汰される。強い者が生きる。東条勇麻との出会いが彼女に損得勘定以外の他者との関係、関わり方がある事を教えを齎したとは言え、そんな純然な法則の存在を当然理解している。

 だが、そんな和葉からしても理由もなしに他者を傷つけ痛めつけ辱める事に快楽を覚えるような目の前の男のやり方は理解できないし赦せなかった。

 どちらかと言えば冷めた人間だと自覚していたはずなのに、目の前の凄惨な光景に怒りが自然と湧き上がってくる。

 それは人として当然の嫌悪と憤りだった。残虐非道なクライムの行いに、今すぐにでも飛び出してその鼻っ面を拳の一撃でへし折りたい衝動に駆られ拳が震える。


 目の前の悪意の塊は、自分の行いを邪悪と知りつつ何一つ反省するつもりもない最悪の人間。間違いなく正義と呼ばれる者の手によって裁かれるべき悪だろう。

 しかし、ここで感情に任せて和葉が飛び出した所で、逆立ちしたってクライム=ロットハートに勝てないであろう事は明白であった。

 あまりに脆弱な己に腹が立ち、爪が掌に食い込む程に拳を強く握り込む和葉。いつだって裏方から支えるばかりで直接戦う事のできない自分の弱さが、こういう時は心の底から恨めしい。


 と怒りに食いしばった歯の擦れる歯ぎしりじみた音に、クライムが怪訝そうに眉を潜めた。


「ん? つうか今、なーんか変な音がしたような気が……」


 またも心臓が凄まじい勢いで垂直に飛び跳ねる。が、


「…………ま、どうでもいいっしょ!」


 幸いバレる事はなかったようだ。ほっと再び胸を撫で下ろす和葉。しかし続くクライム=ロットハートの言葉が、安堵する和葉を一瞬で地獄の底へと突き落とした。


「どっちみち暇つぶしの時間はもうお終いじゃん。何せこっから先は俺チャンの独壇場、愛し合う二人による愉しい愉しい殺し愛(ショータイム)が始まるんだからさぁ……!」


 東条勇麻と天風楓の映るモニターを見つめるその瞳を輝かせながら、邪悪はそれを宣告した。


「思えば長い七日間だったっしょ……あぁ、本当に本当にほんっっとうに長かったじゃんッッ! 人を殺しもせず壊しもせずこんなに長い期間我慢したのは俺チャン初めてだ……。だからさ、その我慢もこれで報われるっしょ? 報われるに決まってんじゃん? だってよぉ、サンタちゃんの野郎だっていい子に待ってた子供のトコにはとっておきのプレゼント持ってきてくれるんだろ? だったら俺チャンだってこんなに頑張ったんだ、これで報われなきゃおかしいっしょ? おかしいじゃん!? おかしいよなそうだよなぁッッ!? つー訳でよぉ。そろそろ始めようぜ、お祭りチャンを。舞台は完璧、役者も揃った。勇麻チャンも楓チャンも、俺チャンの掌のうえでせいぜい面白おかしく愉快に滑稽に踊り狂ってくれよなぁ……ッ!?」


 残り時間を告げる時計の針は、とっくにゼロを指し示していたのだ。



☆ ☆ ☆ ☆



「一人で傷ついて全部背負って、自分を犠牲に誰かを救うのが当たり前だなんて思っちゃ、嫌だよ」


 ……ああ、なんて愚かで救いようのない馬鹿な男なのだろう、自分は。

 愚かな東条勇麻は、またも同じ過ちを繰り返した。

 未知の楽園(アンノウンエデン)でも、勇麻は楓に言われた事と全く同じ事をレインハートに言わせてしまった事がある。


『アナタだけが悔しい訳ないだろッ! なんで……なんでそんな! 自分だけで何かを背負おうとしてるんだよ! ……私達は、仲間ではないのですか? 苦しい事も悲しい事も辛い事も分かち合うのが仲間なのではないんですかッ!?』


 和葉が逃亡者の集い旗(エスケイプ・フラッグ)の手に落ちた時、勇麻は勝ち目がないのを承知で和葉を助ける為に、一人で敵の本拠地へ乗り込むなどと大言壮語を吐いた。

 これは、自身の死すら厭わないような無茶で無謀な態度を取った勇麻に対して、喜怒哀楽の感情のうち半分を奪われ精神の平衡を保つ為に残りの感情すら封印してきたあのレインハートが、初めて怒りの感情を剥き出しにして放った言葉だった。


