第二十一話 過去回想Ⅲ――悪夢の果て、触れた絶望
……おっと、来たか。――やあやあここまでご苦労様。この物語、楽しんで貰えているかな? ……ああ、そう。それは良かった。ん? そんな事よりお前は何者か、だって? ああ、気にしないでくれたまえ。今のアナタ達にはまだ関係のない事だからね。
私が出てきた理由は単純さ、この先、ややグロテスクな描写があるのでね、一応の注意喚起、というヤツだ。
……とはいえ、意味があるとは思えないけれどね。
だって、君達人間はそういうのが好きな生き物なんだろ?
あの悪夢から二ヶ月が経った。
パックを先頭とした子どもの達の宣戦布告の後、最初にぶち込まれた牢屋より、遥かに清潔な牢が子ども達に当てがわられた。
男女の区別は特になく、だいたい一つの牢屋に三~五人くらいの子どもが収容され、アリシアとパックは奇遇にも同じ牢に入れられた。
あれから毎日のように薬物を投入されたり、身体中に電極を刺されたり、好きなように身体をメスで切り裂かれ、弄くられているが、総勢一二五名の子ども達の中にリタイアする者は一人もいなかった。
薬の影響で体調を崩す子や、精神的に不安定になった子もいたが、未だに一人たりとも壊れてはいない。
この結果は、パックという少年が子ども達に与えた『希望』と無関係では無いだろう。
この苦しみを耐えれば家に帰れるかもしれない。
そんな希望があるだけで、どんなに辛い事でも人間は頑張れる物なのだ。
「ハッ、何が実験なんだか。今日も全然大した無かったな。なぁ、そうだろアリシア?」
「……ねぇ、パック」
「ん? なんだよそんな神妙なツラして。このタイミングでホームシックにでもなったか? いくら演技力に定評のある俺でも、流石に見たことない人の真似はできないからなー。アリシアのお母さんの真似とか言われても無理だぞ? むしろアリシアの真似ならできるけどな」
父と母という言葉に、アリシアの胸に鋭い痛みが走る。
それをなるべく考えないようにして、アリシアはどうにか苦笑を浮かべる。
何の自慢だかよく分からない事を言うパックに、「やっぱり何でも無い」とアリシアは首を横に振った。
確かにパックの宣言──最後まで生き残った子全てをパックを身代わりにして解放するという宣言――は子ども達の心の支えになっている。
そんな風に自分の事を省みずに皆を救おうとするパックは誰からも好かれているし、誰からも尊敬されていると思う。
けれど、それは……
パックは誰かを支えるばかりで、誰もパックを支える人はいないという事を示しているのではないだろうか。
自分を犠牲にして皆を救おうとするパックに、誰もが一度はこう尋ねる。
『パックはそれで本当にいいの?』
こんな質問は卑怯だ。
だって、こんな風に面と向かって尋ねられたらパックは笑顔で「心配すんな」と、そう答えるに決まっているじゃないか。
それにアリシアは知っているのだ。
パックが汚い大人達に宣戦布告したあの日、アリシアの手を握ってくれていたパックの手が『自分を身代わりに皆を助ける』という交渉をしたあの時に、確かに震えていた事を。
どうしてあの時パックが震えていたのか、それが分からない程アリシアは愚かな子どもでは無かった。
だからアリシアがパックに声をかけるべきなのだ。
パックの恐怖を知るアリシアが、パックの為に何かをしなければならないハズなのだ。
けれど、一体何を話せばいい?
孤独と絶望のカウントダウンを待つだけの彼に、何と声をかければいいのだろうか。
アリシアには分からなかった。
「何だよ何でも無いって……。気になるじゃんかよー」
「ほ、本当に何でもないったら何でも無いの。パックが気にするような事じゃないから」
「何それ。何かハブかれてるみたいでムカつく。へ、いくら顔が可愛いからってあんまし調子に乗ってるとお嫁さんに貰ってやんないぞ! 俺が!」
「な、なななにを言ってるのパックは!?」
唐突なプロポーズに顔を真っ赤にして両手をワタワタと振る小学一年生。
そんなアリシアを見てパックはカラカラと笑うのだった。
「いやいや、アリシアからかうの楽しくってつい。こう、何て言うの? 反応がいちいち面白くてさ、何度やっても飽きないって言うか、止められないっていうか、強いて言うならカッパえびせん的な?」
「お、女の子をスナック菓子に例えないでよ!」
そんなアリシアとパックの、最早定番ともなりつつある夫婦漫才に周りの野次馬から口笛が吹かれる。
「ひゅー。今日も熱いね! お二人さん」
「いつ見てもイチャコラしてやがるわよね、この年の差夫婦。いっそ本当に結婚したらどうなのかしら?」
「もう! 純に夏美もからかわないでよ!」
「てか純、お前口笛吹けないからって自分の口でひゅーって言うの恥ずかしくないの? 俺それすげぇ気になる」
「う、うるせぇ! 出来ないもんは出来ないんだからしょうがないだろ!?」
牢屋に場違いな笑い声が響き渡る。
この二ヶ月、笑顔の数は日を重ねる事に確実に増えていった。
そうして子ども達は、どんなに辛い事があっても決して笑顔を絶やさずに、皆で励まし合いながら今日までを耐え抜いてきたのだ。
短い期間だが、ともに死の恐怖という壁を乗り越えてきた彼らは、既に家族以上の絆で繋がっていた。
共に支え合う事で、一人じゃ挫けてしまいそうな恐怖だって乗り越えてゆける。
最初にあの大部屋に集められた時には考えられないような事が起こっているのだ。
これはパックという少年が起こした一つの奇跡。
反撃の狼煙を上げた子ども達が少しずつ積み上げた勝利の結晶だ。
「どうせ明日も朝早くからメディカルチェックの後に薬物投与だろ? もうそろそろ寝とこうぜ」
「照れ隠しにしては下手くそすぎるわね、純」
「て、照れ隠しじゃねえよ。バカ夏美」
「ま、まあまあ。二人とも落ち着いて。明日も早いのは確かなんですから……」
楽しそうにやんや言い合う二人をなだめる。
アリシアとパックのことをあーだこーだ言っていた二人だが、こちらもこちらで中々にお似合いだと思う。
本当にこの短時間で皆は仲良くなった。
それも全て、パックの元に皆が一つに団結した結果だろう。
でも、だからこそアリシアは思うのだ。
家族のように絆を積み重ねたアリシア達だからこそ、最後まで生き残った時にパックを見捨てるなんて選択を取ってはいけないハズなんだ、と。
これだけ大勢の仲間と一緒でようやく乗り越えられるような苦しみを、たった一人の少年に押し付ける事は絶対に間違っている。
けれど、それを何と伝えればいい?
どうすればアリシアのこの思いは伝わるのだろうか。
アリシアにはやはり、それが分からなかった。
自分は年齢以上に賢いはずなのに、こんな時に役立たずな自分の脳みそが恨めしい。
ぼんやりと眠さに包まれる頭でそんな事を考えながら、アリシアは瞳を閉じた。
すぐ横からパックの「お休み」という優しい声が聞こえてきた。
アリシアより一回り大きな手がアリシアの金色の髪を撫でる。
暖かい感触を感じ、安心感に包まれたアリシアの意識は、どんどん海の底深くへと落ちていった。
☆ ☆ ☆ ☆
「ほう。結局今日まで脱落者は無し、か」
部下二人に囲まれた白衣の男は、コーヒーの入った陶製のカップを片手に新聞を読んでいた。
部下からの定時報告の時間なのだが、この男はいつも新聞を読みながら報告を聞いているのだ。
何でも時間を無駄にしたくないから、というのが理由らしい。
どうせ時間を無駄にするのなら惰眠を貪るなり、意味も無くゴロゴロするなり、徹底的に無駄にするほうが好きなのが、この白衣の男という人物だ。
定時連絡などという、あっても無くても白衣の男の人生にさほど影響を与えないような物に、真剣に構っている時間はない。
新聞を聞きながらでも十分に対応できる。
「そんなに心配か? ……確かに彼らの奮闘ぶりは私の想定を越えていた。それは認めよう。まさか今日まで脱落者が一人も出ないとは思っていなかったよ。あれだけ心身共に苦痛を与えられたら、普通一ヶ月も経たない内に、半分近くは頭がおかしくなると考えていたからな」
コーヒーカップに口をつけ、苦い液体を喉に流し込む。
熱い液体の投入と共に、目の奥が冴えるような錯覚がした。
「しかしだ。明日から始まる耐性エネルギーテストは、今までの『調整』とは文字通り格が違う。気力だの友情パワーだの、根性論で乗り越えられるような壁では無い」
白衣の男は部下の二人のボソボソとした言葉に頷きつつ、
「ああ、そうだ。何せ今までの『調整』は、身体に眠る『巫女』としての資質を開花させる為の作業だ。微弱すぎる神の力を無理やりにでも発揮できるように少し強引に細工をしただけ。耐性エネルギーテストはそんな生ぬるい『調整』とは違う。本格的な『選別』の第一歩なのだからな」
口の端を歪に歪める白衣の男。
彼は邪気に満ちた笑顔で、独り言のように呟く。
「さて、今度こそ『天智の書』の適合者が見つかるのか……。はたまた今度こそ全員廃品になるのか、明日が楽しみだ」
飲み終えたコーヒーをデスクの上に置き、白衣の男は部屋を後にする。
「希望の光を見てしまった人間が、より深い絶望へ落ちる様は、いつ見ても愉快な見せ物だ。そうは思わないか?」
☆ ☆ ☆ ☆
そこら中に、子どもの絶叫が響き渡る。
「あ、あぁっ!? いぎ、ぎぎがぎゃうぁああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアッ!!!!!」
身体中に電極をくくりつけられたアリシアの身体が跳ね回る。
形だけを見れば手術台のような、鉄の素材で作られたベッドに寝かされ、手足を拘束具で縛られたアリシアは、その拘束具を壊しかねない勢いで苦痛に暴れまわる。
美しい金色の髪が乱れ、舞い狂う。
いつもとは違う。
いつもの苦痛が子どものママゴトに思えてしまうくらいに苦しい痛い辛い。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいッッッ!!?