『アナタが九ノ瀬和葉を心配するように! アナタを心配する人だっているんです……! 忘れないでください。アナタが軽率に賭けようとしているその命は、もはやアナタ一人の物ではない……っ』


 結局、東条勇麻はレインハートやスピカの思いを踏みにじりたった一人で敵の本拠地に乗り込んで、クリアスティーナ=ベイ=ローラレイに心臓を握り潰されて敗北した。

 勇麻が聖女によって殺されたと思った彼女達は、志半ばに倒れた勇麻の願いを叶えるため、たった三人で逃亡者の集い旗(エスケイプ・フラッグ)に戦いを挑んでいる。 

 最終的に和葉は助かり勇麻も何かの間違いで生き残りはしたものの、そんなのは所詮結果論だ。


 人の気持ちを考えない勇麻の独りよがりな行動が、レインハート達の心に深い悲しみを刻みつけたのは否定しようのない事実だ。

 それが、たまたま全てうまく行ったからと言って自身の過ちを有耶無耶にしている自分がいる。

 彼女達の気持ちを、願いを踏みにじった事は決して許される行いではないハズなのに、感動の再会にかこつけて口先だけの謝罪で何となく許された気になっていたのだ。

 彼女達は優しいからこんな馬鹿で愚かな東条勇麻をも許してくれた。けれど、そんな謝罪に意味はない。この男は何度でも何度でも同じ間違いを繰り返すだろう。


 だって、現に東条勇麻は楓に改めて指摘されるまで、そんな自分にとって都合の悪い事実を忘却していたのだから。


 結局、勇麻が拳を握るのはいつだって自分自身の為だった。これは、ただそれだけの話なのだ。


 誰もが分かり合って笑いあう幸福な結末(ハッピーエンド)。皆が幸福であるなどと言う、破綻した子供の絵空事。

そんな綺麗ごとを馬鹿みたいにこいねがった。

 笑顔のままに全てを救う南雲龍也のようなカッコいい英雄ヒーローに憧れた。あんな風に皆を笑顔に出来たらいいな、そう思った。

 そして、願いの果てに自らの手で憧れへ終焉を齎し、罪悪感と義務感に縛られて、贖罪を求めるがままに紛い物の英雄として正義の味方を演じ続けた。

 それが、天風楓の憧れた東条勇麻という男の正体だ。


 ――南雲龍也への贖罪以外の拳を握る理由を得た所で、東条勇麻という人間の根底にある憧れにこびり付いた罪の意識が消える訳がない。


 だから、きっと心の何処かで求め続けていた。


 ――東条勇麻が誰かの為に戦い続ける本当の理由は、自分を傷つけ誰かを救う事でしか、そうして得られた笑顔でしか己を認められず満たされないからではないだろうか?

 

 ……十分に考えられる話だった。

 理解掌握リアライズ・オーバーワンなどという大層な力を持手にしてなお、勇麻は相手の気持ちを考え思いやる事すら儘ならない。

 心に巣くう醜悪なエゴに振り回されて、自分の事しか考えられない利己主義者。あまりにも歪で気持ちが悪い、自分本位の救いしか振るえない偽善者である自分にはお似合いな深層心理だ。


 だというのに、天風楓はこんな人間を心の底から自分の憧れであると信じている。その信頼が、今は胸を貫く十字架であるように痛い。


「でもね、それでも勇麻くんはきっと、傷つく人を放っておけない人なんだってわたしは知ってる。そんな勇麻くんだったから、きっと――」


 今すぐに大声をあげ首を振って否定したかった。でも、声も出せない。 

 浅ましい自分に気付かれて嫌われるのが、失望されるのが恐ろしい。憧れの正体を知られて見放されたくない。事実が明らかになって見捨てられるのが嫌だ。

 そんなみっともない感情が、この世のどんな恐怖より惨めで情けなくどうしようもない最弱の恐怖が、勇気の拳(ブレイヴハンド)を通して東条勇麻を際限なく弱体化させていく。

 自分を否定する力すら、失う。未だ立っている事が奇跡な程に、倒れる力すら残されていない程に、身体は物言わぬ塵と化していく。


「――わたしはアナタを好きになったんだと思う。だから――」


 ……ああ、違うんだ。やめてくれ。楓にそんな風に思って貰える程、東条勇麻という人間は高尚な存在じゃない。

 他者の心を顧みず、自分を救いたいが為だけに誰かを救い続ける壊れた偽物。そうしなければ生きる事すら儘ならない破綻者。

 楓が憧れてしまったモノの正体など、そんなガラクタ同然の紛い物に過ぎないのに。それなのに……ッッ!!!