身体の中に何かが流れ込んでくる。
少女の身体の中に、得体の知れない何かが入り込み全てを陵辱する。
それは人間としての尊厳を無視した行いだ。少女の腹を開いて、その中に見知らぬ人間の精液を直接ブチ込むような、そんな穢らわしい行為。命への冒涜だ。
あまりの苦しさに頭がおかしくなりそうだ。
瞳からは涙が溢れ出し、鼻水と混ざりあって顔をべちゃべちゃにする。
口から垂れ下がる涎が、アリシアの服をベタベに汚していく。
口から糸を引いて伸びる唾液、狂ったように白眼を剥く少女の姿は、見るに耐えない無惨な姿に成り果てていた。
苦しい。苦しい。止めて欲しい。痛いのは嫌だ。痛いのは怖い。怖いのは嫌いだ。嫌いは怖い。こわいこわいこわいこわい殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺してっしてしてしてしてしてしてしてしてしてしてしてッッ?!?!?
パチンと、ナニカガ
弾
け
た。
何が?
アリシアの横で電極に繋がれていた夏美の頭が。
ザクロを剥くみたいに、内側から弾け飛んだ。
何カ生暖カイ物ガありしあノ額ニ付着シタ。
血かと思った。それも正解。けど、それだけじゃなかった。
夏美ノ眼球ダッタ。
「やぁ、やだぁ……。やだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!」
血のシャワーを吹き上げ続ける夏美の身体には、無数の電極が突き刺さったままだ。
電極から何かが夏美の身体に流れ込む度に、頭を失った夏美の身体が暴れ牛のように跳ね回る。
その度にグロテスクに裂けた頭から真っ赤な液体が吹き出し、飛び散り続ける。
死んでなお夏美を侮辱し続ける。
人の尊厳もクソも無い。
あるのは救いようの無い地獄の苦しみだけ。
赤いシャワーを浴びながら、アリシアはこの永遠にも思える苦痛から早く解放されたいと願った。
さっさと死んでしまった夏美が羨ましい。
自分の頭もあんな風に吹き飛んでくれたら楽だったのに。
楽に死ねたのに。
そう思ってしまった。
「ころっ!? ころころ殺してぇえええ、えあっがぁっっっ?!! ばぁっうぐ…殺してぇ、殺してぇ、殺し……があっ!? んァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
痛いのに! 痛いのに! 頭は弾けない。爆発しない。何で? どうして?
アリシアには分からない。
もう何も分かりたくない。
分からなくていいから終わりにして欲しかった。
このまま永遠に苦しみ続けるくらいなら、アリシアのこの命を、意味なんて何も無かったこの人生を終わりして欲しい。
そんな望みすら、アリシアには叶える事はできない。
舌を自力で噛み切る事すら、アリシアには出来はしなかった。
無限にも思える地獄がようやく幕を閉じた時、アリシアの涙は枯れ果てていた。
口元にまとわりついた涎をふき取る気にもなりはしない。
身体は未だにビクンビクンと震え、まともに立ち上がる事もできない。
ふらふらと蝶々のように宙を泳ぐ瞳が、自分の左手が掴んだ物を物珍しげに眺めていた。
左手で掴んだ、やけにヌメヌメした誰かの眼球が、恨めしげにアリシアを見つめているような、そんな気がした。
☆ ☆ ☆ ☆
この日、一二五名いた子ども達の内、約半数にあたる六四名が実験中に身体の一部を破裂させて死亡した。
残る六一名も、その殆どが精神的に想像を絶するダメージを受けており、自我の崩壊した者が二七名。
その二七名は『巫女』の資格を持っていなかったと判断され、研究員達により焼却処分された。
彼らは自分の身体が燃え尽きていくその時ですらも、身じろぎ一つしなかったと言う。
結果として、実験を続けられる状態にあると判断されたのは、僅か三四名だった。
昨日まで全員無事で笑顔さえ見せていた子ども達は、僅か一時間の実験で四分の一近くまで数を減らす事になった。
事実上の敗北だった。
☆ ☆ ☆ ☆
夏美は頭が弾け飛んで鮮血を噴き出しながら死んだ。純の心は壊れてしまったから、研究員の手で焼却炉に投げ入れられた。
亮は両腕がねじ切れたし、光子ちゃんは口からダバダバ血を吐き出して死んでいった。
高チンは舌を自ら噛み切って死んだ。
何とか実験を耐えて牢屋まで戻ってきた照は、次の朝には冷たくなって動かなくなっていた。
一昨日はアイツが、昨日はあの子が、今日も誰かが、バタバタと死んでいく。
まるでそれが当たり前みたいに、日々のルーチンワークのように人が、友達が、死ぬ。
次は自分かもしれない。
いや、次は自分でいい。
きっと、そっちの方が楽だ。
心も身体も、もうこれ以上痛まないで済む。
「アリ……シア、まだ、生きてる……よな?」
絞り出したような声は、アリシアの真上から聞こえてきた。
今のアリシアに声のした方向へ首を向けるだけの力は残されていない。
けれども、アリシアに話掛けてくるその人物の顔を想像するのは容易な事だった。
アリシアの身体をぎゅっと抱きしめたパックは、きっとこんな時でもその顔に笑顔を浮かべているのだろう。
「わ、たし……は。生き、てる……よ?」
「そう、か。良かっ、た……」
「でも、ね。パック……私。もう疲れ、ちゃった」
「おい、おい。何寝ぼけた、事を……言ってる、んだ? 後、ホンの少しで……ここから出られるん、だぞ?」
その痛々しい干からびた笑い声を聞いているだけで、アリシアの心は押し潰されそうになるのだ。
もう止めて。
そう言いたいのに、アリシアの役立たずな舌は、思った言葉を上手に発音する事すらできない。
「ごめんごめん。冗談、だよ。……ねえ、パック。……もう、私達。以外、は……みんな……本当に、死んじゃったんだ、ね。凄く……静か、だよ」
一二五名もいた子ども達は、残りの人数を僅か二人にまで減らしていた。
今日新たに死んだ一人はどうやって死んだのだろうか。
苦しくはなかっただろうか。
痛くはなかっただろうか。
アリシアが考えるのは、こんな事ばかりになっていた。
アリシアの醒めない悪夢が始まってから、ちょうど三ヶ月目の事だった。
「ははっ、アイツ……も、馬鹿、だよな。後、一、ニ回で……終わるって、そう、白衣の男が、言って……た、のに。いっつも、せっかち……なんだよ。……何で……今日、なん。だよ……馬鹿、野郎っ」
アリシアを抱きしめるパックの両腕に力が籠る。
アリシアの頬に、二、三滴の水滴が落ちた。
それは糸を引くようにアリシアの頬から流れ落ち、地面に触れると同時に、美しくも粉々に散っていくのだ。
人が死ぬのと同じように、儚く、その形を崩していく。
「ごめん……ごめん、よ。皆……。あんな風に、カッコ……よく、宣戦布告、までしておいて。俺は、俺は結局……何も……何もっ!!」
パックは自分の拳を砕きかねない強さで握りしめ、後悔を口にした。
それは、パックがアリシアの前で初めて見せた、彼の弱さでもあった。
アリシアは懸命に腕を伸ばしてパックの頭に触れると、ゆっくりとした動作で、その頭を優しく撫でつけた。アリシアと同じ、金色に輝く髪を。少し癖っ毛な金髪を。
再び綺麗で透明な水滴が、アリシアの頬に落ちる。
「パック、私は、知って……る、よ? パックが、本当は自分、も怖い……のに、皆を。不安、がらせない……ように、笑っていた。事、を」
そう、いつだって彼は皆の為に頑張っていた。
誰よりも自分を犠牲にし、誰よりも他の誰かを支えてきた。
一番近くでそれを見てきたのはアリシアだ。
だからその頑張りを、努力を、『何もできなかった』だなんてふざけた一言では終わらせない。
「パック、私は、知って……る、よ? パック、が。本当は、身代わり……なん、て。嫌だった、事を」
彼によって救われた人間は、間違い無くここに居たのだから。
絶対に、彼の想いを、彼自身にも否定させはしない。
「パック、私は、知って……る、よ? パックが、私を……恐怖、から……助け、て。くれた、事を」
だってパックという少年は、アリシアにとって。
「パック、私は、知って……る、よ? パックが私の……ヒーローだって、事、を」
唯一無二のヒーローなのだから。
だから。
「だから。そんな、事。……言わない、で? 私、が。大好き……な。パック、の悪口を。パックが……言わな……い、で?」
必死に体を起こす。
どこにもそんな力は残っていないハズなのに、アリシアの体は驚く程スムーズに起き上がり、パックの額にアリシアの唇が優しく、ほんの一瞬触れた。
目を丸くして驚くパックに、アリシアは笑顔で応えた。
「……なん、なんだよ。この……マセガキ、が」
「先に告白……してきたのは、パックの……ほう、だもん」
「あれは、お前……いつもの、冗談っつうか。……一応、言っておくけど、俺は……年下趣味じゃ……ないから、な。お前に何、されたって、別に……なんとも」
「その割には……、ほっぺた、赤い……よ?」
「うる、せえよ……アリシア」
初めてパックを言い負かしてやった。
それに、しばらくぶりに笑ったような気もする。
「本当に……うる、さいぜ……」
アリシアは、歯を食いしばって涙を流し続けるパックの頭を優しく撫で続けた。
本当に久しぶりだ。
――いや、初めてかも知れない。
「本当に、情けない……ヒーロー様、だ」
「ヒーローも、泣いて……いいんじゃ、ない……かな?」
こんなに顔をぐちゃぐちゃにして、笑いながら泣いたのは。
「けっ。男にしか、これは……分かんねえ、よ」
アリシアとパック。
二人きりで過ごす最初で最後の一夜。
抑える事のできない嗚咽を隠しもせずに、一人じゃ何もできない彼らは互いの不足を補うよう、その身体を寄せ合った。
(暖かい……優しい、感触が。する)
もしかしたら明日はいないかもしれない互いの体温を感じながら、少年と少女は互いにその身を寄せ合って、浅い眠りについた。
☆ ☆ ☆ ☆
今日が最後の朝になるかも知れない。
そんな事を考えながら起床するのが、いつしか当たり前になっていた。
「アリシア。おはよう」
「おはよう、パック」
そして今日は事実上の最終日なのだ。