 勇気の拳(ブレイヴハンド)が、頼んでもいないのに楓の感情を伝えてくる。

 勇麻に対する無条件の信頼と期待、真っ直ぐな羨望や憧憬。勇麻のことを愛おしく大切に思う慈愛に満ちた穏やかな、それでいてとても尊い……そんな形容しがたい――否、きっと明確な形にしてはならない大切な感情。

 勇麻に対する数えきれないほどの温かな想いが溢れ、全力で大好きを伝えてくる。幸福で優しくて溺れてしまいたくなる感情が怒涛の如く勇麻の中に流れ込んでくる。



 それが、今の東条勇麻にとってはどんな拷問よりも耐え難い苦痛であった。



 こんな感情、耐えられない。いっそ何もかもを放り出して、死んでしまいたかった。眩すぎる思いの丈から耳を塞いで逃げ出したい。何も、聞きたくない。嫌だ。怖い。恐ろしい。

 輝く太陽のような愛が、惨めな偽物の英雄の翼を焼いていく。飛べなくなった英雄はどこまでもどこまでも、地の底よりも深く深く絶望の淵へと堕ちて行く。

 自分という存在をこれほどまで惨めで矮小で恥ずかしいヤツだと思った事はなかった。

 心優しき幼馴染の言葉が、ヘルメット越しにも容易に瞼の裏に浮かぶその慈愛に満ちた温かな微笑が、今の東条勇麻には眩しすぎた。

 

「――勇麻くんのことはわたしがずっと守るよ。だから――勇麻くんは皆を守ってあげて?」


 救われてはいけない筈なのに、少女の温かく健気な言葉に、勇麻の瞳からぼろぼろと涙が流れ落ちて行く。

 自分でももう訳の分からない感情の奔流が、脳の処理機能を越え逃げるように涙として溢れ出していくのだ。


 そんな自分の浅ましさが許せなくて情けなくて、楓からこんなにも温かな感情を向けられている事実が許せなくて耐えられなくて、身も心もボロボロに打ちのめされた。


 もう限界だった。弱体化した心すらヤケクソになったかのように、生じた感情が喉元へと逆流していくのを感じる。

 気付けば勇麻は、自身の胸の奥底に渦巻くドス黒く醜い感情を全てぶちまけようとしていた。


「……違うっ、やめろッ!! もう聞きたくないッッ!! ……そんな事、言わないでくれ!!」

 

 差し伸べられた好意を全て突き放すような咆哮だった。頭を抱え、子どものように首を振り回しながら八つ当たりのように声を荒げる少年の姿は、きっとどこまでも惨めで情けなくて、カッコ悪いものだったはずだ。

 天風楓が、失望してしまうくらいに。


 そうだ……東条勇麻は、自分が嫌で嫌でたまらなくて、きっともう彼女に失望して欲しくて、だから、どこまでも自分本位に天風楓を傷つけるような事を口にしてしまう。こんなどうしようもない自分を信じてくれた楓を裏切るような、本当に取り返しのつかない最低最悪の言葉を、衝動のままに幼馴染の少女に向けて言い放とうとして、


「……何も、何も分かってない。違う、違うんだよ、楓……ッ! 俺は、お前にそんな事を言って貰えるような資格なんてホントは何も――」









「――あー、ほんっとそれねッ! いやぁー全くもってその通りっしょ、つか何だよ自分でちゃんと分かってんじゃんかよ~そうだよなぁそうなんだよなぁ! だぁぁああああああああれも救えない勇麻チャンには、やっぱその惨めで情けねえ絶望顔がお似合いっしょッッ!?」













 ――絶望とは闇であり押し寄せる波である。


 暗闇の中で這い寄るソレは、目には見えない。見えないが故にいつの間にか手遅れな程近くにまで迫っていて、気付けば首元には致死の刃が宛がわれている。

 そして、その存在に気付いた時には、既に絶望は全てをその昏い胎の中へと呑みこんでいるものだ。何もかもが手遅れな程に。


 そして、それだけでは終わらない。


 全てを破壊する闇は、二つ、三つ四つと連鎖的に押し寄せて――人の心を完膚なきまでに破壊していく。

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 ※※※叡智の蒐集・更新停止に伴い、『天智の書』の余剰リソースを用いた新章が公開されました。
閲覧の際は注意事項を確認のうえ、細心の注意を払って頂きますよう、お願い致します※※※
『天智の書:人ノ章(ベータ版)』
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