眠ってどうにか回復させた体力も、あと一回くらいの実験なら持つだろう。
白衣の男の話しによれば、今日、『巫女』が決定するとのことだ。
それはつまり、アリシアとパックはどういう結果に転ぼうが、今日ここで離ればなれになってしまうという事だった。
アリシアとパック、仮に両方が生き残っても、パックはきっと自分の身を犠牲にして、アリシアを外の世界に逃がすだろう。
そのパックの答えは間違っていると、アリシアはずっと前から分かっていた。
けれども否定する為の言葉がどこにも見つからないのだ。
なぜならパックという少年はそういう少年だから。
その行いを否定するという事は、今までのパックの行動全てを否定する事と同じなのだから。
止める言葉が見つからなかった時点で、アリシアの負けだ。
つまりこれが最後なのだ。
どうあがいても、最後の会話。
家族を失った先で出会った、新しい家族との別れの言葉。
「なぁ、アリシア」
そう思っていたのはパックも一緒だったのだろうか。いつになく覇気の無い、どこか決まりの悪そうな声が、アリシアの耳に届いた。
視線だけで先を促す。
「実は俺、さ。お前っつうか、お前ら皆に……嘘、ついてたんだ」
そう告白するパックの横顔は、何か憑き物が落ちたようにすっきりとしていた。
「俺、天界の箱庭の人間、なんだ」
パックはその言葉を皮切りに、今までアリシア達についていたいくつかの嘘を話し始めた。
まず、彼がどうして天界の箱庭で暮らしていたのか、その理由から聞かされた。
パックは神の能力者の両親の間に生まれた子どもだったそうだ。
けれどパック自身は神の力に目覚める事は無く、一般の人間と変わりは無いらしい。
ただの人間としてこの世に生を受けたパックだったが、天界の箱庭で生まれ尚且つ両親が神の能力者だった為、この街で暮らすほかなかったらしい。
パックの父は天界の箱庭の高校で熱血な教師をやっていて、外国人の母は優しい専業主婦だったそうだ。
その優しい母の方が数年前に他界してしまって、それからは父親と二人暮らしをしていたらしい。
それでも、幸せな生活だったと彼は言った。
母が死んだ時は悲しかったけど、それでも尊敬できる父との生活は幸せだった、と。
そして今回のこの事件に、なぜ天界の箱庭と無関係の子ども達があんなに大量に巻き込まれたのか、パックには全く分からないのだそうだ。
パックは自分の所属する街である天界の箱庭の都合に、全く無関係なこどもたちが巻き込まれているこの状況に、天界の箱庭出身の者として、少なくない罪悪感を覚えたらしい。
しかも集められたら子どもの中で自分が一番の年長者だったのだから、何かをしない訳にはいかなかった。
そこで彼は、自分を犠牲にしてでも皆を助ける事を決心したのだと言う。
それからの事の顛末は……まあ、言うまでも無いだろう。
「なあアリシア。俺、実はもう一つ嘘をついてたんだ」
「もしかして……名前?」
「……正解。そう名前だ、名前」
「やっぱりパックって偽名だったのね?」
「いんや、あれは省略系だ。フルネームはカッコ悪いから、あんまり言いたくないんだよ」
「えー、教えてよー」
ムスっと膨れるアリシアに、パックは手招きをした。
「~~~」
とてとてと近寄るアリシアの耳元に、こしょこしょ話をするように、そっとパックは耳打ちした。
「へー。本名はそんな感じなんだ」
「恥ずかしいから、誰にも言うなよ」
「言わないよ。ま—―
「—―だぁーッ! ストップストップ!! 言うなって言ってるだろ!」
「いいじゃん、私達だけなんだから」
もうじきこの時間は終わりを告げるだろう。
そしてアリシアたちを待っているのは、死より苦しい地獄の時間だけ。
そこへ行く前に、言わなければいけない。
いくらアリシアが口下手でも、これだけは言わなければならないのだ。
「ねぇ、パック」
「ん? 何だよ。改まって」
「……。私達、……また、会えるよね?」
アリシアの問いに、パックは人好きのいい笑顔を浮かべて、
「何言ってるんだか、会えるに決まってるだろ? 今生の別れって訳でもあるまいに、なーにを言ってるんだかこのお嬢ちゃんは」
だから、言わねばならない事は口にできなかった。
ここでそれを告げてしまったら、もう二度と会えないような気がしたから。
さよならも言えないまま、彼女と彼に最後の『選別』が行われる。
タイムリミットなんて、とうの昔にオーバーしていたのだった。
☆ ☆ ☆ ☆
「ここは……いつもと、違う……?」
白衣の男はアリシアをある部屋まで連れてくると、何も言わずに逃げるようにどこかへ行ってしまった。
パックは別の部屋に連れて行かれてしまった為、アリシアは誰もいない部屋にポツンと一人きりだ。
白衣の男に連れられてアリシアが入った部屋は、今まで見たことの無いような不思議な部屋だった。
決して広くはない。
広さだけなら、アリシアが生活している牢屋と同じくらいだ。
装飾が特別豪華な訳でもない。昔アリシアが両親と暮らしていた家のほうが、綺麗なくらいだ。
けれどその部屋は異常だった。
壁、床、天井まで、そこかしこに漫画やアニメで見るような魔法陣が描かれている。
おどろおどろしい赤で描かれたその不気味な模様は、その一つ一つが違うデザインをしていた。
まるで妖しげな儀式を執り行う、魔女の家みたいだ。
そんな感想を抱いた。
「その感想も、また間違いではない。とは言え、魔女如きと同列に考えられては、流石の私も心外を唱える他ないのだが」
アリシアの心を読んだような声、
「だ、誰れ!? どこに、いるの?」
「どこにいるのか……。その問いは私には意味を為さない。数という概念に縛られる事も無い者に、そんな当たり前の問いは無意味だ」
どこからも聞こえず、どこからでも聞こえてくるような、不思議な声。
男の声なのか、女の声なのか、それさえ判断もつかない。
否、彼が言葉を口にする度に、声色が変わっているような錯覚に捕らわれる。
「故にその問いに、私はこう答えよう」
アリシアの背後、突如としてそこに誰かの気配が生まれる。
生み出される。
「『巫女』の元に、私は馳せ参じる、と」
悪寒と気を失いそうになる圧力。
それを受けたアリシアの身体が一瞬制御を失い、倒れそうになる。
何とかそれを堪えて、恐る恐る後ろを振り向いた。
そこに立っていたのは、男だった。
一九〇に届くだろう身高長。
足元まで伸びる長い髪の毛はくすんだ灰色。
白髪染めに失敗したみたいな、中途半端な色だ。
髪の毛も痛んでいるのが分かり、だいぶ年齢を感じさせる。
けれどそうすると、不自然なのはその顔だ。
美しい美形な顔は、誰がどう見ても二〇代前半。
しかしその美しい瞳に灯る輝きが、何とも形容し難い、危険な妖艶さに満ち溢れている。
いくつもの時代を見てきたのを物語るようなその老艶な瞳は、覗き込むだけでこちらの魂まで値踏みされているかのようだった。
その身を包む白を基調とした衣服には、贅沢な装飾も、何も施されていない。
むしろ前時代を彷彿とさせるような、質素な物だった。
両腕の滑らかな肌とは対照的に、爪はボロボロで酷く欠けて腐ってしまっていた。
全体的に評すると一言、気味が悪い男だった。
年を取っているのか若いのか、判断がつかない年齢不詳の男がそこに立っていた。
「私は私を探す者。私が誰かと問われれば、生憎『巫女』に名乗るような名前も持ち合わせてはいないのだが──そうだな、ここは『シーカー』と、そう名乗るべきなのだろう」
男はその美しい顔に、生物の生存本能を刺激するような危険で柔らかな笑みを浮かべていた。
「君が私の求める『巫女』となり得るのか。それとも……ふむ。興味は尽きないが、そろそろ始めようか『選別』を」
男のどこか品定めするような視線に、寒気を感じながら、アリシアは遠慮がちに尋ねる。
「え、えと。シ、シーカーさん。今回のが最後の『選別』だっていう話は本当なんですか?」
「君たち『巫女』の候補者達は、今日まで様々な試練を乗り越えたハズだ。眠っている神の力を薬物の力で強引に引きずりだし、基盤となるフォーマットの確立。そして莫大なエネルギーの投与による『許容エネルギー限界値』の測定による『選別』と身体機能の強化。そして最後まで残った二人の『巫女』による『契約の儀』」
アリシアにはてんで意味の分からない、けれども胸に重く鋭く突き刺さる言葉を吐く年齢不詳の男、シーカー。
胸の痛みを無視しながら、結局質問に答えて貰っていない気がするアリシアは、申し訳なさそうにもう一度口を開いた。
「えっと、それで結局……」
最後まで尋ねる前に、シーカーがアリシアの言葉を先取りしてしまう。
「ふむ。そうだな、確かにこれが『最後』だ。君が苦しむのも、泣き叫ぶのも、大切な者と笑いあうのも、な」
「え、えと。意味が……」
「意味が分からないなら今はそれでいい。いずれにせよ、後々痛いほど痛感することだ」
「は、はあ」
いまいち会話が噛み合っていない事を感じながら、アリシアはとりあえず曖昧に頷いた。
目の前の男は危険な臭いがするが、なぜだか白衣の男から感じるような悪意や敵意、邪悪な雰囲気は感じなかった。
「さて、『巫女』の候補の一人よ。君に問おう」
男が唐突にそう呟いただけで、場の空気が凍りついたように切り替わった。
背筋に感じる物が寒気なんてレベルじゃない異物感へと変わっていく。
ガチガチガチガチ、という音がどこからか聞こえてくる。
その煩さに音の発生源を探るアリシアだったが、すぐに自分の歯の根が合わずに音が鳴っているのだという事に気が付いた。
まるで天敵の牙を目の前にして怯えるうさぎみたいなアリシアに、シーカーから問いが発せられた。
「君に全ての記憶を差し出す覚悟はあるか?」
質問の意味を理解するのに六秒。そこから何か言葉を発するのにさらに八秒かかった。
「あ……え、私の、記憶を……ですか?」
「そうだ。『巫女』候補者、すなわち『天智の書』の適合者である君は、『天智の書』と契約を交わす為に自分の記憶を供物として差し出す必要がある。だから聞いている。記憶を差し出す覚悟はあるのか、と」
ちょっと待ってほしい。
いきなり最重要ポジションに出てきた『天智の書』とは一体何のことだ?
『巫女』の話はある程度聞いている。
その『巫女』という物に何を求めて何をさせようとしているのかは分からないが、少なくとも単語としては聞いている。
でも、天智の書なんて言葉は知らない。
聞いた事すらもないのだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。『てんちの書』? ってなんですか? 私何も――」
「聞いていないのは当然だ。誰にも伝えないよう私から指示を出している。……まあそんな事はどうでもいい。今重要なのは、君に記憶を差し出すだけの覚悟があるのかないのか、だ」
「記憶を差し出すって、……私の頭の中を読むとか、そういう話?」
記憶を差し出すという言葉の意味がいまいちよく分からないアリシアは、なんとか自分なりに解釈してシーカーにそう尋ね返す。
「はははははははははっ!!」
アリシアの発言を受けたシーカーが、突如気持ちよさげに笑い始めた。
楽しそうにアリシアを見ると、
「面白い冗談だ。伝説に残るレベルの『神器』との契約が、そんなに簡単な訳が無いだろう。記憶を差し出すというのは文字どおりの意味だ。今まで生きてきた中で積み重ねられた君の記憶の全てを、余す事無く天智の書に差し出すんだよ」
つまり、とシーカーは一度言葉を切って。
「君は記憶を失う羽目になるだろうがね」
記憶を失う。
その言葉の持つ重さに、アリシアは反射的に首を横に振っていた。
だってそれは、記憶は、駄目だ。
確かにこの数か月、楽しい事全てを黒く塗りつぶすような辛い事や悲しい事、思い出したくもない事がアリシアを襲った。
その度に何度も死んでしまいたいと思ったし、運命とやらを何度も呪いもした。
だけど、だからって今までアリシアが生きてきたという証を、記憶という標を、手放したいと思う事はできない。
楽しい記憶も、嬉しい記憶も、なつかしい記憶も、遊んだ記憶も、辛い記憶も、悲しい記憶も、泣きたい記憶も、苦しい記憶も、死にたい記憶も、恥ずかしい記憶も、総じてアリシアの財産であり、決しては忘れてはならない過去の遺産だ。
どんなに忌まわしい記憶にだってきっと価値がある、アリシアはこの腐った実験施設での生活でそう思えるようになっていた。
そうでなければ、ここで家族になり、そして死んでいった仲間達との出会いも、その全部が無駄だったという事になってしまう。
それだけは許されない。
この苦しく辛い、死んだ方がマシだと思えるような、この処刑場で出会った彼らとの思い出も、今やアリシアにとっては自分の中になくてはならない一つのピースなのだ。
例え、思い出す事にどんなに痛みを伴おうとも、アリシアだけは、忘れてはいけないのだ。
彼らが生きていた証を。
その記憶を。
だから、それはできない。
首を横に振る。
暗黙の了解としてアリシアに拒否権なんて物は存在しない。そんな事は分かっている。
分かっていても、それだけは了承する事はできない。
もし仮に記憶を全て失い、命は助かったとして、ただそこに命があるだけの中身空っぽの人形に、一体何の価値があると言うのか。
そこにはもう、アリシアなんて言う名前の人間は存在していないではないか。
それは死と同じだ。
何もかもを失ってアリシアという存在を消し去り死ぬくらいなら、アリシアのまま、アリシアの思い出を抱えて死んだ方が何倍もマシだ。
だから拒絶した。
凍えそうな視線を正面から受け止め、ともすればその雰囲気だけで心臓の鼓動が止まってしまいそうな圧力の中、必死で首を横に振った。
だがシーカーの反応は、アリシアの予想していた物とはかなり異なっていた。
「ふむ、なるほど。確かに人間にとって記憶という物は、時に命よりも優先して語られる物だ。君もその例外では無い、という事か。記憶の完全な消失は己の人格の消失と同義。それこそ君という個体からしたら、死ぬ事となんら変わりはない。その胸に覚えた忌避感も、拒否という行動も、生物として当然の反応だ」
何らかの罰が与えられるか、下手をすれば殺されると思っていたアリシアは、シーカーのその反応に拍子抜けしたようにぱちぱちと瞬きをした。
驚きの波が過ぎ去った後から、安堵の感情がやって来て思わず溜め息を吐きそうになる。
アリシアはどうにか溜め息を引っ込めると、警戒を解くことなくもう一度シーカーにこう尋ねた。
「あの、それじゃあ。……私は、てんちの書とかいう物と契約をしなくてもいいって事なんですか?」
「君に覚悟が無いのであれば仕方がない」
そのシーカーの言葉に、アリシアは胸を撫でおろしかけて――
「仕方がない、もう片方の彼の方に全てを賭けるしかないようだ。正直、君と比べたら余りにも成功率は低いが……君に契約の意志がないのであれば、そうするしか無いだろう」
「……なっ!?」
—―予想外の方向からアリシアの心が抉られた。
もう片方の彼、すなわちそれは——
「—―パックも、この契約を……!?」
「当然だろう。彼だって君と同じで最後まで生き残った『巫女候補』の一人だ。とは言え、君よりも天智の書との適合率が低い彼が、無事に契約を済ませられる確率はせいぜい二〇パーセントくらいだがね」
二〇パーセントという数字の具体的な低さはよく分からないが、その数字が失敗する確率のほうが遥かに高いという事は分かる。
だから、
「それって、パックは――彼は、失敗したら……」
「もちろん、記憶を失うだけでは済まないだろう。人格の破壊に思考力の喪失……つまり、廃人コースはほぼ確定な訳だが。最悪というか、廃人になればまず間違いなく、ここの研究員によって処分されるだろう」
だからこそ、その先に続くであろう絶望的な言葉を聞いてはいけなかったのだ。
パックが死ぬかもしれない。
それも、ただ死ぬより何十倍も酷い目にあって。
そう考えてしまっただけで、アリシアの思考は一つの単語に縫いつけられてしまう。
天智の書との契約。
もしアリシアがそれを行えば、パックは助けてもらえるはずだ。
でもそれは……、
「おや、あちらの私から連絡だ。もう片方の彼、どうやら天智の書との契約を行う事に決めたようだ」
自分の右耳に掌を当てながら、シーカーはそんな事を言った。
アリシアの息が詰まる。
(どうして……ッ!?)
そんなアリシアの思考を、まるでシーカーは読んでいるかのように、
「どうして? そんなの決まっている。……君のためだ」
シーカーとアリシアの間の空間、突如その空間に立体映像が浮かび上がった。
「パック!?」
『ぐ、があぁぁっ、ぐァァァァァァァァアアアアアアアアアッ!? だぁあああらああああアッ!!!』
アリシアの目の前に展開された立体映像の中のパックは、まるで何かに憑りつかれたように頭を掻き毟り、額に血管を浮かび上がらせ、深手を負った手負いの獣のように大声で叫んでいた。
『ぐはァッ!?』
「パック! どうして……!」
口から冗談みたいな量の血を吐き出し、それでもパックの口元は———―笑っていた。
「人間とはなんとも愚かなモノだ。愛する人間の為に、頼まれてもいないのに喜んで命を差し出す。その結果、取り残される側の気持ちも考えずに。取り残された側に自分の正義を押し付ける。結果として愛している人間に押し付けるのは悲しみでしかないのに。く、くくっ……あっは、あははははははははははははははははははははははははははっ!!!」
額を手で押さえ哄笑するシーカーは、なんとも愉快そうにアリシアと映像の中のパックを見やる。
「愉快! 実に愉快! 私には理解はできないが、何とも美しいじゃないか。……理解できないとは素晴らしい事だ。ここまで生きてなお、人は未知に満ち満ちている!」
「パック—――――――ッ!!」
そうしている間にも、パックは苦しげに身悶えている。
このままじゃ、本当にパックは――
「ねえ! ねえってば! あれを止めさせてよ、お願い! シーカーさんなら、アレを……パックを助けられるでしょう!?」
恐怖もその身体から放たれる圧力も無視して、アリシアはシーカーの白い衣服を掴んで激しく揺さぶっていた。
シーカーの目玉が動き、ギョロリとアリシアを一瞥する。
「止めることは可能だが……君は、天智の書と契約をする気は無いんだろう?」
「私がする! 契約は私がするから!! だから……お願いだから……パックを………………助けてください」
☆ ☆ ☆ ☆
パックという名の少年と天智の書との契約の儀を中断したシーカーは、その美しい顔に歪んだ微笑を張り付けていた。
これだから人間は面白い。
実に愚かで浅はか、そして実に矮小だ。何度も何度でも同じ過ちを繰り返す。
『愛』や『友情』などという何の確証も無い物を基準に、事の善悪好悪正誤正否正邪是非を語ろうとする。
今の茶番がいい例だ。
なぜあの少女は、この少年を苦しませると分かっていて、この選択をしたのだろうか。
答えは決まっている。『愛』しているから。
その一言で、どんな論理も理論も理屈もロジックも論法も合理的思考も全てを無視して、人間という生き物は自信満々に解を出すのだ。
誤った解を、堂々と打ち出し、あまつさえそれを自慢する。
なんと愚かで、それこそなんと『愛』らしい生き物なのだろうか。
自然のルールという、合理的法則を順守するこの惑星の動植物達とは大違いだ。
故に、どれだけ見ていても飽きる気がしない。
どれだけ理解しようとしても、理解しきれない。
だから面白い。
そしてだからこそ、自分からは酷く遠いところにいる彼ら人類を。
慈しみを籠めて全て粉々に吹き飛ばしたくなる。
「おっと、……私の悪い癖だな。コレは」
シーカーはそう独り言を呟き、契約の途中で投げ出され気を失っている少年を置いて、部屋を出ていった。
あとの事は部下に任せておけば問題は無いだろう。
あの白衣の男、アレもアレで中々にシーカーを楽しませる。
シーカーの悲願が達成される日も、そう遠くはない。




